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title: "瑜伽師地論 · 2目 一切施"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
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云何菩薩一切施？

> 菩薩の一切施とは何かというと、すべてを惜しみなく与えることです。

謂一切者略有二種。一、內所施物，二、外所施物。

> 一切とは、大きく分けて二種類あります。第一に、内なる施しの対象であり、第二に、外なる施しの対象です。

若諸菩薩但捨己身，是名唯施內所施物。

> もし諸々の菩薩が単に自分の身を施すだけであるならば、それはただ内に施すべきものを施すと言うだけである。

若諸菩薩為愍食吐活命眾生，數數食已，吐所飲食而施與之，是名雜施內外施物。

> もし菩薩が、吐き出した食べ物で命をつなぐ生き物たちを哀れみ、何度も食事をしてはそれを吐き出して与えるなら、それを「内外の施し物を交えた布施」と呼ぶ。

若諸菩薩除上所說，施餘一切所應施物，是名唯施外所施物。

> もし菩薩が、先に述べたもの以外の、施すべきあらゆるものを施すならば、それを「ただ外の施物を施す」と言います。

又諸菩薩略由二相，以自內身施來求者。一、總求身者，以身施彼，隨所欲為，繫屬於彼、隨順於彼。譬如有人為衣食故，強自為他而作僕使。如是菩薩無愛染心，但為速證最勝菩提，但為眾生利益安樂，但為布施波羅蜜多速圓滿故，以身施彼，隨所欲為，繫屬於彼、隨順於彼。

> また、菩薩は大まかに二つの相によって、自らの身体を求めて来る者に施す。 第一に、単に身体を求める者に対しては、その身体をその人に与え、望むままにさせ、その人に従属し、その人に従う。たとえば、ある人が衣服や食物のために、無理やり自分の身を他者の僕として仕えるようなものである。 このように、菩薩は愛着の心なく、ただ速やかに最上の悟りを証するため、ただ衆生の利益と安楽のため、ただ布施波羅蜜多を速やかに円満させるため、自らの身体をその人に与え、望むままにさせ、その人に従属し、その人に従うのである。

二、別求手、足、頭、目、支節、血、肉、筋、骨乃至髓者，隨其所欲，一切施與。

> 二、また、手、足、頭、目、手足の関節、血、肉、筋、骨、そして骨髄にいたるまで、求める者の望みに応じて、すべてを施し与えます。

又諸菩薩亦由二相，以外施物施諸眾生。一、求受用者，恣彼所須，如其所樂隨意受用。二、求自在者，一切斷心並皆施與。

> また、菩薩たちは二つの理由から、衆生に外部の施し物を与えるのです。 第一に、受け取って使いたいと望む者には、彼らが欲するままに、喜んで自由に使わせること。 第二に、自由を求める者には、すべての執着の心を断ち切って、惜しみなく与えることです。

又諸菩薩非無差別以一切種一切內外所有施物施諸眾生；是諸菩薩以其種種內外施物，於諸眾生或有施與、或不施與。云何施與？云何不施？謂諸菩薩，若知種種內外施物，於彼眾生唯令安樂、不作利益；或復於彼不作安樂、不作利益，便不施與。若知種種內外施物，於彼眾生定作利益、不定安樂，或復於彼定作利益、定作安樂，即便施與。

> また、菩薩たちはすべてが同じというわけではありません。あらゆる種類の内外の施し物を、すべての衆生に施すとは限らないのです。菩薩たちは、様々な内外の施し物を、ある衆生には与え、ある衆生には与えないことがあります。どのように与え、どのように与えないのでしょうか。 菩薩たちは、様々な内外の施し物が、ある衆生に対してはただ安楽をもたらすだけで利益にならないと知ったり、あるいは安楽も利益ももたらさないと知った場合には、それを施しません。一方、様々な内外の施し物が、ある衆生に対して必ず利益をもたらし、安楽をもたらすかどうかは定かでない場合、あるいは必ず利益と安楽の両方をもたらすと知った場合には、すぐにそれを施すのです。

如是略說菩薩應施不應施已，次當廣辯。謂諸菩薩，若有來求共為伴侶，欲作非理逼迫、損害、誑惑於他，便不以身而施於彼，隨所欲為，繫屬於彼、隨順於彼。由諸菩薩寧於百反、千反、或百千反，捨自身命施諸眾生，終不隨他教命、稱悅彼情，於諸眾生非理逼迫、損害、誑惑。

> このように、菩薩が施すべきと施すべきでないことについて簡潔に述べました。次に、その詳細を広く説明します。 すなわち、諸々の菩薩は、もし誰かが自分に近づいてきて「共に行動しよう」と求め、それが他人に対して道理に反する強要や害、欺瞞（ぎまん）を働くためのものであれば、そのような人のために自らの身体を施し、その人の思いのままに束縛されたり、その人に従ったりはしません。なぜなら、諸々の菩薩は、たとえ百回、千回、あるいは百千回にわたって自らの生命を捨てて衆生に施すことがあっても、決して他人の命令に従い、その機嫌を取るために、道理に反する強要、害、欺瞞を諸々の衆生に対して行うことはないからです。

若諸菩薩於所行施意樂清淨，見有無量利眾生事正現在前，設有來求自身支節，不應施與。何以故？非彼菩薩於所行施意樂不淨，心生退弱，作是念言：此應可施，此不可施，此應施與，此不應與故。彼菩薩為令意樂得清淨故，須捨現前利眾生事，而施身分。由彼意樂已清淨故，不應棄捨正現在前利眾生事，而施身分。又諸菩薩，若魔眾天懷惱亂心，現前來乞身分支節，不應分碎支節施與。何以故？勿彼當獲上品過罪及損害故。如魔眾天，如是於彼所使眾生，當知亦爾。或有眾生癡狂心亂，來求菩薩身分支節，亦不應碎支節施與。何以故？由彼不住自性心故，不為義利而求乞故，其心狂亂不自在故，空有種種浮妄言說，是故不應施彼身分。除上所說，與上相違，來求菩薩身支節者，隨其所欲應施彼身，隨所欲為，繫屬於彼、隨順於彼，或分支節而施與之。當知是名菩薩於內所可施物，或應施與、或不應與。

> 菩薩が布施を行うにあたり、その心が清らかであれば、目の前に多くの衆生を利益する機会があるときは、たとえ自分の体の一部を請われても、それを施してはなりません。なぜなら、その菩薩は布施の心が清らかでなくなり、心が弱って「これは施すべき、これは施すべきでない」「これは与えるべき、これは与えるべきでない」と考えるからではありません。菩薩は布施の心を清らかにするために、目前の衆生利益の機会を一時的に置いて、自分の体の一部を施すことがあります。しかし、心がすでに清らかになったならば、目前の衆生利益の機会を捨てて、体の一部を施してはなりません。また、菩薩は、魔衆や天人が邪な心を起こして現れ、体の一部を乞う場合には、それを切り分けて施してはいけません。なぜなら、そうすることで相手に大きな罪や損害を与えてしまうからです。魔衆や天人の場合と同様に、彼らに遣わされた衆生についても同じです。あるいは、心が狂ったり乱れたりした衆生が、菩薩の体の一部を求めてきた場合も、それを切り分けて施してはいけません。なぜなら、そうした衆生は正気を保っておらず、真の利益を求めて乞うのではなく、心が狂っていて自由がきかず、虚偽の言葉を発しているに過ぎないからです。そのため、そうした者には体を施してはいけません。上記の場合を除き、これらとは反対の状況で、菩薩の体の一部を求める者がいるならば、その望みに応じて体を施し、その者に従い、その者に委ね、あるいは体の一部を切り分けて与えて構いません。これが、菩薩が内的な施し物について、施すべき場合と施すべきでない場合の区別であると知るべきです。

又諸菩薩於外施物，若有眾生來求毒、火、刀、酒等物，或為自害、或為害他，即不應施。若有眾生來求毒、火、刀、酒等物，或自饒益、或饒益他，是即應施。

> また、菩薩たちは外部の施し物について、もし毒や火、刀、酒などの物を求める衆生が現れ、それが自分を傷つけるためであったり、他人を傷つけるためであるならば、施してはなりません。しかし、もし毒や火、刀、酒などの物を求める衆生が現れ、それが自分を益するためであったり、他人を益するためであるならば、その場合は施すべきです。

又諸菩薩，不以屬他非同意物而行惠施。

> また、諸々の菩薩は、他人の所有物や同意されていない物を施しとして与えることはありません。

又諸菩薩，不行媒媾，以他妻妾而行布施。

> また、諸々の菩薩は、婚姻の仲介を行わず、他人の妻や妾を施すこともありません。

又諸菩薩，不以有虫飲食等物而行惠施。

> さらに、菩薩たちは虫のいる食べ物や飲み物などを施し物として与えることはありません。

又諸菩薩，若有眾生來求種種能引戲樂、能引無義所施之物，不應施與。

> また、菩薩たちよ、もし様々な娯楽を引き起こし、無意味なことに導く施し物を求めてくる众生がいても、それを与えてはなりません。

何以故？若施彼時，雖暫令彼於菩薩所心生歡喜，而復令彼廣作種種不饒益事。謂因施故，令彼多行憍逸惡行，身壞已後墮諸惡趣。若有種種戲樂等具雖復施與，不令眾生墮諸惡趣，亦不增長諸不善根，菩薩為欲令彼眾生，因此所施戲樂等具，攝受饒益，心生淨信，易可化導、易可成熟，隨彼所求悉皆施與。是諸菩薩若有來求諸戲樂事，何者應施？何者不施？謂諸菩薩終不施人捕獵等法。又於雜穢諸祠祀中，作大方便多集眾生，損害其命，獲無量罪。於彼祠祀終不自作，亦不教他，亦不於彼諸天寺中殺羊祠祀。若有來求或水、或陸無量眾生所依止處，為欲殺害彼生命故，菩薩知已，終不施與。若有來求罩羅、罝、弶，為害眾生及為習學，皆不施與。若有怨家來求酬隙，為欲呵罵、縛錄、殺害、奪財、治罰，終不施與。以要言之，所有一切逼迫、損害他諸有情戲樂等具，有來求者，是諸菩薩皆不施與。若復種種象馬車輿、衣服莊嚴、珍妙飲食、習歌舞等，及諸樂器、塗飾香鬘、珍玩眾具、園林樓觀、舍宅侍女、習學種種工巧業處。

> なぜでしょうか。それは、施しを行う際、一時的に相手が菩薩に対して喜びの心を抱いたとしても、その後、その相手に様々な益のない行いを多くさせることになるからです。つまり、施しによって、相手が驕り高ぶった悪行を多く行うようになり、やがて身を壊した後、悪い境遇に堕ちてしまうのです。 もし様々な遊びや楽しみのための道具などを施しても、それが衆生を悪い境遇に堕とさず、また不善の根を増長させないものであれば、菩薩はその衆生が、施された遊びや楽しみの道具などによって、心を開き利益を得、清らかな信を生じ、導きやすく、成熟させやすくなるようにと願い、彼らの求めるままに全てを施します。 これらの菩薩に対して、もし様々な遊びや楽しみのことを求める者がいた場合、何を施すべきで、何を施すべきでないのでしょうか。 例えば、菩薩は決して、狩猟や網かけなどの方法を人に施しません。また、雑多で汚れた様々な祭祀において、大きな方便を用いて多くの衆生を集め、その命を損なわせ、無量の罪を得させるような祭祀については、菩薩は決して自ら行わず、他の者にも教えず、また神々の寺院において羊を殺して祭祀することもありません。 もし、水棲または陸棲の無数の衆生のよりどころとなる場所を求め、その命を殺そうとする者があれば、菩薩はそれを知って、決して施しません。もし、衆生を害するための網や罠、仕掛けを求め、あるいはそれを習おうとする者があっても、決して施しません。 もし怨みを持つ者が、復讐のために、罵倒、縛り上げ、殺害、財産の奪取、処罰を求めに来ても、決して施しません。要するに、他の生きとし生けるものを逼迫し、損なうような、あらゆる遊びや楽しみの道具について、求める者があったとしても、これらの菩薩は決して施しません。 しかし、様々な象や馬、車や輿、衣服や装飾品、珍しい美味しい飲食物、歌舞を習うこと、各種の楽器、塗料や香りや花鬘、珍しい玩びの道具、园林や楼観、家屋や侍女、様々な工巧の業処を習うことなどは、これらを求める者があれば、菩薩はこれを施します。

如是一切戲樂等具，為欲令其於菩薩所因此發起清淨信心，有來求者悉皆施與。

> このように、あらゆる遊びや楽しみの道具などを、菩薩のもとで清らかな信心を起こさせるために、求める者があればすべて惜しみなく施し与えるのである。

又諸菩薩，若有病者來求非量、非宜飲食，亦不施與。若有眾生食飽滿已，性多饞嗜，數復來求珍妙飲食，亦不施與。若諸眾生愁憂所逼，求欲殺害歐擊自身，食毒、墜巖、投淵、赴火，皆悉不應施其所欲。

> さらに、菩薩は、病気の人が適量でないものや身体に良くない食べ物を求めてきた場合、それを与えてはなりません。また、満腹した後に食欲が強くて再び珍しい食べ物を求めてくる人にも、与えてはなりません。さらに、悲しみや苦しみに苛まれ、自らを傷つけようとしたり、打とうとしたり、毒を食べようとしたり、崖から落ちようとしたり、淵に飛び込もうとしたり、火の中に飛び込もうとする人がいても、そのような希望に応じてはなりません。

又諸菩薩，若有來求父母師長，定不應施。何以故？以諸菩薩於其父母尊重師長乳哺養育微有恩者，於長夜中常思頂戴不生厭倦，恒持自身繫屬隨順，任所屠害、捶縛、貨賣。尚自不敢竊懷施心，何況顯然施來求者。

> また、諸々の菩薩は、もし父母や師匠、長輩から求められても、決して施し与えてはならない。なぜなら、菩薩は父母や師匠、長輩から乳を飲ませ養育され、わずかな恩恵を受けた者に対して、長い夜の間、常に敬い戴き、倦むことなく、自らの身を常に彼らに委ね従順に仕え、屠殺され、打ち縛られ、売られようとも甘んじる。ましてや、こっそりと施し与えようと心に抱くことすらできない。ましてや、はっきりと求める者に施すことなどありえないからである。

又諸菩薩，若作國王，灌頂自在，統領方域。於自國界所有寮庶，終不抑奪取餘妻子而轉施餘。唯持村邑、聚落、川土，或全或分以用布施，而告彼曰：如我恩化，汝亦宜然。

> また、諸々の菩薩が王となり、灌頂を受けて自在に国土を統べ治めることがあれば、自らの国内のすべての臣民に対して、決して他の者の妻子を無理やり奪い取って別の人に与えるようなことはしない。ただ、村や町、集落、土地を、その全部または一部をもって布施し、こう告げるのである。「私の教化のとおりに、あなたたちもまたそうありなさい」と。

又諸菩薩，於自妻子、奴婢、僕使、親戚、眷屬，若不先以正言曉喻，令其歡喜，終不強逼令其憂惱施來求者。

> また、菩薩は自分の妻や子供、使用人や召使い、親戚や家族に対しても、まず正しい言葉で理解させて喜ばせた上でなければ、決して無理に強いて彼らを悲しませたり悩ませたりしてから、求める者に施しを与えることはありません。

雖復先以正言曉喻，令其歡喜生樂欲心，而不施與怨家、惡友、藥叉、羅剎兇暴業者。不以妻子形容軟弱族姓男女，施來求者令作奴婢。

> たとえまず真実の言葉で教え諭し、相手が喜び、楽しい心を持ちたいと思うようになっても、怨みを持つ者や悪い友、薬叉や羅刹のような凶暴な行いをする者には施してはならない。また、妻や子が柔和な性質であろうと、家柄の良い男女であろうと、それを求める者に与えて奴婢として使わせてはならない。

又諸菩薩，若有上品逼惱眾生樂行種種暴惡業者來求王位，終不施與。若彼暴惡補特伽羅先居王位，菩薩有力尚應廢黜，況當施與。

> また、諸々の菩薩は、もし極めて重い煩悩に悩まされ、様々な粗暴で悪質な行いを好む者たちが王位を求めてきたとしても、決してそれを与えてはなりません。もしそのような粗暴で悪質な者がすでに王位についているならば、菩薩に力があれば、むしろそれを廃そうとすべきであり、ましてや王位を授けるなどということはありえません。

又諸菩薩終不侵奪父母、妻子、奴婢、僕使、親戚、眷屬所有財物，持用布施。

> また、菩薩は決して父母や妻、子、召使い、使用人、親戚、身内の者の持ち物を奪って布施に用いることはありません。

亦不逼惱父母、妻子、奴婢、僕使、親戚、眷屬，以所施物施來求者。

> また、父母や妻、子供、召使、使用人、親戚、縁者を苦しめることなく、自らが施す物を、求めに来た人に施すのです。

又諸菩薩，以其正法，以無卒暴積集財物而行惠施，不以非法、不以卒暴，亦不逼迫損惱於他而行惠施。

> また、すべての菩薩は、正しい教えに従い、急激な手段で財を集めることなく布施を行います。非法や乱暴な方法によってではなく、他者を苦しめ悩ませることなく、布施を実践します。

又諸菩薩，若在諸佛聖教出家，終不違越所有學處而行惠施。

> また、諸々の菩薩は、仏の聖なる教えにおいて出家したならば、決して学ぶべき全ての戒律に背くことなく布施を行うのです。

又諸菩薩行布施時，普於一切有情之類起平等心，住福田想，而行惠施。終不分別怨親中庸、有德有失、劣等勝品、有苦有樂品類差別。

> また、菩薩が布施を行うときは、すべての生きとし生けるものに対して平等の心を起こし、彼らを福田（幸福を育てる畑）と見なして施しを行います。決して、敵や味方、中立の者、徳のある者や欠点のある者、劣った者や優れた者、苦しむ者や楽しい者といった違いを区別することはありません。

又諸菩薩，如先所說、如先所許，終無減少施來求者，唯有施彼或等、或增。

> また、諸々の菩薩は、以前に説いた通り、以前に約束した通り、決して施しを求めて来る者に対して減らすことなく、ただ彼に等しく施すか、あるいは増して施すのである。

又諸菩薩，終無先許勝妙財物，後施下劣；唯有先許下劣財物，若有勝妙後施勝妙。

> また、諸々の菩薩は、決して先に優れた財物を約束しておいて、後に粗末なものを施すことはありません。ただ、先に粗末な財物を約束した場合に限り、もし後に優れたものがあれば、その優れたものを施すのです。

又諸菩薩，不以異意、不以憤怒撓濁之心而行惠施。

> また、諸々の菩薩は、異なった考えや怒り、心を乱すような思いで施しを行うことはありません。

又諸菩薩，終不施已而自稱讚，數數告言：我於汝所曾行如是如是惠施，攝受長養濟拔於汝。

> また、諸々の菩薩は、決して施しを行った後に自ら誇ることなく、繰り返し「私はあなたに対してこのように施しを施し、あなたを摂受し、長養し、済度したのだ」と言い立てることはありません。

又諸菩薩，於卑賤者行布施時，尚無不敬撩擲而與，況於有德。

> また、諸々の菩薩は、身分の低い者に布施を行う時でさえ、敬いの心なく投げ与えるようなことはしない。ましてや、徳のある人に対してはなおさらである。

又諸菩薩，若來求者安住種種毀犯邪行、掉舉、躁擾，不自防護，專行罵詈、瞋忿、呵責，終不於彼暫起邪行帶厭倦心而行惠施。唯即於彼了知為諸煩惱所媚，令改本性，深更安住憐愍之心而行惠施。

> また、諸々の菩薩は、もし施しを求める者が様々な悪行や過ち、落ち着きのなさ、騒がしさに安住し、自らを慎まず、ひたすら罵り、怒り、非難するようなことがあっても、決してその者に対して一時たりとも悪しき行いや嫌悪の心を起こして施しを行うことはありません。ただ、その者が諸々の煩悩に惑わされて本性を変えてしまったのだと理解し、深く憐れみの心に安住して施しを行うのです。

又諸菩薩，不由惡見妄有執取而行惠施，謂如廣大暴惡祠祀。不計殺生布施為法，亦不妄取吉祥瑞應相應相狀而行布施。

> また、菩薩たちは、誤った見解によって執着して布施を行うことはありません。例えば、大規模で残酷な祭祀のようなものは行いません。殺生を伴う布施を正しい行いだとは考えず、また、縁起が良いとか不吉だとかいった表面的な兆しに惑わされて布施をすることもありません。

又諸菩薩，終不妄計唯一切種極善清淨而行惠施，即是世間及出世間離欲清淨。唯審了知所行布施，但是離欲清淨資糧。

> また、諸々の菩薩は、決して「一切種子が極めて善く清浄であることだけが、布施を行うことであり、それはすなわち世間と出世間の執着を離れた清らかさである」とは誤って考えません。ただ、行う布施が、執着を離れた清らかさを得るための条件（資糧）にすぎないと、明らかに知り尽くしているのです。

又諸菩薩，不觀其果而行布施，一切布施皆為迴向速證無上正等菩提。

> また、諸菩薩はその果報を見て布施することなく、すべての布施を速やかに無上正等菩提を証するために回向します。

又諸菩薩，如實了知一切品類所行布施，一切品類施果異熟，深生信解，不由他緣、非他所引而行布施。謂施飲食能感大力，施諸衣服能感妙色，施諸車乘能感快樂，施諸燈明能感淨眼，如是等類廣說應知。

> また、菩薩たちは、あらゆる種類の布施の実践と、その布施によって得られる様々な果報をあるがままに理解し、深い信解を生じます。それは他からの影響によるものではなく、他に導かれることなく自ら布施を行います。 すなわち、飲食を施せば大きな力を得られ、衣服を施せば優れた容姿を得られ、乗り物を施せば快楽を得られ、灯明を施せば清らかな眼を得られます。このように、その種類に応じて広く説かれる通りであると知るべきです。

又諸菩薩，不為怖畏自身貧窮而行布施，唯由悲愍眾生意樂而行布施。

> また、菩薩たちは、自らの貧しさを恐れて施しを行うのではなく、ただ衆生に対する哀れみの心から施しを行うのです。

又諸菩薩於來求者，終不施與不合儀物。謂施出家者餘殘飲食，或諸便穢、洟唾、變吐、膿血，不淨所雜所染。又不告白不令覺知，如棄捨法施糜飯等。謂不食葱者，施以葱雜葱染飲食；不食肉者，施以肉雜肉染飲食；不飲酒者，施以酒雜酒染飲食。或復處置不合儀式所有事業而行布施。如是等類不合儀施，菩薩不為。

> また、諸々の菩薩は、求めてくる者に対して、決して不適切な物を与えることはない。例えば、出家者に対して、食べ残しや飲み物の残りを与えること、あるいは大小便、涙、鼻水、吐しゃ物、膿血などの不浄な物が混ざったものを与えることである。また、相手に告げず気づかせないまま、廃棄物を施すように粥や飯などを与えることもない。具体的には、葱（ネギ）を食べない者に、葱が混ざったものや葱で味付けされた飲食を与えること、肉を食べない者に、肉が混ざったものや肉で味付けされた飲食を与えること、酒を飲まない者に、酒が混ざったものや酒で味付けされた飲食を与えることである。また、礼儀に反するような方法や状況で施しを行うこともない。このような種類の不適切な施しを、菩薩は行わないのである。

又諸菩薩，不令求者數數來求，往還親附，隨順繫屬，稽留疲倦，然後方施，唯暫來求即便施與。

> また、諸々の菩薩は、求める者に何度も請わせたり、行き来して親しく近づき、従い属し、引き留めて疲れさせた後に施すことをせず、ただ一時的に求めて来たならば、すぐに施しを与えるのである。

又諸菩薩，不依世間名聲讚頌而行布施，不依於他反報恩德而行布施，不依帝釋、魔王、輪王、自在等果而行布施，亦復不為誑誘他故而行惠施。謂欲令他國王、大臣、城邑聚落諸婆羅門、多饒財寶長者、居士、大富商主、施者施主知我行施，定當恭敬、尊重、讚歎、供養於我，故行惠施。

> また、諸々の菩薩は、世間での名声や称賛を求めて布施を行うのではなく、他者からのお返しや恩返しを期待して布施を行うのでもない。また、帝釈天や魔王、転輪聖王、自在天などの果報を得るために布施を行うのでもなく、他人を欺いたり誘惑したりするために施しを行うのでもない。すなわち、他国の王や大臣、城や村々のバラモン、多くの財宝を持つ長者や在家信者、大富豪の商人、施しを行う者や施主が「私が布施を行っている」と知って、必ず私を敬い、尊重し、称賛し、供養するだろうと考えて施しを行うのではない。

又不狹劣而行惠施。謂財雖少，尚廣心施，何況財多。

> また、心が狭く卑しいまま施しを行うことはない。つまり、財産が少なくても、心は広く持って施しを行う。ましてや財産が多い場合はなおさらである。

又不誑他而行惠施。謂先於彼少行惠施，令起愛著、令親附己，然後傾滅。

> また、人を欺いて施しを行うことがあってはならない。つまり、まずわずかな施しをして、相手に執着を起こさせ、自分に親しませてから、その後で破滅させるようなことをしてはならない、ということである。

又復不為乖離於他而行惠施。謂我以施乖離村邑、村邑一分，乖離國土、國土一分，令背其主而來屬我。

> また、他者を引き離して、彼らを我が方に引き入れるために布施を行うこともありません。「私が施しを行うことで、村や村の一部、国や国の一部を分裂させ、その統治者から背かせて私に従わせよう」とは考えません。

又諸菩薩翹勤無惰起策具足，勇銳自嚴。先自行施，後勸他施。非自懈怠，策他勤施。

> また、菩薩たちは怠ることなく精進し、自らを奮い立たせて、勇猛に自らを厳しく律します。まず自ら施しを行い、その後で他者にも施しを勧めます。自ら怠けて他者にだけ施しを促すようなことはありません。

又無量眾同集來乞，如實了知持戒、犯戒，隨其長幼以次而坐，從上至下周旋往返，窮諸施物分布與之。

> また、無数の人々が集まってきて施しを求める。その戒律を保つ者も破る者も、ありのままに知り尽くし、年長者から年少者へと順に座らせ、上から下へと巡りながら、施す品々を余すところなく配り与える。

又諸菩薩現有無量廣多財物，終不行於有量之施。

> また、諸々の菩薩は無量で広大な財産を持っていても、最後まで限られた施しを行うことはありません。

又諸菩薩不損惱他而行惠施。謂不訶罵、捶打、恐怖、毀辱、縛害、拘禁、斫刺、驅擯於此，而施於彼。

> また、菩薩たちは他者を傷つけ苦しめることなく布施を行います。つまり、怒鳴ったり、打ち叩いたり、怖がらせたり、侮辱したり、縛ったり傷つけたり、閉じ込めたり、切りつけたり、追い払ったりすることなく、穏やかに施しを行うのです。

又諸菩薩，施前意悅，施時心淨，施後無悔。

> また、諸々の菩薩は、施しの前に心が喜びに満ち、施しの最中には心が清らかであり、施しの後には後悔することがありません。

又諸菩薩不以諂詭而行惠施。謂終不以非實末尼、真珠、琉璃、珂貝、璧玉、珊瑚等寶，而施希望真實寶者。

> また、菩薩たちはへつらいや偽りをもって布施をすることはありません。すなわち、決して本物ではない末尼（宝珠）や真珠、琉璃、珂貝、璧玉、珊瑚などの宝を、本当の宝を求める人に施すようなことはしないのです。

又諸菩薩所有財物若少、若多，無不運心先施一切。後來求者，如取自財，菩薩與時，如還彼物。

> また、すべての菩薩は、持っている財物が少なくても多くても、心を働かせてまず全てを施し与えないことはありません。後から求める者が来れば、あたかも自分の財産を取るかのように与え、菩薩が施す時は、まるでそれを返すかのように行うのです。

又諸菩薩應時而施，不以非時；自他淨施，非不清淨；合儀而施，不以非儀；無亂心施，不以散亂。

> また、すべての菩薩は時機にかなった布施を行い、時機を誤ることはありません。自他ともに清らかな布施をなし、不清浄な施しをしません。作法にかなった布施を行い、作法に反することはありません。心が乱れずに布施を施し、散乱した心で行うことはありません。

又諸菩薩見來求者，終不嗤笑，亦不輕弄，亦不令其而生𧹞愧；亦不顰蹙，舒顏平視，前笑先言；終不稽留，疾疾而施。又諸菩薩，他雖不求，自恣求者必有所求，稱須而與，常開求者歡情自取。

> また、菩薩たちは物を乞う者を見ても、決して嘲笑ったり軽んじたりせず、恥ずかしい思いをさせることもありません。眉をひそめることもなく、穏やかな表情で相手をまっすぐに見つめ、笑顔で先に声をかけます。決して引き延ばすことなく、すぐに施しを行います。 さらに菩薩たちは、たとえ相手が求めなくても、自ら進んで求める者には必ずその願いに応じ、必要に応じて与え、常に求める者が喜んで自ら受け取れるように促します。

又諸菩薩，不以惡慧而行布施，常以巧慧而行布施。云何菩薩巧慧布施？謂諸菩薩現有種種可施財物，求者未至，先發是心：設二求者俱來我所，一是安樂、非貧非賤、有依有怙；二是危苦、是貧是賤、無依無怙。我於爾時，應自揆量所有財物，若堪於二充足滿願，即應俱施滿願充足。如其財物不堪於二充足滿願，即應方便發遣安樂、非貧非賤、有依有怙，盡己所有施彼危苦、是貧是賤、無依無怙。發是心已，如所思惟，即便成辦如是事業。於安樂等諸來求者，既無力能足滿其願，先當方便發意思惟，辭謝發遣：我此施物，於危苦等先捨先許，故今與之；非我於汝無樂施心，但更無力。唯願賢首，勿於我所嫌恨棄背。

> また、諸々の菩薩は悪い智慧によって布施を行うのではなく、常に巧みな智慧によって布施を行います。では、菩薩の巧みな智慧による布施とは何でしょうか。それは、諸々の菩薩が様々な施すことのできる財物を持っている時、求める者がまだ来ないうちに、まずこう心に誓うということです。「もし二人の求める者が同時に私のところに来たとして、一人は安楽で、貧しくもなく賤しくもなく、頼るべきものがあり、守るべきものがある者。もう一人は危険で苦しみ、貧しく賤しく、頼るべきものもなく、守るべきものもない者である。その時、私は自分の財物の量をよく考え、もし二人の願いを十分に満たせるだけの財物があれば、その両方に施し、願いを満たしてやろう。もし財物が足りず、二人の願いを十分に満たせないなら、まずうまく言葉を尽くして、安楽で貧しくなく賤しくなく、頼るべきものがあり守るべきものがある者を辞退させ、自分の持っているすべての財物を、危険で苦しみ、貧しく賤しく、頼るべきものもなく守るべきものもない者に施そう」と。こう心に誓ったなら、その思いのままに、その行いを実行に移します。安楽な立場にある求める者たちに対しては、その願いを満たす力がないので、まずは考えを巡らせて、丁寧に言葉を尽くして辞退し、こう伝えます。「私のこの施し物は、危険で苦しい者たちに先に施すと約束し、先に差し上げると決めたものなので、今、彼らに与えるのです。決してあなたに対して施しを喜ぶ心がないわけではありません。ただ、力が及ばないだけです。どうか、賢者よ、私に対して恨みや憎しみを抱き、背を向け離れていかないでください」と。

又諸菩薩，現有種種可施財物，知有慳家、最極慳家、悋執財寶，慳固兢戰，於其家中，曾未惠施一切沙門、婆羅門等。

> また、諸々の菩薩は、様々な施しに適した財物があるのを知りながら、物惜しみする家、極度に物惜しみする家があるのを見ます。そこでは財宝を固く執着し、惜しみに固執して震えおののき、その家ではこれまで一度も沙門やバラモンなどに施しをしたことがありません。

菩薩即便往詣其舍，慰問安不？恭順方便，告言：汝來，我不令汝庫藏減盡，而於現前作大饒益。我家現有廣多財寶、廣多施物，為滿我施波羅蜜多，若有求者來到汝所，勿令空返，可至我家取諸財寶，隨意施與。或有求者來至我所，我行施時，汝於此施當生隨喜。

> 菩薩はすぐにその者の家を訪ね、ねぎらいの言葉をかけました。「よく来てくれたね。あなたの蔵を空にするようなことはしない。むしろ、今すぐ大きな利益をもたらそう。私の家にはたくさんの財宝と布施する品がある。私が布施の完成（波羅蜜多）を願うために、もしも求める者があなたのところに来ても、何も持たずに帰らせてはいけない。私の家に来て好きなだけ財宝を取り、心のままに施すがよい。また、求める者が私のところに来たなら、私が施しを行うときに、あなたもその施しに喜びの心を起こしてほしい。」

彼聞是已，便生欣悅：於我庫藏既無所減，復得稱彼善男子心，故應隨順成辦所作。菩薩如是令彼漸種當來調伏慳悋種子，由慧為先善巧方便，令漸修習自捨少財，依下無貪進得中品，依中無貪進得上品。

> これを聞いて、彼は大いに喜んだ。「私の財産は減らず、それでいてあの善き人の望みも叶えられる。ならば、その願いに従って、なすべきことを成し遂げよう」と。 菩薩はこのようにして、彼に将来のけちを調伏する種を少しずつ植えさせていく。智慧を先立てた巧みな方法によって、まずはわずかな財を自ら施すことを学ばせ、下の無貪（むとん）に依って中品へと進み、中の無貪に依って上品へと進ませるのである。

又諸菩薩，若親教師及軌範師、共住弟子同梵行者，性是慳貪，是慳貪類；或性雖非慳貪種類，而闕資財，所欲匱乏。菩薩欲寄佛法僧田樹修布施福業事時，捨所施物與彼令作，已自不為。菩薩如是巧慧方便，自所生福彌更弘多。復令一類同梵行者，調伏所有慳貪煩惱，亦令一類樂善法者，所願滿足，攝受有情、成熟有情。

> さらに、菩薩は、師僧や軌範師、共に住む弟子や同じ清らかな修行を共にする者に対して、その者が本来貪欲で吝嗇の性質であり、またそのような性質ではなくとも、財物が乏しく望むものが不足している場合がある。 菩薩が仏・法・僧の三宝の田に、布施の福徳の業を修めようとするとき、自ら布施を行う代わりに、布施するものを彼に与えて行わせる。 菩薩はこのような巧みな智慧と方便によって、自ら生じる福徳はより一層大きくなる。 また同時に、同じ清らかな修行を共にする者の貪欲や吝嗇の煩悩を調伏させ、また、善い法を好む別の者の願いを満たし、有情を摂受し、成熟させるのである。

又諸菩薩現有眾多可施財物，見諸來者有希求相，知其心已，隨彼所樂悉皆施與。復有商人為性矯詐，欲行欺誑，菩薩知已，尚掩其過不令他知，況觸於彼。稱滿其願，令無羞愧，踊躍無畏，歡喜而去。復有矯詐欺誑，菩薩初不覺知，後時乃覺；雖復覺知，不以此事舉發彼人，亦不訶責為作憶念。但生悲愍：彼於我所誤行如是不與取事，我今隨喜，令彼無罪。

> また、諸菩薩には多くの施し与える財物があり、来る者たちに求めの様子が見えれば、その心を知ってから、彼らの好むままにすべてを与える。 さらに、商人の中には性質が偽りで、欺こうとする者がいる。菩薩はそれを知っていても、その過ちを隠して他者に知らせない。ましてや彼に触れることなどない。その願いを満たし、恥じることもなく、勇み立ち恐れずに喜んで去らせる。 また、偽り欺く者がいて、菩薩が初めは気づかず、後に気づくこともある。たとえ気づいても、このことでその人を告発せず、叱責して思い出させることもない。ただ慈悲を起こす：「彼は私に対して誤ってこのような盗みを行った。私は今、喜んで受け入れ、彼に罪がないようにしよう」と。

如是等類，當知名為菩薩現有可施財物巧慧而施。

> このような者は、菩薩が実際に施す財物を巧みに活用して布施を行っている、と知るべきである。

又諸菩薩，若現無有可施財物，先所串習彼彼世間工巧業處作意現前，少用功力，多集財寶，施諸眾生。是諸菩薩，或復為他種種美妙、善巧言詞宣說正法，令貧苦者尚樂行施，況富樂者；令慳貪者猶能惠施，況習施者。或有淨信多饒財寶常樂施家，數教乞者往彼求索，令其布施。或彼惠捨修福業時，躬詣其所，翹勤無惰，起策具足，深心歡喜，隨力隨能身助、語助，令施求者得善滿足。以彼施時，事力闕尠，或惡供瞻，或墮朋黨，或不恭敬，或念忘失，由善助故，斯過皆無。

> また、諸々の菩薩は、もし施す財物が何もない場合には、以前に習熟した様々な世間の工巧の業処を意識して現前させ、わずかな労力で多くの財宝を集め、衆生に施すのである。 これらの菩薩は、あるいはまた、他者のために種々の美しく巧みな言葉で正法を説き、貧しい者にもなお布施を喜んで行わせ、ましてや富める者にはなおさらである。また、慳吝な者にもなお施しを行わせ、ましてや布施に慣れた者にはなおさらである。 あるいはまた、清らかな信心があり、多くの財宝を持ち、常に喜んで施す家には、乞う者を繰り返しその家に送り、布施を求めるようにさせる。あるいは、彼らが施しを行い、功徳を積む時に、自らその場所に赴き、怠ることなく励み、善く道具を整え、深く心に喜びを抱き、自らの力や能力に応じて身体と言葉で助け、施す者と求める者を善く満足させる。 彼らが布施を行う時、もし労力や物が乏しかったり、粗末な供養しかできなかったり、仲間内に堕したり、敬う心がなかったり、念を忘失したりしても、善き助けがあるがゆえに、これらの欠点はすべてなくなるのである。

如是菩薩現無財寶，巧慧方便而行布施，此說乃至未證增上清淨意樂。若諸菩薩已證增上清淨意樂，如已獲得超諸惡趣，如是生生必定獲得無盡財寶。

> このように、菩薩は財宝がなくても、巧みな智慧と方便によって布施を行います。これは、さらに優れた清らかな意楽（心の向かうところ）を未だ証得していない段階での教えです。もし菩薩がすでに優れた清らかな意楽を証得していれば、あたかも悪趣（苦しみの世界）を超越したかのごとく、生まれ変わるごとに必ず尽きることのない財宝を得ることができるのです。

又諸菩薩、終不口授求過外道所有正法，亦不施彼所寫經典；知性多貪，求欲衒賣經卷等者，亦不施與；知欲祕藏，亦不施與；不求勝智，亦不施與，必求勝智。若自了知於經卷等其義已辯，即隨所樂如應施與。若自了知於經卷等其義未辯，為辯義故恒自披轉。如是菩薩若見其餘有經卷等，即應方便轉求施與，或更書寫而施與之。若不見餘有經卷等，亦無力能更為書寫，即應審諦觀察自心：勿我於法慳垢纏心，不能施耶？勿我於法別意所礙，不欲施耶？為我於法有勝所須，不應施耶？

> また、菩薩は決して、過ちを求める外道に正しい教えを口伝えすることはありません。また、彼らに経典を書き写したものを施すこともありません。性質が貪欲で、経典などを売ろうとする者にも施しません。秘蔵しようとする者にも施しません。優れた智慧を求めない者にも施しませんが、必ず優れた智慧を求める者には施します。 もし自ら経典などの意味をすでに理解していると知れば、その者の望みに応じて施します。もし自ら経典などの意味をまだ理解していないと知れば、それを理解するために常に自ら繰り返し読誦します。 このように菩薩は、他の経典などを見つけたならば、すぐに方便を用いて求め、施すか、あるいは新たに書き写して施します。もし他に経典などが見つからず、書き写す力もないならば、慎んで自分の心をよく観察すべきです。 「私は教えに対して吝嗇の煩悩に縛られて、施すことができないのではないか？ 私は教えに対して別の心の障りがあって、施そうとしないのではないか？ それとも、私には教えに対する優れた必要があって、施すべきでないのだろうか？」と。

如是審諦觀察心已，若自了知，我於此法少有慳纏、別意所礙而不施者，即作是心：我今決定應行法施。設我由此行法施故，於現法中即成癡瘂，不忍煩惱尚應法施，況令闕乏妙智資糧。又觀察已，若自了知，我於此法無少慳纏，亦無別意，但為成辦勝所須義不應施者，菩薩爾時應更思忖：我持此法施於彼者，為為損害自煩惱耶？為為圓滿智資糧耶？為為愛念諸眾生耶？既思忖已，便正了知，我都不見自有煩惱。

> このように心を詳しく観察した後、もし自分自身で「私はこの教えに対して少しでも執着や、別の思いによる妨げがあって施さないのではないか」と気づいたなら、こう心に決めるべきである。「私は今、必ず法施を行うべきだ。たとえこの法施を行うことによって、現世で愚かで声も出せない者となろうとも、煩悩に耐えられなくなることがあっても、なお法施を行うべきである。ましてや、素晴らしい智慧の糧を欠くことなどあってはならない」と。 さらに観察した結果、もし自分自身で「私はこの教えに対して少しの執着もなく、別の思いもない。しかし、ただより勝れた目的を成就するために、施すべきではない」と気づいたなら、その時、菩薩はさらにこう考えるべきである。「私がこの教えを彼に施すことは、自分自身の煩悩を減らすためだろうか？智慧の糧を円満にするためだろうか？それとも、すべての衆生を慈しむためだろうか？」と考えた後、正しく理解するのである。「私は自分の煩悩を全く見ない」と。

見不施彼此經卷等，現法、當來我智資糧展轉增勝，非施於彼建此功德；但於當來薄饒法利，非豐覺慧。若不施彼，便能修集利益安樂一切眾生巧方便智，即為愛念此一眾生及餘一切；若施於彼，唯成愛念此一眾生，非餘一切。菩薩如是如實知已，不施彼者，無罪、無悔；亦不違越菩薩淨戒。

> 経巻などを他者に施さないことで、現世と来世において私の智慧の糧がますます増大するのであって、他者に施すことでここに功徳を築くのではない。もし施せば、来世においてわずかな法の利益を得るだけで、覚りの智慧は豊かにならない。もし施さなければ、すべての衆生に利益と安楽をもたらす巧みな方便の智慧を修め集めることができ、これはこの一人の衆生とその他すべての衆生を愛し顧みることになる。もし施せば、ただこの一人の衆生だけを愛し顧みることになり、他のすべての衆生には及ばない。菩薩はこのように真実に知って、施さなくても、罪はなく悔いることもなく、菩薩の清らかな戒律に背くこともないのである。

云何菩薩方便不施？謂諸菩薩不忍直言遣來求者，謂我不能惠施於汝。要當施設方便善巧，曉喻發遣。云何施設方便善巧？謂諸菩薩先於所畜一切資具、一切施物為作淨故，以淨意樂，捨與十方諸佛菩薩。譬如苾芻於己衣物為作淨故，捨與親教、軌範師等。如是菩薩淨施因緣，雖復貯畜種種上妙一切資具、一切施物，猶得名為安住聖種，生無量福。常於此福多思惟故，於一切時隨逐增長。恒於一切作淨施物，如佛菩薩所寄護持，見來求者即應觀察。若隨所欲作淨施物惠施彼時，稱當正理，應作是念：諸佛菩薩無有少物於諸眾生而不施者。如是知已，取淨施物施來求者，令所願滿。若觀施時，不稱正理，即應念先作淨施法。告言：賢首！如是等物是他所有，不許施汝。軟言曉喻，方便發遣。或持餘物二倍三倍，恭敬施與，然後發遣。令彼了知，菩薩於此非慳貪故，不欲施我；定當於此經卷等法不自在故，不施於我。當知是名菩薩巧慧而行法施。

> では、菩薩にとっての「方便として施さない」とはどのようなものか。それは、菩薩が施しを求めて来た者に対して、「あなたに施すことはできません」とはっきり言わないことである。必ず巧みな方便を用いて、理解を得てから帰らせるようにする。では、その巧みな方便とは何か。菩薩はまず、自らの所有する全ての財産や施し物を清めるために、清らかな意図で、それらを十方のすべての仏や菩薩に差し出すのである。これはちょうど、比丘が自分の衣類を清めるために、師僧や戒師に差し出すのと同じである。このように、菩薩が施し物を清めるという縁によって、たとえ様々な素晴らしい財産や施し物を蓄えていても、なお「聖なる家系に安住する者」と呼ばれ、無量の福徳を生み出す。常にこの福徳を思い巡らすことによって、あらゆる時にその福徳は増大し続ける。常にすべての清められた施し物を、仏や菩薩から預かったものとして大切に守り、施しを求める者が現れたなら、すぐに観察する。もし、望み通りに施し物を与えることが道理にかなっているなら、「諸々の仏や菩薩は、衆生に施さないものは何一つない」と心に念じ、清められた施し物を取り出して、来た者に施し、その願いを満たす。もし施すことが道理にかなわないと観察したなら、先に行った清めの行いを思い起こし、「施主よ、これらの品々は他の方のものです。あなたに施すことはできません」と優しく語りかけ、巧みに理解を得て帰らせる。あるいは、他の品物で、その二倍、三倍の価値があるものを、恭敬の心を持って施した上で、帰らせる。そうすることで、来た者に「この菩薩は、私に対してケチだから与えないのではなく、これらの経巻などの法については、自ら自由にできない事情があるため、私に施さないのだ」と理解させるのである。これを、菩薩が巧みな智慧を用いて法施を行う、と言うのである。

又諸菩薩於一切施，謂法施、財施、無畏施。若異門、若體相、若釋名、若因果差別，如實了知而行惠施，當知亦名菩薩巧慧而行布施。

> また、諸々の菩薩はあらゆる布施について、すなわち法施（教えの布施）、財施（物質の布施）、無畏施（恐怖を取り除く布施）について、もし異なる分類や、その本質や、言葉の意味や、原因と結果の違いを、あるがままに理解して施しを行うならば、これもまた菩薩の巧みな智慧による布施であると知るべきです。

又諸菩薩，於諸有怨，以慈意樂而行惠施；於諸有苦，以悲意樂而行惠施；於諸有德，以喜意樂而行惠施；於諸有恩、親善、同意，以捨意樂而行惠施；當知亦名菩薩巧慧而行布施。

> また、菩薩たちは、怨みを抱く者に対しては慈しみの心をもって施しを行い、苦しむ者に対しては悲しみの心をもって施しを行い、徳のある者に対しては喜びの心をもって施しを行い、恩義のある者や親しい友人、同じ意志を持つ者に対しては、平静な心をもって施しを行います。これを、菩薩の巧みな智慧による布施といいます。

又諸菩薩於其施障及彼對治如實了知。

> また、諸々の菩薩は、施しの妨げとなるものと、その対治法について、あるがままに知り尽くしている。

此中施障略有四種。一、先未串習，二、施物尠闕，三、耽著上妙悅意財物，四、觀見當來具足財果而深欣樂。

> ここでいう布施の障害には、四つの種類があります。 第一に、これまでに布施の習慣を身につけていないこと。 第二に、布施する物が少なかったり不足していること。 第三に、すぐれたものや心を喜ばせる財物に深く執着すること。 第四に、将来、豊かな財という結果が得られるのを見て、それを深く望むことです。

若諸菩薩現有種種可施財物，雖見求者正現在前，而於惠施心不趣入；菩薩爾時即以正慧速疾通達，是我於施先未串習所作過失。復以妙慧如是通達；我於先世決定於施曾未串習，致令今世現有種種可施財物，雖見求者正現在前，而於惠施心不趣入。若於今世不強思擇而行施者，復於來世定當憎背所應行施。菩薩如是正通達已，用此施障對治為依，力勵思擇而行惠施，能不隨逐先未串習所作過失，自在而行。

> もし菩薩に様々な施しに適した財物があり、たとえ求める者が目の前に現れても、施しを行う心が湧き起こらない場合がある。その時、菩薩は正しい智慧によって速やかに理解すべきである。それは、私が過去において施しの修行を十分に積んでいなかったという過ちによるものだと。さらに、優れた智慧によって次のように悟るべきである。私は過去世において、施しの修行を確かに十分に行ってこなかった。そのため、今世において様々な施しに適した財物があり、求める者が目の前に現れても、施しを行う心が湧き起こらないのだ。もし今世において、努力して考え抜くことなく施しを行わなければ、来世においても、当然ながら行うべき施しに対して心が背を向けるようになるであろう。菩薩はこのように正しく悟った後、この施しの妨げを取り除く対治法に基づいて、努力してよく考えた上で施しを行う。そうすれば、過去に十分に修行してこなかったことによる過ちに流されることなく、自ら進んで施しを行うことができるのである。

又諸菩薩若見求者正現在前，由諸財物有尠闕故，於其惠施心不趣入。菩薩爾時即以正慧速疾通達如是匱乏障施因緣，忍受匱乏所作眾苦，力勵思擇，起悲愍心而行慧施。作如是念：或由宿業有過失故，或由現在繫屬他故，令我具受眾多猛利飢渴等苦，不能饒益一切眾生。設我今者由行惠施，因饒益他，於現法中受種種苦，乃至殞歿，如是行施猶為最勝，非空發遣諸來求者；況當更有諸菜葉等可以活命。菩薩如是忍受匱乏所作眾苦而行惠施。

> また、菩薩が見るに、求める者が目前に現れているのに、自分の資財が乏しいために施しを行おうとする心が起こらない場合がある。その時、菩薩は正しい智慧をもって速やかに、この施しの妨げとなる貧窮の因縁を悟る。貧窮がもたらす様々な苦しみを受け止めつつ、心を奮い立たせて考え、慈悲の心を起こして慧施を行う。 こう思うべきである。「あるいは過去の業による過失のため、あるいは現在、他者に従属する身であるために、私は多くの激しい飢えや渇きなどの苦しみを受け、一切の衆生を利益することができない。たとえ今、施しを行うことによって他者を利益し、現世において様々な苦しみを受け、命を落とすことがあっても、このような施しは最も勝れたものである。決して求めて来た者を空しく追い返してはならない。ましてや、命を繋ぐために菜の葉などがさらに得られる道理もあろう」と。 菩薩はこのように、貧窮がもたらす様々な苦しみを受け止めつつ、施しを行うのである。

又諸菩薩，若見求者正現在前，由可施物極悅意故、最上妙故，於行惠施心不趣入。菩薩爾時即以正慧速疾通達，是我耽著所作過失，我今於苦發起虛妄樂想顛倒，由此能生當來眾苦。於此顛倒遍了知故，為欲斷除，力勵思擇，用此財物而行惠施。

> また、菩薩たちは、施しを求める人が目の前に現れた時に、その施し物が非常に魅力的で素晴らしいものであるがゆえに、施しを行う心が湧き起こらないことがあります。その時、菩薩は正しい智慧をもって速やかに悟るべきです。「これは私が執着していることによる過ちである。私は今、苦しみに対して虚妄な楽の想いという顛倒（誤った見解）を起こしている。これによって将来、多くの苦しみが生じるであろう。この顛倒を完全に知り尽くした以上、それを断ち切るために努力して考え抜き、この財物を用いて施しを行おう」と。

又諸菩薩若行施已，於當施果廣大財利，見勝功德，深生欣樂，不求無上正等菩提。菩薩爾時即以正慧速疾通達，是邪果見所作過失。如實觀察一切諸行皆不堅牢，一切諸行皆念念滅，所受用果速疾滅盡、速疾離散。如是觀時，即能斷滅能生欣樂邪果之見，諸所行施一切迴向無上菩提。

> また、諸々の菩薩が布施を行った後、その施しの結果として得られる莫大な財産や利益に素晴らしい功徳を見出し、深く喜び楽しんで、無上の正しい悟りを求めようとしない場合があります。そのような時、菩薩はただちに正しい智慧をもって素早く見極め、そのような「誤った結果の見解」が過ちを生むものであると悟ります。そして、あらゆる行いは堅固ではなく、すべての行いは刹那ごとに滅び去り、受用する果報もまた速やかに消え去り、速やかに離れ散っていくものだと、あるがままに観察します。このように観察する時、すぐに喜びや楽しみを生じさせる誤った結果への見解を断ち滅ぼし、一切の布施の行為をすべて無上の悟りへと回向するのです。

如是菩薩四種施障，當知四種能對治智對治於彼。一者、覺悟，二者、忍受眾苦，三者、遍知顛倒，四者、見一切行性不堅牢。是諸菩薩由前三種能對治智，決定堪能正行惠施；由後一種能對治智，能正攝受施福勝果。當知亦名菩薩巧慧而行布施。

> このように、菩薩には四つの布施の障害がある。それを対治する智慧も四つあると知るべきである。すなわち、第一に「目覚めること」、第二に「苦しみに耐えること」、第三に「あやまちを正しく知ること」、第四に「すべての現象は本質的に不安定であると見ること」である。 これらの菩薩は、最初の三つの対治の智慧によって、確かに布施を正しく行うことができる。そして、最後の一つの対治の智慧によって、布施の功徳と勝れた果報を正しく受けることができるのである。 これをもって、菩薩は巧みな智慧によって布施を行うとも知るべきである。

又諸菩薩內居閑靜，由淨意樂淳厚淨信分別勝解，數數緣念種種上妙無量財寶，以勝解力，於諸眾生樂行惠施。由此因緣，是諸菩薩以少功用生無量福，當知亦名菩薩巧慧而行布施。

> また、菩薩たちは静かな場所に身を置き、清らかな意欲と思いやりにあふれた確かな信解に基づいて、繰り返し様々な優れた無量の財宝を心に思い浮かべます。その確かな解釈の力によって、あらゆる生きとし生けるものに対して喜んで施しを行います。このような理由から、これらの菩薩たちはわずかな努力で計り知れない福徳を生み出すことができ、これもまた菩薩の巧みな智慧による布施であると知るべきです。

如是妙慧大慧菩薩巧慧行施總略義者，由有財、無財，財施所攝故；如是由法施故，由無礙解施故，由勝意樂施故，由施障對治智慧施故，由增上意樂勝解施故，當知是名唯諸菩薩不共行施。

> このように、妙慧・大慧の菩薩が巧みに布施を行うことの総略の意味とは、財施において有財・無財の区別があることによる。同様に、法施によること、無礙解による施しによること、勝れた意楽による施しによること、施しの障礙を対治する智慧による施しによること、増上意楽と勝解による施しによることによって、これこそが諸菩薩にのみ固有の布施行であると知るべきである。

如是廣說於內外事菩薩所行一切施差別相已。

> このように、内外の事柄に関して、菩薩が行う一切の布施の差別相（さまざまな種類の施しのあり方）について、広く説き明かしました。

自斯已後，即於一切施差別相中，分出所餘難行施等一切差別，應當了知。

> これより後は、すべての布施の違い（差別相）の中で、残された難行の布施などのさまざまな違いを区別し、理解しなければなりません。