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title: "大智度論 · 2 如是我聞一時釋論"
description: "大智度论由古印度龙树菩萨所造，后秦时期著名译经家鸠摩罗什翻译成中文。该论是佛教重要典籍，属于大乘中观学派的核心论著，主要阐释《大品般若经》的深奥义理。全书共一百卷，系统论述了般若空性思想、菩萨修行次第以及六度万行的实践方法，被誉为大乘佛教的百科全书。作为早期大乘佛教的代表性论典，大智度论对汉传佛教思想体系的形成影响深远，尤其为天台宗、华严宗等宗派提供了重要理论依据，在佛教哲学史上占据崇高地位。"
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### 摩訶般若波羅蜜初品如是我聞一時釋論第二

> 大般若経 初品

【經】

> お経

如是我聞：一時。

> このように私は聞きました。あるとき。

【論】

> 【論】 論とは、心を

問曰：

> お尋ねします。

諸佛經何以故初稱「如是」語？

> 仏教の経典では、なぜ最初に「如是我聞」という言葉があるのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

佛法大海，信為能入，智為能度。「如是」義者，即是信。若人心中有信清淨，是人能入佛法；若無信，是人不能入佛法。不信者言「是事不如是」，是不信相。信者言「是事如是」。譬如牛皮未柔，不可屈折；無信人亦如是。譬如牛皮已柔，隨用可作；有信人亦如是。

> 仏法は広大な海のようなものです。 「信」があれば入ることができ、「智慧」があれば渡りきることができます。 「如是（このようである）」ということ、それが「信」です。 もし心の中に清らかな「信」があれば、その人は仏法に入ることができます。 「信」がなければ、その人は仏法に入ることができません。 信じない人は「このことは、そうではない」と言います。これが不信のあり様です。 信じる人は「このことは、その通りである」と言います。 例えるならば、牛の皮がまだ柔らかくならないうちは、曲げたり折ったりできないように、信じない人もまた同じです。 例えるならば、牛の皮がもう柔らかくなれば、どんな用途にも使えるように、信じる人もまた同じです。

復次，經中說：「信如手。」如人有手，入寶山中，自在取寶；有信亦如是，入佛法無漏根、力、覺、道、禪定寶山中，自在所取。無信如無手，無手人入寶山中，則不能有所取；無信亦如是，入佛法寶山，都無所得。佛言：「若人有信，是人能入我大法海中，能得沙門果，不空剃頭染袈裟。若無信，是人不能入我法海中，如枯樹不生華實，不得沙門果，雖剃頭染衣，讀種種經，能難能答，於佛法中空無所得。」以是故，如是義在佛法初，善信相故。

> さらに、経典にはこう説かれています。「信は手のようなものである。」人が手を持っていれば、宝の山に入って自在に宝を取ることができるように、信もまた同じである。仏法という無漏の根・力・覚・道・禅定の宝の山に入って、自在にそれらを得ることができる。信がないことは手がないようなものであり、手がない人が宝の山に入っても何も取れないように、信がない人も仏法の宝の山に入っても何も得ることができない。仏は言われた。「もし人に信があれば、その人は我が大法の海に入ることができ、沙門の果を得ることができる。剃髪して袈裟をまとうことも無駄ではない。もし信がなければ、その人は我が法の海に入ることができず、枯れた木が花や実を生さないように、沙門の果を得ることはできない。たとえ髪を剃り衣を染め、種々の経典を読み、問答に巧みであっても、仏法の中では空しく何も得ることはない。」それゆえ、このような意味が仏法の初めに説かれており、善き信の相を示しているのである。

復次，佛法深遠，更有佛乃能知。人有信者，雖未作佛，以信力故能入佛法。如梵天王請佛初轉法輪，以偈請佛：

> さらに、仏の教えは深遠であり、仏だけがその全てを知ることができるのです。しかし、人が信仰の心を持つならば、たとえまだ仏になっていなくても、その信仰の力によって仏法の世界に入ることができます。たとえば、梵天（ぼんてん）王が仏に初めて法輪を転じるよう願い出た時、偈（げ）をもって仏にこう請いました。

「閻浮提先出， 多諸不淨法；願開甘露門， 當說清淨道！」

> 「この世の中には、 数々の汚れたものが溢れています。 どうか私に甘露の教えの扉を開き、 清らかな道を説いてください。」

佛以偈答：

> 仏は偈（うた）で答えた。

「我法甚難得， 能斷諸結使，三有愛著心， 是人不能解！」

> 「私の教えは実に得難く、 あらゆる束縛を断ち切る力がある。 しかし、この世への執着に 心をとらわれた者は、これを理解できない。」

梵天王白佛：「大德！世界中智，有上、中、下。善濡直心者，易可得度，是人若不聞法者，退墮諸惡難中，譬如水中蓮華，有生有熟，有水中未出者，若不得日光則不能開。佛亦如是，佛以大慈悲憐愍眾生，故為說法。」佛念：「過去、未來、現在三世諸佛法，皆度眾生為說法，我亦應爾。」如是思惟竟，受梵天王等諸天請說法。爾時，世尊以偈答曰：

> 梵天王が仏に申し上げました。「大徳よ、世の中の智慧には、上・中・下の違いがあります。心が素直でまっすぐな人は、教えを受け入れやすいのです。しかし、もしその人が法を聞かなければ、さまざまな苦しみの道に堕ちてしまいます。たとえて言えば、池の中の蓮の花には、すでに咲いたものも、花開こうとしているものも、まだ水中から出ていないものもあります。しかし、太陽の光がなければ、それらは開くことができません。仏様も同じです。仏様は大いなる慈悲の心で、すべての生きとし生けるものを憐れみ、そのために法を説かれるのです。」 仏はお考えになりました。「過去・未来・現在の三世の諸仏は、いずれも衆生を救うために法を説かれた。私もまたそうすべきである。」 このように思惟なさった後、仏は梵天王たち諸天の請いをお受け入れになり、法を説くこととされました。 その時、世尊は偈（うた）をもってお答えになりました。

「我今開甘露味門， 若有信者得歡喜；於諸人中說妙法， 非惱他故而為說。」

> 「私は今、甘露の味の門を開く。 もし信じる者がいれば、喜びを得るだろう。 人々の中にあって妙法を説くのは、 他者を悩ますためではなく、そのために説くのである。」

佛此偈中，不說布施人得歡喜，亦不說多聞、持戒、忍辱、精進、禪定、智慧人得歡喜，獨說信人。佛意如是：我第一甚深法微妙，無量無數，不可思議，不動、不猗、不著，無所得法，非一切智人則不能解。是故佛法中信力為初，信力能入，非布施、持戒、禪定、智慧等能初入佛法。如說偈言：

> 仏のこの偈において、布施する人が喜びを得るとは説かれず、また、多聞、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧のある人が喜びを得るとも説かれず、ただ信じる人だけが喜びを得ると説かれている。仏の意図はこうである。私の最も深い法は微妙で、無量無数、不可思議であり、動かず、依らず、執着せず、得るもののない法である。すべてを知る智者でなければ理解できない。ゆえに、仏の教えにおいては、信の力が最初であり、信の力によって入ることができるのであって、布施、持戒、禅定、智慧などによって初めて仏法に入ることはできない。偈に説くところのようである。

「世間人心動， 愛好福果報，而不好福因， 求有不求滅。先聞邪見法， 心著而深入，我此甚深法， 無信云何解？」

> 世の中の人々は心が動きやすく、 幸せな結果（果報）を好むけれども、 その幸せをもたらす原因（因）を好まない。 そこで、人々は存在（有）を求め、消滅（滅）を求めないのです。 先に誤った見解（邪見）の教えを聞いて、 心がそれに執着し、深く入り込んでしまっています。 私のこの非常に深い教えを、 信じる心なくして、どうして理解できるでしょうか？

如提婆達大弟子俱迦梨等，無信法故墮惡道中。是人無信，於佛法自以智慧求不能得。何以故？佛法甚深故。如梵天王教俱迦梨說偈：

> 提婆達（デーヴァダッタ）の高弟である俱迦梨のように、教えを信じないために悪道に落ちる者たちがいる。この人は信がなく、自分自身の知恵だけで仏法を求めても得ることができない。なぜか？仏法は非常に深いものだからだ。梵天王が俱迦梨に次の偈を説いて教えたように。

「欲量無量法， 智者所不量，無量法欲量， 此人自覆沒！」

> 欲というものは限りがない。 賢者はそれを計ろうとはしない。 限りのないものを計ろうとする者は、 自ら深みにはまってしまうのだ。

復次，「如是」義者，若人心善直信，是人可聽法，若無是相則不解。如所說偈：

> さらに、「如是」という意味について説明します。もし人が心が善（善良）で、まっすぐに（疑いなく）信じるなら、その人は教えを聞いて理解することができます。もしそのような性質がなければ、理解することはできません。偈で言われている通りです。

「聽者端視如渴飲， 一心入於語議中，踊躍聞法心悲喜， 如是之人應為說。」

> 聴く人は、じっと見つめ、喉の渇いた者が水を飲むように一心に言葉の意味に入り込み、 法を聞いて心から喜び、また悲しみ感動する、そういう人には説くべきである。

復次，「如是」義在佛法初，現世利、後世利、涅槃利，諸利根本，信為大力。

> さらに、「如是（このように）」という言葉の意味は、仏法の最初にあり、現世の利益、来世の利益、涅槃の利益という、あらゆる利益の根本です。そして、その中でも「信」こそが大きな力となります。

復次，一切諸外道出家，心念我法微妙，第一清淨。如是人自歎所行法，毀他人法，是故現世相打鬪諍，後世墮地獄，受種種無量苦。如說偈：

> さらに、すべての外道（仏教以外の修行者）は、次のように心に思っています。「我が教えは微妙であり、最も清らかである」と。そのような人々は、自らの行いを褒め称え、他人の教えを非難します。そのため、現世では互いに争い合い、来世では地獄に落ちて、さまざまな無量の苦しみを受けます。これを偈（うた）に示すと、次の通りです。

「自法愛染故， 呰毀他人法，雖持戒行人， 不脫地獄苦！」

> 自らの教えに執着し、他人の教えを貶めるならば、 たとえ戒律を守る修行者でも、地獄の苦しみから免れることはできない。

是佛法中，棄捨一切愛、一切見，一切吾我憍慢悉斷不著。如《栰喻經》言：「汝曹若解我栰喻法，是時善法應棄捨，何況不善法？」佛自於般若波羅蜜，不念不猗，何況餘法有猗著者？以是故，佛法初頭稱「如是」。佛意如是：我弟子無愛法，無染法，無朋黨，但求離苦解脫，不戲論諸法相。如說《阿他婆耆經》摩犍提難偈言：

> 仏法においては、一切の愛着、一切の見解、一切の「我」や「慢」の思いを完全に捨て去り、断ち切って執着しないのです。『筏喩経』（はつゆきょう）にこう説かれています。「あなたがたがもし、私が説く筏の比喩を理解したならば、その時には善い法でさえも捨て去るべきである。ましてや不善の法はなおさらである。」仏陀ご自身は、般若波羅蜜（智慧の完成）に対してさえも、こだわらず、執着しない。ましてや、他の法に執着する者がいるだろうか？それゆえに、仏法の最初に「如是（このように）」と掲げられているのです。仏陀の意図はこうです。私の弟子たちは、愛着する法もなく、染まる法もなく、仲間意識にもとらわれず、ただ苦しみからの離脱（解脱）を求めて、諸法の相（ありさま）について無駄な議論をしない。例えば『阿他婆耆経』にある、摩犍提（まけんだい）の難問に対する偈で説かれているとおりです。

「決定諸法中， 橫生種種想，悉捨內外故， 云何當得道？」

> あらゆる現象は定まっているのに、そこに様々な思いを勝手に作り出している。 内も外もすべて捨て去ったならば、どうして道を得ることができようか。

佛答言：

> 仏がお答えになりました。

「非見聞知覺， 亦非持戒得；非不見聞等， 非不持戒得。如是論悉捨， 亦捨我我所，不取諸法相， 如是可得道。」

> 見ること、聞くこと、知ること、感じることを通じて得られるものではなく、 戒律を守ることによって得られるものでもない。 また、見ない、聞かない、知らない、感じないことによって得られるものでもなく、 戒律を守らないことによって得られるものでもない。 あらゆる論じることを捨て、 「私」と「私のもの」という執着も捨て、 あらゆる現象に執着しないこと、 そのようにして道は得られるのです。

摩犍提問曰：

> 摩犍提が尋ねました。

「若不見聞等， 亦非持戒得；非不見聞等， 非不持戒得。如我心觀察， 持啞法得道！」

> もし、見たり聞いたりすることをすべて避けても、戒律を守ったことにはならない。 もし、見たり聞いたりすることを避けなくても、戒律を守っていないことにはならない。 私の心が明らかに悟ったように、ただ口を閉ざすだけで道が得られるわけではないのだ。

佛答言：

> 仏がお答えになりました。

「汝依邪見門， 我知汝癡道。汝不見妄想， 爾時自當啞！」

> 「おまえは邪見の門に依存し、私はおまえの愚かな道を知っている。 おまえは妄想を観ずることもない、その時、おまえは自然と口を閉ざすだろう！」

復次，我法真實，餘法妄語；我法第一，餘法不實，是為鬪諍本。今「如是」義，示人無諍法，聞他所說，說人無咎。以是故，諸佛經初稱「如是」。

> また、私の法は真実であり、他の法は偽りの言葉である。私の法が第一であり、他の法は真実ではない。これが争いの元である。今、「如是（このように）」という意味は、人々に争いのない法を示し、他者の語ることを聞き、語る人に咎めがないことである。それゆえに、諸仏の経典の初めに「如是（かくのごとく）」と称するのである。

略說「如是」義竟。

> 「このように」という意味の大まかな説明は以上です。

「我」者，今當說。

> 「我」について、これからお話ししましょう。

問曰：

> お尋ねします。

若佛法中言一切法空，一切無有吾我，云何佛經初頭言「如是我聞」？

> もし仏法の中で「すべての現象は空である」と言い、「すべてに我（じが）や自我は存在しない」と言うのなら、どうして仏経の冒頭に『このように私は聞いた』と書かれているのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

佛弟子輩雖知無我，隨俗法說我，非實我也。譬如以金錢買銅錢，人無笑者。何以故？賣買法應爾。言我者亦如是，於無我法中而說我，隨世俗故不應難。如《天問經》中偈說：

> 仏弟子たちは「無我」を理解していても、世俗の習慣に従って「私」と言うことがあります。それは真実の「私」ではありません。例えば、金貨で銅貨を買うとき、誰も笑わないのと同じです。なぜなら、売買の決まりごとだからです。「私」と言うのも同じように、本来「私」のない世界で「私」と言うのは、世間の慣習に従っているだけであり、非難すべきではないのです。『天問経』の偈頌にもこうあります。

「有羅漢比丘， 諸漏已永盡，於最後邊身， 能言吾我不？」

> 「煩悩の汚れをすべて永遠に滅ぼし尽くした、 最後のこの身を生きる阿羅漢の修行者は、 『私』や『我』と言うことができるのだろうか？」

佛答言：

> 仏がお答えになりました。

「有羅漢比丘， 諸漏已永盡，於最後邊身， 能言有吾我。」

> 「ある阿羅漢の比丘は、すでにすべての煩悩を尽くし、この世での最後の身でありながら、『自己』や『我』があると言うことができる。」

世界法中說我，非第一實義中說。以是故，諸法空無我，世界法故，雖說我，無咎。

> 世の中の通常の言葉では「私」と言いますが、それは絶対的な真実の意味で言っているのではありません。ですから、すべての現象には実体としての「私」はなく、空なのです。世間の慣習に従って「私」と言っても、それは間違いではありません。

復次，世界語言有三根本：一者邪見，二者慢，三者名字。是中二種不淨，一種淨。一切凡人三種語：邪、慢、名字；見道學人二種語：慢、名字；諸聖人一種語：名字。內心雖不違實法，而隨世界人故共傳是語，除世界邪見，故隨俗無諍。以是故，除二種不淨語，本隨世故用一種語。佛弟子隨俗故說我，無有咎。

> さらに、この世界のことばには三つの根本がある。第一は邪見、第二は慢、第三は名前である。このうち、二つは清らかでなく、一つは清らかである。凡夫は三種のことば、すなわち邪見、慢、名前を用いる。真理を見た学び人は二種のことば、慢と名前を用いる。聖人はただ一種のことば、名前のみを用いる。心の内では実法に背かないが、世界の人々に合わせてこのことばを伝える。世界の邪見を除くために、世俗に従って争わない。それゆえ、二つの清らかでないことばを除き、世俗に従って一つのことばを用いる。仏弟子も世俗に従って「私」と言うが、それは咎められることではない。

復次，若人著無吾我相言是實，餘妄語，是人應難：「汝一切法實相無我，云何言如是我聞？」今諸佛弟子，一切法空無所有，是中心不著，亦不言著諸法實相，何況無我法中心著？以是故，不應難言何以說我。如《中論》中偈說：

> さらに、もし人が「無我」という相に執着して「これこそが真実であり、他は偽りである」と言うならば、その人は問い詰められるべきです。「すべての法の真実の相には我がないのに、どうして『このように私は聞いた』と言うのか？」と。しかし、今や仏の弟子たちは、すべての法が空であり、何一つ実体がないと知っています。その心は何にも執着せず、「諸法の真実の相に執着する」とも言いません。ましてや「無我」という法に心を執着することなどありえません。ゆえに、「なぜ『我』と言うのか」と問い詰めるべきではないのです。これは『中論』の偈に説かれる通りです。

「若有所不空， 應當有所空，不空尚不得， 何況得於空？凡人見不空， 亦復見於空，不見見無見， 是實名涅槃。非二安隱門， 能破諸邪見；諸佛所行處， 是名無我法。」

> もし「空ではないもの」があるのなら、 それに対応して「空」もあるはずだ。 しかし、「空ではないもの」すら実在しないのに、 ましてや「空」が実在するはずがない。 凡夫は「空ではないもの」を見て、 同時に「空」という概念も見てしまう。 「見ること」も「見えるもの」も「見る者」もない、 その境地こそが本当の涅槃（ねはん）である。 二つの極端を超えた安らぎの門こそが、 あらゆる邪悪な見解を打ち破る。 諸仏が歩まれたその道を、 「我（が）のない真実の教え」と名づけるのである。

略說「我」義竟。

> 「私」という意味について、簡単に説明しました。

「聞」者，今當說。

> 「聞く」とは、これからお話しすることです。

問曰：

> お尋ねします。

聞者，云何聞？用耳根聞耶？用耳識聞？用意識聞耶？

> 「聞く」とは、いったいどのように聞くことなのでしょうか。耳そのもので聞くのでしょうか。耳の認識作用で聞くのでしょうか。意識の働きで聞くのでしょうか。

若耳根聞，耳根無覺知故，不應聞。

> もし耳の器官で聞こうとしても、耳そのものに感覚や認識の働きはありません。ですから、耳で聞くことはできません。

若耳識聞，耳識一念故不能分別，不應聞。

> もし耳の認識（耳識）が聞くというなら、耳識は一つの瞬間の認識でしかなく、それゆえに区別することができません。よって、本来は聞くことができないはずです。

若意識聞，意識亦不能聞。何以故？先五識識五塵，然後意識識；意識不能識現在五塵，唯識過去、未來五塵。若意識能識現在五塵者，盲聾人亦應識聲色。何以故？意識不破故。

> もし意識が聞くことができるとしても、意識もまた聞くことはできない。なぜなら、まず五つの感覚（五識）が五つの対象（五塵）を知覚し、その後で意識が認識するからだ。意識は現在の五つの対象を認識することはできず、ただ過去や未来の五つの対象を認識するのみである。もし意識が現在の五つの対象を認識できるなら、目が見えない人や耳が聞こえない人もまた、音や形を認識できるはずである。なぜなら、意識が損なわれていないからである。

答曰：

> お答えしますと、

非耳根能聞聲，亦非耳識，亦非意識。能聞聲事，從多因緣和合故得聞聲，不得言一法能聞聲。何以故？耳根無覺故，不應聞聲；識無色無對無處故，亦不應聞聲；聲無覺亦無根故，不能知聲。爾時，耳根不破，聲至可聞處，意欲聞；情、塵、意和合故耳識生；隨耳識，即生意識，能分別——種種因緣得聞聲。以是故，不應作是難：「誰聞聲？」佛法中亦無有一法能作、能見、能知。如說偈：

> 耳の根（感覚器官）が音を聞くのではありません。また、耳の認識（耳識）も、心の認識（意識）も、聞く主体ではありません。音を聞くという出来事は、多くの原因と条件が集まって初めて成り立ちます。したがって、「一つの法（要素）が音を聞く」とは言えません。なぜなら？耳の根には感覚がなく、聞くことはできないからです。認識（識）には形もなく、対する対象もなく、場所もないため、やはり聞くことはできません。音それ自体にも感覚も根もなく、音を知ることはできません。そのとき、耳の根が壊れておらず、音が聞こえる範囲にあり、心が聞こうと欲するとき──感覚器官、対象、心の三つが和合することで耳の認識が生まれます。耳の認識に従って、直ちに心の認識（意識）が生じ、分別することができます──このように様々な因縁が集まって音を聞くのです。それゆえ、「誰が音を聞くのか？」という疑問は成立しません。仏法の中にも、単独で「作る」「見る」「知る」という一つの法は存在しません。偈にこうあります：

「有業亦有果， 無作業果者，此第一甚深， 是法佛能見。雖空亦不斷， 相續亦不常，罪福亦不失， 如是法佛說。」

> 業（カルマ）はあり、その結果（果報）もある。 しかし、業を行う者も、結果を受ける者も存在しない。 これこそが第一の深遠な真理であり、 この法を悟ることができるのは、仏だけである。 空（くう）であるがゆえに、断滅することはなく、 因果は連続しながらも、決して固定したものではない。 罪も福も失われることはない―― このように、仏は説かれたのである。

略說「聞」竟。

> 「聞く」についての簡単な説明は以上です。

「一」者，今當說。

> 一（いち）とは、これからお話しします。

問曰：

> お尋ねします。

佛法中，數、時等法實無，陰、入、持所不攝故，何以言「一時」？

> 仏法において、「数」や「時」などの現象は実体としては存在しません。それらは五蘊（色・受・想・行・識）、十二処（六根と六境）、十八界（六根・六境・六識）という分類には含まれないからです。では、なぜ経典には「一時（あるとき）」と記されているのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

隨世俗故有一時，無有咎。若畫泥木等作天像，念天故禮拜，無咎。說一時亦如是，雖實無一時，隨俗說一時，無咎。

> 世俗の習慣に従って「一時」と言っても、それは誤りではありません。例えば、泥土や木で天の像を造り、天を念じて礼拝することは誤りではありません。「一時」と言うのも同じようなものです。実際には絶対的な「一時」は存在しないけれど、世俗に従って「一時」と言っても、それは誤りではないのです。

問曰：

> お尋ねします。

不應無一時。

> 一度の機会も無駄にしてはいけません。

佛自說言：「一人出世間，多人得樂，是者何人？佛世尊也。」亦如說偈：

> 仏陀みずからおっしゃいました。「一人がこの世に現れることで、多くの人が安らぎを得る。その一人とは誰か？ それは仏陀、世にも尊い方である。」また、次のような偈（うた）も説かれています。

「我行無師保， 志一無等侶，積一行得佛， 自然通聖道。」

> 私は師に頼ることなく、ただ一つの志を持ち、他に並ぶ者もありませんでした。 一つの行を積み重ねて仏となることができ、自然に聖なる道に通じたのです。

如是等，佛處處說一，應當有一。

> このように、仏はあらゆる場面で「一（いつつ）」について説かれているのですから、その「一（いつつ）」という教えは確かに存在するはずです。

復次，一法和合故，物名為一，若實無一法，何以故一物中一心生，非二非三？二物中二心生，非一非三？三物中三心生，非二非一？若實無諸數，一物中應二心生，二物中應一心生；如是等三、四、五、六皆爾。以是故，定知一物中有一法，是法和合故，一物中一心生。

> また、一つの法が和合するからこそ、一つの物が存在すると言える。もし実として一つの法が存在しないなら、どうして一つの物の中から一つの心が生じ、二つや三つではないのか？二つの物の中から二つの心が生じ、一つや三つではないのか？三つの物の中から三つの心が生じ、二つや一つではないのか？もし実としてこれらの数が存在しないなら、一つの物の中からは二つの心が生じ、二つの物の中からは一つの心が生じてもよいはずである。同様に、三、四、五、六のすべての場合もそうなる。したがって、一つの物の中には一つの法が存在し、この法が和合するからこそ、一つの物の中から一つの心が生じると確かに知ることができる。

答曰：

> お答えしますと、

若「一」與「物」一，若「一」與「物」異，二俱有過。

> 「一」と「もの」が同じであると言っても、また「一」と「もの」が異なると言っても、そのどちらにも誤りがある。

問曰：

> お尋ねします。

若一，有何過？

> 一つに統一すると、どのような問題が生じるのか？

答曰：

> お答えしますと、

若「一」、「瓶」，是一義，如因提梨、釋迦，亦是一義。若爾者，在在有一者，應皆是瓶；譬如在在有因提梨，亦處處有釋迦。今衣等諸物皆應是瓶，「一」、「瓶」一故。如是處處一，皆應是瓶；如瓶、衣等悉是一物，無有分別。

> もし「一」と「瓶」が同じ意味だとすると、それは因提梨（インドラ）と釋迦（シャーカ）が同じ意味であるのと同じだ。もしそうなら、「一」があるところはどこでも瓶でなければならない。ちょうど因提梨があるところに釋迦もあるように。すると、衣などのあらゆるものがすべて瓶でなければならなくなる。「一」と「瓶」が同じだからだ。このように、どこにでもある「一」はすべて瓶であるべきで、瓶や衣などはすべて同じものであり、区別がないことになる。

復次，「一」是數法，「瓶」亦應是數法。瓶體有五法，「一」亦應有五法。瓶，有色有對；一，亦應有色有對。若在在一不名為瓶，今不應「瓶」、「一」一！若說一不攝瓶，若說瓶亦不攝一，「瓶」、「一」不異故。

> さらに、「一」というのは数えるための概念であり、「瓶」（かめ）もまた数えるための対象であるとするならば、瓶という物体には五つの要素（色・形など）があるのだから、「一」という数にも五つの要素があるはずである。瓶には色と形（物質的な性質）がある。そうであれば、「一」にも色と形があるはずだ。もし「一」というものが瓶とは別のものであるならば、今ここで「瓶」と「一」を同一視してはならない。「一」と言えば瓶を含まず、瓶と言えば「一」を含まない。しかしながら、「瓶」と「一」は本来別のものではないのである。

又復欲說一，應說瓶；欲說瓶，應說一，如是則錯亂。

> さらに、もし「一」を説こうとして「瓶」を説き、あるいは「瓶」を説こうとして「一」を説くなら、それは混乱を招くことになります。

問曰：

> お尋ねします。

一中過如是，異中有何咎？

> 一つの中にも過ちがあるのに、異なるものにはどんな欠点があるというのか？

答曰：

> お答えしますと、

若一與瓶異，瓶則非一；若瓶與一異，一則非瓶。若瓶與一合，瓶名一者，今一與瓶合，何以不名一為瓶？是故不得言瓶異一。

> もし瓶が「一」と異なるなら、瓶は「一」ではない。もし瓶と「一」が異なるなら、「一」は瓶ではない。もし瓶と「一」が結びついて瓶を「一」と呼ぶなら、今「一」と瓶が結びついているのに、なぜ「一」を瓶と呼ばないのか。よって、瓶は「一」と異なるとは言えない。

問曰：

> お尋ねします。

雖一數合故，瓶為一，然一不作瓶。

> たとえ一つの数が集まることで瓶が一つになったとしても、その「一」が瓶を作ったわけではないのです。

答曰：

> お答えしますと、

諸數初一，一與瓶異，以是故瓶不作一。一無故，多亦無。何以故？先一後多故。如是異中，一亦不可得。

> 数は一から始まりますが、一という数は瓶そのものとは異なります。だから瓶は一ではありません。一が存在しないなら、多数もまた存在しません。なぜなら、一があって初めて多数が生じるからです。同様に、差異の中に一を見出すこともできません。

以是故，二門中求一法不可得，不可得故，云何陰、持、入攝？但佛弟子隨俗語言名為一，心實不著，知數法名字有。以是故，佛法中言一人、一師、一時，不墮邪見咎。

> それゆえ、「二つの門の中で一つの法を求めることはできない」。得られないものだから、どうして五陰・十二入・十八持に含まれ得るだろうか。ただ仏の弟子たちは世俗の言葉に従って「一つのもの」と呼ぶが、心は実際には執着しない。数字や名称が仮にあるだけだと知っているからだ。それゆえ、仏法の中で「一人・一師・一時」と言っても、誤った見解に陥ることはない。

略說「一」竟。

> 「一」について、かいつまんでお話ししました。

「時」者，今當說。

> 「時」とは、ここでこれから説明します。

問曰：

> お尋ねします。

天竺說「時」名有二種：一名迦羅，二名三摩耶。佛何以不言迦羅而言三摩耶？

> インドでは「時」という言葉に二種類あります。一つは「カラ」、もう一つは「サマヤ」と呼ばれます。仏陀はなぜ「カラ」と言わずに「サマヤ」と言うのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

若言迦羅，俱亦有疑。

> もし「同時」と言うならば、どちらも疑わしいことになる。

問曰：

> お尋ねします。

輕易說故，應言迦羅；迦羅二字，三摩耶三字，重語難故。

> 時を表すに「迦羅」という短い単語を使うべきです。「迦羅」の二字に対し、「三摩耶」は三字であって、重ねて言うことが難しいからです。

答曰：

> お答えしますと、

除邪見故，說三摩耶，不言迦羅。

> 邪見を除くために「三摩耶（平等の時）」と説き、「迦羅（特定の時）」とは言わないのです。

問曰：

> お尋ねします。

有人言：「一切天地好醜皆以時為因，如《時經》中偈說：

> ある人が言う。「あらゆる天や地、善悪のすべては、時に因っている。例えば『時経』の中の偈にこうある。

「『時來眾生熟， 時至則催促；時能覺悟人， 是故時為因。世界如車輪， 時變如轉輪；人亦如車輪， 或上而或下。』」

> 「時が来れば衆生は熟し、時が至れば（行動を）促す。 時は人を目覚めさせる力を持つ。ゆえに『時』が因となる。 世界は車輪のように巡り、時はその車輪のように移り変わる。 人もまた車輪のようであり、ある時は上がり、またある時は下がる。」

更有人言：「雖天地好醜一切物非時所作，然時是不變因，是實有。時法細故，不可見、不可知，以華果等果故可知有時。往年今年，久近遲疾，見此相，雖不見時，可知有時。何以故？見果知有因故。以是故有時法，時法不壞故常。」

> さらにこう言う者もある。「天地や美醜を含め、あらゆるものは『時』によって作られるわけではないが、しかし『時』こそが不変の原因であり、実在するものである。『時』という法は微細であるため、見ることも知ることもできない。しかし、花や実などの結果を通じて、『時』が存在することを知ることができる。去年と今年、長い時間と短い時間、遅いものと速いもの、これらの兆しを見ることによって、直接『時』を見ることはできなくても、『時』が存在することを知ることができる。なぜなら、結果を見れば原因が存在することを知るからである。それゆえに『時』という法は存在する。『時』という法は壊れることがないから、常に存在するのである。」

答曰：

> お答えしますと、

如泥丸是現在時，土塵是過去時，瓶是未來時。時相常故，過去時不作未來時；汝經書法，時是一物，以是故，過去世不作未來世，亦不作現在世，雜過故。過去世中亦無未來世，以是故無未來世。現在世亦如是。

> 泥の塊が現在の時間であるとすれば、土の塵は過去の時間、瓶は未来の時間にあたります。時間の形態は常に変わらないため、過去の時間は未来の時間になることはありません。あなたの経典の教えによれば、時間は一つの実体です。したがって、過去の世界は未来の世界になることも、現在の世界になることもありません。それは矛盾が生じるからです。過去の世界の中に未来の世界は存在しません。これによって未来の世界は存在しないことになります。現在の世界もこれと同じです。

問曰：

> お尋ねします。

汝受過去土塵時，若有過去時，必應有未來時，以是故實有時法。

> 過去の大地の塵のような時があると認めるなら、過去という時がある以上、必ず未来という時も存在しなければなりません。したがって、時間というものは実在すると言えるのです。

答曰：

> お答えしますと、

汝不聞我先說，未來世瓶，過去世土塵。未來世不作過去世，墮未來世相中是未來世相時，云何名過去時？以是故，過去時亦無。

> あなたは私が先に説いたことを聞いていませんか。「未来の瓶」も「過去の土くれ」も実体ではないと。未来は過去にはなりません。もし「未来の相」に執着しているなら、それはいったいなぜ「過去の時」と呼ばれるのでしょう？ ですから、過去の時も実在しないのです。

問曰：

> お尋ねします。

何以無時？必應有時。現在有現在相，過去有過去相，未來有未來相。

> なぜ「時がない」と言うのか？必ず「時がある」のだ。現在には現在の姿があり、過去には過去の姿があり、未来には未来の姿がある。

答曰：

> お答えしますと、

若令一切三世時有自相，應盡是現在世，無過去、未來時。若今有未來，不名未來，應當名現在。以是故，是語不然！

> もし三世のすべてのものにそれぞれ独自の性質（自相）があるとすれば、すべて現在世となってしまい、過去や未来の時は存在しなくなるでしょう。もし未来にあるものが「未来」とは呼ばれず、すべて「現在」と呼ばれるべきです。だからこそ、この主張は正しくありません。

問曰：

> お尋ねします。

過去時、未來時非現在相中行，過去時過去世中行，未來世未來時中行。以是故，各各法相有時。

> 過去の時、未来の時、現在の相の中では起こりません。過去の時は過去の世の中で起こり、未来の世は未来の時の中で起こります。ですから、それぞれの法の相には時があるのです。

答曰：

> お答えしますと、

若過去復過去，則破過去相；若過去不過去，則無過去相。何以故？自相捨故。未來世亦如是。以是故，時法無實，云何能生天地好醜及華果等諸物？

> もし過去がさらに「過ぎ去る」のなら、過去という性質は壊れてしまう。もし過去が「過ぎ去らない」のなら、過去という性質は存在しない。なぜか？自分の性質が失われるからだ。未来の世も同じである。それゆえ、時間というものには実体がない。どうして時間が天地の美醜や花や果実などの様々なものを生み出せるだろうか。

如是等種種除邪見故，不說迦羅時，說三摩耶。見陰、界、入生滅，假名為時，無別時。所謂方、時、離、合，一、異、長、短等名字，出凡人心著，謂是實有法；以是故，除棄世界名字語言法。

> このように、様々な誤った見解を除くため、固定的な時間（迦羅時）については説かず、柔軟な時間（三摩耶）について説くのです。五蘊・十八界・十二入などの生滅する現象を観察すると、それらは仮に名づけられた時間であって、時間それ自体が独立して存在するわけではありません。いわゆる、方向・時間・分離・結合・同一性・異質性・長さ・短さなどの言葉は、凡夫の心の執着から生じたものであり、それらを実在のものとして捉えているにすぎません。ですから、そうした世界の名称や言葉による理解を超えていくべきなのです。

問曰：

> お尋ねします。

若無時，云何聽「時食」、遮「非時食」是戒？

> もし「時」というものが存在しないのなら、なぜ戒律で「時食」（定められた時間に食べること）を許し、「非時食」（定められていない時間に食べること）を禁じているのでしょうか？

答曰：

> お答えしますと、

我先已說「世界名字法有，時非實法」，汝不應難！亦是毘尼中結戒法，是世界中實，非第一實法相，吾我法相實不可得故；亦為眾人瞋呵故，亦欲護佛法使久存，定弟子禮法故，諸三界世尊結諸戒。是中不應求：有何實？有何名字等？何者相應？何者不相應？何者是法如是相？何者是法不如是相？以是故，是事不應難！

> 私はすでに「世界の名前は方便として存在するものであり、時には実体ではない」と述べました。あなたはそれに対して難詰すべきではありません。 また、戒律の中での結戒の法も、世界においては実在として扱われますが、第一義の実相ではありません。なぜなら、我や法という実体は決して得られるものではないからです。 さらに、人々の非難や怒りを避けるため、また仏法を守り長く存続させ、弟子たちの礼儀作法を定めるために、三界の世尊は諸々の戒を結んだのです。 したがって、これらの戒について、次のように問い詰めるべきではありません。 「何が実在か？何が名前か？何が相応しく、何が相応しくないのか？何が法の如是の相であり、何が法の不如是の相なのか？」 これらの理由により、このようなことは難詰してはならないのです。

問曰：

> お尋ねします。

若「非時食」、「時藥」、「時衣」，皆是柯邏，何以不說三摩耶？

> 「非時食」「時薬」「時衣」のすべてが「カーラ（時）」に当たるのなら、なぜ三摩耶（時）として扱わないのか。

答曰：

> お答えしますと、

此毘尼中說，白衣不得聞，外道何由得聞而生邪見！餘經通皆得聞，是故說三摩耶令其不生邪見。三摩耶詭名，時亦是假名稱。又佛法中多說三摩耶，少說柯邏，少故不應難。

> 毘尼（律）の中で説かれていることは、在家の人は聞くことができません。ましてや外道がそれを聞いて邪見を生じることはありえません。その他の経典はすべて聞くことが許されています。そこで「三摩耶（時）」と言って、邪見を生じさせないようにしているのです。「三摩耶」は仮の名であり、「時」もまた仮の呼び名にすぎません。また、仏法の中では「三摩耶」と言うことが多く、「柯邏」と言うことは少ないのです。少ないものを取り上げて難じてはなりません。

「如是、我、聞、一、時」五語各各義略說竟。

> このように、私は聞きました。ある時、\[お釈迦様が\] …という、五つの言葉のそれぞれの意味について、簡潔に説明を終えます。

## 大智度論卷第一

> 『大智度論』巻第一