---
title: "瑜伽師地論 · 2項 勝解作意"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cma8zhjru03kfib04e0o5bnsx"
---

若觀行者，於諸諦中，如是數數正觀察故，由十六行，於四聖諦證成道理已得決定。復於諸諦盡所有性、如所有性，超過聞思間雜作意，一向發起修行勝解，此則名為勝解作意。

> 修行者が、四つの真理（四聖諦）を十六の観点から繰り返し正しく観察するならば、その道理を確かに理解できるようになります。そして、真理の全体像と本質について、聞いたり考えたりする雑ざりのない、ひたすら修行への深い確信（勝解）をもって進む心構えを起こします。これを「勝解作意」と呼びます。

如是作意，唯緣諦境，一向在定。於此修習、多修習故，於苦、集二諦境中，得無邊際智。由此智故，了知無常，發起無常無邊際勝解。如是了知苦等，發起苦無邊際勝解、空無我無邊際勝解、惡行無邊際勝解、往惡趣無邊際勝解、興衰無邊際勝解，及老病死愁悲憂苦一切擾惱無邊際勝解。此中無邊際者，謂生死流轉。如是諸法無邊無際，乃至生死流轉不絕，常有如是所說諸法。唯有生死無餘息滅，此可息滅，更無有餘息滅方便。即於如是諸有、諸趣死生法中，以無願行、無所依行、深厭逆行發起勝解，精勤修習勝解作意。復於如是諸有、諸生增上意樂深心厭怖，及於涅槃隨起一行深心願樂。彼於長夜，其心愛樂世間色聲香味觸等，為諸色聲香味觸等滋長積集。由是因緣，雖於涅槃深心願樂，而復於彼不能趣入、不能證淨、不能安住、不能勝解，其心退轉。於寂靜界未能深心生希仰故，有疑慮故，其心數數厭離、驚怖。雖於一切苦、集二諦，數數深心厭離、驚怖，及於涅槃數數發起深心願樂，然猶未能深心趣入。何以故？以彼猶有能障現觀麁品我慢隨入作意，間、無間轉。作是思惟：我於生死曾久流轉，我於生死，當復流轉；我於涅槃當能趣入，我為涅槃修諸善法；我能觀苦真實是苦，我能觀集真實是集，我能觀滅真實是滅，我能觀道真實是道；我能觀空真實是空，我觀無願真是無願，我觀無相真是無相；如是諸法是我所有。由是因緣，雖於涅槃深心願樂，然心於彼不能趣入。彼既了知如是我慢是障礙已，便能速疾以慧通達。棄捨任運隨轉作意，制伏一切外所知境，趣入作意。隨作意行，專精無間觀察聖諦；隨所生起心謝滅時，無間生心，作意觀察，方便流注，無有間斷。彼既如是以心緣心，專精無替，便能令彼隨入作意障礙現觀麁品我慢，無容得生。

> このように心を集中させる修行は、ただ真理の対象（苦・集・滅・道の四諦）にのみ心を向け、常に禅定の状態にあることを指します。この修行を繰り返し、長く修めることによって、「苦」と「集」という二つの真理に対して、無限の知恵が得られます。 その知恵により、無常を悟り、「無常の無限性」に対する確固たる理解が生まれます。同様に、「苦の無限性」「空と無我の無限性」「悪行の無限性」「悪趣に堕ちる無限性」「盛衰の無限性」、さらには「老・病・死・悲しみ・嘆き・苦しみ・憂い」といったあらゆる煩わしさの無限性に対する深い理解が発起されます。 ここで「無限（無辺際）」とは、迷いの世界を生死し続ける輪廻のことを指します。これらの現象は無限であり、生死の輪廻が絶えない限り、常に上述したような存在があり続けます。それらを完全に消滅させること以外に、これを鎮める方法はありません。ただ生死の輪廻が残りなく滅し尽くされることによってのみ、息むことができるのです。 そこで修行者は、あらゆる生存の状態や輪廻の世界における生死の法則に対して、「無願（願いを離れる）」「無所依（よりどころを持たない）」という姿勢をもって深く厭い、逆らうように歩み、「厭離（厭い離れる）」という確固たる理解を発起し、それを修行によって培い、心を集中させるのです。 さらに、こうした生存や出生のすべてに対して、強い決意と深い心で恐怖・厭離の念を抱き、同時に涅槃に対しては、ある一つの行（修行方法）に従って深く心から願い楽しむようになります。 しかし、その修行者は長い間、世の中の色・声・香・味・触（五欲の対象）に心を愛着し、それらによって心を育て蓄積してきたのです。そのため、たとえ涅槃を深く願っていても、そこに入ることができず、清らかな信を得ることも、落ち着いてとどまることも、深く理解することもできず、心は後退してしまいます。涅槃という静寂の境地に、まだ深く心から憧れの思いを抱けず、疑いがあるからです。そのため、心は繰り返し世の中を嫌い、しかし同時にその静寂に驚き恐れもするのです。 「苦」と「集」の二つの真理を何度も深く厭い、恐れながら、同時に涅槃を何度も心から願っても、それでもなお、深く心から涅槃に入ることができません。なぜでしょうか？それは、彼の中に、真理を直接観察することを妨げる、粗雑な「我慢（自己執着の慢心）」というものがあり、それが絶え間なく、あるいは間をおいて心に浮かんでいるからです。 彼は次のように考えます。「私は生死の世界を長く流転してきた。私は生死の世界を、今後も流転するであろう。私は涅槃に、いつか入ることができるだろう。私は涅槃のために様々な善い行いを積んでいる。私は苦を観じて、それが真実に苦であると知ることができる。私は集を観じて、それが真実に集であると知ることができる。私は滅を観じて、それが真実に滅であると知ることができる。私は道を観じて、それが真実に道であると知ることができる。私は空を観じて、それが真実に空であると知ることができる。私は無願を観じて、それが真実に無願であると知ることができる。私は無相を観じて、それが真実に無相であると知ることができる。これらの真理はすべて、私のものである。」 このような理由から、たとえ涅槃を深く願っていても、心はそこに入ることができないのです。 しかし、彼がこのような「我慢（自己執着）」こそが妨げであると悟ったならば、速やかに智慧をもってそれを理解し、越えることができます。自然に起こるままに心を作用させることを捨て、あらゆる外の対象に対する執着を制し、真理へと心を集中させる修行に入ります。そしてその修行のままに、絶え間なく一心に聖なる真理を観察します。心に何かが生じては消えていく瞬間にも、途切れることなく次の心が生じ、あるがままの観察を続け、その流れは途切れることがありません。 このようにして、心をもって心に集中し（心の流れそのものを観察し）、絶え間なく一心に修行を続ければ、真理の直接観察を妨げていた粗雑な「我慢（自己執着）」という心が生じる余地はなくなります。

如是勤修瑜伽行者，觀心相續，展轉別異，新新而生，或增或減，暫時而有，率爾現前，前後變易，是無常性。觀心相續，入取蘊攝，是為苦性。觀心相續，離第二法，是為空性。觀心相續，從眾緣生，不得自在，是無我性。如是名為悟入苦諦。次復觀察此心相續，以愛為因、以愛為集、以愛為起、以愛為緣。如是名為悟入集諦。次復觀察此心相續所有擇滅，是永滅性、是永靜性、是永妙性、是永離性。如是名為悟入滅諦。次復觀察此心相續究竟對治趣滅之道，是真道性、是真如性、是真行性、是真出性。如是名為悟入道諦。如是先來未善觀察，今善作意方便觀察，以微妙慧，於四聖諦能正悟入。即於此慧親近、修習、多修習故，能緣所緣平等平等正智得生。由此生故，能斷障礙愛樂涅槃所有麁品現行我慢。又於涅槃深心願樂，速能趣入，心無退轉，離諸怖畏，攝受增上意樂適悅。如是行者，於諸聖諦，下忍所攝能緣所緣平等平等智生，是名為煗。

> このように修行に励む瑜伽行者は、心の連続した流れを観察する。それは次々と変化し、新たに生じては増えたり減ったりし、一時的に存在しては突然現れ、前後で変わりゆく無常の性質を持つ。心の流れは「取蘊」に含まれるものであり、これが苦の性質であると観じる。心の流れは「第二の法」を離れたものであり、これが空の性質であると観じる。心の流れは多くの因縁によって生じ、自在ではなく、無我の性質であると観じる。これを「苦諦」への悟入と名づける。 次に、この心の流れを観察すると、愛（渇愛）を因とし、愛を集め、愛より起こり、愛を縁としている。これを「集諦」への悟入と名づける。 さらに、この心の流れにおける「択滅」を観察すると、それは永遠に滅する性質、永遠に静まる性質、永遠に優れた性質、永遠に離れる性質である。これを「滅諦」への悟入と名づける。 さらに、この心の流れを徹底的に対治し、滅へと向かう道を観察すると、それは真の道の性質、真の如の性質、真の行の性質、真の出離の性質である。これを「道諦」への悟入と名づける。 このように、これまで善く観察していなかったことを、今、善巧な作意と方便をもって観察し、微細な智慧によって四つの聖なる真理に正しく悟入する。この智慧に親しみ、修習し、繰り返し修習することによって、能縁・所縁が平等平等となる正しい智慧が生じる。この智慧が生じることで、涅槃を愛楽することを妨げる粗い現行の我慢を断つことができる。また涅槃に対して深く心から願い楽しみ、速やかに悟入することができ、心に退転がなく、あらゆる恐怖を離れ、増上意楽による安らぎと喜びを受ける。このような修行者は、諸々の聖諦について、下忍（げにん）に属する能縁・所縁が平等平等となる智慧を生じる。これを「煗（のん）」と名づける。

中忍所攝能緣所緣平等平等智生，是名為頂。

> 中忍の領域において、能縁と所縁が平等である智慧が生じる。これを頂と名付ける。

上忍所攝能緣所緣平等平等智生，名諦順忍。

> 上忍においては、とらえる心ととらえられる対象とが、平等そのものとなる智慧が生じる。これを、真実にしたがう忍びの心という。

彼既如是斷能障礙麁品我慢，及於涅槃攝受增上意樂適悅，便能捨離後後觀心所有加行，住無加行無分別心。彼於爾時，其心似滅，而非實滅；似無所緣，而非無緣。又於爾時，其心寂靜，雖似遠離，而非遠離。又於爾時，非美睡眠之所覆蓋，唯有分明無高、無下奢摩他行。復有一類，闇昧愚癡，於美睡眠之所覆蓋，其心似滅非實滅中，起增上慢，謂為現觀。此不如是。既得如是趣現觀心，不久當入正性離生。3項 遠離作意

> 彼がこのように粗い我慢という障害を断ち、涅槃に対する増上意楽（向上した意欲）の安らぎを得ると、その後、観察する心に対するあらゆる加行（努力）を手放し、加行のない無分別の心に安住します。 その時、彼の心はあたかも滅したかのようであるが、実際には滅していない。あたかも所縁（対象）がないかのようであるが、無縁ではない。またその時、心は寂静であり、遠く離れたかのようであるが、実際には遠く離れてはいない。 またその時、心は快適な睡眠に覆われているのではなく、明瞭で、高ぶりもなく沈みもない奢摩他（止）の働きがあるだけである。 一方で、ある種の者は愚かで闇に覆われ、快適な睡眠に覆われて、心が滅したように見えて実は滅していない状態の中で、増上慢（過大な傲慢）を起こし、それを現観（悟りの体験）だと思い込む。しかし、このような者（上記の修行者）はそうではない。このように現観に向かう心を得たならば、まもなく正性離生（聖者の境地）に入るであろう。

即於如是寂靜心位，最後一念無分別心，從此無間，於前所觀諸聖諦理，起內作意。此即名為世第一法。從此已後，出世心生，非世間心。此是世間諸行最後界畔邊際，是故名為世第一法。

> そのような静かな心の状態において、最後の瞬間に生じる、何ものにもとらわれない清らかな心があります。その心が途切れることなく、次に、先に観察してきた聖なる真理（四諦）について、内なる気づきが生じます。これを「世第一法（世の中における最高の境地）」と呼びます。 この境地に達した後、迷いの世界を超えた智慧の心（出世間心）が生まれます。これは、もはや迷いの世界にある心（世間心）ではありません。この世第一法は、迷いの世界におけるあらゆる行い（諸行）の最後の境界、限界です。ゆえに「世第一法」と呼ばれるのです。