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title: "瑜伽師地論 · 2"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cma8zhppy04bwib041v03t2h6"
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## 瑜伽師地論卷第四十一

彌勒菩薩說

> 弥勒菩薩の教え

三藏法師玄奘奉　詔譯

> 三蔵法師玄奘奉詔訳

### 本地分中菩薩地第十五初持瑜伽處戒品第十之二

如是菩薩安住菩薩淨戒律儀，於有違犯及無違犯，是染非染、軟中上品，應當了知。

> このように、菩薩が清らかな戒律に安住しているならば、違反がある場合とない場合、またそれが煩悩に染まっているか染まっていないか、そしてその程度が下品・中品・上品のいずれであるかを、よく知るべきである。

若諸菩薩安住菩薩淨戒律儀，於日日中，若於如來、或為如來造制多所；若於正法、或為正法造經卷所，謂諸菩薩素怛纜藏、摩怛理迦；若於僧伽，謂十方界已入大地諸菩薩眾。若不以其或少、或多諸供養具而為供養，下至以身一拜禮敬，下至以語一四句頌讚佛法僧真實功德，下至以心一清淨信隨念三寶真實功德，空度日夜，是名有犯，有所違越。若不恭敬、嬾惰懈怠而違犯者，是染違犯。若誤失念而違犯者，非染違犯。無違犯者，謂心狂亂。若已證入淨意樂地，常無違犯。由得清淨意樂菩薩，譬如已得證淨苾芻，恒時法爾於佛法僧以勝供具承事供養。

> もし菩薩が清らかな戒律を保っているならば、毎日、以下の三宝に対して、供養を行わなければなりません。すなわち、如来（仏）または如来のために建てられた塔（卒塔婆）、正法（教え）または正法のために作られた経典（菩薩の経蔵や論蔵など）、そして僧伽（十方の世界で菩薩の位に入った僧たち）に対してです。 もし、少しでも多くの供養具を用いて供養せず、せめて身体を一度礼拝することも、言葉で四句の偈を唱えて仏法僧の真実の功徳を讃えることも、心で清らかな信をもって三宝の真実の功徳を念じることもせずに、一日一夜を無駄に過ごしたならば、それは戒を犯し、違反したことになります。 もし、恭敬の心がなく、怠けたり懈慢のために違反したならば、それは「染汚の違犯」です。もし、失念（うっかり忘れること）によって違反したならば、それは「染汚でない違犯」です。 違犯しない場合とは、心が乱れている（発狂している）ときです。また、すでに清らかな意楽の境地（浄意楽地）に証入した菩薩は、常に違犯することがありません。なぜなら、清らかな意楽を得た菩薩は、たとえばすでに証浄を得た比丘が自然に常に勝れた供養具で仏法僧に仕え供養するのと同じように、自然にそのように行うからです。

若諸菩薩安住菩薩淨戒律儀，有其大欲而無喜足，於諸利養及以恭敬生著不捨。是名有犯，有所違越，是染違犯。無違犯者，謂為斷彼，生起樂欲，發勤精進攝彼對治。雖勤遮遏，而為猛利性惑所蔽，數起現行。

> もし諸々の菩薩が菩薩の清らかな戒律と儀軌に安住しながら、大きな欲望を持って満足せず、様々な利益や供養、そして恭敬に対して執着して手放せないならば、それは犯しがあり、違背するところがあり、汚れた違犯となる。ただし、それを断ち切ろうとして、楽欲を起こし、精進して努力し、それに対する対治法を修めているにもかかわらず、激しい性質の煩悩に覆われて、繰り返し現れ出てしまう場合は、違犯にはならない。

若諸菩薩安住菩薩淨戒律儀，見諸耆長有德可敬同法者來，憍慢所制，懷嫌恨心、懷恚惱心，不起承迎，不推勝座。若有他來語言談論、慶慰、請問，憍慢所制，懷嫌恨心、懷恚惱心，不稱正理發言酬對。是名有犯，有所違越，是染違犯。非憍慢制，無嫌恨心、無恚惱心，但由嬾惰、懈怠、忘念、無記之心，是名有犯，有所違越，非染違犯。無違犯者，謂遭重病；或心狂亂；或自睡眠他生覺想，而來親附語言談論、慶慰、請問；或自為他宣說諸法論義決擇；或復與餘談論、慶慰；或他說法論義決擇屬耳而聽；或有違犯說正法者，為欲將護說法者心；或欲方便調彼、伏彼，出不善處安立善處；或護僧制；或為將護多有情心；而不酬對，皆無違犯。

> もし菩薩が清らかな戒律を保ちながら、年長で徳が高く、尊敬すべき仲間の修行者が訪ねて来たのに、傲慢さに支配され、嫌悪や怒りの心を抱いて、立ち上がって出迎えず、上位の座を譲らないとする。また、他の人が来て話し合い、祝い、質問をした際に、同じく傲慢さに支配され、嫌悪や怒りの心を抱いて、道理にかなった返答をしないとする。これは戒律を犯し、違反することとなり、煩悩に染まった違反である。 しかし、傲慢さに支配されたのではなく、嫌悪や怒りの心もなく、ただ怠惰や不注意、忘念、無意識の心によるものであれば、これも戒律を犯し、違反することにはなるが、煩悩に染まらない違反である。 違反にならない場合とは、重い病気にかかっている時。または心が乱れている時。または自分が眠っているところに、相手が起きていると思って近づき、話し合い、祝い、質問をしてきた時。または自分が他の人に法を説き、議論や決断を行っている時。または他の人と話し合いや祝いをしている時。または他の人が法を説き、議論や決断をしているのを耳を傾けて聞いている時。または法を説く者が過ちを犯している場合に、その説法者の心を守ろうとする時。または巧みな方法でその人を調伏し、不善から善へと導こうとする時。または僧団の規則を守る時。または多くの人々の心を守ろうとする時。これらの理由で返答しなくても、違反にはならない。

若諸菩薩安住菩薩淨戒律儀，他來延請，或往居家、或往餘寺，奉施飲食及衣服等諸資生具，憍慢所制，懷嫌恨心、懷恚惱心，不至其所，不受所請，是名有犯，有所違越，是染違犯。若由嬾惰、懈怠、忘念、無記之心，不至其所，不受所請，是名有犯，有所違越，非染違犯。無違犯者，或有疾病；或無氣力，或心狂亂；或處懸遠；或道有怖；或欲方便調彼、伏彼，出不善處安立善處；或餘先請；或為無間修諸善法，欲護善品令無暫廢；或為引攝未曾有義；或為所聞法義無退；如為所聞法義無退，論義決擇，當知亦爾；或復知彼懷損惱心，詐來延請；或為護他多嫌恨心；或護僧制；不至其所，不受所請，皆無違犯。

> もし菩薩が清らかな戒律を守りながら、他の人から招かれて、家や他の寺院に行き、飲食や衣服などの生活必需品を施そうとされたとき、高ぶった心や怒りや恨みの心にとらわれて、その場所に行かず、招きを受け入れなければ、それは戒律を汚す違反となる。もし怠惰や不注意、ぼんやりとした心から行かず、招きを受け入れなければ、それも戒律を破ることになるが、汚れのない違反である。 しかし、次のような場合には違反にはならない。病気のとき、力がないとき、心が乱れているとき、場所が遠すぎるとき、道中に危険があるとき、相手をうまく導いて悪から善へ向かわせようとするとき、すでに他の招きを受けているとき、善い行いを続けるために途切れさせたくないとき、未だにない重要な教えを得ようとするとき、聞いた教えの意味を退けさせまいとするとき（議論や選択も同じ）、相手が害意を持って偽って招いていると知ったとき、他の人の疑念を避けるため、あるいは僧団の決まりを守るため、その場所に行かず、招きを受け入れなくても、違反にはならない。

若諸菩薩安住菩薩淨戒律儀，他持種種生色可染、末尼、真珠、琉璃等寶，及持種種眾多上妙財利供具慇懃奉施，由嫌恨心、或恚惱心，違拒不受，是名有犯，有所違越。是染違犯，捨有情故。若由嬾惰、懈怠、忘念、無記之心，違拒不受，是名有犯，有所違越，非染違犯。無違犯者，或心狂亂；或觀受已心生染著；或觀後時彼定追悔；或復知彼於施迷亂；或知施主隨捨隨受，由是因緣定當貧匱；或知此物是僧伽物、窣堵波物；或知此物劫盜他得；或知此物由是因緣多生過患，或殺、或縛、或罰、或黜、或嫌、或責；違拒不受，皆無違犯。

> もし菩薩が清らかな戒律に従って生活しているときに、他の人が金銀や瑪瑙、真珠、瑠璃などの様々な宝や、たくさんの素晴らしい財物や供え物を熱心に差し出したのに、嫌悪や怒りの心からそれを受け取るのを拒んだなら、それは戒律を破ることになり、違反となります。これは煩悩に染まった違反であり、他者を見捨てる心があるからです。もし怠け心や不注意、うっかりした気持ち、ぼんやりとした心で拒んだなら、それも違反ですが、煩悩に染まっていない違反です。ただし、次のような場合は違反にはなりません。心が乱れている場合、受け取ると執着が生じると判断した場合、後でその人が必ず後悔すると分かる場合、施主が混乱していると知った場合、施主が与えるたびに自分が貧しくなると知った場合、その品物が僧伽や塔の所有物だと分かる場合、その品物が盗品だと分かる場合、またはそれを受け取ることで殺生や縛られること、罰せられること、追放されること、嫌われること、責められることなどの多くの問題が生じると知った場合、これらを理由に拒んでも違反にはなりません。

若諸菩薩安住菩薩淨戒律儀，他來求法，懷嫌恨心、懷恚惱心，嫉妬變異，不施其法，是名有犯，有所違越，是染違犯。若由嬾惰、懈怠、忘念、無記之心，不施其法，是名有犯，有所違越，非染違犯。無違犯者，謂諸外道伺求過短；或有重病；或心狂亂；或欲方便調彼、伏彼，出不善處安立善處；或於是法未善通利；或復見彼不生恭敬，無有羞愧，以惡威儀而來聽受；或復知彼是鈍根性，於廣法教得法究竟深生怖畏，當生邪見，增長邪執，衰損惱壞；或復知彼，法至其手轉布非人；而不施與，皆無違犯。

> もし菩薩が清らかな戒律を守っているときに、他の人が教えを求めて来たにもかかわらず、嫌悪や怒りの心、嫉妬や心のねじれから教えを与えないならば、それは戒律を犯し、違反することになります。これは「汚れた違反」です。 もし怠惰、気の緩み、忘れっぽさ、無意識の心から教えを与えないならば、それも戒律を犯し、違反しますが、これは「汚れていない違反」です。 違反にならない場合とは、次のような時です。外道が欠点を探そうとしている場合。重い病気にかかっている場合。心が乱れている場合。その人をうまく導き、悪い状態から善い状態に移すための方便として教えを与えない場合。まだその教えに十分に精通していない場合。その人が敬いの心や恥じる心がなく、悪い態度で教えを聞こうとしていると分かった場合。あるいは、その人が鈍根であり、広大な教えの究極を聞いて深く恐れ、邪見を生じ、邪な執着を強め、自らを損なうと分かった場合。また、その人が教えを手に入れた後に、ふさわしくない人に広めてしまうと分かった場合。これらの場合に教えを与えなくても、違反にはなりません。

若諸菩薩安住菩薩淨戒律儀，於諸暴惡犯戒有情，懷嫌恨心、懷恚惱心，由彼暴惡犯戒為緣，方便棄捨，不作饒益，是名有犯，有所違越，是染違犯。若由嬾惰懈怠棄捨，由忘念故，不作饒益，是名有犯，有所違越，非染違犯。何以故？非諸菩薩於淨持戒、身語意業寂靜現行諸有情所，起憐愍心，欲作饒益；如於暴惡犯戒有情，於諸苦因而現轉者。無違犯者，謂心狂亂；或欲方便調彼、伏彼，廣說如前；或為將護多有情心；或護僧制；方便棄捨，不作饒益，皆無違犯。

> もし菩薩が清らかな菩薩戒を保ちながら、暴悪で戒を犯す有情に対して、嫌悪や恨みの心、怒りや悩みの心を抱き、その暴悪で戒を犯すことを理由に、方便を用いてその有情を捨て置き、利益を与えないならば、それは犯戒であり、違背があり、これは汚れた違犯です。もし怠惰や懈怠によって捨て置き、忘念のために利益を与えないならば、それは犯戒であり、違背がありますが、汚れていない違犯です。なぜなら、菩薩は清らかに戒を保ち、身・語・意の業が寂静に現れている有情に対しては憐愍の心を起こし、利益を与えようとしますが、それは暴悪で戒を犯し、苦の因の中にいる有情に対してと同じではないからです。違犯にならない場合とは、心が乱れているとき、あるいは方便を用いてその有情を調伏しようとするとき（詳しくは先に述べた通り）、あるいは多くの有情の心を守るため、または僧の定めを護るために、方便を用いて捨て置き、利益を与えないときです。これらの場合はすべて違犯ではありません。

若諸菩薩安住菩薩淨戒律儀，如薄伽梵於別解脫毘奈耶中，將護他故，建立遮罪，制諸聲聞令不造作。諸有情類，未淨信者令生淨信，已淨信者令倍增長。於中菩薩與諸聲聞應等修學，無有差別。何以故？以諸聲聞自利為勝，尚不棄捨將護他行，為令有情未信者信、信者增長，學所學處，何況菩薩利他為勝。若諸菩薩安住菩薩淨戒律儀，如薄伽梵於別解脫毘奈耶中，為令聲聞少事、少業、少悕望住，建立遮罪，制諸聲聞令不造作。於中菩薩與諸聲聞不應等學。何以故？以諸聲聞自利為勝，不顧利他，於利他中少事、少業、少悕望住可名為妙；非諸菩薩利他為勝，不顧自利，於利他中少事、少業、少悕望住得名為妙。如是菩薩為利他故，從非親里長者、居士、婆羅門等及恣施家，應求百千種種衣服，觀彼有情有力無力，隨其所施，如應而受。如說求衣，求鉢亦爾。如求衣鉢，如是自求種種絲縷，令非親里為織作衣。為利他故，應畜種種憍世耶衣、諸坐臥具，事各至百，生色可染百千俱胝，復過是數亦應取積。如是等中少事、少業、少悕望住制止遮罪，菩薩不與聲聞共學。安住淨戒律儀菩薩，於利他中，懷嫌恨心、懷恚惱心，少事、少業、少悕望住，是名有犯，有所違越，是染違犯。若由嬾惰、懈怠、忘念、無記之心，少事、少業、少悕望住，是名有犯，有所違越，非染違犯。

> もし菩薩が菩薩の清らかな戒律を保つならば、世尊が別解脱律（べつげだつりつ）の中で、他者を思いやるために設けた禁止事項（遮罪）を、声聞（しょうもん）たちにも守らせ、作らないように制したことがある。それは、まだ信心を持たない人々に信心を生じさせ、すでに信心のある人々にはさらにそれを増大させるためである。この点において、菩薩と声聞は等しく学ぶべきであり、差別はない。なぜか。声聞は自分の利益を第一とするが、それでも他者を思いやる行いを捨てず、未信の者に信を起こさせ、信ある者を成長させるために、学ぶべきことを学ぶからである。ましてや、他者の利益を第一とする菩薩においてはなおさらである。 もし菩薩が菩薩の清らかな戒律を保つならば、世尊が別解脱律の中で、声聞に「少ない仕事、少ない営み、少ない望み」で満足させるために設けた禁止事項を、声聞たちに守らせ、作らないように制したことがある。この点において、菩薩と声聞は等しく学ぶべきではない。なぜか。声聞は自分の利益を第一とし、他者の利益を顧みない。そのため、他者への利益において「少ない仕事、少ない営み、少ない望み」でいることは良いとされる。しかし菩薩は他者の利益を第一とし、自分の利益を顧みない。そのため、他者への利益において「少ない仕事、少ない営み、少ない望み」でいることは良いとはされない。 このように、菩薩は他者を利益するために、親族ではない長者や在家の信者、バラモンなど、また気前よく施す家々から、百千ものさまざまな衣服を求め、その相手に力があるかどうかを観察し、その布施に応じて受け取るべきである。衣服を求める場合と同様に、鉢を求める場合も同じである。衣服や鉢を求めるように、自らさまざまな糸を求めて、親族でない人に織らせて衣服を作らせることもある。 他者を利益するために、さまざまな高価な布や座具・寝具を、それぞれ百まで、あるいは生きた色に染められる百千倶胝（ひゃくせんくてい）もの数、さらにそれを超える数も蓄えるべきである。このような場合における「少ない仕事、少ない営み、少ない望み」を守るようにという禁止事項は、菩薩は声聞と共に学ぶべきではない。 清らかな戒律を保つ菩薩が、他者を利益するにあたって、嫌悪や恨みの心、怒りや悩みの心をもって、「少ない仕事、少ない営み、少ない望み」でいるならば、それは犯しがあり、違反があり、汚れを伴う違反である。もし、怠惰や懈怠、忘念や無記の心によって「少ない仕事、少ない営み、少ない望み」でいるならば、それも犯しがあり、違反があるが、汚れを伴わない違反である。

若諸菩薩安住菩薩淨戒律儀，善權方便，為利他故，於諸性罪少分現行，由是因緣，於菩薩戒無所違犯，生多功德。謂如菩薩見劫盜賊，為貪財故，欲殺多生，或復欲害大德聲聞、獨覺、菩薩，或復欲造多無間業。見是事已，發心思惟：我若斷彼惡眾生命，墮那落迦，如其不斷，無間業成，當受大苦；我寧殺彼墮那落迦，終不令其受無間苦。如是菩薩意樂思惟，於彼眾生或以善心、或無記心，知此事已，為當來故深生慚愧，以憐愍心而斷彼命。由是因緣，於菩薩戒無所違犯，生多功德。又如菩薩，見有增上增上宰官，上品暴惡，於諸有情無有慈愍，專行逼惱。菩薩見已，起憐愍心，發生利益安樂意樂，隨力所能，若廢、若黜增上等位。由是因緣，於菩薩戒無所違犯，生多功德。又如菩薩，見劫盜賊奪他財物，若僧伽物、窣堵波物，取多物已執為己有，縱情受用。菩薩見已，起憐愍心，於彼有情發生利益安樂意樂，隨力所能，逼而奪取，勿令受用如是財故，當受長夜無義無利。由此因緣，所奪財寶，若僧伽物，還復僧伽；窣堵波物，還窣堵波；若有情物，還復有情。又見眾主、或園林主，取僧伽物、窣堵波物，言是己有，縱情受用。菩薩見已，思擇彼惡，起憐愍心，勿令因此邪受用業，當受長夜無義無利，隨力所能廢其所主。菩薩如是雖不與取，而無違犯，生多功德。又如菩薩處在居家，見有母邑現無繫屬，習婬欲法，繼心菩薩求非梵行。菩薩見已，作意思惟：勿令心恚，多生非福，若隨其欲，便得自在，方便安處令種善根，亦當令其捨不善業。住慈愍心，行非梵行。雖習如是穢染之法，而無所犯，多生功德。出家菩薩，為護聲聞聖所教誡，令不壞滅，一切不應行非梵行。又如菩薩為多有情解脫命難、囹圄縛難、刖手足難、劓鼻刵耳剜眼等難，雖諸菩薩為自命難，亦不正知說於妄語，然為救脫彼有情故，知而思擇，故說妄語。以要言之，菩薩唯觀有情義利，非無義利，自無染心，唯為饒益諸有情故，覆想正知而說異語。說是語時，於菩薩戒無所違犯，生多功德。又如菩薩，見諸有情為惡朋友之所攝受，親愛不捨。菩薩見已，起憐愍心，發生利益安樂意樂，隨能隨力說離間語，令離惡友，捨相親愛，勿令有情由近惡友，當受長夜無義無利。菩薩如是以饒益心說離間語，乖離他愛，無所違犯，生多功德。又如菩薩，見諸有情為行越路，非理而行，出麁惡語，猛利訶擯，方便令其出不善處安立善處。菩薩如是以饒益心，於諸有情出麁惡語，無所違犯，生多功德。又如菩薩，見諸有情信樂倡伎、吟詠、歌諷，或有信樂王、賊、飲食、婬蕩街衢無義之論，菩薩於中皆悉善巧，於彼有情起憐愍心，發生利益安樂意樂，現前為作綺語相應種種倡伎、吟詠、歌諷、王、賊、飲食、婬衢等論，令彼有情歡喜引攝、自在隨屬，方便獎導出不善處安立善處。菩薩如是現行綺語，無所違犯，生多功德。

> もし菩薩が清らかな戒律を安住し、巧みな方便をもって他者の利益のために、本来なら罪となる行為をわずかに行うことがある。その因縁によって、菩薩戒に違反することなく、多くの功徳を生じる。例えば、菩薩が強盗を見て、金品のために多くの命を奪おうとしたり、あるいは高徳の声聞や独覚、菩薩を害そうとしたり、または多くの無間業を造ろうとしているのを見たとする。それを見て菩薩は思惟する。「もし私がその悪人の命を断てば、私は地獄に堕ちるだろう。しかし断たなければ、彼は無間業を完成させ、大きな苦しみを受けることになる。私は自ら地獄に堕ちても、彼には無間の苦しみを受けさせまい。」こうして菩薩は意楽をもって思惟し、その衆生に対して善心あるいは無記の心で、この事を知り、将来のため深く慚愧し、憐れみの心をもってその命を断つ。その因縁によって、菩薩戒に違反することなく、多くの功徳を生じる。 また、菩薩が暴虐な高官や権力者を見て、彼らが衆生に対して慈しみなく、ただ苦しめているのを見たとする。菩薩はそれを見て憐れみの心を起こし、利益と安楽の意楽をもって、能力の限りその高官の地位を廃したり、追放したりする。その因縁によって、菩薩戒に違反することなく、多くの功徳を生じる。 また、菩薩が強盗が他人の財物、僧伽の物や卒塔婆の物を奪い、自分のものとして楽しんで使っているのを見たとする。菩薩はそれを見て憐れみの心を起こし、その衆生に利益と安楽の意楽をもって、能力の限り強制的に奪い返し、彼らがその財物を使って長い間無意味で無益な苦しみを受けることのないようにする。その因縁によって、奪った財宝が僧伽の物なら僧伽に返し、卒塔婆の物なら卒塔婆に返し、有情の物なら有情に返す。また、地主や園林の主が僧伽の物や卒塔婆の物を自分のものとして楽しんでいるのを見たとする。菩薩はそれを見て、その悪を思量し、憐れみの心を起こして、その邪な受用の業によって長い間無意味で無益な苦しみを受けさせないように、能力の限りその主を廃する。菩薩はこのように奪うことはあっても、違反することなく、多くの功徳を生じる。 また、在家の菩薩が、束縛のない女性を見て、情欲の法に慣れ、菩薩に心を寄せて非梵行を求めるのを見たとする。菩薩はそれを見て思惟する。「心に怒りを起こさせて、多くの不善を生じさせてはならない。彼女の望みに従えば、自在を得させ、方便して善根を植えさせ、不善の業を捨てさせることができるだろう。」こうして慈愍の心を持って非梵行を行う。このような汚れた法を行っても、違反することなく、多くの功徳を生じる。ただし、出家菩薩は、声聞の聖なる教えを守り壊さないために、一切非梵行を行うべきではない。 また、菩薩が多くの有情を命の難、牢獄の難、手足を切られる難、鼻や耳を削がれる難、目をえぐられる難などから救おうとするとき、たとえ自身の命が危なくても、故意に虚偽の言葉を言うことはないが、それらの有情を救うために、知りつつ思量し、虚偽の言葉を言う。要するに、菩薩はただ有情の利益を見、無益ではない。自ら汚れた心なく、ただ有情を利益するために、心を覆い正しく知りながら異なる言葉を言う。その言葉を言う時、菩薩戒に違反することなく、多くの功徳を生じる。 また、菩薩が有情たちが悪友に捕らわれ、親しんで離れないのを見たとする。菩薩はそれを見て憐れみの心を起こし、利益と安楽の意楽をもって、能力の限り離間の言葉を言い、その悪友から離れさせ、親愛を捨てさせ、彼らが長い間無意味で無益な苦しみを受けないようにする。菩薩はこのように利益の心で離間の言葉を言い、他者の愛を引き離しても、違反することなく、多くの功徳を生じる。 また、菩薩が有情たちが道を外れて不合理な行いをし、粗悪な言葉を発して猛々しく非難しているのを見たとする。菩薩はその有情を不善の場所から出させ、善い場所に安立させるために、粗暴な言葉を用いる。菩薩はこのように利益の心で有情に対して粗暴な言葉を発しても、違反することなく、多くの功徳を生じる。 また、菩薩が有情たちが歌や舞、吟詠、諷誦を好み、あるいは王や賊、飲食、淫蕩、街路の無意味な論議を好むのを見たとする。菩薩はそれらにすべて巧みであり、その有情に対して憐れみの心を起こし、利益と安楽の意楽をもって、目の前で綺語に相応する様々な歌や舞、吟詠、諷誦、王賊、飲食、淫街などの論議を行い、その有情を喜ばせ、導き、自在に従わせ、方便して不善の場所から出させ、善い場所に安立させる。菩薩はこのように綺語を行っても、違反することなく、多くの功徳を生じる。

若諸菩薩安住菩薩淨戒律儀，生起詭詐、虛談、現相，方便研求，假利求利，味邪命法，無有羞恥，堅持不捨，是名有犯，有所違越，是染違犯。無違犯者，若為除遣生起樂欲，發勤精進，煩惱熾盛蔽抑其心，時時現起。

> もし菩薩が清浄な戒律を守りながら、詭計や虚言、見せかけ、方便を弄して利益を得ようとすること、偽りの利益を追い求めること、邪命を楽しむこと、恥じる心もなくそれらに固執して捨てないのであれば、それは戒律を犯すことであり、汚れた違犯となります。ただし、それらを除こうと努め、喜んで精進しようと願いながらも、煩悩が激しく心を覆い隠して、時々その心が現れてしまう場合は、違犯にはなりません。

若諸菩薩安住菩薩淨戒律儀，為掉所動，心不寂靜，不樂寂靜，高聲嬉戲，諠譁紛聒，輕躁騰躍，望他歡笑，如此諸緣，是名有犯，有所違越，是染違犯。若忘念起，非染違犯。無違犯者，若為除遣生起樂欲，廣說如前；若欲方便解他所生嫌恨令息；若欲遣他所生愁惱；若他性好如上諸事，方便攝受，敬慎將護，隨彼而轉；若他有情猜阻菩薩，內懷嫌恨，惡謀憎背，外現歡顏表內清淨；如是一切，皆無違犯。

> もし菩薩が清らかな戒律を保ちながら、心が落ち着かず、静けさを好まず、大きな声でふざけたり、騒がしく振る舞ったり、軽はずみにはしゃいだりして、他人の笑いを求めるならば、これらの因縁によって、戒律を犯し違反することになります。これは煩悩に染まった違反です。もし忘れっぽさから生じたのであれば、煩悩に染まらない違反です。違反とならない場合は、こうした心を取り除こうと望み努める場合（前に詳しく述べた通り）、あるいは他人の嫌悪や恨みを鎮めるための手段を講じる場合、あるいは他人の憂いや悩みを取り除こうとする場合、あるいは他人が元来そのような行為を好むので、その人を導き敬い守りながらそれに従う場合、あるいは他人が菩薩に対して疑いや恨みを抱き、悪意を持って背こうとするときに、菩薩が外に笑顔を現して内心の清らかさを示す場合など、これらすべては違反にはなりません。

若諸菩薩安住菩薩淨戒律儀，起如是見，立如是論：菩薩不應忻樂涅槃，應於涅槃而生厭背；於諸煩惱及隨煩惱不應怖畏而求斷滅，不應一向心生厭離；以諸菩薩三無數劫流轉生死，求大菩提。若作此說，是名有犯，有所違越，是染違犯。何以故？如諸聲聞於其涅槃忻樂親近，於諸煩惱及隨煩惱深心厭離；如是菩薩於大涅槃忻樂親近，於諸煩惱及隨煩惱深心厭離，其倍過彼百千俱胝。以諸聲聞唯為一身證得義利勤修正行，菩薩普為一切有情證得義利勤修正行。是故菩薩當勤修集無雜染心，於有漏事隨順而行，成就勝出諸阿羅漢無雜染法。

> もし菩薩が、清らかな戒律を備えた身でありながら、次のような見解を抱き、主張するならば──「菩薩は涅槃を喜び求めるべきではない。むしろ涅槃を嫌い背くべきであり、煩悩や随煩悩を恐れて断ち滅ぼそうとするべきではない。心から嫌い離れようと一貫して欲するべきではない。なぜなら菩薩は三つの無限の劫もの間、生死を巡りながら大きな悟りを求めるからである」──このように説くならば、それは戒律を犯し、汚れた違反となる。 なぜか。例えば声聞たちが涅槃を喜び親しみ、煩悩や随煩悩を深く厭い離れるように、菩薩は大涅槃を喜び親しみ、煩悩や随煩悩を深く厭い離れるのであり、その度合いは声聞たちの百千倍、数えきれないほど勝っている。なぜなら、声聞たちはただ自己一人のための利益と意義を得るために努力して修行するのに対し、菩薩はすべての生きとし生けるもののために利益と意義を得るために努力して修行するからである。 それゆえ菩薩は、雑念のない清らかな心を精進して培い、煩悩を伴う事柄にも従いながら行動し、すべての阿羅漢を超えた、雑念のない清らかな境地を成就すべきなのである。

若諸菩薩安住菩薩淨戒律儀，於自能發不信重言，所謂惡聲、惡稱、惡譽，不護不雪。其事若實而不避護，是名有犯，有所違越，是染違犯。若事不實而不清雪，是名有犯，有所違越，非染違犯。無違犯者，若他外道；若他憎嫉；若自出家，因行乞行、因修善行，謗聲流布，若忿蔽者；若心倒者；謗聲流布，皆無違犯。

> もし菩薩が清らかな戒律を保つ身でありながら、自分自身に対して信頼や敬意を損なうような言葉――すなわち悪口、悪評、悪い噂――が広まったときに、それを防ごともせず、弁明もしない場合、その噂が事実であれば、戒律を犯し、違反することになります。これは煩悩に染まった違反です。もし噂が事実でないのに弁明しなければ、やはり戒律を犯し、違反となりますが、こちらは煩悩に染まっていない違反です。 ただし、以下の場合は違反になりません。相手が外道である場合、相手が憎しみや妬みを持っている場合、自分が出家者として托行や善行を積んでいるために自然と誹謗が広まった場合、怒りに覆われている場合、心が乱れている場合――これらの理由で誹謗が流れても、一切の違反とはなりません。

若諸菩薩安住菩薩淨戒律儀，見諸有情，應以種種辛楚加行、猛利加行而得義利，護其憂惱而不現行，是名有犯，有所違越，非染違犯。無違犯者，觀由此緣，於現法中少得義利，多生憂惱。

> もし菩薩が清らかな戒律を守っている時に、ある生き物に対して、厳しい修行や激しい修行によってこそ利益が得られるべきであると見ていながら、その生き物の憂いや悩みを気遣って修行を行わないならば、それは戒律に違反することになります。ただし、これは煩悩による違反ではありません。違反にならないのは、この因縁によって、現世において得られる利益が少なく、多くの苦しみが生じると観察される場合です。

若諸菩薩安住菩薩淨戒律儀，他罵報罵，他瞋報瞋，他打報打，他弄報弄，是名有犯，有所違越，是染違犯。

> もし菩薩が清らかな戒律を守っているときに、他人から罵られたからといって罵り返したり、怒られたからといって怒り返したり、打たれたからといって打ち返したり、からかわれたからといってからかい返したりするならば、それは戒律に違反し、過ちを犯すことになります。これは煩悩に染まった違反です。

若諸菩薩安住菩薩淨戒律儀，於他有情有所侵犯，或自不為彼疑侵犯，由嫌嫉心，由慢所執，不如理謝而生輕捨，是名有犯，有所違越，是染違犯。若由嬾惰、懈怠、放逸，不謝輕捨，是名有犯，有所違越，非染違犯。無違犯者，若欲方便調彼、伏彼，出不善處安立善處；若是外道；若彼悕望要因現行非法有罪方受悔謝，若彼有情性好鬪諍，因悔謝時倍增憤怒；若復知彼為性堪忍體無嫌恨；若必了他因謝侵犯，深生羞恥；而不悔謝，皆無違犯。

> もし菩薩が清らかな戒律を守りながら、他の生きとし生けるものに対して過ちを犯したり、あるいは実際には過ちを犯していないのに相手が疑っているような場合に、嫌悪や嫉妬の心や慢心から、誠実に謝罪せずに軽んじて捨て置くならば、それは戒律を犯し、汚れた違反となる。 もし、怠惰（たいだ）や懈怠（けたい）や放逸（ほういつ）から謝罪せずに軽んじて捨て置くならば、それも戒律を犯すが、汚れた違反ではない。 ただし、次のような場合は違反とはならない。すなわち、相手をうまく導き、調伏（ちょうぶく）させるために、不善から善へと導こうとしている場合。相手が外道である場合。相手が、謝罪を受けるためには不法で罪ある行為を続けることを求めている場合。相手が元々争い好きで、謝罪によってかえって怒りが増す場合。相手が寛容で恨みを持たない性質であると分かっている場合。また、謝罪によってかえって相手が深く恥じ入ることが明らかな場合。これらの場合には、謝罪しなくても違反とはならない。

若諸菩薩安住菩薩淨戒律儀，他所侵犯，彼還如法平等悔謝。懷嫌恨心，欲損惱彼，不受其謝，是名有犯，有所違越，是染違犯。雖復於彼無嫌恨心，不欲損惱，然由稟性不能堪忍，故不受謝，亦名有犯，有所違越，非染違犯。無違犯者，若欲方便調彼、伏彼，廣說一切如前應知；若不如法、不平等謝；不受彼謝，亦無違犯。

> もし菩薩が清らかな戒律を守っている時に、他者から侵害を受けた後、その相手が法に従って平等に謝罪してきたにもかかわらず、恨みや怒りの心を持ち、相手を苦しめたいがために謝罪を受け入れないならば、それは戒律を犯し違反することになり、煩悩に染まった違反である。 一方、相手に対する恨みや怒りの心はなく、害を与えたいと思わなくても、生まれつきの気質として謝罪を受け入れられずに拒否する場合も、戒律を犯し違反することになるが、これは煩悩に染まらない違反である。 ただし、以下の場合は違反にはならない。すなわち、相手を教え導き、調伏させるための方便として謝罪を受け入れない場合（これに関する詳細は前述の通りである）、あるいは相手の謝罪が法に従わず、不平等である場合に謝罪を受け入れなくても、違反とはならない。

若諸菩薩安住菩薩淨戒律儀，於他懷忿，相續堅持，生已不捨，是名有犯，有所違越，是染違犯。無違犯者，為斷彼故生起樂欲，廣說如前。

> もし菩薩が菩薩の清らかな戒律を守りながら、他者に対して怒りを抱き、その思いを持ち続けて捨てないならば、それは犯すところがあり、戒律に背くことになり、汚れた違反となる。ただし、その怒りを断ち切ろうと努め、喜んで実行しようと欲するならば、犯すことはない。詳しくは先に述べた通りである。

若諸菩薩安住菩薩淨戒律儀，貪著供事增上力故，以愛染心管御徒眾，是名有犯，有所違越，是染違犯。無違犯者，不貪供侍，無愛染心管御徒眾。

> もしも諸々の菩薩が、菩薩の清らかな戒律と作法に安住しながら、供養や奉仕への執着が強まり、愛執の心で弟子たちを管理するならば、それは戒律を犯し、背くこととなり、汚れの伴う違反となる。ただし、供養や奉仕を貪らず、愛執の心なく弟子たちを管理する場合は、違反にはならない。

若諸菩薩安住菩薩淨戒律儀，嬾惰懈怠，耽睡眠樂、臥樂、倚樂，非時非量，是名有犯，有所違越，是染違犯。無違犯者，若遭疾病；若無氣力；行路疲極，若為斷彼生起樂欲；廣說一切如前應知。

> もし菩薩が菩薩の清らかな戒めを守りながら、怠け心や不精さに流され、眠る楽しみ、横になる楽しみ、もたれかかる楽しみにふけり、時間や量をわきまえなければ、それは戒めを破り、過ちを犯すことになり、煩悩に染まった違反となる。ただし、病気にかかった場合、体力がない場合、旅路で疲れ果てている場合、あるいはそうした楽しみへの執着を断とうと積極的に努める場合は、違反にはならない。その他の細かい事情については、先に述べた通りであると知るべきである。

若諸菩薩安住菩薩淨戒律儀，懷愛染心，談說世事，虛度時日，是名有犯，有所違越，是染違犯。若由忘念，虛度時日，是名有犯，有所違越，非染違犯。無違犯者，見他談說，護彼意故，安住正念須臾而聽；若事希奇；或暫問他，或答他問，無所違犯。

> もし菩薩が菩薩の清らかな戒律を保ちながら、情欲や執着の心をもって世間の話をし、時間を無駄に過ごすならば、それは戒律を破り、過ちを犯すこととなり、煩悩に染まった違反となります。もし忘れや思い込みによって時間を無駄に過ごすならば、それも戒律を破り、過ちを犯すこととなりますが、それは煩悩に染まらない違反です。 違反とならない場合とは、他の人が話しているのを見て、その人の気持ちを守るために正しい心を保ちながら、しばらくの間聞く場合。または、珍しい出来事について話す場合。あるいは、他人に少し質問をしたり、他人の質問に答えたりする場合です。これらは違反とはなりません。

若諸菩薩安住菩薩淨戒律儀，為令心住，欲定其心，心懷嫌恨，憍慢所持，不詣師所求請教授，是名有犯，有所違越，是染違犯。嬾惰懈怠而不請者，非染違犯。無違犯者，若遇疾病；若無氣力；若知其師顛倒教授；若自多聞，自有智力能令心定；若先已得所應教授；而不請者，無所違犯。

> もし菩薩たる者が清らかな戒律を守りながらも、心を落ち着け集中させようとして、不満や慢心にかられ師のもとへ教えを請いに行かないならば、それは戒律を破る過ちであり、煩悩に染まった違反となる。 しかし、単に怠けや怠慢で請わなかった場合は、煩悩に染まらない違反である。 また、以下のような場合は違反にはならない。病気の時、気力がない時、師が間違った教えをしていると知っている時、自ら多くの教えを学び智慧によって心を定められる時、すでに必要な教えを得ている時——これらの理由で請わなくても、過ちにはならない。

若諸菩薩安住菩薩淨戒律儀，起貪欲蓋，忍受不捨，是名有犯，有所違越，是染違犯。無違犯者，若為斷彼生起樂欲，發勤精進，煩惱猛利蔽抑心故，時時現行。如貪欲蓋，如是瞋恚、惛沈睡眠、掉舉惡作，及與疑蓋，當知亦爾。

> 菩薩としての清らかな戒律を守る人が、貪りの心（欲）に覆われたとき、それを受け入れ手放そうとしないならば、それは戒律を破り、過ちを犯すことになる。これは汚れのある違反である。 ただし、その貪りの心を断ち切ろうと強い願いを持ち、熱心に努力しているにもかかわらず、煩悩が非常に強く心を覆い隠してしまい、時々その心が現れてしまう場合は、違反とはならない。 貪りの心と同じように、怒り、眠気や怠惰、落ち着きのなさと後悔、そして疑いの心についても、同じように理解すべきである。

若諸菩薩安住菩薩淨戒律儀，貪味靜慮，於味靜慮見為功德，是名有犯，有所違越，是染違犯。無違犯者，若為斷彼生起樂欲，廣說如前。

> もし修行者（菩薩）が菩薩の清らかな戒めを守っているにもかかわらず、静かな瞑想（静慮）の心地よさに執着し、その執着そのものを功徳だと見なすならば、それは戒めを破り、違反することになります。これは煩悩に染まった違反です。しかし、もしその執着を断ち切ろうと努め、それを望む気持ちを起こしているならば、前と同じく、過失にはなりません。

若諸菩薩安住菩薩淨戒律儀，起如是見，立如是論：菩薩不應聽聲聞乘相應法教，不應受持，不應修學，菩薩何用於聲聞乘相應法教聽聞、受持、精勤修學？是名有犯，有所違越，是染違犯。何以故？菩薩尚於外道書論精勤研究，況於佛語。無違犯者，為令一向習小法者捨彼欲故，作如是說。

> もし菩薩が、清らかな戒律と修行の規範に安住しながら、次のような見解を持ち、次のような論を立てるとする。「菩薩は声聞乗（しょうもんじょう）に対応する教えを聞くべきではない。それを受け止め、修行に励むべきではない。菩薩にとって、声聞乗の教えを聞いたり、受け止めたり、熱心に修行する必要などないのだ」と。これは、戒律に違反し、汚れた過ちを犯すことになる。なぜなら、菩薩はたとえ外道の書物や論説でさえも熱心に研究すべきであるのに、ましてや仏の言葉においてはなおさらであるからだ。ただし、もっぱら小乗の教えに慣れ親しんでいる者に、その執着を捨てさせようとして、あえてそのように述べる場合には、過ちとはならない。

若諸菩薩安住菩薩淨戒律儀，於菩薩藏未精研究，於菩薩藏一切棄捨，於聲聞藏一向修學，是名有犯，有所違越，非染違犯。

> もし菩薩が、菩薩の清らかな戒律と儀則を保ちながらも、菩薩の教え（菩薩蔵）を深く研究せず、一切の菩薩蔵を捨てて、もっぱら声聞の教え（声聞蔵）だけを学ぶならば、それは戒律に違反し、過ちを犯すことになります。ただし、それは煩悩に染まらない過ちです。

若諸菩薩安住菩薩淨戒律儀，現有佛教，於佛教中未精研究，於異道論及諸外論精勤修學，是名有犯，有所違越，是染違犯。無違犯者，若上聰敏；若能速受；若經久時能不忘失；若於其義能思能達；若於佛教如理觀察成就俱行無動覺者，於日日中，常以二分修學佛語，一分學外；則無違犯。

> もし菩薩たちが菩薩の清らかな戒律と儀軌に安住しているにもかかわらず、 仏教が現存しているのに、その教えを深く研究せず、 異なる道の論や様々な世俗の学問を熱心に学び修めるならば、 それは違犯となり、戒律を犯すことになる。これは煩悩に染まった違犯である。 ただし、以下の場合は違犯とはならない。 すなわち、非常に聡明な者、 短期間で習得できる者、 長い時間を経ても忘れることのない者、 その意味をよく考え、理解できる者、 仏教を道理に従って観察し、常に正しい見解と共にあり、動じることのない覚者である者が、 毎日、常に三分の二の時間を仏教の言葉の学修にあて、 三分の一の時間を世俗の学問に充てるならば、 それは違犯とはならない。

若諸菩薩安住菩薩淨戒律儀，越菩薩法，於異道論及諸外論研求善巧，深心寶翫、愛樂、味著，非如辛藥而習近之，是名有犯，有所違越，是染違犯。

> もし菩薩が、菩薩の清らかな戒律と行儀を守りながらも、菩薩の道に背き、異教の教えや外道の論書を研究して巧みになり、心からそれを宝のように玩び、愛しみ楽しみ、味わい執着するならば、それを辛い薬のように取り扱わない。これは違反となり、過ちを犯すことになる。これは煩悩に染まった違反である。

若諸菩薩安住菩薩淨戒律儀，聞菩薩藏，於甚深處最勝甚深真實法義、諸佛菩薩難思神力，不生信解，憎背毀謗：不能引義、不能引法，非如來說，不能利益安樂有情。是名有犯，有所違越，是染違犯。如是毀謗，或由自內非理作意，或隨順他而作是說。

> もし菩薩が、菩薩の清らかな戒律を守りながら、仏説の深遠な教え（菩薩蔵）を聞いても、その中でも最も深遠で優れた真理の意味や、諸仏・菩薩の計り知れない神通力について、信じ理解しようとせず、むしろ嫌悪し、拒絶し、非難するならば、「これは意味をもたらさない」「これは真理の道を示さない」「これは如来の説かれたものではない」「これは有情を利益し安楽にすることはできない」などと言って誹謗する。これを戒律を破り、過ちを犯すこととし、それは煩悩に染まった違反である。このような誹謗は、自己の中での非道理な思惟によるか、あるいは他人に従ってそのようなことを言うことによって生じる。

若諸菩薩安住菩薩淨戒律儀，若聞甚深最甚深處，心不信解，菩薩爾時應強信受，應無諂曲，應如是學：我為非善，盲無慧目，於如來眼隨所宣說，於諸如來密意語言而生誹謗。菩薩如是自處無知，仰推如來，於諸佛法無不現知等隨觀見。如是正行，無所違犯。雖無信解，然不誹謗。

> もし菩薩が清らかな戒律の修行に安住しているならば、深遠な教えの中でも最も深遠なところを聞いても、心で理解し信じられなくても、その時は強く信じ受け入れる努力をし、偽りの心を持たず、このように学ぶべきです。「私は善くなく、盲目で智慧の目を持たない。如来がその知恵の眼で説かれたこと、そして諸々の如来の密意を含んだ言葉に対して、誹謗をしてしまうのだ」と。菩薩はこのように自らを無知と認め、如来を仰ぎ見て、すべての仏法を現に知り、そのまま観察していると考えるのです。このように正しく行えば、戒律に違反することはありません。たとえ理解し信じる心がなくても、誹謗することはないのです。

若諸菩薩安住菩薩淨戒律儀，於他人所有染愛心、有瞋恚心，自讚毀他，是名有犯，有所違越，是染違犯。無違犯者，若為摧伏諸惡外道；若為住持如來聖教；若欲方便調彼、伏彼，廣說如前；或欲令其未淨信者發生淨信，已淨信者倍復增長。

> もし菩薩が清らかな戒律を守っているにもかかわらず、他者に対して執着の心や怒りの心を抱き、自分を褒めて他人を非難するならば、それは戒律を破り、過ちを犯したことになります。これは煩悩に基づく違反です。 ただし、以下の場合は違反にはなりません： - 邪悪な外道の教えを打ち負かすため - 如来の聖なる教えを守り続けるため - 相手を導き、制するための方便として（詳細は前と同じ） - あるいは、まだ清らかな信心を得ていない人に信心を起こさせ、すでに信心を得ている人にはより一層その心を成長させるためである場合。

若諸菩薩安住菩薩淨戒律儀，聞說正法論議決擇，憍慢所制，懷嫌恨心、懷恚惱心，而不往聽，是名有犯，有所違越，是染違犯。若為嬾惰懈怠所蔽，而不往聽，非染違犯。無違犯者，若不覺知；若有疾病；若無氣力；若知倒說；若為護彼說法者心；若正了知彼所說義，是數所聞、所持、所了；若已多聞，具足聞持，其聞積集；若欲無間於境住心，若勤引發菩薩勝定；若自了知上品愚鈍，其慧鈍濁，於所聞法難受難持，難於所緣攝心令定；不往聽者，皆無違犯。

> もし菩薩が清らかな戒律を具足して安住し、正しい法の議論や選択を聞く際に、高ぶりの心に支配され、恨みや怒りの心を抱いて、赴いて聞こうとしないならば、それは過ちを犯すことになり、違背する染まった過ちとなる。もし怠けや懈怠に覆われて赴いて聞かないならば、それは染まらざる過ちである。過ちにならない場合とは、気づかない場合、病気の場合、力がない場合、間違った説法と知る場合、説法者の心を守ろうとする場合、その説く意味を既に理解し、何度も聞き、覚え、了知している場合、すでに多く聞き、聞き受けて具足し、聞いたことが積み重なっている場合、絶え間なく心を境に留めようとしている場合、精進して菩薩の勝定を引き起こそうとしている場合、自分が上品の愚鈍であり、智慧が鈍く濁っていて、聞いた法を受容し保持することが難しく、心を所縁に集中させて定めることが難しいと自覚している場合——これらの理由で赴いて聞かないことは、すべて過ちとはならない。

若諸菩薩安住菩薩淨戒律儀，於說法師故思輕毀，不深恭敬，嗤笑調弄，但依於文不依於義，是名有犯，有所違越，是染違犯。

> 菩薩としての清らかな戒律を守る者が、説法をする師に対してわざと軽んじたり、深く敬わず、嘲ったり冗談にしたり、ただ言葉だけを追い、その真意を顧みないならば、それは戒律に背く過ちであり、煩悩に染まった違反となります。

若諸菩薩安住菩薩淨戒律儀，於諸有情所應作事，懷嫌恨心、懷恚惱心，不為助伴。謂於能辦所應作事，或於道路若往若來，或於正說事業加行，或於掌護所有財寶，或於和好乖離諍訟，或於吉會，或於福業，不為助伴，是名有犯，有所違越，是染違犯。若為嬾惰懈怠所蔽，不為助伴，非染違犯。無違犯者，若有疹疾；若無氣力；若了知彼自能成辦；若知求者自有依怙；若知所作能引非義、能引非法；若欲方便調彼、伏彼，廣說如前；若先許餘為作助伴；若轉請他有力者助；若於善品正勤修習，不欲暫廢；若性愚鈍，於所聞法難受難持，如前廣說；若為將護多有情意；若護僧制；不為助伴，皆無違犯。

> もし菩薩が清らかな戒律を保ちつつ、他者に対して行うべきことについて、嫌悪や恨みの心、怒りや悩みの心を持って、手助けをしないとする。例えば、他者が成し遂げるべきことを行う際、あるいは道中の往復、あるいは正当な事業への取り組み、財宝の管理、和解や争いの調停、吉兆の集まりや善行の機会など、あらゆる場面で協力を拒むならば、それは戒律を汚し、違反となる。これは煩悩に染まった違反である。 もし単に怠惰や無気力によって手助けをしないならば、それは煩悩に染まらない違反である。 ただし、以下の場合は違反とはならない。自分が病気である時、体力がない時、その人が自力でできると知っている時、助けを求める人に既に頼るべき人がいると知っている時、その行いが非道徳的で無意味な結果を導くと知っている時、その人を導き調伏するためにあえて手を貸さない時（前述の通り）、既に他の人を助ける約束をしている時、他の力ある者に代わってもらうよう依頼した時、善い行いの修行に専念しており一時も中断したくない時、もともと理解が遅く教えを聞いても覚えられない時（前述の通り）、多くの人々の気持ちを考慮する時、あるいは寺院の規則を守る時――これらの場合に手助けをしなくても、違反ではないのである。

若諸菩薩安住菩薩淨戒律儀，見諸有情遭重疾病，懷嫌恨心、懷恚惱心，不往供事，是名有犯，有所違越。是染違犯。若為嬾惰懈怠所蔽，不往供事，非染違犯。無違犯者，若自有病；若無氣力；若轉請他有力隨順令往供事；若知病者有依有怙；若知病者自有勢力，能自供事；若了知彼長病所觸，堪自支持；若為勤修廣大無上殊勝善品；若欲護持所修善品，令無間缺；若自了知上品愚鈍，其慧鈍濁，於所聞法難受難持，難於所緣攝心令定；若先許餘為作供事。如於病者，於有苦者為作助伴，欲除其苦，當知亦爾。

> もし菩薩が清らかな戒律を守りながら、重い病気にかかった生き物を見ても、嫌悪や怒りの心を抱いて看病に行かないなら、それは戒律を破ることであり、違反となります。これは煩悩に染まった違反です。もし怠け心やだらしなさに負けて看病に行かないなら、それは煩悩に染まらない違反です。 違反にならない場合とは、自分が病気のとき、体力がないとき、他の力のある人に代わりに看病を依頼したとき、病人に頼れる人や支えてくれる人がいると知っているとき、病人自身に体力があり自分で身の回りのことができると知っているとき、病人が長患いで自力で何とかできると分かっているとき、自らが広大で無上の優れた善を熱心に修行しているとき、修行中の善を守り続けて途切れさせまいとしているとき、自分が非常に愚かで理解力が鈍く、聞いた教えを受け入れにくく、心を一つの対象に集中させにくいと自覚しているとき、あるいは以前に他の人の看病を約束しているときです。 病気の人についてこうであるように、苦しんでいる人の助けとなり、その苦しみを取り除こうとすることについても、同じであると知るべきです。

若諸菩薩安住菩薩淨戒律儀，見諸有情為求現法後法事故，廣行非理，懷嫌恨心、懷恚惱心，不為宣說如實正理，是名有犯，有所違越，是染違犯。若由懶惰懈怠所蔽，不為宣說，非染違犯。無違犯者，若自無知；若無氣力；若轉請他有力者說；若即彼人自有智力；若彼有餘善友攝受；若欲方便調彼、伏彼，廣說如前；若知為說如實正理，起嫌恨心，若發惡言，若顛倒受，若無愛敬；若復知彼性弊𢤱悷；不為宣說，皆無違犯。

> もし菩薩が清らかな戒律を保ちながら、現世や来世の目的のために道理に反する行いをし、恨みや怒りの心を抱いている生き物たちを見ても、真実の正しい教えを説かないのであれば、それは戒律を犯し、汚れた違反となる。しかし、怠惰やなまけ心に覆われて教えを説かない場合は、汚れのない違反である。 違反にならない場合もある。自分が無知であるとき。力がないとき。他の能力ある人に代わりに説いてもらうよう頼んだとき。その相手自身に理解する力があるとき。その相手に他に善き友が導いているとき。その相手を調伏させるための方便として、前に詳しく説いたような方法を用いるとき。真実の正しい教えを説けば相手が恨みの心を起こしたり、悪口を言ったり、誤って受け取ったり、敬いの心を持たないことが分かっているとき。また、その相手の性質が頑なで扱いにくいと知っているとき——これらの場合に教えを説かないのは、いずれも違反にはならない。

若諸菩薩安住菩薩淨戒律儀，於先有恩諸有情所不知恩惠、不了恩惠，懷嫌恨心，不欲現前如應酬報，是名有犯，有所違越，是染違犯。若為嬾惰懈怠所蔽，不現酬報，非染違犯。無違犯者，勤加功用，無力無能不獲酬報；若欲方便調彼、伏彼，廣說如前；若欲報恩而彼不受；皆無違犯。

> もし菩薩が菩薩の清浄な戒律を守りながら、過去に恩を受けた人々に対して、その恩を知らず、恩を理解せず、恨みや怒りの心を抱き、しかるべき報いを目の前でしようとしないならば、それは犯戒となり、違反にあたる。これは煩悩に染まった犯戒である。もし怠惰や懈慢に覆われて、報いを現さないならば、それは煩悩に染まらない犯戒である。犯戒にならない場合は、努力を尽くしても、力や能力がなく報いることができない時、あるいは相手を調伏・教化するための方便として（報いを控える時、詳細は前述の通り）、あるいは報いようとしても相手が受け入れない時である。これらの場合はいずれも犯戒とはならない。

若諸菩薩安住菩薩淨戒律儀，見諸有情墮在喪失財寶、眷屬、祿位、難處，多生愁惱，懷嫌恨心，不往開解，是名有犯，有所違越，是染違犯。若為懶惰懈怠所蔽，不往開解，非染違犯。無違犯者，應知如前於他事業不為助伴。

> もし菩薩が菩薩の清らかな戒律を守りながら、財産や家族、地位を失い苦しみ悩む人々を見て、嫌悪や恨みの心から彼らを慰め導かないなら、それは戒律を破る過ちであり、煩悩に染まった違反となります。 もし怠け心や気の緩みに妨げられて彼らを慰め導かないなら、それは煩悩に染まらない違反です。 違反にならない場合とは、これまで述べたように、他の人の仕事を手助けしない場合と同様であると理解すべきです。

若諸菩薩安住菩薩淨戒律儀，有飲食等資生眾具，見有求者來正悕求飲食等事，懷嫌恨心、懷恚惱心，而不給施，是名有犯，有所違越，是染違犯。若由懶惰、懈怠、放逸，不能施與，非染違犯。無違犯者，若現無有可施財物；若彼悕求不如法物、所不宜物；若欲方便調彼、伏彼，廣說如前；若來求者王所匪宜，將護王意；若護僧制；而不惠施，皆無違犯。

> もしも菩薩が清らかな戒律を保ちながら、飲食などの生活必需品を求めに来る人に対して、嫌悪や怒りの心を抱いて与えないならば、それは戒律を破る過ちとなり、汚れた違反となる。もし怠惰や放逸のために与えられなかった場合は、汚れのない違反となる。ただし、以下の場合は違反とはならない。すなわち、与える財物が全くない場合、求める物が法にかなわないものやふさわしくないものである場合、相手を調伏するための方便として与えない場合（前述の通り）、求める者が王権に不適切であるため王の意向を考慮する場合、または僧団の決まりを守るために与えない場合である。

若諸菩薩安住菩薩淨戒律儀，攝受徒眾，懷嫌恨心，而不隨時無倒教授、無倒教誡；知眾匱乏，而不為彼從諸淨信長者、居士、婆羅門等，如法追求衣服、飲食、諸坐臥具、病緣醫藥資身什物，隨時供給；是名有犯，有所違越，是染違犯。若由懶惰、懈怠、放逸，不往教授、不往教誡、不為追求如法眾具，非染違犯。無違犯者，若欲方便調彼、伏彼，廣說如前；若護僧制；若有疹疾；若無氣力，不任加行；若轉請餘有勢力者；若知徒眾世所共知，有大福德，各自有力求衣服等資身眾具；若隨所應教授教誡，皆已無倒教授教誡；若知眾內有本外道，為竊法故來入眾中，無所堪能，不可調伏；皆無違犯。

> もし菩薩が清らかな戒律を守りながら、弟子を集めて指導する際に、憎しみや不満の心を抱いて、正しい教えや戒めを適切な時期に与えず、弟子たちが物資に乏しいのを知りながら、信心深い長者や在家信者、バラモンなどから、法にかなった方法で衣服や食べ物、寝具、薬などの生活必需品を求めず、必要な時にそれらを供給しないならば、それは戒律を破る過ちであり、煩悩に染まった違反となる。 もし単に怠惰や無気力、放逸のために教えや戒めを与えず、生活必需品を求めないのであれば、それは煩悩に染まらない違反となる。 ただし、次のような場合は違反ではない。弟子を調整し抑制するための方便としてそうする場合（詳細は前出の通り）。僧団の規則を守るため。病気にかかっている場合。体力がなくて行動できない場合。他の有力な者に依頼した場合。弟子たちが世間に知られるほどの大きな福徳を持ち、自ら衣服などの必需品を得る力があると知っている場合。既にふさわしい教えと戒めを正しく与えている場合。弟子の中に、教えを盗むために来た元外道がいて、能力がなく調伏できないと知っている場合。これらの場合は違反とはならない。

若諸菩薩安住菩薩淨戒律儀，懷嫌恨心，於他有情不隨心轉，是名有犯，有所違越，是染違犯。若由懶惰、懈怠、放逸，不隨其轉，非染違犯。無違犯者，若彼所愛非彼所宜；若有疾病；若無氣力，不任加行；若護僧制；若彼所愛雖彼所宜，而於多眾非宜、非愛；若為降伏諸惡外道；若欲方便調彼、伏彼，廣說如前；不隨心轉，皆無違犯。

> もし菩薩が菩薩の清らかな戒律を安住し、嫌悪や恨みの心を抱いて、他の衆生の気持ちに従わずに行動しないならば、それは犯戒となり、違反となる。これは煩悩に染まった違犯である。もし怠惰、懈怠、放逸によって、その気持ちに従わないならば、それは煩悩に染まらない違犯である。違犯とならない場合とは、相手の好むことがその人にとって適切でない場合、病気の場合、気力がなくて行動できない場合、僧団の規則を守る場合、相手の好むことがその人にとって適切であっても多くの人にとっては適切でなく好まれない場合、悪しき外道を調伏するため、または相手をうまく導き調伏しようとする方便を用いる場合など、先に広く説いた通りである。このように心に従って動かないとしても、いずれも違犯とはならない。

若諸菩薩安住菩薩淨戒律儀，懷嫌恨心，他實有德不欲顯揚，他實有譽不欲稱美，他實妙說不讚善哉，是名有犯，有所違越，是染違犯。若由懶惰、懈怠、放逸，不顯揚等，非染違犯。無違犯者，若知其人性好少欲，將護彼意；若有疾病；若無氣力；若欲方便調彼、伏彼，廣說如前；若護僧制；若知由此顯揚等緣，起彼雜染憍舉無義，為遮此過；若知彼德雖似功德，而非實德；若知彼譽雖似善譽，而非實譽；若知彼說雖似妙說，而實非妙；若為降伏諸惡外道；若為待他言論究竟；不顯揚等，皆無違犯。

> もし菩薩が菩薩の清らかな戒律に安住しながら、嫌悪や恨みの心を抱いて、他者に実際に徳があるのにそれを顕彰せず、他者に実際に誉れがあるのにそれを称賛せず、他者が素晴らしい説法をしても「よく言った」と賛嘆しないならば、それは犯戒であり、戒律に違反するもので、煩悩に染まった違反である。もし、怠惰・懈怠・放逸によって顕彰などをしないならば、それは煩悩に染まらない違反である。違反にならない場合とは、その人が元々少欲であることを知って、その心を尊重するとき。病気のとき。気力がないとき。その人を調伏するための方便として、前述のように行うとき。僧団の規則を守るとき。この顕彰などによって、その人に慢心や雑染、無意味な高ぶりが生じることを知って、その過失を防ごうとするとき。その人の徳が功徳のように見えても実際には徳でないと知るとき。その人の誉れが良い誉れのように見えても実際には誉れでないと知るとき。その人の説法が素晴らしい説法のように見えても実際には素晴らしくないと知るとき。邪悪な外道を降伏するため。他者の論議が終わるのを待つため。これらの場合、顕彰などをしなくても違反にはならない。

若諸菩薩安住菩薩淨戒律儀，見諸有情應可訶責、應可治罰、應可驅擯，懷染污心而不訶責；或雖訶責，而不治罰、如法教誡；或雖治罰、如法教誡，而不驅擯；是名有犯，有所違越，是染違犯。若由嬾惰、懈怠、放逸，而不訶責乃至驅擯，非染違犯。無違犯者，若了知彼不可療治，不可與語，憙出麁言，多生嫌恨，故應棄捨；若觀待時；若觀因此鬪訟諍競；若觀因此令僧諠雜、令僧破壞；知彼有情不懷諂曲，成就增上猛利慚愧，疾疾還淨；而不訶責乃至驅擯，皆無違犯。

> もし菩薩が菩薩の清らかな戒律を保ちながら、戒めるべき、罰すべき、追放すべき人々を見ても、心に汚れを抱いて戒めなかったり、戒めても罰さずに法に従って教え諭さなかったり、罰して法に従って教え諭しても追放しなかったなら、それは戒律を犯し、違反したことになり、汚れた違反となります。 もし怠けや怠慢、放逸から戒めず、追放もしなかったなら、それは汚れのない違反です。 違反にならない場合とは、その人がもはや矯正できず、話し合いもできず、荒い言葉を好み、恨みを多く抱くために、見放すべきだと理解しているとき。 あるいは、時機を待つべきと判断するとき。 あるいは、それによって争いや訴訟が起こると観察するとき。 あるいは、それによって僧団が騒がしくなり、分裂すると観察するとき。 あるいは、その人が偽り心なく、強い罪悪感と深い恥の心を持ち、すぐに清らかに戻るので、戒めず追放しなくても、いずれも違反にはなりません。

若諸菩薩安住菩薩淨戒律儀，具足成就種種神通變現威力，於諸有情，應恐怖者能恐怖之，應引攝者能引攝之，避信施故，不現神通恐怖、引攝，是名有犯，有所違越，非染違犯。無違犯者，若知此中諸有情類多著僻執，是惡外道，誹謗賢聖，成就邪見，不現神通恐怖、引攝，無有違犯。

> もし菩薩が、菩薩としての清らかな戒律を保ち、さまざまな神通や変幻自在の力が完全に備わっているなら、迷える人々に対して、恐怖を与えるべき人には恐怖を与え、導くべき人には導くことができるのに、信者からの施しを避けるためにあえて神通力を示さず、恐怖や導きを行わないなら、それは違反であり、戒律を破ることになる。ただし、これは煩悩に染まらない軽い違反である。 違反とならない場合もある。もし、その人々が頑なな偏見に執着し、邪悪な外道であり、賢者や聖者を誹謗し、誤った見解を持っていると知っていて、神通力で恐怖や導きを行わないなら、それは違反ではない。

又一切處無違犯者，謂若彼心增上狂亂，若重苦受之所逼切，若未曾受淨戒律儀，當知一切皆無違犯。

> また、いかなる場合も違反とならない場合とは、その心がひどく狂乱しているとき、激しい苦痛に苛まれているとき、あるいは清らかな戒律や儀式を受けていないときを指す。これらに該当する場合は、すべて違反にはならないと知るべきである。

復次，如是所起諸事菩薩學處，佛於彼彼素怛纜中隨機散說，謂依律儀戒、攝善法戒、饒益有情戒。今於此菩薩藏摩呾履迦綜集而說，菩薩於中應起尊重，住極恭敬，專精修學。是諸菩薩從他正受戒律儀已，由善清淨求學意樂、菩提意樂、饒益一切有情意樂，生起最極尊重恭敬，從初專精不應違犯。

> また、このように生じる諸々の事柄に関する菩薩の学処について、仏は各々の経典の中で機に応じて散見されるかたちで説かれている。すなわち、律儀戒・摂善法戒・饒益有情戒に基づくものである。今、この菩薩蔵の論蔵において総合して説かれるのであり、菩薩はこれに対して尊重の心を起こし、極めて恭敬の念を持ち、専らに精進して学修すべきである。これらの菩薩は、他から正しく戒律の儀軌を受け継いだ後、善く清らかな求法学ぶ意楽、菩提の意楽、一切の有情を益する意楽によって、極めて最高の尊重と恭敬の念を生じさせ、最初から専らに精進して違反してはならない。

設有違犯，即應如法疾疾悔除，令得還淨。又此菩薩一切違犯，當知皆是惡作所攝，應向有力於語表義能覺能受小乘、大乘補特伽羅，發露悔滅。若諸菩薩以上品纏違犯如上他勝處法，失戒律儀，應當更受。若中品纏違犯如上他勝處法，應對於三補特伽羅，或過是數，應如發露除惡作法，先當稱述所犯事名，應作是說：長老專志！或言：大德！我如是名，違越菩薩毘奈耶法，如所稱事犯惡作罪。餘如苾芻發露悔滅惡作罪法，應如是說。若下品纏違犯如上他勝處法及餘違犯，應對於一補特伽羅，發露悔法，當知如前。若無隨順補特伽羅可對發露，悔除所犯，爾時菩薩以淨意樂，起自誓心：我當決定防護當來終不重犯。如是於犯還出還淨。

> たとえ過ちを犯しても、ただちに正しい方法に従って速やかに悔い改め清め、再び清らかに戻らなければならない。また、この菩薩のすべての過ちは、悪作（あくさ）に含まれるものであり、言葉や意味を理解し受け止める能力のある、声聞乗（小乗）または菩薩乗（大乗）の修行者に向けて告白し、滅し尽くすべきである。 もし菩薩が強度の煩悩（上品の纏）によって、前述の他勝処法（たしょうしょほう）を犯したならば、戒律の儀軌を失うため、改めて受戒しなければならない。 もし中程度の煩悩（中品の纏）によって、前述の他勝処法を犯したならば、三人またはそれ以上の修行者の前で、告白して過ちを除く作法を行うべきである。その際は、先に犯した事柄の名前を述べ、「長老よ、心を集中してください」あるいは「大徳よ、私はこれこれの名の者が、菩薩の戒律（毘奈耶）に背き、申し上げた事柄について悪作罪を犯しました」と語る。これ以降は、比丘（びく）が悪作罪を告白して滅する方法に従って、同様に述べるべきである。 もし弱度の煩悩（下品の纏）によって、前述の他勝処法やその他の過ちを犯したならば、一人の修行者の前で告白し悔いる方法を用いる。その方法は先に述べた通りである。 もし告白するのに適した修行者が周囲にいない場合は、その時、菩薩は清らかな心で自ら誓いを立てる。「私は今後、必ず心を決して再び犯さないように防護しよう」と。こうして、過ちから脱し清らかさに戻るのである。

又諸菩薩欲受菩薩淨戒律儀，若不會遇具足功德補特伽羅，爾時應對如來像前，自受菩薩淨戒律儀。應如是受，偏袒右肩，右膝著地，或蹲、跪、坐，作如是言：我如是名，仰啟十方一切如來、已入大地諸菩薩眾，我今欲於十方世界佛菩薩所，誓受一切菩薩學處，誓受一切菩薩淨戒。謂律儀戒、攝善法戒、饒益有情戒。如是學處、如是淨戒，過去一切菩薩已具，未來一切菩薩當具，普於十方現在一切菩薩今具。於是學處、於是淨戒，過去一切菩薩已學，未來一切菩薩當學，普於十方現在一切菩薩今學。第二、第三亦如是說，說已應起。所餘一切如前應知。

> さらに、諸菩薩が清らかな菩薩戒の律儀を受けようとするとき、もしも十分な功徳を備えた人格者に出会わない場合は、その時は如来の御前で自ら清らかな菩薩戒の律儀を受けるべきです。次のように行います。右肩を露出し、右膝を地につけるか、あるいはしゃがむか、ひざまずくか、座った姿勢で、次のように言います。「わたくしは（自分の名前）と申します。十方のすべての如来、すでに大地に達した諸菩薩の衆に申し上げます。わたくしは今、十方世界の諸仏・諸菩薩のもとで、すべての菩薩の学処を受けることを誓い、すべての菩薩の清らかな戒を受けることを誓います。すなわち、戒律の戒、善法を摂する戒、有情を利益する戒です。この学処、この清らかな戒は、過去のすべての菩薩がすでに具え、未来のすべての菩薩がまさに具え、十方の現在のすべての菩薩が今具えています。この学処、この清らかな戒は、過去のすべての菩薩がすでに学び、未来のすべての菩薩がまさに学び、十方の現在のすべての菩薩が今学んでいます。」二回目、三回目も同様に唱えます。唱え終わったら立ち上がります。その他はすべて、前に述べたように知るべきです。

又於菩薩犯戒道中，無無餘犯。如世尊說：是諸菩薩多分應與瞋所起犯，非貪所起。當知此中所說密意。謂諸菩薩愛諸有情、憐諸有情增上力故，凡有所作一切皆是菩薩所作，非非所作；非作所作可得成犯。若諸菩薩憎諸有情、嫉諸有情，不能修行自他利行，作諸菩薩所不應作；作不應作可得成犯。又諸菩薩軟中上犯，如攝事分應當了知。

> また、菩薩の戒を破る道において、完全な破戒（無余の犯）は存在しません。世尊がおっしゃったように、「これらの菩薩には、多くは怒りから生じる破戒があり、欲から生じる破戒はない」とあります。ここに示された深い意図を理解すべきです。すなわち、菩薩は有情を愛し、哀れむという強い力によって、行うことすべてが菩薩のなすべき行いとなり、なすべきでない行いはありません。なすべき行いをすることによって破戒が生じることはありません。もし菩薩が有情を憎み、嫉妬し、自他の利益のための修行をせず、菩薩として行うべきでないことを行うならば、そのような行いによって破戒が生じることがあります。また、菩薩の破戒には軽いもの、中程度のもの、重いものがあり、これらは『摂事分』に従って理解すべきです。

如是菩薩依止一切自毘奈耶勤學所學，便得成就三種圓滿，安樂而住。一者、成就加行圓滿，二者、成就意樂圓滿，三者、成就宿因圓滿。云何名為加行圓滿？謂諸菩薩於淨戒中行無缺犯，於身語意清淨現行，不數毀犯發露自惡。如是名為加行圓滿。云何名為意樂圓滿？謂諸菩薩為法出家，不為活命；求大菩提，非為不求；為求沙門、為求涅槃，非為不求。如是求者，不住懈怠下劣精進，不雜眾多惡不善法、雜染後有、有諸熾然眾苦異熟、當來所有生老病死。如是名為意樂圓滿。云何名為宿因圓滿？謂諸菩薩，昔餘生中修福修善，故於今世種種衣服、飲食、臥具、病緣醫藥資身什物自無匱乏，復能於他廣行惠施。如是名為宿因圓滿。菩薩如是依毘奈耶勤學所學，成就如是三種圓滿，安樂而住。與此相違，當知成就三種衰損，危苦而住。

> このように、菩薩は自らの戒律（ヴィナヤ）に従い、学ぶべきことを熱心に学び続ければ、三つの完成を成就し、安らかにとどまることができます。 一つ目は、「修行の完成」です。二つ目は、「心の意志の完成」です。三つ目は、「過去の因縁の完成」です。 では、「修行の完成」とは何でしょうか？ 菩薩たちは清净な戒律を守り、身・言葉・心の行いが清净で、欠けるところがありません。過ちを繰り返し犯すことなく、自分の悪を隠さずに告白します。これを「修行の完成」といいます。 では、「心の意志の完成」とは何でしょうか？ 菩薩たちは法のため、すなわち真理を求めて出家し、生活のために出家するのではありません。大いなる悟りを求め、それを求めないことはありません。沙門（修行者）の境地や涅槃（安らぎの境地）を求め、それを求めないことはありません。このように求める者は、怠惰や劣った努力にとどまらず、多くの悪い不善の法や、煩悩に染まった未来の存在（再生）や、激しい苦しみの報い、また未来の生・老・病・死を混ぜ合わせることはありません。これを「心の意志の完成」といいます。 では、「過去の因縁の完成」とは何でしょうか？ 菩薩たちは、過去の生涯において、福徳や善行を積んできました。そのため、現在の世において、衣服・食べ物・寝具・病気のための薬や身の回りの品々に不足することがありません。さらに、他の人々にも広く施しを行うことができます。これを「過去の因縁の完成」といいます。 このように、菩薩は戒律（ヴィナヤ）に従い、学ぶべきことを熱心に学び、この三つの完成を成就して、安らかにとどまります。 これとは反対の場合は、三つの欠損（衰損）を成就し、危険と苦しみの中にとどまることになると知るべきです。

如是略廣宣說菩薩若在家品、若出家品一切戒已。自斯已後，即於如是一切戒中，分出所餘難行戒等差別之相，應當了知。

> 以上のように、在家の菩薩と出家の菩薩のための一切の戒を、簡潔にまた詳細に説き明かしました。 これより後は、まさにこれらすべての戒の中から、残りの修行が難しい戒などの様々な違いを分け出して、よく理解すべきです。

## 瑜伽師地論卷第四十一

> 瑜伽師地論 巻第四十一