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title: "瑜伽師地論 · 4目 障清淨障"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
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云何淨障？謂即如是正修加行諸瑜伽師，由四因緣，能令其心淨除諸障。

> どのようにして障りを清めるのか。それは、このように正しく修行に励むヨーガ行者が、四つの因縁によってその心を清め、あらゆる障りを取り除くことができるのである。

何等為四？一、遍知自性故；二、遍知因緣故；三、遍知過患故；四、修習對治故。

> 四つとは何か。第一に、自らの本性をありのままに知ること。第二に、その原因と条件をありのままに知ること。第三に、その過ちや苦しみをありのままに知ること。第四に、それを対治する修行をすることである。

云何遍知諸障自性？謂能遍知障有四種。一、怯弱障，二、蓋覆障，三、尋思障，四、自舉障。

> どのようにして、あらゆる障りの本質を正しく知るのでしょうか。つまり、障りには四種類あると正しく知ることです。第一に、臆病の障り、第二に、覆い隠す障り、第三に、憶想の障り、第四に、高ぶりの障りです。

怯弱障者，謂於出離及於遠離勤修行時，所有染污思慕、不樂、希望、憂惱。

> 弱気の障害とは、出家や修行に励む際に生じる、執着による憧れ、不満、期待、憂いや悩みのことです。

蓋覆障者，謂貪欲等五蓋。尋思障者，謂欲尋思等染污尋思。自舉障者，謂於少分下劣智見安隱住中，而自高舉。謂我能得，餘則不爾。乃至廣說，如前應知。是名遍知諸障自性。

> 五つの覆いとは、貪欲などの五つの蓋のことです。 思考の妨げとは、欲望に関する考えなど、汚れた思考のことです。 自己高揚の妨げとは、わずかな低い知恵や見解、安らぎの境地に満足して、自分を偉く思い上がることです。「私はそれができるが、他の人にはできない」などと、前に述べたように広く説かれています。 これらが、様々な妨げの本質を完全に理解するということです。

云何遍知諸障因緣？謂能遍知初怯弱障，有六因緣。一、由先業增上力故，或由疾病所擾惱故，其身羸劣；二、太過加行；三、不修加行；四、初修加行；五、煩惱熾盛；六、於遠離猶未串習。

> どのようにして、すべてのさまたげとなる原因を完全に知るのでしょうか。 すなわち、最初に生じる「臆病のさまたげ」を完全に知るには、六つの原因があります。 一つ目は、過去の業の強い力によって、あるいは病気に悩まされることによって、身体が弱ってしまうこと。 二つ目は、修行を過度にやりすぎること。 三つ目は、修行を行わないこと。 四つ目は、修行を始めたばかりであること。 五つ目は、煩悩が非常に盛んであること。 六つ目は、心の静けさにまだ慣れていないことです。

遍知蓋覆、尋思、自舉障因緣者，謂於隨順蓋覆、尋思及自舉障處所法中，非理作意多分串習，是名蓋覆、尋思、自舉障之因緣。若不作意思惟不淨，而於淨相作意思惟，是名此中非理作意。若不作意思惟慈愍，而於瞋相作意思惟，是名此中非理作意。若不作意思惟明相，而於闇相作意思惟，是名此中非理作意。若不作意思惟奢摩他相，而於親屬、國土、不死，昔所曾更歡娛、戲笑、承奉等事諸惡尋思作意思惟，是名此中非理作意。若不作意思惟緣性緣起，而於三世諸行計我、我所，不如理想作意思惟，是名此中非理作意。

> あらゆる覆い（蓋）、妄想（尋思）、自己高ぶり（自挙）の障りとなる因縁とは、これらの覆いや妄想、自己高ぶりを起こしやすい対象の法（物事）について、道理に反した心の働き（非理作意）を繰り返し身につけることである。これを、覆い・妄想・自己高ぶりの障りの因縁と名づける。 もし不浄の観想を心に思い浮かべずに、清らかな相を心に思い浮かべるなら、これをここでいう道理に反した心の働きと名づける。もし慈しみ（慈愍）の観想を心に思い浮かべずに、怒りの相を心に思い浮かべるなら、これをここでいう道理に反した心の働きと名づける。もし明るい相を心に思い浮かべずに、暗い相を心に思い浮かべるなら、これをここでいう道理に反した心の働きと名づける。もし止（奢摩他）の相を心に思い浮かべずに、親族や国土、不死、さらに過去に経験した歓楽や遊戯、笑い、仕え奉ることなど様々な悪しき妄想を心に思い浮かべるなら、これをここでいう道理に反した心の働きと名づける。もし縁性・縁起を心に思い浮かべずに、過去・現在・未来のあらゆる諸行について、「我」や「我がもの」と執着し、道理にそぐわない心の働きをするなら、これをここでいう道理に反した心の働きと名づける。

云何遍知諸障過患？謂遍了知此障有故，於其四種未證不證，已證退失。敗壞瑜伽所有加行，有染污住、有苦惱住，自毀、毀他，身壞命終生諸惡趣。是名遍知諸障過患。

> あらゆる障害の過ちを完全に知るとはどういうことか。 すなわち、この障害があるために、四つの状態（四沙門果など）のうち、 未だ証得していないものは証得できず、 既に証得したものは退失する。 ヨーガ（修行）の努力を損ない、 汚れに染まった状態にとどまり、 苦しみに満ちた状態にとどまり、 自らを滅ぼし、他者をも滅ぼし、 身体が壊れ命が終わった後には、悪い生まれ変わりに落ちる。 これをもって、あらゆる障害の過ちを完全に知ると言うのである。

云何名為修習對治？謂諸怯弱，總用隨念以為對治。由隨念作意慶悅其心，令諸怯弱已生除遣，未生不生。其身羸劣、太過加行、初修加行，用於精進平等通達以為對治。不修加行，用恭敬聽聞、勤加請問以為對治。煩惱熾盛，用不淨等所緣加行以為對治。若未串習，即用如是思擇方便以為對治。謂我昔於遠離不串習故，今於修習遠離生起怯弱；我若於今不習遠離，於當來世定復如是。故我今者應正思擇，於其遠離捨不喜樂，修習喜樂。

> 修行の妨げとなるものを対処する方法とは何か。それは、心が弱っている場合には、全般的に「正しく思い出すこと（随念）」を用いて対処する。正しく思い出すことで心を喜ばせ、すでに生じた弱い心を取り除き、まだ生じていない弱い心が生じるのを防ぐ。 身体が弱っている場合、または過度に無理をする場合、あるいは修行を始めたばかりの場合には、「努力をバランスよく理解すること」を用いて対処する。 修行をしない場合には、「敬意を持って教えを聞き、熱心に質問すること」を用いて対処する。 煩悩が激しい場合には、「不浄観」などの主題を用いた修行によって対処する。 もし修行に慣れていないなら、次のように考えて対処する。「私はこれまで、離欲（遠離）に慣れていなかったため、今、離欲の修行に対して弱気になっている。もし今、離欲を習慣づけなければ、未来世でも必ず同じようになるだろう。だから私は今、正しく考え、離欲に対して嫌がる気持ちを捨て、喜びを修めなければならない。」

餘蓋覆等非理作意，用彼相違如理作意以為對治。應知是名修習對治。又遍了知諸障自性，是能障礙、是能染污、是黑品攝、是應遠離。能遍了知如是諸障遠離因緣，方可遠離，故應尋求諸障因緣。能遍了知於應遠離不遠離者有何過患，故應尋求諸障過患。既遠離已，更復尋思：如是諸障，云何來世當得不生？故應尋求修習對治。由是因緣，能令其心淨除諸障。

> あらゆる煩悩や誤った思考は、本来あるべき道理に反するものです。これに対抗するには、道理にかなった正しい思考を対治法とします。このように取り組むことこそが、対治法の修行です。 また、様々な障害の本質を完全に理解すべきです。それが何を妨げ、何を汚し、どのように不善の性質を持ち、なぜ遠ざけるべきなのかを、はっきりと知らねばなりません。 このように障害を完全に理解するためには、その障害が生じる原因を知ることが欠かせません。なぜなら、その原因を知って初めて、障害から遠ざかることができるからです。ゆえに、障害の原因を求めるべきです。 さらに、遠ざけるべきものを遠ざけなかった場合、どのような過ちや苦しみが生じるかを十分に認識することも重要です。そのため、障害がもたらす過ちについても、しっかりと見極めるべきです。 そして、障害を遠ざけた後には、次のような問いを立てるべきです。「これらの障害は、どうすれば未来に再び生じないようにできるのか？」と。そのために、対治法の修行を求め実践するのです。 これらの原因によって、心は清らかにされ、あらゆる障害から解放されます。

當知此中，由隨順教有眾多故，毘鉢舍那亦有眾多；毘鉢舍那有眾多故，令奢摩他亦有眾多。又復即此毘鉢舍那，由所知境無邊際故，當知其量亦無邊際。謂由三門及六種事，一一無邊品類差別，悟入道理。

> ここで知っておくべきことは、教えに従う道筋が多いから、観察の修行（毘鉢舍那）にも多くの種類があるということです。観察の修行に多くの種類があるので、それによって心を静める修行（奢摩他）にも多くの種類が生まれます。また、この観察の修行は、認識すべき対象の世界に限りがないため、その範囲にも限りがないと知るべきです。つまり、三つの門と六つの事柄によって、ひとつひとつに無限の種類の違いがあり、それを通して道理を理解していくのです。

正修行者如如毘鉢舍那串習清淨增上力故，增長廣大；如是如是能生身心所有輕安奢摩他品，當知亦得增長廣大。如如身心獲得輕安，如是如是於其所緣心一境性轉得增長；如如於緣心一境性轉復增長，如是如是轉復獲得身心輕安。心一境性、身心輕安，如是二法展轉相依，展轉相屬。身心輕安、心一境性，如是二法若得轉依，方乃究竟。得轉依故，於所知事現量智生。

> 正しく修行を続けていくと、毘鉢舎那（観察の智慧）を繰り返し身につけ、清らかになる力が強まるにつれて、その智慧はますます大きく成長していきます。それとともに、心と身体に安らぎをもたらす奢摩他（心の静けさ）の境地も、また大きく成長していくものと知るべきです。 心と身体が安らぎを得れば得るほど、心が一つの対象に集中する「心一境性」もまた成長していきます。逆に、心が対象に集中する力が増せば増すほど、心と身体の安らぎもまた増していきます。 「心一境性」と「身心の軽安（安らぎ）」というこの二つの法（はたらき）は、互いに支え合い、互いに属し合っています。そして、この二つが完全に身につき、根本的な転換（転依）を遂げて初めて、修行は完成に至ります。その転依が成就した時にはじめて、知るべき事柄について、直接的な智慧（現量智）が生まれます。

問：齊何當言究竟獲得不淨觀耶？乃至齊何當言究竟獲得阿那波那念耶？

> 問：どこまで修すれば、不浄観を究竟的に獲得したと言えるのでしょうか。また、どこまで修すれば、阿那波那念を究竟的に獲得したと言えるのでしょうか。

答：以要言之，修觀行者於不淨觀正加行中，親近、修習、多修習故。若行、若住雖有種種境界現前，雖復觀察所有眾相，而住自性，不由加行，多分不淨行相顯現，非諸淨相。由於不淨善修習故，於能隨順貪欲纏處法，心不趣入、心不愛樂、心不信解，安住於捨，深生厭逆。當於爾時，修觀行者應自了知：我今已得不淨觀，我今已得所修果。齊此名為於不淨觀已得究竟。與此相違，當知名為未得究竟。如不淨觀，如是慈愍、緣性緣起、界差別、阿那波那念念，當知亦爾。

> 端的に言えば、修行者が不浄観を正しく実践し、親しみ、習い、繰り返し修めることによって、歩いている時も留まっている時も、様々な境が現前しても、それらの相を観察しても、本来の性質に留まり、特に努力しなくとも、多くの場合、不浄の相が現れて、清浄な相ではないのです。不浄をよく修めたことにより、貪欲の煩悩が起こりやすい場面に出会っても、心はそれに染まらず、喜ばず、信解せず、平等な心（捨）に留まり、深く嫌悪・厭離するようになります。その時、修行者は自ら知るべきです。「私は今、不浄観を得た。修行の果を成就した。」と。ここまでが、不浄観における究極の境地です。これに反する場合は、未だ究極を得ていないと知るべきです。不浄観のように、慈愍観、縁性縁起観、界差別観、阿那波那念（数息観）についても、同様であると知るべきです。

於中差別者，謂多分慈心行相顯現，非瞋恚相。於能隨順瞋恚纏處法，心不趣入，乃至廣說。多分無常、苦、空、無我行相顯現，非彼常、樂、身見俱行愚癡行相。於能隨順愚癡纏處法，心不趣入，乃至廣說。多分種種界性、非一界性身聚差別相想顯現，非身聚想。於能隨順憍慢纏處法，心不趣入，乃至廣說。多分內寂靜想、奢摩他想顯現，非戲論想。於能隨順尋思纏處法，心不趣入，乃至廣說。

> これらの違いについて説明します。 慈しみの心の現れ方が大部分を占め、怒りの様相は現れません。また、怒りの煩悩が生じやすい状況や物事に対して、心が向かわなくなります。その詳細は後に述べます。 無常・苦・空・無我という心の現れ方が大部分を占め、常・楽・身見を伴った愚かさの様相は現れません。そして、愚かさの煩悩が生じやすい状況や物事に対して、心が向かわなくなります。その詳細は後に述べます。 様々な要素の違いや、一つの要素ではないこと、身体の集まりとしての区別やその特徴を思い描くことが大部分を占め、身体の集まりとしての捉え方は現れません。また、慢心の煩悩が生じやすい状況や物事に対して、心が向かわなくなります。その詳細は後に述べます。 内なる静けさや心の統一（奢摩他）を思い描くことが大部分を占め、概念や分別による戯れの考えは現れません。そして、様々な思索や煩悩が生じやすい状況や物事に対して、心が向かわなくなります。その詳細は後に述べます。

問：齊何當言奢摩他毘鉢舍那二種和合平等俱轉？由此說名雙運轉道。

> 問：どの程度まで達したら「奢摩他（しゃまた）」と「毘鉢舎那（びばしゃな）」の二つが調和し、平等に共に働いていると言えるのでしょうか。その状態を「双運転道」（二つが並行して進む道）と呼びます。

答：若有獲得九相心住中第九相心住，謂三摩呬多。彼用如是圓滿三摩地為所依止，於法觀中修增上慧。彼於爾時，由法觀故，任運轉道，無功用轉，不由加行，毘鉢舍那清淨鮮白，隨奢摩他調柔攝受，如奢摩他道攝受而轉。齊此名為奢摩他、毘鉢舍那二種和合平等俱轉。由此名為奢摩他、毘鉢舍那雙運轉道。

> 答：もし九つの心の住処（九相心住）の中でも、第九番目の心の住処、すなわち「三摩呬多（安定した心の状態）」に達したならば、その人はこの完全な三摩地（瞑想の統一）を基盤として、法（真理）の観察において、より高次の智慧を修めます。その時、法の観察によって、自然に進む道に任せ、努力を要さずに動き、特別な修行の努力なしに、毘鉢舍那（観察の智慧）は清らかで明瞭になり、奢摩他（心の静寂）に従って調和し、その道に沿って作用します。ここに至って、これが奢摩他と毘鉢舍那の二つが調和し、平等に共に働く状態であり、これが奢摩他・毘鉢舍那の両方が同時に進む道と呼ばれます。

中嗢柁南曰：

> ここで、総括の偈（うた）が説かれています。

相、尋思、伺察， 隨行有三門。義、事、相、品、時、 理，六事差別。初相應加行， 次串習、無緩、無顛倒、應時、 解了、無厭足、不棄捨善軛， 最後正加行，是九應當知， 有二品差別。知自性、因緣， 見彼諸過患，正修習對治， 令障得清淨。

> 表象（相）、考え巡らすこと（尋思）、細かく調べること（伺察）── こうした心の働きには、三つの門が伴って現れます。 意味（義）・事柄（事）・特色（相）・分類（品）・時機（時）・道理（理）── これら六つの観点から、違いを見分けます。 はじめに、心を調えて修行に取り組み（相応加行）、次に繰り返し練習し（串習）、怠らず（無緩）、 誤りなく（無顛倒）、時にかなって（応時）、正しく理解し（解了）、飽くことなく（無厭足）、 善い努力を捨てず（不棄捨善軛）── 最後に、正しい修行そのもの（正加行）に至ります。 この九つの要素をよく知るべきであり、これには二つの種類の違いがあります。 自らの本質（自性）と、その原因となる縁（因縁）を知り、 それらの様々な欠点（過患）を見極め、 正しく対治法（対治）を修習することで、 妨げとなるもの（障）を清らかにします。