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title: "瑜伽師地論 · 5目 廣明離言自性"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
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以何道理應知諸法離言自性？

> どういう道筋から、言葉を離れた諸法の自性を知ることになるのですか。

謂一切法假立自相，或說為色，或說為受，如前廣說乃至涅槃。當知一切唯假建立，非有自性。亦非離彼別有自性，是言所行、是言境界。如是諸法，非有自性如言所說，亦非一切都無所有。如是非有，亦非一切都無所有。云何而有？謂離增益實無妄執，及離損減實有妄執，如是而有；即是諸法勝義自性。當知唯是無分別智所行境界。

> 一切の存在は仮に自相を立てたもの、あるいは色（物質）と言われ、あるいは受（感受）と言われ、前にも詳しく説いたように涅槃に至るまで、全てはただ仮に立てられたものだと知るべきである。それらに実体はなく、またそれらを離れて別に実体があるのでもない。これらは言葉によって表され、言葉の領域にある。 このような一切の存在は、言葉が示すように実体があるわけではなく、また全てがまったく無いのでもない。実体がないと言っても、すべてがまったく無いわけではない。では、どのようにして存在するのか。それは、「本来無いものに実体がある」と誤って付け加える考え（増益）と、「本来あるものを無い」と誤って削ぎ落とす考え（損減）とを離れたところに、こうして存在している。まさにこれが諸法の勝義（最高の真理）としての自性（本質）である。 それが唯一、無分別智によってのみ知られる領域であると知るべきである。

若於諸法諸事隨起言說，即於彼法彼事有自性者，如是一法一事應有眾多自性。何以故？以於一法一事制立眾多假說而詮表故。亦非眾多假說詮表決定可得。謂隨一假說，於彼法彼事有體、有分、有其自性；非餘假說。是故一切假說若具不具，於一切法、於一切事，皆非有體、有分、有其自性。

> たとえ、あらゆる現象や事物について言葉を用いて説明するとしよう。もし、その現象や事物にそれ自体としての本質（自性）が存在するならば、一つの現象や事物に対して数多くの本質が存在することになるだろう。なぜなら、一つの現象や事物に多くの仮の名前（仮説）を立てて説明するからである。しかし、それらの多くの仮の名前によって確定して捉えられるものはない。つまり、ある一つの仮の名前は、その現象や事物に対しては、本質を持ち、構成要素を持ち、自性を有するが、他の仮の名前ではそうではない、ということはない。それゆえ、すべての仮の名前が十分に備わっていようといまいと、あらゆる現象や事物において、本質を持ち、構成要素を持ち、自性を有するということは決してないのである。

又如前說色等諸法，若隨假說有自性者，要先有事，然後隨欲制立假說。先未制立彼假說時，彼法彼事應無自性；若無自性，無事制立假說詮表，不應道理；假說詮表既無所有，彼法彼事隨其假說而有自性，不應道理。

> また、先に説いたように色などの諸々の法は、もし仮説に従って自性があると言うならば、まず事柄が存在し、その後、欲求に従って仮説を設定するはずです。仮説が設定されていないときには、その法や事柄には自性が無いはずです。もし自性が無ければ、事柄もなく仮説を設定し言葉で表すことは道理に合いません。仮説による言葉が存在しないのに、その法や事柄が仮説に従って自性を持つというのは、道理に合いません。

又若諸色未立假說詮表已前，先有色性，後依色性制立假說攝取色者，是則離色假說詮表，於色想法、於色想事應起色覺，而實不起。

由此因緣由此道理，當知諸法離言自性。如說其色，如是受等如前所說乃至涅槃，應知亦爾。

> この因縁、この道理によって、諸法には言葉を超えた本質があると知るべきである。色について述べたように、受などの心の働きも、先に説いたところから涅槃に至るまで、すべて同様であると理解しなさい。

有二種人，於佛所說法毘奈耶，俱為失壞。一者、於色等法、於色等事，謂有假說自性自相，於實無事起增益執。二者、於假說相處、於假說相依離言自性勝義法性，謂一切種皆無所有，於實有事起損減執。

> 仏の説かれた教えと戒律について、二種の人が共にその利益を失ってしまう。 第一は、色などの現象や事物について、仮に立てられた名称や特徴が実在すると考え、実際には存在しないものに執着を加える人。 第二は、仮に立てられた名称や特徴の拠り所である、言葉を超えた真実の法性について、全てのものが何も存在しないと誤解し、実際に存在するものを否定する執着を起こす人。

於實無事起增益執，妄立法者所有過失，已具如前顯了開示；於色等法實無事中，起增益執有過失故；於佛所說法毘奈耶甚為失壞。

> 実体のない事柄に対して、実際よりも過大に執着し、誤った教えを立てる人の過ちについては、すでに前の部分で明確に示しました。なぜなら、色などの現象には本来実体がないにもかかわらず、それに過大な執着を起こすこと自体が過ちだからです。そのような執着によって、仏が説かれた教え（法）とその実践のルール（律）は、大きく損なわれてしまうのです。

於色等法實有唯事起損減執壞諸法者所有過失，由是過失，於佛所說法毘奈耶甚為失壞，我今當說。

> 色などの法に実有の事が存在すると執着し、他方で一切の法を否定してしまう見解には、大きな過失がある。この過失によって、仏の説かれた教えと律（毘奈耶）は甚だしく損なわれる。そのことを、今から明らかにしよう。

謂若於彼色等諸法實有唯事起損減執，即無真實，亦無虛假。如是二種皆不應理。譬如要有色等諸蘊，方有假立補特伽羅，非無實事而有假立補特伽羅；如是要有色等諸法實有唯事，方可得有色等諸法假說所表，非無唯事而有色等假說所表。

> 例えば、色などのあらゆる現象に実在するものだけがあるとして、それを否認・否定する執着が生じたならば、真実も虚構もなくなってしまう。この二つはどちらも道理にかなわない。たとえば、色などの五蘊（ごうん）が実在して初めて、仮に「人」という存在が立てられるのであり、実在する要素なしに仮に「人」が立てられることはない。同じように、色などの現象に実在する事柄があって初めて、色などの現象を仮に名づけて表すことができるのであり、実在する事柄なしに色などの仮の名称が表されることはないのである。

若唯有假，無有實事，既無依處，假亦無有，是則名為壞諸法者。

> もし「すべて仮のもの」だけで、真実の実体が何もないとするなら、拠り所が失われ、仮のものすらも存在しえなくなります。これこそが、あらゆるものの理を壊す見解なのです。

如有一類，聞說難解大乘相應、空性相應、未極顯了密意趣義甚深經典，不能如實解所說義，起不如理虛妄分別。由不巧便所引尋思，起如是見，立如是論：一切唯假，是為真實，若作是觀名為正觀。彼於虛假所依處所實有唯事，撥為非有，是則一切虛假皆無，何當得有一切唯假是為真實。由此道理，彼於真實及以虛假二種俱謗都無所有。由謗真實及虛假故，當知是名最極無者。如是無者，一切有智同梵行者不應共語、不應共住。如是無者，能自敗壞，亦壞世間隨彼見者。

> ある種の人々は、解き難く大乗に相応し、空性に相応し、未だ明確に顕されていない密意の趣旨の義理を含む甚深の経典を聞いても、説かれた義理を如実に理解できず、理に適わない虚妄の分別を起こす。巧みな方便によって導かれた尋思（思考）ではないことから、このような見解を起こし、このような論を立てる：「一切は仮設のみであり、それが真実である。このように観じることを正しい観察という」と。 彼らは、仮設の依り所となる処に、実在する唯一の事（唯事）があるにもかかわらず、それを否定して「無い」とする。すると、一切の仮設はことごとく無くなることになり、どうして「一切は仮設のみであり、それが真実である」などということがあり得ようか。 この道理により、彼らは真実と仮設の両方を誹謗し、すべてを無いものと見なす。真実と仮設を誹謗するがゆえに、これは「最も極まった無」の者であると知られるべきである。このような「無」の者とは、智慧あるすべての同じく梵行を修める者たちが、共に語るべきではなく、共に住むべきでもない。この「無」の者は、自らを破滅させるとともに、世の中でその見解に従う人々をも破壊するのである。

世尊依彼密意說言：寧如一類起我見者，不如一類惡取空者。何以故？起我見者，唯於所知境界迷惑，不謗一切所知境界；不由此因墮諸惡趣。於他求法、求苦解脫不為虛誑，不作稽留；於法、於諦亦能建立；於諸學處不生慢緩。惡取空者，亦於所知境界迷惑，亦謗一切所知境界；由此因故，墮諸惡趣。於他求法、求苦解脫能為虛誑，亦作稽留；於法、於諦不能建立；於諸學處極生慢緩。如是損減實有事者，於佛所說法毘奈耶甚為失壞。

> 世尊は、その密意に基づいてこうお説きになった。「むしろ、我という見解を抱く者がいる方が、悪しく空を取る者よりもましである。なぜか。我という見解を抱く者は、ただ認識されるべき境界において迷うだけであって、すべての認識されるべき境界を謗ることはない。それによって悪趣に堕ちることもない。また、他者が法を求め、苦しみからの解脱を求める際に、虚偽をもって応じることもなく、妨げることもない。法や真理についても、よくそれを確立することができる。学ぶべき処々を怠ることもない。しかし、悪しく空を取る者は、認識されるべき境界において迷うだけでなく、すべての認識されるべき境界を謗る。その故に悪趣に堕ちる。他者が法を求め、苦しみからの解脱を求める際に、虚偽をもって応じ、妨げることもする。法や真理については、それを確立することができない。学ぶべき処々を甚だ怠る。このように、実在する事物を損減する者は、仏の説かれた法と律を大きく損なうのである。」

云何名為惡取空者？謂有沙門、或婆羅門，由彼故空亦不信受，於此而空亦不信受，如是名為惡取空者。何以故？由彼故空，彼實是無；於此而空，此實是有。由此道理可說為空。若說一切都無所有，何處、何者、何故名空？亦不應言由此、於此即說為空。是故名為惡取空者。

> 「悪取空（あくしゅくう）」とは何か。 ある修行者やバラモンが、「それによって空となるもの」も信じず、「それにおいて空となるもの」も信じないことである。これを「悪取空」という。 なぜかと言えば、「それによって空となるもの」とは、実際には存在しないものを指し、「それにおいて空となるもの」とは、実際には存在するものを指すからである。この理屈によって「空」と言えるのである。 もし「すべては無い」と言うならば、どこに、何が、なぜ「空」と言えるのか。 また、「これによって」「これにおいて」空であるとも言うべきではない。 ゆえに「悪取空」というのである。

云何復名善取空者？謂由於此彼無所有，即由彼故正觀為空；復由於此餘實是有，即由餘故如實知有。如是名為悟入空性，如實無倒。謂於如前所說一切色等想事、所說色等假說性法，都無所有，是故於此色等想事，由彼色等假說性法說之為空。於此一切色等想事，何者為餘？謂即色等假說所依。如是二種皆如實知。謂於此中實有唯事，於唯事中亦有唯假；不於實無起增益執，不於實有起損減執。不增不減、不取不捨，如實了知如實真如離言自性。如是名為善取空者，於空法性能以正慧妙善通達。

> 「善く空を取る」とは何を意味するか。 それは、「これにはあのものは存在しない」と見て、その故に「空なり」と正しく観じることをいう。 さらに、「これには別のものが実在する」と見て、その故に「有り」と如実に知ることをもいう。 これをもって、空の真理を、誤りなく如実に悟り入るのである。 すなわち、前に述べたあらゆる色などの想事、およびその色などの仮説の法については、いずれも実体はない。 それゆえ、これらの色などの想事は、その仮説の法に基づいて「空である」と説かれる。 では、これらすべての色などの想事において、「他のもの」とは何か。 それは、色などの仮説のよりどころとなる実在（唯事）である。 この二つ――空なるものと、実在するもの――を、ともに如実に知る。 すなわち、ここには実に「唯事」が存在し、その「唯事」の中にもまた「唯仮」がある。 実無に対して増益の執着を起こさず、実有に対して損減の執着を起こさない。 増やすことも減らすこともせず、取ることも捨てることもせず、如実に、真如の離言自性をありのままに了知する。 これを「善く空を取る者」と名づけ、空の法性を、正しい智慧をもって見事に通達するのである。

如是隨順證成道理，應知諸法離言自性。

> このように道理に従い随順して証し成すことによって、あらゆる現象には言葉を超えた本質（自性）があると知るべきである。

復由至教，應知諸法離言自性。

> さらに、完全な教え（聖教）によって、あらゆる現象には言葉を超えた本質（離言自性）があると知るべきです。

如佛世尊轉有經中，為顯此義而說頌曰：

> 仏の世尊が「転有経」の中で、この意味を明らかにするために、次のように偈を説かれました。

以彼彼諸名， 詮彼彼諸法；此中無有彼， 是諸法法性。

> あらゆる名称によって、あらゆる現象が説かれている。 しかし、その名づけられたもの自体は、それらの現象の本質には存在しない──これが諸法の真実の姿である。

云何此頌顯如是義？謂於色等想法，建立色等法名；即以如是色等法名，詮表隨說色等想法。或說為色，或說為受，或說為想，廣說乃至說為涅槃。於此一切色等想法、色等自性都無所有，亦無有餘色等性法，而於其中色等想法離言義性，真實是有。當知即是勝義自性，亦是法性。

> では、なぜこの偈頌がそのような意味を示すのか。それは、色や受・想といった現象（ダルマ）に対して、それらの名称が「色」「受」「想」などと設定されるからである。このように設定された色などの名称を用いて、色などの現象を説明したり述べたりするのである。具体的には、「色」と言ったり、「受」と言ったり、「想」と言ったり、さらには「涅槃」に至るまで、様々に言い表す。 しかし、これらすべての色などの現象や名称には、色そのものの本質は全く存在しない。また、色などの本質を持つ他の現象も存在しない。ただ、それらの中で、色などの現象が言葉を離れた意味として有する本性は、真実に存在するのである。これを理解すべきである。それが勝義の自性であり、また法（ダルマ）の本性なのである。

又佛世尊義品中說：

> また、仏世尊が『義品』の中でおっしゃっています。

世間諸世俗， 牟尼皆不著，無著、孰能取， 見、聞而不愛。

> 世の中のさまざまな世俗的な事柄に対して、 目覚めた人は、決して執着することがありません。 執着がないならば、何ものにもとらわれることはなく、 見たり聞いたりしても、そこに愛着を抱くことはないのです。

云何此頌顯如是義？謂於世間色等想事，所有色等種種假說，名諸世俗。如彼假說於此想事有其自性，如是世俗牟尼不著。何以故？以無增益、損減見故，無有現前顛倒見故，由此道理名為不著。如是無著，誰復能取？由無見故，於事不取增益、損減，於所知境能正觀察，故名為見；聽聞所知境界言說，故名為聞。依此見聞，貪愛不生，亦不增長，唯於彼緣畢竟斷滅，安住上捨，故名不愛。

> この偈がどのようにしてその意味を示しているのか。それは、世間における色などの対象について、色など様々に仮に説かれたものを「世俗」という。その仮の説き方にある通り、これらの対象には本来の性質があると執着するが、そのような世俗に対して、牟尼（聖者）は執着しない。なぜか。実体を付け加えたり（増益）、減らしたり（損減）する見解がなく、誤った見解（顛倒見）が現前しないからである。この道理によって「執着しない」というのである。このように執着しないならば、誰がさらに執着するだろうか。実体として捉える見解がないため、対象に対して付け加えたり減らしたりせず、知るべき境を正しく観察するから「見」といい、知るべき境についての言説を聞くから「聞」という。この見聞に基づいて、貪愛は生じず、また増長もせず、ただその縁に対して完全に断滅し、捨てる境地に安住するから「愛さない」というのである。

又佛世尊為彼散他迦多衍那作如是說：散他苾芻！不依於地而修靜慮，不依於水、不依於火、不依於風、不依空處、不依識處、不依無所有處、不依非想非非想處、不依此世他世、不依日月光輪、不依見聞覺知、不依所求所得、不依意隨尋伺、不依一切而修靜慮。云何修習靜慮苾芻，不依於地而修靜慮，廣說乃至不依一切而修靜慮？

> また、仏世尊は散他迦多衍那に対して次のように説かれた。「散他よ、比丘は地に依らずに静慮を修せよ。水にも依らず、火にも依らず、風にも依らず、空無辺処にも依らず、識無辺処にも依らず、無所有処にも依らず、非想非非想処にも依らず、この世にも来世にも依らず、日月の光輪にも依らず、見聞覚知にも依らず、求めるものや得るものにも依らず、意識の随伴する尋伺にも依らず、一切に依らずに静慮を修せよ。では、どのようにして静慮を修する比丘が、地に依らずに静慮を修し、さらに広く説いて、一切に依らずに静慮を修するのであろうか。」

散他苾芻！或有於地除遣地想，或有於水除遣水想，廣說乃至或於一切除一切想，如是修習靜慮苾芻，不依於地而修靜慮，廣說乃至不依一切而修靜慮。

> 散他比丘よ。ある者は地において地という想いを除き、ある者は水において水という想いを除く。さらに詳しく言えば、ある者はすべてのものにおいてすべての想いを除く。このように修行する静慮の比丘は、地に依らずに静慮を修め、さらに詳しく言えば、すべてのものに依らずに静慮を修めるのである。

如是修習靜慮苾芻，為因陀羅、為伊舍那、為諸世主并諸天眾遙為作禮而讚頌曰：

> このように瞑想を修習する修行者は、因陀羅（インドラ）や伊舎那（イーシャーナ）、そして世の主たちや天の衆たちから、遠くから礼拝され、讃えられるのです。

敬禮吉祥士， 敬禮士中尊，我今不知汝， 依何修靜慮。

> 吉祥なる聖者に敬礼します 聖者の中の尊き方に敬礼します 私は今、あなたが何に基づいて 静かな瞑想を修行されているのか知りません。

云何此經顯如是義？謂於一切地等想事，諸地等名施設假立，名地等想。即此諸想，於彼所有色等想事，或起增益、或起損減。若於彼事起能增益有體自性執，名增益想；起能損減唯事勝義執，名損減想。彼於此想能正除遣，能斷、能捨，故名除遣。

> この経典がどのようにその意味を明らかにするのかというと、あらゆる「地」などの概念が想定される事柄に対して、「地」などの名称を仮に設けて「地」という概念としているのです。 そして、これらの概念は、色などの想定される事柄に対して、実体を付け加えたり、逆に減らしたりします。その事柄に対して、実体として存在するという捉え方を付け加えるのを「増益の想」と言い、その事柄の真実の意味を減らしてしまう捉え方を「損減の想」と言います。 この経典は、これらの概念（想）を正しく打ち消し、断ち切り、捨て去るのです。だから「除遣」と呼びます。

如是等類無量聖言，名為至教。由此如來最勝至教，應知諸法離言自性。

> このように、多くの聖なる教えの数々は「至教」と名付けられる。この仏の最も勝れた至教によって、あらゆる事物には言葉を超えた本来の性質があると知るべきである。

問：若如是者，何因緣故，於一切法離言自性而起言說？

> 問：では、そのような場合、どのような理由から、すべてのものごとについて、言葉では表せない本来の姿がありながら、言葉で表現するのでしょうか？

答：若不起言說，則不能為他說一切法離言自性，他亦不能聞如是義。若無有聞，則不能知此一切法離言自性。為欲令他聞知諸法離言自性，是故於此離言自性而起言說。

> 答えよう。もし言葉を用いなければ、他人に「すべてのもの（法）には言葉では表せない本来の性質がある」と説くことができず、相手もその意味を聞くことができない。もし聞くことがなければ、この「すべてのものには言葉を超えた性質がある」ということを理解できない。そこで、他の人々にこの真理を聞き、知ってもらうために、言葉を超えたこの本性について、あえて言葉を用いて説くのである。

又諸愚夫，由於如是所顯真如不了知故，從是因緣，八分別轉，能生三事，能起一切有情世間及器世間。

> また、愚かな凡夫たちは、このように顕れた真如を理解しないがゆえに、その因縁によって八つの分別が生じ、三つの事を生み出し、一切の有情世間および器世間を起こすのである。

云何名為八種分別？一者、自性分別，二者、差別分別，三者、總執分別，四者、我分別，五者、我所分別，六者、愛分別，七者、非愛分別，八者、彼俱相違分別。

> 「八つの分別」とは何か。第一に、物事の本質についての分別。第二に、物事の違いについての分別。第三に、全体をまとめて捉える分別。第四に、「我」についての分別。第五に、「我がもの」についての分別。第六に、好ましいものへの執着の分別。第七に、嫌なものへの執着の分別。第八に、好・嫌の両方に当てはまらないものへの分別である。

云何如是八種分別能生三事？謂若自性分別、若差別分別、若總執分別，此三分別能生分別戲論所依、分別戲論所緣事。謂色等想事為依緣故，名想言說所攝、名想言說所顯分別戲論，即於此事分別計度非一眾多品類差別。若我分別、若我所分別，此二分別能生一切餘見根本及慢根本薩迦耶見，及能生一切餘慢根本所有我慢。若愛分別、若非愛分別、若彼俱相違分別，如其所應能生貪欲、瞋恚、愚癡。

> このような八つの分別（はっぷんべつ）が、いかにして三つの事柄を生み出すのか。 まず、自性分別（じしょうふんべつ）、差別分別（しゃべつふんべつ）、総執分別（そうしゅうふんべつ）——この三つの分別は、分別戲論（ふんべつけろん）のよりどころと、分別戲論の対象となる事柄を生み出す。すなわち、色（しき）などの想（そう）という事柄をよりどころとし、縁（えん）とするからこそ、名前や想いや言葉に属し、名前や想いや言葉によって示される分別戲論が生じる。そして、まさにその事柄について、分別し、あれこれと計り、さまざまな種類の違いを生み出すのである。 次に、我分別（がふんべつ）と我所分別（がしょふんべつ）——この二つの分別は、あらゆる他の見解（けん）の根本と、慢（まん）の根本であるサッカーヤ・ディッティ（身見）を生み出し、さらに、あらゆる他の慢の根本である「我慢（がまん）」を生み出す。 最後に、愛分別（あいふんべつ）、非愛分別（ひあいふんべつ）、およびその両方とも違う分別（彼倶相違分別）——これらは、それぞれに応じて、貪欲（とんよく）、

是名八種分別，能生如是三事。謂分別戲論所依緣事，見、我慢事，貪瞋癡事。

> これらを八種の分別と名づけ、以下の三つの事柄を生じさせる。すなわち、分別によって作り出される虚構の依存対象、見解と慢心、そして貪欲・怒り・無知の事柄である。

當知此中，分別戲論所依緣事為所依止，生薩迦耶見及以我慢；薩迦耶見、我慢為依，生貪瞋癡。由此三事，普能顯現一切世間流轉品法。

> この中で、分別による虚妄な思考（戲論）の基となる対象（所依緣事）を拠り所として、自己への執着（薩迦耶見）と慢心（我慢）が生じます。そして、薩迦耶見と我慢を基として、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒が生まれます。これらの三つの働きによって、世間における一切の輪廻の現象（流轉品法）が明らかに現れるのです。

云何名為自性分別？謂於一切色等想事，分別色等種種自性所有尋思。如是名為自性分別。

> 自性分別とは何か。それは、あらゆる色や形などの対象について、それぞれに固有の性質を思い描き、区別しようとする心の働きである。このように、対象そのものの本質を固定的に捉えようとする分別を、自性分別という。

云何名為差別分別？謂即於彼色等想事，謂此有色、謂此無色，謂此有見、謂此無見，謂此有對、謂此無對，謂此有漏、謂此無漏，謂此有為、謂此無為，謂此是善、謂此不善、謂此無記，謂此過去、謂此未來、謂此現在。由如是等無量品類差別道理，即於自性分別依處，分別種種彼差別義。如是名為差別分別。

> では、「差別分別」とは何でしょうか。それは、色や心などの対象について、次のような様々な区別を立てて考えることです。 「これは物質的なものである」「これは物質的でないものである」、 「これは目に見えるものである」「これは目に見えないものである」、 「これは触れることのできるものである」「これは触れることのできないものである」、 「これは煩悩を伴うものである」「これは煩悩を伴わないものである」、 「これは条件づけられたものである」「これは条件づけられていないものである」、 「これは善いものである」「これは善くないものである」「これは善悪どちらでもないものである」、 「これは過去のものである」「これは未来のものである」「これは現在のものである」。 このように、無数の種類の区別のしかたに基づいて、物事の本質を捉える場に対して、様々な区別された意味をそれぞれに描き分けること、これが「差別分別」と呼ばれるのです。

云何名為總執分別？謂即於彼色等想事，我及有情、命者、生者等假想施設所引分別。於總多法總執為因，分別而轉。於舍、軍、林、飲食、衣乘等假想施設所引分別，如是名為總執分別。

> 総執分別とは何か。それは、色などの表象されるものに対して、「我」、「有情」、「命者」、「生者」といった仮の想定や設定に基づいて生じる分別のことである。多くの事柄をまとめて一つとして捉え、それを原因として分別が働く。家・軍隊・林・飲食物・衣服・乗り物などに対する仮の想定や設定に基づく分別も、これに含まれる。これらを総執分別という。

云何名為我、我所分別？謂若諸事有漏有取，長時數習我、我所執之所積聚；由宿串習彼邪執故，自見處事為緣所生虛妄分別。如是名為我、我所分別。

> 「我」と「私のもの」という分別とは何か。 それは、煩悩のもととなる執着の対象となる事柄に対して、長い間繰り返し「我」や「我が物」という執着を積み重ねてきたことによって生じる。過去からの誤った執着の習慣により、自分自身の見方や執着する対象に基づいて生まれる、虚ろで誤った分別のことである。 これを「我」と「私のもの」という分別という。

云何名為愛分別？謂緣淨妙、可意事境所生分別。

> 愛分別とは何か。それは、清らかで美しく、心にかなう対象や状況にふれることで生じる分別のことである。

云何名為非愛分別？謂緣不淨妙、不可意事境所生分別。

> \# 非愛分別とは何か それは、清らかでなく、好ましくない対象や状況に触れることによって生じる分別のことです。

云何名為彼俱相違分別？謂緣淨妙不淨妙、可意不可意俱離事境所生分別。

> では、その「共に相違する分別」とは何か。 それは、清らかで素晴らしいものと、清らかでなく素晴らしくないもの、心にかなうものと心にかなわないもの、これらの両方を離れた状況や対象に基づいて生じる分別のことである。

此中所說略有二種。一者、分別自性，二者、分別所依、分別所緣事。如是二種，無始世來，應知展轉更互為因。謂過去世分別為因，能生現在分別所依及所緣事。現在分別所依緣事既得生已，復能為因，生現在世由彼依緣所起分別。於今分別不了知故，復生當來所依緣事；彼當生故，決定當生依彼、緣彼所起分別。

> ここで述べられていることを簡潔にまとめると、二種類の分別がある。一つは「自己の本質を分別すること」、もう一つは「分別の基盤と対象を分別すること」である。この二つは、限りない過去から互いに原因となり、影響し合ってきたものと知るべきである。 つまり、過去の分別が原因となって、現在の分別の基盤と対象が生まれる。そして、その基盤と対象が生まれると、それが原因となって、現在においてそれらに基づき向けられる分別が生じる。さらに、今この分別を正しく理解していないために、未来における分別の基盤と対象が生じる。それら未来の基盤と対象が生まれれば、必ずそれらに基づく分別も生じることが定まるのである。

云何了知如是分別？謂由四種尋思、四種如實智故。

> いったい、どのようにしてこのような分別（物事を分けて考える心の働き）を、ありのままに知ることができるのでしょうか。 それは、四種の「尋思」（真理を求めて考えること）と、四種の「如実智」（あるがままの智慧）によります。

云何名為四種尋思？一者、名尋思，二者、事尋思，三者、自性假立尋思，四者、差別假立尋思。

> ここで「四種の分別の探求」とは何か。 第一に、名称についての分別の探求。 第二に、事物についての分別の探求。 第三に、本質について仮に設けられた分別の探求。 第四に、差異について仮に設けられた分別の探求。

名尋思者，謂諸菩薩於名唯見名，是名名尋思。

> 名の分別とは、諸々の菩薩が名に対して、ただ名のみを見ることをいう。これが名の分別である。

事尋思者，謂諸菩薩於事唯見事，是名事尋思。

> 事の考察とは、諸の菩薩が物事に対して、それをただあるがままに見ること、これを事の考察と名付ける。

自性假立尋思者，謂諸菩薩於自性假立，唯見自性假立，是名自性假立尋思。

> 自性仮立の尋思とは、諸々の菩薩が、自性仮立について、ただ自性仮立としてのみ見ることを、自性仮立の尋思と名づける。

差別假立尋思者，謂諸菩薩於差別假立，唯見差別假立，是名差別假立尋思。此諸菩薩於彼名、事，或離相觀、或合相觀。依止名、事合相觀故，通達二種自性假立、差別假立。

> 差別仮立を尋思するとは、諸菩薩が差別仮立について、ただ差別仮立のままに見ることを、差別仮立の尋思と名づける。これらの菩薩は、その名と事について、あるいは相を離れて観じ、あるいは相を合わせて観じる。名と事の合相観に依りて、二種の自性仮立と差別仮立とを通達する。

云何名為四如實智？一者、名尋思所引如實智，二者、事尋思所引如實智，三者、自性假立尋思所引如實智，四者、差別假立尋思所引如實智。

> 四つの如実智とは何か。第一に、名称（名前）についての観察から生じる如実智、第二に、実体（事実）についての観察から生じる如実智、第三に、本質についての仮の捉え方（仮説）の観察から生じる如実智、第四に、違いについての仮の捉え方（仮説）の観察から生じる如実智である。

云何名尋思所引如實智？謂諸菩薩於名尋思唯有名已，即於此名如實了知。謂如是名為如是義，於事假立，為令世間起想、起見、起言說故。若於一切色等想事，不假建立色等名者，無有能於色等想事起色等想；若無有想，則無有能起增益執；若無有執，則無言說。若能如是如實了知，是名名尋思所引如實智。

> 名の思索に導かれた真実の智慧とは何か。それは、菩薩が「名」について思索し、それが単なる名前に過ぎないと理解した上で、その名をあるがままに認識することである。すなわち、「この名はこの意味のために、世の人々がイメージを起こし、見解を起こし、言葉を発するために、物事に仮に立てられたものだ」と知ることである。もし、あらゆる色などのイメージの対象に対して、色などの名を仮に設けなければ、誰も色などのイメージの対象について色などのイメージを起こすことはできない。もしイメージがなければ、解釈を加えて執着することもできない。もし執着がなければ、言葉による表現も存在しない。このようにあるがままに認識できること、これを「名の思索に導かれた真実の智慧」と称するのである。

云何事尋思所引如實智？謂諸菩薩於事尋思唯有事已，觀見一切色等想事性離言說，不可言說。若能如是如實了知，是名事尋思所引如實智。

> 事の思考に導かれる真実の智慧とは何かというと、菩薩たちが事について深く考えた結果、すべての色などの現象は、本来言葉を離れており、説明できるものではないと観察することを言います。このように事実をあるがままに理解することが、事の思考に導かれる真実の智慧と呼ばれるのです。

云何自性假立尋思所引如實智？謂諸菩薩於自性假立尋思唯有自性假立已，如實通達了知色等想事中，所有自性假立非彼事自性，而似彼事自性顯現。又能了知彼事自性，猶如變化、影像、嚮應、光影、水月、焰水、夢、幻相似顯現，而非彼體。若能如是如實了知最甚深義所行境界，是名自性假立尋思所引如實智。

> 「では、”自己の本質という仮の概念について考え抜くことで得られる、ありのままの智慧”とは何でしょうか？」 それは、菩薩が、”自己の本質”というものは、ただ仮に立てられた概念にすぎないと深く観察した後、次のことをありのままに理解することです。 すなわち、色や感覚などの現象（事柄）について、私たちが「これが自己の本質だ」と想定しているものは、実はその物事自体の本当の本質ではなく、あたかもその物事の本質であるかのように見えているにすぎない、と知ることです。 また、その物事の本質は、まるで幻術師の作り出したもの、影、こだま、光の反射、水面の月、蜃気楼の水、夢、幻のように現れているだけで、実際にそのような実体があるわけではないと、はっきりと理解することです。 このようにして、最も深遠な真理の領域をありのままに悟る智慧、これこそが「自己の本質という仮の概念について考え抜くことで得られる、ありのままの智慧」と呼ばれるものです。

云何差別假立尋思所引如實智？謂諸菩薩於差別假立尋思唯有差別假立已，如實通達了知色等想事中差別假立不二之義。謂彼諸事非有性、非無性。可言說性不成實故，非有性；離言說性實成立故，非無性。如是由勝義諦故，非有色，於中無有諸色法故；由世俗諦故，非無色。於中說有諸色法故。如有性無性、有色無色，如是有見無見等差別假立門，由如是道理，一切皆應了知。若能如是如實了知差別假立不二之義，是名差別假立尋思所引如實智。

> あらゆる分別された仮の概念（差別假立）を観察し、それによって導かれる真実の智慧とは何か。 それは、菩薩たちが分別された仮の概念について、それらはただの仮の概念に過ぎないと見極めた後、色などの認識の対象（想事）において、分別された仮の概念が「二つではない」という意味を如実に悟り、徹底的に理解することである。 すなわち、それらの事柄は、「有る性質」でもなく、「無い性質」でもない。言葉で表現できる性質は実体を持たないので「有る性質」ではないが、言葉を離れた性質は実際に成立しているので「無い性質」でもない。 このように、究極的な真理（勝義諦）の観点からは「色がある」とは言えず、そこにはいかなる色の現象も存在しないからである。一方、世俗的な真理（世俗諦）の観点からは「色がない」とは言えず、そこには色の現象が説かれているからである。 この「有る・無い」や「色がある・色がない」という例のように、見える・見えないといった様々な分別された仮の概念の門についても、同じ理屈によって全てを理解すべきである。 もし、このように分別された仮の概念が「二つではない」という意味を如実に悟ることができれば、それが「分別された仮の概念の観察によって導かれる真実の智慧」と呼ばれるのである。

愚夫於此四如實智有所闕故，不現前故，便有八種邪分別轉，能生三事，能起一切有情世間及器世間。謂由如是邪分別故，起諸雜染；起雜染故，流轉生死；於生死中常流轉故，恒有無量隨逐生死種種生老病死等苦，流轉不息。

> 愚かな凡夫は、この四つの如実の智を欠いているため、それが目の前に現れないゆえに、八種類の邪な分別が生じます。この邪分別は三つの事柄を生み出し、一切の有情の世間と器世間を引き起こします。すなわち、このような邪分別によって、さまざまな雑染が生じます。雑染が生じる故に、生死を輪廻します。生死の中で常に輪廻する故に、限りなく生死に伴う種々の生・老・病・死などの苦しみが絶えず続くのです。

菩薩依此四如實智，能正了知八種分別；於現法中正了知故，令當來世戲論所攝所依緣事不復生起；不生起故，於當來世從彼依緣所起分別亦不復生。如是分別及依緣事二俱滅故，當知一切戲論皆滅；菩薩如是戲論滅故，能證大乘大般涅槃。於現法中，勝真實義所行處智極清淨故，普能獲得一切自在。

> 菩薩は、この四つの如実なる智慧によって、八種の分別を正しく理解することができます。現世においてこれを正しく理解するからこそ、来世において戯論に含まれるところの依りどころや縁となる事柄が再び生じることはありません。生じないからこそ、来世においてその依りどころや縁から起こる分別もまた再び生じません。このように分別とその依りどころや縁となる事柄の両方が滅するならば、すべての戯論が滅すると知るべきです。菩薩はこのように戯論が滅したことにより、大乗の大般涅槃を証することができます。現世において、勝れた真実の意味の行じる所の智慧が極めて清らかであるから、あまねくすべての自在を得ることができるのです。

謂諸菩薩於種種化，獲得能化神通自在；於種種變，獲得能變神通自在。普於一切所知境智，皆得自在。若欲久住，隨其所樂自在能住；若欲終歿，不待害緣，自在能歿。由諸菩薩得如是等無量自在，於諸有情最勝無上。

> さまざまな姿に身を変えられる神通力（自在）を得て、変化自在の力を身につけます。また、さまざまな形に姿を変える力をも自在に操れるようになります。すべての認識の対象と智慧において、完全に自在の境地に達します。もし長くこの世にとどまりたいと望めば、その願いに従って自在にとどまり続けることができます。もし命を終えたいと望めば、外的な原因を待たずに、自在に命を終えることができます。 菩薩たちは、このような無量の自在の力を得ているため、すべての生きとし生けるものの中で最も優れ、この上ない存在なのです。

菩薩如是普於一切得自在故，獲得五種最上勝利。一者、獲得心極寂靜。由住最靜故，不由煩惱寂靜故。二者、能於一切明處無所罣礙，清淨鮮白妙智見轉。三者、為利諸有情故，流轉生死無有厭倦。四者、善入一切如來密意言義。五者、所得大乘勝解不可引奪、不從他緣。

> このように、菩薩が一切のものに対して自在を得たことにより、五つの最上の勝利を獲得します。 第一に、心が極めて静まることを得ます。これは、最も深い静けさに留まるからであり、煩悩が静まったからではありません。 第二に、あらゆる学問・知識の分野において障害なく、清らかで鮮やかな、優れた智慧の見方が働くようになります。 第三に、すべての生きとし生けるものを利益するために、迷いの世界を巡り続けることに倦むことがありません。 第四に、如来の深遠な意味と表現のすべてを、的確に理解することができます。 第五に、得た大乗の確かな理解は、他のどんな考えにも揺るがされることなく、他に依ることもありません。

當知如是五種勝利，有五種業。一者、菩薩成就最勝現法樂住，能滅一切為趣菩提精勤加行所生身心種種勞倦。當知是名心極寂靜勝利之業。二者、菩薩普能成熟一切佛法。當知是名於諸明處無礙清白微妙智見勝利之業。三者、菩薩普能成熟一切有情。當知是名流轉生死無有厭倦勝利之業。四者、菩薩能正除遣所化有情隨所生起一切疑惑；護持如來妙正法眼，令得久住；於能隱沒如來聖教像似正法，能知、能顯、能正除滅。當知是名善入如來密意言義勝利之業。五者、菩薩能摧一切外道異論，精進堅牢，正願無動。當知是名大乘勝解不可引奪、不從他緣勝利之業。

> 知っておくべきこととして、この五つの勝利には、五つの働き（業）がある。 一に、菩薩は最上の現世の安楽（現法楽住）を成就し、悟りを目指して励むことによって生じる身心のあらゆる疲れを滅ぼすことができる。これを、心が非常に静まった状態の勝利の働きと知るべきである。 二に、菩薩はすべての仏法を完全に成熟させることができる。これを、諸々の学問（明処）における妨げのない清らかで微妙な智慧と見解の勝利の働きと知るべきである。 三に、菩薩はすべての生きとし生けるもの（有情）を完全に成熟させることができる。これを、生死の流れ（輪廻）の中を進みながらも、決して倦むことのない勝利の働きと知るべきである。 四に、菩薩は教化すべき者たちに生じるあらゆる疑惑を正しく取り除き、如来の素晴らしい正しい教え（正法の眼）を護って長く存続させ、如来の聖なる教えを覆い隠す似て非なる教え（像似正法）を、見極め、明らかにし、正しく除き滅ぼすことができる。これを、如来の深い意図と言葉の意味に巧みに入り込む勝利の働きと知るべきである。 五に、菩薩はあらゆる外道の異なった論を打ち砕き、努力は固く確かで、正しい誓いは動じることがない。これを、大乗仏教に対する深い確信が、他によって揺るがされることなく、他の条件（他縁）に従わない勝利の働きと知るべきである。

如是菩薩所有一切菩薩所作，皆為如是五勝利業之所攝受。

> このように、菩薩が行うあらゆる行いは、すべてこの五つの勝れた功徳によって支えられています。