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title: "瑜伽師地論 · 2"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
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## 瑜伽師地論卷第三十二

> 瑜伽師地論 第三十二巻

彌勒菩薩說

> 弥勒菩薩の教え

三藏法師玄奘奉　詔譯

> 三蔵法師玄奘奉詔訳

### 本地分中聲聞地第十三第三瑜伽處之三

> 瑜伽处の第三（声聞地第十三 第三瑜伽处の三）

云何初修業者始修業時，於修作意如應安立，隨所安立正修行時，最初觸證於斷憙樂心一境性？

> 質問：修行を始めたばかりの者は、修行を始める時、修行の心構え（作意）をどのようにして適切に確立し、その確立に従って正しく修行を進める中で、初めて煩悩を断ち切る喜びと心の統一を実感するのでしょうか？

謂善通達修瑜伽師，最初於彼依瑜伽行初修業者，如是教誨：善來賢首！汝等今者應依三種取相因緣，或見、或聞、或心比度增上分別，取五種相。一、厭離相，二、欣樂相，三、過患相，四、光明相，五、了別事相。

> よく修行に通じたヨーガの先生は、初めてヨーガの行に取り組む人に対して、このように教え諭します。 「よく来た、尊い方々よ。あなたがたは今、三つの捉え方の縁——すなわち、見ること、聞くこと、あるいは心で比べ考えることによる勝れた分別によって——五つの相を捉えるべきです。 一、厭離の相（世を厭い離れる様子） 二、欣楽の相（善いものを喜び楽しむ様子） 三、過患の相（苦しみや害の様子） 四、光明の相（明るく照らす様子） 五、了別事の相（物事をはっきりと見分ける様子）です。」

問：若依瑜伽行初修業者是其貪行，由不淨觀方可調伏，云何教彼取五種相？

> 問い：もし瑜伽行の初めて修行を始める者で、貪りの傾向が強い場合、不浄観によって調伏できるとされるが、どのようにしてその者に五つの相を取らせるべきか。

答：應如是教誨：善來賢首！汝等隨所依止彼彼聚落村邑而住於中，若聞所餘彼彼村邑聚落，或男或女，先受安樂，後遭苦厄。或彼男女自遭重病，命終殞沒。或彼男女所有知識、親戚、眷屬遭如是苦。或彼聚落村邑邊際喪失財寶，或是他來強敵所作，或火所燒，或水所漂，或由惡作而有喪失，或由不善修營事業而有喪失，或由不善處分事業而有喪失，或為非愛共財得便而有喪失，或由家火而有喪失。若汝現見，非是傳聞；或即於此村邑聚落，非是所餘村邑聚落；或非是此村邑聚落，亦非他人，即汝自身；先所觸證猛利樂受，後還退失，廣說如前。汝既如是聞已、見已，應當生起深心厭患。如是生死甚為重苦，所得自體極大艱辛，而於其中有如是等自他衰損差別可得。謂病衰損、壽命衰損、眷屬衰損、財寶衰損，病、病法性，死、死法性。復有一類，淨戒衰損、正見衰損。由是因緣，彼諸眾生於現法中住諸苦惱，於當來世往諸惡趣。諸興盛者，雖現法中住諸安樂，於當來世往諸善趣，而是無常，於彼無常現可證得。若有領受興盛事者，後時衰損定當現前；諸有領受衰損事者，後時興盛難可現前。諸興盛事，皆是難得易失壞法。如是汝應深心厭患，極善作意，如理受持。如是處所，難可保信。我今於是生死流轉，未般涅槃，未解脫心，難可保信如是衰損、興盛二法，勿現我前。勿彼因緣，令我墮在如是處所，生起猛利、剛強、辛楚、不適意苦。即由此事增上力故，我當至誠喜樂於斷，修不放逸。又我如是多安住故，當於無義能作邊際。如是汝應善極作意，如理受持。

> 次のように教え諭すべきです。 「ようこそ、善き方々よ。あなたがたは、それぞれ住んでいる村や町に留まっていることでしょう。もし、他の村や町で、ある男性か女性が、まず安楽を受け、後に苦しみに遭ったと聞いたなら——あるいは、その男性か女性自身が重い病にかかり、命を落としたなら——あるいは、その人々の知人、親戚、家族がそのような苦しみに遭ったなら——あるいは、その村や町の境で財宝を失ったなら——それは、他からの強敵によるものか、火事によるものか、水害によるものか、悪行による喪失か、事業の不適切な営みによる喪失か、処置の誤りによる喪失か、好ましくない共同財産の横領による喪失か、自家の火事による喪失かもしれません。 もしあなたがたが、それを伝聞ではなく、自らの目で見たなら——それが、まさにこの村や町の中でのことであり、他の村や町でのことではないなら——あるいは、他の誰かではなく、あなた自身のことなら——かつて味わった激しい楽しい感覚が、後に失われてしまったなら——（先に述べたように）——あなたは、それを聞き、見て、心の底から厭い、憂える心を起こすべきです。『この生死（しょうじ）は実に重い苦しみである。得たこの身体は、極めて艱難（かんなん）なものである。そして、そこにはこのような、自他の衰えや損ないの違いがある。すなわち、病による衰え、寿命による衰え、家族による衰え、財宝による衰え、病そのもの、死そのものである。またある者は、清らかな戒めの衰え、正しい見解の衰えがある。それによって、それらの人々は現世で諸々の苦しみに住み、来世では悪い世界に行くのである。一方、栄えている人々は、現世では安楽に住みながらも、来世では良い世界に行くのである。しかし、それは無常であり、その無常は現に証（あかし）される。もし栄えることを受けたなら、後には衰えが必ず現れる。もし衰えることを受けたなら、後には栄えが現れ難い。栄えの事柄はすべて、得難く、失われ壊れやすい性質のものである。』 このように、あなたは心の底から厭い、よく心を留め、道理に従って受け止めるべきです。『このような場所は、頼りにできるものではない。私は今、この生死の流転の中にあって、まだ涅槃（ねはん）に至らず、心が解脱（げだつ）していない。このような頼りにならない衰えと栄えの二つの法が、私の前に現れませんように。それによって私が、そのような場所に陥り、激しく、強く、辛く、不快な苦しみを生じることがありませんように。まさにこのことの力を強くして、私は心から断つことを喜び、放逸（ほういつ）しないように修行しよう。そして、このように多く安住することによって、無意味なことの限りを為すことができるだろう。』 このように、あなたはよく心を留め、道理に従って受け止めるべきです。」」

汝取如是厭離相已，復應精勤取欣樂相。當自觀察所受尸羅，為善清淨？為不清淨？我或失念、或不恭敬、或多煩惱、或由無知，於諸學處有所違犯。既違犯已，我當如法以其本性增上意樂，於諸學處發起深心，更不毀犯。我於所作當正應作，於非所作不復當作。以要言之，於諸學處，當令增上意樂圓滿，亦令所有加行圓滿。汝於如是正觀察時，若自了知戒蘊清淨，雖不作思：我當發起清淨無悔。然其法爾尸羅淨者，定生如是清淨無悔。若起如是清淨無悔，雖不作思：我起歡悅。然其法爾無有悔者，定生歡悅。如是且於一種歡悅所依處所，汝應生起清淨無悔為先歡悅。復於除障喜悅處所，當生喜悅。謂我今者尸羅清淨，有力有能安住世尊所制學處；於現法中，能得未得、能觸未觸、能證未證。

> あなたはこのような厭離の相を取ったなら、さらに精進して欣楽の相を取るべきです。 自ら戒律を受けた状態を観察しなさい——よく清められているか、清められていないかを。 私はあるいは心を失い、あるいは恭敬せず、あるいは多くの煩悩があり、あるいは無知によって、様々な学処に違反することがある。 もし違反してしまったなら、私は法の通りに、その本質と向上した意楽をもって、学処に対して深い心を起こし、再び毀犯しないようにしよう。 私はなすべきことを正しく行い、なすべきでないことは再び行わないようにしよう。 要するに、すべての学処において、向上した意楽を円満にし、またすべての加行も円満にしよう。 あなたがこのように正しく観察する時、もし自らの戒の塊が清らかであると知れば、たとえ「清らかで後悔のない状態を起こそう」と思わなくても、法の理として、戒律が清らかな者は必ずこのような清らかで後悔のない状態を生じる。 もしこのような清らかで後悔のない状態が生じれば、たとえ「喜びを起こそう」と思わなくても、法の理として、後悔のない者は必ず喜びを生じる。 このように、まず一つの喜びの拠り所として、あなたは清らかで後悔のない状態を先行する喜びとして生じさせなさい。 次に、障害を取り除く喜びの拠り所において、喜びを生じさせなさい。 すなわち——私は今、戒律が清らかであり、力と能力があり、世尊の定められた学処に安住している。 この現世において、未だ得ざるを得、未だ触れざるに触れ、未だ証せざるを証すことができるのだ。

由是處所生喜悅意。若汝獲得前後所證少分差別，即由如是增上力故，於他圓滿所證差別，謂諸如來、或聖弟子，及自後時所證差別，當生信解，發喜悅意。如是行相諸適悅意，先名歡悅，今名喜悅。總名悅意。如是名為取欣樂相。

> このような場から生じる喜びの心について。もしあなたが、前後に得た悟りのわずかな違いを得たなら、そのような増上の力によって、他の人が完全に得た悟りの違い——すなわち如来や聖なる弟子たち、そして自分自身が後に得る悟りの違いに対して——信解を起こし、喜びの心を発するべきである。このような形で生じる全ての心地よさは、以前は「歓悦」と呼ばれ、今は「喜悦」と呼ばれる。総じて「悦意」という。これを「欣楽の相を取る」と名づける。

取是相已，復應教授。告言：賢首！汝由如是厭離相故，調練其心；復由如是欣樂相故，滋潤其心，汝於斷滅世間貪憂應多安住。隨於彼彼所緣境界勤修加行，或奢摩他品、或毘鉢舍那品；即於彼彼所緣境界，當令心住內住、等住。汝當獲得身心輕安及一境性。

> このようなイメージを得たら、さらに指導をするべきである。「善き方よ、あなたはこのような離欲のイメージによって心を鍛え、このような喜びのイメージによって心を潤した。あなたは、世間の貪りや憂いを断ち滅ぼすために、その心をよく保ちなさい。そして、それぞれの対象に対して、努めて修行を積み、奢摩他（止）の側面であれ、毘鉢舎那（観）の側面であれ、その対象に心を留め、内に留め、等しく留めなさい。そうすれば、あなたは身体と心の軽安、そして一境性を得るであろう。」

汝若如是背諸黑品，向諸白品，由調練心、滋潤心故，復應數數取過患相。謂於所有諸相、尋思、及隨煩惱，取過患相。言諸相者，謂色等十相。言尋思者，謂欲等八。隨煩惱者，謂貪欲等五。汝應於彼取過患相。如是諸相，能令其心作用遽務；如是尋思，能令其心思慕躁擾；如是隨煩惱，能令其心恒不寂靜。若心作用，諸相所作；思慕躁擾，尋思所作；恒不寂靜，隨煩惱所作；由是令心苦惱而住。是故如是諸相、尋思及隨煩惱，是苦非聖，能引無義。令心散動、令心躁擾、令心染污。汝應如是取過患相。又汝應依心一境性、心安住性、心無亂性，以六種行正取其相。何等為六？一、無相想；二、於無相中，無作用想；三、無分別想；四、於無分別中，無所思慕無躁擾想；五、寂靜想；六、於寂靜中，離諸燒惱寂滅樂想。

> もしあなたがこのようにして、あらゆる悪しき性質（黒品）を離れ、善き性質（白品）に向かい、心を調え、心を潤すならば、さらに繰り返し過ちの相（過患相）を捉えるべきである。 すなわち、あらゆる「相（すがた）」、「尋思（めぐらし）」、「随煩惱（ずいぼんのう）」において、過ちの相を捉えるのである。 「相」とは、色など十の相のことである。 「尋思」とは、欲など八つの尋思のことである。 「随煩惱」とは、貪欲など五つの随煩惱のことである。 あなたはそれらに対して、過ちの相を捉えるべきである。 このような「相」は、心を忙しく働かせるもととなる。 このような「尋思」は、心を思い悩ませ、落ち着かなくさせる。 このような「随煩惱」は、心を常に静まらないものにする。 もし心が働くのは、相のせいである。 思い悩み、落ち着かないのは、尋思のせいである。 常に静まらないのは、随煩惱のせいである。 これらによって、心は苦しみにとらわれてしまう。 したがって、これらの相、尋思、随煩惱は、苦しみであり、聖なるものではなく、無意味な結果を招き、心を散乱させ、心をかき乱し、心を汚すものである。 あなたはこのようにして、過ちの相を捉えるべきである。 さらに、あなたは心の一境性（一点集中）、心の安住、心の不乱に依って、六つの行（修行方法）をもって正しくその相を捉えるべきである。 その六つとは何か。 一、無相の想い。 二、無相の中において、作用しないという想い。 三、無分別の想い。 四、無分別の中において、思い慕うこともなく、かき乱されることもないという想い。 五、寂静の想い。 六、寂静の中において、あらゆる焼け悩む煩悩を離れ、寂滅の楽しみがあるという想い。

汝取如是過患相已，復應數數取光明相。謂或燈明、或大火明、或日輪明、或月輪明。

> そのような過ちの相をしっかりと認識したならば、次に何度も光明の相に心を向けるべきです。つまり、ともしびの明かり、大火の明かり、太陽の光、月の光などです。

既取如是光明相已，復詣塚間取青瘀相，廣說乃至取骨鎖相。汝若不能往詣塚間，當取彩畫、木、石所作如是諸相。

> そのような光明の相を観じたならば、次に墓場へ行って青瘀（あおくさった）相を観じ、さらに広く説いて骨鎖の相に至るまでを観じなさい。もし墓場へ行くことができないならば、彩色や木や石で作られたこれらの相を観じなさい。

取是相已，還所住處，或阿練若、或林樹下、或空閑室、或在大床、或小繩床、或草葉座，先洗足已，結跏趺坐，端身正願，安住背念。先於一境令心不散，繫念在前。復於其中，依六種想作意思惟。謂無相想、無分別想、寂靜想、無作用想、無所思慕無躁擾想、離諸燒惱寂滅樂想。

> この相を観じ終えたなら、自らの住まいである阿練若（あらにゃじゃ：静かな修行の場）や林の木陰、あるいは閑散とした部屋、大きな寝台や小さな縄の床座、草や葉で作った座に戻り、まず足を洗ってから、結跏趺坐（けっかふざ：足を組んで座る姿勢）を組み、身を正しく整え、正しい願いを立て、念を背に安住させる。 まず一つの対象に心を集中させ、散らばらせず、その念を眼前にとどめる。そしてさらに、その中で六つの想い（概念）に従って深く思惟（しゆい：考えをめぐらすこと）する。すなわち、無相の想い、無分別の想い、寂静の想い、無作用の想い、慕い求めることも躁（さわ）ぐこともない想い、そしてすべての悩みや苦しみを離れ、静かな安らぎの喜びである想い

又於其中，汝當審諦周遍了知亂不亂相，分明現前。如如審諦周遍了知亂不亂相，如是如是汝能了知諸相、尋思、隨煩惱中所有亂相，及能了知心一境性隨六想修諸不亂相。

> さらに、その中で、あなたは一つひとつをていねいに吟味し、心が乱れている状態と乱れていない状態の兆しを、はっきりと目の当たりにしなさい。そのように、慎重に乱れと不乱の兆しをあまねく知り尽くすなら、あなたは様々な兆し、思考の働き、煩悩の中で起こるすべての乱れの兆しを理解し、さらに心が一つの対象に集中する状態（心一境性）という、六つの想いに基づいて修行される乱れのない兆しをも理解できるようになるのです。

又汝於此亂不亂相，如是如是審諦了知，便能安住一所緣境，亦能安住內心寂止，諸心相續、諸心流注，前後一味，無相、無分別，寂靜而轉。

> また、あなたはこの乱れている相と乱れていない相とを、このようにこのように仔細にありのままに了知することで、一つの所縁の境に安住することができ、また内心の寂止にも安住することができるようになります。心の相続、心の流れが、前後一体となり、相もなく、分別もなく、静寂のままに働くのです。

又若汝心雖得寂止，由失念故，及由串習諸相、尋思、隨煩惱等諸過失故，如鏡中面所緣影像，數現在前；隨所生起，即於其中當更修習不念作意。謂先所見諸過患相增上力故，即於如是所緣境相，由所修習不念作意，除遣散滅，當令畢竟不現在前。賢首當知！如是所緣甚為微細，難可通達。汝應發起猛利樂欲，為求通達，發勤精進。

> また、たとえあなたの心が寂止を得ていても、\*\*失念\*\*（気づきを失うこと）や、\*\*相\*\*（対象のイメージ）、\*\*尋思\*\*（思考）、\*\*随煩悩\*\*（付随する煩悩）などの過ちに慣れ親しんでいるために、鏡の中の顔が映るように、所縁の影像が何度も心に現れることがあるでしょう。 そのような場合、それが生じるたびに、\*\*不作意\*\*（意図的に注意を向けないこと）をさらに修行しなさい。具体的には、先に見た様々な過ちの様相をより強く認識することで、修行した不作意の力によって、その所縁の影像を除き去り、滅ぼし、最終的に心に全く現れないようにしなさい。 \*\*賢者よ、知るべきです。このような所縁は非常に微細で、理解しがたいものです。あなたは、この理解を得るために、強い喜びと願いを起こし、熱心に努力しなさい。\*\*

世尊依此所緣境相，密意說言：汝等苾芻，當知眾善。言眾善者，謂於大眾共集會中，盛壯美色。即此眾善最殊勝者，謂於多眾大集會中，歌舞倡伎。假使有一智慧丈夫，從外而來，告一人曰：咄哉！男子！汝於今者，可持如是平滿鉢油，勿令灩溢；經歷如是大眾中過，當避其間所有眾善，及諸最勝歌舞倡伎、大等生等。今有魁膾，露拔利劍隨逐汝行。若汝鉢油一滴墮地，此之魁膾，即以利劍當斬汝首，斷汝命根。苾芻！汝等於意云何？是持鉢人，頗不作意專心油鉢、拔劍魁膾、不平地等，而能作意觀視眾善，及諸最勝歌舞倡伎大等生耶？不也，世尊！何以故？是持鉢人，既見魁膾，露拔利劍隨逐而行，極大怖畏，專作是念：我所持鉢油既彌滿，經是眾中極難將度；脫有一滴當墮地者，定為如是拔劍魁膾當斬我首，斷我命根。是人爾時，於彼眾善及諸最勝歌舞倡伎、大等生等，都不作意、思念、觀視，唯於油鉢專心作意而正護持。

> 世尊は、この所縁の境相に基づいて、密かに次のように説かれました。「汝らの比丘たちよ、知るがよい。『衆善』とは、大いなる集会の中に集まった人々の、盛んで美しい姿をいう。その中でも最も殊勝なものとは、多くの人々が集う大集会の中で行われる歌舞や芸能である。ここで、もし一人の智慧ある人物が外から来て、ある人にこう告げたとする。『おい、あなたよ。今、この油を満たした鉢を、一滴もこぼさぬように持ち、この大衆の中を通り抜けよ。その間、あらゆる衆善や、最も優れた歌舞・芸能、その他すべてのものを避けて通らねばならない。今、あなたの後ろには、残酷な執行人が抜き身の剣を携えて従っている。もし、あなたの鉢の油が一滴でも地面に落ちれば、この執行人はその剣であなたの首を斬り、命を断つであろう。』」 「比丘たちよ、あなたがたはどう思うか。この鉢を持つ人は、油の鉢と抜き身の剣を持つ執行人と平らでない地面に一心にならずして、衆善や最も優れた歌舞・芸能などを注意して見ることができるだろうか。」 「いいえ、世尊。なぜなら、その鉢を持つ人は、執行人が抜き身の剣を露わにして従って来るのを見て、大きな恐怖を抱き、こう専念して思うからです。『私が持つ鉢の油は満ちている。この大衆の中を通り抜けるのは非常に難しい。もし一滴でも地面に落ちることがあれば、きっとこの剣を持つ執行人が私の首を斬り、命を断つだろう。』その人は、その時、あらゆる衆善や最も優れた歌舞・芸能などに対して、一切注意を向けず、思いを巡らせず、見ようともせず、ただ油の鉢にのみ心を集中して、正しく守り持つのです。」

如是苾芻！我諸弟子，恭敬殷重，專心憶念修四念住，當知亦爾。言眾善者，喻能隨順貪欲纏等隨煩惱法。於中最勝歌舞倡伎，喻能隨順尋思戲論躁擾處法。大等生等，喻色相等十種相法。智慧丈夫，喻瑜伽師。平滿油鉢，喻奢摩他所安住心，能令身心輕安潤澤，是奢摩他義。露拔利劍隨行魁膾，喻先所取諸相、尋思、隨煩惱中諸過患相。專心將護，不令鉢油一滴墮地，喻能審諦周遍了知亂不亂相之所攝受奢摩他道。由是能令諸心相續、諸心流注；由精進力，無間策發。前後一味，無相、無分別，寂靜而轉；不起一心復緣諸相，或緣尋思及隨煩惱。

> そこで、比丘たちよ。私の弟子たちが、敬い重んじ、心を集中し、四念住を修するならば、同じようにあると知るべきである。「衆善」とは、貪欲の束縛などの随煩惱に順ずる法をたとえる。その中で最も優れた歌舞や芸能は、思索や戯論、躁動や悩乱をともなう処に順ずる法をたとえる。「大等の生等」とは、色相等の十種の相法をたとえる。「智慧ある丈夫」とは、瑜伽師をたとえる。「平らに満たされた油鉢」とは、奢摩他（止）に安住した心をたとえ、身心を軽やかで潤いのあるものにするのが奢摩他の意味である。「抜き身の剣を露わにし、後ろに従う魁膾」とは、先に取った諸々の相、思索、随煩惱の中における諸々の過患の相をたとえる。心を集中して守り、鉢の油を一滴も地面に落とさないようにすることは、熟慮しつつ周く遍く知り、乱れる相と乱れない相を了知することによって保持される奢摩他の道をたとえる。これによって、心の相続と心の流注を、精進の力により間断なく励まし、前後に一味となり、相無く、分別無く、寂静のままに転じさせる。一つの心を起こして再び諸々の相や思索、随煩惱に縁じることはない。

是瑜伽師復應如是慇懃教誨於奢摩他初修業者。告言：賢首！汝若如是精勤修習奢摩他道，如是方便，攝受正念、正知俱行有喜樂心，乃名善修奢摩他道。若復串習諸過失故，不能於中深心喜樂，極大艱辛勵力策發方現前者；還應速疾出無分別所緣境相，於有分別所緣境相繫念在前，如先所取諸不淨相。

> そこで、瑜伽師はまた、次のようにして、奢摩他（しゃまた）を初めて修行する者に対して、心を込めて教え導くべきです。 「賢者よ、あなたがこのように精進して奢摩他の道を修行し、この方法によって正念と正知を共に保ち、喜びの心を持ちながら実践するならば、それは奢摩他の道をよく修行していると言えるでしょう。 しかし、様々な過失に繰り返し囚われてしまい、この修行に心から喜びを見出せず、大変な苦労と努力を重ねてようやくその境地が現れるような場合は、すぐに分別を伴わない所縁の境相から離れ、分別を伴う所縁の境相に心を留めなさい。以前に捉えた不浄の相（例えば、身体の汚れや無常の観点）を、目前にしっかりと心に留めるのです。」

汝今復應作意思惟，先應用彼唯隨相行毘鉢舍那，或觀青瘀，或觀膿爛，廣說乃至觀骨、觀鎖，或觀骨鎖。汝於如是初修觀時，於一青瘀，廣說乃至於一骨鎖，當起勝解。

> あなたは今、もう一度よく考えを巡らせるべきです。まずは、ただ「相」に従って観察するヴィパッサナー（観察）を用いなさい。あるいは青瘀（青黒く変色した跡）を観じ、あるいは膿爛（膿で爛れた様子）を観じ、さらには骨を観じ、骨格（骨の連なり）を観じ、あるいは骨格の全体を観じなさい。このような初期の修行では、一つの青瘀、さらには一つの骨格に対して、明確な理解（勝解）を起こしなさい。

若於其中已串修習，觀道明淨，於所緣相明了勝解相續轉時，復應於二、於三、於四、於五、於十、二十、三十、四十、五十，或百青瘀、或千青瘀，乃至一切諸方諸維所有青瘀，起無量行遍一切處無間勝解，於中乃至無有容受一杖端處。如於青瘀，如是乃至骨鎖亦爾。

> もしその中で既に修行を積み、観察の道が明らかになり、対象となるイメージがはっきりと理解できて、それが途切れずに続くようになったならば、さらに２つ、３つ、４つ、５つ、１０、２０、３０、４０、５０、あるいは１００の青く変色した死体、または１０００のそのような死体へと進め。そして、あらゆる方角や場所すべての青く変色した死体にわたって、限りない行いを起こし、全体に余すところなく、針の先端ほどの隙間もないほどに、はっきりとイメージを広げなさい。青く変色した死体の場合と同様に、骨の連なりについても、同じように行いなさい。

汝依如是勝解作意，應當趣入真實作意。於趣入時應作是念：如我今者勝解所作無量青瘀，廣說乃至無量骨鎖，真實青瘀乃至骨鎖，其量過此不可數知。所以者何？從前際來，於彼彼有、彼彼趣中，輪迴生死。我所曾經命終夭沒所棄尸骸、所起青瘀，廣說乃至所起骨鎖，無量無邊。如是所起，推其前際不可知故。假使有能攝聚如是所棄尸骸，令不壞爛，一切大地亦不容受。於一劫中所棄尸骸，乃至骨鎖，假使有能斂在一處，其聚量等廣大脅山。如從前際，後際亦爾，乃至未能作苦邊際。如是汝依勝解作意，應當趣入真實作意。

> あなたはこのような勝解作意に依って、真実作意に入るべきである。入る時には、次のように考えなさい。今、私が勝解によって作り出した無量の青瘀（あおざめ）や、さらには無量の骨鎖（骨の連なり）は、実在の青瘀や骨鎖に比べれば、その量は計り知れないほど少ない。なぜなら、過去世より、あらゆる生存や境涯の中で生死を輪廻し、私がかつて命終えて捨てた死骸から生じた青瘀、さらには骨鎖は、無量無辺だからである。このように生じたものは、過去の限りを知ることができない。もし、捨てられたそれらの死骸を集めて腐敗させないようにしても、全大地でさえも収容しきれない。一劫の間に捨てられた死骸や骨鎖を、仮に一か所に集めれば、その積み重なりは広大な脅山（わきやま）に等しい。過去世がそうであるように、未来世もまた同じであり、苦の終わりを悟るまでは続く。このように、あなたは勝解作意に依って、真実作意に入るべきである。

又非修習如是青瘀乃至骨鎖毘鉢舍那應頓觀察。纔應於一尸骸青瘀起勝解已，尋復令心於內寂靜。乃至於此所緣境相喜樂明淨，無諸擾惱，不強勵力。齊爾所時，應於如是尸骸青瘀發起勝解。若纔於此乃至勵力方現在前，爾時於內應修寂靜。如於青瘀，乃至骨鎖，當知亦爾。由此道理，乃至無量，當知亦爾。如是令心內寂靜已，復應發起寂靜勝解。謂從最後無量青瘀，乃至最後無量骨鎖，內略其心，方便除遣，安置眾相不顯現中。不全棄捨有分別相，亦不分別。唯即於此所緣境界安住其心，無相、無分別，寂靜而轉。

> また、このような青瘀（あおざ）から骨鎖（こっさ）に至るまでの毘鉢舎那（ヴィパッサナー）を修行するにあたっては、一度にすべてを観察しようとしてはいけません。 まず、一つの死体の青瘀について勝解（しょうげ）を起こしたなら、すぐに心を内に向けて寂静（じゃくじょう）に留めなさい。 そして、その所縁の境相（きょうそう）に対して喜び・明らかさ・清らかさがあり、悩乱（のうらん）がなく、無理に努力を強いられることがない――その状態に達するまで、この死体の青瘀について勝解を起こし続けなさい。 もし、この状態に達するまでに努力を要するならば、その時は内に向けて寂静を修めなさい。 青瘀の場合と同様に、骨鎖に至るまでの場合も、同じように理解すべきです。 この道理によって、無量（むりょう）の場合も同じように理解すべきです。 このようにして心を内に寂静させたなら、さらに寂静の勝解を起こしなさい。 すなわち、最後の無量の青瘀から、最後の無量の骨鎖に至るまで、心を内に収めて、方便（ほうべん）によって除き去り、あらゆる相（そう）を現さない状態に安置しなさい。 分別（ふんべつ）ある相をすべて捨て去るのでもなく、また分別することもありません。 ただ、この所縁の境界にそのまま心を安住させ、無相（むそう）・無分別（むふんべつ）のまま、寂静に進み行くのです。

彼瑜伽師復應教授。告言：賢首！汝先所取諸光明相，於奢摩他品加行中，及於毘鉢舍那品加行中，皆應作意，如理思惟。若汝能以光明俱心、照了俱心、明淨俱心、無闇俱心，修奢摩他、毘鉢舍那，如是乃為於奢摩他、毘鉢舍那道修光明想。若有最初於所緣境多不分明，數習勝解，其相闇昧；由是因緣，後所修習所有勝解亦不分明；雖多串習，而相闇昧。若有最初於所緣境多分分明，數習勝解，其相明了；由是因緣，後所修習轉復分明；雖少串習，而相明了。如是汝由善取如是厭離相故，善取如是欣樂相故，善取如是奢摩他相故，善取如是毘鉢舍那相故，善取如是光明相故。

> それでは、その瑜伽行者は再び教えを示すべきです。こう告げなさい。「善き方よ、汝が先に捉えた様々な光明の相について、奢摩他（止）の行における加行、また毘鉢舍那（観）の行における加行のいずれにおいても、心を留めて如理に思惟しなさい。もし汝が、光明を伴う心、照らし澄ます心、明らかに清らかな心、闇のない心をもって、奢摩他と毘鉢舍那を修するならば、これこそが奢摩他と毘鉢舍那の道において光明の想いを修めることとなる。 もし最初に、対象となる境に対して多くの部分が明らかではなく、繰り返し勝解（はっきりとした理解）を修しても、その相が曇って不明瞭であるならば、その因縁により、後に修する全ての勝解もまた明らかにならない。たとえ長く繰り返し慣れ親しんでも、その相は曇ったままだ。 反対に、もし最初に、対象となる境に対して多くの部分が明らかであり、繰り返し勝解を修して、その相が明らかであるならば、その因縁により、後に修するものはさらに明らかになる。たとえ慣れ親しむことが少なくても、その相は明らかである。 このように、汝はこの厭離の相をよく捉え、この欣楽の相をよく捉え、この奢摩他の相をよく捉え、この毘鉢舍那の相をよく捉え、この光明の相をよく捉えたのである。」

於時時中，內以寂靜；於時時中，由隨相行毘鉢舍那思擇諸法；即於不淨正修加行增上力故，於諸念住漸次趣入。將趣入時，汝應先於內身所有三十六物，始從髮毛乃至小便，善取其相。汝應於是自內身中諸不淨物，先當發起不淨勝解。數數發起此勝解已，復令其心於內寂靜。如是名為於內身中修循身觀。依自身內而發起故。次應於外諸不淨物，善取其相。汝當發起青瘀勝解，廣說乃至骨鎖勝解；或狹小勝解、或廣大勝解、或無量勝解。數數發起此勝解已，復令其心於內寂靜。如是名為於外身中修循身觀。依他外身而發起故。後復應於自身內外諸不淨物，善取其相，令心明了。又於他身內外不淨，善取其相，令心明了。於自所愛，汝當發起如是勝解。復於死已，出送塚間；至塚間已，棄之在地；棄在地已，至青瘀位、至膿爛位，廣說乃至至骨鎖位，發起勝解。數數發起此勝解已，復令其心於內寂靜。如是名為於內外身修循身觀。依自他身若內若外而發起故。汝復應於四無色蘊，由聞思增上力分別取相，於其三分發起勝解。一、於奢摩他品，二、於無散亂品，三、於毘鉢舍那品。於奢摩他品者，謂若汝心於內略時，起無相、無分別、寂靜想行，及無作用、無思慕無躁動、離諸燒惱寂滅樂想行；於所緣境無亂受等四無色蘊，剎那剎那展轉別異，唯是新新而非故故，相續流轉。汝應於此如理思惟，發起勝解。如是名為於內受、心、法修循受、心、法觀。

> 常に、心を内に向けて静かにしなさい。 常に、観察（ヴィパッサナー）の方法に従って、一つ一つの現象（法）を考察しなさい。 不浄観を正しく修める実践の力を増すことで、四念住へと徐々に進みなさい。 その悟りに入ろうとする時、まず自分の体の中にある三十六の物、すなわち髪の毛から尿に至るまで、その特徴をしっかりと捉えなさい。 この自分の体内にある様々な不浄の物に対して、まず「不浄である」という明確な理解（勝解）を起こしなさい。 この理解を何度も起こしたならば、再び心を内に向けて静めなさい。これを「内身における身随観（身に沿った観察）」と呼びます。それは自己の身体に基づいて起こされるからです。 次に、自分の身体の外にある様々な不浄の物について、その特徴をしっかりと捉えなさい。 「青瘀（あおざんで変色した状態）」という理解、さらには「膿爛」から「骨鎖（骨の連なり）」に至るまでの理解を起こしなさい。 あるいは、「狭小（限られた範囲）」という理解、「広大（広がりのあるもの）」という理解、「無量（限りないもの）」という理解を起こしなさい。 この理解を何度も起こしたならば、再び心を内に向けて静めなさい。これを「外身における身随観」と呼びます。それは他の身体に基づいて起こされるからです。 その後、再び自分自身の身体の内外にある様々な不浄の物について、その特徴をしっかりと捉え、心に明らかにさせなさい。 また、他の人の身体の内外にある不浄についても、その特徴をしっかりと捉え、心に明らかにさせなさい。 あなたが愛着するものに対して、このような理解を起こしなさい。 さらに、死後、墓場へ運ばれ、地面に捨てられ、青瘀の状態、膿爛の状態、そして骨鎖の状態に至るまでを、理解として起こしなさい。 この理解を何度も起こしたならば、再び心を内に向けて静めなさい。これを「内外身における身随観」と呼びます。それは自己の身体と他の身体、内と外に基づいて起こされるからです。 次に、あなたは四つの無色の蘊（受・想・行・識）について、聴聞と思考の力を通じて、その特徴を分別して捉えなさい。そして、その三つの区分に対して理解を起こしなさい。 第一に、奢摩他（サマタ：止）の区分、第二に、散乱しないことの区分、第三に、毘鉢舍那（ヴィパッサナー：観）の区分です。 奢摩他の区分とは、あなたの心が内に向かって集められる時、無相・無分別・寂静という想いの働きや、作用・慕求・躁動がなく、全ての苦悩を離れ寂静なる楽の想いが生じることです。 また、対象に乱されない感受・想念・意志・認識という四つの無色の蘊は、瞬間瞬間に異なり、常に新たで古いものではなく、連続して流れ続けています。 あなたはこれらを正しく思惟し、理解を起こしなさい。これを「内なる受・心・法における随受・随心・随法観」と呼びます。

於無散亂品者，謂汝於先取諸境界、緣諸境界墮不定地過去盡滅，及今失念心亂所生諸相、尋思、隨煩惱境增上受等四無色蘊，汝應於此如理作意：如是諸法，其性皆是誑幻所作，暫時而有，率爾現前，多諸過患，其性無常，不可保信。汝應如是發起勝解。如是名為於外受、心、法修循受、心、法觀。

> 散乱のないことについての教えとは、次のようなことです。あなたが以前に様々な境界（対象）を捉え、それらに執着したために、心が定まらない状態に落ちていたこと。それらはすべて過去のものとなり消え去っています。また、今現在、気を失って心が乱れることによって生じる、様々なイメージや思考、さらなる煩悩の対象となる感覚など、四つの無色の構成要素（受・想・行・識）があります。あなたはこれらの事柄に対して、あるがままに心を向けるべきです。つまり、これらのすべての現象は、その本質が幻や欺瞞のように作り出されたものであり、一時的に存在し、突然現れ、多くの欠点を伴い、その性質は無常であり、決して頼りになるものではありません。あなたはこのように理解を深めるべきです。これを、外的な感覚、心、現象について、感覚、心、現象を観察することに従う修行と言います。

於毘鉢舍那品者，謂汝善取毘鉢舍那相已，住有相、有分別作意，於有分別、有相所緣增上內所生受等四無色蘊，如理作意，思惟此法剎那剎那展轉別異，唯是新新而非故故，相續流轉。如前所說發起勝解。如是名為於內外受、心、法修循受、心、法觀。

> 毘鉢舎那（ヴィパッサナー）の品とは、あなたがその毘鉢舎那の特徴をしっかりと捉えた上で、特徴があり分別を伴う心の働きにとどまり、分別があり特徴を伴う対象に対して、内部から生じる感受・想念・意志・認識という四つの無色の集まりを、道理にかなった心の働きによって、一瞬一瞬に移り変わり、それぞれ異なり、常に新しく、決して古いままではなく、次々と流れてゆくものとして思惟することです。これは前に述べたように確かな理解を引き起こします。これを、内外の感受・心・法に対して、感受・心・法に沿った観察を修める、と言います。

如是汝由依不淨觀正修加行增上力故，於四念住當得趣入。

> このように、あなたは不浄観（ふじょうかん）の正しい修行の加行（けぎょう）の力をよりどころとして、四念住（しねんじゅう）に入ることができるでしょう。

又汝應於念住加行，時時修習勝奢摩他、毘鉢舍那。汝於如是四念住中，安住正念，隨依彼彼村邑聚落邊際而住。於心隨順、趣向、臨入所緣境界，汝應捨此所緣境相，入彼村邑聚落乞食。應當善避惡象、惡馬、惡牛、惡狗、惡蛇、惡獸、坑㵎濠塹、株杌、毒刺、泥水、糞穢，及應遠離諸惡威儀、穢坐臥具。汝應如是善護己身。若於如是諸境界相不應策發諸根，汝應於彼不作功用，善守諸根。若於如是諸境界相應當策發諸根，汝應於彼正作功用，善住正念，令諸煩惱不起現行。汝應如是善護己身、善守諸根、善住正念；於彼作意，善知其量受用飲食。又汝應與在家出家說應量語、說應理語、說應時語、說正直語、說寂靜語。一切世間非法言論，皆當遠離。雖復宣說如法言論，不應諍競。何以故？若諸士夫補特伽羅住諍競語，互相難詰，其心便住多戲論中；多戲論故，其心掉舉；心掉舉故，心不寂靜；不寂靜故，便令其心遠三摩地。如是行已，汝應速疾不捨所緣，結跏趺坐，於奢摩他、毘鉢舍那，如所取相，由恒常作及畢竟作，修瑜伽行。猶如世間鑽火方便，起無間加行及殷重加行，汝應如是恒常修作、畢竟修作。又汝應起如是願心：假使一切贍部洲人，盡贍部洲曾經壽量，今皆總集在我一身，我亦盡此無量壽命，決定於斷瑜伽作意勝奢摩他、毘鉢舍那，精勤修習，時無暫捨。由正了知如是所修瑜伽加行，有大勝果、大勝利故。何況如是少分壽量、少時存活，雖極遠去不過百年，委悉算計但須臾頃。如是汝應隨所教誨，恒常修作、畢竟修作。若為此義受習於斷，汝於此義必當獲得。汝當最初證得下劣身心輕安，心一境性，後當證得世出世間廣大圓滿。

> また、あなたは「念住」への修行において、常に「奢摩他（しゃまた）」と「毘鉢舎那（びばっしゃな）」を修めるべきです。これらの四念住の中で、正しい念を保ちながら、それぞれの村や集落の境に住むことになります。心がその対象に向かい、従い、臨むならば、あなたはその対象の相を捨てて、村や集落に托鉢（たくはつ）に入るべきです。そして、悪い象、悪い馬、悪い牛、悪い犬、悪い蛇、悪い獣、溝や堀、切り株、毒のある棘、泥水、汚物をうまく避け、また、悪い威儀や汚れた座具や臥具を遠ざけるべきです。このようにして、自分の身をしっかりと守りなさい。 もしこれらの境界の相において、諸根を働かせるべきでないなら、あなたはそれに力を注がず、諸根をしっかりと守りなさい。もしこれらの境界の相において、諸根を働かせるべきなら、あなたは正しく力を注ぎ、正しい念を保ち、煩悩が現れ出ないようにしなさい。このようにして、自分の身を守り、諸根を守り、正しい念を保ちなさい。そして、食事については、適量をわきまえて受け取りなさい。 また、在家の人にも出家の人にも、量にかなった言葉、道理にかなった言葉、時にかなった言葉、正直な言葉、静かな言葉を話しなさい。世間の非法な論議はすべて遠ざけるべきです。たとえ法にかなった言葉を語る場合でも、争ってはいけません。なぜなら、もし人が争う言葉に住み、互いに問い詰め合うなら、その心は多くの戲論（けろん）の中に留まるからです。戲論が多いと心は掉挙（じょうこ）し、心が掉挙すると静まらず、静まらないと三昧（さんまい）から遠ざかってしまいます。 このように修行したら、あなたは速やかに所縁（しょえん）を捨てずに、結跏趺坐（けっかふざ）を組み、奢摩他と毘鉢舎那において、捉えた相のままに、常に絶え間なく、また誠実に、瑜伽行（ゆがぎょう）を修めなさい。ちょうど世間で火を起こすための方法に、間断のない努力と丁寧な努力があるように、あなたも常に修め、最後まで修めなさい。 さらに、あなたはこのような願いを起こすべきです。たとえ閻浮提（えんぶだい）の全ての人々の寿命を、私一人に集め、その無量の寿命を尽くしても、必ず「断瑜伽（だんゆが）」の作意における勝れた奢摩他と毘鉢舎那を、精進して修め、一瞬も捨てないと。なぜなら、このように修める瑜伽の行いには、大きな果報と大きな利益があると正しく知っているからです。ましてや、このような短い寿命、短い期間、せいぜい百年を超えず、細かく計算すればほんの一瞬の間です。このように、あなたは教えに従って、常に修め、最後まで修めなさい。 もしこの意義のために「断」を修め習うなら、あなたはこの意義を必ず得るでしょう。あなたは最初に、下劣な身心の軽安（きょうあん）と心一境性（しんいっきょうしょう）を証得し、その後、世間と出世間の広大で円満なものを証得するでしょう。

初修業者始修業時，善達瑜伽諸瑜伽師，依不淨觀如是教誨，名正教誨；如是修行，名正修行。

> 初心者が修行を始める時、ヨガに精通した師は、不浄観を用いて次のように教え諭すべきです。これを正しい教えと呼び、このように修行することを正しい修行と呼びます。

如說貪行，是不淨觀之所調伏；如是瞋行，是慈愍觀之所調伏；乃至最後尋思行，是阿那波那念之所調伏；如其所應，皆當了知。其中差別餘趣入門，我當顯示。

> 貪りの強い性質は不浄観によって調伏されます。同様に、怒りの強い性質は慈愍観によって、そして最後に、さまよい考える性質は阿那波那念（呼吸観察）によって調伏されることを、それぞれ適切に理解すべきです。これらの違いや他の修行の入り口について、これから示しましょう。

依慈愍觀初修業者，於外親品、怨品及中庸品，善取相已，處如法坐。由利益安樂增上意樂俱行定地作意，先於一親、一怨、一中庸所發起勝解。於此三品，由平等利益安樂增上意樂俱行作意，欲與其樂。如是念言：願彼求樂諸有情類，皆當得樂。謂或無罪欲樂，或無罪有喜樂，或無罪無喜樂。次後或於二親，或於三親，或於四親，或於五親、十親、二十、三十，如前乃至遍諸方維，其中親品充滿無間發起勝解，於中乃至無有容受一杖端處。如於親品，如是於怨及中庸品，當知亦爾。

> 慈しみの観想（慈悲観）を最初に実践する人は、まず外に向かって、親しい人、嫌な人、そしてどちらでもない人に対して、その相（特徴）をしっかりと捉えた上で、適切な座に着きます。利益と安楽をもたらそうという増上の意欲（強い願い）を伴い、心を定める修行（定地作意）によって、まず一つの親しい人、一つの嫌な人、一つのどちらでもない人に対して、明確なイメージ（勝解）を起こします。 これら三種類の人々に対して、等しく利益と安楽をもたらそうという増上の意欲を伴う心で、「その人に楽を与えよう」と願います。次のように心に念じます。「どうか、楽を求める生きとし生けるものすべてが、楽を得られますように。」その楽とは、罪のない欲の楽、罪のない喜びを伴う楽、罪のない喜びを伴わない楽のいずれかです。 次に、二つの親しい人、あるいは三つ、四つ、五つ、十、二十、三十と数を増やし、先ほどと同様に、あらゆる方角にわたって、親しい人が隙間なく満ちているというイメージ（勝解）を起こします。そこには、杖の先ほどの隙間さえもありません。親しい人の場合と同様に、嫌な人やどちらでもない人に対しても、同じように行うべきだと知ってください。

又彼不捨慈愍加行，即由修習如是慈愍，於諸念住能正趣入。云何趣入？謂趣入時，應當發起如是勝解：如彼於我謂親、謂怨、謂中庸品，我既欲樂、厭背其苦。如是名為於其內身修循身觀。餘亦於彼、謂親、謂怨、謂中庸品；如我，彼亦欲樂、背苦。如是名為於其外身修循身觀。如我既爾，彼諸有情亦復如是。如我自欲求得勝樂，彼諸有情亦復如是。彼諸有情與己平等、與己相似，我當與彼利益安樂。如是名為於內外身修循身觀。此四念住，總緣諸蘊為境界故，當知說名壞緣念住。

> さらに、その修行者は慈しみと哀れみの思いを繰り返し実践することにより、このように修習した慈しみと哀れみによって、四念住へと正しく入ることができます。 では、どのように入るのでしょうか。それは、入る際に、次のような確固たる理解を起こすべきです。彼ら（他者）が私に対して、親しい者、敵、あるいは中立の人という区分を持つように、私もまた彼らに安楽を与えたいと願い、苦しみを嫌うのです。これを、自己の身体において身体を観察する修行（内身の身念住）といいます。また、彼ら（他者）についても、親しい者、敵、中立の人という区分があり、私と同じように、彼らも安楽を望み、苦しみを嫌います。これを、他者の身体において身体を観察する修行（外身の身念住）といいます。 私がそうであるように、彼らすべての生きとし生けるものもまた、同じです。私が自ら優れた安楽を得たいと願うように、彼らすべての生きとし生けるものもまた、同じように願っています。彼らは私と等しく、私と似ているのです。私は彼らに利益と安楽を与えるべきです。これを、自己と他者の両方の身体において身体を観察する修行（内外身の身念住）といいます。 これら四つの念住は、すべての五蘊（色・受・想・行・識）を総合して観察の対象とするため、「壊縁念住（はたらきの対象を壊す念住）」と呼ばれることを知るべきです。

若修行者但取色相，謂取顯相、形相、表相，於親品、怨品及中庸品而起勝解，由此建立唯身念住。彼復依止勝解作意，能正趣入真實作意。謂趣入時起是勝解：我於乃至無量有情，發起勝解，利益安樂增上意樂。

> もし修行者が、ただ色の特徴だけを捉えようとするなら、つまり、色のありありとした様子、形、表面的な姿を捉え、親しい人、嫌いな人、どちらでもない人に対して強い捉え方（勝解）を起こすなら、それによってただ身体に対する気づき（身念住）だけが確立される。 その修行者はさらに、このような強い捉え方（勝解）に基づく心の働き（作意）に依って、真実の心の働き（真実作意）へと正しく入っていくことができる。つまり、その心が真実に向かうとき、次のような強い確信（勝解）が生じる。「私は、数え切れないほどの生きとし生けるものすべてに対して、彼らの利益と安楽を願う強い意志（増上意楽）をもって、この

如是我從先際已來，所有親品、怨品及中庸品落謝過去諸有情類，其數無量，甚過今者勝解所作。如是過去諸有情類，為我親已，復為我怨；為我怨已，復為我親；為怨、親已，復為中庸；為中庸已，復為怨、親。由是義門，一切有情平等平等，無有少分親性、怨性及中庸性，而非真實。由是因緣，遍於三品起平等心，平等應與利益安樂。如從先際，如是後際於生死中當復流轉，應知亦爾。又我於彼先際已來諸有情類，未曾發起慈愍之心；彼皆過去，今起慈愍復有何益？但為除遣自心垢穢，令得清淨。故起念言：當令過去諸有情類皆得安樂。諸未來世非曾有者，亦皆令彼當得安樂。如是趣入真實作意慈愍住中，諸福滋潤、諸善滋潤；望前所修勝解作意慈愍住中所獲福聚；彼於百分不及此一，彼於千分不及此一，彼於數分、算分、計分、鄔波尼殺曇分不及此一。餘如前說。

> 私が遠い過去から今に至るまで、親しい人、敵対する人、どちらでもない人として過ぎ去ったあらゆる生き物は、その数が計り知れず、現在私たちが意図して行うことよりもはるかに多いのです。このように、過去のあらゆる生き物は、私にとって親しい者となった後、敵対する者となり、敵対する者となった後、再び親しい者となり、親しい者や敵対する者となった後、どちらでもない者となり、どちらでもない者となった後、再び親しい者や敵対する者となります。このような理由から、すべての生き物は平等であり、親しい性質、敵対する性質、どちらでもない性質は、ほんのわずかも真実のものではありません。そのため、これら三種類の生き物に対して平等な心を起こし、平等に利益と安楽を与えるべきです。遠い過去からそうであったように、未来においても生死の中を巡り続けるであろうことも、同じように理解すべきです。 また、私は過去から今に至るまで、これらの生き物に対して慈しみの心を起こしたことがありません。彼らはすべて過ぎ去ってしまいました。今になって慈しみの心を起こしても、何の役に立つのでしょうか？しかし、それはただ自分の心の汚れを取り除き、清らかにするためなのです。そこで、このように心に誓います。「過去のあらゆる生き物が安楽を得ますように。まだ存在しない未来の生き物たちも、彼らが安楽を得られますように。」このように真実の意図を持って慈しみの心に留まると、あらゆる福徳と善いことが潤い、成長します。先に修行した、観想による慈しみの心に留まって得た福徳の集まりと比べると、その百分の一にも及びません。千分の一にも、数分、算分、計分、ウパニシャッド分の一にも及びません。その他は前の説明と同じです。

又於緣性緣起觀中初修業者，由聞思慧增上力故，分別取相。謂諸有情，由有種種無智愚癡，現見無常，妄計為常；現見不淨，妄計為淨；現見其苦，妄計為樂；現見無我，妄計為我；彼諸有情，有如是等種種顛倒；顛倒為因，於現法受及後所生諸自體中，發起貪愛；由貪愛故，造作種種生根本業；此煩惱、業為因緣故，感得當來純大苦蘊。

> また、縁起の観察を修行し始めたばかりの人は、 聞くことと考えることによる智慧の力によって、 縁起のあり方を分別し、そのイメージを心に描きます。 すなわち、あらゆる生きとし生けるものは、 様々な無知と愚かさを持っているために、 無常であるものを目の当たりにしながら、誤ってそれを「常」と思い込み、 清らかでないものを目の当たりにしながら、誤ってそれを「清らか」と思い込み、 苦しみであるものを目の当たりにしながら、誤ってそれを「楽」と思い込み、 無我であるものを目の当たりにしながら、誤ってそれを「我」と思い込むのです。 このような様々な倒錯した見方を持っています。 この倒錯した見方を原因として、 現在の人生や、その後生まれ変わる様々な存在の姿において、 激しい執着の心を起こします。 その執着の心によって、 さらなる生まれ変わりを生み出すもととなる、 様々な行いを積み重ねます。 この煩悩と行いを原因と条件として、 未来において、純粋に大きな苦しみの塊である存在のあり方を 受け取ることになるのです。

彼既善取如是相已，復於其內發起勝解。謂我今此純大苦蘊，亦如是生。又我自體無邊無際，從先際來初不可知，亦如是生。彼諸有情去、來、現在一切自體，苦蘊所攝，亦皆如是已生、當生。如是緣性緣起正觀，一切皆是真實作意，更無所餘勝解作意。若於自身現在諸蘊緣性緣生作意思惟，是名於內身、受、心、法住彼循觀。若於他身現在諸蘊緣性緣生作意思惟，是名於外身、受、心、法住彼循觀。

> 彼がこのように相を正しく捉えたならば、さらにその内側において確かな理解を起こします。すなわち「今、この私の純粋に大きな苦しみの塊も、また同じように生じている。また、私の自己の本体は限りなく広がり、過去のはじめから初めて知ることができず、同じように生じている。あの存在たちの過去・未来・現在のすべての自己の本体は、苦しみの塊に含まれており、みなすでに生じ、これから生じるものである」と。 このように縁起と因縁の正しい観察は、すべて真実の心の働き（作意）であり、他にこれ以上の確かな理解（勝解作意）はありません。 もし自分の身体における現在の五蘊の因と縁による生起を心に思いめぐらすならば、それを「内なる身・受・心・法に留まり、それに従って観察すること」と言います。もし他の人の身体における現在の五蘊の因と縁による生起を心に思いめぐらすならば、それを「外なる身・受・心・法に留まり、それに従って観察すること」と言います。

若於自他過去、未來所有諸蘊緣性緣生作意思惟，名於內外身、受、心、法住彼循觀。餘如前說。

> 自分や他者の、過去・未来におけるあらゆる「五蘊（ごうん）」の発生原因とその因果関係について、心を巡らせて観察することを、内外の「身・受・心・法」に留まり、それらを繰り返し観察する、といいます。その他の詳細は、先に述べた通りです。

又於界差別觀初修業者，先取其外所有堅相。所謂大地、山林、草木、塼石、瓦礫、末尼、真珠、琉璃、螺貝、珊瑚、玉等。取彼相已，復於內堅而起勝解。次取其外諸大水相。所謂江、河、眾流、陂、湖、池、沼、井等。取彼相已，復於內濕而起勝解。次取其外諸大火相。所謂熱時，烈日炎熾，焚燒山澤，災火蔓莚，窯室等中所有諸火。取彼相已，復於內煗而起勝解。次取其外諸大風相。所謂東西南北等風，乃至風輪。取彼相已，復於內風而起勝解。次取其外諸大空相。所謂諸方無障無礙，諸聚色中孔隙、窟穴，有所容受。善取如是空界相已，於內空界而起勝解。後由聞思增上力故，起細分別，取識界相。所謂內眼處不壞，外色處現前，若無能生作意正起，所生眼識亦不得生。與是相違，眼識得生。如是乃至意、法、意識，當知亦爾。取是相已，次起勝解，了知如是四大身中，有一切識諸種子、界、種性、自性。

> また、生存の領域（界）の違いについて観察する修行を始めたばかりの人は、まず外界にある固い性質のもの〔の表象〕を捉えなさい。すなわち、大地、山林、草木、煉瓦、石、瓦礫、宝石、真珠、琉璃、螺貝、珊瑚、玉などである。それらの表象を捉えたなら、次に自分の体内の固い性質についても明晰な理解を得なさい。 次に、外界にある大きな水の性質〔の表象〕を捉えなさい。すなわち、川、河、様々な流れ、潟、湖、池、沼、井戸などである。それらの表象を捉えたなら、次に自分の体内の湿った性質についても明晰な理解を得なさい。 次に、外界にある大きな火の性質〔の表象〕を捉えなさい。すなわち、暑い時、照りつける太陽の炎、山野を焼き尽くす大火や燃え広がる火災、窯などの中にあるあらゆる火である。それらの表象を捉えたなら、次に自分の体内の温かさについても明晰な理解を得なさい。 次に、外界にある大きな風の性質〔の表象〕を捉えなさい。すなわち、東・西・南・北などの風、さらには風輪に至るまでである。それらの表象を捉えたなら、次に自分の体内の風についても明晰な理解を得なさい。 次に、外界にある大きな虚空の性質〔の表象〕を捉えなさい。すなわち、あらゆる方向に障害や妨げがなく、様々な物質の集まりの中の隙間や洞窟、何かを受け入れる空間のことである。このように虚空の領域の表象を正しく捉えたなら、次に自分の体内の虚空についても明晰な理解を得なさい。 その後、聞くことと考えること（聞思）の力によって、さらに細かい分別を起こし、認識する領域（識界）の表象を捉えなさい。すなわち、内なる眼の器官が損なわれておらず、外なる形の対象が現前していても、もしそれを生み出す心の働き（作意）が正しく起こらなければ、生じるはずの眼の認識も生じない。これとは反対に、眼の認識は生じるのである。このように、耳・鼻・舌・身・意と、その対象、そしてそれぞれの認識についても、同様に理解すべきである。 このような表象を捉えたなら、次に明晰な理解を起こして、この［地・水・火・風からなる］四大の身体の中に、あらゆる認識の種子、その領域（界）、その種性（性質）、その自性（本質）が存在することをはっきりと知りなさい。

又於如是四大種中，先起支節麁大勝解，後起分析種種細分微細勝解。如是漸次分析，乃至向遊塵量，如是漸漸乃至極微而起勝解。一一支分尚起無量最極微塵積集勝解，何況身中一切支分。如是名為界差別觀中，分析諸色界差別邊際微細勝解。

> さらにこの四大元素において、最初に体の各部位という粗大な部分についての明瞭な理解を起こし、その後、それを様々な細かな部分に分析していく微細な理解を起こす。このように段階的に分析を進め、やがて微細な塵の単位に至るまで、さらに徐々に極微にまで至って理解を深める。一つ一つの部位についてさえ、無量の極微が積み重なった集まりという理解が生じるのに、ましてや身体全体のすべての部位についてはなおさらである。これを、界の差別観において、様々な色界の差別の極限を微細に理解することと名付ける。

次於空界，先當發起所有麁大空界勝解。所謂眼、耳、鼻、喉筒等種種竅穴，由是吞咽、於是吞咽，既吞咽已，由是下分不淨流出。次後漸漸發起種種微細勝解，乃至身中一切微細諸毛孔穴，皆悉了知。

> まず、何もない空間において、粗大な空間に対する理解を起こすべきです。すなわち、目、耳、鼻、のどの穴など、様々な孔（あな）によって、ここから飲み込み、そこで飲み込み、飲み込まれたものは、その下の部分から不浄なものとして流れ出るのです。次第に、様々な微細な理解を起こしていき、やがて体中のすべての微細な毛穴に至るまで、あまねくはっきりと知るようになります。

後於識界，漸漸發起所依、所緣，及以作意三世時分品類差別無量勝解。

> その後、識の領域において、だんだんと拠り所や対象、さらには意を向けること（作意）が生じ、三世の時間の区分や種類の違いについて、限りない確かな理解（勝解）が起こっていく。

即於識界起勝解時，由諸所依所緣勝解分析識界。亦於十種所造諸色而起勝解。如諸大種微細分析，此亦如是。

> そこで、認識の領域についての明らかな理解が生じるときは、さまざまな基盤や対象への理解を通じて、認識の領域を分析します。また、十種類の物質的な要素についても明らかに理解します。ちょうど、四大元素を微細に分析するように、これもまた同様です。

若於自身各別諸界而起勝解，是名於內諸念住中住彼循觀。若於其餘非有情數所有諸界而起勝解，是名於外住彼循觀。若於其餘諸有情數所有諸界而起勝解，名於內外住彼循觀。

> もし自分自身の個々の様々な要素（諸界）に対して深い理解を得て心に定めるならば、これを「内なる念処において、その対象を繰り返し観察する」と言います。 もし他の有情でないもの（無情の物）の様々な要素に対して深い理解を得て心に定めるならば、これを「外なるものにおいて、その対象を繰り返し観察する」と言います。 もし他の有情の様々な要素に対して深い理解を得て心に定めるならば、これを「内外において、その対象を繰り返し観察する」と言います。

復有異門。謂於己身而起勝解。臨捨命時，如前廣說至青瘀位，或復膿爛，即於膿爛發起種種流出勝解。漸漸膿流，展轉增廣，乃至大海、大地邊際，膿悉充滿。發起如是膿勝解已，次復發起火燒勝解。謂此身分無量無邊品類差別，為大火聚無量無邊品類燒燼。火既滅已，復起餘骨、餘灰勝解。復起無量無邊勝解，碎此骨灰以為細末。復起無量大風勝解，飄散此末，遍諸方維。既飄散已，不復觀見所飄灰骨及能飄風。唯觀有餘眇茫空界。

> また別の教え方がある。 例えば、自分の身体について観想を深める。臨終の時に、先に述べたように、身体が青黒く変わり、あるいは膿んで爛れる段階に至る。その膿んだ塊から、さまざまなものが流れ出るという観想を起こす。次第に膿が流れ出し、広がり続け、ついには大海や大地の果てまでも膿で満たされる。このような膿の観想を起こした後、次に火の焼く観想を起こす。すなわち、この身体の部分には無量無辺の種類の違いがあり、それが大火の塊となって、無量無辺の種類のものが焼き尽くされる。火が消えた後、さらに残った骨と灰の観想を起こす。さらに無量無辺の観想を起こし、この骨の灰を細かく砕く。また無量無辺の大風の観想を起こし、この粉末を吹き散らして、あらゆる方角に散らす。こうして吹き散らされた後は、散らされた骨の灰も、それを吹く風も見ることができない。ただ、かすかに広がる虚空の界だけが残って観じられる。

如是由其勝解作意，依於內外不淨加行，入界差別，於其身相住循身觀，從是趣入真實作意。

> このようにして、清らかでないという確固たる意志に基づき、内外の不浄の修行によって、要素の区別を理解し、身体の形に対して観察を続けます。それによって、真実の瞑想へと進むのです。

謂由如是勝解作意，於內外身住循身觀。由勝解力，我此所作無量無邊水界、火界、地界、風界、虛空界相，我從無始生死流轉，所經諸界無量無邊，甚過於此。謂由父母兄弟姊妹眷屬喪亡，及由親友財寶祿位離散失壞，悲泣雨淚。又飲母乳。又由作賊，擁逼劫掠，穿牆解結。由是因緣，遭無量度截手、刖足、斬頭、劓鼻，種種解割身諸支節，由是因緣，血流無量。

> そのような勝解を伴う心の働きによって、身体の内外にわたって身体を観察する。この勝解の力によって、私が経験してきた無量無辺の水界、火界、地界、風界、虚空界の相は、はるかに多い。私は無始の昔からの生死の流転において、数えきれないほどの世界を経てきたが、それ以上に多くのものを経験してきた。すなわち、父母、兄弟、姉妹、親族の死別、また友人や財産、地位の喪失によって流した悲しみの涙。さらに、母乳として飲んだもの、また盗賊として壁を破り鍵を壊して奪い取ったもの。これらの因縁によって、無数の切断された手、足、首、鼻、様々に切り刻まれた身体の部分があり、その因縁によって流された血も無量である。

如是所有淚、乳、血攝水界水聚，四大海水皆悉盈滿，於百分中不及其一。廣說如前。又於諸有諸趣死生，經無量火焚燒尸骸，如是火聚亦無比況。又經無量棄捨骸骨，狼籍在地，亦無比況。又經無量風界生滅，分析尸骸，亦無比況。又經無量諸尸骸中眼等竅穴。又經無量諸識流轉。後後尸骸新新發起，乃至今者最後尸骸，諸識流轉。如是安立後際諸趣，期限無定，如是乃至無量識界。

> これらすべての涙、母乳、血液は水の領域と水の集まりを形作り、四大海の水を完全に満たしても、その百分の一にも及びません。詳細は先に述べた通りです。また、様々な生存領域や輪廻の道において、無数の火が屍骸を焼き尽くしても、その火の集まりも比べ物になりません。さらに、無数の屍骸が捨てられ、地面に散乱しても、その状況も比べられません。さらに、無数の風の領域が生じたり消えたりして屍骸を分解しても、その状況も比べられません。また、無数の屍骸の中で目などの穴があります。さらに、無数の識（認識）が流れ続けます。次々と新しい屍骸が新たに生じ、今まさに最後の屍骸に至るまで、諸々の識は流れ続けます。このようにして、未来の生存の道は定めがなく、限りない識の領域に至るまで続くのです。

又於阿那波那念正加行中，初修業者，先於舍宅前後窓門，或打鐵師、或鍛金銀師吹筒𣡖袋，或風外聚入出往來，善取相已；由緣於內入出息念，於入出息而起勝解。彼復先於微細息風，經心胸處麁穴往來而起勝解。然後漸漸於眾多風而起勝解。所謂乃至一切毛孔風皆隨入而起勝解。如是所有一切身分，風聚所隨、風聚所攝、風聚藏隱，無量風聚於中積集，如妬羅綿、或疊絮等諸輕飄物，於是諸相而起勝解。

> また、呼吸に意識を向ける修行（アーナーパーナスティ）において、初めて実践する者は、まず家の前後の窓やドア、あるいは鉄工所や金銀細工師が使うふいご、または外から風が集まって出入りする様子を、しっかりと観察して心に印象づける。そうして、その印象をもとに体内の息の出入りに意識を向け、呼吸について明確なイメージを持つ。 さらに、まず微細な息が胸のあたりの大きな通り道を出入りする様子をはっきりとイメージする。その後、次第に多くの息の流れについてイメージを広げていく。やがて、すべての毛穴に息が出入りする様子までも明確にイメージできるようになる。 こうして、全身のあらゆる部分が息の流れに満たされ、息の集まりに包まれ、息の集まりに覆われている。そこには無数の風の集まりが積み重なっている。それは、綿や毛のような軽く柔らかなものが集まっている様子に喩えられる。修行者は、これらの様々なイメージを心に描くのである。

彼若於內入息、出息流轉不絕作意思惟，爾時名為於其內身住循身觀。若復於他死尸骸中青瘀等位入息、出息流轉斷絕作意思惟，爾時名為於其外身住循身觀。若復於自臨欲死時而起勝解；或於已死入息、出息無有流轉而起勝解；或於未死入息、出息無有流轉而起勝解；由法爾故。爾時名為於內外身住循身觀。

> 呼吸が体内で絶え間なく流れ続けていることに念を集中するとき、それを「自分の身体における身体の観察」という。また、他人の死体が青黒く変色するなどの段階にあるとき、そこに呼吸の流れが途絶えていることに念を集中するとき、それを「他人の身体における身体の観察」という。さらに、自分がまさに死のうとするときにその境地を思い描いたり、すでに死んで呼吸の流れがなくなった状態を思い描いたり、あるいはまだ死んでいないのに呼吸の流れがなくなる状態を、自然の理法によって思い描くとき、それを「自分と他人の双方の身体における身体の観察」という。

遍於一切正加行中，應修如是止品助伴、止品所攝無倒加行。所餘一切，如前應知。

> あらゆる正しい修行（正加行）において、このような止（心の静けさ）の助けとなるもの、そして止に含まれる正しい修行（無倒加行）を修めるべきです。それ以外のすべてについては、前に述べた通りと知るべきです。

如是所有初修業者，蒙正教誨修正行時，安住熾然，正知具念，調伏一切世間貪憂。若於如是正加行中，恒常修作、畢竟修作無倒作意，非諠鬧等所能動亂，是名熾然。若於如是正加行中，修奢摩他、毘鉢舍那，審諦了知亂不亂相，如是名為正知具念。若能善取諸厭離相、諸欣樂相，如是乃名調伏一切世間貪憂。由是因緣，宣說彼能安住熾然，乃至調伏世間貪憂。

> このように、修行を始めたばかりの人でも、正しい教えに従って実践に励むときは、心を熱く燃え立たせ、正しい気づきと明瞭な意識をもって保ち、あらゆる世の中の執着や憂いを調伏します。 もし、このような正しい修行において、絶え間なく実践し、徹底的に実践し、誤りのない注意を向け続け、騒がしさなどに心を乱されることがなければ、これを「熾然」（心の燃え立つ状態）といいます。 また、このような正しい修行において、止（サマタ）と観（ヴィパッサナー）を修め、心が乱れている状態とそうでない状態をはっきりと見極めること、これを「正知具念」（正しい知恵と気づきを備える）といいます。 さらに、厭離すべき対象と欣楽しむべき対象を正しく捉えることができれば、これをもってあらゆる世の中の貪りや憂いを調伏したといいます。 このような理由から、彼は「熾然に安住し、世間の貪憂を調伏するに至る」と説かれているのです。

先發如是正加行時，心一境性、身心輕安，微劣而轉，難可覺了。復由修習勝奢摩他、毘鉢舍那，身心澄淨、身心調柔、身心輕安。即前微劣心一境性、身心輕安，漸更增長。能引強盛易可覺了心一境性、身心輕安。謂由因力展轉引發方便道理，彼於爾時，不久當起強盛易了身心輕安、心一境性。

> このように正しい修行を始めたとき、心が一つの対象に集中する状態や、心身の軽やかな安らぎは、まだ微弱で気づきにくいものです。 しかし、勝れた止（し）と観（かん）を繰り返し修めることで、心身が清らかになり、柔らかく調い、軽やかな安らぎが得られます。すると、先にあった微弱な心の集中と心身の軽安が、次第に増大していきます。 やがて、はっきりと感じ取れるほど強力な心の集中と、心身の軽安を引き起こすようになります。すなわち、修行の力が因果として作用し合い、互いに高め合う仕組みによって、その時から間もなく、強く明確な心身の軽安と心の集中が生じるのです。

如是乃至有彼前相，於其頂上似重而起，非損惱相。

> このようにして、さらに前面にあらわれる相があっても、それは頭頂の上に重くのしかかるように現れ、苦しみ悩ませるような相ではありません。

即由此相於內起故，能障樂斷諸煩惱品心麁重性，皆得除滅。能對治彼心調柔性、心輕安性，皆得生起。由此生故，有能隨順起身輕安風大偏增眾多大種來入身中。因此大種入身中故，能障樂斷諸煩惱品身麁重性，皆得除遣。能對治彼身調柔性、身輕安性，遍滿身中，狀如充溢。彼初起時，令心踊躍、令心悅豫，歡喜俱行；令心喜樂所緣境性於心中現。從此已後，彼初所起輕安勢力漸漸舒緩，有妙輕安隨身而行，在身中轉。由是因緣，心踊躍性漸次退減，由奢摩他所攝持故，心於所緣寂靜行轉。

> このような状態が心の内に生じることにより、煩悩を断つことを喜ばしく思う心の重苦しい性質がすべて除かれ、それを対治する心の柔らかさと軽やかさが生じます。これが生じると、身体にも軽やかさをもたらす風の要素が強まった多くの要素が体内に入ってきます。これらの要素が体内に入ることで、煩悩を断つことを妨げていた身体の重苦しい性質がすべて除かれ、それに対抗する身体の柔らかさと軽やかさが全身に満ち渡り、あふれ出るようになります。初めてこの状態が現れる時、心は高鳴り、喜びに満ち、愉悦と共にあり、心が喜ぶ対象が心の中にはっきりと現れます。その後、最初に生じた軽安の力は徐々に落ち着き、素晴らしい軽やかさが身体に沿って流れるように体内で巡ります。こうして心の高鳴りは次第に収まり、奢摩他（止）に支えられることにより、心は対象に対して静かに落ち着いて進んでいきます。

從是已後，於瑜伽行初修業者，名有作意，始得墮在有作意數。何以故？由此最初獲得色界定地所攝少分微妙正作意故。由是因緣，名有作意。

> それから後、ヨーガの修行を始めたばかりの人を「作意ある者」と呼び、初めて作意ある者の仲間に入るとされます。なぜなら、この時、初めて色界の禅定の境地に属する、微妙な正しい作意の一部分を得るからです。このような理由から、「作意ある者」と呼ばれるのです。

得此作意初修業者，有是相狀。謂已獲得色界所攝少分定心，獲得少分身心輕安、心一境性，有力有能善修淨惑所緣加行，令心相續滋潤而轉，為奢摩他之所攝護，能淨諸行。雖行種種可愛境中，猛利貪纏亦不生起；雖少生起，依止少分微劣對治，暫作意時，即能除遣。如可愛境，可憎、可愚、可生憍慢、可尋思境，當知亦爾。宴坐靜室，暫持其心，身心輕安疾疾生起；不極為諸身麁重性之所逼惱，不極數起諸蓋現行，不極現行思慕、不樂、憂慮俱行諸想作意。雖從定起，出外經行，而有少分輕安餘勢隨身心轉。如是等類，當知是名有作意者清淨相狀。

> この作意を得たばかりの修行者には、次のような特徴が見られます。すなわち、色界に属するわずかな定心を獲得し、わずかな身心の軽やかさと安らぎ、心の統一を得ている。また、力と能力を備えて、煩悩を浄化するための修行の対象（所縁）をよく実践し、心の流れを潤しながら巡らせることができ、それは奢摩他（しゃまた）に守られ、様々な修行を清らかにする力を持っている。たとえ様々な愛着の対象の中にあっても、激しい貪りの心は生じない。わずかに生じても、小さな対治法に基づいて少し注意を向ければ、すぐに取り除くことができる。愛着の対象と同じように、憎しみの対象、無知の対象、慢心を起こす対象、妄想を起こす対象についても、同様であると知るべきである。静かな部屋に座り、一時的に心を保てば、身心の軽やかさと安らぎが速やかに生じる。身体の重だるさにひどく悩まされることもなく、様々な煩悩の覆い（蓋）が頻繁に現れることもなく、慕わしさや不満、憂いを伴う想念や作意がしばしば現れることもない。瞑想から立ち上がって外に出て歩いても、軽やかさと安らぎの余韻がほんの少し身心に残っている。このような特徴があれば、これを「作意を得た者の清らかな特徴」と呼ぶのである。

## 瑜伽師地論卷第三十二

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