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title: "瑜伽師地論 · 1目 以七作意離欲"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
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又即依此若生、若相，皆當廣說。

> また、このようにして生じるものも、その性質も、すべて詳しく説くべきである。

為離欲界欲，勤修觀行諸瑜伽師，由七作意方能獲得離欲界欲。

> 欲望の世界への執着を離れるために、修行に励むヨーガ行者は、七つの心の働き（七作意）によって、初めて欲望の世界への執着から解脱できるのです。

何等名為七種作意？謂了相作意、勝解作意、遠離作意、攝樂作意、觀察作意、加行究竟作意、加行究竟果作意。

> 七種の作意とは何でしょうか。それは、了相作意、勝解作意、遠離作意、摂楽作意、観察作意、加行究竟作意、加行究竟果作意です。

云何名為了相作意？謂若作意，能正覺了欲界麁相，初靜慮靜相。云何覺了欲界麁相？謂正尋思欲界六事。何等為六？一、義，二、事，三、相，四、品，五、時，六、理。

> 「了相作意」とは何か。それは、欲界（欲望の世界）の粗い相（特徴）と、初めての静慮（禅定）の静かな相とを、正しくはっきりと認識する心の働きのことである。 欲界の粗い相をどのように認識するのか。それは、欲界に関する六つの事柄を正しく深く考えることによる。その六つとは、第一に「意味」、第二に「事柄」、第三に「特徴」、第四に「種類」、第五に「時期」、第六に「道理」である。

云何尋思諸欲麁義？謂正尋思：如是諸欲有多過患、有多損惱、有多疫癘、有多災害。於諸欲中多過患義，廣說乃至多災害義，是名麁義。

> どのようにして欲望の粗い意味を考察するのでしょうか。それは、正しく考察することです。「こうした欲望には多くの過失、多くの悩み、多くの病い、多くの災いがある」と。欲望の中にある多くの過失の意味、広く説けば多くの災いの意味に至るまで、これを粗い意味と名づけます。

云何尋思諸欲麁事？謂正尋思：於諸欲中有內貪欲，於諸欲中有外貪欲。

> どのようにして欲望の粗悪な性質を観察するのか。それは、正しく観察することである。すなわち、欲望の中には内なる執着（内なる貪欲）があり、欲望の中には外なる執着（外なる貪欲）があると観察することである。

云何尋思諸欲自相？謂正尋思：此為煩惱欲，此為事欲。此復三種。謂順樂受處、順苦受處、順不苦不樂受處。順樂受處是貪欲依處，是想、心倒依處；順苦受處是瞋恚依處，是忿、恨依處；順不苦不樂受處是愚癡依處，是覆、惱、誑、諂、無慚、無愧依處，是見倒依處。即正尋思：如是諸欲，極惡諸受之所隨逐，極惡煩惱之所隨逐。是名尋思諸欲自相。

> 欲の本質について、どのように観察すべきか。正しく観察すべきことは、これが煩悩としての欲であり、これが対象としての欲である、ということである。この欲には三つの種類がある。すなわち、楽受に対応するもの、苦受に対応するもの、苦でも楽でもない受（捨受）に対応するものである。楽受に対応するものは貪欲のよりどころであり、妄想と心の倒錯のよりどころである。苦受に対応するものは怒りのよりどころであり、憤りと恨みのよりどころである。苦でも楽でもない受に対応するものは無知のよりどころであり、隠蔽、煩わしさ、偽り、へつらい、無慚、無愧のよりどころであり、見解の倒錯のよりどころである。このように正しく観察すべきである。これらの欲は、非常に悪しき感覚に付きまとわれ、非常に悪しき煩悩に付きまとわれている、と。これを、欲の本質についての観察という。

云何尋思諸欲共相？謂正尋思：此一切欲，生苦、老苦，廣說乃至求不得苦等所隨逐、等所隨縛。諸受欲者，於圓滿欲驅迫而轉，亦未解脫生等法故，雖彼諸欲勝妙圓滿，而暫時有。是名尋思諸欲共相。

> 欲望の共通する性質とは何かと問うならば、それは次のように正しく考えられる。すなわち、あらゆる欲望には、生の苦しみ、老いの苦しみ、さらに広く説けば求めても得られない苦しみなどが常につきまとっている。欲望を抱く者は、その欲望に突き動かされ、満たされたいと追い立てられている。また、生まれ変わる苦しみなどからも決して解放されていない。どれほど素晴らしく完全な欲望であっても、それは一時的なものに過ぎない。このように考えることこそが、欲望の共通する性質をよく考えることなのである。

云何尋思諸欲麁品？謂正尋思：如是諸欲，皆墮黑品。猶如骨鎖，如凝血肉，如草炬火，如一分炭火，如大毒蛇，如夢所見，如假借得諸莊嚴具，如樹端果。追求諸欲諸有情類，於諸欲中，受追求所作苦，受防護所作苦，受親愛失壞所作苦，受無厭足所作苦，受不自在所作苦，受惡行所作苦。如是一切如前應知。如世尊說：習近諸欲有五過患。謂彼諸欲，極少滋味，多諸苦惱、多諸過患。又彼諸欲，於習近時，能令無厭、能令無足、能令無滿。又彼諸欲，常為諸佛及佛弟子，賢善正行、正至善士，以無量門呵責毀呰。又彼諸欲，於習近時，能令諸結積集增長。又彼諸欲，於習近時，我說無有惡不善業而不作者。如是諸欲，令無厭足，多所共有，是非法行、惡行之因。增長欲愛，智者所離，速趣消滅，依託眾緣，是諸放逸危亡之地。無常虛偽妄失之法，猶如幻化，誑惑愚夫。若現法欲、若後法欲、若天上欲、若人中欲，一切皆是魔之所行、魔之所住。於是處所能生無量依意所起惡不善法。所謂貪、瞋及憤諍等。於聖弟子正修學時，能為障礙。由如是等差別因緣，如是諸欲，多分墮在黑品所攝，是名尋思諸欲麁品。

> では、「諸々の欲望の粗雑な側面」とは何かを考察しよう。具体的には次のように考察する。これらの欲望はすべて、悪しき性質（黒品）に属する。それはまるで骨の連なり、血の固まり、草の松明の火、一片の炭火、大きな毒蛇、夢の中の幻影、借り物の装飾品、木の先端の果実のようなものである。 欲望を追い求める者たちは、欲望ゆえに、追い求める苦しみ、守ろうとする苦しみ、愛するものを失う苦しみ、満たされることのない苦しみ、思い通りにならない苦しみ、悪行による苦しみを受ける。これらのすべては、先に述べたとおりである。 世尊が説かれたように、欲望に親しむことには五つの過患がある。すなわち、それらの欲望は、味わいはごく僅かであり、多くの苦悩と多くの過患を伴うということ。 また、それらの欲望に親しむとき、それは満足を知らず、飽くことを知らず、充足することがない。 さらに、それらの欲望は、諸仏や仏弟子、賢明で正しい行いを持つ善き人々によって、無数の方法で非難され、叱責されている。 また、それらの欲望に親しむとき、心の結びつき（結）を積み重ね、増長させる。 さらに、それらの欲望に親しむとき、私は、行われない悪しき不善の行為はないと説く。 このように、これらの欲望は満足を知らず、多くの者が共有するものであり、非法の行いや悪行の原因である。欲望への愛着を増長させ、賢者はこれを遠ざける。それは速やかに消え去り、様々な因縁に依存し、放逸の滅びの場所となる。無常であり、虚偽であり、虚ろで失われる性質のものであり、幻のように愚か者を欺く。 現世における欲望であれ、来世における欲望であれ、天界における欲望であれ、人間界における欲望であれ、すべては魔の領域であり、魔の住処である。その場所からは、心に基づく無量の悪しき不善の法が生じる。すなわち、貪り、怒り、憤り、争いなどである。聖なる弟子が正しく修行するとき、これらは障害となる。 このように様々な因縁によって、これらの欲望は大部分が黒品に属するものとされる。これが「諸々の欲望の粗雑な側面についての考察」である。

云何尋思諸欲麁時？謂正尋思：如是諸欲，去來今世，於常常時、於恒恒時，多諸過患、多諸損惱、多諸疫癘、多諸災害。是名尋思諸欲麁時。

> 欲望の粗大さをどのように観察するのか。 あるがままに観察すると、この欲望というものは、過去・現在・未来にわたって、常に絶え間なく、多くの過ちや悩み、多くの病いや災いをもたらすものである。これを欲望の粗大さを観察するという。

云何尋思諸欲麁理？謂正尋思：如是諸欲，由大資糧、由大追求、由大劬勞，及由種種無量差別工巧業處，方能招集生起增長。又彼諸欲，雖善生起、雖善增長，一切多為外攝受事。謂父母、妻子、奴婢、作使、親友、眷屬。或為對治自內有色麁重四大，糜飯長養，常須覆蔽、沐浴、按摩；壞斷、離散、消滅法身，隨所生起種種苦惱。

> 諸々の欲求の粗雑さについて、どのように観察すべきでしょうか。それは以下のように正しく観察することです。 これらの諸々の欲求は、大きな資糧（財産・資源）、大きな追求、大きな労苦、そして様々な無数の技術や職業の場を通じて、初めて集められ、生じ、増大するものです。また、それらの欲求は、たとえうまく生じ、うまく増大したとしても、その多くは外的に把握される事柄、すなわち父母、妻、子、奴婢、使用人、友人、親戚、眷属のためのものです。あるいは、自己の内なる物質的な粗雑な四大要素（地・水・火・風）に対処するためのものであり、粥や飯によって養われ、常に覆い、沐浴し、按摩する必要があります。それらは壊れ、離散し、消え去る性質を持つものであり、そこから様々な苦しみが生じるのです。

食能對治諸飢渴苦；衣能對治諸寒熱苦，及能覆蔽可慚羞處；臥具能治諸勞睡苦，及能對治經行住苦；病緣醫藥能治病苦。是故諸欲，唯能對治隨所生起種種苦惱，不應染著而受用之。唯應正念，譬如重病所逼切人，為除病故，服雜穢藥。

> 食は飢えと渇きの苦しみを和らげるためのものです。 衣は寒さと暑さの苦しみを防ぎ、恥ずべき部分を隠すためのものです。 寝具は疲れと眠りの苦しみを癒し、歩いたり立ったりする苦しみを和らげるためのものです。 病気の縁による薬は、病の苦しみを治すためのものです。 このように、欲望はただ、生じる様々な苦しみに対処するためのものにすぎません。 ですから、それに執着してむやみに使うのではなく、ただ正しく心にとどめて使いなさい。 ちょうど、重い病に苦しめられている人が、病気を治すために、不潔で様々な混ざりもののある薬を飲むように。

又彼諸欲，有至教量，證有麁相。又彼諸欲，如是如是所有麁相，我亦於內現智見轉。又彼諸欲，有比度量，知有麁相。

> さらに、それらの欲望には確かな教え（聖典による証明）があり、その粗雑な性質が証明されています。また、それらの欲望が持つ様々な粗雑な性質について、私も内側で直接知覚し、理解を深めています。さらに、それらの欲望には比較考察（推論による尺度）があり、粗雑な性質があると知ることができます。

又彼諸欲，從無始來本性麁穢，成就法性、難思法性，不應思議、不應分別，是名尋思諸欲麁理。如是名為由六種事，覺了欲界諸欲麁相。復能覺了初靜慮中所有靜相。謂欲界中一切麁性，於初靜慮皆無所有。由離欲界諸麁性故，初靜慮中說有靜性。是名覺了初靜慮中所有靜相。即由如是定地作意，於欲界中了為麁相，於初靜慮了為靜相，是故名為了相作意。即此作意，當言猶為聞思間雜。

> また、それらの欲望は無始の昔より本質的に粗雑で汚れたものであり、法性を成就し、思議しがたい法性を持ち、思議すべきものでも分別すべきものでもない。これを、欲望の粗雑な道理を観察すると言う。このように六つの事柄によって、欲界の欲望の粗雑な様相を覚知する。さらに、初静慮における寂静の様相を覚知することができる。すなわち、欲界におけるすべての粗雑な性質は、初静慮においては全く存在しない。欲界の粗雑な性質を離れたがゆえに、初静慮には寂静の性質があると言える。これを、初静慮における寂静の様相を覚知すると言う。このように、定地における作意によって、欲界においては粗雑な様相と覚知し、初静慮においては寂静な様相と覚知する。これを、了相作意と名付ける。この作意は、まだ聞思と交じり合っていると言うべきである。

彼既如是如理尋思，了知諸欲是其麁相，知初靜慮是其靜相。從此已後，超過聞思，唯用修行，於所緣相發起勝解，修奢摩他、毘鉢舍那。既修習已，如所尋思麁相、靜相，數起勝解。如是名為勝解作意。

> かれはこのように道理に従って思索し、諸々の欲が粗い相であり、初静慮が静かな相であると悟った。その後は、聞思の段階を超え、実修のみを用いて、対境の相に勝解を起こし、奢摩他と毘鉢舎那を修する。修習を終えれば、先に思索した粗い相と静かな相について、何度も勝解を起こす。これを「勝解作意」という。

即此勝解善修、善習、善多修習為因緣故，最初生起斷煩惱道。即所生起斷煩惱道俱行作意，此中說名遠離作意。

> この勝解をよく修め、よく習い、よく繰り返し修習するという因縁によって、最初に煩悩を断つ道が生じる。この生じた煩悩を断つ道と共に働く作意を、ここでは「遠離作意」と名づける。

由能最初斷於欲界先所應斷諸煩惱故，及能除遣彼煩惱品麁重性故。從是已後，愛樂於斷、愛樂遠離，於諸斷中見勝功德，觸證少分遠離喜樂。於時時間，欣樂作意，而深慶悅；於時時間，厭離作意，而深厭患。為欲除遣惛沈睡眠、掉舉等故。如是名為攝樂作意。

> まず、欲界において最初に断つべき煩悩を断ち、さらにその煩悩に伴う粗重性を取り除くことにより、その後、人は断ち離れることを愛好し、遠離することを愛好するようになります。様々な断ち離れの中に勝れた功徳を見出し、少しばかりの遠離の喜びと楽しさを体験します。時には、喜び楽しむ心づくりをして深く祝賀し、時には厭い離れる心づくりをして深く嫌悪します。昏沈・睡眠・掉挙などを取り除くために、このような修行を「摂楽作意」と呼びます。

彼由如是樂斷、樂修，正修加行，善品任持，欲界所繫諸煩惱纏若行、若住不復現行。便作是念：我今為有於諸欲中貪欲煩惱不覺知耶？為無有耶？為審觀察如是事故，隨於一種可愛淨相作意思惟。猶未永斷諸隨眠故，思惟如是淨妙相時，便復發起隨習近心、趣習近心、臨習近心、不能住捨，不能厭毀、制伏、違逆。彼作是念：我於諸欲猶未解脫，其心猶未正得解脫，我心仍為諸行制伏，如水被持，未為法性之所制伏。我今復應為欲永斷餘隨眠故，正勤安住樂斷、樂修。如是名為觀察作意。

> 彼はこのようにして、寂滅と修行を喜び、正しく修行に励み、善い性質を保ち続ける。その結果、欲界に属するさまざまな煩悩の束縛は、行動中であれ休息中であれ、もはや現れなくなる。そこで彼はこう思う。「今の私は、欲望の中に貪りの煩悩があることに気づいていないのだろうか？それとも、もうないのだろうか？」このことを詳しく観察するために、彼は一つの愛らしい清らかな対象に心を向けて考える。しかし、まだすべての潜在的な煩悩を完全に断ち切ってはいないため、こうした清らかな対象を思惟するとき、心は再びそれに親しもうとし、近づこうとし、寄りたがる。心はそれを手放して留まることができず、厭い、壊し、抑え、逆らうこともできない。彼はこう思う。「私はまだ欲望から解脱していない。私の心はまだ正しく解脱を得ていない。私の心は依然として様々な行為（行）に支配されており、水が何かに支えられているように、まだ法の性質（法性）に支配されてはいない。今こそ、残る潜在的な煩悩を永遠に断ち切るために、正しく精進し、寂滅と修行を喜び安住すべきである。」これが「観察作意」と呼ばれるものである。

從此倍更樂斷、樂修，修、奢摩他、毘鉢舍那，鄭重觀察，修習對治，時時觀察先所已斷。由是因緣，從欲界繫一切煩惱，心得離繫。此由暫時伏斷方便，非是畢竟永害種子。當於爾時，初靜慮地前加行道已得究竟，一切煩惱對治作意已得生起。是名加行究竟作意。

> この段階に至ると、修行者はさらに一層、煩悩を断ち切ることと修行そのものを喜びとするようになります。そして、心を落ち着ける止（し）と、物事を観察する観（かん）の修行を、丁寧に、繰り返し実践し、煩悩を対処する方法を修めます。また、すでに断ち切った煩悩についても、たえず観察を続けます。 このような努力によって、欲界に属するすべての煩悩から心が解放されます。ただし、これはあくまで修行によって一時的に煩悩を抑え込んだ状態であり、煩悩の種子（根本的な原因）を完全に絶ったわけではありません。 この時点で、初禅（しょぜん）の境地に至る前の「加行道（けどう）」という準備段階が完了し、すべての煩悩に対処するための心の働きが生じるのです。これを「加行究竟作意（けぐ

從此無間，由是因緣，證入根本初靜慮定。即此根本初靜慮定俱行作意，名加行究竟果作意。

> それ以降は、この因縁によって、根本初静慮の定（位）に証入します。この根本初静慮の定と共に働く作意を、加行究竟果の作意と呼びます。

又於遠離、攝樂作意現在轉時，能適悅身離生喜樂，於時時間，微薄現前。加行究竟作意轉時，即彼喜樂轉復增廣，於時時間，深重現前。加行究竟果作意轉時，離生喜樂遍諸身分，無不充滿，無有間隙。彼於爾時，遠離諸欲，遠離一切惡不善法，有尋有伺，離生喜樂，於初靜慮圓滿五支具足安住，名住欲界對治修果，名隨證得離欲界欲。

> 遠離（りおん）の境地に向かう心構えや、喜びを集める心構えが働いているときには、身体に心地よさをもたらす、離欲から生まれる喜びと安楽が、時折ほのかに現れます。実践を完成させる心構えが働くときには、その喜びと安楽はさらに広がり強まり、時折深くはっきりと現れます。実践を完成させた結果の心構えが働くときには、離欲から生まれる喜びと安楽は身体のすべての部分に余すところなく、隙間なく満ち渡ります。そのとき、修行者はあらゆる欲を離れ、あらゆる悪しき不善の法を離れ、思考と観察を伴いながら、離欲から生まれる喜びと安楽によって、第一の静慮（しょじょうりょ）の五つの支えを完全に備えて安住します。これを「欲界を対治する修行の結果に住する」と言い、「欲界の欲を離れることを証得する」と言います。

又了相作意，於所應斷能正了知。於所應得能正了知。為斷應斷，為得應得，心生希願。勝解作意，為斷為得，正發加行。遠離作意，能捨所有上品煩惱。攝樂作意，能捨所有中品煩惱。觀察作意，能於所得離增上慢，安住其心。加行究竟作意，能捨所有下品煩惱。加行究竟果作意，能正領受彼諸作意善修習果。

> さらに、了相作意とは、断じるべきことを正しく了知し、得るべきことを正しく了知することである。断じるべきを断じ、得るべきを得るために、心に希求を生じさせる。 勝解作意とは、断じるため、得るために、正しく修行を開始することである。 遠離作意とは、あらゆる粗い煩悩を捨て去ることができる。 摂楽作意とは、あらゆる中くらいの煩悩を捨て去ることができる。 観察作意とは、得たものに対して過度な慢心を離れ、心を安らかにとどめることである。 加行究竟作意とは、あらゆる細かい煩悩を捨て去ることができる。 加行究竟果作意とは、それらの作意を善く修習した果を正しく受けることができる。

又若了相作意、若勝解作意，總名隨順作意；厭壞對治俱行。

> また、了相作意と勝解作意は、まとめて随順作意と呼びます。これらは、厭離と破壊の対治と共に働くものです。

若遠離作意、若加行究竟作意，總名對治作意；斷對治俱行。若攝樂作意，名對治作意及順清淨作意。

> もし修行への意識を離れ、修行の完成を目指す意識があるなら、これらを総じて対治の意識と呼びます。これは、対治と共に修行するものです。また、楽しみを得るための意識は、対治の意識であり、かつ清らかさに沿った意識でもあります。

若觀察作意，名順觀察作意。如是其餘四種作意，當知攝入六作意中。謂隨順作意、對治作意、順清淨作意、順觀察作意。

> もし「観察作意」と呼ばれるものがあれば、それは「順観察作意」にあたります。同じように、残りの四つの作意も、六つの作意の中に含まれると知るべきです。すなわち、随順作意、対治作意、順清浄作意、順観察作意です。

如初靜慮定有七種作意，如是第二、第三、第四靜慮定，及空無邊處、識無邊處、無所有處、非想非非想處定，當知各有七種作意。

> 初めの静慮の定に七種の作意があるように、第二、第三、第四の静慮の定、そして空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処の定にも、それぞれ七種の作意があると知るべきである。

若於有尋有伺初靜慮地覺了麁相，於無尋無伺第二靜慮地覺了靜相，為欲證入第二靜慮，應知是名了相作意。謂已證入初靜慮定，已得初靜慮者，於諸尋伺觀為麁性。能正了知：若在定地，於緣最初率爾而起怱務行境，麁意言性，是名為尋。即於彼緣隨彼而起、隨彼而行徐歷行境，細意言性，是名為伺。又正了知：如是尋伺是心法性，心生時生，共有、相應、同一緣轉。又正了知：如是尋伺依內而生，外處所攝。又正了知：如是一切過去、未來、現在所攝。從因而生，從緣而生。或增或減，不久安住，暫時而有，率爾現前，令心躁擾、令心散動，不靜行轉。求上地時，苦住隨逐，是故皆是黑品所攝。隨逐諸欲，離生喜樂，少分勝利。隨所在地，自性能令有如是相。於常常時、於恒恒時，有尋有伺心行所緣躁擾而轉，不得寂靜。以如是等種種行相，於諸尋伺覺了麁相。又正了知：第二靜慮無尋無伺，如是一切所說麁相皆無所有。是故宣說第二靜慮有其靜相，彼諸麁相皆遠離故。為欲證入第二靜慮，隨其所應，其餘作意，如前應知。如是乃至為欲證入非想非非想處定，於地地中，隨其所應，當知皆有七種作意。

> 初禅の境地において、まだ「尋」と「伺」がある状態を「粗い性質」と見極め、第二禅の境地において「尋」と「伺」がない状態を「静かな性質」と見極めて、第二禅に入ろうとする修行者の心の働きを、「了相作意」と呼ぶことを知るべきである。 すでに初禅の定を得た修行者は、この「尋」と「伺」を「粗い性質」として観察する。正しく理解すべきは、定の状態にあるとき、認識の対象に対して最初に瞬間的に起こる、慌ただしく動く粗い心の言葉の性質を「尋」と呼び、同じ対象に対してそれに従って徐々に進み、細やかに経巡る心の言葉の性質を「伺」と呼ぶことである。 さらに正しく理解すべきは、こうした「尋」と「伺」は心の働きそのものであり、心が生じるときに共に生じ、心と共にあり、対応し合い、同じ対象に向かうものであること。また、こうした「尋」と「伺」は内側より生じるが、外的なものに属していること。また、これらすべては過去・現在・未来に属し、原因と条件によって生じるものである。 それらは増えたり減ったりし、長く留まらず、一時的に現れては心をざわつかせ、散乱させ、静まらない状態で動き続ける。より高い境地を求める時には、苦しみがこれに付きまとう。よってこれらはすべて「黒い性質（善ならざるもの）」に属する。欲望に従い、離欲から生じる喜びや楽は、ほんのわずかな功徳に過ぎない。これらの「尋」と「伺」が存在する境地では、その性質上、常にこのような状態が続き、心はざわつきながら対象の上を動き、静寂を得ることがない。 このような様々な在り方によって、「尋」と「伺」の「粗い性質」を見極めるのである。 また正しく理解すべきは、第二禅には「尋」も「伺」もなく、今述べたような粗い性質はすべて存在しないことである。ゆえに第二禅には「静かな性質」があり、それらの粗い性質はすべて遠く離れていると説かれる。 第二禅に入ろうとするために、そしてそれぞれの段階に応じて、残りの作意については、先に述べた通りである。このようにして、非想非非想処の定に入ろうとするに至るまで、各々の境地において、その段階に応じて、七種の作意があることを知るべきである。

又彼麁相，遍在一切下地皆有。下從欲界，展轉上至無所有處。當知麁相略有二種，謂諸下地苦住增上，望上所住不寂靜故；及諸壽量時分短促，望上壽量轉減少故。此二麁相，由前六事，如其所應，當正尋思。隨彼彼地樂離欲時，如其所應，於次上地尋思靜相，漸次乃至證得加行究竟果作意。

> また、その粗雑さの様相は、すべての下地に広く存在している。下は欲界から、順に上は無所有処に至るまで及んでいる。この粗雑さの様相には、大まかに二つの種類があることを知るべきである。すなわち、諸々の下地は苦しみの住まいが増し加わっており、上の地の住まいに比べて静かではないこと、そして、諸々の寿命の長さが短く、上の地の寿命に比べてさらに減少していることである。この二つの粗雑さの様相について、先に述べた六つの事柄によって、それぞれに応じて正しく観察すべきである。それぞれの地において、欲望から離れようと楽に望む時には、そのに応じて、次の上の地において静かな様相を観察し、徐々に進んで、ついには加行究竟果作意を証得するに至るのである。