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title: "大智度論 · 1 緣起義釋論"
description: "大智度论由古印度龙树菩萨所造，后秦时期著名译经家鸠摩罗什翻译成中文。该论是佛教重要典籍，属于大乘中观学派的核心论著，主要阐释《大品般若经》的深奥义理。全书共一百卷，系统论述了般若空性思想、菩萨修行次第以及六度万行的实践方法，被誉为大乘佛教的百科全书。作为早期大乘佛教的代表性论典，大智度论对汉传佛教思想体系的形成影响深远，尤其为天台宗、华严宗等宗派提供了重要理论依据，在佛教哲学史上占据崇高地位。"
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智度大道佛從來， 智度大海佛窮盡，智度相義佛無礙， 稽首智度無等佛。有無二見滅無餘， 諸法實相佛所說，常住不壞淨煩惱， 稽首佛所尊重法。聖眾大海行福田， 學無學人以莊嚴，後有愛種永已盡， 我所既滅根亦除；已捨世間諸事業， 種種功德所住處，一切眾中最為上， 稽首真淨大德僧。一心恭敬三寶已， 及諸救世彌勒等；智慧第一舍利弗， 無諍空行須菩提。我今如力欲演說， 大智彼岸實相義，願諸大德聖智人， 一心善順聽我說！

> 智度の大道を仏は来たり、智度の大海を仏は窮め尽くす。 智度の相と義において仏に障りなし、頭を下げて礼拝する、智度において比べる者なき仏に。 「有」と「無」の二つの見解は滅し尽くされ、諸法の実相を仏は説かれた。 常住にして壊れず、煩悩を清める、頭を下げて礼拝する、仏が尊重された法に。 聖なる僧伽の大海は福田を行じ、学ぶ者と学び終えた者をもって荘厳される。 後の世に生を受ける種はすでに尽き、我というものは滅し、根もまた除かれた。 すでに世間のさまざまな営みを捨て、あらゆる功徳の住まうところ、 一切の衆の中で最も尊い、頭を下げて礼拝する、真に清らかな大徳の僧に。 一心に三宝を敬い、さらには世を救う弥勒などの方々、 智慧第一の舎利弗、無諍の空行である須菩提。 私は今、力の及ぶ限り、大智の彼岸たる実相の義を説こうと願う。 願わくは、諸々の大徳・聖なる智慧ある方々よ、一心に、よく従い、私の説を聞いてください。

問曰：

> お尋ねします。

佛以何因緣故說《摩訶般若波羅蜜經》？諸佛法不以無事及小因緣而自發言，譬如須彌山王不以無事及小因緣而動。今有何等大因緣故，佛說《摩訶般若波羅蜜經》？

> 仏はどのような因縁によって『摩訶般若波羅蜜経』を説かれたのでしょうか。諸仏の教えは、理由もなく、また小さな因縁によって語られることはありません。たとえば、須弥山の王が、理由もなく、また小さな因縁で動くことがないように。今、どのような大きな因縁があって、仏は『摩訶般若波羅蜜経』を説かれたのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

佛於三藏中，廣引種種諸喻，為聲聞說法，不說菩薩道。唯《中阿含．本末經》中，佛記彌勒菩薩「汝當來世，當得作佛，號字彌勒」，亦不說種種菩薩行。佛今欲為彌勒等廣說諸菩薩行，是故說《摩訶般若波羅蜜經》。

> 仏は三蔵の中において、さまざまな喩えを広く用いて、声聞のために法を説かれましたが、菩薩の道については説かれませんでした。ただ『中阿含経』の「本末経」の中で、仏が弥勒菩薩に「あなたは未来の世において、仏となるであろう。その名は弥勒という」と記されただけで、様々な菩薩の行いについては説かれませんでした。今、仏は弥勒たちのために、諸々の菩薩の行いを広く説こうとされ、そのために『摩訶般若波羅蜜経』を説かれました。

復次，有菩薩修念佛三昧，佛為彼等欲令於此三昧得增益故說《般若波羅蜜經》。如《般若波羅蜜．初品》中說：「佛現神足，放金色光明，遍照十方恒河沙等世界，示現大身，清淨光明，種種妙色滿虛空中。佛在眾中，端正殊妙，無能及者。譬如須彌山王，處於大海。」諸菩薩見佛神變，於念佛三昧倍復增益，以是事故說《摩訶般若波羅蜜經》。

> また、菩薩たちが仏の念を修行する三昧（さんまい、\*samādhi\*）を実践する者もいます。仏は彼らがこの三昧においてさらに成長できるよう、『般若波羅蜜経』（\*Prajñāpāramitā Sūtra\*）を説かれました。『般若波羅蜜経』の「初品」には次のようにあります。「仏は神通力を現し、金色の光を放って、 ten方向上、ガンジス河の砂の数ほどの世界を照らし、大きな姿を現し、清らかで明るい光と、様々な美しい色が虚空に満ちた。仏は大衆の中で正しく端整で、比べる者はいなかった。あたかも大海の中の須弥山（しゅみせん、\*Sumeru\*）の王のようである。」菩薩たちは仏の神通変化を見て、仏の念を修行する三昧においてさらに倍増しました。このような理由から、『摩訶般若波羅蜜経』（\*Mahāprajñāpāramitā Sūtra\*）が説かれたのです。

復次，菩薩初生時，放大光明，普遍十方，行至七步，四顧觀察，作師子吼而說偈言：

> また、菩薩がお生まれになるとき、大いなる光明を放ち、十方に遍く照らしました。七歩進み、四方を見渡して、獅子吼（ししく）のごとく力強く、次の偈（げ）を説かれました。

「我生胎分盡， 是最末後身；我已得解脫， 當復度眾生。」

> 私は胎内に宿る身を終え、 これが最後の身体となりました。 私はすでに解脱を得ました。 これからは、人々を導き渡していきましょう。

作是誓已，身漸長大，欲捨親屬，出家修無上道。中夜起觀，見諸伎直、后妃婇女，狀若臭屍。即命車匿，令被白馬，夜半踰城，行十二由旬，到跋伽婆仙人所住林中，以刀剃髮，以上妙寶衣，貿麁布僧伽梨。於泥連禪河側，六年苦行，日食一麻，或食一米等，而自念言：「是處非道！」爾時，菩薩捨苦行處，到菩提樹下，坐金剛處。魔王將十八億萬眾來壞菩薩，菩薩以智慧功德力故，降魔眾已，即得阿耨多羅三藐三菩提。是時三千大千世界主梵天王，名式棄，及色界諸天等，釋提桓因及欲界諸天等，并四天王，皆詣佛所，勸請世尊初轉法輪；亦是菩薩念本所願，及大慈大悲故，受請說法。諸法甚深者，般若波羅蜜是。以是故佛說《摩訶般若波羅蜜經》。

> こう誓いを立てた後、菩薩は次第に成長し、親族のもとを離れて出家し、無上の道を修行しようと願った。真夜中に起きて見渡すと、あらゆる楽人や后妃、宮女たちがまるで腐った死体のように見えた。そこで車匿に命じて白馬を用意させ、真夜中に城を越え、十二由旬を進んで跋伽婆仙人のいる林に到着した。刀で髪を剃り、素晴らしい宝衣と粗い布の僧伽梨を交換した。そして尼連禅河のほとりで六年間、苦行を行い、一日に一粒の麻や一粒の米などを食べながら、「この道は真実の道ではない」と自ら思った。その時、菩薩は苦行の場所を離れ、菩提樹の下、金剛座に坐った。魔王は十八億の大衆を率いて菩薩を妨害しようとしたが、菩薩は智慧と功徳の力によって魔王の群れを降伏させ、ついに阿耨多羅三藐三菩提を成就した。この時、三千大千世界の主である梵天王・式棄、色界の諸天たち、釈提桓因と欲界の諸天たち、ならびに四天王が皆、仏のもとに訪れ、世尊に初めて法輪を転ずるよう勧請した。これもまた菩薩が本願を念じ、大慈大悲の心を持つがゆえに、請いを受けて説法されたのである。諸法の中で最も深遠なもの、それが般若波羅蜜である。ゆえに仏は『摩訶般若波羅蜜経』を説かれたのである。

復次，有人疑佛不得一切智。所以者何？諸法無量無數，云何一人能知一切法？佛住般若波羅蜜實相清淨如虛空，無量無數法中，自發誠言：「我是一切智人。」欲斷一切眾生疑，以是故說《摩訶般若波羅蜜經》。

> さらに、ある人が「仏は一切智を得ていないのではないか」と疑う。なぜか。あらゆる法は限りなく数え切れない。どうして一人の人がすべての法を知ることができようか。仏は般若波羅蜜という、虚空のように清らかな実相にとどまり、無量無数の法の中で、自ら誠実に宣言された。「私は一切智を持つ者である」と。あらゆる衆生の疑いを断ち切るために、そのゆえに『摩訶般若波羅蜜経』が説かれたのである。

復次，有眾生應得度者，以佛大功德智慧無量，難知難解故，為惡師所惑，心沒邪法，不入正道。為是輩人，起大慈心，以大悲手授之，令入佛道；是故自現最妙功德，出大神力。如《般若波羅蜜．初品》中說：「佛入三昧王三昧，從三昧起，以天眼觀十方世界，舉身毛孔皆笑，從其足下千輻輪相，放六百千萬億種種色光明，從足指上至肉髻，處處各放六百千萬億種種色光明，普照十方無量無數如恒沙等諸佛世界，皆令大明。」佛從三昧起，欲宣示一切諸法實相，斷一切眾生疑結故，說《般若波羅蜜經》。

> また、仏の大いなる功徳と智慧は限りなく、悟ることが難しく理解しがたいため、救われるべき人々の中には、悪しき師に惑わされて心を邪法に沈め、正道に入らない者もいる。そのような人々のため、大いなる慈しみの心を起こし、大いなる悲しみの手をもって導き、仏道に入らせる。そのために、自ら最も優れた功徳を現し、大いなる神通力を示すのである。 『般若波羅蜜経』の初品にこう説かれている。「仏は三昧王三昧に入り、その三昧から起って、天眼をもって十方の世界を観じ、全身の毛穴から笑いを現した。その足下の千輻輪相から、六百千万億の種々の色の光明を放ち、足の指から肉髻に至るまで、それぞれの場所から六百千万億の種々の色の光明を放った。その光明は十方の無量無数の、恒河沙のごとき仏の世界を普く照らし、すべてを大いに明らかにした。」 仏は三昧から起ち、一切の諸法の実相を示し、一切の衆生の疑惑の結び目を断とうとして、『般若波羅蜜経』を説かれたのである。

復次，有惡邪人，懷嫉妬意，誹謗言：「佛智慧不出於人，但以幻術惑世。」斷彼貢高邪慢意故，現無量神力、無量智慧力，於《般若波羅蜜》中，自說：「我神德無量，三界特尊，為一切覆護。若一發惡念，獲罪無量；一發淨信，受人天樂，必得涅槃果。」

> また、邪悪な見解を持つ人は、嫉妬の心を抱き、「仏の智慧は人の及ぶところではなく、幻術で世を惑わしているにすぎない」と誹謗します。そのような人々の高ぶりや邪な慢心を断ち切るために、仏は無量の神通力と無量の智慧力を現され、『般若波羅蜜』の中で自らこう説かれました。「我が神徳は無量であり、三界において最も尊く、一切の生きとし生けるものを覆い護る。もし一たび悪念を起こせば、無量の罪を得る。一たび清らかな信を起こせば、人天の楽を受け、必ず涅槃の果を得るであろう」と。

復次，欲令人信受法故，言：「我是大師，有十力、四無所畏，安立聖主住處，心得自在，能師子吼，轉妙法輪，於一切世界最尊最上。」

> さらに、人々に法を信じ受け入れさせるために、「私は大師である。十力（じゅうりき）と四無所畏（しむしょい）を具え、聖なる主（しゅ）の境地に安住し、心は自在であり、獅子吼（ししく）して、妙なる法の輪（ほっりん）を転じ、あらゆる世界において最も尊く、最も優れている」と語るのです。

復次，佛世尊欲令眾生歡喜故，說是《般若波羅蜜經》言：「汝等應生大喜！何以故？一切眾生入邪見網，為異學惡師所惑，我於一切惡師邪網中得出。十力大師，難可值見，汝今已遇，我隨時開發三十七品等諸深法藏，恣汝採取。」

> さらに、仏世尊は衆生を喜ばせようとして、この『般若波羅蜜経』を説かれました。 「あなたがたは大いに喜びなさい。なぜなら、すべての衆生は誤った見解の網に絡まり、異端の悪しき師に惑わされているからです。私はそのような悪師や邪見の網から抜け出しました。十の力を持つ大師に遇うことはめったにありませんが、あなたがたは今、その私に出会いました。私は時機に応じて、三十七菩提分法などの深遠な教えの宝庫を開き、あなたがたが自由に取り出せるようにしているのです。」

復次，一切眾生為結使病所煩惱，無始生死已來，無人能治此病者，常為外道惡師所誤。我今出世為大醫王，集諸法藥，汝等當服。是故佛說《摩訶般若波羅蜜經》。

> さらに、すべての生きとし生けるものは、煩悩という病に悩まされています。生まれ変わり死に変わりを繰り返す遥か昔から、誰もこの病を治すことができず、常に外道の誤った教えに惑わされてきました。私は今、この世に現れ、大いなる医者として、あらゆる法の薬を備えました。あなたがたは、これを服しなさい。ゆえに仏は『摩訶般若波羅蜜経』を説かれたのです。

復次，有人念言：「佛與人同，亦有生死，實受飢渴、寒熱、老病苦。」佛欲斷彼意故，說是《摩訶般若波羅蜜經》。示言：「我身不可思議，梵天王等諸天祖父，於恒河沙等劫中，欲思量我身、尋究我聲，不能測度，況我智慧三昧？」如偈說：

> また、ある人がこう思うことがあります。「仏も人間と同じであり、生まれ死に、実際に飢えや渇き、寒さや暑さ、老いや病の苦しみを受けるのだ」と。仏はそのような考えを断ち切ろうとして、この『摩訶般若波羅蜜経』を説かれました。そして、こうお示しになりました。「私の身は思い計ることのできないものである。梵天王や諸天の祖父母たちでさえ、ガンジス河の砂の数のように多くの劫において、私の身を考え測ろうとし、私の声を尋ね究めようとしても、測り知ることはできない。ましてや、私の智慧や三昧はなおさらである。」ということを、偈で説かれています。

「諸法實相中， 諸梵天王等，一切天地主， 迷惑不能了！此法甚深妙， 無能測量者，佛出悉開解， 其明如日照。」

> あらゆるものごとの真実の姿について、 梵天をはじめとする天の王者たちや、 この世のすべての主たちでさえも、 その迷いによって理解することができません。 この教えは実に深く、素晴らしく、 だれもそのはかり知ることのできないものです。 しかし仏が世に現れてすべてを解き明かし、 その智慧の光は太陽のように世を照らします。

又如佛初轉法輪時，應時菩薩從他方來，欲量佛身，上過虛空無量佛剎，至華上佛世界，見佛身如故，菩薩說言：

> また、仏が初めて法輪を転じた時、応時菩薩が他方からやって来て、仏の身の大きさを測ろうとした。虚空を超えて無量の仏の国を過ぎ、華上仏の世界に至ったが、仏の身は以前と変わらずに見えた。そこで菩薩は言った。

「虛空無有邊， 佛功德亦爾；設欲量其身， 唐勞不能盡！上過虛空界， 無量諸佛土，見釋師子身， 如故而不異！佛身如金山， 演出大光明，相好自莊嚴， 猶如春華敷。」

> 虚空に限りがなく、 仏の功徳もまた同じ。 もしその身をはかろうとしても、 むだな努力に終わるばかりだ。 虚空の世界を超えた先、 無数の仏の国々に、 獅子のごとき仏の姿は、 変わらずに顕れている。 仏のからだは金山のごとく、 大きな光を放ち、 すぐれた相で飾られ、 春の花が咲きほこるように輝く。

如佛身無量，光明、音響亦復無量，戒、定、慧等諸佛功德皆悉無量。如《密迹經》中三密，此中應廣說。

> 仏の身が計り知れないように、光明や音響もまた計り知れません。戒・定・慧といった諸仏の功徳も、すべて無限です。『密迹経』に説かれる三密についても、ここで詳しく述べるべきでしょう。

復次，佛初生時，墮地行七步，口自發言，言竟便默，如諸嬰孩，不行不語，乳餔三歲，諸母養育，漸次長大。然佛身無數，過諸世間，為眾生故，現如凡人。凡人生時，身分諸根及其意識未成就故，身四威儀：坐、臥、行、住，言談語默，種種人法，皆悉未了；日月歲過，漸漸習學，能具人法。今佛云何生便能語能行，後更不能？以此致怪！但為此故，以方便力，現行人法，如人威儀，令諸眾生信於深法。若菩薩生時，便能行能語，世人當作是念：「今見此人，世未曾有，必是天、龍、鬼、神，其所學法，必非我等所及。何以故？我等生死肉身，為結使業所牽，不得自在。如此深法，誰能及之？」以此自絕，不得成賢聖法器。為是人故，於嵐毘尼園中生。雖即能至菩提樹下成佛，以方便力故，而現作孩童、幼小、年少、成人；於諸時中次第而受嬉戲、術藝、服御、五欲，具足人法。後漸見老、病、死苦，生厭患心，於夜中半，踰城出家，到鬱特伽阿羅洛仙人所，現作弟子而不行其法。雖常用神通，自念宿命，迦葉佛時持戒行道，而今現修苦行六年求道。菩薩雖主三千大千世界，而現破魔軍，成無上道。隨順世法故，現是眾變。今於《般若波羅蜜》中現大神通智慧力故，諸人當知佛身無數，過諸世間。

> また、仏が生まれたとき、地面に降りて七歩歩き、自ら言葉を発し、言い終えるとすぐに黙りました。それはまるで普通の乳児のように、歩かず語らず、三年間母乳で育てられ、母たちに養育され、徐々に成長していく姿と同じでした。しかし仏の身は無数であり、あらゆる世間を超えていながら、衆生のため、あたかも凡人のように姿を現されたのです。 凡人が生まれるとき、身体の各部分や諸感覚、意識がまだ完成していないため、身の四威儀（座る・臥す・歩く・立つ）、言葉を語ることや沈黙すること、様々な人間の行動法すべてがまだ十分にできません。月日が過ぎるにつれて徐々に習い覚え、人間の行動法を身につけるものです。 それでは、なぜ仏は生まれてすぐに話し、歩くことができたのに、その後それができなくなったのでしょうか？これが人々の疑問の種となっています。しかし、まさにこの理由によって、仏は方便の力を使い、人間の行動法（人のようでありながらも威儀を備えた姿）を現し、衆生に深遠な法を信じさせようとされたのです。 もし菩薩が生まれてすぐに歩き、語ることができたなら、世の人々はこう思ったことでしょう。「今、この人を見ると、世の中にこれまでいなかった者だ。必ずや天・龍・鬼・神の類であり、その学ぶ法は、きっと我々の及ぶところではない。なぜなら、我々は生死の肉体であり、煩悩や業に縛られて自由になれない。このような深遠な法に、誰が及ぶことができようか？」と。そうして自ら絶望し、聖者や法器となることができなかったでしょう。 そのような人々のために、仏は嵐毘尼園（ルンビニー園）で生まれました。たとえすぐに菩提樹の下で成仏できる能力があったとしても、方便の力によって、幼子・幼少期・青年期・成人という姿を現し、それぞれの時期に応じて遊戯・学芸・五欲の享受といった人間の生活を次第に経験されました。その後、老い・病・死という苦しみを見て厭い離れる心を起こし、真夜中に城を出て出家し、鬱特伽阿羅洛仙人（ウドラカ・ラーマプトラ仙人）のところへ行き、弟子の姿をとりましたが、その教えを実践されることはありませんでした。神通力を常に使い、自らの前世を憶念し、迦葉仏（カッサパ仏）の時代に戒律を守り修行していたことを覚っていながら、今度は六年間の苦行を修行されたのです。 菩薩は三千大千世界を統べる存在でありながら、魔軍を打ち破り、無上の悟りを成就する姿を現されました。これは世間の慣習に従ったものであり、このように様々な変化身を現されたのです。今、この『般若波羅蜜』の中で大きな神通智慧の力を示されたことにより、皆さんは知るべきです。仏の身は無数であり、あらゆる世間を超えているということを。

復次，有人應可度者，或墮二邊；或以無智故，但求身樂；或有為道故，修著苦行。如是人等，於第一義中，失涅槃正道。佛欲拔此二邊，令入中道，故說《摩訶般若波羅蜜經》。

> さらに、教えを受けるにふさわしい者であっても、ある者は両極端に陥ることがある。あるいは智慧がないために、ただ身体的な快楽だけを求める。あるいは道のためだと言って、苦行に執着する。このような人々は、最も深い真理において、涅槃に至る正しい道を見失ってしまう。仏はこの二つの極端を取り除き、中道へ導こうとして、『摩訶般若波羅蜜経』を説かれたのである。

復次，分別生身、法身供養果報故，說《摩訶般若波羅蜜經》，如〈舍利塔品〉中說。

> さらに、肉身（生身）と法身の供養によって得られる果報を明確にするために、『摩訶般若波羅蜜経』は説かれました。これは〈舎利塔品〉の中で述べられている通りです。

復次，欲說阿鞞跋致，阿鞞跋致相故說。又為魔幻、魔事故說。

> 次に、不退転の菩薩について説明しましょう。不退転の相を示すために説きます。また、魔王の幻惑や魔の働きについて説明するためでもあります。

復次，為當來世人，供養般若波羅蜜因緣故；又欲授三乘記別故，說是《般若波羅蜜經》。如佛告阿難：「我涅槃後，此般若波羅蜜當至南方，從南方至西方，後五百歲中當至北方。是中多有信法善男子、善女人，種種華香、瓔珞、幢幡、伎樂、燈明、珍寶，以財物供養。若自書，若教人書，若讀誦、聽說，正憶念、修行，以法供養。是人以是因緣故，受種種世間樂；末後得三乘，入無餘涅槃。」如是等觀諸品中因緣事故，說《般若波羅蜜經》。

> また、将来の世の人々が般若波羅蜜を供養する縁となり、さらに三乗の人々に未来の成仏を記別するために、この『般若波羅蜜経』は説かれました。例えば仏が阿難に告げられたように、「私の涅槃後、この般若波羅蜜は南方に伝わり、南方から西方へ、そして後の五百歳の間に北方に至るでしょう。そこには多くの信仰深い善男子・善女人がいて、様々な華や香り、瓔珞、幢幡、伎楽、灯明、珍宝などで財物を供養します。また自ら書き写し、人に書かせ、讀誦し、説法を聞き、正しく記憶し、修行して法を供養します。これらの人々はその縁により、様々な世間の楽しみを受け、最後には三乗を得て無余涅槃に入るでしょう。」このように、経典の各章で示された因縁に基づいて、『般若波羅蜜経』は説かれているのです。

復次，佛欲說第一義悉檀相故，說是《般若波羅蜜經》。有四種悉檀：一者、世界悉檀，二者、各各為人悉檀，三者、對治悉檀，四者、第一義悉檀。四悉檀中，一切十二部經，八萬四千法藏，皆是實，無相違背。佛法中，有以世界悉檀故實，有以各各為人悉檀故實，有以對治悉檀故實，有以第一義悉檀故實。

> さらに、仏は第一義悉檀（最高の真理）の相を示すために、この『般若波羅蜜経』を説かれた。 悉檀には四種類ある。 第一に、世界悉檀（世間の様々な見解に合わせた教え）。 第二に、各各為人悉檀（人それぞれの性質に合わせた教え）。 第三に、対治悉檀（煩悩を治めるための教え）。 第四に、第一義悉檀（最高の真理そのものの教え）である。 この四つの悉檀の中に、一切の十二部経（経典の分類）と八万四千の法蔵（あらゆる教え）は、すべて真実であり、互いに矛盾することはない。 仏法においては、世界悉檀によって真実とされるものもあり、各各為人悉檀によって真実とされるものもあり、対治悉檀によって真実とされるものもあり、第一義悉檀によって真実とされるものもあるのである。

有世界者，有法從因緣和合故有，無別性。譬如車，轅、軸、輻、輞等和合故有，無別車。人亦如是，五眾和合故有，無別人。

> 世の中に存在するものは、すべて原因と条件が組み合わさって生じたものであり、それ自体固有の実体があるわけではありません。たとえば、馬車（にぐるま）を例にとると、ながえ・車軸・スポーク・車輪などが組み合わさって初めて馬車となるのであって、それらとは別に「馬車」という独立した実体があるわけではありません。人間も同じで、五つの構成要素（五蘊）が集まることによって存在しているのであって、それらとは別に「私」という実体があるわけではないのです。

若無世界悉檀者，佛是實語人，云何言「我以清淨天眼，見諸眾生隨善惡業死此生彼受果報；善業者生天人中，惡業者墮三惡道」？

> もし〈世界の完全な理解〉という教えがなければ、仏陀は真実を語る方であるのに、どうしてこう言えるのでしょう。「私は清らかな天眼をもって、すべての生きとし生けるものが善悪の業に従って、こちらで死に、あちらに生まれ、その結果を受け取るのを見る。善い業を積んだ者は天や人の世界に生まれ、悪い業を積んだ者は三つの悪道に堕ちる」と。

復次，經言：「一人出世，多人蒙慶，福樂饒益，佛世尊也。」

> さらに経典にはこう説かれています。「一人の方がこの世に現れると、多くの人々が幸せに包まれ、福徳と安楽がもたらされる。その方こそが仏・世尊である。」

如《法句》中說：「神自能救神，他人安能救！神自行善智，是最能自救。」

> 『法句経』にこう説かれています。 「自分自身だけが自分を救える。 他人がどうして救えるだろうか。 自ら善く智慧を実践する者こそ、 最もよく自分を救えるのだ。」

如《瓶沙王迎經》中佛說：「凡人不聞法，凡人著於我。」

> 例えば『瓶沙王迎経』の中で仏は説かれています。「凡人は法を聞かず、凡人は我（が）に執着する。」

又《佛二夜經》中說：「佛初得道夜，至般涅槃夜，是二夜中間所說經教，一切皆實不顛倒。」

> また『仏二夜経』の中で述べられている。「仏が悟りを開かれた夜から、完全な涅槃に入られた夜までの間に説かれた教えは、すべて真実であり、決して迷いや誤りはない。」

若實無人者，佛云何言「我天眼見眾生」？是故當知有人者，世界悉檀，故非是第一義悉檀。

> もし本当に「人」など存在しないのなら、なぜ仏は「私は天眼で衆生を見る」と言うのか。したがって、知るべきである。人を認めるのは、世俗の真理（世界悉檀）に基づく方便であり、最高の真理（第一義悉檀）ではない、と。

問曰：

> お尋ねします。

第一悉檀是真實，實故名第一，餘者不應實。

> 第一の悉檀（真理の教え）は真実です。真実であるからこそ「第一」と呼ばれるのであり、それ以外のものは真実とは言えません。

答曰：

> お答えしますと、

不然！是四悉檀各各有實，如如、法性、實際，世界悉檀故無，第一義悉檀故有。人等亦如是，世界悉檀故有，第一義悉檀故無。所以者何？人五眾因緣有故有是人等。譬如乳，色、香、味、觸因緣有故有是乳；若乳實無，乳因緣亦應無。今乳因緣實有故，乳亦應有；非如一人第二頭、第三手，無因緣而有假名。如是等相，名為世界悉檀。

> そうではありません。四悉檀にはそれぞれ実体があります。「如如」「法性」「実際」は、世界悉檀では無であり、第一義悉檀では有です。「人」なども同様に、世界悉檀では有であり、第一義悉檀では無です。なぜなら、「人」は五蘊という因縁によって存在するからです。例えば、乳は色・香・味・触という因縁によって存在します。もし乳が実体として無ければ、乳の因縁もまた無いはずです。しかし、乳の因縁が実在する以上、乳もまた実在すべきです。それは、例えば人が第二の頭や第三の手を持つような、因縁なく仮の名だけがあるのとは異なります。このような相を、世界悉檀といいます。

云何各各為人悉檀者？觀人心行而為說法，於一事中，或聽或不聽。

> 「各各為人悉檀」とは何か。それは、人の心のありようを観察して、それに合わせた教えを説くことである。同じ一つの事柄について、人によっては受け入れ、あるいは受け入れないこともある。

如經中所說：「雜報業故，雜生世間，得雜觸、雜受。」

> 経典にこう説かれています。「様々な報いをもたらす行い（業）があるため、様々な世の中に生まれ、様々な感覚（触）や様々な受け取り方（受）を得るのです。」

更有《破群那經》中說：「無人得觸，無人得受。」

> さらに『破群那経』にはこう説かれています。 「触れる者もなく、受け取る者もいない。」

問曰：

> お尋ねします。

此二經云何通？

> この二つの経典は、どのように理解すればよいのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

以有人疑後世，不信罪福，作不善行，墮斷滅見；欲斷彼疑，捨彼惡行，欲拔彼斷見，是故說雜生世間、雜觸、雜受。是破群那計有我有神，墮計常中。破群那問佛言：「大德！誰受？」若佛說「某甲某甲受」，便墮計常中，其人我見倍復牢固，不可移轉，以是故不說有受者、觸者。如是等相，是名各各為人悉檀。

> ある人々は後世を疑い、罪や福報を信じず、不善の行いをして断滅見に堕ちることがあります。その疑いを断ち切り、悪行を捨てさせ、その断見を取り除こうとして、「雑なる世間、雑なる触れ、雑なる受」と説かれました。これは、ある破群那が「我あり、神あり」と考えて常見に堕ちているのを受けてのことです。破群那が仏に問うた「尊よ、誰が受けるのですか？」に対して、もし仏が「某某が受ける」と説けば、それも常見に堕ち、その人の我見はますます固くなって動かせなくなるでしょう。それゆえに、受ける者や触れる者があるとは説かれなかったのです。このような相を、各各人のための悉檀といいます。

對治悉檀者，有法，對治則有，實性則無。

> 対治悉檀とは、ある法（事象）に対して対治の方法があれば存在し、本来の実相（真実の性質）においては存在しないものである。

譬如重、熱、膩、酢、醎藥草飲食等，於風病中名為藥，於餘病非藥；若輕、冷、甘、苦、澁藥草飲食等，於熱病名為藥，於餘病非藥；若輕、辛、苦、澁、熱藥草飲食等，於冷病中名為藥，於餘病非藥。

> 例えば、重く、熱く、油っこく、酸っぱく、塩辛い薬草や食べ物などは、風の病には薬となりますが、他の病には薬となりません。 また、軽く、冷たく、甘く、苦く、渋い薬草や食べ物などは、熱の病には薬となりますが、他の病には薬となりません。 また、軽く、辛く、苦く、渋く、熱い薬草や食べ物などは、冷えの病には薬となりますが、他の病には薬となりません。

佛法中治心病亦如是：

> 仏法において心の病を治すのもまた、同じようなものです。

不淨觀思惟，於貪欲病中，名為善對治法；於瞋恚病中，不名為善，非對治法。所以者何？觀身過失，名不淨觀；若瞋恚人觀過失者，則增益瞋恚火故。

> 不浄観の修行は、貪りの煩悩を癒すには優れた対治法となります。しかし、怒りの煩悩に対しては、良い治療法とは言えず、対治の手段とはなりません。なぜならば、不浄観とは身体の欠点を観察する修行だからです。怒りを抱く人が欠点を見つめると、かえって怒りの炎を燃え上がらせてしまうからです。

思惟慈心，於瞋恚病中，名為善對治法；於貪欲病中，不名為善，非對治法。所以者何？慈心於眾生中求好事、觀功德；若貪欲人求好事、觀功德者，則增益貪欲故。

> 慈心を思い浮かべることは、怒りの病に対しては優れた対治法と言えます。しかし、貪欲の病に対しては、良い方法とは言えず、対治法にもなりません。なぜなら、慈心とは、すべての生きとし生けるものに対して良い面を求め、功徳を観察するものだからです。もし貪欲に囚われた人が良い面を求め、功徳を観察すれば、かえって貪欲を増長させてしまうからです。

因緣觀法，於愚癡病中，名為善對治法；於貪欲、瞋恚病中，不名為善，非對治法。所以者何？先邪觀故生邪見，邪見即是愚癡。

> 縁起の観察法は、無知の病に対しては優れた対治法と呼ばれます。しかし、貪りや怒りの病に対しては、優れたものとは言えず、対治法とはなりません。なぜなら、まず誤った観察があるから誤った見解が生じ、誤った見解こそが無知だからです。

問曰：

> お尋ねします。

如佛法中說十二因緣甚深，如說：「佛告阿難：『是因緣法甚深，難見難解，難覺難觀，細心巧慧人乃能解。』」愚癡人於淺近法，猶尚難解，何況甚深因緣？今云何言「愚癡人應觀因緣法」？

> 仏法において十二因縁は非常に深遠であると説かれています。「仏は阿難に告げられた。『この因縁の法は非常に深遠であり、見ることも解することも難しく、悟ることも観察することも難しい。細やかな心と巧みな智慧を持つ人だけが理解できるのである。』」愚かな人でさえ、浅くて身近な法を理解するのも難しいのに、ましてや深遠な因縁の法を理解することなどなおさら難しい。それなのに、どうして「愚かな人は因縁の法を観察すべきである」と言えるのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

愚癡人者，非謂如牛羊等愚癡；是人欲求實道，邪心觀故，生種種邪見。如是愚癡人，當觀因緣，是名為善對治法。若行瞋恚、婬欲人，欲求樂、欲惱他，於此人中，非善非對治法；不淨、慈心思惟，是二人中，是善是對治法。何以故？是二觀能拔瞋恚、貪欲毒刺故。

> 愚かな人というのは、牛や羊のように愚かだという意味ではありません。その人は本当の道を求めているのに、誤った心で観察するため、様々な誤った見解を生み出します。このような愚かな人は、縁起を観察することが、善い対治法（あらゆる煩悩を断ち、真理に導く適切な修行法）となります。 もし怒りや欲望にとらわれている人が、楽しみを求め、他者を苦しめようとするならば、そのような人に対しては、不浄観（身体の不浄を観想する瞑想法）や慈心観（全ての生きとし生けるものへの慈しみを育む瞑想法）が、善い対治法となります。 なぜなら、この二つの観想は、怒りと貪りの毒の棘を取り除くことができるからです。

復次，著常顛倒眾生，不知諸法相似相續有；如是人觀無常，是對治悉檀，非第一義。何以故？一切諸法自性空故。如說偈言：

> さらに、永遠に変わらないという誤った見解に執着する人々は、諸々の物事が似て非なるままに連続して存在することを知りません。そのような人々に無常を観じさせるのは、対機説法による対処法であり、最高の真理ではありません。なぜなら、あらゆる物事の本質は空であるからです。偈頌にこうあります。

「無常見有常， 是名為顛倒；空中無無常， 何處見有常？」

> 無常のものを「常である」と見る、これを顛倒（誤った見方）と呼ぶ。 しかし、空そのものには無常すら存在しない。いったいどこに「常」があるというのか。

問曰：

> お尋ねします。

一切有為法，皆無常相應，是第一義，云何言無常非實？所以者何？一切有為法，生、住、滅相，前生、次住、後滅故，云何言無常非實？

> すべてのつくられた現象（有為法）は、無常の性質と結びついています。これが最も深い真理です。では、なぜ無常は真実でないと言うのでしょうか？その理由は何かと言えば、すべてのつくられた現象には、生じ、とどまり、滅するという三つの相があり、まず生じ、次にとどまり、後に滅するからです。それなのに、なぜ無常が真実ではないと言うのでしょうか？

答曰：

> お答えしますと、

有為法不應有三相。何以故？三相不實故。若諸法生、住、滅是有為相者，今「生」中亦應有三相，「生」是有為相故；如是一一處亦應有三相，是則無窮，住、滅亦如是。若諸生、住、滅各更無有生、住、滅者，不應名有為法。何以故？有為法相無故。以是故，諸法無常，非第一義。

> 有為の法に三相があるべきではない。なぜなら、三相は実在しないからである。もし諸法の生成・持続・消滅が有為の相であるならば、「生成」そのものの中にも三相があるはずである。「生成」が有為の相だからである。このように、一つ一つの箇所にもまた三相があることになり、それは無限に続くことになる。持続や消滅もまた同じである。もし諸々の生成・持続・消滅に、さらに別の生成・持続・消滅がないならば、それらを「有為の法」と呼ぶべきではない。なぜなら、有為の法の相が存在しないからである。したがって、諸法は無常であるが、それも第一義ではない。

復次，若一切實性無常，則無行業報。何以故？無常名生滅失故，譬如腐種子不生果。如是則無行業，無行業云何有果報？今一切賢聖法有果報，善智之人所可信受，不應言無。以是故，諸法非無常性。如是等無量因緣說，不得言諸法無常性。

> さらに、もしすべての事物の本質が無常であるならば、行為とその報い（業報）は存在しなくなります。なぜなら、無常とは生滅して失われることを意味し、例えば腐った種からは実が生じないからです。同様に、行為がなければ、その報いがどうしてあり得るでしょうか。ところが現に、すべての聖者や賢者の教えには果報が存在し、賢明な人はこれを信じ受け入れることができます。したがって、「果報はない」と言うべきではありません。以上のことから、諸法は無常の性質を持つとは言えません。このように無量の理由によって、諸法は無常の性質であると説くことはできないのです。

一切有為法無常，苦、無我等亦如是。

> すべての現象（有為法）は無常であり、苦しみや無我（永遠不変の自己は存在しないという教え）もまた同じです。

如是等相，名為對治悉檀。

> このような様相を、「対治悉檀」と呼びます。

第一義悉檀者，一切法性，一切論議語言，一切是法非法，一一可分別破散；諸佛、辟支佛、阿羅漢所行真實法，不可破，不可散。上於三悉檀中所不通者，此中皆通。

> 第一義諦の教えとは、あらゆる物事の本質や、あらゆる議論・言葉、そして善悪の区別のある全ての事柄を、ひとつひとつ分析し、打ち砕くことができるものである。しかし、諸仏や独覚、阿羅漢たちが実践する真実の法は、打ち砕くことも分析することもできない。先に述べた三つの悉檀では通じなかったことでも、この第一義諦の教えにおいては、すべてが通じるのである。

問曰：

> お尋ねします。

云何通？

> どうやって通じるのか？

答曰：

> お答えしますと、

所謂通者，離一切過失，不可變易，不可勝。何以故？除第一義悉檀，諸餘論議，諸餘悉檀，皆可破故。如《眾義經》中所說偈：

> 「通」とは、すべての過ちを離れ、変わることがなく、打ち負かされることもないものを言います。なぜなら、第一義諦（真実の教え）を除いて、他のすべての論議や教えは打ち破ることができるからです。『衆義経』に説かれる偈のように。

「各各自依見， 戲論起諍競；若能知彼非， 是為知正見。不肯受他法， 是名愚癡人，作是論議者， 真是愚癡人。若依自是見， 而生諸戲論，若此是淨智， 無非淨智者。」

> それぞれが自分の見解に執着し、 無意味な議論を引き起こして争い合う。 もし、その見解が誤りであると知ることができれば、 それが正しい見解を知るということである。 他人の教えを受け入れようとしない者を、 愚かな人と呼ぶのである。 このような議論をする者は、 まことに愚かな人である。 もし自分の見解に執着して、 様々な無意味な論争を起こすならば、 もしこれが清らかな智慧であるというならば、 清らかな智慧でないものなど、どこにもないことになる。

此三偈中，佛說第一義悉檀相。

> この三つの偈（げ）において、仏は「第一義諦（だいいちぎたい）」の相（すがた）をお説きになられました。

所謂世間眾生自依見、自依法、自依論議而生諍競；戲論即諍競本，戲論依諸見生。如說偈言：

> いわゆる世の中の生きとし生けるものは、自己の見解に依り、自己の法に依り、自己の論議に依って争いを生じる。戯れの論（けじめのない言論）こそが争いの根源であり、戯れの論は様々な見解に基づいて生じる。偈にこうある：

「有受法故有諸論， 若無有受何所論？有受無受諸見等， 是人於此悉已除。」

> 「執着があるからこそ、さまざまな議論が生まれる。 もし執着がなければ、何を議論する必要があろうか。 執着のある見解も、執着のない見解も、 悟った人は、そのすべてを超えてしまっているのだ。」

行者能如實知此者，於一切法、一切戲論，不受不著，不見是實，不共諍競，能知佛法甘露味。若不爾者，則謗法。

> 修行者がこの道理をありのままに理解すれば、すべての現象やあらゆる概念の遊戯に執着せず、それらを実在とは見ず、争いを起こさずに、仏法の甘露の味を悟ることができる。もしそうでなければ、法を謗ることになる。

若不受他法，不知不取，是無智人。若爾者，應一切論議人皆無智。何以故？各各不相受法故。所謂有人自謂法第一義淨，餘人妄語不淨。

> もし他人の教えを受け入れず、理解もせず、受け取ろうともしないなら、それは無知な人である。そうであれば、すべての議論する人々は皆無知であることにならないか。なぜか。互いに相手の教えを受け入れないからである。すなわち、ある人は「自分の教えこそが第一義であり清らかで、他の人々の言葉は偽りで清らかでない」と主張するのだ。

譬如世間治法，故治法者，刑罰殺戮，種種不淨，世間人信受行之，以為真淨；於餘出家善聖人中，是最為不淨。

> 例えば世の中の治め方のようなものです。世の中の法律というものは、刑罰や殺し合いなど、様々な不浄なものを含んでいますが、世間の人はそれを信じて行い、真に清らかなものだと思っています。しかし、修行者や聖者たちの間では、それは最も不浄なものと見なされているのです。

外道出家人法，五熱中一腳立、拔髮等，尼犍子輩以為妙慧，餘人說此為癡法。如是等種種外道出家、白衣婆羅門法，各各自以為好，餘皆妄語。

> 外道の修行者の方法として、五つの熱の中で片足で立つ、髪を抜くなどがあり、ニガンタ（尼犍子）たちはそれを素晴らしい智慧と考えているが、他の人々はこれを愚かな行いだと説いている。このように様々な外道の出家者や在家のバラモンの方法は、それぞれが自分たちのやり方を良いと主張し、他者はすべて虚偽であると言っている。

是佛法中亦有犢子比丘說：「如四大和合有眼法，如是五眾和合有人法。」

> 仏法の中にも、犢子比丘という者がいてこう言っています。「四つの大きな要素が集まって眼というものがあるように、五つの集まりが集まって人というものがある」と。

《犢子阿毘曇》中說：「五眾不離人，人不離五眾，不可說五眾是人、離五眾是人，人是第五不可說法藏中所攝。」

> 『犢子阿毘曇』にはこう説かれています。 「五つの集まり（五蘊）は人（我）から離れず、人も五つの集まりから離れない。しかし、五つの集まりがその人そのものだとも言えず、また五つの集まりを離れたところに人がいるわけでもない。人は、この第五の、言葉で説明できない法の集まり（不可説法蔵）に含まれるものである。」

說一切有道人輩言：「神人，一切種、一切時、一切法門中求不可得，譬如兔角龜毛常無。復次十八界、十二入、五眾實有，而此中無人。」

> 说一切有部の者たちは言う。「神（我）は、あらゆる種類のもの、あらゆる時、あらゆる教えの方法の中に求めても得ることができない。それは、例えば兔の角や亀の毛が常に存在しないのと同じである。さらに、十八界、十二入、五蘊は実在するが、それらの中に人は存在しない。」

更有佛法中方廣道人言：「一切法不生不滅，空無所有，譬如兔角龜毛常無。」

> また、仏法の中に「方広道人」という者がいて、こう言っていた。「すべての現象は生じもせず、滅しもせず、空っぽであり、何ものも存在しない。それはあたかも、兎の角や亀の毛が常に存在しないのと同じである。」

如是等一切論議師輩，自守其法，不受餘法，此是實，餘者妄語。若自受其法，自法供養，自法修行，他法不受、不供養，為作過失。

> このように、あらゆる論者たちは、自らの教えだけを守り、他の教えを受け入れません。「これこそが真実であり、他は虚偽である」と主張します。彼らは自らの教えを受け入れ、それに供養し、それに従って修行しますが、他の教えは受け入れず、供養もせず、過失があると見なします。

若以是為清淨得第一義利者，則一切無非清淨。何以故？彼一切皆自愛法故。

> もし、「これこそが清らかであり、最高の真理の利益を得るものだ」と考えるならば、すべてのものが清らかでなくなることはありません。なぜなら、それらはすべて、自らを愛する法に基づいているからです。

問曰：

> お尋ねします。

若諸見皆有過失，第一義悉檀何者是？

> もしすべての「見解」に過ちがあるのなら、では「第一義悉檀」（最高の真理の教え）とは何でしょうか？

答曰：

> お答えしますと、

過一切語言道，心行處滅，遍無所依，不示諸法。諸法實相，無初、無中、無後，不盡、不壞，是名第一義悉檀。如摩訶衍義偈中說：

> すべての言葉の道を超え、心の働きが消え去り、遍くどこにも依るところがなく、諸々の法を示すこともありません。諸々の法の真実の姿には、初めもなく、中もなく、後もなく、尽きることもなく、壊れることもありません。これを第一義悉檀と名づけます。大乗の教えの詩偈にも説かれているとおりです。

「語言盡竟， 心行亦訖； 不生不滅，法如涅槃。 說諸行處， 名世界法；說不行處， 名第一義。

> 言葉の及ぶところは尽き果て、 心の働きもまた終わります。 生まれることも滅することもなく、 真理は涅槃の如く静かです。 あらゆる行いの領域について説くことを、世間の法（世法）と呼び、 行いの及ばないところを説くことを、第一義（最高の真理）と呼びます。

「一切實一切非實， 及一切實亦非實，一切非實非不實， 是名諸法之實相。」

> あらゆるものは「実在する」と言え、 あらゆるものは「実在しない」とも言える。 また、あらゆるものは「実在し、かつ実在しない」とも、 「実在するのでもなく、実在しないのでもない」とも言える。 これこそが、あらゆる現象の真実の姿（実相）である。

如是等處處經中說第一義悉檀。是義甚深，難見難解，佛欲說是義故，說《摩訶般若波羅蜜經》。

> このように、様々な経典の中で「第一義諦（最高の真理）」が説かれています。この真理はとても深く、見極めることも理解することも難しいものです。お釈迦様はこの真理を説こうと思われて、『摩訶般若波羅蜜経』をお説きになりました。

復次，欲令長爪梵志等大論議師於佛法中生信故，說是《摩訶般若波羅蜜經》。有梵志號名長爪，更有名先尼婆蹉衢多羅，更有名薩遮迦摩揵提等，是等閻浮提大論議師輩言：「一切論可破，一切語可壞，一切執可轉故，無有實法可信可恭敬者。」

> また、長爪梵志のような大論師たちが仏法に信仰を起こすために、この『摩訶般若波羅蜜経』が説かれたのです。 ある梵志は長爪と名乗り、他に先尼、婆蹉、衢多羅という者、さらに薩遮迦、摩揵提といった者たちがいました。彼らは閻浮提（人間界）の大論師たちで、こう言っていました。 「あらゆる論は打ち破ることができ、あらゆる言葉は論破でき、あらゆる執着は転覆させられる。だからこそ、真実の法など存在せず、信じたり敬ったりするに値するものは何もないのだ」と。

如《舍利弗本末經》中說：

> 『舎利弗の本末経』にはこう説かれています。

舍利弗舅摩訶俱絺羅，與姊舍利論議不如。俱絺羅思惟念言：「非姊力也，必懷智人，寄言母口。未生乃爾，及生長大，當如之何？」思惟已，生憍慢心，為廣論議故，出家作梵志。入南天竺國，始讀經書。諸人問言：「汝志何求？學習何經？」長爪答言：「十八種大經，盡欲讀之。」諸人語言：「盡汝壽命，猶不能知一，何況能盡？」長爪自念：「昔作憍慢，為姊所勝，今此諸人復見輕辱。」為是二事故，自作誓言：「我不剪爪，要讀十八種經書盡。」人見爪長，因號為長爪梵志。是人以種種經書智慧力，種種譏刺是法是非法、是應是不應、是實是不實、是有是無，破他論議。譬如大力狂象，搪揬蹴踏，無能制者。如是長爪梵志以論議力，摧伏諸論師已，還至摩伽陀國王舍城那羅聚落，至本生處，問人言：「我姊生子，今在何處？」有人語言：「汝姊子者，適生八歲，讀一切經書盡；至年十六，論議勝一切人。有釋種道人姓瞿曇，與作弟子。」長爪聞之，即起憍慢，生不信心而作是言：「如我姊子聰明如是，彼以何術，誘誑剃頭作弟子？」說是語已，直向佛所。

> 舎利弗の叔父である摩訶俱絺羅は、姉の舎利との議論で歯が立ちませんでした。そこで俱絺羅はこう考えました。「これは姉の力ではない。きっと智慧ある人がいて、その言葉を母の口を通して語っているのだ。生まれる前からこのようであれば、成長したらどうなることか」。そう思うと、彼は慢心を起こしました。議論に秀でようと、出家して梵志となり、南インドへ向かい経典を読み始めました。人々が「あなたは何を志し、何の経典を学んでいるのか」と尋ねると、長爪は答えました。「十八種の大経をすべて読もうとしている」。人々は言いました。「あなたの一生をもってしても、一つさえ知り尽くせないだろう。ましてや全てを極めるなど不可能だ」。長爪は心中で思いました。「昔、慢心から姉に負け、今またこれらの者たちに侮辱された」。この二つの出来事により、彼は自ら誓いを立てました。「爪を切らずに、十八種の経典を全て読み終えるまでは」。人々は彼の伸びた爪を見て、彼を「長爪梵志」と呼びました。彼は様々な経典の智慧の力をもって、あらゆる論点（これは正しい、これは間違っている、これは適切だ、これは不適切だ、これは真実だ、これは虚偽だ、これは存在する、これは無い）を鋭く批判し、他者の議論を打ち砕きました。それはちょうど、力強い狂った象が暴れまわり、誰も止められないかのようでした。こうして長爪梵志は議論の力で多くの論師たちを打ち負かし、故郷であるマガダ国のラージャグリハ、ナーラ村へと戻りました。そして生まれ故郷で人に尋ねました。「私の姉の子は今どこにいるのか」。ある人が答えました。「あなたの姉の子は、生まれてわずか八歳で全ての経典を読み終え、十六歳になる頃にはあらゆる者との議論に勝ちました。そこにゴータマという名の釈迦族の修行者がいて、彼を弟子にしたのです」。これを聞いた長爪は、たちまち慢心を起こし、不信心の念を抱いてこう言いました。「私の姉の子がこれほど聡明であるというのに、あの修行者はどのような術を用いて、彼の頭を剃り弟子にしたのか」。こう言い終えると、彼は真っ直ぐに仏の元へ向かいました。

爾時，舍利弗初受戒半月，佛邊侍立，以扇扇佛。長爪梵志見佛，問訊訖，一面坐，作是念：「一切論可破，一切語可壞，一切執可轉，是中何者是諸法實相？何者是第一義？何者性？何者相？不顛倒？」如是思惟，譬如大海水中，欲盡其涯底，求之既久，不得一法實可以入心者。「彼以何論議道而得我姊子？」作是思惟已，而語佛言：「瞿曇！我一切法不受。」

> その時、舎利弗が戒律を受けてから半月が経ち、仏のそばに立って扇子であおいでいた。すると、長爪梵志（※長い爪の修行者）が仏を訪ね、挨拶を交わした後、一方に座ってこう考えた。「あらゆる論は破ることができ、あらゆる言葉は打ち壊すことができ、あらゆる執着は転換することができる。その中で、諸法の真実の姿とは何か？ 第一義とは何か？ 本性とは何か？ 相（特徴）とは何か？ 倒錯していないものとは？」このように考え続けることは、あたかも大海の水の果てや底を尽くそうとするようなものであった。長く探し求めても、心に納められる確かな法（真理）を一つも見つけられなかった。「彼はどのような議論の道筋で、私の姉の子（※舎利弗のこと）を得たのだろうか？」そう思案してから、仏にこう言った。「ゴータマよ、私は一切の法を受け入れません。」

佛問長爪：「汝一切法不受，是見受不？」佛所質義，汝已飲邪見毒，今出是毒氣，言：「一切法不受，是見汝受不？」

> 仏、長爪に問う。「汝、一切の法を受けずと見なす、その見解を受けるか否か？」仏の問いの真意は、汝はすでに邪見の毒を飲み、今その毒気を吐き出している。すなわち「一切の法を受けず」というその見解を、汝は受けているのか否か？

爾時，長爪梵志如好馬見鞭影即覺，便著正道；長爪梵志亦如是，得佛語鞭影入心，即棄捐貢高，慚愧低頭，如是思惟：「佛置我著二處負門中：若我說『是見我受』，是負處門麁，故多人知——『云何自言一切法不受，今受是見』？此是現前妄語，是麁負處門，多人所知。第二負處門細，我欲受之，以不多人知故。」作是念已，答佛言：「瞿曇！一切法不受，是見亦不受。」

> そのとき、長爪梵志は、あたかも良馬が鞭の影を見てすぐに気づき、正しい道にはいるように、仏の言葉という鞭の影が心に入り、すぐに高ぶった心を捨てて、恥じ入り、うなだれて、こう考えました。 「仏は私を、二つの敗北の門に立たせた。もし私が『この見解を受ける』と言えば、それは粗い敗北の門であり、多くの人に知られてしまう。『私は一切の法を受け入れないと自ら言っておきながら、今この見解を受けている』というのは、目の前の明らかな虚言であり、粗い敗北の門である。多くの人が知るところとなる。第二の敗北の門は細かい。私はそれを受けることにしよう。それを知る人が多くないからだ。」 こう考えてから、仏に答えて言いました。「ゴータマよ、私は一切の法を受け入れません。この見解も受け入れません。」

佛語梵志：「汝不受一切法，是見亦不受，則無所受，與眾人無異，何用自高而生憍慢？」如是，長爪梵志不能得答，自知墮負處，即於佛一切智中起恭敬，生信心，自思惟：「我墮負處，世尊不彰我負，不言是非，不以為意。佛心柔濡，第一清淨；一切語論處滅，得大甚深法，是可恭敬處，心淨第一。」

> 仏は梵志に告げられた。「あなたは一切の法を受け入れないと言う。しかし、その『受け入れない』という見解さえも受け入れないのであれば、結局何も受け入れていないことになる。それは他の人々と同じであり、どこに誇り高ぶって傲慢になる理由があるだろうか。」 このように問われた長爪梵志は、答えることができなかった。自らが論破されたことを悟り、即座に仏の一切智に対して敬いの心を起こし、信心を生じさせた。そして自らこう思った。「私は論破されてしまったが、世尊は私の敗北を明らかにせず、善悪も言わず、それを気にも留められなかった。仏の心は柔らかく、最も清らかである。あらゆる議論の及ぶところを超え、極めて深い法を悟っておられる。まさに敬うべきお方であり、その心は最も清浄である。」

佛說法斷其邪見故，即於坐處得遠塵離垢，諸法中得法眼淨。時，舍利弗聞是語，得阿羅漢。是長爪梵志出家作沙門，得大力阿羅漢。

> 仏が説法し、その邪見を断ったことにより、舎利弗はその場で塵を離れ垢を離れ、諸々の法の中において法眼の清らかさを得た。その時、舎利弗はこの言葉を聞いて阿羅漢果を得た。この長爪梵志は出家して沙門となり、大力の阿羅漢となった。

若長爪梵志不聞般若波羅蜜氣分，離四句第一義相應法，小信尚不得，何況得出家道果？佛欲導引如是等大論議師利根人故，說是《般若波羅蜜經》。

> もし長爪梵志が般若波羅蜜の一片の香りも聞かず、四句を離れた第一義にかなう法を知らなければ、わずかな信心さえ得られない。ましてや出家の道果を得ることなどなおさらできない。仏はこのような大論議師で利根の者たちを導き入れるため、この『般若波羅蜜経』を説かれたのである。

復次，諸佛有二種說法：一者、觀人心隨可度者，二者、觀諸法相。今佛欲說諸法實相故，說是《摩訶般若波羅蜜經》。如說〈相不相品〉中，諸天子問佛：「是般若波羅蜜甚深，云何作相？」佛告諸天子：「空則是相，無相、無作相、無生滅相、無行之相，常不生、如性相、寂滅相等。」

> さらに、仏には二つの説法の方法がある。第一は、人の心を観察し、その人に合わせて教えを説くこと。第二は、すべての現象（諸法）の本質を観察して説くことである。 今、仏が諸法の真実の姿（実相）を説こうとして、この『摩訶般若波羅蜜経』を説かれた。例えば、『相不相品』の中で、天の神々が仏に問うた。「この般若波羅蜜は非常に深遠ですが、どのような相（特徴）を持つのでしょうか？」仏は天の神々に答えて言われた。「空こそがその相である。相がないこと、つくり出そうとしないこと、生じも滅しもしないこと、行いのないこと、常に生じることがないこと、あるがままの性質、静かに滅する性質などがその相である。」と。

復次，有二種說法：一者、諍處，二者、不諍處。諍處，如餘經中說；今欲明無諍處故，說是《般若波羅蜜經》。有相、無相，有物、無物，有依、無依，有對、無對，有上、無上，世界、非世界，亦如是。

> さらに、二種類の説法があります。一つは「争いのある教え」、もう一つは「争いのない教え」です。「争いのある教え」は他の経典で説かれています。今、この「争いのない教え」を明らかにするために、この『般若波羅蜜経』を説くのです。同様に、「有相」と「無相」、「有物」と「無物」、「依るものがある」と「依るものがない」、「対立するものがある」と「対立するものがない」、「優れたものがある」と「優れたものがない」、「世界」と「非世界」についても同じです。

問曰：

> お尋ねします。

佛大慈悲心，但應說無諍法，何以說諍法？

> 仏の大いなる慈悲の心は、ただ無諍の法（争いのない教え）を説くべきである。なぜ、争いを生む法を説くのだろうか。

答曰：

> お答えしますと、

無諍法皆是無相，常寂滅不可說；今說布施等及無常、苦、空等諸法，皆為寂滅無戲論故說。利根者知佛意，不起諍；鈍根者不知佛意，取相、著心故起諍。此般若波羅蜜，諸法畢竟空故，無諍處；若畢竟空可得、可諍者，不名畢竟空。是故，《般若波羅蜜經》名無諍處，有無二事皆寂滅故。

> あらゆる「無諍の法」は、みな姿形がなく、常に静かに消え去っていて、言葉で説明できるものではない。今、布施などの修行や、無常・苦・空といった様々な教えを説くのも、すべてが静かに消え去り、虚構の議論がない状態を明らかにするためである。聡明な者は仏の意図を理解し、争いを起こさない。愚かな者は仏の意図がわからず、形に捉われ、心に執着するために争いを起こすのである。この般若波羅蜜は、すべてのものが究極的に空であるがゆえに、争いのない境地である。もし、究極的な空を実体として捉え、それを争うことができるなら、それは究極の空とは呼べない。それゆえ、『般若波羅蜜経』は「無諍の境地」と名づけられる。存在と非存在の二つの事柄が、ともに静かに消え去っているからである。

復次，餘經中多以三種門說諸法，所謂善門、不善門、無記門；今欲說非善門、非不善門、非無記門諸法相故，說《摩訶般若波羅蜜經》。學法、無學法、非學非無學法，見諦斷法、思惟斷法、無斷法，可見有對、不可見有對、不可見無對，上、中、下法，小、大、無量法，如是等三法門亦如是。

> さらに、他の経典では、多くの場合、善、不善、無記という三つの門によって諸法を説いています。しかし、今ここでは、善ならず、不善ならず、無記でもない諸法の相（すがた）を説くために、『摩訶般若波羅蜜経』を説くのです。また、学法、無学、非学非無学、見諦断法、思惟断法、無断法、可見有対、不可見有対、不可見無対、上・中・下の法、小・大・無量の法など、このような三つの法門についても同様です。

復次，餘經中說四念處，隨聲聞法門。於是比丘觀內身三十六物，除欲貪病；如是觀外身，觀內外身。今於四念處，欲以異門說般若波羅蜜。如所說：菩薩觀內身，於身不生覺觀，不得身，以無所得故。如是觀外身，觀內外身，於身不生覺觀，不得身，以無所得故。於身念處中觀身而不生身覺觀，是事甚難；三念處亦如是。四正勤、四如意足、四禪、四諦等種種四法門亦如是。

> さらに、他の経典では四念処（しねんじょ）が説かれ、声聞（しょうもん）の教えに従っています。そこでは比丘（びく）が内身（ないしん）の三十六のものを観察し、欲貪（よくとん）の病を取り除くこと、このように外身（げしん）や内外身（ないげしん）を観察します。今、ここで四念処について、別の観点から般若波羅蜜（はんにゃはらみつ）を説き明かしたいと思います。それが次の通りです。菩薩（ぼさつ）は内身を観察するとき、その身体に対して覚観（かくかん）を生じることなく、身体を捉えることもありません。それは執着するものがないからです。このように外身や内外身を観察するときも、身体に対して覚観を生じず、身体を捉えることもありません。執着するものがないからです。身念処（しんねんじょ）において身体を観察しつつ、身体に対する覚観を生じさせないというのは、とても難しいことです。他の三つの念処も同様です。四正勤（ししょうごん）、四如意足（しにょいそく）、四禅（しぜん）、四諦（したい）など、さまざまな四つの法門もまた、このように理解されるべきです。

復次，餘經中佛說五眾，無常、苦、空、無我相；今於是五眾欲說異法門故，說《般若波羅蜜經》。如佛告須菩提：「菩薩若觀色是常行，不行般若波羅蜜；受、想、行、識是常行，不行般若波羅蜜；色無常行，不行般若波羅蜜；受、想、行、識無常行，不行般若波羅蜜。」五受眾、五道，如是等種種五法門亦如是。

> また、他の経典では、仏は五蘊（色・受・想・行・識）について「無常・苦・空・無我」という特徴を説かれました。今、この五蘊について別の教えの体系を示すために、『般若波羅蜜経』を説かれます。例えば、仏が須菩提にこう告げられました。 「菩薩がもし色を常住のものとして捉える行いをするなら、それは般若波羅蜜を行っていることにはならない。受・想・行・識を常住のものとして捉える行いをするなら、それも般若波羅蜜を行っていることにはならない。また、色を無常と捉える行いをしても、般若波羅蜜を行っていることにはならない。受・想・行・識を無常と捉える行いをしても、般若波羅蜜を行っていることにはならない。」 五蘊や五道など、様々な五つの法門についても同様です。

餘六、七、八等，乃至無量法門亦如是。

> 残りの第六、第七、第八などの法門も、無量の法門に至るまで、すべて同じように説かれます。

如摩訶般若波羅蜜無量無邊，說《般若波羅蜜》因緣亦無量無邊。是事廣故，今略說摩訶般若波羅蜜因緣起法竟。

> 摩訶般若波羅蜜が量りなく広がりのないものであるように、『般若波羅蜜』を説く因縁（理由や条件）もまた量りなく広がりがありません。このことは非常に広範なため、ここでは簡潔に、摩訶般若波羅蜜がどのような因縁によって現れたのかという法について説明を終えます。