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title: "瑜伽師地論 · 2"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cma8zhlh603tlib04ojh3czmn"
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## 瑜伽師地論卷第三十六

> 瑜伽師地論 第三十六巻

彌勒菩薩說

> 弥勒菩薩の教え

三藏法師玄奘奉　詔譯

> 三蔵法師玄奘奉詔訳

### 本地分中菩薩地第十五初持瑜伽處自他利品第三之餘

> 第三之餘

云何菩薩因攝果攝自利利他？略說應知三因三果。何等為三？一者、異熟因、異熟果，二者、福因、福果，三者、智因、智果。

> 菩薩の因と果による自利利他とは、どのようなものでしょうか。簡潔に言えば、三種の因と三種の果があると知るべきです。その三つとは何か。第一は異熟因と異熟果、第二は福因と福果、第三は智因と智果です。

云何異熟？

> {{< ja >}} 「異熟」とは何でしょうか。 {{< /ja >}}

謂略有八。一者、壽量具足；二者、形色具足；三者、族姓具足；四者、自在具足；五者、信言具足，六者、大勢具足，七者、人性具足，八者、大力具足。

> まず、八つの条件についてお話しします。 第一に、長寿に恵まれていること。 第二に、美しい姿形に恵まれていること。 第三に、高貴な家柄に恵まれていること。 第四に、自由自在な力に恵まれていること。 第五に、信用される言葉に恵まれていること。 第六に、大きな影響力に恵まれていること。 第七に、優れた人間性に恵まれていること。 第八に、強い能力に恵まれていること。

若諸菩薩長壽久住，是名菩薩壽量具足。

> もし諸々の菩薩が長く生き続けるならば、これを菩薩の寿命が満ち足りていると言います。

形色端嚴，眾所樂見，顏容殊妙，是名菩薩形色具足。

> 姿色が整い、人々から見られることを喜ばれ、顔立ちが美しい。これを菩薩の「姿が整っていること」という。

生豪貴家，是名菩薩族姓具足。

> 高貴な家に生まれることを、菩薩の家系が整っていると言います。

得大財位、有大朋翼、具大僚屬，是名菩薩自在具足。

> 大きな財産や地位を得て、多くの仲間や部下を持つこと、これを菩薩の自在具足と言います。

眾所信奉，斷訟取則，不行諂誑、偽斗秤等，所受寄物終不差違，於諸有情言無虛妄；以是緣故，凡有所說無不信受，是名菩薩信言具足。

> 多くの人々から信頼され、争いを裁く際の基準となり、へつらったり偽ったりせず、偽りの秤やますを使うこともありません。預かった物を決して違えることなく、すべての人々に対して虚偽の言葉を語ることはありません。そのような理由から、語ることはすべて信じられ、受け入れられます。これを菩薩の「信じる言葉を備える」と言います。

有大名稱，流聞世間。所謂具足勇健精進、剛毅、敏捷、審悉善戒，種種伎藝工巧業處，展轉妙解，出過餘人。由此因緣，世所珍敬，為諸大眾供養、恭敬、尊重、讚歎，是名菩薩大勢具足。

> 名声高く、世に広く知られています。つまり、たくましい勇気と精進、剛毅さ、機敏さ、善き戒律を細やかに備え、様々な技芸や工芸の分野に通じ、互いにそれを極めて他を凌ぐほどです。このような理由から世に尊ばれ敬われ、多くの人々から供養・恭敬・尊重・賛嘆されます。これを菩薩の大いなる勢いを備える、といいます。

具丈夫分，成就男根，是名菩薩人性具足。

> 具足した男性としての特性を備え、男根が成就している。これを菩薩の人間としての完全な具足という。

為性少疾，或全無病，有大堪能，是名菩薩大力具足。

> 性格的に病気が少なく、あるいは全く病気がなく、非常に優れた能力を持っている。これを菩薩の大力が具わっているという。

云何異熟因？

> 異熟因とは何か？

謂諸菩薩於諸眾生不加傷害，遠離一切傷害意樂，是名菩薩壽量具足因。

> 菩薩が生きとし生けるものに対して、傷つけることをせず、あらゆる害意を遠ざけること。これを、菩薩の寿命を満たす因と説く。

惠施光明鮮淨衣物，是名菩薩形色具足因。

> 恵みを与えることで、輝く清らかな衣服が得られる。これを菩薩の姿形が整う因縁という。

於諸眾生捨離憍慢，是名菩薩族姓具足因。

> すべての生きとし生けるものに対して、思い上がりを捨て去ること。これこそが、菩薩の家系を完全に備えるための因縁（条件）なのです。

於資生具有所匱乏遊行乞匃諸眾生所，隨欲惠施，是名菩薩自在具足因。

> 生活のための物資が不足している人々のところへ行き、乞食をしながら、その人々の願いに応じて施しを行うこと、これを菩薩の自在を具足する因と名づける。

所言誠諦，亦不好習乖離、麁獷不相應語，是名菩薩信言具足因。

> 誠実で真実の言葉を語り、対立を生むような言葉や、粗野で道理に合わない言葉を好まない。これを、菩薩の信頼ある言葉を備える因縁（理由・条件）と名づける。

攝持當來種種功德於自身中，發弘誓願、供養三寶及諸尊長，是名菩薩大勢具足因。

> 未来においてさまざまな功徳を自らの内に収めとどめ、広大な誓いを立て、三宝（仏・法・僧）や尊い師長に供養すること。これを、菩薩が大きな力を持つための因と名づける。

樂丈夫體，厭婦女身深見過患。由二因緣，施他人性。一者、女人樂女身者，勸令厭離解脫女身；二者、丈夫將失男根，方便護攝令不失壞，及說正法令得男身。是名菩薩人性具足因。

> 【訳】 男性の身体を喜び、女性の身体を厭い、その過ちを深く観察します。二つの理由から、他人に人間としての性（性別）を施します。第一に、女性であって女性の身体を喜ぶ者に対して、厭離させて女性の身体から解脱するよう勧めます。第二に、男性が男根を失いかけている時には、適切な方法で守り保って失わせず、正しい教えを説いて男の身を得させます。これを、菩薩が人間の性を具足する因縁と名づけます。

於諸眾生以身供事，隨其所作如法事業皆往營助，如己力能，以其正法，不以卒暴，用能增長身心勢力餅、飯、糜等種種飲食施諸眾生，是名菩薩大力具足因。

> あらゆる生きとし生けるものに対し、自らの身をもって仕え、彼らのなすべき正しい行いを、自らの力の及ぶ限り助け、穏やかな方法で、決して粗暴にならず、彼らの心身の力を育むために、餅やご飯、おかゆなど様々な飲食を施すこと。これを‘菩薩の大力を具える因’（理由）と名づける。

當知前說八種異熟，以此所說八種為因。又此諸因略由三緣而得增長，能感圓滿增上廣大異熟令起。何等三緣？一、心清淨，二、加行清淨，三、田清淨。若於無上正等菩提清淨意樂，用彼善根決定迴向猛利意樂，純厚廣大淨信修行，見同法者深生歡喜，日夜剎那於多隨法隨尋、隨伺，名心清淨。即於其中長時數習無間所作、常委所作，他於此善若未受行，讚美令受；若已受行，讚美令喜。即於如是所有善根，安處建立，名加行清淨。當知略說能正發起如是加行，及正安住此加行果，名田清淨。

> 先にお話しした八つの異熟果は、ここで述べる八つの因によって生じます。また、これらの因は大きく三つの縁によって増長し、完全で優れた広大な異熟果を生じさせます。その三つの縁とは何でしょうか。第一に心の清らかさ、第二に行いの清らかさ、第三に田の清らかさです。 無上の正等菩提に対して清らかな意楽を持ち、その善根を決定的に回向し、強い意楽をもって、純粋で厚く広大な清らかな信心を修行し、同じ法を求める者を見て深く喜び、昼夜の一瞬ごとに多くの法に従って尋ね、観察することを、心の清らかさといいます。 そこで長時間にわたり繰り返し、絶え間なく行われ、常に行われる所作であり、他の人がこの善を受けていないならば、褒めて受けさせ、すでに受けているならば、褒めて喜ばせます。このようなすべての善根を確立し、安定させることを、行いの清らかさといいます。 このような行いを正しく起こし、そしてこの行いの果報に正しく安住することを、田の清らかさと知るべきです。

云何異熟果？

> 異熟果とは何か？

謂諸菩薩壽量具足故，能於長時修習善品，依自他利積集增長無量善根，是名菩薩壽量具足果。

> 菩薩たちの寿命が十分にあるからこそ、長い時間をかけて善い行いを修行し、自分と他者の利益のために無量の善根を積み重ねて成長させることができるのです。これを、菩薩の寿命が十分であることの結果といいます。

若諸菩薩形色具足故，大眾愛樂；眾愛樂故，咸共歸仰。如是形色可愛樂故，一切大眾咸歸仰故，凡所發言無不聽用，是名菩薩形色具足果。

> もし菩薩が優れた容貌を備えているならば、大衆は自然と彼を慕い喜ぶ。そして、そのように慕われることで、皆がこぞって帰依し仰ぎ見る。このように、その容貌が人々に喜ばれ、すべての大衆が帰依し仰ぐがゆえに、菩薩の発する言葉はことごとく聞き入れられ、用いられる。これを「菩薩の容貌を備えることの果報」という。

若諸菩薩族姓具足故，大眾尊敬供養稱讚；眾所尊敬供養稱讚故，於彼彼事勸諸眾生精勤修學，無不敬用速疾修行，無違無犯；是名菩薩族姓具足果。

> もし菩薩が高貴な家柄を備えていれば、大衆から尊敬され、供養され、称賛されます。大衆から尊敬・供養・称賛されるので、あらゆる事柄について、衆生（しゅじょう）に精進して学び修めるよう勧めると、皆が敬って用い、速やかに修行し、背いたり犯したりすることがありません。これを「菩薩の家柄を備える果報」といいます。

若諸菩薩自在具足故，能以布施攝諸眾生，速令成熟，是名菩薩自在具足果。

> もし諸々の菩薩が自在力を完全に備えているならば、布施によってすべての衆生を導き、速やかに成熟させることができる。これを菩薩の自在を具えた果報という。

若諸菩薩信言具足故，能以愛語、利行、同事攝諸眾生，速令成熟，是名菩薩信言具足果。

> もしも菩薩が信頼に足る言葉を十分に備えているならば、愛ある言葉、利益ある行動、共に行動することで一切の生きとし生けるものを導き、速やかに彼らを成熟させることができる。これを、菩薩の「信頼に足る言葉を具えることの果報」と名付ける。

若諸菩薩大勢具足故，於諸眾生種種事業皆能營助，施布恩德；由此恩德感眾生心，彼知恩故，咸來歸仰；所出言教，速疾隨轉恭敬信用；是名菩薩大勢具足果。

> もし菩薩が大きな勢力を備えているならば、様々な衆生のあらゆる営みを助け、恩恵を施すことができる。その恩恵によって衆生の心は動かされ、彼らは恩義を知るゆえに皆が集まり敬慕する。その菩薩が発する教えは速やかに受け入れられ、敬い信じられる。これを「菩薩の大勢力を備えた果報」という。

若諸菩薩人性具足故，成就男根，堪為一切勝功德器；能於一切所作事業，思擇一切所知境界，都無所畏無礙而行。一切有情於一切時皆來臻赴同共集會，屏處、露處言論同止，受用飲食皆無嫌礙。是名菩薩人性具足果。

> もし菩薩としての人の性が十分に備わっているならば、男根を成就し、あらゆる優れた功徳を受け止める器となることができます。そして、あらゆる行うべき事柄について考え、あらゆる認識すべき境地についても迷いなく、妨げられることなく進むことができます。また、すべての生きとし生けるものが、常に集まり来て、共に会し、隠れた場所でも人前でも語り合い共に過ごし、飲食を共にしても何の障りもなく受け入れられます。これを、菩薩として人の性が十分に備わった結果といいます。

若諸菩薩大力具足故，於能引攝善法加行，及能饒益有情加行，皆無厭倦，勇猛精進、堅固精進，速證通慧，是名菩薩大力具足果。

> もし菩薩が大いなる力（精進の力）を十分に備えているならば、善を引き寄せる修行（善法加行）や、生きとし生けるものを利益する修行（饒益有情加行）に対しても、決して疲れ嫌うことなく、勇ましく努力し続け（勇猛精進）、揺るぎなく努力し続ける（堅固精進）。その結果、速やかにさとりの智慧（通慧）を証する。これを「菩薩の大いなる力がもたらす果報」と名づける。

若諸菩薩成就如是八種異熟，具八種果，能善饒益一切有情，隨順生起一切佛法。

> もしも菩薩たちがこの八つの異熟の果報を成就し、八つの果実を具えるならば、一切の有情をよく利益し、一切の仏法に随順して生じさせることができる。

菩薩安住異熟果中，於諸有情種種眾多利益事業，自有力能；及善安處所化有情，彼於自事隨順而作；如是乃名隨其所欲所作成辦。若諸菩薩自有力能，不善安處所化有情，彼於自事不隨順作；如是於他所作利益不名熾盛、不名隨順。由是因緣，不名能作他利益事。若諸菩薩自無力能，而善安處所化有情，彼於自事隨順而作；如是於他所作利益不名熾盛、不名隨順。由是因緣，不名能作他利益事。是故菩薩要具二事，方於有情所作利益名為熾盛、名為隨順。由是因緣，乃名能作他利益事。如是菩薩住異熟果，自能成熟一切佛法，亦能令他於三乘道隨其所應速得成熟；又能令自速證無上正等菩提，亦能令他已成熟者速得解脫。由諸菩薩安住八種異熟果中，能使有情利益安樂，是故一切有情所處空無義利無始生死，菩薩處之，能令不空，有大義利。

> 菩薩が異熟の果报に安住すると、自らは様々な衆生に対して多くの利益をもたらす事業を行う力を持ち、さらに教化する衆生を善く導いて、彼らが自らの務めに従い行うことができる。このようにして初めて、その望み通りに事を成し遂げるという。 もし菩薩に自ら力はあるが、教化する衆生を善く導かなければ、彼らは自らの務めに従わない。この場合、他者に対する利益事業は「熾盛」とも「随順」とも言えない。そのため、他者に利益をもたらすことができるとは言えない。 もし菩薩に自ら力はないが、教化する衆生を善く導けば、彼らは自らの務めに従って行う。しかしこの場合も、他者に対する利益事業は「熾盛」とも「随順」とも言えない。そのため、他者に利益をもたらすことができるとは言えない。 ゆえに菩薩は、この二つの条件を備えて初めて、衆生に対する利益事業が「熾盛」であり「随順」であると言える。そのため、他者に利益をもたらすことができるとされる。 このように、菩薩が異熟の果报に安住すれば、自らはすべての仏法を成就し、他者をして三乗の道において、それぞれに応じて速やかに成熟させることができる。また、自らは速やかに無上正等菩提を証悟し、他者においてすでに成熟した者は速やかに解脱させることができる。 菩薩が八種の異熟の果报に安住することによって、衆生に利益と安楽をもたらすことができる。それゆえ、すべての衆生が無意味で無益な無始の生死の中にいるとしても、菩薩がそこにいれば、それを空ならざるものとし、大いなる義利をもたらすのである。

云何為福？云何為智？謂略說福，即是三種波羅蜜多。一、施波羅蜜多，二、戒波羅蜜多，三、忍波羅蜜多。智唯一種波羅蜜多。謂慧波羅蜜多。精進、靜慮波羅蜜多，應知通二分。一者、福分，二者、智分。若依精進修行布施、受護淨戒，及修慈等四種無量，如是等類所有精進，名為福分。若依精進習聞思修所成三慧，修蘊善巧、修界善巧、修處善巧、修緣起善巧、修處非處善巧，修能觀察苦為真苦、集為真集、滅為真滅、道為真道，及於一切善不善法，有罪、無罪、若劣、若勝、若黑、若白，并廣分別緣生法中，皆能如實思擇觀察，如是等類所有精進，名為智分。若依靜慮，修習慈等四種無量，如是等類所有靜慮，名為福分。若依靜慮，能修如前精進中說蘊善巧等，如是等類所有靜慮，名為智分。如是福智略有六種；一一分別，應知無量。

> 「福とは何か。智慧とは何か。」 簡潔にまとめると、福とは三つの波羅蜜多（完成された実践）のことである。すなわち、第一に施しの波羅蜜多、第二に戒めの波羅蜜多、第三に忍耐の波羅蜜多である。智慧とは、ただ一つの波羅蜜多、すなわち慧（智慧）の波羅蜜多である。 精進（努力）と静慮（瞑想）の波羅蜜多は、両方の性質を兼ね備えていると知るべきである。一つは福の側面、もう一つは智慧の側面である。 もし精進に基づいて、施しを行い、清らかな戒めを保ち、慈しみなど四つの無量心（計り知れない心の状態）を修める。このような種類の精進はすべて、福の側面と名付けられる。 もし精進に基づいて、聞く・考える・修めるという三つによって得られる智慧を学び、五蘊（物質と心の構成要素）の巧みさ、十八界（認識の領域）の巧みさ、十二処（認識の出入口）の巧みさ、縁起（原因と結果の連鎖）の巧みさ、道理と非道理の巧みさを修める。また、苦を真の苦と観察し、集（苦の原因）を真の集と観察し、滅（苦の消滅）を真の滅と観察し、道（実践の道）を真の道と観察する力を修める。さらに、すべての善・不善の法、罪あるもの・罪なきもの、劣ったもの・優れたもの、黒いもの・白いもの、そして縁起によって生じるすべての法について、広く分別し、如実に思惟し観察する。このような種類の精進はすべて、智慧の側面と名付けられる。 もし静慮に基づいて、慈しみなど四つの無量心を修める。このような種類の静慮はすべて、福の側面と名付けられる。 もし静慮に基づいて、先に精進の中で説かれた五蘊の巧みさなどを修めることができる。このような種類の静慮はすべて、智慧の側面と名付けられる。 このように、福と智慧は大まかに六種類あるが、一つ一つを詳しく分別すれば、無量無数であると知るべきである。

云何福因？云何智因？略說應知福因、智因總有三種。一者、於福於智，能得、能住、能增長欲；二者、於福於智，善能隨順無違背緣；三者、於福於智，先已串習。此中隨順無違背緣者，謂顛倒緣不現在前不會遇性，不顛倒緣正現在前正會遇性。若遇惡友倒說福智，或倒作意顛倒而取，名顛倒緣現前會遇；與此相違所有白品，當知名為不顛倒緣現前會遇。若於福智能得、能住及能增長，勤修習障遠離不起，當知是名無違背緣。若諸菩薩於此三種福智因中隨有所闕，當知不能生福、生智。

> では、福徳の因とは何であり、智慧の因とは何でしょうか。簡潔に言えば、福徳と智慧の因となるものは、総じて三つあります。第一に、福徳と智慧に対して、「得よう」「保とう」「増やしたい」という欲求を持つこと。第二に、福徳と智慧に対して、素直に従い、背かない縁（条件）を持つこと。第三に、福徳と智慧を、すでに繰り返し実践して慣れ親しんでいること、です。 このうち「素直に従い背かない縁」とは、誤った考え方の縁が目の前に現れず、出会わない状態であり、正しい考え方の縁がまさに目の前に現れ、正しく出会う状態であることを指します。もし悪友に出会い、福徳や智慧について誤って説かれたり、誤った心構えで歪んだ捉え方をしたりすることを、「誤った縁が現前し出会う」と言います。これとは反対の、すべての清らかな性質を、「誤りのない縁が現前し出会う」と知るべきです。もし福徳と智慧に対して、「得よう」「保とう」「増やしたい」と願い、努力や修行を妨げる障りから遠ざかり、それを起こさないならば、これを「背かない縁」と知るべきです。 菩薩が、この三つの福徳と智慧の因のうち、どれか一つでも欠けているならば、福徳も智慧も生み出せないと知るべきです。

云何福果？云何智果？謂諸菩薩依止福故，雖復長時流轉生死，不為極苦之所損惱；又隨所欲能攝眾生，為作義利。依止智故，所攝受福是正非邪；又能起作種種無量善巧事業，乃至究竟當證無上正等菩提。如是略說福果、智果，如其所應當知四種；品類差別，復有無量。

> 問う、福の果報とは何か。智の果報とは何か。 菩薩は福に依って、長い時を生死の流れの中にありながらも、極度の苦しみに悩まされることがない。また、望むままに衆生を引き寄せ、彼らのために利益をもたらすことができる。 智に依って、その積む福は正しく、邪ではない。さらに、無量の巧みな事業を起こし、ついには無上正等菩提を証するに至る。 このように、福の果報と智の果報を略説すれば、それぞれに四種があると知るべきである。その品類の差別は、さらに無量である。

應知此中若異熟體、若異熟因、若異熟果，如是一切皆依於福，從福所生；福復依智，從智所起。是故二種，於證無上正等菩提雖俱是勝；而於其中福為最勝，智為無上。若諸菩薩於福、於智隨闕一種，決定不能證於無上正等菩提。是名菩薩因攝果攝自利利他。

> 知っておくべきこととして、この中で、異熟の体、異熟の因、異熟の果、これら全ては福に依り、福から生じる。そして福はさらに智に依り、智から起こる。それゆえ、この二つは、無上正等菩提を証する上で、どちらも優れているが、その中で福が最も勝れ、智が最も上である。もし諸々の菩薩が福と智のうち、どちらか一つでも欠ければ、決して無上正等菩提を証することはできない。これを、菩薩の因に摂せられ果に摂せられる、自利・利他という。

云何菩薩現法後法自利利他？

> 菩薩がこの世と次の世において、どのように自らを利し、他者を利するのでしょうか。

謂諸菩薩以如正理工巧業處士夫作用積集財物，即於如是所集財物知量受用。

> 菩薩たちは、正しい技術や技能、職業によって働き、財産を築き上げます。そして、そのようにして得た財産を、適切な範囲で無駄なく使用することを知っています。

又先所造可愛果業異熟果熟，於現法中受用彼果。

> また、過去に自らが作り、愛すべき結果をもたらした善い行い（業）が、その報いとして熟すことがある。この現世において、その結果を享受することとなる。

又諸菩薩於諸靜慮善迴轉者，為欲獲得現法樂住，於現法中依此靜慮；不為成立利他事故，依此靜慮。

> また、菩薩たちは、様々な静慮（瞑想）において巧みに自由自在に活動します。それは、現世における心の安らぎ（現法楽住）を得るために、この静慮に依るからです。他者を利益するという目的のために、この静慮に依るのではありません。

又諸如來現法涅槃，所有世間及出世間一切能得現法涅槃諸有為法。是名菩薩現法自利。

> また、如来たちが現法涅槃（この世で直接悟りを得ること）を示すように、世間的および出世间的な、現法涅槃を得るためのすべての修行法もまたあります。これが菩薩の現世での自己利益と呼ばれるものです。

如諸菩薩現法自利，如是菩薩所化有情，由此獲得現法利益，當知即是現法利他。

> 諸々の菩薩が現世において自らの利益を成就するように、その菩薩が教化する有情もまた、それによって現世における利益を得ることができる。これを、現世における他者のための利益と知るべきである。

若於欲界能獲他世財寶具足、自體具足，及能當生靜慮、無色；若生靜慮及無色中，能獲他世財寶具足、自體具足；若現法中與憂苦俱，數數思擇修習善因，是名菩薩修習後法自利利他。

> 欲界にいて、未来世において財宝や身体が満ち足りることを得られ、さらには禅定や無色界に生まれることができるなら、その人は未来世で財宝と身体の満足を得るでしょう。また、禅定や無色界に生まれた場合も、未来世で財宝と身体の満足を得られます。現世において憂いや苦しみを伴いながらも、繰り返し考え選択して善い原因を修めること、これを菩薩が未来の利益のために自他を利する修行といいます。

若諸菩薩於現法中與喜樂俱，修習當來財寶具足、自體具足所有善因，及非退分靜慮、無色一切等至，是名菩薩現法後法自利利他。

> もしも菩薩が現世において喜びと楽を伴いながら、未来に財宝が満ち足り、自身の体が完全に備わるための善い原因を修行し、さらに退歩しない禅定や無色界のすべての等至を修行するならば、これを菩薩の現世と来世における自利利他と呼ぶのです。

云何畢竟及不畢竟自利利他？謂於欲界財寶具足、自體具足若因若果，及諸異生世間清淨若因若果，是不畢竟自利利他。若諸煩惱一切永斷，若諸所有八支聖道，若此為依獲得一切世間善法，是名畢竟自利利他。

> そもそも「究極の自利利他」とは何であり、「究極ではない自利利他」とは何か。 欲界における財宝や身体的能力の充足、その原因と結果、また凡夫が得る世間的な清らかさとその原因と結果――これらは「究極ではない自利利他」である。 一方、あらゆる煩悩を完全に断ち切ること、そのための八つの正しい道（八支聖道）、そしてこれらを拠り所として得られるあらゆる世間の善い法――これこそを「究極の自利利他」というのである。

由三因緣，應知畢竟及不畢竟。一、由自性故；二、由退不退故；三、由受用果有盡無盡故。由自性故者，究竟涅槃，名為畢竟；一切有為，名不畢竟。由退不退及受用果有盡無盡故者，八支聖道無有退故，及受用果無有盡故，名為畢竟；其餘一切善有漏法，由有退故，及受用果有終盡故，名不畢竟。

> 三つの理由によって、「究竟（くっきょう）と不究竟」を理解すべきである。 第一に、その性質による。 第二に、退くか退かないかによる。 第三に、その果報を受け尽くすか尽くさないかによる。 「その性質による」とは、完全な涅槃（ねはん）を「究竟」と呼び、すべての作り為されたものを「不究竟」と呼ぶ。 「退くか退かないか、及び果報を受け尽くすか尽くさないかによる」とは、八つの正しい道（八支聖道）は退くことがなく、その果報を受け尽くすこともないため、「究竟」と呼ぶ。 それ以外のすべての善なる煩悩を伴う法は、退くことがあり、果報を受け尽くすこともあるため、「不究竟」と呼ぶ。