---
title: "瑜伽師地論 · 2目 由十六行於四聖諦證成道理廣釋"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cma8zhjru03keib04cud2ems0"
---

由十種行觀察苦諦，能隨悟入苦諦四行。

> 十種の行によって苦諦を観察することで、苦諦の四つの行を悟りに入ることができる。

何等為十？一、變異行，二、滅壞行，三、別離行，四、法性行，五、合會行，六、結縛行，七、不可愛行，八、不安隱行，九、無所得行，十、不自在行。如是十行，依證成道理能正觀察。此中且依至教量理。如世尊說：諸行無常。

> 十とは何か。 一、変化し続けるあり方。 二、滅び去るあり方。 三、別れゆくあり方。 四、本性としてのあり方。 五、結び合うあり方。 六、束縛されるあり方。 七、愛しがたくあるあり方。 八、安心できぬあり方。 九、何ものも得られぬあり方。 十、自由でないあり方。 以上の十のあり方（十行）は、正しい道理（証成道理）に従って、よく観察されるべきものである。 ここでは、ひとまず聖なる教えの言葉（至教量）に基づいて説く。 世尊がこうおっしゃっているからである。「すべての現象（諸行）は無常である」と。

又此諸行略有二種。一、有情世間，二、器世間。世尊依彼有情世間，說如是言：苾芻當知！我以過人清淨天眼，觀諸有情死時、生時，廣說乃至身壞已後，當生善趣天世界中。由此法門，顯示世尊以淨天眼，現見一切有情世間是無常性。又世尊言：苾芻當知！此器世間長時安住，過是已後，漸次乃至七日輪現，如七日經廣說。乃至所有大地、諸山、大海，及蘇迷盧大寶山王，乃至梵世諸器世界，皆被焚燒。災火滅後，灰燼不現，乃至餘影亦不可得。由此法門，世尊顯示諸器世間是無常性。如是且依至教量理，修觀行者淨信增上作意力故，於一切行無常之性獲得決定。

> さらに、これらの行（諸行）には大きく分けて二種類がある。第一に有情世間、第二に器世間である。 世尊はその有情世間について、次のようにお説きになった。「比丘たちよ、知るがよい。私は人を超えた清らかな天眼をもって、多くの有情が死ぬとき、生まれるときを観察し、さらに詳しく言えば、身体が壊れた後、善趣の天界に生まれることを見る」と。 この教えによって、世尊が清らかな天眼をもって、あらゆる有情世間が無常であることを現に見られたことが示されている。 また、世尊はこうもお説きになった。「比丘たちよ、知るがよい。この器世間は長く安住するが、その後、次第に七日が現れるに至り、『七日経』に詳しく説かれる通りとなる。やがてあらゆる大地、山々、大海、そして須弥山王大宝山、梵天界の諸々の器世界に至るまで、すべて焼き尽くされる。災火が消えた後は、灰すら残らず、その影すらも見いだせなくなる」と。 この教えによって、世尊は諸々の器世間が無常であることを示された。 このように、まず聖なる教えの道理（至教量）に基づき、修行者は清らかな信を増上させる作意の力によって、あらゆる行の無常という性質について確かな決定を得るのである。

得決定已，即由如是淨信增上作意力故，數數尋思觀察一切，現見不背、不由他緣無常之性。

> 決定を得たならば、すなわち、このような清らかな信頼を増上させる意欲の力によって、繰り返し思い巡らし観察し、全てを現に見て背かず、他の縁によることなく無常の性質を悟るのである。

云何數數尋思觀察？謂先安立內外二事。言內事者，謂六處等。言外事者，有十六種。一者、地事。謂城邑、聚落、舍、市廛等。二者、園事。謂藥草、叢林等。三者、山事。謂種種山安布差別。四者、水事。謂江、河、陂、湖、眾流、池、沼。五者、作業事。六者、庫藏事。七者、食事。八者、飲事。九者、乘事。十者、衣事。十一者、莊嚴具事。十二者、舞歌樂事。十三者、香鬘塗飾事。十四者、資生具事。十五者、諸光明事。十六者、男女承奉事。如是名為十六種事。安立如是內外事已，復於彼事現見增上作意力故，以變異行尋思觀察無常之性。

> 繰り返し考え観察するとは、まず内と外の二つの事柄を設定することです。内の事柄とは、六処などを指します。外の事柄には十六種類があります。一つ目は「地」の事柄で、城や村、家屋、市場などを指します。二つ目は「園」の事柄で、薬草や林などを指します。三つ目は「山」の事柄で、様々な山の配置や違いを指します。四つ目は「水」の事柄で、川、河、沼、湖、水流、池、水たまりを指します。五つ目は「作業」の事柄、六つ目は「倉庫」の事柄、七つ目は「食べ物」の事柄、八つ目は「飲み物」の事柄、九つ目は「乗り物」の事柄、十目は「衣服」の事柄、十一目は「装飾品」の事柄、十二目は「舞や歌や楽器」の事柄、十三目は「香りや花飾りや塗り物」の事柄、十四目は「生活用品」の事柄、十五目は「光」の事柄、十六目は「男女が仕え奉ること」の事柄です。これらを十六種類の事柄と呼びます。 このように内外の事柄を設定した後、それらの事柄に対して、現に見えることを重視した心の働きによって、変化するあり方（変異行）で考え観察し、無常である性質を探求します。

此中內事，有十五種所作變異，及有八種變異因緣。云何內事有十五種所作變異？一、分位所作變異，二、顯色所作變異，三、形色所作變異，四、興衰所作變異，五、支節具不具所作變異，六、劬勞所作變異，七、他所損害所作變異，八、寒熱所作變異，九、威儀所作變異，十、觸對所作變異，十一、雜染所作變異，十二、疾病所作變異，十三、終沒所作變異，十四、青瘀等所作變異，十五、一切不現盡滅所作變異。

> ここで内なる事柄についてですが、十五種類の変化と、それを引き起こす八種類の因縁があります。では、内なる事柄における十五種類の変化とは何でしょうか。 第一に、段階による変化、 第二に、色の違いによる変化、 第三に、形の違いによる変化、 第四に、盛衰による変化、 第五に、手足などのそろい具合による変化、 第六に、労苦による変化、 第七に、他からの害による変化、 第八に、寒さや暑さによる変化、 第九に、動作や姿勢による変化、 第十に、接触による変化、 第十一に、汚れによる変化、 第十二に、病気による変化、 第十三に、死による変化、 第十四に、青あざなどによる変化、 第十五に、すべてが消え去り見えなくなる変化です。

云何八種變異因緣？一、積時貯畜，二、他所損害，三、受用虧損，四、時節變異，五、火所焚燒，六、水所漂爛，七、風所鼓燥，八、異緣會遇。

> 何が八つの変化の原因か？ 第一に、長い間蓄えておくこと。第二に、他から害を受けること。第三に、使用によってすり減ること。第四に、季節の変化。第五に、火で焼かれること。第六に、水で流され腐ること。第七に、風で乾燥させられること。第八に、異なる条件が重なること。

積時貯畜者，謂有色諸法，雖於好處安置守護，而經久時自然敗壞，其色衰損變異可得。

> 長く蓄えられたものは、色のあるすべての事物について、たとえ良い場所に安置し守っていても、時間が経てば自然に壊れていき、その色が衰え、変わりゆく様子を見ることができる。

他所損害者，謂種種色法，若為於他種種捶打、種種損害，即便種種形色變異。

> 彼が損害を受けるものとは、様々な形あるもの（色法）のことである。もし他者によって様々に打たれたり、様々に傷つけられたりすれば、その結果、様々に形や色が変わってしまうのである。

受用虧損者，謂各別屬主種種色物，受者受用增上力故，損減變異。

> 受用の損減とは、各々別々の所有者に属する様々な色のある物が、受ける者の受用の力によって、損なわれ減少し変化することを言う。

時節變異者，謂秋冬時，叢林藥草華葉果等萎黃零落；於春夏時，枝葉華果青翠繁茂。

> 季節が変わるときというのは、秋や冬になると、林の中の薬草や木々の花、葉、実などが枯れて黄色くなり、散り落ちてしまうことをいいます。反対に、春や夏には、枝や葉、花、実が青々と茂り、生き生きと繁るのです。

火所焚燒者，謂大火縱逸，焚燒村邑、國城、王都，悉為灰燼。

> 火に焼かれるとは、大きな火が勢いよく燃え広がり、村や町、都さえも焼き尽くし、全てを灰にしてしまうことを言います。

水所漂爛者，謂大水洪漫，漂蕩村邑、國城、王都，悉皆淪沒。

> 大水が氾濫して村々や町、国や都までもが押し流され、すべてが沈み込んでしまうこと、それが「水に漂い朽ちる」という意味です。

風所鼓燥者，謂大風飄扇，濕衣、濕地、稼穡、叢林乾㬤枯槁。

> 風が吹き乾かすものとは、強い風が吹きつけて、濡れた衣服や地面、農作物、山林を乾かし枯れさせることを言います。

異緣會遇者，謂緣樂受觸，受樂受時，遇苦受觸；緣苦受觸，受苦受時，遇樂受觸；緣不苦不樂受觸，受不苦不樂受時，遇樂受觸、或苦受觸。又有貪者，會遇瞋緣，貪纏止息，發起瞋纏。如是有瞋、癡者，會遇異分煩惱生緣，當知亦爾。如是眼識正現在前，會遇聲、香、味、觸境等餘境餘緣，起異分識。其餘一切，如理應知。

> 異なる縁と出会うとは、例えば楽受の触縁によって楽受を受けている時に、苦受の触縁に出会うこと。苦受の触縁によって苦受を受けている時に、楽受の触縁に出会うこと。不苦不楽受の触縁によって不苦不楽受を受けている時に、楽受の触縁や苦受の触縁に出会うこと。また、貪りのある者が、瞋りの縁に出会えば、貪りの煩悩は止み、瞋りの煩悩が生じる。このように、瞋りや無知のある者も、異なる種類の煩悩を生じさせる縁に出会うと、同様であると知るべきである。同じように、眼識がまさに現前している時に、声・香・味・触などの他の境や他の縁に出会うことで、異なる種類の識が生じる。その他のすべてについても、道理に従って知るべきである。

是名八種變異因緣。一切有色及無色法所有變異，皆由如是八種因緣，除此更無若過若增。

> これが、八種類の変化の原因となる条件です。 あらゆる物質的なもの（色法）も、物質的でないもの（心法など）も、その変化はすべて、この八つの条件によって生じます。 これ以外に、変化の原因となるものは、少しも増えることはありません。

云何尋思內事分位所作變異無常之性？謂由觀見或自、或他，從少年位乃至老位，諸行相續前後差別，互不相似。見是事已，便作是念：如是諸行，其性無常。何以故？此內分位前後變異現可得故。

> 内なる出来事（五蘊）の段階的な変化によって生じる「無常の性質」を、どのように観察するのでしょうか。 それは、自分自身あるいは他人が、若い時期から老年に至るまで、心と体の働き（諸行）が次々と移り変わり、その前後で違いがあり、互いに似ていない様子を観察することです。 このように観察したならば、こう思うのです。「これらの心身の働きは、その性質が無常である」。それはなぜか。この内なる状態の段階には、前後で異なる変化が現に認められるからです。

云何尋思內事顯色所作變異無常之性？謂由觀見或自、或他，先有妙色，肌膚鮮澤；後見惡色，肌膚枯槁。復於後時，還見妙色，肌膚鮮澤。見是事已，便作是念：如是諸行，其性無常。何以故？此內顯色前後變異現可得故。

> 内なるものにおける「色」の変化と無常性を、どのように観察すべきでしょうか。それは、自分自身か他人に、最初は美しい色艶と潤いのある肌があり、後にその色艶が失われ、肌が枯れていくのを見ることです。さらに後になって、再び美しい色艶と潤いのある肌を取り戻すのを見ることもあります。このような事実を見たとき、こう思うべきです。このように、あらゆる現象（諸行）は無常である。なぜなら、内なるこの「色」が時間の前後で変化していることが、現に観察されるからです。

云何尋思內事形色所作變異無常之性？謂如說顯色，如是形色由肥瘦故，應知亦爾。

> どのようにして、身体（内事）における形や色が作り出す変化と無常の性質を観察すべきでしょうか。それは、先に述べた「色の顕れ（顕色）」の場合と同様に、形や色もまた、痩せたり太ったりすることによって変化するものだと理解すべきなのです。

云何尋思內事興衰所作變異無常之性？謂由觀見或自、或他，先時眷屬財位，或見悉皆興盛；後見一切皆悉衰損。復於後時還見興盛。見是事已，便作是念：如是諸行，其性無常。何以故？興衰變異現可得故。

> どのようにして、内なる事柄の盛衰変化によって生じる無常の性質を観察するのか。 すなわち、自らあるいは他者が、かつて家族や財産・地位のすべてが繁栄していたのを見、その後すべてが衰退・損失していくのを見る。さらに後になって、再び繁栄するのを見る。このようなことを見て、次のように考える。 「このような諸行は、その性質が無常である。なぜなら、盛衰の変化が現に確認できるからである。」

云何尋思內事支節所作變異無常之性？謂由觀見或自、或他，先時支節無有缺減；後時觀見支節缺減。或王所作、或賊所作、或人所作、或非人作。見是事已，便作是念：如是諸行，其性無常。餘如前說。

> 「内なるもの（自己の身体）の部分が、どのように変化し、無常であると観察するのか」と言えば、まず自分か他人かの、かつては完全で欠けるところのなかった体の部分を観察します。その後、王の行いや賊の仕業、人の行為、あるいは人間ならざる者の行為によって、その部分が損なわれているのを見ます。この様子を見たならば、「このような諸々の営み（行）は、その本質において無常である」と心に刻みます。その他の詳細は、先に述べた通りです。

云何尋思內事劬勞所作變異無常之性？謂由觀見或自、或他，身疲勞性、身疲極性。或馳走所作、或跳踊所作、或趒躑所作、或騙騎所作、或作種種迅疾身業。復於餘時，見彼遠離疲勞疲極。見是事已，便作是念：如是諸行，其性無常。餘如前說。

> どのようにして、内なる事柄における苦労や努力によって生じる変化と無常の性質を観察すべきでしょうか。 それは、自分自身や他者の身体が疲れ切っている様子、極度に疲労している様子を観察することから始まります。例えば、走り回る動作、跳びはねる動作、跳び越える動作、馬に乗る動作、あるいは様々な素早い身体的行為などです。その後、別の時に、その人が疲労や極度の疲れから遠ざかっているのを観察します。このような様子を見て、次のように思うべきです。「これらの形成されたものは、その性質として無常である。」残りの部分は先に述べた通りです。

云何尋思內事他所損害所作變異無常之性？謂由觀見或自、或他，他所損害，其身變異。或由刀杖、鞭革、皮繩、矛矟等壞，或由種種蚊虻、蛇蝎諸惡毒觸之所損害。復於餘時，見不變異。見是事已，便作是念：如是諸行，其性無常。餘如前說。

> いかにして、内なるものにおける他者による損害という変異の無常性を観察すべきか。 すなわち、自ら、または他者が他者によって害を受け、その身体に変異が生じるのを見ることにより気づくのである。例えば、刀や杖、鞭や革ひも、皮の縄、槍や矛などによって傷つけられたり、あるいは様々な蚊や虻、蛇や蠍といった悪しき毒虫に触れられて害されることもある。 そして、別の時にはそのような変異がないのを見る。この事実を見たとき、次のように思うべきである。「このように、あらゆる諸行はその性質として無常である」。残りの部分は前に説いたところと同じである。

云何尋思內事寒熱所作變異無常之性？謂由觀見或自、或他，於正寒時身不舒泰，踡跼戰慄；寒凍纏逼，希遇溫陽。於正熱時，身體舒泰，奮身乾語，霡霂流汗；熱渴纏逼，希遇清涼。復至寒時，還見如前所說相狀。見是事已，便作是念：如是諸行，其性無常。餘如前說。

> どのようにして、内なる現象における寒暖による変化と無常の性質を観察するのか。それは、自分自身や他者が厳しい寒さのときに身体が快適でなく、縮こまって震え、寒さと凍えに苦しみながら温もりを求める様子を観察することによる。また、暑さのときには身体が開放的になり、のびをして汗をかき、暑さと渇きに悩まされながら涼しさを求める様子を観察する。やがて再び寒さが訪れると、先に述べたような状態が繰り返される。このような事実を見たならば、修行者はこう思うべきである。『このような営み（諸行）はすべて、その性質が無常である』と。以降は、先に述べた通りである。

云何尋思內事威儀所作變異無常之性？謂由觀見或自、或他行住坐臥隨一威儀，或時為損、或時為益。見是事已，便作是念：如是諸行，其性無常。餘如前說。

> 内なる事柄における、動作や行いの変化と無常の性質を、どのように観察すべきでしょうか。 それは、自分自身または他人が、歩く、立つ、座る、横になるといった、いずれかの動作をしているのを観察し、時にそれが損をもたらし、時に益をもたらすのを見ることです。その様子を見たならば、「このような様々な行いは、その本質が無常である」と考えるのです。その他の点については、先に述べた通りです。

云何尋思內事觸對所作變異無常之性？謂由觸對順樂受觸，領樂觸緣所生樂時，自能了別樂受分位。如能了別樂受分位，如是了別苦受分位、不苦不樂受分位，應知亦爾。彼由了別如是諸受前後變異，是新新性，非故故性，或增或減，暫時而有，率爾現前，尋即變壞。知是事已，便作是念：如是諸行，其性無常。餘如前說。

> どのようにして、内なる事象への接触によって生じる変化と無常の性質を観察すべきでしょうか。 すなわち、楽の感覚をもたらす接触に触れたとき、その楽の接触によって生じる喜びを経験する際に、自らその楽の感覚の状態を明確に認識することができます。同様に、苦の感覚の状態、あるいは苦でも楽でもない感覚の状態を認識することも、同じように理解すべきです。 その人は、これらの様々な感覚が前後して変化していく様子を認識します。それらは常に新しく生じる性質であり、古くからある性質ではありません。増えたり減ったりし、一時的に存在し、突然現れてはすぐに消え去っていきます。 このことを知ったならば、次のように考えます。「これらの現象はすべて、本質的に無常である」と。 その他の点については、先に述べた通りです。

云何觀察內事雜染所作變異無常之性？謂能了知先所生起，或有貪心、或離貪心，或有瞋心、或離瞋心，或有癡心、或離癡心。又能了知隨一一種諸隨煩惱所染污心，又能了知隨一一種諸隨煩惱不染污心。又能了知彼心相續，由諸煩惱及隨煩惱，於前後位，趣入變壞、不變壞性。見是事已，便作是念：如是諸行，其性無常。何以故？心由雜染所作變異現可得故。

> どのように内なる事柄の雑染によって生じる変化と無常の性質を観察すべきか。 それはすなわち、先に生じた心の状態として、貪りの心があるか、貪りの心を離れているか、怒りの心があるか、怒りの心を離れているか、無知の心があるか、無知の心を離れているか、それぞれを如実に知ることである。 また、あらゆる種類の随煩悩によって染められた心、そしてあらゆる種類の随煩悩によって染められていない心をも如実に知る。 さらに、その心の連続が、諸々の煩悩と随煩悩によって、過去・現在・未来の時点において、変化・衰退に向かう性質と、そのままである性質を如実に知る。 この事実を観じて、次のように思う。 「このような諸々の現象（行）は、その本質が無常である。 なぜなら、心は雑染による変化を生じたものとして現に認識できるからである」と。

云何觀察內事疾病所作變異無常之性？謂由觀見或自、或他，先無疾病，安樂強盛；後時觀見或自、或他，遭重病苦，觸對猛利身諸苦受，如前廣說。復於餘時，還見無病，安樂強盛。見是事已，便作是念：如是諸行，其性無常。餘如前說。

> どのようにして、身体内部に関する出来事である「病気による変化が無常である性質」を観察すべきか。それは、まず自分自身や他の人が、以前は病気がなく、安楽で健康であったのを観察する。その後、ある時点で自分自身や他の人が重い病気の苦しみに遭い、激しい身体の苦痛に直面するのを観察する（これについては、先に詳しく述べた通り）。さらに別の時に、再び病気がなく、安楽で健康であるのを観る。このような事を観たならば、このように心に思いを巡らせるべきである。「これらの形成されたもの（諸行）は、その性質として無常である」。その他、先に述べたことに従う。

云何觀察內事終沒所作變異無常之性？謂由觀見今時存活，安住支持；復於餘時，觀見死沒，唯有尸骸，空無心識。見是事已，便作是念：如是諸行，其性無常。餘如前說。

> 内なる事柄について、その終わりや変化が無常である性質をどのように観察するのか。今、生きて存在し、維持されているのを見る。また別の時には、死に至り、ただ屍骸のみで、心識が空であるのを見る。このことを見て、こう思う：このような諸行（すべての形成されたもの）の性質は無常である。その他は先に述べた通りである。

云何觀察內青瘀等所作變異無常之性？謂由觀見死已尸骸，或於一時至青瘀位，或於一時至膿爛位，如是乃至骨鎖之位。見是事已，便作是念：如是諸行，其性無常。餘如前說。

> 内の青瘀などの変化が作り出す無常の性質を、どのように観察するのですか？ それは、死んだ後の死体が、ある時は青く変色した状態になり、ある時は膿んで爛れた状態になり、こうして骨の連なりの状態に至るまでを観察することであります。このような現象を見たならば、次のように思うべきです。「このように、すべての形成されたものは、その性質が無常である」と。その他の点は、前に述べた通りです。

云何觀察內事一切不現盡滅所作變異無常之性？謂由觀見彼於餘時，此骨鎖位亦復不現，皆悉敗壞、離散、磨滅，遍一切種眼不復見。見是事已，便作是念：如是諸行，其性無常。何以故？如是色相數數改轉，前後變異現可得故。

> 内なる事柄を観察するとは、いったいどのようなことか。それは、あらゆる現象が姿を現さなくなり、滅し尽くされ、作り変えられ、無常の性質を持つ様子を観察することである。すなわち、その骨の連なりもやがては現れなくなり、全て朽ち果て、散り散りになり、消え去り、あらゆる面で眼に映らなくなるのを見ることである。このように見て、「実に、これらの形成されたものは、その性質が無常である。なぜなら、このような色や形は度々変わり、前後で異なった状態に変転するのが現に見られるからだ」と考えるのである。

如是且由現見增上作意力故，十五種行觀察內事種種變異無常之性。

> このようにして、直接に見るという特別な心の働きによって、十五種類の観察方法を通して、自己の内側にある様々な変化する事柄の無常という性質を観察するのです。

觀察是已，復更觀察十六外事種種變異無常之性。

> この観察を終えたならば、さらに外側の十六種類の事柄が様々に変化し、無常である性質を観察します。

云何觀察地事變異無常之性？謂由觀見此地方所，先未造立道場、天寺、宅舍、市鄽、城牆等事；後見新造，善作善飾。復於餘時，見彼朽故，圮坼、零落、頹毀、穿缺，火所焚燒、水所漂蕩。見是事已，便作是念：如是諸行，其性無常。何以故？如是色相前後轉變現可得故。

> 地（じ）の変異（へんい）と無常（むじょう）の性質を観察するには、どうすればよいのでしょうか。それは、ある場所を見て観察することです。そこに、以前は道場（どうじょう）・天寺（てんじ）・宅舎（たくしゃ）・市場（いちば）・城壁（じょうへき）などが設けられていなかったのに、後になって新しく建てられ、見事に造られ飾られているのを見ます。また、別の時に、それが古びて朽ち、崩れ落ち、荒れ果て、穴が開き、火で焼かれ、水で流されるのを見ます。このようなことを見たならば、こう思うのです。「これらの現象（諸行）は、その性質が無常である。なぜか？ このような姿かたちが、前と後で変化して現れているのが分かるからである」と。

云何觀察園事變異無常之性？謂先觀見諸園苑中，藥草、叢林、華果、枝葉悉皆茂盛，青翠丹暉，甚可愛樂；復於後時，見彼枯槁，無諸華果，柯葉零落，火所焚燒、水所漂蕩。見是事已，便作是念：如是諸行，其性無常。餘如前說。

> 園地の変化する無常の性質をどのように観察すべきか。まず、庭園の中に薬草や木々、花や果実、枝葉がすべて茂り、青々と鮮やかで、見る者に喜びを与える様子を観察する。その後、それらが枯れ果て、花や果実もなく、枝葉が落ち、火で焼かれ、水に流されるのを見る。このように観察したならば、「このような諸行は、その性質が無常である」と心に思う。その他は先に述べた通りである。

云何觀察山事變異無常之性？謂於一時，觀見其山，叢林蓊欝，聳石巉巖；復於一時，見彼叢林，巉巖聳石，彫殘頹毀，高下參差，火所焚燒、水所漂蕩。見是事已，便作是念：如是諸行，其性無常。餘如前說。

> いかにして山の変化し無常なる性質を観察すべきか。すなわち、ある時には山を見れば、林が生い茂り、岩がそびえ立つ。またある時には、その林や岩が焼け崩れ、高低様々に荒れ果て、火に焼かれ水に流されるのを見る。このことを見て、こう思う——このような諸々の現象は、その性質が無常であると。残りは先に述べた通りである。

云何觀察水事變異無常之性？謂先一時，見諸河瀆池泉井等，濤波涌溢，醴水盈滿；後於一時，見彼一切枯涸乾竭。見是事已，便作是念：如是諸行，其性無常。餘如前說。

> では、水の変化が無常である性質をどのように観察するのでしょうか？まず、ある時には、川や堀、池、泉、井戸などが波立ち溢れ、甘い水で満ちているのを見ます。その後、ある時には、それらすべてが枯れ果てて乾いてしまうのを見ます。このようなことを見て、こう思います。これらの営み（諸行）は、その性質が無常である、と。その他の点は、先に述べたとおりです。

云何觀察業事變異無常之性？謂先一時，見彼種種殉利牧、農、工巧、正論、行船等業皆悉興盛；復於一時，見彼事業皆悉衰損。見此事已，便作是念：如是諸行，其性無常。餘如前說。

> どのようにして「業（わざ）の変化が無常である性質」を観察するのか。 それは、まずある時には、人々が利益を追い求めて牧畜・農業・手工芸・法律論・航海などの様々な仕事に励み、そのすべてが盛んに行われているのを見る。そしてまた別の時には、それらの事業がすべて衰え、損なわれていくのを見る。こうした様子を見たならば、こう考える――「このように、あらゆる営み（行）は、その性質が無常である」と。その他の点については、先に述べた通りである。

云何觀察庫藏變異無常之性？謂由觀見種種庫藏，一時盈滿，一時滅盡。見此事已，便作是念：如是諸行，其性無常。餘如前說。

> 蔵の変化し、無常である性質をどのように観察するのか。それは、様々な蔵が一時は満たされ、一時は空になるのを観察することによる。このことを見たならば、こう思うべきである。「これらの営みは、その性質が無常である」と。その他の点は、先に述べた通りである。

云何觀察飲食變異無常之性？謂由觀見種種飲食，一時未辦，一時已辦，一時入口，牙齒咀嚼，和雜涎唾，細細吞咽；一時入腹，漸漸消化；一時變為屎尿流出。見此事已，便作是念：如是諸行，其性無常。餘如前說。

> どのようにして飲食の変化が無常である性質を観察するのか。 それは、様々な食べ物や飲み物が、まだ準備されていない状態から、準備され、口に入れられ、歯で噛み砕かれ、唾液と混ざり合い、細かく飲み込まれ、腹に入り、次第に消化され、やがて大小便となって体外に出ていく様子を観察することによる。 このように観察したならば、次のように考える。「このような全ての現象は、その本質が無常である」と。 その他の詳細は、先に述べた通りである。

云何觀察乘事變異無常之性？謂於一時，見種種乘，新妙莊嚴，甚可愛樂；復於一時，見彼朽故，離諸嚴飾。見此事已，便作是念：如是諸行，其性無常。餘如前說。

> 乗り物の変化する無常の性質をどのように観察するのか。例えば、ある時は様々な乗り物が新しく美しく飾られ、とても愛らしく見える。また別の時には、それらが古びて朽ち、飾りも全て失われているのを見る。このことを見て、こう思うのだ。『このように、すべての現象（諸行）は無常の性質を持つものである』と。残りの部分は前と同じように説かれる。

云何觀察衣事變異無常之性？謂由觀見種種衣服，一時新成，一時故壞，一時鮮潔，一時垢膩。見此事已，便作是念：如是諸行，其性無常。餘如前說。

> 衣服の移り変わりにおける無常の性質を、どのように観察すべきでしょうか。それは、様々な衣服が、時に新しく作られ、時に古びて壊れ、時に清らかで、時に汚れていくのを見ることです。この事実を見たならば、こう思うべきです。「このように、すべての現象（諸行）は、その本質が無常である」と。その他の詳細は、先に述べた通りです。

云何觀察嚴具變異無常之性？謂由觀見諸莊嚴具，一時未成，一時已成，一時堅固，一時破壞。見此事已，便作是念：如是諸行，其性無常。餘如前說。

> どのようにして装飾品の変化し無常である性質を観察するのか。 それは、様々な装飾品が、ある時は未完成であり、ある時は完成し、ある時はしっかりと形を保ち、ある時は壊れていくのを見ることによる。 このことを見て、こう思う。「これらのもろもろの現象は、その性質が無常である」と。 その他は、先に述べた通りである。

云何觀察舞歌樂事所有變異無常之性？謂由觀見舞歌伎樂，現在種種音曲差別，異起異謝。見此事已，便作是念：如是諸行，其性無常。餘如前說。

> 舞や歌や楽器の演奏といった事柄について、その変化し移りゆく性質をどのように観察すべきでしょうか。それは、こうした舞や歌や芸能において、今まさにさまざまな音や曲が次々と現れては消えていく様子を観察することによります。このことを見極めたならば、こう思うべきです。「このような一切の営み（諸行）もまた、その本質は無常である」と。その後の解釈は、先に述べたところと同じです。

云何觀察香鬘塗飾所有變異無常之性？謂先觀見種種香鬘，鮮榮芬馥；後時見彼萎悴臭爛。見此事已，便作是念：如是諸行，其性無常。餘如前說。

> どのようにして、香水や花飾りなどの装飾品の変化や無常の性質を観察するのか？ まず最初に、様々な種類の花飾りや香水が、新鮮で美しく、芳しい香りを放っている様子を観察する。 その後、それらが枯れ落ち、悪臭を放ち、朽ち果てていく様子を観察する。 このように観察したならば、「これらの現象（諸行）は、その本質が無常である」と心に思うべきである。 その他の細かな説明は、前述の通りである。

云何觀察資具變異無常之性？謂觀見彼，未造、已造、成滿、破壞，前後變異。見此事已，便作是念：如是諸行，其性無常。餘如前說。

> どのようにして、所有物の変化する無常の性質を観察するのか。それは、それらがまだ作られていない状態、すでに作られた状態、完成した状態、そして壊れた状態という、前後で変化するのを見て取ることである。このことを見たならば、このように思う。「このような現象はすべて、その性質が無常である」と。残りは前述の通りである。

云何觀察光明變異無常之性？謂由觀見種種明闇生滅變異。見此事已，便作是念：如是諸行，其性無常。餘如前說。

> どのようにして光明の変化や無常性を観察するのか。それは、様々な明るさや暗さが生じては消え、変化していく様子を観察することによる。このことを見たならば、このように思うべきである。「これらの現象はすべて、その本質が無常である」と。残りは前に述べた通りである。

云何觀察男女承奉所有變異無常之性？謂觀見彼，或衰、或盛，不久堅住。見此事已，便作是念：如是諸行，其性無常。餘如前說。

> 男女の奉仕にどのような変化があり、無常の性質があるのかと観察するにはどうすればよいか。それは、彼らが衰えたり盛んになったりして、長くは続かないのを見ることである。このことを見て、次のように思う。このような行（さまざまな現象）は、すべて無常の性質を持つものである。それ以外は先に述べた通りである。

如是一切外事諸行，前之六種是所攝受事，後之十種是身資具事。以要言之，當知其性皆是無常。何以故？形相轉變現可得故。由如是等如前所說諸變異行現見增上作意力故，於內外事，如其所應，以變異行，觀察一切是無常性。由是因緣，於諸變異無常之性，現見不背，不由他緣，非他所引，隨念觀察，審諦決定。即由如是所說因緣，說名現見增上作意。

> このように、あらゆる外なる行ない（外界の現象）について見れば、先の六つは受け入れ享受する対象であり、後の十種は身体が生きていくための道具である。ひと言で言えば、その性質はすべて無常であると知るべきである。なぜか。その形や相が変化し転換することが、現に確認できるからである。以上に述べたような様々な変化のあり方を、現に見ることの優れた心の働き（現見増上作意）の力によって、内外の事柄に対して、それぞれに応じて、変化の様相をもって、あらゆるものが無常の性質であると観察する。そのため、様々な変化という無常の性質を、現に見て背かず、他に依らず、他によって導かれることなく、心を込めて観察し、熟考して確かに決定する。このように説かれた因縁によって、これを「現見増上作意」と名付ける。

即由如是現見增上作意力故，觀察變異無常性已。

> このように、まさに現に見るところに基づいて、観察の力を強めることによって、変化し無常であるという性質を観察した後で。

彼諸色行雖復現有剎那生滅、滅壞無常，而微細故，非現所得。故依現見增上作意，應正比度。

> あらゆる物質的な現象は、その瞬間瞬間に生じては滅し、壊れ去り、永遠ではないにもかかわらず、あまりにも微細であるため、直接には認識できません。したがって、直接見えるものを手がかりとして、よく観察し、正しく推し量るべきなのです。

云何比度？謂彼諸行，要有剎那生滅滅壞，方可得有前後變異，非如是住得有變異。是故諸行必定應有剎那生滅。

> いかにして比度（推理）するのか。例えば、あらゆる「行（現象）」は、瞬間ごとに生まれては消え、消えては壊れるという性質があるからこそ、前後の変化や移り変わりが生じるのである。もしこれらの現象がそのまま止まり続けるならば、変化することはありえない。したがって、すべての「行」は必ず瞬間的な生滅を伴うと理解すべきである。

彼彼眾緣和合有故，如是如是諸行得生，生已不待滅壞因緣，自然滅壞。如是所有變異因緣，能令諸行轉變生起。此是變異生起因緣，非是諸行滅壞因緣。所以者何？由彼諸行，與世現見滅壞因緣俱滅壞已，後不相似生起可得，非彼一切全不生起。或有諸行既滅壞已，一切生起全不可得。如煎水等，最後一切皆悉消盡；災火焚燒器世間已，都無灰燼，乃至餘影亦不可得。

> あらゆる因縁が集まり合って存在するからこそ、このように諸々の現象（行）が生じるのです。そして、一度生じたものは、消え去るための因縁を待つまでもなく、自然に消え去ります。このように、あらゆる変化の因縁は、諸々の現象を変化させ、生じさせる力を持っています。しかし、これらは諸々の現象が消え去るための因縁ではありません。なぜなら、諸々の現象は、世の中で目に見える消滅の因縁と共に消え去った後も、後に似ていない形で再び生じることがありうるからです。そのすべてが全く生じなくなるわけではありません。あるいは、諸々の現象が消え去った後は、一切の生起が全く見られなくなることもあります。例えば、水を煎じつづけて最後にはすべてが尽きてなくなるように、また、災いの火が世界を焼き尽くした後には、灰ひとつ残らず、影すらも見えなくなるように。

彼亦因緣後後展轉漸減盡故，最後一切都無所有。不由其火作如是事。是故變異，由前所說八種因緣，令變生起，自然滅壞。如是比度作意力故，由滅壞行，於彼諸行剎那生滅、滅壞無常而得決定。於如是事得決定已，復於他世非所現見諸行生起，應正比度。

> それもまた因縁により次々と徐々に減り尽くすため、最後にはすべてが何もなくなります。火がそのようなことを起こすわけではありません。したがって、変化は先に述べた八つの因縁によって生じ、自然に滅び去ります。このように比度し作意する力によって、滅びゆくという観点から、あらゆる現象の刹那ごとの生滅と、消え去る無常性が確かに理解されます。このような事実を確かに理解したならば、さらにこの世では直接見ることのできない来世における諸現象の生起についても、正しく比度して理解すべきです。

云何比度？謂諸有情現有種種差別可得。或好形色、或惡形色，或上族姓、或下族姓、或富族姓、或貧族姓，或大宗葉、或小宗葉，或長壽命、或短壽命，言或威肅、或不威肅，或性利根、或性鈍根。如是一切有情差別，定由作業有其差別，方可成立，非無作業。如是有情色類差別，定由先世善不善業造作增長種種品類。由彼因緣，於今自體差別生起，不應自在變化為因。何以故？若說自在變化為因，能生諸行，此所生行為唯用彼自在為緣？為待餘緣，如是自在方能變化。若唯用彼自在為緣，是則諸行與彼自在俱應本有，何須更生。若言先有自在體性，然後行生，是則諸行不唯自在為緣生起。若言自在隨其所欲、功用、祈願，方能造化，是故亦用欲為因緣，非唯自在。若爾，此欲為有因耶？為無因耶？若言有因，即用自在以為因者，此則同前所說過失，不應道理。若言此欲更有餘因，是則如欲，功用、祈願離自在外，餘法為因。如是亦應一切諸行皆用餘法以為其因，何須妄計無用自在。由如是等比度增上作意力故，於有他世諸行生起獲得決定。如是略由三種增上作意力故，尋思觀察內外諸行是無常性。謂淨信增上作意力故，現見增上作意力故，比度增上作意力故。

> では、どのように比度（推論）するのか。それは、世の中の生きとし生けるものたちに、さまざまな違いが見られることによる。例えば、容姿の良い者、悪い者、家柄の高い者、低い者、裕福な家の者、貧しい家の者、一族の大きい者、小さい者、長命な者、短命な者、威厳のある者、ない者、生まれつき頭の良い者、鈍い者。このように、すべての生き物の違いは、必ずその行い（業）の違いによって生じたと認められてはじめて、道理が成り立つ。行いなしにこれらの違いがあるはずがない。つまり、生き物たちの姿かたちの違いは、必ず前世における善い行い、あるいは悪い行いが積み重なって、様々な種類の結果となったものである。その因縁によって、今現在の自身の体に違いが生じているのであって、決して「自在神」の作為などを因とするものではない。なぜなら、もし自在神の変化を因として、すべての現象が生じるとするならば、その生じた現象は、ただその自在神だけを縁として生じるのか。それとも、他の縁を待って初めて、自在神が変化するのか。もし、ただ自在神だけを縁として生じるならば、その現象も自在神も、もともと存在していたことになり、改めて生じる必要などない。もし、まず自在神という体があって、その後で現象が生じるというならば、その現象は自在神だけを縁として生じるわけではないことになる。もし、自在神が自分の望みや願い、祈りに従って、初めて万物を造化するというならば、それもまた欲望を因縁としているのであって、自在神だけが因ではない。そうだとすれば、その欲望自体に因があるのか。それとも、因はないのか。もし因があるとして、その因もまた自在神であるとするならば、これは先ほどと同じ過ちに陥り、道理に合わない。もし、この欲望にさらに別の因があるとするならば、欲望と同様に、願いや祈りも、自在神とは別の法を因として持つことになる。そうであれば、すべての現象もまた、他の法を因とするのであって、無用な自在神をあれこれ考える必要などどこにもない。 このように、比度（推論）という増上作意の力によって、「来世」という現象の生起について、確かな理解（決定）を得ることができる。 以上、大まかに三種類の増上作意の力、すなわち「清らかな信による増上作意の力」「現に見ることによる増上作意の力」「比度（推論）による増上作意の力」によって、内なるものも外なるものも、すべての現象は無常であると、尋ね考え観察するのである。

於前所舉能隨順修無常五行，已辯變異、滅壞二行。

> 既に挙げた「無常」の五つの観察法のうち、「変異」と「滅壊」の二つについては説明しました。

云何復由別離行故觀無常性？謂依內外二種別離，應知諸行是無常性。依內別離無常性者，謂如有一，先為他主，非奴、非使，能自受用，能驅役他作諸事業；彼於後時退失主性，非奴使性，轉得他奴及所使性。於主性等，名為別離無常之性。依外別離無常性者，謂現前有資生財寶，先未變異，未為別離無常滅壞；後時為王、盜賊、非愛，及共財等之所劫奪，或由惡作加行失壞，或方便求而不能得。

> さらに、どのように「別離」という観点から無常性を観察するのか。それは、内的な別離と外的な別離の二つによって、あらゆる営みが無常であることを理解すべきである。 内的な別離による無常性とは、例えば、ある人がかつては他人の主人であり、奴隷でも召使でもなく、自らの力で財産を享受し、他人を働かせて様々な仕事をさせていたとする。しかし、後にその主人としての立場を失い、奴隷や召使の身分ではなくなり、かえって他人の奴隷や召使となってしまう。このように、主人の立場などが失われることを、内的な別離による無常性という。 外的な別離による無常性とは、例えば、目前にある生活や財産が、最初は変化もなく、別離や無常によって失われることもなかったが、後になって王、盗賊、嫌な者、あるいは共同の財産を持つ者などに奪われたり、あるいは悪行や過ちによって失われたり、努力して求めても得られなくなったりすることである。

如是等類，應知是名由別離行知無常性。

> このように、様々な事例を通じて、別れによって無常の性質を知ることができると知るべきです。

云何復由法性行故觀無常性？謂即所有變異無常、滅壞無常、別離無常，於現在世猶未合會，於未來世當有法性。如實通達如是諸行，於未來世當有法性。如是等類，名為通達法性無常。

> では、法性の働きによって無常性を観るとはどういうことか。 すなわち、あらゆる「変化してやまない無常」「滅び去る無常」「離れ別れる無常」が、現在の世においてはまだ起こっていないが、未来の世において必ず起こるという法の性質（法性）を、あるがままに悟り尽くすことである。 このように、あらゆる現象（諸行）が未来において必ずそうなるという法性をありのままに理解することを、「法性の無常を悟る」というのである。

云何復由合會行故觀無常性？謂即如是變異無常、滅壞無常、別離無常，於現在世合會現前。如實通達如是諸行，於現在世現前合會。如是等類，名為通達合會無常。彼於如是內外諸行五無常性，由五種行，如其所應，作意修習、多修習故，獲得決定。

> 次に、「どのようにして、集まり合う働き（合会行）によって無常性を観じるのか。」について説明します。すなわち、先に述べた変異無常、滅壊無常、別離無常が、現在の世界において集まり合い、目の前に現れているのです。このように、これらの様々な働き（諸行）が現在において実際に集まり合っていることを、あるがままに理解します。このような類の理解を、「集まり合う無常の理解」と呼びます。こうして、内外の様々な働きにおける五つの無常性について、五つの修行方法に従って、適切に心を働かせ、繰り返し修習することによって、確かな決定が得られるのです。

如是由證成道理及修增上故，於無常行得決定已，從此無間趣入苦行。

> このように、証（証明）の道理と修行の増上（より高めること）によって、無常という行（実践）について確かな理解を得たなら、その後に間を置かずに苦の行へと進むのである。

作是思惟：如是諸行皆是無常；是無常故，決定應是有生法性；如是諸行既是生法，即有生苦；既有生苦，當知亦有老病死苦、怨憎會苦、愛別離苦、求不得苦。如是且由不可愛行趣入苦行。

> このように考えた。すなわち、すべての形成されたもの（諸行）は無常である。この無常であるがゆえに、必ずや生まれ変わる性質（生法性）を持つものであると確かに言える。このように、諸行は生まれるものである以上、そこには生まれる苦しみ（生苦）が存在する。生まれる苦しみが存在するならば、老いや病、死の苦しみ、嫌なものに出会う苦しみ、愛する者との別れの苦しみ、求めるものが得られない苦しみもまた存在することを知るべきである。このようにして、まずは愛着できない現象（不可愛行）を通じて、苦しみの現象（苦行）へと進んでいくのである。

如是復於有漏、有取、能順樂受一切蘊中，由結縛行趣入苦行。所以者何？以於愛等結處生愛等結，於貪等縛處生貪等縛。便能招集生老病死愁悲憂苦，一切擾惱純大苦蘊。

> このようにして、煩悩（ろ）に汚され、執着（しゅ）を伴い、楽受に順じたすべての蘊（うん）の中にあって、結びつきや束縛の働きにより、苦しみの行（ぎょう）へと入っていくのである。なぜか。愛などの結びつくところに愛などの結びが生じ、貪りなどの束縛するところに貪りなどの束縛が生じるからである。このようにして、生・老・病・死、愁い・悲しみ・苦しみ・憂い、その他すべての悩み乱れるところの、純粋に大きな苦しみの集まりである蘊を招き集めるのである。

如是復於有漏、有取、順非苦樂一切蘊中，由不安隱行趣入苦行。所以者何？有漏、有取、順非苦樂一切諸蘊，麁重俱行苦、樂種子之所隨逐，苦苦、壞苦、不解脫故，一切皆是無常滅法。如是行者，於能隨順樂受諸行及樂受中，由結縛行趣入壞苦。於能隨順苦受諸行及苦受中，由不可愛行趣入苦苦。於能隨順不苦不樂受諸行及不苦不樂受中，由不安隱行趣入行苦。

> そこで、煩悩のある執着のある非苦非楽のすべての蘊（五蘊）においても、不安定な働きによって苦行へと入っていく。なぜか。煩悩のある執着のある非苦非楽のすべての蘊は、重苦しい働きを伴い、苦と楽の種子が付きまとっており、苦苦、壊苦、行苦から解脱していないからである。それゆえ、これらはすべて無常であり滅する法である。 このように修行者は、楽受に随順する諸行と楽受そのものにおいては、結びつき束縛する働きによって壊苦へと入り、苦受に随順する諸行と苦受そのものにおいては、愛しくない働きによって苦苦へと入り、非苦非楽の受に随順する諸行と非苦非楽の受そのものにおいては、不安定な働きによって行苦へと入っていくのである。

如是由結縛行、不可愛行、不安隱行增上力故，於三受中作如是說：諸所有受皆悉是苦。如是名為由無常行作意為先，趣入苦行。

> このようにして、結びつきや束縛の行、愛されざる行、安らぎなき行の働きが強まることにより、三つの感受において次のように説かれる。「あらゆる感受はすべて苦である」と。これが、無常の行を観察することを先として、苦の行へと進む境地であると名づけられる。

復作是念：我於今者，唯有諸根、唯有境界、唯有從彼所生諸受、唯有其心、唯有假名我我所法、唯有其見、唯有假立，此中可得，除此更無若過若增。如是唯有諸蘊可得。於諸蘊中，無有常恒、堅住、主宰，或說為我，或說有情，或復於此說為生者、老者、病者、及以死者，或復說彼能造諸業、能受種種果及異熟。由是諸行皆悉是空，無有我故。如是名為由無所得行趣入空行。

> また、こう考えた。「今、私にはあるのは諸々の感覚器官（根）だけであり、諸々の対象（境界）だけであり、それらから生じる諸々の受け取り（受）だけであり、ただ心（心）だけであり、仮の名前としての私と私のもの（我我所）という法だけであり、ただ見解（見）だけであり、仮に立てられたもの（仮立）だけである。この中にそれらがあるだけで、それ以上に増えたり超えたりするものは何もない。このようにして、ただ諸々の構成要素（蘊）があるのみである。諸々の構成要素のうちには、永遠不変で、堅固に留まり、支配するもの、あるいはそれを「私」と呼び、「有情」と呼び、あるいはそこに「生まれる者」「老いる者」「病む者」「死ぬ者」と呼び、あるいはそれを様々な業を造り、様々な果報や異熟を受ける者と呼ぶようなものは何もない。それゆえに、一切の形成されたもの（諸行）はすべて空であり、「私」というものがないのである。これを「無所得によって空の行に入る行」と名付ける。

復作是念：所有諸行，與其自相及無常相、苦相相應。彼亦一切從緣生故，不得自在；不自在故，皆非是我。如是名為由不自在行入無我行。

> さらにこう考えた——「あらゆる営み（諸行）は、それぞれの特徴と無常・苦という性質を伴っている。それらもまたすべて因縁によって生じるものであり、自在ではない。自在でないからこそ、どれも我（永遠の自己）ではない。」このように、自在でないという働きから、無我を理解する行に入る。

如是行者，以其十行攝於四行，復以四行了苦諦相。謂無常行五行所攝。一、變異行，二、滅壞行，三、別離行，四、法性行，五、合會行。

> このように修行する者は、その十の行によって四つの行を統摂し、さらに四つの行によって苦諦の相を了知する。すなわち、無常行は五つの行に統摂される。一に変異行、二に滅壊行、三に別離行、四に法性行、五に合会行である。

苦行三行所攝。一、結縛行，二、不可愛行，三、不安隱行。

> 苦行には三つの種類が含まれます。第一に束縛をもたらす行、第二に愛されない行、第三に安らかでない行です。

空行一行所攝。謂無所得行。

> 空行に含まれるもの、それは「得るものがない」という行いのことです。

無我行一行所攝。謂不自在行。

> 無我行は一行に摂せられる。すなわち、自在でない行である。

彼由十行悟入四行。復由四行，於苦諦相正覺了已，次復觀察如是苦諦，何因？何集？何起？何緣？由斷彼故，苦亦隨斷。如是即以集諦四行了集諦相。謂了知愛能引苦故，說名為因。既引苦已，復能招集令其生故，說名為集。既生苦已，令彼起故，說名為起。復於當來諸苦種子能攝受故，次第招引諸苦集故，說名為緣。

> その修行者は、十の修行によって四つの真理を悟る。さらにその四つの真理によって、苦という真理の姿を正しく覚り、その後に、この苦という真理は、何を因とし、何を集とし、何を起とし、何を縁とするのかと観察する。それらを断つことによって、苦もまた共に断たれる。このようにして、集諦の四つの側面によって集諦の姿を了知する。すなわち、愛執が苦を引き起こすことを了知するので、「因」と名づける。苦を引き起こしたならば、さらにそれを招き集めて生じさせるので、「集」と名づける。苦を生じさせたならば、それを起こさせるので、「起」と名づける。さらに未来における諸々の苦の種子を摂受し、次第に諸々の苦を招き集めるので、「縁」と名づける。

復有差別。謂了知愛是取因故，復能招集即以其取為因有故，復能生起有為上首當來生故，又能引發以生為緣老、病、死等諸苦法故。隨其所應，當知說名因、集、起、緣。

> また、別の違いがある。すなわち、「愛（あい）」が「取（しゅ）」の原因であると正しく知るからこそ、さらにそれを集め、その「取」を因として「有（う）」がある。さらに「有」を最も重要なものとして、未来の「生（しょう）」を起こすことができる。また、「生」を縁として、「老（ろう）」「病（びょう）」「死（し）」などの様々な苦しみの法を引き起こす。これらに応じて、それぞれ「因（いん）」「集（じゅう）」「起（き）」「縁（えん）」と呼ばれることを知るべきである。

復有差別。謂正了知煩惱隨眠附屬所依，愛隨眠等是當來世後有生因。又正了知彼所生纏，隨其所應，是集、起、緣。謂後有愛能招引故，即是其集；此後有愛，復能發起喜貪俱行愛；此喜貪俱行愛，復與多種彼彼喜愛為緣。如是依止愛隨眠等及三種纏，能生後有，及能發起諸愛差別，是故說名因、集、起、緣。如是行者，由四種行了集諦相。

> さらに別の違いがある。すなわち、煩悩の潜在力（随眠）が存在の基盤（所依）に付属し、愛の潜在力などが未来の再生（後有）を生む原因であると正しく了知すること。また、それから生じる顕在的な煩悩（纏）が、それぞれに応じて「集」「起」「縁」となることを正しく了知すること。すなわち、未来の生存への執着（後有愛）は結果を招き寄せるので、これが「集」である。この未来生存への愛は、さらに喜びと貪りを伴う愛（喜貪倶行愛）を生じさせる。この喜びと貪りを伴う愛は、さらに様々なものごとへの執着（彼彼喜愛）の縁となる。このように、愛の潜在力などと三種の顕在的な煩悩（纏）に依って、未来の生存が生まれ、様々な愛の違いが生じる。ゆえに、これらを「因」「集」「起」「縁」と名付ける。このように修行者は、四つの観点によって集諦（苦の原因という真理）の特性を了知するのである。

於集諦相正覺了已，復正覺了如是集諦無餘息滅，故名為滅。一切苦諦無餘寂靜，故名為靜。即此滅、靜，是第一故、是最勝故、是無上故、說名為妙。是常住故、永出離故，說名為離。如是行者，由四種行了滅諦相。

> 集（原因の集まり）という真理を正しく悟ったならば、さらに「この集という真理が、残りなく消え去ること」を正しく悟る。これを「滅」という。すべての苦しみという真理が、残りなく静まることから、これを「静」という。この「滅」と「静」は、第一であるから、最も優れているから、この上ないものであるから、「妙」と呼ばれる。また、常住であるから、永遠に解脱しているから、「離」と呼ばれる。このように修行者は、四つの観点から「滅」という真理を理解するのである。

於滅諦相正覺了已，復正覺了真對治道，於所知境能通尋求義故，能實尋求義故，由於四門隨轉義故，一向能趣涅槃義故，所以說名道、如、行、出。如是行者，由四種行了道諦相。

> 滅の真理の特徴を正しく覚ったならば、さらに真の対治の道を正しく覚ります。この道は、知るべき対象をよく探し求める性質があり、実際に真理を探し求める性質があり、四つの門によって転ずる性質があり、ひたすら涅槃に向かう性質があることから、道・如・行・出と名づけられます。このように修行する者は、四つの行によって道諦の特徴を観察するのです。

如是名為於四聖諦自內現觀了相作意。

> これが、四つの聖なる真理について、自ら内に観察して相を明らかにする修行のあり方と呼ばれるものです。

彼既如是於其自內現見諸蘊，依諸諦理，無倒尋思正觀察已。

> 彼は、自己の内なる諸々の「蘊（色・受・想・行・識）」をこのように明確に見極め、諸々の真理（諦）に基づいて、誤りのない正しい観察と思索を行ったのである。

復於所餘不同分界不現見蘊，比度觀察。謂彼所有，有為、有漏，遍一切處、遍一切種，於一切時，皆有如是法、皆墮如是理、皆有如是性。彼所有滅，皆永寂靜，常住安樂。彼所有道，皆能永斷，究竟出離。

> また、残された異なる区分の現に見えない蘊についても、推論と観察によって考える。すなわち、それらすべてのものは、つくられたものであり、煩悩を伴い、あらゆる場所に、あらゆる種類に、あらゆる時に、このような法が存在し、このような理に従い、このような性質を持つ。それらのすべての滅は、永遠に静まり、常に安らかで楽しい。それらのすべての道は、すべてを永遠に断ち切り、究極の解脱に至る。

當知此中，若於現見諸蘊諦智，若於所餘不同分界不現見境比度諦智，即是能生法智、類智種子依處。

> ここで知っておくべきことは、直接知覚できる諸々の蘊（しょえん）についての真理の智慧（ちえ）と、それとは種類を異にする、直接には知覚できない領域についての推論による真理の智慧の二つが、法智（ほうち）と類智（るいち）という智慧を生み出す種子（しゅじ）の拠り所となる、ということです。

又即如是了相作意，當知猶為聞思間雜。

> このように、了相作意（諸行の無常や苦などの本質を観察する心の働き）は、まだ聞（学んだこと）と思（考えたこと）が混ざった段階であると知るべきです。