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title: "瑜伽師地論 · 15目 四種法嗢拕南"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cma8zhu0a04t0ib04ez0qpila"
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## 瑜伽師地論卷第四十六

> 瑜伽師地論 第四十六巻

彌勒菩薩說

> 弥勒菩薩の教え

三藏法師玄奘奉　詔譯

> 三蔵法師玄奘奉詔訳

### 本地分中菩薩地第十五初持瑜伽處菩提分品第十七之三

> 第15章 菩薩地 初持瑜伽處 菩提分品 第17章の3

復有四種法嗢拕南，諸佛菩薩欲令有情清淨故說。何等為四？一切諸行皆是無常，是名第一法嗢拕南。一切諸行皆悉是苦，是名第二法嗢拕南。一切諸法皆無有我，是名第三法嗢拕南。涅槃寂靜，是名第四法嗢拕南。

> さらに、仏や菩薩が人々を清らかに導くために説かれた、四つの重要な教え（ウッダーナ）があります。その四つとは何でしょうか。 第一の教え：この世のすべての現象（行）は、常に移り変わるものです。 第二の教え：すべての現象（行）は、本質的に苦しみを伴うものです。 第三の教え：あらゆるもの（法）には、永遠不変の実体（我）はありません。 第四の教え：涅槃（煩悩を滅した境地）こそが、真の静けさと安らぎです。

諸佛菩薩多為有情宣說如是法相應義，是故說名法嗢拕南。又從曩昔，其心寂靜諸牟尼尊，於一切時展轉宣說，是故說此名嗢拕南。又此行迹能趣大生，亦復能趣出第一有，是故說此名嗢拕南。

> 諸仏菩薩は、悟りを求める衆生のために、このような真理にかなった教えを広く説かれます。そのため、これを「法の要約」と呼びます。また、遠い昔から心静かな聖者たちが、絶え間なく説き伝えてきたため、これを「要約」と名付けました。さらに、この実践の道筋は大きな悟りへと導き、また究極の解脱へも導くため、これを「要約」と称するのです。

云何菩薩等隨觀察一切諸行皆是無常？

> どのように菩薩は、あらゆる存在の営みがすべて無常であると、正しく観察するのでしょうか？

謂諸菩薩，觀一切行言說自性，於一切時常無所有。如是諸行常不可得，故名無常。

> あらゆる菩薩たちは、あらゆる行為や言葉の本質を見極め、それが常に実体のないものであると観じています。このように、あらゆる行為には永遠に変わらない実体はなく、それゆえに「無常」と呼ばれます。

又即觀彼離言說事，由不了知彼真實故；無知為因，生滅可得。如是諸行離言自性有生有滅，故名無常。

> また、その言葉を離れた真理について観察すると、その真理を正しく理解しないことによって、無知を原因として生滅が現れる。このように、諸々の現象は言葉を離れた自性を持ちながらも生じたり滅したりするので、無常と呼ばれる。

又諸菩薩，觀過去行已生已滅，由彼諸行無因可得，亦無自性，是故觀彼因性、自性皆無所有。觀現在行已生未滅，由彼諸行因不可得，已與果故；自性可得，猶未滅故；是故觀彼自性是有，而無有因。觀未來行未生未滅，由彼諸行有因可得，未與果故；無有自性，猶未生故；是故觀彼唯有因性，而無自性。

> また、諸々の菩薩は、過去の営み（行）を観察すると、それはすでに生じては消え去ったものです。それらの営みには因（原因）もなく、また自性（固有の本質）もありません。ゆえに、それらの因としての性質も自性も、すべて存在しないと観察します。 次に、現在の営みを観察すると、それはすでに生じているが、まだ消えてはいません。それらの営みには因は見出せません。すでに結果をもたらしたからです。しかし自性は見出せます。まだ消えていないからです。ゆえに、それらの自性は存在するが、因は存在しないと観察します。 最後に、未来の営みを観察すると、それはまだ生じておらず、消えてもいません。それらの営みには因が見出せます。まだ結果をもたらしていないからです。しかし自性はありません。まだ生じていないからです。ゆえに、それらには因としての性質のみがあり、自性はないと観察します。

菩薩如是見三世中分段諸行相續轉已，等隨觀見一一剎那有為諸行，皆有三種有為之相。於剎那後，復有第四有為之相。

> 菩薩はこのようにして、過去・現在・未来の三つの時間にわたって区切られた諸々の現象が次々と生じ続くのを見ると、ひとつひとつの刹那の瞬間に現れるすべての形成されたものには、三つの形成の特徴があることを等しく見極めます。そして、その刹那の後には、さらに第四の形成の特徴があることも見ます。

即於此中，前剎那行自性滅壞。無間非先諸行剎那自性生起。正觀為生；諸行生已，即時未壞，正觀為住；此已生行，望前已滅諸行剎那自性別異，正觀為老；從此諸行生剎那後，即此已生諸行剎那自性滅壞，正觀為滅。菩薩觀此已生剎那諸行自性，即是生住老之自性，不見生等別有自性。如實觀見生剎那後，即此生等諸行剎那自性滅壞，無別有性。

> この中で、前の瞬間の行為（諸行）の本質はすでに滅び去っている。途切れることなく、その直後に、かつてなかった新たな瞬間の行為（諸行）の本質が生じる。これを正しく観察して「生」とする。行為（諸行）が生じた後、まだ壊れていない状態を正しく観察して「住」とする。このすでに生じた行為（諸行）は、前に滅びた行為（諸行）の瞬間の本質とは異なっている。これを正しく観察して「老」とする。この行為（諸行）が生じる瞬間の後、すでに生じた行為（諸行）の瞬間の本質が滅び去ることを正しく観察して「滅」とする。 菩薩は、すでに生じた瞬間の行為（諸行）の本質が、それ自体、生・住・老の本質であると観察する。生などに別個の本質があるとは見ない。そのように如実に観察して、生の瞬間の後には、この生などの行為（諸行）の瞬間の本質がそれ自体で滅び去るのであり、別に滅の性質があるわけではないと知る。

如是四種有為之相，總攝諸行。以要言之，二分所顯。一者、有分所顯。二者、無分所顯。此中世尊依於有分，建立一種有為之相；依於無分，建立第二有為之相。住、異二種，俱是諸行有分所顯，建立第三有為之相。

> 以上の四つの「有為の相」は、あらゆる現象（諸行）を捉えています。簡潔に言えば、二つの区分によって明らかになります。第一に、ある区分（有分）によって示されるもの。第二に、ない区分（無分）によって示されるものです。 ここで、世尊（お釈迦さま）は、ある区分に基づいて第一の有為の相を立て、ない区分に基づいて第二の有為の相を立てられました。そして、「住」と「異」の二つは、ともに諸行の有分によって示されるものとして、第三の有為の相を立てられました。

此中菩薩，觀一切時唯有諸行，除此更無生住老滅恒有實物自性成就。何以故？諸行生時，唯即如是諸行可得，無別有餘生住老滅。如是諸行住老滅時，唯即如是諸行可得，無別有餘生住老滅。

> ここで、菩薩はあらゆる時を観察して、ただ様々な働き（諸行）があるのみであり、それ以外に生・住・老・滅といった、常住で実体を持ち、自らの本性として成り立っているものは、まったく存在しないと見極めます。なぜなら、諸行が生じる時には、ただそのままの諸行だけが確認され、他に別個の「生」というものが存在しないからです。同様に、諸行がとどまり、老い、滅する時にも、ただそのままの諸行だけが確認され、他に別個の「住」「老」「滅」というものは存在しません。

又諸菩薩以理推求生等實物亦不可得。如是推求不可得者，謂若離彼色等諸行別有生法，是即應如色等諸行自體有生。如是此生亦應有生。如是即應有二種生，一者、行生，二者、生生。如是行生與彼生生為一為異？若言一者，計生實有即為唐捐。言別有生是實物有，不應道理。若言異者，如是即應非行生生；是行生生，不應道理。如說生相，如是廣說住老滅相，當知亦爾。

> また、諸々の菩薩は、道理をもって「生」などの実在を推し求めても、得ることはできない。このように推し求めても得られないとは、すなわち、もし色などの諸々の「行」を離れて、別に「生」という法があるならば、それは色などの諸々の「行」の自らの体に「生」があるのと同じように、この「生」にもまた「生」があるはずである。そうであれば、二種類の「生」があることになる。一つは「行の生」、もう一つは「生の生」である。この「行の生」と「生の生」は、同じなのか、異なるのか？もし同じであると言うならば、「生」が実在すると考えるのは無駄なことである。「別に「生」という実在がある」というのは道理に合わない。もし異なると言うならば、そうであれば「行の生」によって「生」が生じるのではないことになり、「行の生」によって「生」が生じるという道理に合わない。「生の相」について説いたように、広く説けば「住」「老」「滅の相」についても、同じであると知るべきである。

謂若滅法別有自性，是實成就；即應此滅有生有滅。若滅生時，一切諸行皆應同滅。如是即應少用功力，如入滅定，諸心心所一切皆滅。若滅滅時，一切諸行雖皆已滅，復應還生，以滅無故。是故言滅有生有滅，不應道理。

> もし「滅」(消滅した状態) に独自の本質があり、それが実在として確立しているなら、その「滅」自体にも生じたり滅したりする性質があることになる。 もし「滅」が生じる時があるなら、すべての現象（諸行）も同時に消滅するはずだ。そうなれば、滅尽定に入るように、わずかな努力で心と心の働き（心心所）すべてが消えることになる。 また、もし「滅」が消える時があるなら、すべての現象（諸行）は一度消えた後、再び生じるはずだ。なぜなら、滅の状態が無くなるからである。 したがって、「滅」に生じたり滅したりする性質があると言うのは、道理に合わない。

又善男子、或善女人，於一切時恒有實物自性成就，觀為假有，而能修厭、離欲、解脫，不應道理。與此相違，是應道理。

> また、善き男子よ、あるいは善き女人よ、いかなる時も常に実体として自性が成就しているものを、仮の存在として観察しながら、厭離・離欲・解脱を修めようとするのは道理にかなわない。これと反対のことが、道理にかなうのである。

由此行相，是諸菩薩如實了知一切諸行皆是無常。

> このように観察することによって、菩薩たちはすべての現象が無常であることをありのままに理解するのです。

又諸菩薩，觀無常行相續轉時，能為三種苦所依止。一者、行苦，二者、壞苦，三者、苦苦。如是菩薩如實了知一切諸行皆悉是苦。

> また、諸々の菩薩は、すべての現象が無常であり、それが連続して変化していく様子を観察する時、それが三つの苦しみのよりどころとなっていることを見ます。第一に行苦、第二に壊苦、第三に苦苦です。このように菩薩は、すべての現象がことごとく苦しみであることを、あるがままに正しく知るのです。

又諸菩薩，如實了知有為、無為一切諸法二無我性。一者、補特伽羅無我性，二者、法無我性。於諸法中補特伽羅無我性者，謂非即有法，是真實有補特伽羅；亦非離有法，別有真實補特伽羅。於諸法中法無我性者，謂於一切言說事中，一切言說自性諸法都無所有。如是菩薩如實了知一切諸法皆無有我。

> さらに、すべての菩薩は、あるがままに、つくられたもの（有為）とつくられざるもの（無為）のあらゆる法が、二種類の「我がない」という性質（無我）を持つことを理解しています。 第一に、「人（補特伽羅）としての我がない性質（人無我）」とは、存在するもの（法）そのものが本当の「人（我）」であるということではありません。また、存在するものから離れて、別に本当の「人（我）」が存在するのでもありません。 第二に、「法としての我がない性質（法無我）」とは、あらゆる言葉で表現される事柄において、言葉が示す自性（本質）を持つものは、全く存在しないということです。 このように、菩薩は、すべての法には我（永遠の実体）が全くないことを、あるがままに理解します。

又諸菩薩，觀一切行先因永斷，後無餘滅，其餘畢竟不起不生，說名涅槃。

> また、すべての菩薩は、あらゆる行（現象）について、まずその因が永遠に断たれ、その後、残りなく消滅し、最終的にはもはや生じることも起こることもない、これを涅槃と名づけると観じます。

當知涅槃其體寂靜，一切眾苦畢竟息故，一切煩惱究竟滅故。

> 涅槃の本質は静寂であり、すべての苦しみが永遠に止み、すべての煩悩が完全に滅びることを知るべきです。

如是未得清淨增上意樂菩薩，未見聖諦諸聲聞乘，雖於涅槃發起勝解，如是說言涅槃寂靜；而於涅槃未如實解，未能如實正智見轉，然彼亦有如理作意。

> このように、清らかな増上の意楽を得ていない菩薩や、聖なる真理をまだ見ていない声聞乗の者たちは、涅槃に対して勝れた理解を起こして「涅槃は寂静である」と説くものの、涅槃をありのままに理解しておらず、真実の智慧と見解が正しく働くことはありません。しかし、彼らにもまた道理にかなった心の働きは存在するのです。

譬如王子、或長者子，生育已來，未出王宮、長者內室；王及長者，各為幼童假作種種諸戲樂具，鹿車、牛車、馬車、象車而賜與之。爾時王子及長者子，用為嬉戲，歡娛遊佚，即於如是假所造作鹿、牛、馬、象，發起真實鹿想、牛想、馬想、象想。後於一時，王及長者各知其子漸已長大，諸根成熟，讚說真實鹿、牛、馬、象。爾時王子及長者子聞父讚說，作是念言：今者父王及父長者，將非讚說我等所有鹿、牛、馬、象四種車耶？復於後時，王及長者知子轉大，從內宮室引出外遊，示其真實鹿、牛、馬、象。時彼見已，內自發生如實慧解，此為實義鹿車、牛車、馬車、象車。父於長夜甞為我等讚說斯事，然唯我等以無智故，於不如實唯彼相似、唯彼影像發起真實鹿等勝解。

> 例えば、王の子や長者の子が生まれてから一度も王宮や長者の屋敷の奥を出たことがなかったとします。 王や長者は、その幼い子どもたちのために、様々な遊びの道具——鹿の車、牛の車、馬の車、象の車——を模して作り、与えました。 その時、王の子や長者の子はそれらを喜んで遊び、楽しみふけり、その作られた鹿、牛、馬、象に対して、本物の鹿、牛、馬、象だという思いを起こしました。 その後ある時、王や長者は、自分の子がだんだん成長し、感覚が整ったのを知って、本物の鹿、牛、馬、象について称賛して語りました。 その時、王の子や長者の子は、父の称賛の言葉を聞いて、こう思いました。「今、父王や父長者が称賛しているのは、私たちが持つ鹿、牛、馬、象の四つの車のことだろうか？」 さらに後になって、王や長者は子がさらに成長したのを知り、 innerの部屋から外に連れ出して、本物の鹿、牛、馬、象を見せました。 それを見た時、彼らは内側から自然に、真実の理解を生じました。「これこそが、本当の意味での鹿の車、牛の車、馬の車、象の車なのだ。父は長い間、私たちにこのことを称賛して語っていたのだ。しかし私たちは無知だったために、真実ではない、ただ似ているだけの像や影に対して、本物の鹿などという確かな理解を起こしていたのだ。」

由是因緣，於先勝解追起羞愧。如是宮室，喻於生死。其所生育諸幼童子，喻未證得清淨增上意樂菩薩，及未見諦諸聲聞乘。父喻諸佛及已證入大地菩薩。先為假作鹿、牛等車，喻為宣說涅槃鹿相。次為讚說真實鹿等，喻佛菩薩自現證見真實涅槃，如其所見，於彼菩薩及聲聞前，讚說涅槃真實功德。所餘，喻彼既聞是已，但用隨順音聲覺慧，於涅槃德長夜勝解。若於是時資糧成熟，漸次增長，成淨增上意樂菩薩、見諦聲聞，於真涅槃生現證智；即於爾時發生自內如實慧解，如是涅槃，一切聲聞、獨覺所證，諸佛菩薩先所讚說，我等先以愚夫覺慧，於不如實唯彼相似、唯彼影像發起真實涅槃勝解。由是因緣，於先勝解追生羞愧。依止於後如實勝解。

> このような因縁によって、まずは理解していたことに対して後に羞恥の念が生じるのです。このように、家屋は生死の輪廻に譬えられます。そこで生まれた幼い子供たちは、清らかな増上意楽をまだ証得していない菩薩や、真理をまだ見極めていない声聞乗の者たちに譬えられます。父親は諸仏や、すでに大地を証得した菩薩に譬えられます。初めに仮に作った鹿や牛の車は、涅槃を鹿の相として説くことに譬えられます。次に真実の鹿などを称賛して説くのは、仏や菩薩が自ら現に証見した真実の涅槃を、その見たままに、それらの菩薩や声聞の前で、涅槃の真実の功徳を称賛することに譬えられます。残りの者たちは、その教えを聞いて、ただ音声に随順する覚りの智慧をもって、涅槃の功徳について長夜にわたって勝解していたのです。もしこの時に資糧が成熟し、徐々に増長して、清浄な増上意楽の菩薩や真理を見極めた声聞となり、真実の涅槃に対して現に証得する智慧が生じるならば、その時に初めて、自らの内に如実の智慧による理解が生じます。すなわち、この涅槃は、すべての声聞や独覚が証得するものであり、諸仏や菩薩が先に称賛して説いたものである。私たちは先に愚かな凡夫の覚慧をもって、真実ではないのに、それに似たもの、その影像にすぎないものに対して、真実の涅槃であると勝解を起こしていた。このような因縁によって、先の勝解に対して後に羞恥の念を追い起こすのです。そして後の如実の勝解に依止するのです。

又如病者往大醫所，為除病故，求隨順藥，得已常服。彼於是藥深生勝解、深生愛樂、唯見為實。

> また、病の者が名医のもとを訪れ、病気を治すために症状に合った薬を求め、それを得ては常に服用します。その者はその薬に対して深く確信し、深く愛着し、それをただ真実であると見なします。

由是因緣，先病除愈，復起餘病，應服餘藥。

> そのような原因によって、先の病気は治っても、別の病気が発生したなら、別の薬を服用すべきである。

爾時大醫知先病愈，後病復生，更須餘藥；勸捨前藥，令服餘藥。

> その時、名医は、かつての病が治った後で、新たな病が起きたのを知り、別の薬が必要だと判断しました。そして、以前の薬をやめて、新しい薬を飲むように勧めました。

時彼病者愚癡無識，於前所服深生勝解，起所宜想，不肯棄捨。

> その時、病者は愚かで無知であり、以前に服用した薬に対して深く執着し、それが適切なものだと思い込んで、決して手放そうとしなかった。

時大良醫為其宣說前後藥性，於現所病前藥匪宜，後藥為勝。時有病者雖聞是語，不生勝解，猶未深信良醫所言。

> 時に、すぐれた医者がその患者に対して、前後に処方する薬の性質を詳しく説明しました。「現在の病状には、前に処方した薬は適しておらず、後に処方する薬のほうが効果的です」と。しかし、その患者はこの説明を聞いても深く理解できず、すぐれた医者の言葉をまだしっかり信じることができませんでした。

如是病者，喻諸凡夫、菩薩、聲聞，為煩惱病之所執持。大良醫者，喻諸如來。其良藥等，喻為宣說若上上勝及以上極，若深深勝及以深極，若劣、若勝及以勝極，法教正教教授教誡。彼雖聞已，不能悟入，不生勝解，不能修行法隨法行。

> この病に悩む者たちは、凡夫や菩薩、声聞が煩悩という病に捕らわれているさまにたとえられます。優れた医者は如来にたとえられます。その良薬とは、次のような教えを説くことにたとえられます。すなわち、最も優れたもの、より優れたもの、最高のもの、深いもの、より深いもの、最も深いもの、劣ったもの、優れたもの、最も優れたものといった様々なレベルの教えであり、正しい教え、正しい示し、教えの指導、戒めの言葉です。彼らはそれを聞いても、悟りに入ることができず、深い理解を得られず、教えに従った修行を実践することができません。

諸有淨信菩薩、聲聞，於佛所說不生疑惑；乘佛所說喻如一切支具圓滿妙莊嚴車無上法乘，如善御者，隨所行地、隨所應到，疾疾進趣，無所稽留。

> 清らかな信心を持つ菩薩や声聞の皆さんは、仏の説かれた教えに疑いを抱くことなく、その教えを、あらゆる部分が完璧に整い、見事に飾られた至高の法の乗り物と見なします。それはまるで、優れた御者のように、行くべき道に従い、到達すべき所へと、ためらうことなく速やかに進んでいくのです。