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title: "瑜伽師地論 · 6目 已成熟補特伽羅相"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
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云何已成熟補特伽羅相？謂諸聲聞先已串習諸善法故，若時安住下品成熟，爾時便有下品欲樂、下品加行。猶往惡趣，非於現法證沙門果，非於現法得般涅槃。若時安住中品成熟，爾時便有中品欲樂、中品加行。不往惡趣，於現法中證沙門果，非於現法得般涅槃。若時安住上品成熟，爾時便有上品欲樂、上品加行。不往惡趣，於現法中證沙門果，即於現法得般涅槃。

> では、すでに成熟した人（補特伽羅）の特徴とは何でしょうか。 それは、声聞の修行者が、過去にさまざまな善い行いを積み重ねてきた結果として、次のような状態にあることをいいます。 もし下位の成熟の段階にいるときには、そのとき下位の修行への意欲と下位の実践努力があります。それでもなお悪い世界に生まれ変わることはありますが、現在の人生で修行の成果（沙門果）を現したり、涅槃に入ることはできません。 もし中位の成熟の段階にいるときには、そのとき中位の修行への意欲と中位の実践努力があります。悪い世界に生まれ変わることはなくなり、現在の人生で修行の成果を現すことができます。しかし、現在の人生で涅槃に入ることはできません。 もし上位の成熟の段階にいるときには、そのとき上位の修行への意欲と上位の実践努力があります。悪い世界に生まれ変わることはなく、現在の人生で修行の成果を現し、さらにそのまま現在の人生で涅槃に入ることができます。

如說聲聞，獨覺亦爾。何以故？道與聲聞同種類故。而此獨覺與諸聲聞有差別者，謂住最後有、最後所得身，無軌範師，宿習力故，修三十七菩提分法，究竟斷滅一切煩惱，證阿羅漢，故名獨覺。

> 声聞に説くところは、独覚にもまた同じである。なぜならば、その道が声聞と同類であるからである。しかし、この独覚が声聞と異なる点がある。すなわち、最後の有（最後の生存）に住し、最後に得る身を有し、軌範となる師を持たず、過去世での習いの力によって、三十七の菩提分法を修し、ついに一切の煩悩を断ち滅ぼし、阿羅漢を証する。ゆえに独覚と名づける。

若諸菩薩住勝解行地，名下品成熟；住淨勝意樂地，名中品成熟；住墮決定、到究竟地，名上品成熟。

> 諸菩薩が勝解行地に住することを下品の成熟と名づけ、浄勝意楽地に住することを中品の成熟と名づけ、決定に堕し究竟地に至ることを上品の成熟と名づける。

若時菩薩住下品成熟，爾時便有下品欲樂、下品加行。猶往惡趣。此盡第一無數劫邊際，熾然、無動、極善清淨覺品善法，當知一切皆未相應。若時菩薩住中品成熟，爾時便有中品欲樂、中品加行。不往惡趣。此盡第二無數劫邊際，熾然、無動覺品善法已得相應，極善清淨覺品善法未得相應。若時菩薩住上品成熟，爾時便有上品欲樂、上品加行。不往惡趣。此盡第三無數劫邊際，熾然、無動、極善清淨覺品善法，當知一切皆悉成就。

> 菩薩が下位の成熟にとどまっている時、その時には下位の欲求と下位の修行（加行）があります。まだ悪道へと向かうこともあります。この段階で第一の無数劫（アサンキエイ劫）の終わりまでに、熾然・無動・極善清浄の覚りの要素（覚品）に関する善い法は、すべてまだ対応していないと知るべきです。 菩薩が中位の成熟にとどまっている時、その時には中位の欲求と中位の修行があります。悪道へは向かいません。この段階で第二の無数劫の終わりまでに、熾然・無動の覚りの要素に関する善い法はすでに対応していますが、極善清浄の覚りの要素に関する善い法はまだ対応していません。 菩薩が上位の成熟にとどまっている時、その時には上位の欲求と上位の修行があります。悪道へは向かいません。この段階で第三の無数劫の終わりまでに、熾然・無動・極善清浄の覚りの要素に関する善い法は、すべて成就されていると知るべきです。

今於此中，性淳厚故，極猛盛故，能有上品廣大果故，大勝利故，名為熾然。不轉還故，不退墮故，常勝進故，名為無動。菩薩地中最無上故，當知說名極善清淨。

> ここでは、その性質が純粋で厚く、非常に勢いが強く、優れた広大な結果をもたらし、大きな勝利があることから、「熾然（燃え盛る）」と呼ばれます。また、（悟りへ向かう道が）元に戻らず、後退せず、常に進み続けることから、「無動（動じない）」と呼ばれます。菩薩の境地の中で最も優れていることから、これを「極めて善く清らかである」と知るべきです。