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title: "瑜伽師地論 · 2目 八定"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cma8zhixf03hnib046y852hlx"
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復次，此中離欲者，欲有二種，一者、煩惱欲。二者、事欲。離有二種，一者、相應離，二者、境界離。

> さらに、ここで「欲を離れる」ということについて述べます。「欲」には二種類あります。一つ目は煩悩としての欲（心の中の執着）、二つ目は対象としての欲（外界の欲望の対象）です。「離れる」にも二種類あります。一つ目は対応する煩悩から離れること、二つ目は対象との関わりから離れることです。

離惡不善法者，煩惱欲因所生種種惡不善法。即身惡行、語惡行等，持杖、持刀、鬪訟、諍競、諂誑、詐偽、起妄語等。由斷彼故，說名為離惡不善法。

> 悪しき不善の法を離れるとは、煩悩や欲望から生じるさまざまな悪しき不善の法のことです。すなわち、身体による悪行や言葉による悪行など、杖や刀を手にすること、争いや訴訟、諂いや欺き、偽り、虚言を起こすことなどです。これらを断ち切るからこそ、「悪しき不善の法を離れる」と言われるのです。

有尋有伺者，由於尋伺未見過失，自地猶有對治欲界諸善尋伺，是故說名有尋有伺。

> 考えや判断があるというのは、まだその考えや判断の欠点に気づいておらず、同じ境地の中に、欲界の様々な善い考えや判断を対治しようとする心が残っているからです。このような状態を『考えや判断がある』と名付けます。

所言離者，謂已獲得加行究竟作意故。所言生者，由此為因、由此為緣，無間所生，故名離生。

> ここで「離」と言うのは、すでに行を究める修行の段階（加行究竟作意）に達したことを意味します。そして「生」と言うのは、これが原因となり、これが縁となって、間を置かずに生じることから、「離によって生じる」（離生）と呼ばれるのです。

言喜樂者，謂已獲得所希求義，及於喜中未見過失，一切麁重已除遣故，及已獲得廣大輕安，身心調暢，有堪能故，說名喜樂。

> 喜楽とは、すでに求めていた意味を得たこと、そしてその喜びの中に過失を見なかったこと、すべての粗重（心身の重苦しさ）が除かれたこと、さらに広大な軽安（心身の軽やかさ）を得て、身心がととのい、よく働く力があることをもって、喜楽と名づけられるのです。

所言初者，謂從欲界最初上進，創首獲得，依順次數，說名為初。言靜慮者，於一所緣繫念寂靜，正審思慮，故名靜慮。

> \*\*「初」\*\*とは、欲界から初めて上に進み、順序に従って最初に得られる境地であることを示しています。 \*\*「静慮（じょうりょ）」\*\*とは、一つの対象に心を集中して静かに保ち、正しく深く考え観察することを意味します。 これが「静慮」と呼ばれる理由です。

言具足者，謂已獲得加行究竟果作意故。

> 言具足とは、修行の最終的な結果である作意（瞑想の心構え）をすでに得たことを指します。

言安住者，謂於後時，由所修習多成辦故，得隨所樂、得無艱難、得無梗澁，於靜慮定，其心晝夜能正隨順、趣向、臨入，隨所欲樂，乃至七日七夜能正安住。故名安住。

> ここでいう「安住」とは、その後の段階において、修行を繰り返し十分に成就した結果、望むままに、困難なく、滞りなく、静慮（瞑想）の定に入り、心が昼も夜も正しくそれに従い、向かい、入っていくことができる状態を指します。望むところに従い、七日七夜にわたって正しく安住することができる。そのため、これを「安住」と名づけるのです。

復次，於有尋有伺三摩地相，心能棄捨。於無尋無伺三摩地相，繫念安住。於諸怱務所行境界能正遠離，於不怱務所行境界安住其心；一味寂靜、極寂靜轉，是故說言：尋伺寂靜故、內等淨故。

> さらに、思考と内省を伴う「有尋有伺」の三昧の状態について、心がこれを捨てることができる。思考と内省を伴わない「無尋無伺」の三昧の状態については、心をしっかりととどめ、安らかに保つ。様々な忙しさに関わる領域からは正しく遠ざかり、忙しさのない領域に心を安らかに置く。ひとつの味わいのように静まり、極めて静かに働く。そのため、次のように説かれている。思考と内省が静まったことにより、内面が清らかになる、と。

又彼即於無尋無伺三摩地中串修習故，超過尋伺有間缺位，能正獲得無間缺位，是故說言：心一趣故。

> また、彼は「無尋無伺」（思考や分別のない）三昧を繰り返し修習することによって、 「尋伺」のある間断欠落の位を超え、 間断なく続く位を正しく獲得する。 だからこそ「心が一つの対象に向かうからである」と説かれている。

無尋無伺者，一切尋伺悉皆斷故。

> 無尋・無伺とは、あらゆる粗い思考（尋）と細かい思考（伺）が、すべて断ち切られていることを指します。

所言定者，謂已獲得加行究竟作意故。所言生者，由此為因、由此為緣，無間所生，故名定生。

> ここで「定」と言うのは、加行究竟作意（修行の最後の段階にある集中状態）をすでに得ていることを意味します。また「生」と言うのは、これ（定）を因とし、これ（定）を縁として、途切れることなく生じるからです。ですから「定生」と呼びます。

言喜樂者，謂已獲得所希求義，又於喜中未見過失，有欣有喜；一切尋伺初靜慮地諸煩惱品所有麁重皆遠離故，能對治彼廣大輕安身心調柔有堪能樂所隨逐故，名有喜樂。

> 喜楽とは、すでに願い求めた意味を獲得し、喜びの中に過失を見ず、欣びや喜びがあることです。また、初めての静慮の境地における、あらゆる尋や伺といった煩悩の種類に属するすべての粗重から遠く離れたがゆえに、それらを対治する広大な軽安（身心の軽やかで安らかな状態）に伴われ、身心が調い柔らかく、よく堪えられる楽が伴うことから、これを「喜楽あり」と名づけます。

依順次數，此為第二。如是一切，如前應知。

> 順序に従って数えるならば、これは第二番目となります。その他すべてについては、先に述べた通りと理解すべきです。

復次，彼於喜相深見過失，是故說言：於喜離欲。又於爾時，遠離二種亂心災患，能於離喜第三靜慮攝持其心。第二靜慮已離尋伺，今於此中復離於喜，是故說言：安住於捨。如是二法能擾亂心，障無間捨。初靜慮中有尋伺故，令無間捨不自在轉；第二靜慮由有喜故，令無間捨不自在轉。是故此捨，初二靜慮說名無有。由是因緣，修靜慮者，第三靜慮方名有捨。

> さらに、彼は喜びの相に深い過失を見るがゆえに、「喜びに対して離欲する」と言われる。また、その時、心を乱す二つの災いから遠離し、喜びを離れた第三静慮において、その心をしっかりと保つ。第二静慮ではすでに尋と伺を離れているが、今ここでさらに喜びをも離れるがゆえに、「捨に安住する」と言われる。このように、二つの法は心を乱し、間断のない捨を妨げる。初静慮には尋と伺があるため、間断のない捨が自在に働かない。第二静慮には喜があるため、間断のない捨が自在に働かない。それゆえに、この捨は初静慮と第二静慮には存在しないと言われる。このような因縁によって、静慮を修行する者にとって、第三静慮に至って初めて「捨がある」と言われるのである。

由有捨故，如如安住所有正念，如是如是彼喜俱行想及作意不復現行。若復於此第三靜慮不善修故，或時失念，彼喜俱行想及作意時復現行，尋即速疾以慧通達，能正了知，隨所生起能不忍受，方便棄捨、除遣、變吐，心住上捨，是故說有正念、正知。

> あるものが捨てられるならば、あるがままに安住するすべての正念が存在する。そのように、そのように、喜びを伴う想（イメージ）や作意（はたらきかけ）は再び現れなくなる。もしもここで第三禅定を適切に修習していないならば、あるいは時に念を失い、その喜びを伴う想や作意が再び現れたとしても、すぐに速やかに智慧をもってそれを見通し、正しく理解することができる。生じたものをそのまま受け入れず、巧みに捨て去り、除き去り、払いのけ、心を上の捨（至上の平静）に安住させる。ゆえに、正念と正知があると言われる。

彼於爾時，住如是捨、正念、正知，親近、修習、多修習故，令心踊躍俱行喜受便得除滅。離喜寂靜、最極寂靜，與喜相違心受生起。彼於爾時，色身、意身領納受樂及輕安樂，是故說言：有身受樂。

> そのとき彼は、このような捨（しゃ）・正念（しょうねん）・正知（しょうち）にとどまり、親しみ、修習し、繰り返し修習することによって、心を躍らせ共に伴う喜びの感受を除き滅ぼすのです。喜びを離れ、静まり、極めて静まった状態となり、喜びとは反対の心の感受が生じます。そのとき、彼の肉体と心は、楽（らく）と安らかな軽さを受け取ります。そのため、「身体をもって楽を受ける」と言われます。

第三靜慮已下諸地，無如是樂及無間捨；第三靜慮已上諸地，此無間捨雖復可得，而無有樂。下地樂捨俱無有故，上地有捨而無樂故，是故說言：於是處所，謂第三靜慮，諸聖宣說。謂依於此已得安住補特伽羅，具足捨、念及以正知，住身受樂，第三靜慮具足安住。言諸聖者，謂佛世尊及佛弟子。

> 第三禅より下の地には、このような楽と無間の捨はありません。第三禅より上の地には、無間の捨があるものの、楽がありません。下の地には楽と捨の両方がなく、上の地には捨があるものの楽がないからです。それゆえに、『ここ、第三禅において、聖者たちは説く』と言われています。すなわち、この境地に安住した人は、『捨・念・正知を具え、身に楽を受けて、第三禅を具足して安住する』と説かれています。『聖者たち』とは、仏世尊と仏の弟子たちを指します。

復次，此中對治種類勢相似故，略不宣說樂斷對治，但說對治所作樂斷。何等名為此中對治？所謂捨、念、及以正知。由即於此數修習故，便能棄捨令不出離第三靜慮第三靜慮地中勝樂，是故說言：由樂斷故。修靜慮者，即於爾時，所有苦樂皆得超越。由是因緣，若先所斷、若今所斷，總集說言：樂斷、苦斷，先喜憂沒。謂入第四靜慮定時，樂受斷故；入第二靜慮定時，苦受斷故；入第三靜慮定時，喜受沒故；入初靜慮定時，憂受沒故。今於此中，且約苦、樂二受斷故，說有所餘非苦樂受，是故說言：彼於爾時不苦不樂。

> さらに、ここで対治法の種類が似ているため、楽への対治については簡略に述べず、対治によって為される楽の断除についてのみ説く。では、ここでいう対治法とは何か。それは、捨・念・正知である。これらを繰り返し修習することによって、第三静慮の地における優れた楽から出離できなくなることを捨て去ることができる。よって、「楽を断ずるゆえに」と説かれるのである。 禅定を修する者は、その時にあって、あらゆる苦と楽を超越する。この因縁により、かつて断じたものと、今断じるものとを総合して、「楽断・苦断、先の喜憂は没す」と説かれる。すなわち、第四静慮の定に入る時には楽受が断じられ、第二静慮の定に入る時には苦受が断じられ、第三静慮の定に入る時には喜受が没し、初静慮の定に入る時には憂受が没するからである。今ここでは、苦・楽の二受を断ずることについて述べ、残る非苦非楽受があると説く。よって「彼はその時にあって、苦でもなく楽でもない」と説かれるのである。

從初靜慮一切下地災患已斷。謂尋、伺、喜樂、入息、出息。由彼斷故，此中捨念清淨鮮白。由是因緣，正入第四靜慮定時，心住無動，一切動亂皆悉遠離，是故說言：捨念清淨。第四等言，如前所說初靜慮等，應知其相。

> 初めの静慮（初禅）から、全ての下位の境地における災いや悩みはすでに断たれています。具体的には、心の働き（尋・伺）、喜び（喜・楽）、そして息の出入り（入息・出息）がそれにあたります。これらが断たれたことで、ここには「捨」と「念」が清らかで真っ白な状態として存在します。このような因縁により、第四静慮の定に入るとき、心は動きのない状態に留まり、あらゆる動揺や乱れがすべて離れ去ります。それゆえ、「捨念清浄」と言われているのです。また、「第四」などの数字が示すところは、先に述べた初静慮などの場合と同様に、その特徴を理解すべきです。

復次，以於虛空起勝解故，所有青、黃、赤、白等相應顯色想，由不顯現故，及厭離欲故，皆能超越，是故說言：色想出過故。由不顯現、超越彼想以為因故，所有種種眾多品類，因諸顯色和合積集有障礙想皆得除遣，是故說言：有對想滅沒故。由遠離彼想以為因故，所有於彼種種聚中差別想轉，謂飲、食、瓶、衣、乘、莊嚴具、城、舍、軍、園、山、林等想，於是一切不作意轉，是故說言：種種想不作意故。除遣如是有色、有對種種想已，起無邊相虛空勝解，是故說言：入無邊空。由已超過近分加行究竟作意，入上根本加行究竟果作意定，是故說言：空無邊處具足安住。當知此中，依於近分，乃至未入上根本定，唯緣虛空。若已得入上根本定，亦緣虛空，亦緣自地所有諸蘊。又近分中，亦緣下地所有諸蘊。

> また、虚空についての勝解（清らかな理解）を起こすことにより、青・黄・赤・白などに対応する顕色（はっきりした色）の想い（イメージ）は、現れなくなることと、厭離（嫌って離れる心）の力によって、すべてを超越することができます。そのため「色想を超え過ぎた」と言われます。この想いが現れず、それを超えることが原因となって、さまざまな種類の、顕色の集まりや積み重なりによって生じる障礙（さまたげ）の想いはすべて除かれます。そのため「有対想（対象との対立がある想い）は消え去った」と言われます。この想いから遠ざかることを原因として、あらゆる集合の中での区別の想い——飲み物、食べ物、瓶、衣服、乗り物、装飾品、城、家屋、軍隊、庭園、山、林などの想い——はすべて心に生じなくなります。そのため「種々の想いを意に留めない」と言われます。このようにして、有形であり対象と対立する様々な想いを取り除いた後、広がりのない虚空についての勝解が生じます。そのため「無辺の空に入る」と言われます。近分定（根本定に入る前の段階）と加行究竟作意（修行を完成させる心の働き）を超え、根本定である加行究竟果作意（修行の結果を得る心の働き）の禅定に入ることにより、「空無辺処を具足して安住する」と言われます。ここで知るべきは、近分定に依っている間は、まだ根本定に入っていないため、ただ虚空のみを対象とするということです。根本定にすでに入った後は、虚空も対象とし、また自分の領域にあるすべての蘊（心身の構成要素）も対象とします。また、近分定の中では、下の領域にあるすべての蘊も対象とします。

復次，若由此識，於無邊空發起勝解，當知此識無邊空相勝解相應。若有欲入識無邊處，先捨虛空無邊處想，即於彼識，次起無邊行相勝解。

> さらに、この識によって、限りのない虚空に対してすぐれた理解が生じるなら、この識は限りのない虚空の相と、すぐれた理解とが対応していると知るべきである。もし識無辺処に入ろうとする者は、まず虚空無辺処の想いを捨て、その識に対して、次に限りのないはたらきの相としてすぐれた理解を起こすのである。

爾時超過近分、根本空無邊處，是故說言：超過一切空無邊處，入無邊識。由彼超過識無邊處所有近分，乃至加行究竟作意，入上根本加行究竟果作意定，是故說言：識無邊處具足安住。

> そのとき、さらに下位の段階（近分）を超え、根本の空無辺処に達しました。それゆえ、「すべての空無辺処を超えて、無辺の識に入る」と説かれています。その修行者は、識無辺処に属するすべての近分（準備段階）を超え、加行（修行の努力）から究竟作意（最終的な心の作用）に至り、さらにその上の根本である加行究竟果作意（修行の成果が完成した禅定）に入りました。それゆえ、「識無辺処を具足して安住する」と説かれているのです。

復次，從識無邊處求上進時，離其識外更求餘境，都無所得。謂諸所有或色、非色相應境性。彼求境界無所得時，超過近分及以根本識無邊處，發起都無餘境勝解，此則名為於無所有假想勝解。即於如是假想勝解多修習故，便能超過無所有處一切近分，乃至加行究竟作意，入彼根本加行究竟果作意定，是故說言：超過一切識無邊處，無少所有無所有處具足安住。

> さらに、識無辺処からさらに高みを目指そうとする時、その識の外に別の境地を求めても、何も得るものはない。すなわち、あらゆるものは、色（物質的なもの）であれ、非色である対応する境地であれ、その性質を持つ。この境地を求めても何も得られない時、近分（準備段階）と根本の識無辺処を超え、「他の境地は一切ない」という確かな理解（勝解）を起こす。これを「無所有に対する仮の理解（仮想勝解）」という。このような仮の理解を繰り返し修習することで、無所有処の一切の近分を超え、加行（修行の努力）から究竟作意（最終的な心の働き）に至り、根本の加行究竟果作意の定（深い瞑想状態）に入る。このため、「一切の識無辺処を超え、何ものもない無所有処を完全に具足して安住する」と説かれるのである。

復次，從無所有處求上進時，由於無所有處想起麁想故，便能棄捨無所有處想。由是因緣，先入無所有處定時，超過一切有所有想，今復超過無所有想。是故說言：非有想，謂或有所有想，或無所有想；非無想，謂非如無想及滅盡定，一切諸想皆悉滅盡。唯有微細想，緣無相境轉，是故說言：非想非非想。

> さらに、無所有処からさらに上の境地へ進もうとする時、その無所有処の想いに対して粗い（煩わしい）と捉える想いが生じるため、無所有処の想いを捨てることができるのです。このような理由により、最初に無所有処の定に入った時には、あらゆる「有る」という想いを超えましたが、今度はさらに「無い」という想いをも超えるのです。そのため、「有る想い」とも「無い想い」とも言えません。また、「無想」とも言えません。なぜなら、無想定や滅尽定のように、一切の想いが完全に滅しているわけではないからです。ただ、微細な想いだけが残り、対象のない境涯にそって働いています。そのため、「有想とも無想とも言えない」、すなわち「非想非非想」と呼ばれるのです。

即於此處起勝解時，超過一切近分、根本無所有處，及非想非非想處近分，乃至加行究竟作意，入彼根本加行究竟果作意定，是故說言：超過一切無所有處。於非想非非想處具足安住。

> ここにおいて殊勝な理解が生じるときには、すべての近分と根本の無所有処、さらには非想非非想処の近分を超え、加行究竟作意に至り、その根本にある加行究竟果作意の定に入る。それゆえに「すべての無所有処を超え、非想非非想処において安住する」と説かれるのである。

復次，此中入靜慮定時，其身相狀如處室中；入無色定時，其身相狀如處虛空。當知此中，由奢摩他相，安住上捨，勤修加行。

> さらに、ここで静慮定（禅定）に入るとき、その身体の様子は室内にいるようです。無色定に入るとき、その身体の様子は虚空にいるようです。ここにおいて、奢摩他（止）の相によって、上の捨（しゃ）に安住し、精進して修行の加行に励むことを知るべきです。