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title: "瑜伽師地論 · 1"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
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云何菩薩一切戒？

> 菩薩のすべての戒めとはどのようなものでしょうか。

謂菩薩戒略有二種。一、在家分戒，二、出家分戒。是名一切戒。

> 菩薩戒には、大きく分けて二つの種類があります。 第一に、在家の人のための戒め。 第二に、出家の人のための戒めです。 これらを合わせて、すべての戒めと言います。

又即依此在家、出家二分淨戒，略說三種。一、律儀戒，二、攝善法戒，三、饒益有情戒。

> さらに、この在家と出家の二種の清らかな戒に基づいて、大きく三つに分けて説かれます。第一に律儀戒、第二に善法を摂める戒、第三に有情を利益する戒です。

律儀戒者，謂諸菩薩所受七眾別解脫律儀。即是苾芻戒、苾芻尼戒、正學戒、勤策男戒、勤策女戒、近事男戒、近事女戒。如是七種，依止在家、出家二分，如應當知。是名菩薩律儀戒。

> 律儀戒とは、菩薩たちが受ける七つの種類の別解脱律儀のことを指します。すなわち、比丘戒、比丘尼戒、正学戒、勤策男戒、勤策女戒、近事男戒、近事女戒の七つです。これらの七つは、在家と出家の二つの立場に基づいて、それぞれに応じて理解されるべきものです。これを菩薩の律儀戒と呼びます。

攝善法戒者，謂諸菩薩受律儀戒後，所有一切為大菩提，由身語意積集諸善，總說名為攝善法戒。

> 摂善法戒とは、菩薩が律儀戒を受けた後において、大いなる悟りのために身体・言葉・心によってあらゆる善を積み集めることを、まとめて摂善法戒と名づける。

此復云何？謂諸菩薩依戒、住戒，於聞、於思、於修止觀、於樂獨處精勤修學。

> これはどういうことかというと、諸々の菩薩は戒律に依り、戒律に安住して、聴聞、思考、止観の修行、そして独り静かに過ごすことを楽しみながら、精進して学び修めるということである。

如是時時於諸尊長精勤修習合掌、起迎、問訊、禮拜、恭敬之業，即於尊長勤修敬事。於疾病者，悲愍殷重瞻侍供給。

> このように、常に長老や師匠に対して、合掌して挨拶し、立ち上がって迎え、安否を尋ね、礼拝し、敬いの行いを熱心に修める。つまり、師や長上に対して敬いの行いを熱心に実践するのである。また、病気の人には、慈悲の心をもって深く思いやり、真剣に見舞い、看病し、世話をする。

於諸妙說，施以善哉。於有功德補特伽羅，真誠讚美。

> あらゆる素晴らしい説法に対して「よく言った」と称え、功徳ある人びとに対して心から賛嘆するのです。

於十方界一切有情一切福業，以勝意樂起淨信心發言隨喜。於他所作一切違犯，思擇安忍。

> 十方世界のあらゆる生きとし生けるものの、あらゆる善い行いに対して、清らかな喜びの心をもって、真心から「よかった」と喜びましょう。また、他の人が行ったあらゆる過ちや違反については、よく考えて、穏やかに受け入れましょう。

以身語意已作、未作一切善根，迴向無上正等菩提，時時發起種種正願。以一切種上妙供具，供佛法僧。於諸善品，恒常勇猛精進修習。於身語意住不放逸。

> 身・口・意によって、すでに行ったものも、まだ行っていないものも、すべての善い根（善根）を、最高のさとり（無上正等菩提）に向けて振り向け（回向し）、常に様々な正しい願いを起こします。あらゆる種類の最も優れた供養の品々を用いて、仏・法・僧に供養します。さまざまな善い行いに対して、常に勇猛に、熱心に修行に励みます。身・口・意において、油断することなく（放逸せず）気を配ります。

於諸學處，正念正知。正行防守，密護根門。於食知量。初夜後夜常修覺悟。親近善士，依止善友。於自愆犯審諦了知，深見過失。既審了知深見過已，其未犯者，專意護持；其已犯者，於佛菩薩同法者所，至心發露如法悔除。

> 諸々の学処に対して、正しい念と正しい知恵をもって行動し、正しい行いを守り、感覚の門をしっかりと守りなさい。食事の量を知り、初夜と後夜には常に目覚めて修行に励みなさい。善き師に親しみ、善き友に依り頼みなさい。自らの過ちや違反を慎重に理解し、その過ちの重大さを深く見極めなさい。過ちを理解し深く見極めたならば、まだ犯していないことは専ら心を込めて守り、すでに犯したことは、仏や菩薩、同じ教えを学ぶ仲間に対して、心から告白し、教えに従って懺悔して除き去りなさい。

如是等類所有引攝、護持、增長諸善法戒，是名菩薩攝善法戒。

> このように、 すべての善い行い（善法）を引き寄せ、守り、育てる戒律、 これを「菩薩が善い行いを身につけるための戒律（摂善法戒）」と呼びます。

云何菩薩饒益有情戒？當知此戒略有十一相。何等十一？

> 菩薩の衆生を利益する戒とは何でしょうか。この戒には、簡潔にまとめると十一の相があると知るべきです。その十一とは何か。

謂諸菩薩，於諸有情能引義利彼彼事業，與作助伴。於諸有情隨所生起疾病等苦瞻侍病等，亦作助伴。

> 菩薩は、人々にとって本当に役立つ行いには、積極的に力を貸すのです。また、人々に病気などの苦しみが起きた時には、看病などを通して、共に助け合うのです。

又諸菩薩，依世出世種種義利，能為有情說諸法要；先方便說，先如理說，後令獲得彼彼義利。

> さらに、菩薩は、世俗と出世間における様々な意味や利益に基づいて、人々に教えを説くことができます。まずは分かりやすく説き、次に道理にかなった形で説き、最終的には人々がそれぞれの利益を得られるように導くのです。

又諸菩薩，於先有恩諸有情所，善守知恩，隨其所應現前酬報。

> また、菩薩たちは、過去に自分に恩義のある生きとし生けるものに対して、よくその恩を心に留め、それぞれにふさわしい方法で報いる行いを行います。

又諸菩薩，於墮種種師子、虎狼、鬼魅、王賊、水火等畏諸有情類，皆能救護，令離如是諸怖畏處。

> また、菩薩たちは、獅子や虎、狼、鬼や妖怪、王や賊、水や火など、様々な恐れに陥っている生きとし生けるものたちを、皆、救い守ることができるのです。そのような恐れの場所から、彼らを遠ざけてあげるのです。

又諸菩薩，於諸喪失財寶親屬諸有情類，善為開解，令離愁憂。

> また、菩薩たちは、財産や親族を失った生きとし生けるものたちに対して、巧みに教えを説き、悲しみや憂いから離れさせます。

又諸菩薩，於有匱乏資生眾具諸有情類，施與一切資生眾具。

> また、菩薩たちは生活の道具に困っている生きとし生けるものたちに対して、生活に必要なあらゆるものを施し与えます。

又諸菩薩，隨順道理，正與依止，如法御眾。

> また、あらゆる菩薩は道理に従い、 正しくよりどころを与え、 法にかなった方法で人々を導く。

又諸菩薩，隨順世間事務言說，呼召去來，談論慶慰，隨時往赴，從他受取飲食等事。以要言之，遠離一切能引無義、違意現行，於所餘事心皆隨轉。

> また、菩薩は世間の仕事や言葉に従い、呼びかけや往来、談論や祝賀を行い、時に応じて赴き、他から飲食などを受け取ります。要するに、無意味を招き、意に反する振る舞いをすべて遠ざけ、それ以外の事柄には心を従わせるのです。

又諸菩薩，若隱若露顯示所有真實功德，令諸有情歡喜進學。

> また、諸々の菩薩たちは、隠れていようと表に出ていようと、自らの真実の功徳をすべて示し、多くの生きとし生けるものたちを喜ばせて、学びへと進ませるのである。

又諸菩薩，於有過者，內懷親昵利益安樂增上意樂，調伏、訶責、治罰、驅擯；為欲令其出不善處，安置善處。

> また、菩薩は過ちを犯した者に対して、内に親しみと利益安楽を願う強い意志を抱き、調伏し、叱責し、懲らしめ、追放する。それは、その者を不善の境遇から脱させ、善い境遇に置くためである。

又諸菩薩，以神通力方便示現那落迦等諸趣等相，令諸有情厭離不善；方便引令入佛聖教，歡喜信樂，生希有心，勤修正行。

> また、諸々の菩薩は、神通力をもって方便を用い、地獄などの様々な生存の境涯を示し現わし、生きとし生けるものたちに不善を厭い離れさせます。 さらに、巧みに導いて仏の聖なる教えに入らせ、喜び信じ楽しみ、希有の心を起こさせ、正しい修行に励ませるのです。

云何菩薩住律儀戒，住攝善法戒，住饒益有情戒？善護律儀戒，善修攝善法戒，善行一切種饒益有情戒？

> どのようにして菩薩は律儀戒（りついかい）に住し、善法を摂（おさ）める戒に住し、有情（うじょう）を利益する戒に住するのでしょうか。 よく律儀戒を守り、よく善法を摂める戒を修め、よくあらゆる種類の有情を利益する戒を行うのです。

謂諸菩薩，住別解脫律儀戒時，捨轉輪王而出家已，不顧王位，如棄草穢。如有貧庶為活命故，棄下劣欲而出家已，不顧劣欲，不如菩薩清淨意樂，捨輪王位而出家已，不顧一切人中最勝轉輪王位。

> 菩薩たちは、別解脱律儀の戒（個々の戒めを守る戒律）を保つ時、転輪聖王の位を捨てて出家し、王位を顧みることなく、あたかも草や塵を捨てるかのようにするのです。 たとえ貧しい者が生活のために、下劣な欲望を捨てて出家し、その低い欲望を顧みないとしても、菩薩の清らかな意志を持って、転輪聖王の位を捨てて出家し、人々の中で最も優れた転輪聖王の位を顧みないことには到底及びません。

又諸菩薩，住律儀戒，於未來世天魔王宮所有妙欲，不生喜樂。亦不願求彼諸妙欲，修行梵行。於彼妙欲尚如實觀，猶如趣入廣大種種恐畏稠林，況餘諸欲。

> また、諸々の菩薩は、戒律を保つことにより、未来世の天界や魔王の宮殿にあるあらゆる微妙な欲望に対して、喜びや楽しみを感じることはありません。また、そのような微妙な欲望を求めることなく、清らかな修行（梵行）を行います。それらの欲望を、実際に広大で様々な恐ろしい密林に入り込むように観察します。ましてや、他の世俗の欲望については言うまでもありません。

又諸菩薩，既出家已，於現在世尊貴有情種種上妙利養恭敬，正慧審觀尚如變吐曾不味著，何況於餘卑賤有情所有下劣利養恭敬。

> また、菩薩たちは出家したのち、現在世で高貴な者から受ける様々な素晴らしい供養や敬いを、正しい智慧でよく観察すると、それは吐き出したもののように見えて、決して味わい執着することがない。ましてや、それ以外の卑しい者からの粗末な供養や敬いには、なおさら執着することはない。

又諸菩薩，常樂遠離，若獨靜處，若在眾中，於一切時心專遠離寂靜而住。不唯於是尸羅律儀而生喜足，依戒、住戒，勤修無量菩薩等持，為欲引發證得自在。

> また、すべての菩薩は常に遠離を楽しみ、独り静かな場所にいようと、大勢の中にいようと、あらゆる時において心を専ら遠離に置き、静寂に安住します。彼らは単に戒律や儀式を守ることに満足することなく、戒に依り、戒に住して、無量の菩薩の三昧を精進して修めます。それは、自在の境地を呼び起こし、証得するためです。

又諸菩薩，雖處雜眾，而不樂為乃至少分不正言論；居遠離處，不起少分諸惡尋思。或時失念暫爾現行，尋便發起猛利悔愧，深見其過。數數悔愧，深見過故，雖復暫起不正言論、諸惡尋思，而能速疾安住正念，於彼獲得無復作心。由此因緣，則能拘檢。習拘檢故，漸能如昔於彼現行深生喜樂，於今安住彼不現行喜樂亦爾。又能違逆，令不現起。

> また、諸々の菩薩は、たとえ様々な人々の中に身を置いても、たとえわずかであっても正しくない言葉を好んで語ることはありません。また、静かな場所にあっても、わずかな不善の思考をも起こしません。時に注意を失って一時的にそれらが現れても、すぐに強い悔いと恥じらいを引き起こし、その過ちを深く見つめます。 繰り返し悔い改め、その過ちの深さをよく観ることで、たとえ一時的に正しくない言葉や不善の思考が起きても、速やかに正しい意識に安住することができ、それらを再び起こさない心を得ます。 このような理由により、自らをよく制することができるようになります。自制を習慣づけることで、次第に以前のようにそれらが現れることに深く喜びを感じていた状態から、今ではそれらが現れないことに安らぎと喜びを感じるようになります。 また、それらに逆らい、現れないようにすることができるのです。

又諸菩薩，於諸菩薩一切學處，及聞已入大地菩薩廣大無量不可思議長時最極難行學處，心無驚懼，亦不怯劣。唯作是念：彼既是人，漸次修學，於諸菩薩一切學處廣大無量不可思議淨身語等諸律儀戒成就圓滿；我亦是人，漸次修學，決定無疑。當得如彼淨身語等諸律儀戒成就圓滿。

> また、菩薩たちは、あらゆる菩薩の学ぶべきこと、ならびに聞いた後に大地に達した菩薩の広大無量、不可思議、長く最も極めて行い難い学ぶべきことに対しても、心に驚き怖れることなく、また臆することもない。ただこう思う。「あの方々も人であり、徐々に学び修めて、あらゆる菩薩の学ぶべきこと、広大無量不可思議な清らかな身・口・意などのすべての律儀の戒を成就し、円満にした。私もまた人であり、徐々に学び修めれば、必ず疑いなく、あの方々のように清らかな身・口・意などのすべての律儀の戒を成就し、円満にすることができるだろう」と。

又諸菩薩，住律儀戒，常察己過，不伺他非，普於一切兇暴犯戒諸有情所，無損害心，無瞋恚心。菩薩於彼由懷上品法大悲故，現前發起深憐愍心、欲饒益心。

> また、諸々の菩薩は、戒律を守るという戒めに留まり、常に自らの過ちを省みて、他者の非を探らない。全ての粗暴で戒を破る生きとし生けるものに対しても、害そうとする心も、怒りの心も持たない。菩薩は彼らに対して、最上の法による大いなる悲しみの心を抱くがゆえに、目の当たりにして深い憐れみの心と、彼らを利益したいと願う心を起こすのである。

又諸菩薩，住律儀戒，雖復遭他手足、塊石、刀杖等觸之所加害，於彼尚無少恚恨心，況當於彼欲出惡言、欲行加害，況復發言毀辱訶責，以少苦觸作不饒益。

> また、すべての菩薩は戒律を守りながら生活しています。たとえ他の人から手足や石、刀や杖などで傷つけられても、その相手に対して少しの怒りや恨みの心も持ちません。ましてや、相手に対して悪口を言おうとしたり、害を加えようとしたりすることはありません。さらに、言葉で侮辱したり責めたりすることもなく、わずかな苦痛を受けたからといって不利益を与えるようなことは決してしないのです。

又諸菩薩，住律儀戒，具足成就五支所攝不放逸行。一、前際俱行不放逸行，二、後際俱行不放逸行，三、中際俱行不放逸行，四、先時所作不放逸行，五、俱時隨行不放逸行。謂諸菩薩，於菩薩學正修學時，若於過去已所違犯如法悔除，是名菩薩前際俱行不放逸行。若於未來當所違犯如法悔除，是名菩薩後際俱行不放逸行。若於現在正所違犯如法悔除，是名菩薩中際俱行不放逸行。若諸菩薩，先於後時當所違犯，發起猛利自誓欲樂：謂我定當如如所應行，如如所應住，如是如是行，如是如是住，令無所犯。是名菩薩先時所作不放逸行。若諸菩薩，即以如是先時所作不放逸行為所依止，如如所應行，如如所應住，如是如是行，如是如是住，不起毀犯。是名菩薩俱時隨行不放逸行。

> さらに、諸々の菩薩は、戒律を守るという戒めにとどまり、五つの要素から成る放逸しない修行を完全に成就します。第一に過去にわたって行う放逸しない修行、第二に未来にわたって行う放逸しない修行、第三に現在にわたって行う放逸しない修行、第四に事前に行う放逸しない修行、第五に同時に行う放逸しない修行です。 すなわち、諸々の菩薩が菩薩としての学びを正しく修行する時、もし過去においてすでに犯した違反を、法に従って悔い改め除くならば、これを菩薩の過去にわたって行う放逸しない修行といいます。もし未来において違反するであろうことを、法に従って悔い改め除くならば、これを菩薩の未来にわたって行う放逸しない修行といいます。もし現在においてまさに違反していることを、法に従って悔い改め除くならば、これを菩薩の現在にわたって行う放逸しない修行といいます。 もし諸々の菩薩が、将来違反するであろう事柄に対して、あらかじめ強く自ら誓い願う心を起こし、すなわち「私は必ず、あるがままに応じて行い、あるがままに応じてとどまり、そのように行い、そのようにとどまることで、違反を起こさないようにしよう」と誓うならば、これを菩薩の事前に行う放逸しない修行といいます。 もし諸々の菩薩が、まさにこの事前に行う放逸しない修行をよりどころとして、あるがままに応じて行い、あるがままに応じてとどまり、そのように行い、そのようにとどまることで、違反を起こさないならば、これを菩薩の同時に行う放逸しない修行といいます。

又諸菩薩，住律儀戒，覆藏自善，發露己惡，少欲喜足，堪忍眾苦，性無憂慼，不掉不躁，威儀寂靜，離矯詐等一切能起邪命之法。

> また、諸々の菩薩は、戒律を守りながら、自らの善行は隠し、己の過ちは包み隠さずに示し、欲望は少なく満足することを喜び、様々な苦しみに耐え忍び、心には憂いや悲しみがなく、落ち着きを失わず、躁がず、威儀は静かで落ち着いており、偽りや詐りなど、すべての邪な生活を生み出す行いから遠く離れている。

菩薩成就如是十支，名住律儀戒，善護律儀戒。謂不顧戀過去諸欲，又不希求未來諸欲，又不耽著現在諸欲，又樂遠離不生喜足，又能掃滌不正言論諸惡尋思，又能於己不自輕蔑，又性柔和，又能堪忍，又不放逸，又能具足軌則淨命。

> 菩薩がこの十の支分を成就するならば、律儀戒に安住し、律儀戒をよく守る者と呼ばれます。その十の支分とは、 過去の欲望にとらわれず、 未来の欲望を求めず、 現在の欲望に耽らず、 遠離を好み、満足を知らず（満足せず、さらに向上を目指し）、 不正な言論や悪しき思いを掃き清め、 自分自身を軽んじず、 性質が柔和であり、 忍耐力があり、 放逸にならず、 軌則（行動の規範）と清らかな生活を備えていることです。

又諸菩薩，已能安住攝善法戒。若於身財少生顧戀尚不忍受，何況其多。

> また、諸々の菩薩は、すでに善い行いを積む戒め（摂善法戒）にしっかりと安住しています。そのため、自分の身体や財産に対して少しでも執着の心が生じることを、耐え忍ぶことすらしません。ましてや、多くの執着など、なおさらあり得ません。

又於一切犯戒因緣根本煩惱、少分煩惱忿恨等生，亦不忍受。

> そして、あらゆる戒律を破る原因となる根本的な煩悩や、わずかな煩悩、怒りや恨みなどが生じたとしても、それらを決して受け入れず、耐え忍ぶこともありません。

又於他所發生恚、害、怨恨等心，亦不忍受。

> また、他の人に対して怒りや害意、恨みなどの心が生じたとしても、それを受け入れずに耐え忍びます。

又於所起懈怠、懶惰，亦不忍受。

> また、生じた怠惰や懶惰に対しても、それを受け入れることはありません。

又於所起等至味著、等至煩惱，亦不忍受。

> また、到達した禅定の境地に執着したり、そこから生じる煩悩にも悩まされることなく、それらを受け入れない。

又於五處如實了知。謂如實知善果勝利，又能如實了知善因，又能如實知善因果倒與無倒，又如實知攝善法障。

> また、五つの事柄について、あるがままに正しく知るべきである。すなわち、善い行いの果報がもたらす素晴らしい利益を正しく知り、善い行いを起こす因を正しく知り、善い因果についての誤った見方と正しい見方を正しく知り、さらに、善い行いを妨げる障りとなるものを正しく知ることである。

是諸菩薩能於善果見大勝利，尋求善因；為攝善故，如實了知倒與無倒；由此菩薩獲得善果。不於無常妄見為常，不於其苦妄見為樂，不於不淨妄見為淨，不於無我妄見為我。如實了知攝善法障；為攝善故，速疾遠離。

> これらの菩薩は、善い結果の中に大きな利益を見出し、その原因を追求します。善を積むために、正しいことと誤ったことをありのままに理解します。このようにして、菩薩は善い結果を得るのです。 彼らは、無常であるものを常と誤って見ず、苦しみを楽しみと誤って見ず、清らかでないものを清らかと誤って見ず、無我であるものを我と誤って見ません。善を積むことの妨げとなるものをありのままに理解し、善を積むために、速やかにそれらを遠ざけるのです。

菩薩由此十種相故，名住攝善法戒。速能攝善一切種相。謂施漸次、若戒漸次、若忍漸次、若精進漸次、若靜慮漸次，及五種慧。

> 菩薩はこの十の特徴を備えていることから、善法を身につける戒律を保つ者と呼ばれます。そして、あらゆる種類の善行を速やかに身につけることができます。すなわち、布施の段階的な実践、戒律の段階的な実践、忍耐の段階的な実践、精進の段階的な実践、禅定の段階的な実践、そして五種類の智慧の実践です。

又諸菩薩由十一相，名住一切種饒益有情戒。於一一相中成就一切種。

> さらに、諸々の菩薩は十一の相によって、一切の種類の有情を利益する戒に住すると名づけられます。それぞれの相において、一切の種類を成就します。

謂諸菩薩，於諸有情彼彼事業，皆為助伴。謂於思量所作事業，及於功用所作事業，悉能與彼而作助伴。或於道路若往、若來，或於無倒事業加行，或於守護所有財物，或於和合展轉乖離，或於義會，或於修福，皆為助伴。於諸救苦亦為助伴。謂於遭遇疾疫有情瞻侍供給，盲者啟導，聾者撝義，手代言者曉以想像，迷方路者示以遇途，支不具者惠以荷乘，其愚騃者誨以勝慧。為貪欲纏所苦有情，開解令離貪欲纏苦。如是若為瞋恚、惛沈睡眠、掉舉惡作、疑纏所苦有情，開解令離疑纏等苦。欲尋思纏所苦有情，開解令離欲尋思苦。如欲尋思，恚、害、親里、國土、不死、輕侮相應、族姓相應所有尋思，當知亦爾。他蔑、他勝所苦有情，開解令離被蔑、勝苦。行路疲乏所苦有情，施座施處，調身按摩，令其止息勞倦眾苦。

> あらゆる菩薩は、あらゆる生きとし生けるもののために、その様々な活動を助けます。すなわち、計画を必要とする活動や、実際の努力を要する活動のいずれにおいても、彼らを助けるのです。道中の行き帰り、正しい活動への取り組み、財産の管理、互いに離れ離れになった者たちを和解させたり、会合の場を設けたり、善行を積むことなど、あらゆる面で助力します。 また、苦しみを取り除くための助力も行います。すなわち、病に苦しむ者には見舞い、世話をし、物を与え、目の見えない者には道を示し、耳の聞こえない者には意味を伝え、手話を使う者には想像力を授け、道に迷った者には正しい道を示し、体の不自由な者には乗り物を提供し、愚かな者には優れた知恵を教えます。 欲望の煩悩に苦しむ者には、説き聞かせて欲望の束縛から解き放ちます。同様に、怒り、怠惰と眠気、落ち着きのなさと後悔、疑いなどの煩悩に苦しむ者にも、説き聞かせてそれらの苦しみから解き放ちます。欲望に関する考えに苦しむ者には、説き聞かせてその苦しみから解き放ちます。欲望に関する考えと同様に、怒り、害意、親族、国土、不死、軽蔑、家柄に関するあらゆる考えについても、同じように扱うべきだと知ってください。 他人からの軽蔑や、打ち負かされることによる苦しみに悩む者には、説き聞かせてその苦しみから解放します。旅路の疲れに苦しむ者には、座る場所や休息する場所を与え、体を揉みほぐして、あらゆる倦怠と苦しみを鎮めさせます。

又諸菩薩，為諸有情如理宣說。謂於樂行惡行有情，為欲令斷諸惡行故，以相應文句、助伴、隨順、清亮、有用、相稱、應順、常委分資糧法而為宣說。或復方便善巧宣說。如於樂行惡行有情，為欲令斷諸惡行故；如是於行慳行，有情為欲令彼斷慳行故；於現法中求財寶者，為欲令彼正少功力，集多財寶，守護無失；於佛聖教懷憎嫉者，為欲令彼得清淨信，證清淨見，超諸惡趣，盡一切結，越一切苦；應知亦爾。

> また、諸々の菩薩は、あらゆる有情に対して、真理にかなった教えを説きます。すなわち、悪行を好む有情に対しては、その悪行を断たせるために、適切な文句や説明、順序立て、明瞭さ、実用性、状況に合った内容、理にかなった構成、そして継続的な努力の基盤となる教えを用いて説法します。あるいは、巧みな方便を用いて説くこともあります。 悪行を好む有情に悪行を断たせるためにそうするように、同様に、物惜しみする有情にはその吝嗇を断たせるため、現世で財宝を求める者には、少ない労力で多くの財宝を集め、それを守り失うことのないようにするため、また、仏の教えに憎しみや妬みを持つ者には、清らかな信を得させ、清らかな見解を証得させ、悪趣を超越し、一切の煩悩を尽くし、すべての苦しみを超えさせるために、同様に教えを説くべきであると知るべきです。

又諸菩薩，於其有恩諸有情所深知恩惠，常思酬報。暫見申敬，讚言善來，怡顏歡慰，吐誠談謔；祥處設座，正筵令坐。若等若增財利供養現前酬答，非以下劣。於彼事業雖不求請，尚應伴助。況于有命。如於事業，如是於苦，於如理說，於方便說，於濟怖畏，於衰惱處開解愁憂，於惠資具，於與依止，於隨心轉，於顯實德令深歡悅，於懷親愛方便調伏，於現神通驚恐引攝，如應廣說，當知亦爾。

> また、諸々の菩薩は、自分に恩義のある有情に対して、その恩恵を深く認識し、常に報いようと心がける。すぐに敬いを表して挨拶し、「よく来ましたね」と褒め言葉を述べ、和やかな表情で歓迎し、真心を込めて談笑する。ふさわしい場所に席を設け、きちんと整えた席に座らせる。同等かそれ以上の財物や利益による供養をその場で行い、粗末なもので済ませることはない。相手の事業について、依頼がなくても進んで助力する。ましてや命に関わることならなおさらである。事業におけるように、苦しみにおいても、道理にかなった教えにおいても、方便を用いた教えにおいても、恐怖から救うことにおいても、衰退や悩みの際に悲しみを解消することにおいても、生活の資具を施すことにおいても、よりどころを与えることにおいても、相手の心に従って行動することにおいても、実際の徳を明らかにして深く喜ばせることにおいても、親愛の情を抱いて巧みに調伏することにおいても、神通力を示して驚かせ導き入れることにおいても、状況に応じて広く説くことは、同じように行うべきであると知るべきである。

又諸菩薩，於遭怖畏諸有情類，能為救護。謂於種種禽獸、水火、王賊、怨敵、家主、宰官、不活、惡名、大眾、威德、非人、起屍、魍魎等畏，皆能救護，令得安隱。

> また菩薩は、恐怖に遭っている生きとし生けるものたちを救うことができる。例えば、獣や水火、王や賊、怨み敵、家長、役人、貧困、悪名、大勢の前での威厳、人ならざるもの、起き上がる屍、魍魎といった様々な怖れから、すべてを救い守り、安らかにしてあげることができるのである。

又諸菩薩，於處衰惱諸有情類，能善開解，令離愁憂。或依親屬有所衰亡。所謂父母、兄弟、妻子、奴婢、僮僕、宗長、朋友、內外族因、親教、軌範及餘尊重，時有喪亡，善為開解，令離憂惱。或依財寶有所喪失。謂或王賊之所侵奪，或火所燒，或水所溺，或為矯詐之所誑誘，或由事業無方損失，或為惡親非理橫取，或家生火之所耗費，於如是等財寶喪失，善為開解，令離憂惱。由是因緣，諸有情類生軟中上三品愁憂，菩薩皆能正為開解。

> また、菩薩は、苦しみや悩みに陥っている生きとし生けるものに対し、巧みに説き聞かせて、その悲しみから解放させる。 例えば、親族を亡くした場合――父母、兄弟、妻、子、召使い、年長者、友人、内親・外戚、師、師範、その他尊敬すべき人々が亡くなった時、適切に説き聞かせて、悲しみから離れさせる。 また、財産を失った場合――王や盗賊に奪われたり、火事で焼かれたり、水に流されたり、詐欺に遭ったり、事業の失敗で損をしたり、悪い親族に不当に奪われたり、家で起こった火事で費やされたりといった、様々な財産喪失の時にも、適切に説き聞かせて、悲しみから離れさせる。 このような因縁によって、生きとし生けるものには、弱い悲しみ、中程度の悲しみ、強い悲しみの三種類が生じるが、菩薩はこれらすべてに対して、正しく説き聞かせて解放することができるのである。

又諸菩薩，備資生具，隨有來求，即皆施與。謂諸有情求食與食，求飲與飲，求乘與乘，求衣與衣，求莊嚴具施莊嚴具，求諸什物施以什物，求鬘塗香施鬘塗香，求止憩處施止憩處，求諸光明施以光明。

> また、諸々の菩薩は、生活に必要な物資を備えていて、求めてくる者がいるならば、すぐにそれらを施し与えます。すなわち、様々な生きとし生けるものたちに対して、食べ物を求める者には食べ物を与え、飲み物を求める者には飲み物を与え、乗り物を求める者には乗り物を与え、衣服を求める者には衣服を与え、装飾品を求める者には装飾品を与え、様々な日用品を求める者には日用品を与え、花輪や塗香を求める者には花輪や塗香を与え、休息の場所を求める者には休息の場所を与え、光明を求める者には光明を与えます。

又諸菩薩，性好攝受諸有情類，如法御眾，方便饒益。以無染心先與依止，以憐愍心現作饒益，然後給施如法衣服、飲食、臥具、病緣醫藥資身什物。若自無有，應從淨信長者、居士、婆羅門等求索與之。於己以法所獲如法衣服、飲食、諸坐臥具、病緣醫藥資身什物，與眾同用，自無隱費。於時時間，以其隨順八種教授而正教授，五種教誡而正教誡。此中所說教授、教誡，當知如前力種性品已廣分別。

> また、菩薩は本来、あらゆる生きとし生けるものを慈しみ受け入れ、法に従って人々を導き、巧みな方法で利益をもたらすことを好みます。汚れのない心でまず彼らを支え、憐れみの心をもって実際に利益をもたらし、その後、法にかなった衣服、食物、寝具、病気のための薬や生活に必要な品々を施します。もし自分にそれらがなければ、清らかな信仰を持つ長者や在家の信者、バラモンなどに求めて与えてもらいます。自分自身は、法によって得た適切な衣服、食物、寝具、薬や生活具を皆と共用し、こっそりと私的な費用に使うことはありません。時には、八つの教えに従って正しく指導し、五つの戒めに従って正しく訓戒します。ここでいう指導と訓戒については、前に「力種性品」で詳しく説かれた通りと知るべきです。

又諸菩薩，於有情心性好隨轉。隨心轉時，先知有情若體若性。知體性已，隨諸有情所應共住，即應如是與其共住；隨諸有情所應同行，即應如是與彼同行。

> また、菩薩は、生きとし生けるものの心のままに、よく従います。心に従う時には、まず生きとし生けるものの性質や本質を知ります。性質や本質を知ったなら、その生きとし生けるものと共に住むべきようにして、共に住み、その生きとし生けるものと共に行くべきようにして、共に行くのです。

若諸菩薩欲隨所化有情心轉，當審觀察，若於如是如是相事現行身語生他憂苦，如是憂苦若不令其出不善處安立善處，菩薩爾時於如是事現行身語，護彼心故，方便思擇勵力遮止令不現行。如是憂苦若能令其出不善處安立善處，菩薩爾時於如是事現行身語，住哀愍心，不隨如是有情心轉，方便思擇勵力策發要令現行。

> もし菩薩が、教化する有情の心に従って行動しようと望むならば、まず次のことをよく観察しなければなりません。 もし、ある行為や言葉によって他者に苦しみや悩みが生じるとして、その苦しみによって相手を不善の状態から善い状態へ導くことができないのであれば、そのとき菩薩は、相手の心を守るために、そうした行為や言葉を控えるよう、よく考えて努力し、実行しないようにします。 一方、その苦しみによって相手が不善を離れ善に立てるのであれば、そのとき菩薩は、哀れみの心に基づき、相手の心にただ従うのではなく、よく考えて努力し、あえてその行為や言葉を実行させるのです。

復審觀察，若於如是他有情事現行身語令餘有情發生憂苦，如是憂苦若不令他、或餘有情、或不令二出不善處安立善處，菩薩爾時於如是事現行身語，護餘心故，方便思擇勵力遮止令不現行。如是憂苦若能令他、或餘有情、或能令二出不善處安立善處，菩薩爾時於如是事現行身語，住哀愍心，不隨如是有情心轉，方便思擇勵力策發要令現行。

> さらに熟考して観察すると、もし他の有情に関する事柄において、身や言葉の行為を現すことで、他の有情に憂いや苦しみを生じさせる場合がある。 その憂いや苦しみが、もしその人自身や他の有情、あるいはその両者を、不善の状態から導き出して善の状態に安立させることがないのであれば、菩薩はそのような時に、その身や言葉の行為を現すことについて、他の者の心を守るために、よく考え抜いて努めてそれを防ぎ、現れ出ることを抑える。 しかし、その憂いや苦しみが、もしその人自身や他の有情、あるいはその両者を、不善の状態から導き出して善の状態に安立させることができるのであれば、菩薩はそのような時に、その身や言葉の行為を現すことについて、哀れみの心にとどまり、その有情の心に従って動くことなく、よく考え抜いて努めて励まし、必ずそれを現れ出るようにさせるのである。

復審觀察，若於如是菩薩自事現行身語生他憂苦，如是現行身語二業非諸菩薩學處所攝，不順福德、智慧資糧，如是憂苦不能令他出不善處安立善處，菩薩爾時於如是事現行身語，護他心故，方便思擇勵力遮止令不現行。與此相違現行身語，如前應知。如生憂苦，如是廣說生於喜樂，隨其所應，當知亦爾。

> さらに慎重に観察してみなさい。もし菩薩が自らのために、他者に憂いや苦しみをもたらすような行為（身体とことば）を行っているなら、そのような身体とことばによる二つの行為は、菩薩の学ぶべき戒律には含まれず、また功徳と智慧の糧を積むことにもつながらない。さらに、その憂いや苦しみによって、他者を不善の状態から救い出し、善い状態に導くこともできない。このような場合、菩薩は他者の心を大切に守るために、そのような行為を行わないよう、適切な方法でよく考え、努力して自制すべきである。 これとは逆に、善い行い（身体とことば）がある場合については、先に述べた通りである。このように、憂いや苦しみを生じさせる場合と同様に、喜びや楽しみを生じさせる場合についても、それに応じて同じように理解すべきである。

又隨他心而轉菩薩，知他有情忿纏所纏，現前忿纏難可捨離，尚不讚歎，何況毀呰，即於爾時亦不諫誨。

> また、他者の心に従って菩薩は、他の生きとし生けるものが怒りの煩いに絡め取られて、目前の怒りの束縛から抜け出せずにいるのを察知します。そうした人を、褒めることすらせず、ましてや非難することもありません。そしてその時は、諫めたり教え導いたりもしません。

又隨他心而轉菩薩，他雖不來談論慶慰，尚應自往談論慶慰，何況彼來而不酬報。

> また、他心（他の人の心）によって行動する菩薩は、たとえ相手が自ら訪ねて来て祝福や慰めの言葉を交わさなくても、自ら進んで相手のもとへ行き、祝福や慰めを伝えるべきである。ましてや、相手が訪ねて来たなら、その返礼をしないわけにはいかない。

又隨他心而轉菩薩，終不故意惱觸於他，唯除訶責諸犯過者，起慈悲心，諸根寂靜，如應訶責令其調伏。

> さらに、他者の心に従って菩薩は、決して故意に他人を悩ませたり傷つけたりしません。ただし、過ちを犯した者を戒める場合に限り、慈悲の心を起こし、諸根を静めて、しかるべく戒め導き、その者を調伏させます。

又隨他心而轉菩薩，終不嗤誚輕弄於他，令其𧹞愧不安隱住，亦不令其心生憂悔。雖能摧伏得勝於彼，而不彰其墮在負處。彼雖淨信，生於謙下，終不現相而起自高。

> また、他者の心に従って行動する菩薩は、決して他人を嘲笑ったり軽んじたりして、その者を恥ずかしめ、不安にさせることはありません。また、その者に心の憂いや後悔を生じさせることもありません。たとえ相手を打ち負かし、勝利を得ることができても、その者が敗北したことを明らかにしません。その者は清らかな信心を持ち、謙虚でありながらも、決して表面上の態度で高慢になることはありません。

又隨他心而轉菩薩，於諸有情非不親近，不極親近，亦不非時而相親近。

> また、他者の心に従って菩薩は、あらゆる生き物に対して無関心ではなく、過度に親しくもならず、また時機を外して親しむこともありません。

又隨他心而轉菩薩，終不現前毀他所愛，亦不現前讚他非愛；非情交者不吐實誠，不屢希望，知量而受；若先許應他飲食等，終無假託不赴先祈，為性謙冲如法曉諭。

> また、他人の心に従って行動する菩薩は、決して相手の前でその人の愛するものを非難せず、また相手の前で愛さないものを称賛することもありません。心から親しくない相手には真心を吐かず、しばしば過度な期待をかけず、適切な分際をわきまえて受け入れます。もし先に他の人と食事などの約束をしたならば、決して言い訳をしてその約束を破ることはなく、性質は謙虚で穏やかであり、道理に従って適切に説明します。

又諸菩薩性好讚揚真實功德，令他歡喜。於信功德具足者前，讚揚信德令其歡喜；於戒功德具足者前，讚揚戒德令其歡喜；於聞功德具足者前，讚揚聞德令其歡喜；於捨功德具足者前，讚揚捨德令其歡喜；於慧功德具足者前，讚揚慧德令其歡喜。

> また、菩薩たちは、本来が真実の功徳を称賛し、他者を喜ばせることを好みます。 すなわち、信仰の功徳が完全に備わった人の前では、信仰の功徳を称賛してその人を喜ばせ、戒律の功徳が完全に備わった人の前では、戒律の功徳を称賛してその人を喜ばせ、教えを聞く功徳が完全に備わった人の前では、聞く功徳を称賛してその人を喜ばせ、施しの功徳が完全に備わった人の前では、施しの功徳を称賛してその人を喜ばせ、智慧の功徳が完全に備わった人の前では、智慧の功徳を称賛してその人を喜ばせるのです。

又諸菩薩性好悲愍，以調伏法調伏有情。若諸有情有下品過下品違犯，內懷親愛無損惱心，以軟訶責而訶責之。若諸有情有中品過中品違犯，內懷親愛無損惱心，以中訶責而訶責之。若諸有情有上品過上品違犯，內懷親愛無損惱心，以上訶責而訶責之。如訶責法，治罰亦爾。若諸有情有下、中品應可驅擯過失違犯，菩薩爾時為教誡彼及餘有情，以憐愍心及利益心，權時驅擯，後還攝受。若諸有情有其上品應可驅擯過失違犯，菩薩爾時盡壽驅擯，不與共住、不同受用，憐愍彼故不還攝受，勿令其人於佛聖教多攝非福，又為教誡利餘有情。

> また、菩薩は本来、慈しみ深い性質を持ち、教化の方法を用いて有情を導きます。 もし有情に軽い過ちや違反があれば、心から親しみ慈しみ、害する心なく、穏やかに注意して戒めます。 もし有情に中程度の過ちや違反があれば、心から親しみ慈しみ、害する心なく、中程度の厳しさで注意して戒めます。 もし有情に重大な過ちや違反があれば、心から親しみ慈しみ、害する心なく、厳しく注意して戒めます。 戒めの場合と同様に、罰する場合もこれに準じます。 もし有情に、追放すべき軽度または中程度の過失や違反があれば、菩薩はその時、その有情と他の有情を教え戒めるために、憐れみと利益を願う心をもって、一時的に追放し、後には再び受け入れます。 もし有情に、追放すべき重大な過失や違反があれば、菩薩はその時、生涯にわたって追放し、共に住まず、共に受用しません。その人が仏の聖教において多くの不善を積まないように憐れみ、再び受け入れないのです。また、他の有情を教え戒めるためでもあります。

又諸菩薩為欲饒益諸有情故，現神通力，或為恐怖、或為引攝。謂為樂行諸惡行者，方便示現種種惡行諸果異熟。謂諸惡趣，小那落迦、大那落迦、寒那落迦、熱那落迦，既示現已，而告之言：汝當觀此，先於人中造作增長諸惡行故，今受如是最極暴惡、辛楚、非愛苦果異熟。彼見是已，恐怖厭患，離諸惡行。復有一類無信有情，菩薩眾中隨事故問，彼作異思拒而不答。菩薩爾時或便化作執金剛神，或復化作壯色大身巨力藥叉，令其恐怖。由是因緣，捨慢生信，恭敬正答；其餘大眾聞彼正答，亦皆調伏。或現種種神通變化，或一為多，或多為一，或以其身穿過石壁、山巖等障往還無礙，如是廣說乃至梵世身自在轉，現無量種神變差別，或復現入火界定等，或復示現共聲聞等種種神通，方便引攝，令諸有情踊躍歡喜。諸未信者，方便安處信具足中；諸犯戒者，方便安處戒具足中；諸少聞者，方便安處聞具足中；多慳悋者，方便安處捨具足中；諸惡慧者，方便安處慧具足中。

> また、諸々の菩薩は衆生を利益しようと願い、神通力を現すことがある。それは恐怖を与えるためか、あるいは導き引き寄せるためである。 すなわち、悪行を好んで行う者のために、様々な悪行の果報を巧みに示すのだ。例えば、地獄の苦しみ――小地獄、大地獄、寒地獄、熱地獄――を実際に示して、こう告げる。「よく見なさい。こうした者は、人間として生きていたときに悪行を積み重ねた結果、今このような耐え難い苦しみを受けているのだ」と。それを見た者は恐怖し、悪行を離れようと心を改める。 また、ある者は信心がなく、菩薩の問いかけに心を閉ざして答えようとしない。その時、菩薩は金剛神や、逞しい体躯の大力の夜叉に姿を変え、彼に恐怖を与える。そうすることで、その者は慢心を捨て、信仰を生じ、恭しく正しく答えるようになる。そして、周りの大衆もその答えを聞いて心を調伏されるのである。 また、種々の神通変化を示すこともある。一つの身を多くに変え、多くを一つに変え、壁や山々をも自在に通り抜け、梵天の世界にまでも自在に身を現すなど、無数の神変を現す。あるいは火界定などに入定する様子を示し、あるいは声聞などと共に種々の神通を示して、衆生を導き喜ばせる。 このようにして、未だ信仰のない者には信仰を具えさせ、戒を破る者には戒を具えさせ、よく聞こうとしない者には聞くことを具えさせ、吝嗇な者には施しを具えさせ、誤った智慧を持つ者には正しい智慧を具えさせるのである。

如是菩薩成就一切種饒益有情戒。

> このように、菩薩は一切の衆生を利益する戒を完成させたのです。

是名菩薩三種戒藏，亦名無量大功德藏。謂律儀戒所攝戒藏，攝善法戒所攝戒藏，饒益有情戒所攝戒藏。

> これを菩薩の三種の戒蔵といい、また無量大功徳蔵ともいう。すなわち、律儀戒に含まれる戒蔵、善法を修める戒に含まれる戒蔵、そして衆生を利益する戒に含まれる戒蔵である。

若諸菩薩欲於如是菩薩所學三種戒藏勤修學者，或是在家、或是出家，先於無上正等菩提發弘願已，當審訪求同法菩薩，已發大願、有智有力於語表義能授能開。

> もし菩薩たちが、この菩薩の学ぶべき三種の戒律の宝庫について熱心に学び修めようと望むならば、在家であろうと出家であろうと、まず無上の正しい覚り（阿耨多羅三藐三菩提）に対して広大な誓いを立てた後、同じ教えを求める菩薩たちをよく尋ね求めなさい。すでに大いなる誓いを立て、智慧と力があり、言葉の表す意味を授け、開き示すことのできる師を。

於如是等功德具足勝菩薩所，先禮雙足，如是請言：我今欲於善男子所、或長老所、或大德所，乞受一切菩薩淨戒，唯願須臾不辭勞倦，哀愍聽授。

> このような功徳をすべて備えたすぐれた菩薩のもとで、まず両足に礼拝し、次のように請い求めます。 「私は今、善き方、あるいは長老、あるいは大徳のもとで、すべての菩薩の清らかな戒めを受けたいと願っています。どうかしばらくの間、労苦をいとわず、哀れみをもってお聴きください。」

既作如是無倒請已，偏袒右肩，恭敬供養十方三世諸佛世尊、已入大地得大智慧得大神力諸菩薩眾，現前專念彼諸功德，隨其所有功德因力，生殷淨心或少淨心。有智有力勝菩薩所，謙下恭敬膝輪據地，或蹲、跪、坐，對佛像前，作如是請：唯願大德，或言長老、或善男子，哀愍授我菩薩淨戒。如是請已，專念一境長養淨心，我今不久當得無盡、無量、無上大功德藏，即隨思惟如是事義，默然而住。爾時有智有力菩薩，於彼能行正行菩薩，以無亂心，若坐、若立而作是言：汝如是名善男子聽、或法弟聽，汝是菩薩不？彼應答言：是！發菩提願未？應答言：已發！

> このように誤りのない請願を行ったのち、右肩を露わにし、敬い供養して、十方三世の諸仏世尊や、大地に達し大きな智慧と神通力を得た諸菩薩の衆に対して、その功徳を目の前にして専念し、その功徳の因となる力に従って、清らかな心を起こすのである。 もし、智慧と力を持つすぐれた菩薩のもとで、謙虚に恭敬し、膝を地面につけ、あるいは蹲踞し、跪き、座って、仏像の前で次のように請うのである。 「願わくば、大徳よ（あるいは長老よ、または善男子よ）、哀れみをもって、私に菩薩の清らかな戒を授けたまえ。」 このように請願したのち、一つの境地に専念して清らかな心を育て、「私はまもなく窮まりなく、限りなく、この上ない大いなる功徳の蔵を得るであろう」と、そのように思惟して静かに留まるのである。 そのとき、智慧と力を持つ菩薩は、正しい行いを実践するその菩薩に対して、乱れのない心で、座っていても立っていても、次のように告げるのである。 「汝、その名を称する善男子よ、聞きなさい。あるいは法の弟よ、聞きなさい。汝は菩薩であるか？」 その者は答えるべきである。「はい、そうです。」 「菩提を発する願いは、すでに起こしたか？」 答えるべきである。「すでに起こしました。」

自此已後，應作是言：汝如是名善男子、或法弟，欲於我所受諸菩薩一切學處，受諸菩薩一切淨戒。謂律儀戒、攝善法戒、饒益有情戒。如是學處、如是淨戒，過去一切菩薩已具，未來一切菩薩當具，普於十方現在一切菩薩今具。於是學處、於是淨戒，過去一切菩薩已學，未來一切菩薩當學，現在一切菩薩今學。汝能受不？答言：能受！能授菩薩第二、第三亦如是說，能受菩薩第二、第三亦如是答。

> これより後、このように言うべきである。「汝、かくのごとき名の善男子、あるいは法弟よ、我がもとにて諸菩薩の一切の学処を受け、諸菩薩の一切の浄戒を受けんと欲す。すなわち、律儀戒、摂善法戒、饒益有情戒なり。かくのごとき学処、かくのごとき浄戒は、過去の一切菩薩すでに具し、未来の一切菩薩まさに具し、普く十方の現在一切菩薩いま具す。この学処に、この浄戒に、過去の一切菩薩すでに学び、未来の一切菩薩まさに学び、現在の一切菩薩いま学ぶ。汝、これを受くることができるか？」答えていわく「受くることができます！」授戒の菩薩が二度目、三度目も同じくこのように説き、受戒の菩薩も二度目、三度目も同じくこのように答える。

能授菩薩作如是問，乃至第三授淨戒已。能受菩薩作如是答，乃至第三受淨戒已。能受菩薩不起于坐。能授菩薩對佛像前，普於十方現住諸佛及諸菩薩恭敬供養，頂禮雙足，作如是白：某名菩薩，今已於我某菩薩所，乃至三說受菩薩戒，我某菩薩已為某名菩薩作證。唯願十方無邊無際諸世界中諸佛菩薩第一真聖，於現不現一切時處一切有情皆現覺者，於此某名受戒菩薩亦為作證。第二、第三，亦如是說。

> 授戒を行う菩薩は、このように問いかけます。そして、三度目に至るまで授戒の浄戒を授けます。戒を受ける菩薩は、このように答え、三度目に至るまで浄戒を受けます。戒を受ける菩薩は、その座から立ち上がりません。授戒を行う菩薩は、仏像の前に立ち、十方のあらゆる世界にいま現れている全ての諸仏と諸菩薩に対して、敬い深く供養し、その両足に頭を下げて礼拝し、次のように申し上げます。 「某という名の菩薩は、ただいま私、某菩薩のもとで、三度にわたる唱和をもって菩薩戒を受けました。私は、某という名の菩薩のために、その証人となりました。どうか、十方の限りない世界にいらっしゃる、諸仏と諸菩薩、その第一なる真実の聖者たちよ。現れているか否か、すべての時と場所において、全ての生きとし生けるものを覚らせ給う方々よ。この、某という名の戒を受けた菩薩のためにも、証人となってくださいませ。」 二度目、三度目も同様に唱えます。

如是受戒羯磨畢竟。從此無間，普於十方無邊無際諸世界中現住諸佛、已入大地諸菩薩前，法爾相現。

> このようにして戒を受ける羯磨（儀式）が終わると、間をおかず、この瞬間から十方の限りなく広がる全ての世界に現に住まわれる諸仏と、菩薩の位に入った全ての菩薩たちの前に、自然とその姿が現れます。

由此表示如是菩薩已受菩薩所受淨戒。爾時十方諸佛菩薩，於是菩薩法爾之相生起憶念；由憶念故，正智見轉；由正智見，如實覺知：某世界中某名菩薩，某菩薩所正受菩薩所受淨戒。一切於此受戒菩薩，如子如弟，生親善意，眷念憐愍。由佛菩薩眷念憐愍，令是菩薩希求善法倍復增長，無有退減。當知是名受菩薩戒啟白請證。

> これは、菩薩がすでに菩薩の清らかな戒めを受けていることを示しています。 その時、十方の仏と菩薩たちは、この菩薩に自然に備わる姿を思い起こします。その記憶によって、正しい智慧と見解が生じます。その正しい智慧と見解によって、ある世界の、ある名前の菩薩が、ある菩薩のもとで清らかな戒めを受けたことを、ありのままに知覚します。 彼らは皆、この戒めを受けた菩薩を、自分の子や弟のように思い、親しい善意を抱き、慈しみ、哀れみます。仏と菩薩たちのこの慈しみによって、この菩薩の善い法を求める心は倍々に増し加わり、退くことがありません。 これを、菩薩戒を受けるにあたり、啓白し証しを請うことと知るべきです。

如是已作受菩薩戒羯磨等事，授受菩薩俱起供養，普於十方無邊無際諸世界中諸佛菩薩，頂禮雙足恭敬而退。

> このようにして、菩薩戒の受戒の儀式をすべて終え、授ける側と受ける側が共に供養をささげました。そして、十方の果てしなく広がるすべての世界にいらっしゃる諸仏・諸菩薩に対して、両足に礼拝し、敬いの心をもって退きました。

如是菩薩所受律儀戒，於餘一切所受律儀戒最勝無上，無量無邊大功德藏之所隨逐，第一最上善心意樂之所發起，普能對治於一切有情一切種惡行。一切別解脫律儀，於此菩薩律儀戒百分不及一，千分不及一，數分不及一，計分不及一，算分不及一，喻分不及一，鄔波尼殺曇分亦不及一，攝受一切大功德故。

> このように、菩薩が受ける律儀戒は、その他のすべての律儀戒よりも優れており、比類なく、無限の功徳の宝を伴い、最高の善心によって発起されるものです。この戒は、あらゆる有情（生きとし生けるもの）に対するあらゆる悪行を完全に防ぐことができます。すべての別解脱律儀（個別の解脱のための戒律）は、この菩薩の律儀戒と比べると、百分の一にも及ばず、千分の一、数分の一、計算の分の一、算術の分の一、たとえの分の一、ウパニシャッド（微細な差）の分の一にも及びません。それは、菩薩の律儀戒がすべての大いなる功徳を含み持つからです。

又此菩薩安住如是菩薩淨戒，先自數數專諦思惟：此是菩薩正所應作，此非菩薩正所應作。既思惟已，然後為成正所作業，當勤修學。

> また、この菩薩はこのような菩薩の清らかな戒めに安住して、まず自ら繰り返し専心に深く考えます。「これこそが菩薩の正しく行うべきことであり、これは菩薩の正しく行うべきことではない」と。そのように考えた後、正しく行うべき業を成就するために、努めて学び修めるべきなのです。

又應專勵聽聞菩薩素怛纜藏及以解釋，即此菩薩素怛纜藏、摩怛履迦，隨其所聞當勤修學。

> また、菩薩の経典（素怛纜蔵）とその解説を、熱心に聴聞するよう努めるべきです。そして、この菩薩の経典とその注釈書（摩怛履迦）について、聞いたところに従って、熱心に学び修行しなさい。

又諸菩薩，不從一切唯聰慧者求受菩薩所受淨戒。

> また、諸々の菩薩は、ただ賢い者だけから菩薩の清らかな戒めを受けようとは求めません。

無淨信者，不應從受；謂於如是所受淨戒初無信解，不能趣入，不善思惟。

> 清らかな信心がない者からは、教えを受けてはならない。なぜなら、そのような者は、受けるべき清らかな戒めについて、最初から理解も信解もなく、それに入ることができず、正しく考えることもできないからである。

有慳貪者，慳貪弊者，有大欲者，無喜足者，不應從受。毀淨戒者，於諸學處無恭敬者，於戒律儀有慢緩者，不應從受。有忿恨者，多不忍者，於他違犯不堪耐者，不應從受。有嬾惰者，有懈怠者，多分耽著日夜睡樂、倚樂、臥樂，好合徒侶樂喜談者，不應從受。心散亂者，下至不能搆牛乳頃善心一緣住修習者，不應從受。有闇昧者，愚癡類者，極劣心者，誹謗菩薩素怛纜藏、及菩薩藏摩怛履迦者，不應從受。

> 次のような人からは教えを受けてはなりません。 \* 財産や物に執着し、欲深く、満足することを知らない人。 \* 戒律を破り、学ぶべき教えを敬わず、戒律の実践がなおざりな人。 \* 恨みや怒りが多く、忍耐が足りず、他人の過ちに寛容でない人。 \* 怠け者で、昼も夜も横になること、寄りかかること、眠ることにふけり、仲間と集まっておしゃべりを楽しむ人。 \* 心が散り乱れ、牛の乳を搾るほどの短い時間でさえ、善い心を一つのことに集中して保つことができない人。 \* 心が暗く愚かで、能力が乏しく、菩薩の経典や菩薩の教えを説く論を誹謗する人。

又諸菩薩，於受菩薩戒律儀法，雖已具足受持究竟，而於謗毀菩薩藏者無信有情，終不率爾宣示開悟。所以者何？為其聞已不能信解，大無知障之所覆蔽，便生誹謗。由誹謗故，如住菩薩淨戒律儀，成就無量大功德藏，彼誹謗者亦為無量大罪業藏之所隨逐，乃至一切惡言、惡見及惡思惟未永棄捨，終不免離。

> また、菩薩たちは、菩薩戒の律儀の作法をすでに完全に受け持ち、究め尽くしていても、菩薩の教えを謗り毀つ者や、信心のない者たちに対しては、決して軽率に教えを説き明かすことはしない。なぜなら、彼らが聞いても理解し信じることができず、大きな無知の障害に覆われているため、かえって誹謗を生じさせるからである。誹謗によって、菩薩の清らかな戒律を保ち、無量の功徳の宝物を成就しているように、その誹謗する者もまた、無量の大きな罪業の宝庫に追われ続け、あらゆる悪い言葉、悪い見解、悪い思いが永遠に捨て去られない限り、ついにそこから免れることはない。

又諸菩薩欲授菩薩菩薩戒時，先應為說菩薩法藏摩怛履迦、菩薩學處及犯處相，令其聽受，以慧觀察自所意樂，堪能思擇受菩薩戒，非唯他勸、非為勝他。當知是名堅固菩薩堪受菩薩淨戒律儀，以受戒法如應正授。

> また、諸々の菩薩が菩薩戒を授けようとする時は、まず菩薩の教えの宝庫である摩怛履迦（論蔵）、菩薩の学ぶべきところ、および犯した場合の相について説き、その者に聴聞・受持させ、智慧をもって自らの意志を観察させ、自らよく考えて菩薩戒を受けることができる者かどうかを判断させるべきである。ただ他者に勧められてとか、他者に勝ろうとして受けるのではないことを確認するのである。知るがよい、これこそを堅固な菩薩、すなわち菩薩の清らかな戒律の作法を受けるにふさわしい者というのである。戒を受けさせる作法にしたがって、正しく授けるべきである。

如是菩薩住戒律儀，有其四種他勝處法。何等為四？若諸菩薩為欲貪求利養恭敬，自讚毀他。是名第一他勝處法。

> このように戒律を護る菩薩には、他の修行者に勝る四つの特質があります。 その四つとは何でしょうか？ 第一に、菩薩が利益や供養、尊敬を求めるあまり、自らを褒め称え他人を貶めること。これが第一の他の修行者に勝る特質です。

若諸菩薩現有資財，性慳財故，有苦、有貧、無依、無怙正求財者來現在前，不起哀憐而修惠捨；正求法者來現在前，性慳法故，雖現有法而不給施。是名第二他勝處法。

> もし菩薩が財産を持ちながら、元来の吝嗇によって、苦しみや貧しさにある、頼る者も支えもない人々が目の前に現れても、哀れみの心を起こして施しを行わず、また教えを求める者が現れても、元来の法に対する吝嗇によって、教えを持っていながら与えないならば、これを第二の他勝処法と名づける。

若諸菩薩長養如是種類忿纏，由是因緣，不唯發起麁言便息；由忿蔽故，加以手足、塊石、刀杖、捶打、傷害、損惱有情。內懷猛利忿恨意樂，有所違犯他來諫謝，不受、不忍、不捨怨結。是名第三他勝處法。

> もし菩薩がこのような種類の怒りの煩悩を長く育てているなら、その因縁によって、ただ荒々しい言葉を発するだけで終わらない。怒りに覆われているからこそ、手足や石、刀や杖を使って、有情（いきもの）を打ち、傷つけ、悩ませるのである。心の内に激しい怒りと恨みの意図を抱き、何か違反があって他者が来て謝罪し諫めても、それを受け入れず、耐え忍ばず、恨みの結び目を解かない。これを第三の他勝処法という。

若諸菩薩謗菩薩藏，愛樂宣說、開示、建立像似正法，於像似法或自信解，或隨他轉。是名第四他勝處法。

> もしも菩薩たちが菩薩の教えを誹謗し、似て非なる正法を好んで説き、示し、広め、その似て非なる法を自ら信じ納得するか、他人に影響されて受け入れるならば、これが第四の他勝処法である。

如是名為菩薩四種他勝處法。

> これらを、菩薩の四つの他勝処法（他者を害する重大な過失）と呼びます。

菩薩於四他勝處法隨犯一種，況犯一切，不復堪能於現法中增長攝受菩薩廣大菩提資糧，不復堪能於現法中意樂清淨。是即名為相似菩薩，非真菩薩。

> 菩薩は、四つの他勝処法のうち一つでも犯したならば、ましてや全てを犯したならば、現世において菩薩の広大な菩提資糧を増長し受けることができず、現世において意楽（心の清らかな志）が清らかになることもできません。そのような者は似而非菩薩（似て非なる菩薩）と呼ばれ、真の菩薩ではありません。

菩薩若用軟、中品纏毀犯四種他勝處法，不捨菩薩淨戒律儀；上品纏犯，即名為捨。若諸菩薩毀犯四種他勝處法，數數現行，都無慚愧，深生愛樂，見是功德，當知說名上品纏犯。非諸菩薩暫一現行他勝處法，便捨菩薩淨戒律儀。如諸苾芻犯他勝法，即便棄捨別解脫戒。

> 菩薩が軽度または中程度の煩悩に絡まれて四つの他勝処法を犯しても、菩薩の清浄な戒律を捨てることにはなりません。しかし、強い煩悩に絡まれて犯した場合、それは捨てたことになります。もし菩薩が四つの他勝処法を繰り返し行い、全く恥じるところがなく、深くそれに執着し、それを功徳と見なすなら、これは強い煩悩による犯行と知るべきです。菩薩は、一度他勝処法を犯しただけで清浄な戒律を捨てるわけではありません。比丘が他勝法を犯せば即座に別解脱戒を失うのとは異なります。

若諸菩薩由此毀犯，棄捨菩薩淨戒律儀，於現法中堪任更受，非不堪任。如苾芻住別解脫戒，犯他勝法，於現法中不任更受。

> もし菩薩がこれによって戒律を破り、菩薩の清らかな戒めを捨ててしまったとしても、現世において再び戒めを受けることができるのであり、受けられないことはありません。しかし、比丘が別解脱戒に基づいて、他人を害するような重い罪を犯した場合、現世では再び戒めを受けることができないのです。

略由二緣，捨諸菩薩淨戒律儀。一者、棄捨無上正等菩提大願；二者、現行上品纏犯他勝處法。若諸菩薩，雖復轉身遍十方界，在在生處不捨菩薩淨戒律儀；由是菩薩不捨無上菩提大願，亦不現行上品纏犯他勝處法。

> 概略的に言えば、菩薩が清らかな戒律を捨てる理由は二つあります。一つ目は、無上の悟りを求める大いなる誓いを放棄すること。二つ目は、極めて重い煩悩にかられて、他者を害する根本的な戒律を犯すことです。 たとえ菩薩が何度も生まれ変わり、十方の世界のどこに生まれても、清らかな戒律を捨てることはありません。なぜなら、菩薩は無上の悟りを求める誓いを捨てず、また極めて重い煩悩によって根本的な戒律を犯すことがないからです。

若諸菩薩轉受餘生，忘失本念，值遇善友，為欲覺悟菩薩戒念，雖數重受而非新受，亦不新得。

> もしも菩薩が次の生に生まれ変わって、本来の誓いの心を忘れてしまっても、善き友に出会い、菩薩戒の心を目覚めさせようとして、度重なる受戒をしても、それは新たな戒めを受けるのではなく、新たに得るものでもない。

## 瑜伽師地論卷第四十

> 瑜伽師地論 第四十巻