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title: "瑜伽師地論 · 1目 供養"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
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云何菩薩於如來所供養如來？

> どのようにして菩薩は如来のもとで如来を供養するのでしょうか。

當知供養略有十種。一、設利羅供養、二、制多供養，三、現前供養，四、不現前供養，五、自作供養，六、教他供養，七、財敬供養，八、廣大供養，九、無染供養，十、正行供養。

> 供養には、おおよそ十種類があります。第一に舎利供養、第二に塔廟供養、第三に目前供養、第四に不在供養、第五に自ら行う供養、第六に他者に勧める供養、第七に財物と恭敬による供養、第八に広大な供養、第九に清らかな供養、第十に正しい行いによる供養です。

若諸菩薩，親現供養如來色身，是名設利羅供養。

> 菩薩が如来の色身に直接供養することを、舎利供養と呼びます。

若諸菩薩，於為如來所造一切若窣堵波、若龕、若臺、若故制多、新制多所設諸供養，是名制多供養。

> もしいろいろな菩薩が、如来のために造られたあらゆるストゥパ（仏塔）や龕（厨子）、台座、古い仏塔、新しい仏塔に対して、さまざまな供養を行うならば、これを「制多（仏塔）供養」と呼びます。

若諸菩薩，於如來身、或制多所親面對前，現矚現見而設供養，是名現前供養。若諸菩薩，於如來所、若制多所，現前施設供養具時，發起增上意樂俱心、淨信俱心，作是思惟：若一如來法性，即是去來今世一切如來法性；若一如來制多法性，即是十方無邊無際一切世界所有如來制多法性。

> もし菩薩が、如来の御身あるいは塔（制多）の前で、直接対面し、目の当たりに見て供養を設けるならば、これを「現前供養」といいます。 また、もし菩薩が、如来あるいは塔に対して、目の前で供養具を設ける際、深い志を伴った心と清らかな信心を伴った心を起こし、このように思惟します。 「もし一つの如来の法性があるならば、それはすなわち過去・未来・現在のすべての如来の法性である。もし一つの如来の塔の法性があるならば、それはすなわち十方の果てしなく広がるすべての世界にある、すべての如来の塔の法性である。」と。

是故我今供現如來，即是供養其餘三世一切如來；供現制多，即是供養其餘十方無邊無際一切世界若窣堵波、若龕、若臺、若故制多、若新制多。當知是名菩薩俱供現不現前一切如來及以制多。

> 故に、私は今、現前の如来に供養することが、すなわち他の三世のすべての如来を供養することとなり、また、現前の仏塔（制多）に供養することが、すなわち十方の限りない世界にある、あらゆる仏塔、龕、台、古い仏塔、新しい仏塔をも供養することとなるのです。これを、菩薩が現前・非現前のすべての如来と仏塔を共に供養する、と知るべきです。

若諸菩薩，於不現前一切如來及以制多作如來想，普為三世一切如來、一切十方如來制多施設供養，當知是名菩薩唯供不現前佛及以制多。

> もし諸々の菩薩が、目に見えない全ての如来や仏塔を如来として思い、三世の一切の如来、十方の全ての如来と仏塔に対して供養を施すならば、これを菩薩が現前しない仏と仏塔に対してのみ供養を行うと知るべきである。

若諸菩薩，佛涅槃後，為如來故造立形像，若窣堵波、若龕、若臺，隨力隨能或一或二，或復眾多，乃至百千俱胝等數；如是菩薩於如來所，設不現前弘廣供養，當獲無量大福德果，攝受無量廣大梵福。

> もし菩薩たちが、仏陀の涅槃後、如来のために立像や仏塔、龕（くつま）、台座などを作りたてるならば、その力と能力に応じて、一つ、二つ、あるいは多く、百千億に及ぶ数でもよい。このように菩薩が、如来の御前でなくとも広大な供養をなしたならば、彼らは計り知れない大きな福徳の果報を得て、無量の広大な梵天の福を自らのものとするであろう。

菩薩由此，能於無量劫大劫中，不墮惡趣。

> 菩薩はこのことによって、無量の劫（こう）や大劫の間、悪い世界に落ちることがありません。

由是因緣，非不圓滿無上正等菩提資糧。

> このような因縁によって、無上の正しい悟りを得るための資糧が欠けることはありません。

此中菩薩，唯供現前佛及制多，應知獲得廣大福果。

> ここにおいて、菩薩は目前の仏と塔（ストゥーパ）のみを供養することで、広大な福徳の果報を得ることができると知るべきである。

若唯供養不現前佛及以制多，應知獲得大大福果。

> もしただ、目の前に現れていない仏や、仏塔（仏舎利を納めた塔）だけを供養したとしても、知っておくべきです。それは非常に大きな福徳の果報をもたらすのです。

若俱供養現不現前佛及制多，應知獲得最大福果，為無有上。

> 現に目の前におられる仏様と、現前していない仏様や仏塔（卒塔婆）の両方を供養するならば、最大かつ比類なき福徳の果報を得られることを知るべきである。

若諸菩薩，於如來所、若制多所欲設供養，唯自手作，不使奴婢、作使、朋友、僚庶、親屬，不依懈惰諸放逸處而設供養，是名菩薩自作供養。若諸菩薩，於如來所、若制多所欲設供養，非唯自作，亦勸父母、妻子、奴婢、作使、朋友、僚庶、親屬，及他國王、王子、大臣、長者、居士、若婆羅門、國邑聚落饒財商主，下至一切男女大小、貧匱苦厄旃荼羅等，及以親教、軌範諸師，共住、近住一切弟子，同梵行者、諸出家者、外道等眾，令於如來、若制多所，隨力隨能作諸供養，當知是名菩薩自他咸共供養。若諸菩薩，現有少分可供財物，興悲愍心，故思施與貧苦少福無力有情，令於如來、若制多所持用供養，願彼當來多受安樂。彼得此物，供養如來及以制多，菩薩於斯自無所供，當知是名菩薩唯教他設供養。

> もし諸菩薩が、如来の御前や仏塔（制多）において供養をしようと思うならば、ただ自らの手で行い、奴婢や使用人、友人、家来、親族にはさせず、怠惰や放逸の状態に依らずに供養を行う。これを、菩薩が自ら行う供養という。 もし諸菩薩が、如来の御前や仏塔において供養をしようと思うならば、自らのみで行うだけでなく、父母、妻、子、奴婢、使用人、友人、家来、親族、さらには他国の王、王子、大臣、長者、居士、婆羅門、国や邑や村々の資産豊かな商人の主、そしてあらゆる男女、老若、貧しく苦しむ旃荼羅などに至るまで、また、親教師や軌範師、共に住む者や近くに住む全ての弟子、同じく梵行を修行する者、出家者、外道などの人々に対しても、如来の御前や仏塔において、それぞれの力に応じ、能力に応じて様々な供養を行うよう勧める。これを、菩薩が自他共に供養するという。 もし諸菩薩が、わずかな供養のための財物を持っているとき、悲愍の心を起こして、わざと貧しくて福徳が少なく力のない有情に施し与え、彼らに如来の御前や仏塔でその物を用いて供養させ、彼らが将来、多くの安楽を受けることを願うとする。彼らはこの物を得て如来や仏塔に供養するが、菩薩自身は何も供養しない。これを、菩薩がただ他者に教えて供養させるという。

此中菩薩，若唯自供佛及制多，應知獲得廣大福果。若唯教他，應知獲得大大福果。若能自他俱共供養，應知獲得最大福果，為無有上。

> ここで、菩薩が独りで仏や塔に供養するならば、広大な福徳の果報を得ると知るべきです。また、ただ他人に教えるだけならば、さらに大きな福徳の果報を得ると知るべきです。自ら行い、かつ他人にも教えて共に供養するならば、最も大いなる福徳の果報を得ると知るべきであり、これに勝るものはありません。

若諸菩薩，於如來所、若制多所，以諸衣服、飲食、臥具、病緣醫藥供身什物，敬問、禮拜、奉迎、合掌，種種熏香、末香、塗香、華鬘、伎樂、幢蓋、幡燈，歌頌稱讚，五輪歸命，趨遶右旋，而為供養。或復奉施無盡財供，或復奉施末尼、真珠、琉璃、䗍貝、璧玉、珊瑚、車𤦲、馬碯、虎魄金銀、赤珠、右旋如是等寶，或復奉施末尼、環玔、寶璩、印等諸莊嚴具，乃至奉施種種寶鈴，或散珍奇、或纏寶縷而為供養。是名菩薩於如來所、若制多所財敬供養。

> もし菩薩が、如来のもと、あるいは仏塔（制多）のもとにおいて、様々な衣服、飲食、寝具、病気のための薬や医療品、生活に必要な品々を捧げ、敬い問うたり、礼拝したり、出迎えたり、合掌したり、さらに多くの種類の薫香、粉末の香、塗り香、花の飾り、音楽、幢（旗）、蓋（天蓋）、幡（のぼり）、灯明などを使い、歌や賛歌で称え、五体投地（五輪帰命）して敬意を表し、右に三度回って（右旋）供養するならば。あるいはまた、尽きることのない財宝を捧げたり、あるいはまた、摩尼宝珠、真珠、琉璃、ほら貝、璧玉（壁玉）、珊瑚、車渠（シャコ）、碼碯（メノウ）、琥珀、金、銀、赤真珠、右旋の螺貝などの宝を捧げたり、あるいはまた、摩尼宝珠の腕輪や飾り輪、宝の腕飾り、印など様々な装飾品を捧げ、さらにまた様々な宝の鈴を捧げたり、珍しい宝を散りばめたり、宝の糸を巻き付けたりして供養するならば。これを、菩薩が如来のもと、あるいは仏塔のもとで行う「財と敬意による供養」と呼ぶのである。

若諸菩薩，於如來所、若制多所，長時施設即上所陳財敬供養，若多供具、若妙供具、若現在前、不現在前、若自造作、教他造作、若淳淨心猛利勝解現前供養；即以如是所種善根，迴向無上正等菩提，如是七種說名菩薩廣大供養。

> もし菩薩たちが如来や仏塔（卒塔婆）のもとで、長い間、先に述べたような財物や敬意による供養を行ったならば——多くの供物や、優れた供物を、目の前で、または目の前でなくとも、自ら作り、また他の人に作らせ、清らかで誠実な心と強い確信をもって目の前で供養する——そうして植えた善根を、無上の正しい悟り（阿耨多羅三藐三菩提）に向けて回向するならば、これらの七つの種類を、菩薩の広大な供養と呼ぶのである。

若諸菩薩，於如來所、若制多所，自手供養不懷輕慢；令他供養；不住放逸、懈惰、不敬而為供養；不輕棄擲、不散慢心、無雜染心而為供養；不於信佛國王、大臣、諸貴勝前，為財敬故，詐設種種虛事供養；不雌黃塗，不酥灌洗，不以種種局崛羅香、遏迦花等餘不淨物而為供養。如是六種說名菩薩無染供養。

> もし諸々の菩薩が、如来のもと、あるいは仏塔（ストゥーパ）のもとで、自らの手で供養を行う際、軽んじたり怠ったりせず、また他者にも供養させ、放逸や懈怠、不敬の心なく供養を行い、粗末に投げ捨てたり、散漫な心や雑染の心なく供養を行う。仏の国を信じる国王、大臣、高貴な人々などの前で、財産や敬意を得るために、偽って様々な虚構の供養を施すようなことはしない。また、雄黄（おうごう）を塗ったり、酥油（そゆ）で灌洗したり、種々の局崛羅香（きょくくつらこう）や遏迦花（あつかげ）などの清らかでない物を供養に用いたりしない。この六つのことを、菩薩における「無雑染の供養」と説くのである。

又諸菩薩，如是財敬、廣大、無染供養如來及制多時，或自臂力所集財寶，或從他求所獲財寶，或得眾具自在財寶，能為如是種種供養。

> また、菩薩たちが、このようにして財物による恭敬のこころをもって、広大で清らかな供養を如来や仏塔に行うとき、自らの力で集めた財宝であれ、他の人から求めて得た財宝であれ、あるいは様々な道具を自在に手に入れて得た財宝であれ、このような様々な供養を行うことができるのです。

已得眾具自在菩薩，化作化身，或一或二，或復眾多，乃至百千俱胝等數。此一切身皆於如來及制多所恭敬禮拜。

> 菩薩の中には、すでにあらゆる満足を得て自在となった者がいる。彼は化身を現わす。ある時は一つ、ある時は二つ、さらに幾多もの数、あるいは百千俱胝（無数）にまで及ぶ。これらの全ての身は、如来や仏塔（制多）のもとで恭敬し礼拝する。

復從如是一一化身，化出多手，或百或千，或過是數。此一切手皆持無量出過諸天上妙華香、殊勝可愛種種珍寶，奉散如來及制多所。

> さらに、これらの一つ一つの化身から、さらに多くの手が現れることもあります。その手の数は百にも千にも、あるいはそれ以上に及ぶこともあります。これらのすべての手は、天界のあらゆるものを超える無量の妙なる花や香り、素晴らしく愛らしい様々な宝を手に持ち、それを如来や塔（制多）に向かって捧げ散らします。

復從如是一切化身，化出無量上妙音聲，歌讚如來廣大甚深真實功德。

> さらに、これらのすべての化身から、限りない優れた音声が生まれ、如来の広大で深遠な真実の功徳を歌い称えました。

復從如是一切化身，化出無量最上最妙環玔、璩印、寶莊嚴具，幢蓋、幡燈種種供具，供養如來及以制多。如是等類，已得眾具自在菩薩所設供養，皆屬自心。

> さらに、これらのすべての化身から、無量の最も優れ、最も妙なる腕輪、印章、宝の荘厳具、幢蓋、幡灯など、さまざまな供養具を化現し、如来や塔廟（とうびょう）を供養しました。このような類の供養は、すでに一切の具足を自在に得た菩薩が設けたものであり、すべて自らの心に属するものです。

如是菩薩不更希求如來出世。何以故？由此菩薩已得證入不退轉地，一切佛土往來供養皆無礙故。

> かくのごとく、菩薩はもはや如来の出現を願い求めることはありません。なぜなら、この菩薩はすでに不退転の境地を証得し、すべての仏国土に往来して供養することに何の妨げもないからです。

又諸菩薩，若無自力所集財寶，亦無從他求得財寶，及無菩薩所獲眾具自在財寶，可設供養；然於所有或贍部洲、或四大洲、或千世界、二千世界、或復三千大千世界，乃至十方無邊無際諸世界中，下中上品供養如來一切供具，菩薩於彼以淨信俱勝解俱心，周遍思惟，一切隨喜。如是菩薩少用功力，而興無邊廣大供養，攝受菩提廣大資糧。

> さらに、諸々の菩薩が、自らの力で集めた財宝がなく、他人から求めて得た財宝もなく、菩薩が得る様々な供養具や自在の財宝もなく、供養を設けることができない場合がある。しかし、あらゆる閻浮提、または四大洲、あるいは千世界、二千世界、あるいは三千大千世界、さらには十方の果てしなく限りのない諸々の世界における、下品・中品・上品の如来への供養の一切の供具について、菩薩はそれらに対して清らかな信と深い理解を伴った心をもって、広く思い巡らし、一切を歓喜するのである。このように菩薩はわずかな努力をもって、限りなく広大な供養を起こし、悟りへの広大な資糧を積み集めるのである。

菩薩於此恒常無間起真善心、起歡喜心，當勤修學。

> 菩薩は、この教えに対して常に途切れることなく、真実の善い心と喜びの心を起こし、精進して学び修めるべきです。

若諸菩薩，少時少時、須臾須臾，乃至下如搆牛乳頃，普於一切蠢動有情修習慈悲喜捨俱心。

> たとえ菩薩が、ほんの短い間、牛の乳を搾るほどの僅かな時間でも、あらゆる生きとし生けるものに対して、慈・悲・喜・捨の心を共に修めるならば。

於一切行修無常想、無常苦想、苦無我想。

> あらゆる行（つくりごと）に対して、無常であるという想いを修めなさい。無常であることは苦しみであるという想いを、苦しみには自己という実体がないという想いを修めなさい。

於其涅槃修勝利想，於佛法僧、波羅蜜多修習隨念；少時少時、須臾須臾，於一切法發生少分下劣忍智，信解離言法性真如，起無分別無相心住；何況於此若過若增。

> 涅槃について勝利の想いを修し、仏法僧や波羅蜜多について随念を修習する。短い時間であれ、一瞬であれ、すべての法に対して少しばかりの下劣な忍びの智慧を起こし、言葉を離れた法性・真如を信解し、無分別・無相の心の住まいを起こす。ましてや、これよりも勝れているものや増しているものについてはなおさらである。

如是守護菩薩所受尸羅律儀，於奢摩他、毘鉢舍那、菩提分法精勤修學，亦於一切波羅蜜多及諸攝事正勤修學。是名菩薩於如來所正行供養。

> このように、菩薩は自身が受けた戒律を守り、心の安定（奢摩他）と物事を観察する智慧（毘鉢舎那）、そして悟りに至るための修行法（菩提分）に励みます。また、すべての波羅蜜多（完全な修行）や人を導く四つの方法（摂事）にも熱心に修行します。これこそが、如来に対して真実の供養を行うことなのです。

如是供養為最第一、最上、最勝、最妙、無上。如是供養，過前所說具一切種財敬供養，百倍、千倍，乃至鄔波尼殺曇倍。

> このような供養こそが、最も第一であり、最も優れ、最も勝れ、最も妙であり、この上ないものです。このような供養は、先に述べたあらゆる財物や敬いによる供養よりも、百倍、千倍、さらにはウパニシャダ倍も勝れているのです。

由此十相，應知是名具一切種供養如來。

> この十の特徴によって、これを「あらゆる種類の如来への供養を具えたもの」と知るべきです。

如供養佛，如是供養若法、若僧。隨其所應，當知亦爾。

> 仏を供養するように、法や僧侶も供養しなさい。それぞれにふさわしい方法で行えば、同様の功徳があると知るべきです。

如是菩薩於三寶所，由十種相興供養時，應緣如來發起六種增上意樂。一者、無上大功德田，增上意樂；二者、無上有大恩德，增上意樂；三者、一切無足、二足及多足等有情中尊，增上意樂；四者、猶如鄔曇妙華極難值遇，增上意樂；五者、獨一出現三千大千世界，增上意樂；六者、一切世出世間功德圓滿一切義依，增上意樂。由是六種增上意樂，於如來所，若於如來法所、僧所，少分思惟而興供養，尚獲無量大功德果，何況其多。

> このように菩薩が、仏・法・僧の三宝に対して、十の相をもって供養を捧げる時、如来に対して六つの増上意楽（強い清らかな心）を起こすべきです。 第一に、如来はこの上ない大きな功徳の田であるという増上意楽。 第二に、如来はこの上なく大きな恩徳を持つ方であるという増上意楽。 第三に、如来はすべての無足・二足・多足の生きとし生けるものの中で最も尊い方であるという増上意楽。 第四に、如来は優曇華のように非常に出会い難い方であるという増上意楽。 第五に、如来は三千大千世界にただ一人現れる方であるという増上意楽。 第六に、如来はすべての世間・出世間の功徳が円満し、一切の意味のよりどころであるという増上意楽。 この六つの増上意楽によって、もし如来に対し、また如来の教えや僧に対して、ほんのわずかでも心を留めて供養を捧げるならば、計り知れない大きな功徳の果報を得ることができ、ましてや多くを捧げればなおさらです。