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title: "瑜伽師地論 · 2"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cma8zhh8y03dhib0438v9wi29"
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## 瑜伽師地論卷第三十一

> 瑜伽師地論 第三十一巻

彌勒菩薩說

> 弥勒菩薩の教え

三藏法師玄奘奉　詔譯

> 三蔵法師玄奘奉詔訳

### 本地分中聲聞地第十三第三瑜伽處之二

> 第三瑜伽處之二

云何勤修緣起觀者，尋思六事差別所緣毘鉢舍那？謂依緣性緣起增上正法聽聞受持增上力故，能正了知如是如是諸法生故，彼彼法生；如是如是諸法滅故，彼彼法滅。此中都無自在、作者、生者、化者，能造諸法；亦無自性、士夫、中間能轉變者，轉變諸法。若能了知如是等義，是名尋思諸緣起義。復審思擇十二有支若內若外，而起勝解，是名尋思諸緣起事。復審思擇：無明支等，前際無知、後際無知。如是廣說，如前分別緣起支中。是名尋思緣起自相。

> では、どのようにして縁起の観察に励む者が、六つの事柄による区別の対象である「観察の智慧（ヴィパッシャナー）」を修めるのでしょうか。 それは、縁起の正しい教えを聞き、それを心に留め、しっかりと受け止めるという力に基づいて、次のように正しく了知するからです。すなわち、「これらの法が生じるから、それらの法が生じる。これらの法が滅するから、それらの法が滅する」と。この中には、自在に創造する主体（自在）や、作り手（作者）、生み出す者（生者）、変化させる者（化者）、そして法を造り出す者は、どこにも存在しません。また、固定した本質（自性）や、個人（士夫）、あるいはその中間にあって変化をもたらす者も存在せず、諸法を転変させる者もありません。このような道理を正しく了知できること、これを「縁起の意味を思索する」と言います。 さらに、十二の縁起の支分（無明・行・識・名色・六処・触・受・愛・取・有・生・老死）について、内在的なもの（心身の内側）と外在的なもの（外の世界）の両方において繰り返しよく観察し、確かな理解を深めていくこと、これを「縁起の事柄を思索する」と言います。 さらにまた、無明の支分などについて、過去における無知（過去世の無知）や未来における無知（未来世の無知）など、先に「縁起の支分の分別」の中で広く述べたように、繰り返しよく観察して考えます。これを「

復審思擇：如是一切緣生諸行，無不皆是本無今有，有已散滅，是故前後皆是無常。皆有生老病死法故，其性是苦。不自在故，中間士夫不可得故；性空、無我。是名尋思緣起共相。復審思擇：我若於彼無常、苦、空、無我諸行如實道理發生迷惑，便為顛倒，黑品所攝，廣說如前。若不迷惑，便無顛倒，白品所攝，廣說如前。是名尋思諸緣起品。復審思擇：於過去世所得自體無正常性，如是已住；於現在世所得自體無正常性，如是今住；於未來世所得自體無正常性，如是當住。是名尋思諸緣起時。復審思擇：唯有諸業及異熟果，其中主宰都不可得。所謂作者及與受者。唯有於法假想建立。謂於無明緣行乃至生緣老死中，發起假相，施設言論，說為作者及與受者。有如是名、如是種、如是姓、如是飲食、如是領受若苦若樂、如是長壽、如是久住、如是極於壽量邊際。又於此中有二種果及二種因。二種果者：一、自體果，二、受用境界果。二種因者：一、牽引因，二、生起因。自體果者，謂於今世諸異熟生六處等法。受用境界果者，謂愛非愛業增上所起六觸所生諸受。

> さらに観察して考える。このようにすべての縁によって生じる諸行は、どれも根源がなく今あるものではなく、あってもやがて散り去る。それゆえ、過去も未来も無常である。すべてに生・老・病・死の法があるため、その性質は苦である。自在ではないからだ。その中間に実体的な「人」というものは得られない。その性質は空であり、無我である。これを、縁起の共通の特徴（共相）を観察すると言う。 さらに観察して考える。私がもし、これらの諸行の無常・苦・空・無我という真実の道理に対して迷い疑惑を起こせば、それは倒錯（顛倒）となり、黒い側面（黒品）に属する。その詳細は先に述べた通りである。もし迷い疑惑がなければ、倒錯はなく、白い側面（白品）に属する。その詳細も先に述べた通りである。これを、種々の縁起の性質（縁起品）を観察すると言う。 さらに観察して考える。過去世において得た自己の肉体（自體）には常住の性質はなく、それはすでに過ぎ去った。現在世において得た自己の肉体にも常住の性質はなく、今現在そうであるように存在している。未来世において得るであろう自己の肉体にも常住の性質はなく、未来においてもそうであるように存在するであろう。これを、縁起の時間（縁起時）を観察すると言う。 さらに観察して考える。ただ様々な業（行動）とその異熟果（結果）があるのみであり、その中に主宰する実体はどこにも得られない。いわゆる「行為者」や「享受者」といったものはない。ただ、法に対して仮に概念を立てて（仮想建立）いるにすぎない。すなわち、無明を縁として行が生じ、乃至、生を縁として老死があるという中で、仮の姿を起こし、言葉や論議を設けて、「行為者」や「享受者」と名付けているにすぎない。そこには、このような名前、このような種族、このような姓、このような飲食、このような苦楽の受容、このような長寿、このような久しい生存、このように寿命の限界に至る、といったものがあるのである。 また、ここには二種類の果報と二種類の原因がある。二種類の果報とは、第一に自己の肉体の果報（自體果）、第二に外界の対象を享受する果報（受用境界果）である。二種類の原因とは、第一に引き寄せる原因（牽引因）、第二に生じさせる原因（生起因）である。自己の肉体の果報とは、現在世における様々な異熟として生じる六処（眼・耳・鼻・舌・身・意）などの法である。外界の対象を享受する果報とは、愛すべきもの・愛すべからざる業の力によって現れる、六つの触によって生じる様々な感受（受）である。

牽引因者，謂於二果發起愚癡；愚癡為先，生福、非福及不動行；行能攝受後有之識，令生有芽。謂能攝受識種子故，令其展轉攝受後有名色種子、六處種子、觸受種子。為令當來生支想所攝識、名色、六處、觸、受次第生故，今先攝受彼法種子。如是一切名牽引因。

> \*\*牽引の原因とは\*\* 二つの結果（果）に対して無知（愚癡）を起こすことです。その無知を先立てて、幸福な行い（福）、不幸な行い（非福）、そして動かない行い（不動行）を生み出します。これらの行いは、後の生存（後有）の認識（識）を引き寄せ、生まれ（生）の芽を育てます。つまり、認識の種子を引き寄せることで、それが続いて後にある名前と形（名色）の種子、六つの感覚器官（六処）の種子、接触（触）の種子、そして感受（受）の種子を次々と引き寄せるのです。未来の生存において、思考（想）に含まれる認識、名前と形、六つの感覚器官、接触、感受が順番に生じるようにするために、先立ってそれらの要素の種子を引き寄せます。これらすべてを総称して\*\*牽引の原因\*\*と呼びます。

生起因者，謂若領受諸無明觸所生受時，由境界愛生後有愛，及能攝受愛品、癡品所有諸取；由此勢力、由此功能，潤業種子，令其能與諸異熟果。如是一切名生起因。由此二因增上力故，便為三苦之所隨逐，招集一切純大苦蘊。如是名依觀待道理尋思緣起所有道理。復審思擇：於是緣性緣起觀中，善修、善習、善多修習，能斷愚癡。又審思擇：如是道理，有至教量，有內現證，有比度法，亦有成立法性等義。如是名依作用道理、證成道理、法爾道理尋思緣起所有道理。是名勤修緣起觀者，尋思六事差別所緣毘鉢舍那。

> 生起の因とは、すなわち、無明に触れて生じる諸々の受（感受）を領受する時、境界愛によって後有愛（さらなる生存への執着）が生じ、また、愛品（執着の類）と癡品（無明の類）のすべての取（執取）をも摂取し、受け入れることである。この勢力によって、この機能によって、業の種子を潤し、それが諸々の異熟果（結果）をもたらすことができるようにする。これら全てを生起の因と名づける。この二つの因の増上力によって、たちまち三苦に追従され、一切の純大苦蘊（純粋で大きな苦しみの集まり）を招集する。これを、観待の道理に依って縁起の道理を尋思する、と名づける。 さらに、あらためて審かに思惟し選択する。この縁性縁起の観において、よく修し、よく習い、よく多く修習すれば、愚痴を断じることができる、と。また、あらためて審かに思惟し選択する。このような道理には、至教量（聖典による確証）、内現証（自己の内なる直接体験）、比度法（推論による方法）、また成立する法性などの義がある、と。これを、作用の道理、証成の道理、法爾の道理に依って縁起の道理を尋思する、と名づける。これを、縁起観に勤修する者の、六事の差別ある所縁についての毘鉢舎那（観察）と名づける。

云何勤修界差別觀者尋思六事差別所緣毘鉢舍那？謂依界差別增上正法聽聞受持增上力故，能正解了一切界義。謂種姓義及種子義、因義、性義，是其界義。如是名為尋思界義。又正尋思地等六界內外差別，發起勝解。如是名為尋思界事。又正尋思：地為堅相，乃至風為輕動相，識為了別相，空界為虛空相、遍滿色相、無障礙相。是名尋思諸界自相。又正尋思：此一切界，以要言之，皆是無常乃至無我。是名尋思諸界共相。又正尋思於一合相界差別性。不了知者，由界差別所合成身，發起高慢，便為顛倒，黑品所攝，廣說如前。與上相違，便無顛倒，白品所攝，廣說如前。如是名為尋思界品。又正尋思：去來今世六界為緣，得入母胎。如是名為尋思界時。又正尋思：如草木等眾緣和合，圍遶虛空，數名為舍。如是六界為所依故，筋骨血肉眾緣和合，圍遶虛空，假想、等想施設言論，數名為身。復由宿世諸業煩惱及自種子以為因緣。如是名依觀待道理尋思諸界差別道理。又正尋思：若於如是界差別觀善修、善習、善多修習，能斷憍慢。又正尋思：如是道理，有至教量，有內證智，有比度法，有成立法性、難思法性、安住法性。如是名依作用道理、證成道理、法爾道理尋思諸界差別道理。是名勤修界差別觀者，尋思六事差別所緣毘鉢舍那。

> 「どのように修習するのが、界の差異の観察を努める者が、六つの事柄の差異という所縁について毘鉢舎那（観察）を尋求する方法でしょうか。」 それは、次の通りです。界の差異に関する優れた正しい教えを聞き、それを受持する力によって、あらゆる界の意味を正しく理解します。つまり、種姓（しゅじょう）の意味、種子の意味、因の意味、本性の意味、これらが界の意味です。これを「界の義を尋求する」と言います。 また、地界などの六つの界の内と外の差異について正しく尋求し、勝解（しょうげ）を起こします。これを「界の事を尋求する」と言います。 また、次のように正しく尋求します。地界は堅固な相、水界は湿潤な相、火界は暖かい相、風界は動く相、識界は了別する相、空界は虚ろで、色に遍満し、障りのない相であると。これを「諸界の自相を尋求する」と言います。 また、これらのすべての界は、要するにすべて無常であり、苦であり、空であり、無我であると正しく尋求します。これを「諸界の共相を尋求する」と言います。 また、一つに和合した身体の中における界の差異という性質について、それを正しく理解しない者は、界の差異によって和合した身体に対して高慢を起こし、顛倒（てんどう）となり、黒い品（くろいひん）に含まれます。その詳細は先に説いた通りです。これと反対であれば、顛倒はなく、白い品に含まれます。その詳細も先に説いた通りです。これを「界の品を尋求する」と言います。 また、過去・未来・現在の六つの界を縁として、母胎に入ることができると正しく尋求します。これを「界の時を尋求する」と言います。 また、草木などが多くの縁によって和合し、虚空を囲んで、「家」という名前で呼ばれるように、この六つの界を所依として、骨・筋・血肉が多くの縁によって和合し、虚空を囲み、仮に想像し、等しく想像し、言葉を設けて、「身体」という名前で呼ばれます。さらに、過去世の様々な業と煩悩、そして自らの種子を因縁とします。これを「観待の道理によって諸界の差異の道理を尋求する」と言います。 また、このような界の差異の観察をよく修習し、よく繰り返し修習すれば、驕慢（きょうまん）を断じることができると正しく尋求します。 また、このような道理には、聖典による教証があり、内なる智慧による証得があり、比類による推測法があり、成立する法性、思議し難い法性、安住する法性があると正しく尋求します。これを「作用の道理、証成の道理、法爾の道理によって諸界の差異の道理を尋求する」と言います。 これが、界の差異の観察を努める者が、六つの事柄の差異という所縁について毘鉢舎那を尋求する方法です。

云何勤修阿那波那念者，尋思六事差別所緣毘鉢舍那？謂依入出息念增上正法聽聞受持增上力故，能正了知於入出息所緣境界，繫心了達，無忘明記，是阿那波那念義。如是名為尋思其義。又正尋思：入息、出息在內可得；繫屬身故，外處攝故，內外差別。如是名為尋思其事。又正尋思：入息有二，出息有二。若風入內，名為入息；若風出外、名為出息。復正了知：如是為長入息、出息，如是為短入息、出息，如是息遍一切身分。是名尋思諸息自相。又正尋思：入息滅已有出息生，出息滅已有入息生，入出息轉繫屬命根及有識身；此入出息及所依止皆是無常。是名尋思諸息共相。又正尋思：若於如是入息、出息不住正念，為惡尋思擾亂其心，便為顛倒，黑品所攝，是有諍法，廣說如前。與上相違，便無顛倒，白品所攝，是無諍法，廣說如前。如是名為尋思其品。又正尋思：去來今世，入出息轉繫屬身心，身心繫屬入息、出息。如是名為尋思其時。又正尋思：此中都無持入息者、持出息者，入息、出息繫屬於彼；唯於從因從緣所生諸行，發起假想，施設言論，說有能持入出息者。如是名依觀待道理尋思其理。又正尋思：若於如是入出息念善修、善習、善多修習，能斷尋思。又正尋思：如是道理，有至教量，有內證智，有比度法，有成立法性、難思法性、安住法性，不應思議、不應分別，唯應信解。如是名依作用道理、證成道理、法爾道理尋思其理。是名勤修阿那波那念者，尋思六事差別所緣毘鉢舍那。

> 安那般那念を熱心に修行する者は、どのようにして六つの事柄の違いによる所縁の毘鉢舎那（観察）を思惟するのでしょうか。 それは、入出息念（呼吸への気づき）をより高める正しい教えを聞き、受け止め、保つ力によって、呼吸という対象に対して心を集中させ、はっきりと理解し、忘れずに正しく覚えていること、これが安那般那念の意味です。これを「その義（意味）を思惟する」と言います。 また、正しく次のように思惟します。入息（吸う息）と出息（吐く息）は身体の内側で捉えられるものであり、身体に属し、外側の領域に含まれるため、内と外という違いがあります。これを「その事（対象）を思惟する」と言います。 また、正しく次のように思惟します。入息には二種類、出息にも二種類があります。風が体内に入るのを入息と言い、風が体外に出るのを出息と言います。さらに、ある呼吸は長い入息・出息であり、ある呼吸は短い入息・出息であり、また、ある呼吸は身体の全ての部分に行き渡ることを正しく知ります。これを「諸々の息の自相（個別の特徴）を思惟する」と言います。 また、正しく次のように思惟します。入息が消えれば出息が生じ、出息が消えれば入息が生じます。この出入りの呼吸は、命根（生命力）と意識を持つ身体に属して巡っています。この出入りの呼吸とそのよりどころとなるものは、全て無常です。これを「諸々の息の共相（共通の特徴）を思惟する」と言います。 また、正しく次のように思惟します。もしこの出入りの呼吸に対して正しい気づきを保たず、悪い考えに心を乱されれば、それは顛倒（誤った見方）となり、黒い品（不善の分類）に含まれ、争いのある法となります。詳しくは先に述べた通りです。これとは反対に、正しい気づきを保てば、顛倒はなく、白い品（善の分類）に含まれ、争いのない法となります。詳しくは先に述べた通りです。これを「その品（性質）を思惟する」と言います。 また、正しく次のように思惟します。過去・未来・現在において、出入りの呼吸は心身に属して巡っており、心身は出入りの呼吸に属しています。これを「その時（時間）を思惟する」と言います。 また、正しく次のように思惟します。ここには、入息を保持する者も、出息を保持する者も、それらに属する何者も存在しません。ただ、原因と条件から生じた様々な現象（諸行）に対して、仮の想像を起こし、言葉を設けて、「出入りの呼吸を保持する者がいる」と説明しているに過ぎません。これを「観待道理（関係性の道理）に基づいて、その理（道理）を思惟する」と言います。 また、正しく次のように思惟します。もしこの入出息念を善く修め、善く慣れ親しみ、善く多く修習すれば、様々な考え（尋思）を断ち切ることができます。 また、正しく次のように思惟します。このような道理には、聖典による確かな教えがあり、内なる悟りの智慧があり、比類する方法があり、成立した法の性質、思議を超えた法の性質、安住した法の性質があります。これらは思議すべきではなく、分別すべきではなく、ただ信解すべきものです。これを「作用道理（働きの道理）、証成道理（証明の道理）、法爾道理（自然の道理）に基づいて、その理を思惟する」と言います。 これが、安那般那念を熱心に修行する者が、六つの事柄の違いによる所縁の毘鉢舎那を思惟する方法です。

如是依止淨行所緣，尋思六事差別觀已，數數於內令心寂靜，數數復於如所尋思，以勝觀行審諦伺察。彼由奢摩他為依止故，令毘鉢舍那速得清淨；復由毘鉢舍那為依止故，令奢摩他增長廣大。若依止善巧所緣及淨惑所緣，尋思六事差別所緣毘鉢舍那，於其自處我後當說。

> このように清らかな行いをよりどころとして、六つの事柄についての分別観察を行った後、繰り返し心を内に静め、さらに繰り返し、分別観察したことについて、すぐれた観察の行によって詳しく深く見極めます。彼は「奢摩他（しゃまた）＝心の静まり」をよりどころとすることにより、「毘鉢舎那（びばしゃな）＝物事をありのままに見る観察」を速やかに清らかにします。また、「毘鉢舎那」をよりどころとすることにより、「奢摩他」をいっそう成長させ広げていきます。 巧みなよりどころや、煩悩を清めるよりどころに依って、六つの事柄の分別というよりどころを持つ「毘鉢舎那」については、それぞれの位置で後ほど述べることにします。

復次，此中有九種白品所攝加行。與此相違，當知即是九種黑品所攝加行。云何名為白品所攝九種加行？一、相應加行，二、串習加行，三、無倒加行，四、不緩加行，五、應時加行，六、解了加行，七、無厭足加行，八、不捨軛加行，九、正加行。由此九種白品所攝加行故，能令其心速疾得定，令三摩地轉更勝進。又由此故，於所應往地及隨所應得，速疾能往、能得，無有稽遲。黑品所攝九種加行，不能令心速疾得定，不令三摩地轉更勝進。又由此故，於所應往地及隨所應得，極大稽遲，不能速疾往趣、獲得。

> さらに、ここには白い性質に含まれる九つの修行があります。これとは反対のものが、黒い性質に含まれる九つの修行であると知るべきです。では、白い性質に含まれる九つの修行とは何でしょうか。 第一に調和の修行、第二に習熟の修行、第三に正しい修行、第四に怠らない修行、第五に時機に適った修行、第六に理解の修行、第七に飽き足らない修行、第八に手放さない修行、第九に正しい修行です。 この九つの白い性質に含まれる修行によって、心は速やかに定まり、三昧（瞑想）はさらに深まります。また、これによって、目指す境地や得るべきものへ、速やかに到達し、遅れることがありません。 黒い性質に含まれる九つの修行では、心を速やかに定めることができず、三昧をさらに深めることもできません。また、これによって、目指す境地や得るべきものへ、非常に遅れ、速やかに向かい、得ることができません。

云何名為相應加行？謂若貪行者，應於不淨安住其心；若瞋行者，應於慈愍安住其心；若癡行者，應於緣起安住其心；若憍慢行者，應於界差別安住其心；若尋思行者，應於阿那波那念安住其心；若等分行者，或薄塵行者，應隨所樂攀緣一境安住其心；勤修加行。如是名為相應加行。

> どのように「相応の修行」と呼ばれるのか。例えば、貪欲の傾向がある者は、不浄の観想に心を留めなさい。怒りの傾向がある者は、慈しみの心に心を留めなさい。無知の傾向がある者は、縁起の道理に心を留めなさい。高慢の傾向がある者は、界の違いに心を留めなさい。さまざまな思考に心を奪われる者は、呼吸の観想（安那般那念）に心を留めなさい。また、すべての煩悩が平均して現れる者や、煩悩の薄い者は、自らの好みに応じて一つの対象に心を留め、精進して修行しなさい。これを「相応の修行」と呼ぶのです。

云何名為串習加行？謂於奢摩他、毘鉢舍那，已曾數習乃至少分，非於一切皆初修業。所以者何？初修業者，雖於相應所緣境界勤修加行，而有諸蓋數數現行，身心麁重。由是因緣，不能令心速疾得定。如是名為串習加行。

> 繰り返しの修行とは何か。それは、すでに心の静まり（奢摩他）と物事をありのままに見ること（毘鉢舍那）を、たとえ少しでも何度も修行してきた人のことであり、全く初めて修行を始めた人ではない。なぜなら、初めて修行を始めた人は、たとえ対応する対象に熱心に修行を積んでも、様々な妨げ（蓋）が何度も現れ、心と体が重苦しいからである。そのため、心を速やかに落ち着かせることができない。これを繰り返しの修行（串習加行）という。

云何名為不緩加行？謂無間方便、殷重方便勤修觀行。若從定出，或為乞食，或為恭敬承事師長，或為看病，或為隨順修和敬業，或為所餘如是等類諸所作事；而心於彼所作事業，不全隨順、不全趣向、不全臨入，唯有速疾令事究竟，還復精勤宴坐寂靜、修諸觀行。若有苾芻、苾芻尼、鄔波索迦、剎帝利、婆羅門等種種異眾共相會遇，雖久雜處，現相語儀；而不相續安立言論，唯樂遠離勤修觀行。又能如是勇猛精進。謂我於今定當趣證所應證得，不應慢緩。何以故？我有多種橫死因緣。所謂身中或風、或熱、或痰發動；或所飲食不正消化，住在身中成宿食病；或為於外蛇蝎、蚰蜒、百足等類諸惡毒蟲之所蛆蠚；或復為人非人類等之所驚恐；因斯夭沒。於如是等諸橫死處恒常思惟，修無常想，住不放逸。由住如是不放逸故；恒自思惟：我之壽命儻得更經七日、六日、五日、四日、三日、二日、一日、一時、半時、須臾、或半須臾、或經食頃、或從入息至於出息、或從出息至於入息，乃至存活經爾所時，於佛聖教精勤作意修習瑜伽，齊爾所時，於佛聖教，我當決定多有所作。如是名為不緩加行。

> 緩やかに加行しないとはどういうことか。それは、途切れることなく熱心に、真剣に観行を修することである。もし禅定から出て、托鉢のため、あるいは師長を敬い仕えるため、看病のため、あるいは和合の業に随順するため、その他もろもろの事柄を行う場合でも、心はそれらに対して完全に従い、向かい、入り込むことなく、ただ素早く事を終え、再び精進して静かに坐し、諸々の観行を修することである。 比丘、比丘尼、優婆塞、刹帝利、婆羅門など、様々な異なる人々が集まって会う場合でも、長く雑然とした中にいても、互いに言葉や表情で挨拶を交わすだけで、長く議論を続けることはなく、ただ遠離を楽しみ、観行を修することに専念する。 このように勇猛精進するとは、こうである。「私は今、必ずや証得すべきものを証得しよう。決して怠ってはならない。なぜか。私には多くの横死する因縁があるからだ。すなわち、体内で風が起こったり、熱が起こったり、痰が起こったりすること。あるいは、飲食が正しく消化されず、体内に留まって宿食病となること。あるいは、外界の蛇や、蝿、百足などの諸々の毒虫に刺されたり咬まれたりすること。あるいは、人間や人間にあらざるものによって驚かされ、恐れられ、そのために命を落とすことである。」 このような様々な横死の場において、常に思惟し、無常の想いを修し、不放逸に住するのである。このように不放逸に住するがゆえに、常に自ら思惟する。「我が寿命が、もし七日、六日、五日、四日、三日、二日、一日、一時間、半時、しばらく、あるいは半しばらく、あるいは食事の間、あるいは息を吸ってから吐くまで、あるいは息を吐いてから吸うまでの間、生きながらえるとしても、その間、仏の聖教に精進して意を注ぎ、ヨーガを修習しよう。その間、私は必ずや仏の聖教において多くのことを為し得るだろう。」 このようにすることを、緩やかに加行しないと名付ける。

云何名為無倒加行？謂如善達修瑜伽行諸瑜伽師之所開悟，即如是學，於法、於義不顛倒取，無有我慢，亦不安住自所見取，無邪僻執，於尊教誨終不輕毀。如是名為無倒加行。

> では、どのような修行を「顛倒のない実践」と呼ぶのでしょうか。それは、ヨーガの修行に精通した優れた指導者が示す通りに学び、教えとその意味を誤って捉えず、自己への慢心を持たず、自分の見解に固執することなく、偏った執着をせず、尊者（ブッダ）の教えを決して軽んじたり毀（そし）ったりしないことです。これを「顛倒のない実践」と呼びます。

云何名為應時加行？謂於時時間修習止相，於時時間修習觀相，於時時間修習舉相，於時時間修習捨相。又能如實了知其止、止相、止時；了知其觀、觀相、觀時；了知其舉、舉相、舉時；了知其捨、捨相、捨時。

> 「時機に応じた修行」とは何か。それは、ある時には「止（心を静める修行）」を、ある時には「観（物事をありのままに見る修行）」を、またある時には「挙（心を奮い立たせる修行）」を、そしてある時には「捨（バランスを保つ修行）」を、それぞれ適切な時に実践することである。さらに、それらの修行について、その本質・状態・適切な時期を、あるがままに理解することである。すなわち、「止」とは何か、その状態と時期を正しく知り、「観」とは何か、その状態と時期を正しく知り、「挙」とは何か、その状態と時期を正しく知り、「捨」とは何か、その状態と時期を正しく知ることである。

云何為止？謂九相心住。能令其心無相、無分別、寂靜、極寂靜、等住寂止、純一無雜，故名為止。

> 止とは何か？それは心を九つの段階で落ち着かせる「九相心住（くそうしんじゅう）」のことです。この修行によって、心を分別のない静けさへと導き、深く静まり、完全に落ち着き、一点に集中して乱れのない状態にします。だから「止（し）」と呼ばれるのです。

云何止相？謂有二種。一、所緣相，二、因緣相。所緣相者，謂奢摩他品所知事同分影像，是名所緣相。由此所緣，令心寂靜。因緣相者，謂依奢摩他所熏習心，為令後時奢摩他定皆清淨故，修習瑜伽毘鉢舍那所有加行，是名因緣相。

> 止の相とは何か。それには二種類ある。第一に「所縁相」、第二に「因縁相」である。 所縁相とは、奢摩他（心の静けさ）において知られる対象と、似た影像のことをいう。この所縁によって、心は静まるのである。 因縁相とは、奢摩他によって心に善い習慣がつけられた上で、後の奢摩他（瞑想の集中）をより清らかにするために、瑜伽行（心と体の調和）や毘鉢舎那（深く物事を見る智慧）の修行を行うことである。これを因縁相という。

云何止時？謂心掉舉時，或恐掉舉時，是修止時。又依毘鉢舍那所熏習心，為諸尋思之所擾惱及諸事業所擾惱時，是修止時。

> 止める時とはどのような時か。心が高ぶっている時、または高ぶる恐れがある時、これが止を修める時である。また、観察（ヴィパッサナー）によって培われた心が、様々な思惑や雑念に悩まされ、あるいは様々な作業に煩わされている時、これが止を修める時である。

云何為觀？謂四行、三門、六事差別所緣觀行。

> 観とは何か。 それは四つの行、三つの門、六つの事の違いによって分けられる、観察の実践を指す。

云何觀相？謂有二種。一、所緣相。二、因緣相。所緣相者，謂毘鉢舍那品所知事同分影像。由此所緣，令慧觀察。因緣相者，謂依毘鉢舍那所熏習心，為令後時毘鉢舍那皆清淨故，修習內心奢摩他定所有加行。

> 観相とは何か。それには二つの種類がある。第一は「所縁相」であり、第二は「因縁相」である。 「所縁相」とは、観察の対象として知るべき事柄と、それと同じ性質を持つ心に映るイメージのことである。この対象によって、智慧が観察する働きを促す。 「因縁相」とは、観察によって培われた心の習慣を基に、将来の観察がすべて清らかになるようにするため、心の内に止まる修行（奢摩他）の実践に取り組むことである。

云何觀時？謂心沈沒時，或恐沈沒時，是修觀時。又依奢摩他所熏習心，先應於彼所知事境如實覺了，故於爾時是修觀時。

> どのような時に「観察」を修めるのか？心が沈み込んでいるとき、あるいは沈み込む恐れがあるとき、それが観察を修める時です。また、「止（奢摩他）」によって培われた心をもって、先に、その対象となる事柄についてあるがままに覚了するため、その時こそ観察を修める時なのです。

云何為舉？謂由隨取一種淨妙所緣境界，顯示、勸導、慶慰其心。

> ここでいう「挙（心を奮い起こす）」とはどういうことか。それは、心が清らかで素晴らしいと感じられる対象を一つ選び、その対象を示したり、励ましたり、喜びをもって心をなだめることによって、心を高めることを指す。

云何舉相？謂由淨妙所緣境界，策勵其心，及彼隨順發勤精進。

> では、「挙相」とは何でしょうか？それは、清らかで素晴らしい対象（所縁の境界）に心を向けて奮い立たせ、それに沿って精進を起こすことです。

云何舉時？謂心沈下時，或恐沈下時，是修舉時。

> 上げるときとはどういうときか。心が沈みかけているとき、あるいは沈みそうなときが、心を上げるべきときである。

云何為捨？謂於所緣心無染污、心平等性，於止觀品調柔正直任運轉性，及調柔心有堪能性，令心隨與任運作用。

> 捨とは何か。それは、心が対象に染まらず、平等で、止と観の実践において柔軟で正直に自然と働く性質である。また、柔軟な心が確かな能力を持ち、心が自然とその作用を発揮できるようにすることである。

云何捨相？謂由所緣令心上捨，及於所緣不發所有太過精進。

> 捨てる相とは何か。それは、よりどころとなる対象によって心が落ち着くこと、そしてその対象に対して過度な精進を起こさないことである。

云何捨時？謂於奢摩他、毘鉢舍那品，所有掉舉心已解脫，是修捨時。如是名為應時加行。

> 「では、いつ“捨“（平等な心、力を抜くこと）を行うべきなのか。それは、心が落ち着く修行（奢摩他）と物事を観察する修行（毘鉢舍那）の段階において、あれこれと浮き立つ心がすでに解き放たれ、落ち着いた時である。これが“捨“を修行する適切なタイミングである。このように、状況に応じて適切に行うこと（加行）を、“時宜にかなった修行“と呼ぶ。

云何名為解了加行？謂於如是所說諸相善取、善了。善取了已，欲入定時即便能入，欲住定時即便能住，欲起定時即便能起。或時棄捨諸三摩地所行影像，作意思惟諸不定地所有本性所緣境界。如是名為解了加行。

> では、どのようなものを「理解の実践」と言うのか。それは、先に説かれた様々な特徴（相）を適切に捉え、適切に理解することである。そのように捉え、理解したならば、入定しようと思えばすぐに入定でき、定に留まろうと思えばすぐに留まれ、定から起きようと思えばすぐに起きることができる。また、時には様々な三昧（サマーディ）において経験される影像を捨て去り、定に入っていない状態に属する、本来の対象となる境地を心に思い描く。これこそを「理解の実践」と言うのである。

云何名為無厭足加行？謂於善法無有厭足，修斷無廢，於展轉上、展轉勝處，多住希求。不唯獲得少小靜定，便於中路而生退屈。於餘所作，常有進求。如是名為無厭足加行。

> 「どうして『満足を知らない実践』と呼ばれるのか。それは、善い行いに対して決して飽き足らず、修行や断ち切りを怠ることなく、より高い境地へと進み、より優れた境地を常に求め続けることです。わずかな静かな心の安定を得ただけで、途中で退いたり落ち込んだりしません。他の為すべきことに対しても、常に向上を求めて進みます。これが『満足を知らない実践』と呼ばれる理由です。」

云何名為不捨軛加行？謂於一切所受學處，無穿、無缺；雖見少年顏容端正可愛母邑，而不取相、不取隨好；於食平等；勤修覺寤；少事、少業、少諸散亂；於久所作、久所說等，能自隨憶，令他隨憶。如是等法，說名不捨軛加行。由此諸法，能正隨順心一境性，不捨其軛，令心不散；不令其心馳流外境；不令其心內不調柔。如是名為不捨軛加行。

> 「軛を捨てない加行（修行の実践）」とは何か。 それは、学ぶべきすべての教えを、欠けることなく、破ることなく守ること。 また、たとえ若く美しい女性を見ても、その姿に心をとらわれず、細かな特徴に執着しないこと。 食事においては平等に、ほどほどにすること。 目覚めている間は、怠らず修行に励むこと。 無駄なこと・無駄な作業・無駄な散乱を少なくすること。 長い年月を経た行いや言葉についても、自ら思い出し、他者にも思い出させること。 これらの教えを、「軛を捨てない加行」と呼ぶ。 このような実践によって、心を一つの対象に安らかにとどめ、軛を捨てず、心を散乱させず、外の対象へと心が流れ出るのを防ぎ、心を内側で柔らかく調えることができる。 これが「軛を捨てない加行」である。

云何名正加行？謂於所緣數起勝解，數正除遣，是名正加行。如有勤修不淨觀者，數正除遣於諸不淨作意思惟諸不淨相。由隨相行毘鉢舍那而起作意，於所緣境數數除遣，數數現前。

> 「正しい実践行とは何か」それは、心の対象（所縁）に対して繰り返し明確な理解を得て、繰り返し正しく手放すことです。 例えば、不浄観を熱心に修行する人がいる場合、彼は様々な不浄なものを心に思い浮かべ、その不浄なイメージを正しく繰り返し手放します。そして、対象のありのままの姿を観察する智慧（毘鉢舎那）に従って心を働かせ、心の対象を次々と手放しながら、同時にそれをはっきりと目の前に現し続けます。これが正しい実践行なのです。

其正除遣，復有五種。一、內攝其心故；二、不念作意故；三、於餘作意故；四、對治作意故；五、無相界作意故。

> 正しい除遣（除去）には、さらに五つの種類があります。第一に、心を内側に集中させること。第二に、意図的に思いを巡らせないこと。第三に、別の対象に心を向けること。第四に、対治（対処）のための心の持ち方をすること。第五に、無相の境地（形なき世界）を意図すること、です。

當知此中，由九相心住、毘鉢舍那而為上首，故名內攝其心。由於最初背一切相，無亂安住，故名不念作意。由緣餘定地境，思惟餘定地，故名於餘作意。由思惟不淨對治於淨，乃至思惟阿那波那念對治尋思，思惟虛空界對治諸色，故名對治作意。由於一切相不作意思惟，於無相界作意思惟，故名無相界作意。

> ここで知るべきは、心をとどめる九つの段階と、その根本にある観察の修行によって、心を内側に静めることを「内摂其心（ないしょうごしん）」と呼ぶことである。 また、初めにすべての対象から離れて、乱れることなく落ち着いていることから、「不念作意（ふねんさくい）」と呼ぶ。 さらに、他の瞑想の境地に基づいて、他の瞑想の境地について考えを巡らせることから、「於余作意（およさくい）」と呼ぶ。 そして、清らかでないものについて考えることで、清らかさへの執着を対治し、また呼吸に意識を向けることで、さまよう思考を対治し、空間（虚空）の観想によって、形あるものへの執着を対治することから、「対治作意（たいじさくい）」と呼ぶ。 最後に、あらゆる形ある対象について考えず、形なき世界（無相界）について思惟することから、「無相界作意（むそうかいさくい）」と呼ぶのである。

雖遍安立一切所緣正除遣相總有五種，然此義中，正意唯取內攝其心，不念作意。

> あらゆる心の対象を正しく取り除く方法全体で五種類が説かれていますが、この教えの真の意図はただ一つ、心を内側に静め、意識的に考えないという心の働きにあります。

初修業者始修業時，最初全不於所緣境繫縛其心，或於不淨，或復餘處。唯作是念：我心云何得無散亂、無相、無分別、寂靜、極寂靜、無轉無動、無所希望、離諸作用、於內適悅？如是精勤，於所生起一切外相無所思惟，不念作意；即由如是不念作意，除遣所緣。

> 修行を始めたばかりの人の場合、最初から心を特定の対象（例えば不浄観や他の対象）にしっかりと結びつけようとしてはなりません。ただ、「どうすれば心が散乱せず、形なく、分別なく、静かで、とても穏やかで、揺れ動かず、希望もなく、無駄な働きもなく、内側に安らぎを得られるのだろうか」と考えるだけでいいのです。 そのように努力し続けると、現れてくるあらゆる外のイメージを考えず、それに意識を向けなくなります。この「意識を向けない」ということによって、自然と心の対象は離れていくのです。

彼於其中修習瑜伽，攝受適悅。復行有相、有分別不淨等境。云何而行？謂由隨相行、隨尋思行、隨伺察行毘鉢舍那，行彼境界，而非一向精勤修習毘鉢舍那。還捨觀相，復於所緣思惟止行。由是因緣，彼於爾時，於所緣境不捨、不取。由於所緣止行轉故，不名為捨；即於所緣不作相故，無分別故，不名為取。即由如是內攝其心，除遣所緣。又於其中不取觀相故，於緣無亂；取止行故，而復緣於所知事相。

> 彼はその中でヨーガを修習し、安らぎを摂受します。また、有相・有分別の不浄などの境を修行します。どのように修行するのか？それは、相に随う行、尋思に随う行、伺察に随う行によるヴィパッサナーによって、その境界を修行します。しかし、常に精進してヴィパッサナーのみを修習するわけではありません。観相を捨てて、再び所縁において止行を思惟します。この因縁により、その時、彼は所縁の境に対して、捨てず、取らずの状態にあります。所縁において止行が働くため、「捨」とは言えません。また、所縁において相を作らず、分別がないため、「取」とも言えません。このようにして内に心を摂め、所縁を除遣します。さらに、その中で観相を取らないため、縁において散乱がありません。止行を取るため、再び所知の事相に縁じます。

若於所緣唯數勝解，不數除遣；即不令彼所有勝解後後明淨究竟而轉，不能往趣乃至現觀所知境事。由數勝解、數除遣故，後後勝解展轉明淨究竟而轉，亦能往趣乃至現觀所知境事。

> もし、心のよりどころに対して、ただ繰り返し確信を強めるだけで、それを繰り返し手放す（解放する）ことをしなければ、その確信が次第に明らかに清らかになり、最終的な境地に至ることはできません。また、真実をありのままに観る智慧に至ることもできません。しかし、確信を強めることと、それを手放すことを繰り返すならば、その確信は次第に明らかに清らかになり、最終的な境地に至ることができます。そして、真実をありのままに観る智慧に至ることもできるのです。

譬如世間畫師弟子，初習畫業，先從師所受所學樣。諦觀諦觀，作彼形相；作已作已，尋即除毀；既除毀已，尋復更作。如如除毀，數數更作，如是如是後後形相轉明、轉淨究竟顯現。如是正學，經歷多時，世共推許為大畫師，或墮師數。若不數除所作形相，即於其上數數重畫，便於形相永無明淨究竟顯期。此中道理，當知亦爾。

> たとえば、世の中の絵師の弟子が、初めて絵を習うとき、まず師匠から模範となる手本を学びます。それを何度も何度もよく観察し、その形を描きます。描いてはすぐに消し、消してはまた新たに描きます。こうして消すたびに、描き直すたびに、だんだんと形ははっきりと鮮やかになり、ついには完全に現れ出ます。このように正しく学び続けて長い時が経つと、世間からも立派な絵師と認められ、師匠の一人に数えられるようになります。もし、描いた形を何度も消さずに、その上に重ねて描き続ければ、形がはっきりと鮮やかになることは永遠にありません。ここに示された道理も、同じであると知るべきです。

若於此境起勝解已，定於此境復正除遣；非於此境正除遣已，定於此境復起勝解。於狹小境起勝解已，即於狹小而正除遣。廣大、無量、當知亦爾。於狹小境正除遣已，或於狹小復起勝解，或於廣大復起勝解，或於無量復起勝解。於其廣大及於無量，當知亦爾。

> この境地に深く理解（勝解）を得ても、必ずしもその境地を正しく手放す（正除遣）とは限りません。また、その境地を正しく手放したからといって、必ずしも再びその境地に深く理解を得るとは限りません。 狭い境地に深く理解を得たなら、その狭い境地を正しく手放します。広大や無量の境地についても、同様に理解すべきです。 狭い境地を正しく手放した後は、再び狭い境地に深く理解を得ることもあれば、広大な境地に深く理解を得ることもあり、無量の境地に深く理解を得ることもあります。広大や無量の境地についても、同じように理解すべきです。

若諸色法所有相貌影像顯現，當知是麁，變化相似。諸無色法假名為先，如所領受增上力故，影像顯現。如是一切名正加行。

> もし諸々の色法（物質的现象）に、全ての姿や形（相貌）や映像（影像）が現れるなら、これは粗い変化であり、似せたものだと知るべきである。一方、諸々の无色法（精神的现象）は、名称（仮名）が先にあって、その知覚（領受）による強い作用（増上力）によって、映像が現れるのである。このように全てを、正しい修行（正加行）という。

如是九種白品加行，於奢摩他、毘鉢舍那，當知隨順。與是相違九種加行，於奢摩他、毘鉢舍那，當知違逆。如是黑品、白品差別建立加行，有十八種。如是名為心一境性。

> このような九種の清らかな実践は、 「止」（し：心を一つの対象に集中させて静める修行）と 「観」（かん：物事の本質を見極める洞察の修行）の 両方を支えるものであると知るべきです。 これとは反対の九種の実践は、 「止」と「観」にとって妨げとなるものであると知るべきです。 このように、清らかでないものと清らかなものの違いによって 修行の種類は十八種に分けられます。 このようにして確立される心の状態を 「心一境性」（しんいっきょうしょう：心が一つの対象に安らかに留まること） と呼びます。