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title: "瑜伽師地論 · 1目 神通威力"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
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云何諸佛菩薩神通威力？謂六神通。一者、神境智作證通，二者、隨念宿住智作證通，三者、天耳智作證通，四者、見死生智作證通，五者、知心差別智作證通，六者、漏盡智作證通。是名神通威力。

> 諸仏や菩薩の神通力とは何か。それは六つの神通のことです。第一に、神境智作證通（じんきょうちさしょうつう）。第二に、随念宿住智作證通（ずいねんしゅくじゅうちさしょうつう）。第三に、天耳智作證通（てんにちさしょうつう）。第四に、見死生智作證通（けんししょうちさしょうつう）。第五に、知心差別智作證通（ちしんしゃべつちさしょうつう）。第六に、漏尽智作證通（ろじんちさしょうつう）です。これらを神通力といいます。

云何諸佛菩薩神境智通？謂佛菩薩神境智通略有二種。一者、能變通，二者、能化通。如是二種品類差別，各有多種。

> 仏や菩薩の神境智通とは何でしょうか。それは大きく分けて二種類あります。第一に、自在に変化する能力（能変通）、第二に、自由に姿を現す能力（能化通）です。この二つには、さらに細かい種類の違いが数多くあります。

云何能變神境智通品類差別？謂十八變。一者、振動，二者、熾然，三者、流布，四者、示現，五者、轉變，六者、往來，七者、卷，八者、舒，九者、眾像入身，十者、同類往趣，十一者、顯，十二者、隱，十三者、所作自在，十四者、制他神通，十五者、能施辯才，十六者、能施憶念，十七者、能施安樂，十八者、放大光明。如是等類，皆名能變神境智通。

> では、神通力による変化の境地と智慧の自在（能変神境智通）には、どのような種類の違いがあるのでしょうか。それは、以下の十八の変化（十八変）として示されます。 一、振動（震え動かす） 二、熾然（燃え輝く） 三、流布（広く行き渡らせる） 四、示現（姿を現す） 五、転変（形を変える） 六、往来（自由に行き来する） 七、巻（巻き縮める） 八、舒（伸び広げる） 九、衆像入身（多くの像を一身に受け入れる） 十、同類往趣（同じ種類の者たちの間に赴く） 十一、顕（現れる） 十二、隠（隠れる） 十三、所作自在（なすことすべてが自在である） 十四、制他神通（他者の神通力を制する） 十五、能施弁才（弁才を施すことができる） 十六、能施憶念（記憶を施すことができる） 十七、能施安楽（安らぎと楽しみを施すことができる） 十八、放大光明（大きな光明を放つ） これらの種類が、すべて「能変神境智通」と呼ばれるものです。

振動者，謂佛菩薩得定自在，心調柔故，善修心故；依定自在，普能振動寺館舍宅、村邑聚落、城郭國土、那落迦世界、傍生世界、祖父世界、人世界、天世界、一四大洲、一千世界、二千世界、三千大千世界、百三千大千世界、千三千大千世界、百千三千大千世界、乃至無量無數三千大千世界皆能振動。是名振動。

> 揺れ動かすとは、仏や菩薩が瞑想において自在の境地を得て、心が柔らかに調えられ、よく修められていることによる。その瞑想の自在の力に基づいて、寺院や館、家屋、村や集落、城や国、地獄の世界、動物の世界、餓鬼の世界、人間の世界、天の世界、一つの四大洲、千の世界、二千の世界、三千大千世界、百の三千大千世界、千の三千大千世界、百千の三千大千世界、さらには無量無数の三千大千世界に至るまで、すべてを揺れ動かすことができる。これを揺れ動かすという。

熾然者，謂佛菩薩依定自在，從其身上發猛焰火，於其身下注清冷水；從其身下發猛焰火，於其身上注清冷水。入火界定，舉身洞然，遍諸身分出種種焰，青、黃、赤、白、紅紫、碧綠頗胝迦色。是名熾然。

> 熾然とは、仏や菩薩が禅定における自在の力によって、その身の上から激しい炎を放ち、身の下から清らかな冷水を注ぎ出すこと。また、身の下から激しい炎を放ち、身の上から清らかな冷水を注ぎ出すことである。火界定に入ると、全身がくまなく燃え上がり、体の各部から様々な炎が立ちのぼる。その色は、青、黄、赤、白、紅紫、碧緑、そして水晶のような色である。これを熾然という。

流布者，謂佛菩薩依定自在，流布光明，遍滿一切寺館舍宅，乃至無量無數世界無不充滿，如前振動。是名流布。

> 流布とは、仏や菩薩が禅定の自在力に基づいて、光をあまねく広めることをいいます。 その光は、すべての寺院や建物、家々に満ちわたり、さらに数えきれないほどの世界にまで広がり、どこも満たされない場所はありません。これは、先に述べた「振動」と同じような働きです。 これを「流布」と呼びます。

示現者，謂佛菩薩依定自在，如其所樂，示彼一切諸來會眾沙門、婆羅門、聲聞、菩薩、天、龍、藥叉、健達縛、阿素洛、揭路荼、緊捺洛、牟呼洛伽、人、非人等，令悉現見下諸惡趣、上諸人天。復令現見諸餘佛土，及於其中諸佛菩薩。乃至超過殑伽沙等諸佛國土，種種名聲所表佛土，及彼土中某名如來，悉令現見；亦為宣說彼佛土名，及如來名。齊彼至此，若復過彼諸佛國土及諸如來，隨其所欲，乃至所欲皆令現見，亦為宣說。是名示現。

> 示現（じげん）とは、仏や菩薩が禅定の自在力によって、自らの望み通りに、やって来たあらゆる会衆――沙門、婆羅門、声聞、菩薩、天、竜、薬叉、健達縛、阿素洛、掲路荼、緊捺洛、牟呼洛伽、人、非人など――に対して、下は諸々の悪趣、上は諸々の人や天の世界を、はっきりと見せ示すことをいいます。 さらに、その他の仏の国々や、そこにいる諸仏・諸菩薩をも現に見せます。ガンジス川の砂の数を超えるほどの多くの仏国土、様々な名称で呼ばれる仏土、そしてその国土にいる「某某という如来」までも、すべてをありありと見せるとともに、その仏土の名と如来の名を説き示します。 それらの仏国土や如来たちについて、この世界からそこに至るまで、あるいはその先の仏国土や諸如来についても、その人々の望むままに、望むすべてを現に見せ、またその名も説き明かします。これを「示現」といいます。

轉變者，謂佛菩薩依定自在，若於其地起水勝解，即令成水如實非餘；火、風勝解亦復如是。若於其水起地勝解，即令成地如實非餘；火、風勝解亦復如是。若於其火起地勝解，即令成地如實非餘；水、風勝解亦復如是。若於其風起地勝解，即令成地如實非餘；水、火勝解亦復如是。若於一切起餘勝解，即隨勝解如實非餘。如於大種互相轉變，色、香、味、觸，當知亦爾。若於草葉、牛糞、泥等，起於飲食、車乘、衣服、嚴飾資具、種種塗香、華鬘勝解，即隨勝解如實非餘。若於沙石、瓦礫等物，起於末尼、真珠、琉璃、螺貝、壁玉、珊瑚勝解，即隨勝解如實非餘。若於諸山、雪山王等起金勝解，即隨勝解如實非餘。若於一切起餘勝解，即隨勝解如實非餘。若於好色有情起惡色勝解，於惡色有情起好色勝解，於俱非有情起好色、惡色勝解，於俱有情起俱非勝解，即隨勝解如實非餘。如於好色、惡色，於具支節、不具支節，及肥瘦等，當知亦爾。如是於餘所有自相可變色物起餘勝解，皆隨勝解一切轉變，如實非餘。是名轉變。

> 「転変」とは、仏や菩薩が禅定の自在力を用いて、例えば地面に対して「水である」という確固たる理解（勝解）を起こせば、その通りに現実に水となり、他のものにはならない。火や風についての勝解も同様である。また、水に対して「地面である」という勝解を起こせば、その通りに現実に地面となり、他のものにはならない。火や風についての勝解も同様である。火に対して「地面である」という勝解を起こせば、その通りに現実に地面となり、他のものにはならない。水や風についての勝解も同様である。風に対して「地面である」という勝解を起こせば、その通りに現実に地面となり、他のものにはならない。水や火についての勝解も同様である。もし全てのものに対して別の勝解を起こせば、その勝解の通りに現実となり、他のものにはならない。 四大元素の相互転変について述べたように、色・香・味・触についても同様であると知るべきである。また、草の葉や牛の糞、泥などに対して、食べ物や飲み物、乗り物、衣服、装飾品、塗香、花飾りであるという勝解を起こせば、その勝解の通りに現実となり、他のものにはならない。砂利や瓦礫などに対して、真珠、瑠璃、螺貝、壁玉、珊瑚であるという勝解を起こせば、その勝解の通りに現実となり、他のものにはならない。また、様々な山や雪山王などに対して金であるという勝解を起こせば、その勝解の通りに現実となり、他のものにはならない。もし全てのものに対して別の勝解を起こせば、その勝解の通りに現実となり、他のものにはならない。 また、美しい色を持つ有情に対して醜い色であるという勝解を起こし、醜い色を持つ有情に対して美しい色であるという勝解を起こし、美しくも醜くもない有情に対して美しい色または醜い色であるという勝解を起こし、美しくも醜くもない有情に対して美しくも醜くもないという勝解を起こせば、その勝解の通りに現実となり、他のものにはならない。美しい色や醜い色について述べたように、肢体が完全なものと不完全なもの、肥満や痩せなどについても同様であると知るべきである。このように、その他の全ての固有の性質（自相）を持つ変化可能な物質に対して別の勝解を起こせば、全てその勝解の通りに転変し、現実となり、他のものにはならない。これを「転変」という。

往來者，謂佛菩薩依定自在，隨其所樂，於諸牆壁、山石等中縱身往來，無有滯礙。廣說乃至往於梵世，乃至上至色究竟天，還來無礙。或復傍於無量無數三千大千世界，若往、若來皆無滯礙。或運麁重四大種身，或於遠處作近勝解，或如意勢速疾往來。是名往來。

> 往来とは、仏や菩薩が禅定の自在力によって、その意のままに、あらゆる壁や山、岩などの中を身体を縦に通して行き来し、何の滞りもないことをいいます。さらに広く説けば、梵天の世界に至り、さらに上は色究竟天にまで至り、そこで再び戻ってくることも自在です。また、無数無量の三千大千世界を横に巡り、行くにも来るにも全て妨げがありません。あるいは、粗い重い四大から成るこの身体を運びながら、遠くの場所を近くであると巧みに想定し、また思いのまま素早く往来することもできます。これを往来と呼びます。

卷、舒者，謂佛菩薩依定自在，能卷一切雪山王等如一極微，舒一極微令如一切雪山王等。是名卷、舒。

> 巻くことと広げることとは、仏や菩薩が禅定の自在力によって、全ての雪山王のような巨大なものを一粒の微塵のように縮め、また一粒の微塵を全ての雪山王のように広げることができることを指します。これが「巻舒」と呼ばれるものです。

眾像入身者，謂佛菩薩依定自在，能以種種現前大眾，及以一切村邑、聚落、草木、叢林、諸山、大地一切色像內己身中，令諸大眾各各自知入其身內。是名眾像入身。

> 大衆の姿が身に入るとは、仏や菩薩が禅定の自在力によって、様々な目前の大衆や、全ての村・町・草木・林・山・大地といったあらゆる形あるものを、自らの身の中に取り入れることができることです。そして、大衆一人ひとりに、自分がその身の中に入っていることを悟らせます。これを「衆像入身」と言います。

同類往趣者，謂佛菩薩依定自在，或能往趣剎帝利眾，同其色類，如彼形量，似彼言音。彼若以此名如是義，亦即以此名如是義；彼不以此名如是義，亦不以此名如是義。然後為其演說正法，示現、教導、讚勵、慶慰。化事既終，欻然隱沒。沒後時眾迭相顧言：不知沒者天耶？人耶？如能往趣剎帝利眾，如是往趣婆羅門眾、若沙門眾、若長者眾、若居士眾、四大王天、三十三天、夜摩天、覩史多天、樂變化天、他化自在天、梵眾天、梵先益天、大梵天、少光天、無量光天、光音天、少淨天、無量淨天、遍淨天、無雲天、福生天、廣果天、無煩天、無熱天、善現天、善見天、色究竟天，當知亦爾。是名同類往趣。

> 同類趣向とは、仏や菩薩が禅定の自在力に基づき、あるいはクシャトリヤ（王族・武士）の集まりに赴き、その姿や身の丈を同じくし、その言葉を似せることができることをいう。彼らが、ある名を用いてある意味を表すならば、その同じ名を用いてその意味を伝え、彼らがその名を用いずに別の意味を表すならば、それに合わせて別の名称を用いる。その上で、彼らに正しい教えを説き、示し、導き、励まし、喜びを与える。教化の務めが終われば、たちまち姿を消す。消えた後、その場の人々は互いに顔を見合わせて言う。「消えた者は天なのか、人なのか」と。クシャトリヤの集まりに赴くように、バラモン、修行者、長者、在家信者、四大王天、三十三天、夜摩天、兜率天、楽変化天、他化自在天、梵衆天、梵輔天、大梵天、少光天、無量光天、光音天、少浄天、無量浄天、遍浄天、無雲天、福生天、広果天、無煩天、無熱天、善現天、善見天、色究竟天に赴く場合も、同様であると知るべきである。これを同類趣向という。

隱、顯者，謂佛菩薩依定自在，於大眾前，百度、千度，或過於是，隱沒自身，復令顯現。是名隱、顯。

> 隠れと顕れとは、仏や菩薩が禅定の自在力によって、大衆の前で何度も、百度、千度、あるいはそれ以上にわたって、自らの身を隠し、また再び現れさせることをいいます。これを隠れ・顕れと名づけます。

所作自在者，謂佛菩薩依定自在，普於一切諸有情界往、來、住等所作事中，皆自在轉。令去即去，令住即住，令來即來，令語即語。是名所作自在。

> 所作自在とは、仏や菩薩が禅定の自在力によって、あらゆる生きとし生けるものの世界で、行く・来る・留まるなどの行いを、すべて自由自在に行えることをいいます。行かせようと思えば行かせ、留まらせようと思えば留まらせ、来させようと思えば来させ、語らせようと思えば語らせることができる。これを作所自在と名づけます。

制他神通者，謂佛菩薩依定自在，能制伏他所現神通。如來神通普能制伏其餘一切具神通者所現神通，如其所欲，令事成辦。究竟菩薩一生所繫，或最後有所有神通，除諸如來、等類菩薩，悉能制伏其餘一切具神通者所現神通。諸餘菩薩所有神通，除入上地、等類菩薩，悉能制伏其餘一切具神通者所現神通。是名制他神通。

> 制他とは、仏や菩薩が禅定の自在力に基づいて、他の者の神通力を制御・屈服させることです。 如来の神通力は、他のすべての神通者があらわす神通力を、その意のままに制御し、望み通りに事を成し遂げさせることができます。 究竟の菩薩（一生補処の菩薩）あるいは最後の身の菩薩（最後有の菩薩）の神通力は、如来や同等の菩薩を除いて、他のすべての神通者があらわす神通力を制御することができます。 その他の菩薩の神通力は、より上の境地の菩薩や同等の菩薩を除いて、他のすべての神通者があらわす神通力を制御することができます。 これを「制他神通」といいます。

能施辯才者，謂佛菩薩依定自在，若諸有情辯才窮盡，能與辯才。是名能施辯才。

> 能く弁才を施す者とは、仏や菩薩が禅定の自在力に基づき、もしも弁才が尽きてしまった有情に対して、弁才を与えることができることを言います。これを「能く弁才を施す」と名付けます。

能施憶念者，謂佛菩薩依定自在，若諸有情於法失念，能與憶念。是名能施憶念。

> 心を贈る者とは、仏や菩薩が禅定の自在力によって、もし生きとし生けるものが教えを忘れてしまったなら、その記憶（おもい）を与えることができる者のことです。これが「心を贈る者」と呼ばれる所以です。

能施安樂者，謂佛菩薩依定自在，說正法時，與聽法者饒益身心輕安之樂，令離諸蓋，專心聽法。暫時方便，而非究竟。又令諸界互相違變能為損害、非人所行、災癘、疾疫皆得息滅。是名能施安樂。

> 安楽を与えるとは、仏や菩薩が禅定の自在力に基づき、正しい教えを説くとき、聴聞する者に心身の軽やかで安らかな喜びをもたらし、さまざまな心の覆い（蓋）を取り除かせ、教えに専念させることです。これはあくまで一時的な方便であり、究極の目的ではありません。また、体内の各要素（界）が互いに乱れて害を及ぼしたり、非人がもたらす災いや疫病、病気などを鎮め、消し去ることも含みます。これを安楽を与える力と呼びます。

放大光明者，謂佛菩薩依定自在，以神通力，身放光明。或有一光往十方面無量無數諸世界中，令惡趣等一切有情息彼眾苦。或有一光往諸天界，令大威德天、龍、藥叉、健達縛、阿素洛、揭路荼、緊捺洛、牟呼洛伽等住自宮中，蒙光覺悟，皆來集會。或有一光往十方面無量無數諸世界中，令住他方世界菩薩蒙光覺悟，皆來集會。以要言之，諸如來等能放無量無數品類種種光明，能作無量無數世界無量無數諸有情類無量無數利益之事。是名放大光明。當知如是一切能變神境智通品類差別，一一分別無量無數。由此神通，能轉所餘有自性物令成餘物，故名能變神境智通。

> 大いなる光明を放つとは、仏や菩薩が禅定の自在力に基づき、神通力によって身から光を放つことを言う。ある一つの光は、十方の無量無数の世界に赴き、地獄などの苦しみの境遇にあるすべての生きとし生けるものの苦しみを鎮める。またある一つの光は、天界に赴き、大いなる威徳を持つ天や竜、薬叉、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩睺羅伽などが、それぞれの宮殿にいながら光を浴びて目を覚まし、皆が集まって来る。またある一つの光は、十方の無量無数の世界に赴き、他方の世界に住む菩薩たちが光を浴びて目を覚まし、皆が集まって来る。要するに、如来たちは無量無数の種類の様々な光明を放ち、無量無数の世界において、無量無数の生きとし生けるものに対して、無量無数の利益をもたらすことができる。これを「大いなる光明を放つ」と名付ける。このように、すべての神変自在の智の通達の種類の違いは、一つ一つを説けば無量無数である。この神通によって、本来の性質を持つ他の物を変えて、別の物にすることができる。その故に、「神変自在の智の通達」と名付ける。

云何能化神境智通品類差別？

> どのようなものが、神変（しんぺん）の境地や智慧（ちえ）の能力における種類の違いなのでしょうか。

謂若略說，無事而有，是名為化。能以化心，隨其所欲，造作種種未曾有事，故名能化神境智通。

> 簡単に言うと、実際には存在しないものを、あたかもあるかのように作り出すこと、これを「変化（け）」といいます。そして、その変化を起こす心の力によって、自分の望むままに、これまでにない様々な現象を生み出すことができる。だからこそ、これを「変化を起こせる神通力（じんずうりき）」と呼ぶのです。

此復多種。或化為身及化為境，或化為語。

> また、これには多くの種類がある。あるいは身に変化し、あるいは境に変化し、あるいは言葉に変化する。

或化為身及化為境者，化似自身，或不相似；化似他身，或不相似。

> ある者は自らの化身をつくり、ある者は境地の化身をつくります。その化身は自分に似ている場合もあれば、似ていない場合もあります。また、他人に似ている場合もあれば、似ていない場合もあります。

又所化身，若自、若他，或似、不似，唯能化作與根相似根所依處，而非實根。

> また、化身について言えば、自分自身であれ他者であれ、似ているものであれ似ていないものであれ、ただ感覚器官（根）に似せた感覚器官の依りどころを生み出すことができるにすぎず、それは本物の感覚器官ではありません。

復能化作相似境界。謂飲食等，末尼、真珠、琉璃寶等，所有色、香、味、觸所攝外資生具。若彼相似，若異於彼，隨其所欲一切能化。

> また、相似した境界を現すことができる。すなわち、飲食などのものや、真珠、琉璃の宝など、すべての色・香・味・触に含まれる外の資生具を、それと似ているものであれ、それと異なるものであれ、欲するままにすべてを現すことができるのである。

又所化身與己同類，非一眾多種種差別。或作天、龍、藥叉、健達縛、阿素洛、揭路荼、緊捺洛、牟呼洛伽色像，或作人、傍生、鬼、那洛迦色像，或作聲聞、獨覺、菩薩、如來色像。若所化身與菩薩身極相似者，名所化身與自相似。若不爾者，名所化身非自相似。又所化身與他同類亦有多種。若作天身，與彼天身極相似者，名所化身與他相似；若不爾者，名所化身非他相似。如作天身，乃至佛身，當知亦爾。

> また、化身は自分自身と同類でありながら、一つではなく、多くの様々な違いがある。あるいは天、竜、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩睺羅伽の姿に変じ、あるいは人、畜生、餓鬼、地獄の姿に変じ、あるいは声聞、独覚、菩薩、如来の姿に変ずる。もし化身が菩薩の身と極めて似ている場合、それを「自身と相似する化身」と呼ぶ。そうでない場合、それを「自身と相似しない化身」と呼ぶ。また、化身が他人と同類である場合にも多くの種類がある。もし天の身を作り、その天の身と極めて似ている場合、それを「他と相似する化身」と呼ぶ。そうでない場合、それを「他と相似しない化身」と呼ぶ。天の身を作る場合も、仏の身に至るまで、同じように知るべきである。

云何此中化作多身？謂佛菩薩於十方面無量無數諸世界中，一時化作種種形類，能為無量無數有情作利益事。如是所化種種形類，於中或有諸佛菩薩雖滅度後，由住持力而故隨轉；或有暫時作利益已，化事便息。

> ここで「多くの身を現す」とはどういうことか。それは、仏や菩薩が十方の無数の世界に同時に様々な姿を現し、数え切れないほどの人々のために利益をもたらすことをいう。このようにして現れた様々な姿の中には、仏や菩薩がこの世を去った後も、その力が続くことによって活動を続けるものもある。また、一時的に利益をもたらした後、その活動が終わるものもある。

又佛菩薩或作化事，唯令眾生覩見而已，如幻所作不堪受用。或復化作飲食、衣服、末尼、真珠、琉璃、螺貝、壁玉、珊瑚、車乘等事，與實無異。如是所作財食眾具，令諸眾生常得受用。

> また、仏や菩薩が化身として行う業は、ただ衆生にそれを見せるためだけであり、幻のように作り出されたものは実際に享受することはできません。あるいはまた、飲食、衣服、真珠、瑠璃、螺貝、壁玉、珊瑚、車乘などの品々を幻化して作り、実物と何ら変わらないようにすることもあります。このようにして作り出された財物や食物などの諸々の品々は、衆生が常にそれらを享受できるようにするためのものです。

是名化身及化境界。

> これが、化身（けしん）とその働きの世界を指します。

或化為語者，或有化語妙音相應，或有化語廣音具足，或有化語繫屬於自，或有化語繫屬於他，或有化語無所繫屬，或有化語宣說正法言詞所攝，或有化語誨責放逸言詞所攝。

> ある者は言葉となって現れ、ある者は不思議な声が響きわたる相を持ち、ある者は広く響く声を備え、ある者は自分に関する言葉となり、ある者は他者に関する言葉となり、ある者はどちらにも関係しない言葉となる。さらに、ある者は正しい教えを説く言葉の範疇に含まれ、ある者は怠りを戒める言葉の範疇に含まれる。

妙音相應者，謂佛菩薩所說化語，其聲深遠如雲雷音，其聲和雅如頻迦音，能感眾心，甚可愛樂。又此化語，圓上、微妙、顯了、易解、樂聞、無逆、無依、無盡。

> 妙音相応とは、仏や菩薩が説法の際に発する言葉のことです。その声は、遠くまで響き渡り、雷雲の音のようです。その声は優しく雅で、迦陵頻伽（かりょうびんが）の歌声のように、人々の心を動かし、とても愛しく楽しい気持ちにさせます。また、この説法の言葉は、完全で、細やかで、明らかで、分かりやすく、聞いていて楽しく、逆らうことがなく、何かに依存せず、尽きることがありません。

廣音具足者，謂佛菩薩所說化語，其聲廣大，隨其所樂，無量種類天、龍、藥叉、健達縛、阿素洛、揭路荼、緊捺洛、牟呼洛伽、聲聞、菩薩、人、非人等無量眾會，一踰繕那皆悉充滿，以妙圓音隨類遍告。又隨所樂，小千世界、二千世界、三千世界，乃至十方無量無數諸世界中，若近、若遠所有眾會，以妙圓音隨類遍告。於此聲中出種種音，為諸眾生說種種法，隨其所應，各得義利。

> 広音を具足するとは、仏や菩薩が説く教えの声が広大で、聞く者の喜びに従い、無量の種類の天・龍・夜叉・ガンダルヴァ・アスラ・ガルダ・キンナラ・マホラガ・声聞・菩薩・人・非人など、無量の衆会が一由旬（約七～八キロメートル）の範囲に満ちている中、その美しい円満な声で、それぞれの種類に応じて遍く告げることをいう。また、その喜びに従い、小千世界・二千世界・三千世界、さらには十方の無量無数の諸世界において、近くや遠くにあるすべての衆会に対し、美しい円満な声で、それぞれに応じて遍く告げる。この声の中から様々な音が出て、あらゆる衆生に様々な法を説き、それぞれの機縁に応じて、各々が利益を得るのである。

繫屬於自者，謂佛菩薩所說化語，於化自身出種種音，宣說正法，誨責放逸。

> 自分に関係するものとは、仏や菩薩が説く教えの言葉であり、その教え自身から様々な音声を発して、正しい法を説き、放逸を戒めることである。

繫屬於他者，謂佛菩薩所說化語，於化他身宣說正法，誨責放逸。

> 他の人に属するものとして、仏や菩薩が説く教えの言葉がある。それは、他者を導く身で正しい法を説き、怠けた生活を戒めるものである。

無所繫屬者，謂佛菩薩所說化語，或於空中、或於所化非情法上而有所說。

> 所属しないものとは、仏や菩薩が説く教化の言葉であり、それは空中や、教化の対象である無情のものに関して説かれることもある。

宣說正法言詞所攝者，謂佛菩薩所說化語，開示正理，令諸愚癡於種種法皆得悟解。

> 正しい教えを説く言葉とは、仏様や菩薩様がお説きになる教えのことであり、真理を明らかに示して、愚かな人々が様々な教えを理解できるように導くものです。

誨責放逸言詞所攝者，謂佛菩薩所說化語，為不愚癡獲得淨信而放逸者，責其放逸，令生慚愧；誨不放逸，令勤修學。

> 堕落を戒める教えとは、仏や菩薩が説かれた教えのことです。これは、愚かさゆえに清らかな信心を得ながらも怠惰に流れる者に対して、その懈怠を責めて反省を促し、怠ることなく努力して修行に励むよう導くものです。

如是所說眾多化事略有三種，化身、化境，及以化語。當知如是一切能化神境智通品類差別，一一分別無量無數。

> このように説かれた多くの教化の働きは、大まかに三つの種類に分けられます。すなわち、教化する姿、教化する場所、そして教化する言葉です。知っておくべきは、これらのすべての神変による智の働きの種類の違いは、それぞれに無量・無数の区別があるということです。

如是二種諸佛菩薩神境智通能辦二事。一者、示現種種神通，引諸眾生入佛聖教。二者、示現種種神通，惠施無量受苦眾生眾多品類利益安樂。

> 諸仏と菩薩の二つの神通力は、二つの目的を果たします。第一に、様々な神通力を示して、生きとし生けるものを仏の教えへと導くこと。第二に、様々な神通力を示して、苦しむ無数の生きとし生けるものに、多くの種類の利益と安らぎを施すことです。

云何諸佛菩薩隨念宿住智通？

> いかにして諸仏・菩薩は、宿住智通（過去世を知る智慧の力）を自在に用いるのか。

謂佛菩薩以宿住智，自能隨念己之宿住，曾於如是有情類中，我如是名，如經廣說。亦能隨念他諸有情身等一切品類差別，如自隨念己事無異。又能令他得宿住智，能自隨念前際所經若自、若他身等一切品類差別，曾於如是有情類中，我如是名，乃至廣說。如是有情轉復令他得宿住智，能自隨念一切宿住，如前無異。如是展轉令憶宿住，皆如自己。於現法中，又能隨念諸微細事，所有一切若少若多先所造作、先所思惟，皆無忘失。又能隨念無間剎那，次第所作無間斷故。

> 仏・菩薩は過去世を知る智慧によって、自らが前世において「このような境遇で、このような名前であった」と、経典に詳しく説かれる通りに思い起こすことができます。また、他の有情の身体などのあらゆる種類の違いについても、自分のことを思い起こすのと同じように自在に思い起こすことができます。 さらに、他の者にも過去世を知る智慧を与え、彼らが自ら前世で経験した自己や他者の身体などのあらゆる種類の違いを「このような境遇で、このような名前であった」と詳しく思い起こすことができるように導きます。そのようにして、また別の者にも過去世を知る智慧を与え、自らすべての過去世を思い起こさせることを、同じように繰り返し行います。 こうして次々と過去世を思い起こさせることで、すべての者が自分のことのように過去を記憶できるようにします。 現在の世においても、為したことや考えたことの大小すべての微細な事柄を、何一つ忘れることなく思い起こすことができます。また、瞬間瞬間に途切れることなく、連続して為された行いを次々と正確に思い起こすことができます。

又能隨念有量有數宿住差別，所知時劫可算數故。

> また、計量・計数可能な過去世の違いをあるがままに思い起こすことができる。なぜなら、知られるべき時劫が計算可能だからである。

又能隨念無量無數宿住差別，所知時劫不可數故。

> また、無量無数の過去世の違いを心に留めることができ、知るべき時間の長さが数えきれないからである。

以要言之，此宿住智於如是處、於如是類、於如是量，隨其所欲皆無礙轉。

> 要するに、この宿住智（過去世の記憶）は、そのようなところ、そのような種類、そのような範囲において、欲するままに自由に働き、何の妨げもなく作用するのである。

如是名為諸佛菩薩隨念宿住所攝威力。

> このようにして、諸仏・菩薩が過去世を宿命通によって覚知するという、その神通力について説かれました。

又由隨念宿住智故，憶念本生，為諸有情開示先世種種品類第一希有菩薩所行難行苦行。令於佛所生淨信故，起恭敬故，令於生死深厭離故。又由此智憶念本事，為諸眾生開示種種先世相應業果異熟，為令妄計前際常論、一分常論常見眾生破常見故。

> また、過去世の記憶を自在に思い起こす智慧によって、自らの過去生を観じ、あらゆる生きとし生けるものに、かつて菩薩が行った種々の稀有で難行・苦行の道を説き示します。それによって、仏への清らかな信心を生じさせ、敬いの心を起こさせ、生死の世界への深い厭離（離れたいという思い）を促すためです。 さらに、この智慧によって過去の出来事を思い出し、生きとし生けるものに対し、過去世における原因と結果の報いの対応を説き明かします。それは、過去について「永遠に続く実体がある」と誤って捉えたり、「部分的に永遠である」と執着する見解を持つ人々が、そうした常住の見解を打ち破るためです。

云何諸佛菩薩天耳智通？謂佛菩薩以淨天耳，能於種種天聲、人聲，聖聲、非聖聲，大聲、小聲，辯聲、非辯聲，化聲、非化聲，遠聲、近聲皆悉得聞。

> 諸仏・菩薩の天耳智通とはどのようなものか。それは、清らかな天耳によって、天人の声や人の声、聖者の声や聖者でない者の声、大きな声や小さな声、はっきりとした声や不明瞭な声、教化のための声やそうでない声、遠くの声や近くの声など、あらゆる音声をことごとく聞き取ることができるというものである。

聞天聲者，若不作意，下從欲界，上至色究竟宮，其中受生諸有情類種種音聲皆悉能聞。若作意時，過是已上諸世界聲皆亦能聞。

> 天の声を聞く者は、もし心を集中しなければ、下は欲界から上は色究竟天に至るまで、そこに生まれる様々な生きとし生けるものの、あらゆる音声をすべて聞くことができます。心を集中したならば、それ以上の世界の声もまた聞くことができるのです。

聞人聲者，遍於一切傍四大洲受生有情種種音聲皆悉能聞。

> 人の声を聞く者は、四方すべての大洋に囲まれた大陸に生きる生きものたちが発する、さまざまな音声をすべて聞き取ることができる。

聞聖聲者，於諸如來、聲聞、獨覺及諸菩薩，若從彼聞展轉為餘諸有情類宣說種種示現、教導、讚勵、慶慰，勸修諸善、勸捨諸惡所有音聲皆悉能聞。又於一切無染污心受持讀誦、論議決擇、無倒諫誨、為作憶念、教授、教誡，及餘所有善言善說能引義利種種音聲皆悉能聞。如是等類，名聞聖聲。

> 聖なる声を聞くとは、如来、声聞、独覚、菩薩たちのもとで、ある者が彼らから教えを聞き、さらにそれを他の生きとし生けるものたちに伝えて、様々な示し、教え、励まし、慰めを与え、善を行うよう勧め、悪を捨てるよう促す、あらゆる音声を聞くことである。 また、清らかな心で経典を受持し、読誦し、議論し、正しく選択し、誤りのない教えを説き、思い出させ、教示し、教化すること、その他すべての善い言葉や語り、利益をもたらす様々な音声をも、すべて聞くことができる。 このようなものを、聖なる声を聞く、というのである。

聞非聖聲者，於諸有情虛妄、離間、邪綺、麁獷、生下惡趣、生上天趣、生傍人趣種種音聲皆悉能聞。

> 非聖なる声を聞く者は、あらゆる生きとし生けるものについて、虚偽の言葉、離間の言葉、みだらな言葉、乱暴な言葉など、下劣な世界に生まれ変わる原因となる音声も、天界に生まれる原因となる音声も、あるいは人としての迷いの世界に生まれる原因となる様々な音声も、すべて聞くことができる。

聞大聲者，謂於大眾生聲、大集會聲、種種苦具所逼切聲、大號哭聲、相呼召聲、大雷吼聲、諸螺貝聲、諸鼓角等種種音聲皆悉能聞。

> 大声を聞くとは、大いなる衆生の声、大いなる集まりの声、様々な苦しみの道具に迫られ切られる声、大きな号泣の声、互いに呼び合う声、大いなる雷鳴の声、ほら貝の声、太鼓や角笛などの様々な音声を、すべてはっきりと聞くことができることを言います。

聞小聲者，下至耳語諸微細聲皆悉能聞。

> 小さな声を聞くとは、ささやきや、ごく微かな声に至るまでも、すべてはっきりと聞き取ることができる。

聞辯聲者，於義易了種種音聲皆悉能聞。

> 声を聞き分ける者は、真理を容易に理解し、様々な音声をすべて聞き取ることができる。

聞非辯聲者，於義難了種種音聲，謂達羅弭荼種種明呪、風、鈴、樹響、鸚鵡、鸜鵒、百舌、鸝黃、命命鳥等所出音聲、皆悉能聞。

> さまざまな音声を聞き分けるのではありません。その意味を理解するのが難しい様々な音、すなわちダラミチャ（達羅弭荼）の様々な呪文、風の音、鈴の音、木々の響き、鸚鵡、九官鳥、百舌鳥、ウグイス、命命鳥などが発する音声を、すべて聞くことができるのです。

聞化聲者，謂於一切得心自在具神通者，依神通力所化音聲皆悉能聞。

> 教化の声を聞くとは、心の自在を得て神通力を具えた者が、その神通力によって生み出す音声をすべて聞き取ることができる、という意味です。

聞非化聲者，謂於種種異彼音聲皆悉能聞。

> 聞（き）きて声（こえ）にあらざるものとは、さまざまに声とは異なる音声（おんじょう）をも、すべて聞くことができることをいう。

聞遠聲者，除佛菩薩所住聚落、城邑等中所有音聲，於餘乃至無量無數世界中聲皆悉能聞。

> 遠くの音を聞く力を持つ者は、仏や菩薩がおられる集落や町などの音を除き、その他、無量無数の世界に至るまでのあらゆる音を聞き取ることができます。

聞近聲者，聞所除聲。

> 遠くの声を聞けば、そこで聞こえる音も消えていく。

云何諸佛菩薩見死生智通？謂佛菩薩以超過人清淨天眼，見諸有情死時、生時、妙色、惡色、若劣、若勝，及於後際生已增長，諸根成熟，身諸所作善、惡、無記差別而轉。又現見知諸光明色、諸微細色、諸變化色、諸淨妙色，下至無間，上至色究竟宮，不由作意皆能見知。若作意時，能見上下無量無數餘世界色，亦能見傍無量無數諸世界中一切諸色，乃至能見彼彼佛土彼彼如來安坐彼彼異類大會，宣說正法，顯然無亂。

> 諸仏菩薩の「生死智通」とは何か。答えよう。仏や菩薩は、人間を超えた清らかな天眼によって、衆生の死ぬとき、生まれるとき、美しい姿、醜い姿、劣ったもの、優れたもの、さらには、死後、生まれ変わった後に成長し、諸根が成熟し、身体が行う善・悪・無記の様々な行為が生じていく様子を、はっきりと見ている。 また、見ることのできる光の色、微細な色、変化する色、清らかで美しい色を、無間地獄の下から色究竟天の上に至るまで、わざわざ心を留めなくても、すべて見て知ることができる。もし心を留めれば、上下の無量無数の他の世界の色を見ることができ、また、四方八方の無量無数の全ての世界におけるあらゆる色を見ることができる。さらに、それぞれの仏の国、それぞれの如来が、それぞれ異なる種類の大集会に座して、正しい教えを説かれている様子を、明らかに混ざりなく見ることができるのである。

又佛菩薩以淨天眼，普見十方無量無數諸有情類身之所作淨不淨業。既見彼已，隨其所應、隨其所宜，施作種種利益安樂。以淨天耳，普聞十方無量無數諸有情類語之所作淨不淨業。既聞彼已，隨其所應、隨其所宜，施作種種利益安樂。是名略說諸佛菩薩天眼、天耳之所作業。

> また、仏や菩薩は清らかな天眼によって、十方に無数にいるすべての生きとし生けるものの、からだで行う清らかな行いや清らかでない行いを、ことごとく見渡しています。それを見た後、それぞれの状況や必要に応じて、様々な利益と安らぎをもたらす行いを施します。さらに、清らかな天耳によって、十方に無数にいるすべての生きとし生けるものの、言葉で行う清らかな行いや清らかでない行いを、ことごとく聞き取ります。それを聞いた後、それぞれの状況や必要に応じて、様々な利益と安らぎをもたらす行いを施します。これを、諸仏・菩薩の天眼と天耳による働きのあらましと説きます。

云何諸佛菩薩知心差別智通？謂佛菩薩以他心智，遍知十方無量無數諸世界中他有情類，若有纏煩惱心，若離纏煩惱心，若有隨縛、有隨眠煩惱心，若離隨縛、離隨眠煩惱心。又遍了知有染心、邪願心，謂諸外道心及有愛染心。又遍了知無染心、正願心，謂與上相違心。又遍了知劣心，謂生欲界諸有情類，下至一切禽獸等心。又遍了知中心，謂生色界諸有情類諸所有心。又遍了知勝心，謂生無色界諸有情類諸所有心。又遍了知樂相應心、苦相應心、不苦不樂相應心。又能以一知他心智，於一有情如是所有、如是體性、如是品類、如是行相、如是分齊心起現前，於一念頃並如實知。又能以一知他心智，於多有情如是所有、如是體性、如是品類、如是行相、如是分齊心起現前，於一念頃並如實知。

> では、諸々の仏や菩薩が、どのようにして心の違いを即座に見抜く智慧と神通力を得ているのかをお話ししましょう。 仏や菩薩は、他者の心を知る智慧（他心智）によって、十方の無数・無量の世界にいるあらゆる生きとし生けるものの心を、余すところなく見通します。 具体的には、煩悩に縛られた心、煩悩から解放された心、煩悩の束縛や潜在的な種（随眠）を伴った心、それらから離れた心を、すべてはっきりと知ります。 さらに、煩わしい思い（染心）や間違った願い（邪願）を持つ心、例えば外道（誤った教えを信じる者）の心や、執着に染まった心も、すべて見抜きます。 反対に、煩わしさのない清らかな心（無染心）や正しい願い（正願心）を持つ心も、もちろん見抜きます。 また、心の優劣についても、下等な心（劣心）とは、欲界に生まれた生き物、例えば人間や動物たちの心のことです。 中等の心（中心）とは、色界に生まれた生き物たちの心のことです。 勝れた心（勝心）とは、無色界に生まれた生き物たちの心のことです。 あるいは、楽の感情と結びついた心、苦の感情と結びついた心、楽でも苦でもない感情（捨）と結びついた心も、すべて知ります。 さらに、たった一つの他心智をもって、一人の生きとし生けるものに対して、その心がどのような性質を持ち、どのような状態であり、どのような種類に属し、どのような形で現れ、どのような範囲に及んでいるかを、一瞬のうちにありのままに知ることができるのです。 また同様に、そのたった一つの他心智で、無数の生きとし生けるものの心を、その性質、状態、種類、形、範囲のすべてを、同時に、一瞬のうちにありのままに知ることもできるのです。

又佛菩薩此他心通，知諸有情諸根勝劣，知諸有情種種勝解，知諸有情種種界行，隨其所應，能正安處趣涅槃宮種種正行。當知是名此所作業。

> また、仏や菩薩はこの他心通によって、あらゆる有情（生きとし生けるもの）の能力の優劣を知り、様々な理解の度合いを知り、様々な性質や行いを知り、その一人ひとりにふさわしく、確かに涅槃（悟りの境地）へと向かう様々な正しい行いを施します。これが、この智慧のなす働きであると知るべきです。

云何諸佛菩薩漏盡智通？謂佛菩薩如實了知煩惱盡得，如實了知若自、若他於諸漏盡已得未得，如實了知若自、若他所有能得漏盡方便。如能如實了知方便，於非方便亦如實知。

> 仏や菩薩の「漏尽智通」とは何か。 それは、仏や菩薩が、煩悩がすっかり尽きたという真理をあるがままに知り、自分や他人が、この煩悩の尽きた状態をすでに得ているのか、まだ得ていないのかをあるがままに知り、また、自分や他人が煩悩を尽くすための手段（方便）を正しく身につけているかどうかを、あるがままに知る智慧のことです。 さらに、この手段（方便）とは何かを正しく知ると同時に、それが手立て（方便）でないものについても、やはりはっきりと見極めているのです。

如實知他於漏盡得有增上慢，如實知他於漏盡得離增上慢。又諸菩薩，雖能如實了知一切漏盡功德能證方便，而不作證。是故菩薩於有漏事及與諸漏不速捨離；雖行種種有漏事中，而不染污。如是威力，於諸威力最為殊勝。

> 他人の煩悩が尽きたことに対して「もう自分は完全に悟った」と増上慢を抱いているか、あるいは「まだ悟りは完全ではない」と増上慢から離れているか、そのことをありのままに知っています。 さらに、すべての菩薩は、煩悩を完全に断ち切る功徳や、それを実証するための方法をありのままに知りながらも、あえて実証しません。 ですから菩薩は、煩悩のある事柄や、煩悩そのものをすぐには手放さず、様々な煩悩を伴う行いの中にあっても、けがれることがありません。 このような力を、あらゆる力の中で最も優れた力といいます。

又佛菩薩由漏盡智，自無染污；亦善為他廣分別說，壞增上慢。當知是名此所作業。

> また、仏や菩薩は漏尽智（煩悩を尽くした智慧）によって、自らは全く汚れがありません。そして、他者のためにも、よく広く説き明かし、増上慢（おごり高ぶる心）を打ち壊します。これを、仏や菩薩のなすべき働きと知るべきです。