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title: "瑜伽師地論 · 1"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
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云何心一境性？謂數數隨念同分所緣，流注、無罪適悅相應，令心相續，名三摩地，亦名為善心一境性。

何等名為數數隨念？謂於正法聽聞受持，從師獲得教誡教授增上力故，令其定地諸相現前。緣此為境，流注、無罪適悅相應，所有正念隨轉安住。云何名為同分所緣？謂諸定地所緣境界，非一眾多種種品類，緣此為境，令心正行，說名為定，此即名為同分所緣。

問：此所緣境是誰同分，說為同分？

> 問う：この所縁の境は、いったい誰の「同分」であって、そのように「同分」と説かれるのでしょうか？

答：是所知事相似品類，故名同分。復由彼念，於所緣境無散亂行，無缺無間。無間、殷重加行適悅相應而轉，故名流注適悅相應。又由彼念，於所緣境無有染污，極安隱住，熟道適悅相應而轉，故名無罪適悅相應。

> 答え：認識される対象と似た種類の事柄であるため、「同分」と言います。また、その念によって、対象に対して散乱することなく、欠けることなく、途切れることなく修行し、努力を重ねて身心に適切な安らぎが伴いながら作用するので、「流注適悦相应」と言います。さらに、その念によって、対象に汚れがなく、非常に安らかに留まり、熟達した道における適切な安らぎが伴いながら作用するので、「無罪適悦相应」と言います。

是故說言：數數隨念同分所緣，流注、無罪適悅相應，令心相續，名三摩地，亦名為善心一境性。

復次，如是心一境性，或是奢摩他品，或是毘鉢舍那品。

> さらに、この心が一つの境地にとどまる性質は、あるときは「奢摩他（静寂）」に属し、あるときは「毘鉢舎那（観察）」に属するのである。

若於九種心住中心一境性，是名奢摩他品；若於四種慧行中心一境性，是名毘鉢舍那品。

> もし九種の心の住処において心が一つの対象に集中しているなら、それを奢摩他（サマタ）の品といいます。 また、もし四種の智慧の実践において心が一つの対象に集中しているなら、それを毘鉢舎那（ヴィパッサナー）の品といいます。

云何名為九種心住？謂有苾芻，令心內住、等住、安住、近住、調順、寂靜、最極寂靜、專注一趣，及以等持；如是名為九種心住。

> 九つの心の安住の境地とは何か。それは、修行者が心を内側に安住させ、平等に安住させ、安定して安住させ、近くに安住させ、調え整え、静かにし、極めて静かにし、一つの対象に集中させ、そして心の平等な保持を実現することである。これらを九つの心の安住という。

云何內住？謂從外一切所緣境界攝錄其心，繫在於內，令不散亂。此則最初繫縛其心，令住於內，不外散亂，故名內住。

> \*\*内住（ないじゅう）とは何か。\*\* それは、外にあるあらゆる対象から心を引き寄せ、内側にとどめて散乱しないようにすることです。 これが、最初に心を縛りつけて内側に留まらせ、外に散らないようにする段階であり、そのため「内住」と呼ばれます。

云何等住？謂即最初所繫縛心，其性麁動，未能令其等住、遍住故。次即於此所緣境界，以相續方便、澄淨方便，挫令微細，遍攝令住，故名等住。

> 「等住（とうじゅう）」とはどういうことか。最初に心がとらえられている状態は、その性質が粗く動いているため、まだ心を等しく落ち着かせたり、広くとどまらせたりすることができない。そこで、この心を同じ対象に向け続ける方法と、心を澄ませる方法を用いて、粗い動きを細やかに抑え、広く心を一つの対象に引き寄せてとどまらせる。このことから「等住」と名づける。

云何安住？謂若此心雖復如是內住、等住，然由失念於外散亂，復還攝錄安置內境，故名安住。

> どのようにして「安住」するのでしょうか。それは、この心がたとえこのように内に留まり、等しく留まっていても、気づきを失って外部に散乱してしまったならば、再び心を引き戻し、内側の対象に落ち着かせることを言います。これが「安住」という意味です。

云何近住？謂彼先應如是如是親近念住，由此念故，數數作意內住其心，不令此心遠住於外；故名近住。

> 近住とは何か。先に述べたように、人はそのようにして念住に親しみ、その念によって繰り返し心を内側に留め、外へと向かわせないようにすること、これを近住という。

云何調順？謂種種相令心散亂，所謂色、聲、香、味、觸相，及貪、瞋、癡、男、女等相故，彼先應取彼諸相為過患想。由如是想增上力故，於彼諸相折挫其心，不令流散，故名調順。

> 調順とは、どのようなものでしょうか。 心を散乱させる様々なもの、すなわち色・声・香・味・触の対象や、貪り・怒り・無知・男性・女性といった捉え方があるため、まず修行者は、そうした対象すべてを「過ちのもと」と捉える見方をすべきです。 そのような見方を強く持つ力によって、それらの対象に対して心をしっかりと押さえつけ、散り乱れさせないようにすること、これを調順と呼びます。

云何寂靜？謂有種種欲恚害等諸惡尋思、貪欲蓋等諸隨煩惱，令心擾動，故彼先應取彼諸法為過患想。由如是想增上力故，於諸尋思及隨煩惱，止息其心，不令流散，故名寂靜。

> 静けさとは何か。様々な欲望や怒り、害意などの悪い思考や、貪欲などの煩悩が心をかき乱す。そのため、まずこれらの様々な要素を「有害なもの」と捉えるべきである。そう捉える力を高めることで、悪い思考や煩悩に対して心を鎮め、散乱させないようにする。これが静けさである。

云何名為最極寂靜？謂失念故，即彼二種暫現行時，隨所生起諸惡尋思及隨煩惱，能不忍受，尋即斷滅、除遣、變吐，是故名為最極寂靜。

> 最も深い静けさとは何か。それは、気を失ったゆえに、先に述べた二つの状態が一時的に現れた時、それに伴って起こるあらゆる悪しき思いや煩悩を、耐え忍ばず、すぐに断ち切り、取り除き、吐き出してしまうことである。これをもって、最も深い静けさと呼ぶのである。

云何名為專注一趣？謂有加行、有功用、無缺無間三摩地相續而住，是故名為專注一趣。

> では、専心一境とはどのようなものかというと、努力と精進をもって、途切れることなく絶え間なく、心がひとつの対象に定まった状態（三摩地）に続けてとどまることをいいます。このことから、専心一境と名付けられています。

云何等持？謂數修、數習、數多修習為因緣故，得無加行、無功用任運轉道。由是因緣，不由加行、不由功用，心三摩地任運相續，無散亂轉，故名等持。

> 等持とは何か。繰り返し修行し、習慣づけ、何度も修習することを因縁として、努力を加えず、はからわずに自然に働く道を得ることである。その因縁によって、努力によらず、はからいによらず、心の三摩地が自然に途切れることなく続き、散乱することなく働く。ゆえに等持と名づける。

當知此中，由六種力，方能成辦九種心住。一、聽聞力，二、思惟力，三、憶念力，四、正知力，五、精進力，六、串習力。初由聽聞、思惟二力，數聞數思增上力故，最初令心於內境住，及即於此相續方便、澄淨方便，等遍安住。如是於內繫縛心已，由憶念力、數數作意攝錄其心，令不散亂，安住、近住。從此已後，由正知力調息其心，於其諸相、諸惡尋思、諸隨煩惱，不令流散，調順、寂靜。由精進力，設彼二種暫現行時，能不忍受，尋即斷滅、除遣、變吐，最極寂靜、專注一趣。由串習力，等持成滿。

> ここで知っておくべきこととして、九つの心の安住を成し遂げるには、六つの力によって可能となります。一に「聞く力」、二に「考える力」、三に「記憶する力」、四に「正しく知る力」、五に「精進する力」、六に「繰り返し慣れる力」です。 初めに、聞く力と考える力の二つによって、何度も聞き何度も考える力を強めていくことで、最初に心を内なる対象に留めさせ、そしてその心をその対象に絶えず向けさせ、澄ませるようにして、平等に行き渡らせて安住させます。このようにして心を内側に縛りつけたなら、次に記憶する力によって、繰り返し注意を向けて心をまとめ、散乱させずに、安住と近住の境地に至らせます。 その後は、正しく知る力によって心の調子を整え、様々な表象や悪しき思考や副次的な煩悩に流れ散らせることなく、調順と寂静の境地に至らせます。 さらに精進する力によって、もしそれら二つのものが一時的に現れても、それを受け入れずに、すぐに断ち滅ぼし、取り除き、吐き出してしまうことで、最極寂静と専注一趣の境地に至らせます。 最後に、繰り返し慣れる力によって、等持（心の統一）が完全に成就するのです。

即於如是九種心住，當知復有四種作意。一、力勵運轉作意，二、有間缺運轉作意，三、無間缺運轉作意，四、無功用運轉作意。

> この九つの心の住まい方には、さらに四種類の作意があると知るべきです。第一に、努力して働きかける作意。第二に、途切れがありながら働きかける作意。第三に、途切れなく働きかける作意。第四に、努力せずに自然に働きかける作意です。

於內住、等住中，有力勵運轉作意；於安住、近住、調順、寂靜、最極寂靜中，有有間缺運轉作意；於專注一趣中，有無間缺運轉作意；於等持中，有無功用運轉作意。當知如是四種作意，於九種心住中，是奢摩他品。又即如是獲得內心奢摩他者，於毘鉢舍那勤修習時，復即由是四種作意，方能修習毘鉢舍那，故此亦是毘鉢舍那品。

> 内に住し、等しく住する中には、努力を要する作意があります。安住、近住、調順、寂静、最極寂静の中には、途切れのある作意があります。専注一趣の中には、途切れのない作意があります。等持の中には、努力を要しない作意があります。これら四種の作意は、九種の心の住において、奢摩他（止）の範疇であると知るべきです。また、このようにして内なる奢摩他を得た者は、毘鉢舎那（観）を精進して修習する際に、この四種の作意によって毘鉢舎那を修習することができるのです。したがって、これらは毘鉢舎那の範疇でもあります。

云何四種毘鉢舍那？謂有苾芻，依止內心奢摩他故，於諸法中能正思擇、最極思擇、周遍尋思、周遍伺察，是名四種毘鉢舍那。

> 四つの毘鉢舍那（観察）とは何か。それは、比丘が心の寂静（奢摩他）に基づいて、あらゆる事柄を正しく考え抜き、徹底的に考え、あまねく尋ね、あまねく詳細に観察することである。これらを四つの毘鉢舍那と呼ぶ。

云何名為能正思擇？謂於淨行所緣境界、或於善巧所緣境界、或於淨惑所緣境界，能正思擇盡所有性。

> 「正しく思慮し選択する」とは何か？ それは、清らかな行いを修行する際の対象、または巧みな方法を学ぶ際の対象、あるいは煩悩を浄化する際の対象について、ありのままの本質を正しく考え抜くことである。

云何名為最極思擇？謂即於彼所緣境界，最極思擇如所有性。

> 最も深い観察とは何でしょうか。それは、まさにその対象となる境界において、最も深く徹底的に、あるがままの本質を観察し考えることです。

云何名為周遍尋思？謂即於彼所緣境界，由慧俱行有分別作意，取彼相狀，周遍尋思。

> 周遍尋思とは何でしょうか。それは、対象とする境界に対して、智慧と共にはたらく分別のある作意によって、その特徴を捉え、あまねく考えめぐらすことです。

云何名為周遍伺察？謂即於彼所緣境界，審諦推求，周遍伺察。

> 「周遍に観察する」とはどういうことか。それは、対象とする境界（対象）に対して、注意深く、細かく推し量り、くまなく観察することをいう。

又即如是毘鉢舍那，由三門、六事差別所緣，當知復有多種差別。

> また、このような毘鉢舎那においては、三つの観点と六つの事柄の違いによって対象が区別されるため、さらに多くの違いがあることを知るべきです。

云何三門毘鉢舍那？一、唯隨相行毘鉢舍那，二、隨尋思行毘鉢舍那，三、隨伺察行毘鉢舍那。云何名為唯隨相行毘鉢舍那？謂於所聞所受持法，或於教授教誡諸法，由等引地如理作意，暫爾思惟，未思、未量、未推、未察。如是名為唯隨相行毘鉢舍那。若復於彼思量推察，爾時名為隨尋思行毘鉢舍那。若復於彼既推察已，如所安立復審觀察，如是名為隨伺察行毘鉢舍那。是名三門毘鉢舍那。

> では、三つのタイプの毘鉢舎那（観察）とは何でしょうか。 第一に、ただイメージに従って観察する毘鉢舎那。 第二に、考えを巡らせながら観察する毘鉢舎那。 第三に、詳しく調べながら観察する毘鉢舎那です。 「ただイメージに従って観察する毘鉢舎那」とは、聞いたり受け継いだりした教えや、先生から受けた教えについて、心が集中した状態で道理に沿って注意を向け、ひとまず考えることです。まだ深く考えたり、測ったり、推論したり、詳しく調べたりはしません。これを「ただイメージに従って観察する毘鉢舎那」と呼びます。 次に、それについてさらに考えを巡らせ、推論し始めた段階を、「考えを巡らせながら観察する毘鉢舎那」と呼びます。 さらに、そのようにして推論した後で、確立された内容を改めて詳細に観察することを、「詳しく調べながら観察する毘鉢舎那」と呼びます。 これらが三つのタイプの毘鉢舎那です。

云何六事差別所緣毘鉢舍那？謂尋思時，尋思六事。一、義，二、事，三、相，四、品，五、時，六、理。既尋思已，復審伺察。

> では、観察の修行における六つの事柄の違いとは何でしょうか。それは、次の六つの項目を弁別して考えることです。第一に「意味」、第二に「対象」、第三に「特徴」、第四に「性質」、第五に「時期」、第六に「道理」です。これらを深く考えた上で、さらに詳細に検討を加えます。

云何名為尋思於義？謂正尋思如是如是語，有如是如是義。如是名為尋思於義。

> 「意味を思慮する」とは何か。それは、「このような言葉には、このような意味がある」と正しく考えることである。これが意味を思慮することである。

云何名為尋思於事？謂正尋思內外二事。如是名為尋思於事。

> 「事についての尋ね考えるとは何か」――それは、内側と外側の二つの事柄について、正しく尋ね考えることです。これを、事についての尋ね考えるといいます。

云何名為尋思於相？謂正尋思諸法二相。一者、自相，二者、共相。如是名為尋思於相。

> 「相を観察するとはどういうことか」といえば── あらゆる現象には二つの側面があると、正しく観察することです。 第一に、それぞれのものが独自に持つ性質（自相）を観察し、 第二に、ものが互いに共有する共通の性質（共相）を観察します。 これが「相を観察する」ということの意味です。

云何名為尋思於品？謂正尋思諸法二品。一者、黑品，二者、白品。尋思黑品過失過患，尋思白品功德勝利。如是名為尋思於品。

> 「品について考えるとはどういうことか」というと、正しく諸法を二つの種類に分けて考えることです。一つは「黒品（不善なもの）」、もう一つは「白品（善なもの）」です。黒品の欠点や弊害をよく考え、白品の功徳や利益をよく考えること。これを「品について考える」と言います。

云何名為尋思於時？謂正尋思過去、未來、現在三時。尋思如是事，曾在過去世；尋思如是事，當在未來世；尋思如是事，今在現在世。如是名為尋思於時。

> 「時についての考察」とは何か。それは、過去・未来・現在の三つの時について、正しく考察することである。 すなわち、ある出来事はすでに過去にあったこと、ある出来事はこれから未来にあること、ある出来事は現在にあること、と考察する。これが「時についての考察」である。

云何名為尋思於理？謂正尋思四種道理。一、觀待道理，二、作用道理，三、證成道理，四、法爾道理。當知此中，由觀待道理，尋思世俗以為世俗，尋思勝義以為勝義，尋思因緣以為因緣。由作用道理，尋思諸法所有作用。謂如是如是法，有如是如是作用。由證成道理，尋思三量。一、至教量，二、比度量，三、現證量。謂正尋思如是如是義、為有至教不？為現證可得不？為應比度不？由法爾道理，於如實諸法成立法性、難思法性、安住法性，應生信解，不應思議、不應分別。如是名為尋思於理。如是六事差別所緣毘鉢舍那，及前三門毘鉢舍那，略攝一切毘鉢舍那。

> 「理を尋思するとは何か」とは、四つの道理を正しく尋思することである。第一に「観待の道理」、第二に「作用の道理」、第三に「証成の道理」、第四に「法爾の道理」である。 ここでいう「観待の道理」とは、世俗を世俗として尋思し、勝義を勝義として尋思し、因縁を因縁として尋思することである。「作用の道理」とは、あらゆる法が持つ作用を尋思することであり、すなわち「このような法には、このような作用がある」と見極めることである。「証成の道理」とは、三つの量を尋思することである。第一に「至教量」、第二に「比度量」、第三に「現証量」である。すなわち「このような意味は、聖典に基づいているか」「直接確認できるか」「推論すべきか」と正しく尋思することである。「法爾の道理」とは、真実のままに成立する法の性質、思議を超えた法の性質、安住している法の性質に対して、信解を起こすべきであり、思議すべきでも分別すべきでもない。これを「理を尋思する」という。 このように、六つの事相の違いに基づく毘鉢舎那と、前述の三つの門による毘鉢舎那は、すべての毘鉢舎那を簡潔にまとめたものである。

問：何因緣故，建立如是六事差別毘鉢舍那？

> 質問：どのような理由によって、このように六つの事柄に分けて毘鉢舎那（観察）を立てるのですか？

答：依三覺故，如是建立。何等三覺？一、語義覺，二、事邊際覺，三、如實覺。尋思義故，起語義覺；尋思其事及自相故，起事邊際覺；尋思共相、品時、理故，起如實覺。修瑜伽師唯有爾所所知境界。所謂語義，及所知事盡所有性、如所有性。

> 理由は三つの「覚り」に基づいて、このように立てられています。その三つの覚りとは何でしょうか。第一に、言葉と意味の覚り。第二に、事柄の限界の覚り。第三に、あるがままの覚りです。意味をよく考えることで、言葉と意味の覚りが生じます。その事柄と、そのもの独自の特徴をよく考えることで、事柄の限界の覚りが生じます。共通する特徴、種類、時、道理をよく考えることで、あるがままの覚りが生じます。 ヨーガを修行する人にとって、認識すべき領域はこの三つだけです。すなわち、言葉と意味、そして認識すべき事柄のありのままのすべての性質と、あるがままの性質です。

云何勤修不淨觀者，尋思六事差別所緣毘鉢舍那？

> 問う。不浄観を修行する者は、どのように六つの事柄を分別して考えるヴィパッサナー（観察）を実践するのか。

謂依不淨增上正法聽聞受持增上力故，由等引地如理作意，解了其義。知此不淨實為不淨，深可厭逆，其性朽穢，惡臭生臭。由如是等種種行相，於先所聞依諸不淨所說正法，解了其義。如是名為於諸不淨尋思其義。

> 不浄観に基づく正しい教えを聞き、それを心に受け止めて保つ力によって、心を静める瞑想の境地において、道理にかなった心の働きにより、その意味を理解します。すなわち、この不浄なものは実際に不浄であり、深く嫌悪すべきものであり、その本質は朽ちて汚れ、悪臭や生臭さを放つものであると知ります。このように様々な観点から、以前に聞いた不浄に関する正しい教えの意味を理解します。これを「不浄におけるその意味を思索する」と呼びます。

云何名為尋思彼事？謂彼如是解了義已，觀不淨物，建立二分，謂內及外。如是名為尋思彼事。

> 不淨なものを観察するとき、人はそれを内と外という二つの側面に分けて考えます。このようにして、その対象を深く観察することを「事を尋ね考える」と言うのです。

云何名為尋思自相？謂且於內身中所有穢朽不淨，發起勝解。了知身中有髮、毛等，廣說乃至腦膜、小便。復於如是身中所有多不淨物，攝為二界，發起勝解。所謂地界及以水界。始於髮、毛，乃至大便，起地勝解；始於淚、污乃至小便，起水勝解。如是名為依內不淨尋思自相。

> 「自己の身体における不浄の相」とは何か？それは、まず自分の身体の中にある、汚れ朽ちた清らかでないものについて、はっきりと理解することである。つまり、身体の中に髪の毛や毛などがあり、詳しく言えば脳膜や小便に至るまで、そうしたものがあると知ることである。さらに、この身体の中にある多くの汚れたものを、地界と水界という二つの要素にまとめて理解する。すなわち、髪の毛から大便に至るまでは地界として捉え、涙や汚れから小便に至るまでは水界として捉える。これを「内身の不浄に基づく自己の相の観察」という。

復於其外諸不淨物，由青瘀等種種行相，發起勝解。謂先發起青瘀勝解，或親自見、或從他聞、或由分別所有死屍。如是死屍，或男、或女、或非男女，或親、或怨、或是中庸，或劣、或中、或復是勝，或是少年、或是中年、或是老年。取彼相已，若此死屍死經一日，血流已盡，未至膿爛，於是發起青瘀勝解。若此死屍死經二日，已至膿爛，未生蟲蛆，於是發起膿爛勝解。若此死屍死經七日，已生蟲蛆，身體已壞，於是發起爛壞勝解、𮌨脹勝解。若此死屍為諸狐狼、鵄梟、鵰鷲、烏鵲、餓狗之所食噉，於是發起食噉勝解。即此死屍既被食已，皮肉血盡，唯筋纏骨，於是發起異赤勝解。若此死屍或被食噉，支節分離，散在處處，或有其肉，或無其肉，或餘少肉，於是發起分散勝解。若此死屍骨節分散，手骨異處、足骨異處、膝骨異處、髀骨異處、髖骨異處、髆骨異處、臂骨異處、脊骨異處、頷輪異處、齒鬘異處、髑髏異處，見是事已，起骨勝解。若復思惟如是骸骨共相連接而不分散，唯取麁相，不委細取支節屈曲，如是爾時起鎖勝解。若委細取支節屈曲，爾時發起骨鎖勝勝。又有二鎖。一、形骸鎖，二、支節鎖。形骸鎖者，謂從血鑊脊骨，乃至髑髏所住。支節鎖者，謂臂、髆等骨連鎖，及髀、膞等骨連鎖。此中形骸鎖，說名為鎖；若支節鎖，說名骨鎖。復有二種取骨鎖相。一、取假名綵畫木石泥等所作骨鎖相。二、取真實骨鎖相。若思惟假名骨鎖相時，爾時唯名起鎖勝解，不名骨鎖。若思惟真實骨鎖相時，爾時名起骨鎖勝解。又即此外造色色相，三種變壞。一、自然變壞，二、他所變壞，三、俱品變壞。始從青瘀乃至𮌨脹、是自然變壞。始從食噉乃至分散，是他所變壞。若骨、若鎖、及以骨鎖，是俱品變壞。若能如是如實了知外不淨相，是名尋思外諸所有不淨自相。

> 身体の外側にある不浄なものについても、青瘀（あおざ）などの様々な状態を観想して、確かな理解を得ていきます。まず青瘀の観想を起こします。それは、自分で直接見た、あるいは他人から聞いた、または心の中で想像した死体によります。その死体は、男性、女性、あるいは中性、または親しい人、憎い人、あるいはどちらでもない人、あるいは劣った者、中くらいの者、優れた者、あるいは若者、中年、老人など様々です。 その死体の印象を捉えた上で、もしその死体が死後一日経ち、血が流れ尽くして、まだ腐敗していなければ、青瘀の観想を起こします。もし死後二日経ち、腐敗し始めて、まだ蛆が湧いていなければ、膿爛（のうらん）の観想を起こします。もし死後七日経ち、蛆が湧き、身体が崩れ始めていれば、爛坏（らんえ）の観想、膨脹（ぼうちょう）の観想を起こします。もしその死体が狐や狼、梟（ふくろう）、鷲、烏、飢えた犬などに食い荒らされていれば、食噉（じきたん）の観想を起こします。そして、その死体が食べられ、皮や肉、血が無くなり、骨に筋が絡まっているだけの状態になれば、異赤（いしゃく）の観想を起こします。もしその死体が食べられ、手足の関節が分離して、あちこちに散らばり、肉がついている部分や無い部分、少しだけ肉が残っている部分があれば、分散（ぶんさん）の観想を起こします。もし死体の骨の節々が分離して、手の骨、足の骨、膝の骨、腿（もも）の骨、腰の骨、肩甲骨、腕の骨、背骨、顎の骨、歯、頭蓋骨がそれぞれ別々の場所にあるのを見たら、骨の観想を起こします。 さらに、これらの骨格が繋がっていてばらばらになっていない状態を思い浮かべる場合は、大まかな形状だけを捉え、細かい関節の屈曲までは捉えません。この時、「鎖（くさり）」の観想を起こします。反対に、細かい関節の屈曲まで詳細に捉える場合は、「骨鎖（こつさ）」の観想を起こします。 なお、「鎖」には二種類あります。一つは「形骸鎖（ぎょうがいくさり）」で、背骨の延長上に頭蓋骨が乗っている状態です。もう一つは「支節鎖（しせつくさり）」で、腕や肩甲骨の骨の連なり、大腿骨や脛骨の連なりです。このうち「形骸鎖」を単に「鎖」と呼び、「支節鎖」を「骨鎖」と呼びます。 骨鎖の相を捉えるにも、二種類あります。一つは、絵や彩色、木や石や泥などで作られた、仮に「骨鎖」と呼ばれるものを捉えることです。もう一つは、実際の骨の連なりを捉えることです。仮の骨鎖を観想する時は、それは単なる「鎖の観想」であり、「骨鎖の観想」とは呼びません。実際の骨の連なりを観想する時、はじめて「骨鎖の観想」と呼ばれます。 また、身体の外側にあるこれらの物質（色）は、三種類の壊れ方をします。一つは「自然に壊れる」、二つ目は「他によって壊される」、三つ目は「その両方で壊れる」です。青瘀から膨脹までは自然に壊れるものです。食噉から分散までは他によって壊されるものです。骨、鎖、そして骨鎖は、その両方によって壊れるものです。 このようにして、身体の外側にある不浄なものの本質を、あるがままに理解することを、「外にある不浄なものの自己の本質を観察する」と言います。

云何尋思不淨共相？謂若內身，外淨色相未有變壞；若在外身，不淨色相已有變壞。由在內身不淨色相平等法性、相似法性，發起勝解，能自了知我淨色相亦有如是同彼法性；若諸有情成就如是淨色相者，彼淨色相亦有如是同彼法性；譬如在外不淨色相。是名尋思不淨共相。

> 清浄でないという共通の特徴（不浄共相）についてどのように考察するのでしょうか。 それは、例えば、自分の身体においては、外に現れた清らかな色の様相（浄色相）がまだ衰えていない場合があるとします。一方、他人の身体においては、不浄な色の様相がすでに現れ、衰えています。 このとき、自分の身体の中にある、不浄な色の様相と「等しい本質（平等法性）」や「似た本質（相似法性）」に基づいて、心に確かな理解（勝解）を起こします。そして、自らこう悟ります。「私の清らかな色の様相も、やがてはあの他人の身体と同じ性質を持つことになる。また、今現在、このような清らかな色の様相を持っている生き物たちも、その清らかな様相は、やがてはあの外に見える不浄な色の様相と同じ性質を持つことになるのだ」と。 これが、不浄の共通の特徴

云何名為尋思彼品？謂作是思：若我於彼諸淨色相不淨法性不如實知，於內、於外諸淨色相發起貪欲，便為顛倒，黑品所攝，是有諍法，有苦、有害、有諸災患、有遍燒惱。由是因緣，發起當來生老病死愁歎憂苦種種擾惱。若我於彼諸淨色相不淨法性如實隨觀，便無顛倒，白品所攝，是無諍法，無苦、無害，廣說乃至由此因緣，能滅當來生老病死，乃至擾惱。若諸黑品，我今於彼不應忍受，應斷、應遣。若諸白品我今於彼未生應生；生已令住，增長廣大。如是名為尋思彼品。

> 「彼の品」とは何を意味するのか： 例えば、こう考える。「私が清らかな色の相における不浄の法性をありのままに知らず、内外の清らかな色の相に対して貪欲を起こすならば、それは顛倒であり、黒い品に含まれるもの、争いを伴う法であり、苦あり、害あり、様々な災いや悩み、広く焼き悩まされることがある。この因縁により、未来における生・老・病・死、嘆き・憂い・苦しみ、さまざまな擾乱を引き起こす。 しかし、私がその清らかな色の相における不浄の法性をありのままに観じるならば、顛倒はなく、白い品に含まれるもの、争いのない法であり、苦なく、害なく、広く説けば、この因縁により未来の生・老・病・死、さらには擾乱をも滅することができる。 もし黒い品があるなら、私はそれを甘受すべきではなく、断ち、捨て去るべきである。もし白い品があるなら、私はそれを生じさせていないものは生じさせ、生じたものは保ち、成長させ、広大にする」と。 これをもって「彼の品を尋ね考える」というのである。

云何名為尋思彼時？謂作是思：若內所有諸淨色相，在現在世；若外所有不淨色相，亦現在世。諸過去世曾淨色相，彼於過去雖有淨相，而今現在如是次第種種不淨。諸現在世我之所有似淨色相，此淨色相於現在世雖有淨相，於未來世不當不淨如今現在外不淨色，無有是處。我此色身，去來今世，曾如是相、當如是相、現如是相，不過如是不淨法性。如是名為尋思彼時。

> 次に、「その時を観察する」とは何かというと、次のように考えることである。すなわち、「私の身体の中にある様々な清らかな色形が、現在のこの世に存在している。一方、外にある様々な不浄な色形も現在の世に存在している。過去の世における清らかな色形は、過去においては清らかであったとしても、今現在はこのように次第に様々な不浄へと変化している。現在の世における私のいわゆる清らかな色形も、今現在は清らかに見えるが、未来の世においては、今現在外に見える不浄な色形のように、不浄とならないということはありえない。この私の身体という色形は、過去・未来・現在の三世を通じて、かつてはそのような姿であり、将来はそのような姿になり、現在はこのような姿である。つまり、この不浄という性質を超えるものではない」と観察することである。これを「その時を観察する」というのである。

云何名為尋思彼理？謂作是思：若內若外都無有我、有情可得，或說為淨、或說不淨；唯有色相、唯有身形，於中假想施設言論，謂之為淨、或為不淨。又如說言：壽煖及與識，若棄捨身時，離執持而臥，無所思如木。既死沒已，漸次變壞分位可知。謂青瘀等，乃至骨鎖。今我此身，先業煩惱之所引發，父母不淨和合所生，糜飯等食之所增長。此因、此緣、此由藉故，雖暫時有諸淨色相似可了知，而內身中若內若外，於常常時，種種不淨皆悉充滿。如是名依世俗、勝義及以因緣觀待道理尋思彼理。復作是思：於此不淨，若能如是善修、善習、善多修習，能斷欲貪。如是欲貪，定應當斷。如是名依作用道理尋思彼理。復作是思：如世尊說：若於不淨善修、善習、善多修習，能斷欲貪。是至教量。我亦於內自能現見於諸不淨；如如作意思惟修習，如是如是令欲貪纏未生不生，生已除遣。是現證量。

> では、「その道理（ことわり）を尋ね考える」とは、どういうことでしょうか。それは、次のように考えることです。 「内外に、『我』や『有情』というものは実在としてどこにもなく、それが清浄であるとか、不浄であるとか言えるものもありません。あるのはただ、色の相（物質的な形態）、ただ身体の形だけです。その上で、仮に想像して言葉を設け、これを清浄だとか、不浄だとか言うのです。 また、次のようにも説かれています。『寿命（寿）と体温（煖）と認識（識）は、身体を捨てる時、支えを離れて横たわり、思考もなく木のようになる』と。 死に果てた後は、徐々に変化し壊れていく過程が、次のように知られます。青瘀（あおざ）などの状態から、ついには骨の連なり（骨鎖）に至るまでです。 今のこの私の身体は、過去の業と煩悩によって引き起こされ、父母の不浄なものの和合によって生まれ、糜飯（粥や飯）などの食べ物によって成長したものです。このような因（直接的な原因）、このような縁（間接的な条件）、このようなよりどころによって、一時的に清らかな色の相がかすかに認識できるようにあっても、この内なる身体の内外には、常に、様々な不浄が満ちているのです。」 このように考えることを、世俗（世間の共通認識）と勝義（究極の真理）、および因縁の道理（原因と条件の関係）に基づいて、その道理を尋ね考える、と言います。 次に、さらにこう考えます。 「この不浄について、このように善く修め、善く慣れ親しみ、善く繰り返し修習すれば、欲望への執着（欲貪）を断つことができるはずだ。だからこそ、この欲望への執着は、必ず断つべきである。」 このように考えることを、作用の道理（実践の効果に関する道理）に基づいて、その道理を尋ね考える、と言います。 さらに、またこう考えます。 「世尊（仏陀）が『もし不浄について善く修め、善く慣れ親しみ、善く繰り返し修習すれば、欲望への執着を断つことができる』とお説きになった。これは、聖なる教えの言葉（至教量）である。 また、私自身も内なる心で、様々な不浄を現に見ることができる。そのように思い描き、修習すればするほど、欲望への執着の煩悩（けがれ）は、まだ生じていないものは生じず、すでに生じたものは除き去られる。これは、実際の体験による確かな証拠（現証量）である。」 このように考えることを、聖なる言葉と現実の体験の両方に基づいて、その道理を尋ね考える、と言います。

比度量法亦有可得。謂作是思：云何今者作意思惟能對治法，可於能治所緣境界煩惱當生？如是名依證成道理尋思彼理。

> 比量の法に基づいて考えることも可能である。それは次のような思考である。「どのように今、心を働かせて対治法を思惟すれば、対治の対象となる境界において、煩悩が生じようとするのを防ぐことができるのだろうか。」これが、証成の道理に依ってその理を尋ね考えるという教えである。

復作是思：如是之法成立法性，難思法性、安住法性。謂修不淨，能與欲貪作斷對治，不應思議、不應分別，唯應信解。如是名依法爾道理尋思彼理。

> さらに、このように考える。「このような法（真理）は、法性（真理の本質）として成立している。それは不可思議な法性であり、確かに安住する法性である。つまり、不浄観を修することで、欲望や執着を断ち切る対治法となるのであり、これは思議すべきものではなく、分別すべきものでもない。ただ信じて理解すべきである。」これを、「法爾の道理（法の自然な理法）」に基づいて、その道理を探求すると名付ける。

是名勤修不淨觀者，尋思六事差別所緣毘鉢舍那。

> これが、不浄観を修行する者のための、六つの事相（事）の観察と分別（尋思）による所縁の毘鉢舎那（観察）です。

云何勤修慈愍觀者，尋思六事差別所緣毘鉢舍那？謂依慈愍增上正法聽聞受持增上力故，由欲利益安樂意樂，於諸有情作意與樂，發起勝解，是慈愍相。若能如是解了其義，如是名為於諸慈愍尋思其義。彼既如是解了義已，復能思擇：此為親品、此為怨品、此中庸品。是一切品，皆他相續之所攝故，於中發起外事勝解。又若親品，名為內事；怨、中庸品，名為外事。如是名為於諸慈愍尋思其事。復能思擇：如是三品，若無苦樂欲求樂者，願彼得樂。今於此中，有饒益相，名為親品；不饒益相，名為怨品；俱相違相，名中庸品。如是三品，若無苦樂欲求樂者，略有三種欲求樂心差別可得。一者、欲求欲界諸樂；二者、欲求色界有喜勇悅諸樂；三者、欲求離喜諸樂。如是若於欲樂匱乏，願彼皆得無罪欲樂。若於有喜、離喜諸樂有所匱乏，當知亦爾。是名尋思慈愍自相。復審思擇：若諸親品、若諸怨品、若中庸品，我於其中皆當發起相似性心、平等性心。何以故？我若作意與親品樂，此未為難；於中庸品作意與樂，亦未甚難；若於怨品作意與樂，乃甚為難。我於怨品尚應作意願與其樂，何況親品及中庸品而不與樂。何以故？此中都無能罵、所罵、能瞋、所瞋、能弄、所弄、能打、所打，唯有音聲、唯有名字。又我此身，隨所生起，有色麁重四大所造，隨所住處，便為如是觸所逼惱。略有二觸，謂音聲觸，及手足塊刀杖等觸。是身及觸皆是無常，能為如是不饒益者亦是無常。又復一切有情之類，皆有生老病死等法，本性是苦；故我不應於本性苦諸有情上，更加其苦，而不與樂。又亦不應不與怨家作善知識、不攝一切有情之類以為自體。又世尊言：我不觀見如是種類有情可得。無始世來經歷生死，長時流轉，不互相為或父、或母、兄弟、姊妹，若軌範師，若親教師、若餘尊重、似尊重者。由是因緣，一切怨品無不皆是我之親品。又怨、親品，無有決定真實可得。何以故？親品餘時轉成怨品；怨品餘時轉成親品，是故一切無有決定。故我今者，應於一切有情之類，皆當發起平等性心、平等性見；及起相似利益意樂、安樂意樂與樂勝解。是名尋思慈愍共相。復審思擇：我若於彼不饒益者發生瞋恚，便為顛倒，黑品所攝，是有諍法，廣說如前。我若於彼不起瞋恚，便無顛倒，白品所攝，是無諍法，廣說如前。如是名為尋思慈愍黑品、白品。復審思擇：諸過去世求欲得樂有情之類，彼皆過去，我當云何能與其樂？諸現在世有情之類，我今願彼盡未來世，於一切時常受快樂。是名尋思諸慈愍時。復審思擇：此中都無我及有情，或求樂者、或與樂者；唯有諸蘊、唯有諸行，於中假想施設言論，此求樂者、此與樂者。又彼諸行，業煩惱等以為因緣。如是名依觀待道理尋思慈愍。若於慈愍善修、善習、善多修習，能斷瞋恚。如是名依作用道理尋思慈愍。如是之義，有至教量；我內智見現轉可得；比度量法，亦有可得。如是名依證成道理尋思慈愍。又即此法成立法性、難思法性、安住法性。謂修慈愍能斷瞋恚，不應思議、不應分別；應生勝解。如是名依法爾道理尋思慈愍。是名勤修慈愍觀者，尋思六事差別所緣毘鉢舍那。

## 瑜伽師地論卷第三十

> 『瑜伽師地論』第30巻