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title: "瑜伽師地論 · 4目 法隨法行"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
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云何菩薩法隨法行？當知此行略有五種。謂如所求、如所受法，身語意業無倒隨轉，正思、正修。

> 菩薩の法に従って修行するとはどういうことか。知るべきことに、この行には大きく分けて五つの種類がある。すなわち、求める通り、受ける通りに、身・言葉・心の行いを誤りなく従わせ、正しく考え、正しく修めることである。

若佛世尊於彼諸法，制身語意令不造作。於此諸法，開身語意令其造作。即於如是二種法中，身語意業無倒遠離、無倒修證。是名菩薩於諸法中，身語意業無倒隨轉法隨法行。

> もし仏世尊が、ある種の教えについては、身体と言葉と心を制してそれを作らせず、別の教えについては、身体と言葉と心を開いてそれを行わせるのであれば、この二種類の教えにおいて、身体と言葉と心の行為を、誤りなく遠ざけ、誤りなく修め証得すること。これを、菩薩が諸々の教えにおいて、身体と言葉と心の行為を誤りなく従い回らせ、教えに従って実践することと名づけます。

云何菩薩於法正思？謂諸菩薩獨居閑靜，隨所聞法樂欲思惟、樂欲稱量、樂欲觀察。先當遠離不思議處，思惟彼法。恒常思惟，無間加行、殷重加行，而無慢緩。是諸菩薩勇猛精進思惟法時，於其少分以理觀察而隨悟入。於其少分，但深信解。凡所思惟，但依其義，不依其文。如實了知黑說、大說。正能悟入最初思惟。既悟入已，數數作意令得堅固。是諸菩薩由能遠離不應思議而思惟故，其心不墮迷悶錯亂。由能恒常無間、殷重加行無緩而思惟故，先未知義得正了知、得正決了，先已知義得無失壞、得不忘失。由於少分以理觀察隨悟入故，於隨正理觀察法中，不由他緣。由於少分但信解故，於極甚深自少覺慧不能達法，仰推如來，言如是法是佛所行，非我境界。如是於法不生誹謗，不自損害，遠離衰患，無諸過罪。由諸菩薩思惟法時，但依其義不依文故，於佛世尊一切所說密意語言，能隨悟入。由諸菩薩普於一切黑說、大說得善巧故，於真實義，無物無法能傾能動。是諸菩薩正能悟入初思惟故，能得先來所未得忍。是諸菩薩，由即於此已所得忍，數數作意令堅牢故，能於其修隨順趣入。菩薩由是八種相故，能正修行正思所攝法隨法行。

> では、菩薩はどのようにして法について正しく思惟するのか。すなわち、諸々の菩薩は独り静かな場所に居て、聞いた法に従って、それを喜んで考えようとし、喜んで計量しようとし、喜んで観察しようとする。まず、考えるべきでない領域を遠く離れてから、その法について思惟する。常に絶え間なく思惟し、中断なく努力を重ね、真剣に努力を重ね、決して怠ることはない。これらの菩薩が勇猛精進して法を思惟する時、その一部については道理で観察して悟りに入り、その一部については単に深く信解する。思惟する時は、常にその意味に依拠し、文字に依拠しない。悪説と大説（正しい説と誤った説）をあるがままに知る。最初の思惟に正しく悟入する。悟入した後は、繰り返し作意してそれを堅固にする。これらの菩薩は、考えるべきでないことを思惟しないようにすることで、心が迷い混乱してしまうことがない。常に絶え間なく、中断なく真剣に努力し、怠ることなく思惟することで、以前は知らなかった意味を正しく知り、正しく決定し、以前から知っていた意味を失わず、忘れることがない。一部を道理で観察して悟り入ることで、正しい道理に従って法を観察する方法において、他に依拠する必要がない。一部を単に信解することで、極めて深遠で自らの少ない智慧では達することができない法に出会っても、如来を仰ぎ、「このような法は仏の行じるところであり、私の境地ではない」と言う。こうして法を誹謗せず、自らを損なわず、衰退や災いから遠ざかり、過ちがない。菩薩が法を思惟する時、常にその意味に依り文字に依らないからこそ、仏世尊のあらゆる密意のある言葉を悟り入ることができる。菩薩があらゆる悪説と大説に巧みであるからこそ、真実の意味において、何ものもそれを傾け動かすことができない。これらの菩薩が最初の思惟に正しく悟入するからこそ、これまで得たことのない忍（無生法忍など）を得ることができる。これらの菩薩は、すでに得たこの忍を繰り返し作意して堅固にすることで、修行へと順次入っていくことができる。菩薩はこれらの八つの相によって、正しい思惟に含まれる法と法に随う行を正しく修行することができるのである。

云何菩薩於法正修？當知此修、略有四相。一者、奢摩他，二者、毘鉢舍那，三者、修習奢摩他、毘鉢舍那，四者、樂修習奢摩他、毘鉢舍那。云何奢摩他？謂諸菩薩，由八種思善依持故，於離言說唯事、唯義所緣境中，繫心令住。離諸戲論、離心擾亂想作意故，於諸所緣而作勝解。於諸定相，令心內住、安住、等住，廣說乃至一趣、等持。是名奢摩他。云何毘鉢舍那？謂諸菩薩，由奢摩他熏修作意，即於如先所思惟法思惟其相。如理簡擇、最極簡擇、極簡擇法，廣說乃至覺、明、慧行。是名毘鉢舍那。云何修習奢摩他、毘鉢舍那？謂諸菩薩，於奢摩他、毘鉢舍那，無間加行、殷重加行，恒常修習，是名修習奢摩他、毘鉢舍那。云何樂修習奢摩他、毘鉢舍那？謂諸菩薩，即於如是止觀相中，其心無動，於無功用離諸加行任運轉處攝受無亂，是名樂修習奢摩他、毘鉢舍那。當知此中，是諸菩薩，如如修習奢摩他、毘鉢舍那，如是如是樂住奢摩他、毘鉢舍那；如如樂住奢摩他、毘鉢舍那，如是如是奢摩他、毘鉢舍那清淨。如如奢摩他清淨，如是如是身安、心安增長廣大；如如毘鉢舍那清淨，如是如是若智、若見增長廣大。齊此名為修所應作，謂於所依中，應除遣麁重；及於一切所知，應修清淨智見。如是一切修所作業，菩薩由前四種修相，皆能成辦。

> では、菩薩が法においてどのように正しく修するのでしょうか。この修には、大きく分けて四つの相があると知るべきです。一つ目は奢摩他（しゃまた）、二つ目は毘鉢舎那（びばっしゃな）、三つ目は奢摩他と毘鉢舎那を修習すること、四つ目は奢摩他と毘鉢舎那の修習を楽しむことです。 では、奢摩他とは何でしょうか。それは、菩薩が八つの思惟によって善く依り所を得た上で、言葉を離れた、ただの事柄とただの意味だけを対象として、心をそこに留め、安住させることです。様々な分別や心の乱れを離れる作意によって、あらゆる対象について勝れた理解を得ます。様々な定の相において、心を内に留め、安住させ、等しく住せしめ、さらに詳しく言えば、一つの方向に向かい、等しく保つに至ります。これを奢摩他と呼びます。 では、毘鉢舎那とは何でしょうか。それは、菩薩が奢摩他による繰り返しの修行という作意によって、以前に考えた法について、その相を思惟することです。理にかなって選択し、極めて選択し、徹底的に法を選択し、さらに詳しく言えば、覚り、明らかにし、慧によって行動することに至ります。これを毘鉢舎那と呼びます。 では、奢摩他と毘鉢舎那を修習するとは何でしょうか。それは、菩薩が奢摩他と毘鉢舎那に対して、間断なく努力を加え、丁寧に努力を重ね、絶えず修習することです。これを奢摩他と毘鉢舎那の修習と呼びます。 では、奢摩他と毘鉢舎那の修習を楽しむとは何でしょうか。それは、菩薩がこれら止と観の相において、心が動かず、意識的な努力を必要とせず、自然に働く状態において、乱れずに心を保つことです。これを奢摩他と毘鉢舎那の修習を楽しむことと呼びます。 このようにして、菩薩は奢摩他と毘鉢舎那を修習すればするほど、それだけ奢摩他と毘鉢舎那に安住することを楽しみます。奢摩他と毘鉢舎那に安住することを楽しめば楽しむほど、それだけ奢摩他と毘鉢舎那は清らかになります。奢摩他が清らかになればなるほど、それだけ身体の安らぎと心の安らぎが増大し広がります。毘鉢舎那が清らかになればなるほど、それだけ智慧と見解が増大し広がります。これをもって、修行においてなすべきこととされます。すなわち、心の基盤にある重い煩悩の習気を取り除くこと、そして、あらゆる認識対象について清らかな智慧と見解を修することです。これらすべての修行の働きを、菩薩は前述の四つの修の相によって、すべて成し遂げることができるのです。