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title: "大智度論 · 4 婆伽婆釋論"
description: "大智度论由古印度龙树菩萨所造，后秦时期著名译经家鸠摩罗什翻译成中文。该论是佛教重要典籍，属于大乘中观学派的核心论著，主要阐释《大品般若经》的深奥义理。全书共一百卷，系统论述了般若空性思想、菩萨修行次第以及六度万行的实践方法，被誉为大乘佛教的百科全书。作为早期大乘佛教的代表性论典，大智度论对汉传佛教思想体系的形成影响深远，尤其为天台宗、华严宗等宗派提供了重要理论依据，在佛教哲学史上占据崇高地位。"
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### 大智度初品中婆伽婆釋論第四

> 大智度初品 婆伽婆の解釈 第四

【經】

> お経

婆伽婆。

> 世尊よ。

【論】

> 【論】 論とは、心を

今當說。

> それでは、これより説き明かしましょう。

釋曰：

> （訳して言えば）

云何名婆伽婆？

> いかにして「婆伽婆（バガヴァ、世尊）」と名づけるのか。

婆伽婆者，「婆伽」言「德」，「婆」言「有」，是名有德。

> 「婆伽婆」というのは、「婆伽」は「徳」を意味し、「婆」は「有する」という意味です。つまり、徳を有する者という意味になります。

復次，「婆伽」名「分別」，「婆」名「巧」，巧分別諸法總相別相，故名「婆伽婆」。

> さらに、「婆伽」とは「分別」を意味し、「婆」とは「巧み」を意味します。つまり、あらゆる現象の全体的な性質と個別の性質を巧みに分別するということであり、ゆえに「婆伽婆」と呼ばれるのです。

復次，「婆伽」名「名聲」，「婆」名「有」，是名「有名聲」，無有得名聲如佛者。轉輪聖王、釋、梵、護世者，無有及佛，何況諸餘凡庶！所以者何？轉輪聖王與結相應，佛已離結；轉輪聖王沒在生、老、病、死泥中，佛已得渡；轉輪聖王為恩愛奴僕，佛已永離；轉輪聖王處在世間曠野災患，佛已得離；轉輪聖王處在無明闇中，佛處第一明中；轉輪聖王若極多領四天下，佛領無量諸世界；轉輪聖王財自在，佛心自在；轉輪聖王貪求天樂，佛乃至有頂樂亦不貪著；轉輪聖王從他求樂，佛內心自樂。以是因緣，佛勝轉輪聖王。諸餘釋、梵、護世者，亦復如是，但於轉輪聖王小勝。

> さらに、「バガ」とは「名声」を意味し、「バ」とは「有つ」という意味です。つまり「有名声を持つ者」ということであり、仏陀のように名声を得た方はいません。転輪聖王や帝釈天、梵天、護世四天王でさえ、仏陀には及ばないのです。ましてや他の凡夫たちはなおさらです。なぜなら、転輪聖王は煩悩と結びついていますが、仏陀はすでに煩悩を離れているからです。転輪聖王は生・老・病・死の泥沼に沈んでいますが、仏陀はすでにそこを渡り終えています。転輪聖王は愛執の奴隷ですが、仏陀はそれを永遠に離れています。転輪聖王は世間という荒野の災いの中にありますが、仏陀はすでにそこから離れています。転輪聖王は無明の暗闇の中にいますが、仏陀は最高の光明の中におられます。転輪聖王はせいぜい四つの大陸を治めるに過ぎませんが、仏陀は無量の世界を統べています。転輪聖王は財産において自在ですが、仏陀は心において自在です。転輪聖王は天の楽しみを貪り求めますが、仏陀は有頂天の楽しみさえも執着しません。転輪聖王は他者から楽しみを求めますが、仏陀は心から自然に楽しまれます。これらの理由により、仏陀は転輪聖王よりも優れています。その他の帝釈天や梵天、護世四天王についても同様であり、彼らはただ転輪聖王よりわずかに優れているに過ぎません。

復次，「婆伽」名「破」，「婆」名「能」，是人能破婬怒癡故，稱為「婆伽婆」。

> さらに、「婆伽」とは「破る」という意味であり、「婆」とは「能くする」という意味です。この方は、欲望・怒り・無知を打ち破ることができるので、「婆伽婆」と呼ばれます。

問曰：

> お尋ねします。

如阿羅漢、辟支佛亦破婬怒癡，與佛何異？

> 阿羅漢や辟支仏（独覚）も、欲・怒り・愚痴を打ち破っていますが、仏とどこが違うのでしょうか？

答曰：

> お答えしますと、

阿羅漢、辟支佛雖破三毒，氣分不盡；譬如香在器中，香雖出，餘氣故在。又如草木薪火燒煙出，炭灰不盡，火力薄故；佛三毒永盡無餘，譬如劫盡，火燒須彌山，一切地都盡，無煙無炭。如舍利弗瞋恚氣殘，難陀婬欲氣殘，必陵伽婆磋慢氣殘；譬如人被鎖，初脫時，行猶不便。

> 阿羅漢や辟支仏（ひゃくしぶつ）は、貪・瞋・痴（とん・じん・ち）の三毒を断ち切ってはいても、その気配が完全に消え去っているわけではありません。例えるなら、香りが器の中に残っているようなものです。香気は放たれても、なお余韻が残っています。また、草木や薪を燃やして煙は出ても、炭や灰が残るようなものです。火力が弱いからです。しかし、仏における三毒は永遠に尽き、余すところなく消えています。たとえば、劫（こう）の終わりに、火が須弥山（しゅみせん）を焼き尽くし、大地のすべてが灰燼と化し、煙も炭も残らないようなものです。 舎利弗（しゃりほつ）にはわずかな怒りの気配が残り、難陀（なんだ）には欲望の気配が、必陵伽婆磋（ひつりょうがばしゃ）には慢心の気配が残っていました。まるで鎖に繋がれていた人が、解かれたばかりのとき、まだ自由に歩くことができないようなものです。

時，佛從禪起經行，羅睺羅從佛經行，佛問羅睺羅：「何以羸瘦？」羅睺羅說偈答佛：

> その時、仏は瞑想から立ち上がり、歩行禅（経行）をされました。羅睺羅も仏に従って歩行禅をしました。仏は羅睺羅に尋ねられました。「どうしてそんなにやつれているのか？」羅睺羅は偈（詩句）をもって仏に答えました。

「若人食油則得力， 若食酥者得好色，食麻滓菜無色力， 大德世尊自當知！」

> もし人が油を食べれば力がつき、 もし酥（酥油）を食べれば美しい肌になる。 麻の搾りかすや野菜を食べれば、肌色も力も衰える。 これらのことは、尊い世尊よ、あなたがよくご存じのはずです。

佛問羅睺羅：「是眾中誰為上座？」羅睺羅答：「和上舍利弗。」佛言：「舍利弗食不淨食。」爾時，舍利弗轉聞是語，即時吐食，自作誓言：「從今日不復受人請。」是時，波斯匿王、長者須達多等，來詣舍利弗所，語舍利弗：「佛不以無事而受人請，大德舍利弗復不受請，我等白衣云何當得大信清淨？」舍利弗言：「我大師佛言：『舍利弗食不淨食。』今不得受人請。」於是波斯匿等至佛所，白佛言：「佛不常受人請，舍利弗復不受請，我等云何心得大信？願佛勅舍利弗還受人請！」佛言：「此人心堅，不可移轉。」佛爾時引本生因緣：「昔有一國王為毒蛇所囓，王時欲死，呼諸良醫令治蛇毒。時諸醫言：『還令蛇嗽，毒氣乃盡。』是時諸醫各設呪術，所囓王蛇即來王所。諸醫積薪燃火，勅蛇還嗽汝毒，若不爾者，當入此火！毒蛇思惟：『我既吐毒，云何還嗽？此事劇死！』思惟心定，即時入火。爾時毒蛇，舍利弗是。世世心堅，不可動也。」

> 佛が羅睺羅に問われた。「この会衆の中で、誰が上座であるか？」 羅睺羅は答えた。「和尚の舍利弗です。」 佛は言われた。「舍利弗は不浄のものを食べている。」 その時、舍利弗はこの言葉を聞くと、すぐに食べたものを吐き出し、自ら誓いを立てた。「今日より、今後は人からの招請を受けない。」 この時、波斯匿王や長者須達多らが舍利弗のもとに来て、舍利弗に言った。「佛は無事でいながら招請を受けることはありません。大徳舍利弗までもが招請を受けないなら、私たち在家の者は、どのようにして大きな信と清らかさを得られるのでしょうか？」 舍利弗は言った。「私の師である佛が、『舍利弗は不浄のものを食べている』と言われました。今は人の招請を受ける訳にはいきません。」 そこで波斯匿らは佛のもとに行き、申し上げた。「佛は常に人の招請を受けられるわけではありません。舍利弗までもが招請を受けなければ、私たちはどのようにして心に大きな信を得たらよいでしょうか。どうか佛様のお力で、舍利弗に再び人の招請をお受けいただくようお命じください！」 佛は言われた。「この者の心は堅く、動かすことはできない。」 そこで佛は、過去世の因縁の話をされた。「昔、ある国王が毒蛇に噛まれ、王は死にそうになった。王は名医たちを呼び寄せ、蛇の毒を治させようとした。その時、医師たちは言った。『蛇に再び毒を吸い出させれば、毒気は尽きます。』そこで医師たちはそれぞれ呪術を施し、王を噛んだ蛇を王のもとに呼び寄せた。医師たちは薪を積んで火を燃やし、蛇に『お前の毒を再び吸い出せ。さもなければ、この火の中に入れ！』と命じた。毒蛇は考えた。『私はもう毒を吐き出したのに、どうして再び吸い出せるだろうか？これは死ぬよりも辛いことだ。』こう考えて心を決め、すぐに火の中へ入った。その時の毒蛇こそ、舍利弗である。彼は世々を通じて心が堅く、決して動かされないのだ。」

復次，長老必陵伽婆蹉常患眼痛，是人乞食，常渡恒水，到恒水邊彈指言：「小婢住！莫流！」水即兩斷，得過乞食。是恒神到佛所白佛：「佛弟子必陵伽婆蹉，常罵我言小婢住！莫流水！」佛告必陵伽婆蹉懺謝恒神！必陵伽婆蹉即時合手語恒神言：「小婢莫瞋！今懺謝汝！」是時，大眾笑之：「云何懺謝而復罵耶？」佛語恒神：「汝見必陵伽婆蹉合手懺謝不？懺謝無慢而有此言，當知非惡。此人五百世來，常生婆羅門家，常自憍貴，輕賤餘人，本來所習，口言而已，心無憍也。」

> また、長老婆蹉（ばらだわじゃ）は、常に目の痛みに悩まされていた。托鉢のため、いつも恒河を渡らねばならなかった。川辺に来るたび、指を鳴らして言った。「小婢（しょうひ）、止まれ。流れるな！」すると水はたちまち二つに分かれ、彼は川を渡り托鉢することができた。 ある時、恒河の神が仏のもとに行き、申し上げた。「仏弟子の婆蹉は、いつも私を『小婢』と呼び、『止まれ、流れるな！』と罵ります。」 そこで仏は婆蹉に言われた。「恒河の神に謝罪しなさい。」 婆蹉はすぐに合掌して、恒河の神に言った。「小婢よ、怒らないでくれ。今、あなたに謝罪する。」 この言葉に、大勢の人は笑った。「なぜ謝罪しながら、また罵るのか？」 仏は恒河の神に告げられた。「君は、婆蹉が合掌して謝罪したのを見たか？ 謝罪には慢心はなく、あのような言葉を発しただけだ。悪意はないと知るがよい。この者はこの五百世の間、常にバラモンの家に生まれ、傲慢で、他人を見下すことに慣れてきた。それが習慣となって口に出るだけであり、心には驕りはないのだ。」

如是諸阿羅漢雖斷結使，猶有殘氣。如諸佛世尊，若人以刀割一臂，若人以栴檀香泥一臂，如左右眼，心無憎愛，是以永無殘氣。

> このように、阿羅漢たちは煩悩の束縛を断ち切ったとはいえ、まだわずかな習気（しゅうけ）が残っています。しかし、諸仏世尊は全く違います。たとえある人が片方の腕を刀で切り落とし、別の人がもう片方の腕に栴檀の香りの泥を塗っても、まるで左右の目に対するように、心に憎しみも執着も起こしません。それゆえ、永遠に習気が残っていないのです。

栴闍婆羅門女木杅謗佛，於大眾中言：「汝使我有娠，何以不憂？與我衣食！為爾無羞，誑惑餘人！」是時，五百婆羅門師等，皆舉手唱言：「是！是！我曹知此事。」是時，佛無異色，亦無慚色。此事即時彰露，地為大動，諸天供養，散眾名華，讚歎佛德，佛無喜色。

> 栴闍婆羅門の女が木の鉢で仏を誹謗し、大衆の中で言いました。「あなたは私を妊娠させたのに、なぜ心配しないのですか？私に衣服と食べ物を与えなさい！あなたには恥じる心がなく、他人を惑わしているのです！」そのとき、五百人の婆羅門の師たちが皆、手を挙げて叫びました。「その通り！その通り！我々はこのことを知っている。」そのとき、仏は普段と変わらぬ表情で、恥じる様子もありませんでした。この出来事はすぐに明らかになり、大地は激しく震え、天の神々が供養し、様々な美しい花を撒き、仏の徳を賛嘆しましたが、仏には喜びの表情もありませんでした。

復次，佛食馬麥，亦無憂慼；天王獻食，百味具足，不以為悅，一心無二。

> さらに、仏が馬の麦を食べるような状況にあっても、憂いや悲しみはありません。また、天の王が百の味わいを備えた供物を捧げても、それによって喜びを感じることはなく、心は一つに定まって揺るぎません。

如是等種種飲食、衣被、臥具，讚呵、輕敬等種種事中，心無異也。譬如真金，燒鍛打磨，都無增損。

> このようにさまざまな食べ物や衣服、寝具、あるいは称賛や非難、軽んじることや敬うことなどの様々な事柄に対して、心は揺るぎません。それはあたかも純金が、焼かれ、鍛えられ、磨かれても、まったく増えも減りもしないようなものです。

以是故，阿羅漢雖斷結得道，猶有殘氣，不得稱婆伽婆。

> そのため、阿羅漢は煩悩の束縛を断ち切って悟りを得ているとはいえ、なお残りの気（習気・なまの感覚）が存在するので、「婆伽婆」（バガヴァット）と称することはできません。

問曰：

> お尋ねします。

婆伽婆正有此一名？更有餘名？

> 質問：世尊（バガヴァ）という名はただ一つだけなのですか？それとも他にも名前があるのですか？

答曰：

> お答えしますと、

佛功德無量，名號亦無量；此名取其大者，以人多識故。復有異名，名多陀阿伽陀等。

> 仏の功徳は限りなく、その名もまた無量です。この名はその中でも大きなものを取り、多くの人が知っているからです。また別の名があり、多陀阿伽陀（たたあがだ）などとも呼ばれます。

云何名多陀阿伽陀？

> 「多陀阿伽陀」とは、如来（この世に真理のままに現れた者）という意味です。

如法相解，如法相說；如諸佛安隱道來，佛亦如是來，更不去後有中，是故名多陀阿伽陀。

> 法の相（あり方）のままに理解し、法の相のままに説く。諸仏が安らかな道をたどって来られたように、仏もまたそのように来て、もはや後の存在（輪廻の迷い）に戻ることはない。それゆえに「多陀阿伽度（如来）」という名があるのです。

復名阿羅呵。云何名阿羅呵？

> また名づけて阿羅呵という。では、なぜ阿羅呵と名づけるのか。

「阿羅」名「賊」，「呵」名「殺」，是名「殺賊」。如偈說：

> 「阿羅」は「賊」を意味し、「呵」は「殺す」を意味します。つまり「殺賊」という意味です。偈でこう説かれています。

「佛以忍為鎧， 精進為剛甲，持戒為大馬， 禪定為良弓，智慧為好箭； 外破魔王軍，內滅煩惱賊， 是名阿羅呵。」

> 仏は忍耐を鎧とし、精進を堅固なよろいとし、 戒律を大きな馬とし、禅定を良い弓とし、 智慧を優れた矢としました。 外では魔王の軍を打ち破り、 内では煩悩という敵を滅ぼします。 これが阿羅漢と呼ばれる者です。

復次，「阿」名「不」，「羅呵」名「生」，是名「不生」。佛心種子，後世田中不生，無明糠脫故。

> さらに、「阿」とは「無（ない）」という意味であり、「羅呵」とは「生（うまれる）」という意味です。この二つを合わせて「不生（生まれない）」と名づけます。仏の心の種は、後の世の田んぼ（迷いの世界）の中では生まれません。それは、無明というもみ殻がすでに取り除かれているからです。

復次，「阿羅呵」名「應受供養」。佛諸結使除盡，得一切智慧故，應受一切天地眾生供養，以是故，佛名阿羅呵。

> また、「阿羅呵」とは「供養を受けるにふさわしい」という意味です。仏はすべての煩悩（けんのう）を断ち切り、すべての智慧を得たがゆえに、天や地のあらゆる生きとし生けるものからの供養を受けるにふさわしいのです。それゆえに、仏を阿羅呵と名づけるのです。

復名三藐三佛陀。云何名三藐三佛陀？

> また、これを三藐三仏陀ともいいます。では、なぜ三藐三仏陀というのでしょうか？

「三藐」名「正」，「三」名「遍」，「佛」名「知」，是名正遍知一切法。

> 「三藐」を「正（ただしい）」といい、「三」を「遍（あまねし）」といい、「佛」を「知（しる）」といいます。このことから「正遍知（しょうへんち）」と名づけられ、すべての法を正しく、あまねく知り尽くすという意味です。

問曰：

> お尋ねします。

云何正遍知？

> 正しくあまねく知るとは、どのようなことでしょうか？

答曰：

> お答えしますと、

知苦如苦相， 知集如集相，知滅如滅相， 知道如道相。

> 苦しみを、その本質のままに知る。 苦しみの原因を、その本質のままに知る。 苦しみの消滅を、その本質のままに知る。 消滅に至る道を、その本質のままに知る。

是名三藐三佛陀。

> これを三藐三仏陀（さんみゃくさんぶつだ）と名づけます。

復次，知一切諸法實不壞相，不增不減。云何名不壞相？心行處滅，言語道斷，過諸法如涅槃相不動。以是故，名三藐三佛陀。

> さらに、すべての法（現象）は、その本質において壊れることのない相（すがた）であり、増えも減りもしないことを知るのです。では、壊れることのない相とは何でしょうか。それは心の働きが消え去り、言葉による表現も尽きて、あらゆる法を超え、涅槃の相のように動かない状態です。このゆえに、彼を正しく完全に目覚めた者（三藐三仏陀）と呼ぶのです。

復次，一切十方諸世界名號，六道所攝眾生名號；眾生先世因緣，未來世生處；一切十方眾生心相，諸結使、諸善根、諸出要，如是等一切諸法悉知，是名三藐三佛陀。

> また、あらゆる十方の世界の名称、六道に含まれる衆生の名称、衆生の前世の因縁、未来世の生まれる場所、あらゆる十方の衆生の心のありさま、様々な煩悩や善根や解脱の道、このようなあらゆる法をすべて知り尽くしていること、これを三藐三仏陀と呼びます。

復名鞞侈遮羅那三般那，秦言明行具足。

> また、「鞞侈遮羅那三般那」とは、秦の言葉で「明行具足」と呼ばれます。

云何名明行具足？

> 「明行具足」とは何か。

宿命、天眼、漏盡，名為三明。

> 宿命、天眼、漏尽、これらを三明といいます。

問曰：

> お尋ねします。

神通、明有何等異？

> 神通と明には、どのような違いがあるのでしょうか？

答曰：

> お答えしますと、

直知過去宿命事，是名通；知過去因緣行業，是名明。

> 過去の宿命を知ることを「通」といい、過去の因縁や行いを知ることを「明」といいます。

直知死此生彼，是名通；知行因緣，際會不失，是名明。

> 死んだ後にあちらに生まれることをそのまま知る、これを「通」と呼ぶ。 因と縁によって巡り合い、その機会が失われないことを知る、これを「明」と呼ぶ。

直盡結使，不知更生不生，是名通；若知漏盡，更不復生，是名明。

> 煩悩の結びつきをすべて断ち切り、再び生じるかどうかを知らなくても、それを「通」と呼ぶ。もし煩悩が尽き、再び生じないと知れば、それを「明」と呼ぶ。

是三明，大阿羅漢、大辟支佛所得。

> これが三明であり、大阿羅漢や大辟支仏が得るところのものです。

問曰：

> お尋ねします。

若爾者，與佛有何等異？

> では、仏と何が異なるのでしょうか？

答曰：

> お答えしますと、

彼雖得三明，明不滿足，佛悉滿足，是為異。

> 彼は三明を得ているが、その明は満ち足りていない。仏はすべてにおいて満ち足りている。ここに違いがある。

問曰：

> お尋ねします。

云何不滿？云何滿？

> いったい何が「満たされない」ことで、何が「満たされる」ことなのか？

答曰：

> お答えしますと、

諸阿羅漢、辟支佛宿命智，知自身及他人，亦不能遍；有阿羅漢知一世，或二世、三世，十、百、千、萬劫，乃至八萬劫，過是以往不能復知，是故不滿。天眼明未來世亦如是。佛一念中生、住、滅時，諸結使分，生時如是，住時如是，滅時如是。苦法忍、苦法智中所斷結使悉覺了。知如是結使解脫，得爾所有為法解脫，得爾所無為法解脫，乃至道比忍見諦道十五心中。諸聲聞、辟支佛所不覺知，時少疾故。如是知過去眾生因緣、漏盡，未來、現在亦如是，是故名佛明行具足。

> あらゆる阿羅漢や辟支仏（独覚）は、過去世を知る智慧（宿命智）をもっているが、自分自身や他人の過去世を知るといっても、すべてを知り尽くすことはできない。ある阿羅漢は一世を知り、あるいは二世、三世、十劫、百劫、千劫、万劫、さらには八万劫までの過去世を知るが、それ以上先については知ることができない。そのため、完全とはいえない。 未来世を見通す智慧（天眼明）についても、同様である。 ところが、仏は一つの心（念）の生じている瞬間、とどまっている瞬間、消え去っている瞬間において、心の煩悩（結使）がどのように生じ、どのようにとどまり、どのように消えるかを、そのすべてをこと細かに覚りの智慧で知り尽くしている。また、苦法忍・苦法智の段階で断たれるべき煩悩についても、すべてをはっきりと覚知している。 仏は、そのようにして煩悩が解脱されたこと、その際に得られた有為法（因縁によって生じる現象）による解脱と、その際に得られた無為法（生滅を超えた真理）による解脱について、道比忍（修道における見諦の智慧）から見諦道の十五心に至るまで、すべてを瞬時に知る。これらのことは、声聞や辟支仏には覚知できない。なぜなら、その時が極めて短く、速やかであるからである。 このようにして、仏は過去の生きとし生けるものの因縁や煩悩の尽きる様子を知り、未来や現在についても同様に知る。それゆえに、仏は「明行足」（智慧と実践を完全にそなえた方）と名づけられるのである。

行名身口業，唯佛身、口業具足，餘皆有失，是名明行具足。

> 「行（ぎょう）」と名づけられているものには、身（しん）・口（く）・意（い）の三つの業（ごう）がある。 ただ仏だけが、身と口の業を完全にそなえておられる。 その他の者は、すべてに欠けがある。 これを「明（みょう）と行（ぎょう）を具（そな）える」と名づける。

復名修伽陀：「修」秦言「好」，「伽陀」或言「去」，或言「說」，是名「好去」、「好說」。

> また、修伽陀（スガタ）について説明します。「修」は「善い・素晴らしい」という意味で、「伽陀」は「行く」または「説く」という意味です。つまり、「善く行かれる方」「善く説かれる方」という意味になります。

好去者，於種種諸深三摩提、無量諸大智慧中去，如偈說：

> よく修行する者は、さまざまな深い三昧や無量の大いなる智慧の境地へと進んでいく。その様子を次の偈で説かれている。

「佛一切智為大車， 八正道行入涅槃。」

> 仏の一切智という大きな車に乗り、八つの正しい道（八正道）を進んで涅槃に至るのです。

是名好去。

> これを「よく行く者」と言います。

好說者，如諸法實相說，不著法愛說。觀弟子智慧力，是人正使一切方便神通智力化之，亦無如之何。是人可度是疾、是遲，是人應是處度；是人應說布施，或說戒，或說涅槃；是人應說五眾、十二因緣、四諦等諸法能入道。如是等種種知弟子智力而為說法，是名好說。

> よく説法するとは、諸法の真実の姿（実相）に従って説き、法への執着や愛着なく説くことです。また、弟子たちの智慧の力を観察し、たとえどんなに便利な方便や神通力、智慧を用いて導こうとしても、どうにもならない人もいます。ある人は速やかに、ある人はゆっくりと救われるべきであり、また、ある人はその場に応じて救われるべきです。ある人には布施を説くべきであり、ある人には戒律を、ある人には涅槃を説くべきです。ある人には五蘊、十二因縁、四諦などの諸法を説くことで悟りの道に入ることができます。このように、弟子たちの智慧の力を様々に見極めて説法すること、これを「よく説法する」といいます。

復名路迦憊：「路迦」秦言「世」，「憊」名「知」，是名知世間。

> また、路迦憊（ろかへい）について：「路迦」とは、この世（世間）を意味します。「憊」とは「知る」という意味であり、世間を知る者のことを指します。

問曰：

> お尋ねします。

云何知世間？

> いかにして世の中を知るべきか？

答曰：

> お答えしますと、

知二種世間：一、眾生，二、非眾生。及如實相知世間、世間因、知世間滅、出世間道。

> 二種類の世界があると知るべし。 一つは、「生きとし生けるもの」の世界。 二つは、「生きとし生けるものではないもの」の世界。 さらに、ありのままに知るべきこと—— 世界とは何か、世界が生じる原因、世界が滅する道、 そして、世界を超える覚りの道を。

復次，知世間，非如世俗知，亦非外道知；知世間無常故苦，苦故無我。

> さらに、世間を知ることは、世間一般の人が知るようでもなく、また外道が知るようでもありません。世間は無常であるゆえに苦しみであり、苦しみであるゆえに無我であると知るのです。

復次，知世間相，非有常非無常，非有邊非無邊，非去非不去，如是相亦不著，清淨、常不壞相如虛空，是名知世間。

> さらに、世間のあり様（相）を知るとは、常住でもなく無常でもなく、有限でも無限でもなく、去るものでも去らないものでもないと知ることです。そのようなあり様に執着せず、清らかで、常に壊れることのない、虚空のようなものであると知ること、これを「世間を知る」といいます。

復名阿耨多羅，秦言「無上」。

> また、阿耨多羅（あのくたら）という名がありますが、これは「無上（むじょう）」という意味です。

云何無上？

> 無上とは、この上なく優れていることです。

涅槃法無上。佛自知是涅槃不從他聞，亦將導眾生令至涅槃。如諸法中涅槃無上，眾生中佛亦無上。

> 涅槃の法は、この上なく優れています。仏は自らこの涅槃を悟り、他の誰かから聞いて知ったのではありません。そして、迷える人々を導いて、共に涅槃に至らせます。あらゆる教えの中で涅槃が最も優れているように、すべての生きとし生けるものの中で仏もまた最も優れているのです。

復次，持戒、禪定、智慧，教化眾生，一切無有與等者，何況能過！故言無上。

> さらに、戒律を守ること、禅定、智慧（プラジュニャー）によって、すべての生きとし生けるものを教え導くことにおいて、これに並ぶ者はいない。ましてや、これを超える者などいるはずもない。ゆえに「無上」と説かれるのです。

復次，「阿」名「無」，「耨多羅」名「答」。一切外道法，可答可破，非實非清淨故；佛法不可答、不可破，出一切語言道，亦實清淨故，以是故名無答。

> さらに、「阿」は「無」を意味し、「耨多羅」は「答（答え）」を意味します。すべての外道（仏教以外の教え）の教えは、答えたり論破したりすることが可能ですが、それは真実ではなく清らかでもないからです。一方、仏の教えは、答えたり論破したりすることができません。なぜなら、それはあらゆる言葉の道を超えており、真実であり清らかであるからです。そのため、「無答（答えがない）」と呼ばれるのです。

復名富樓沙曇藐婆羅提：「富樓沙」秦言「丈夫」，「曇藐」言「可化」，「婆羅提」言「調御師」，是名「可化丈夫調御師」。

> また、富樓沙曇藐婆羅提（プルシャ・ダムヤ・サーラティ）について。「富樓沙」（プルシャ）は「丈夫（立派な人）」という意味で、「曇藐」（ダムヤ）は「調教できる」という意味、「婆羅提」（サーラティ）は「調御師（導き手）」という意味です。したがって、これは「調教できる立派な人々を導く師」という称号です。

佛以大慈大悲大智故，有時軟美語，有時苦切語，有時雜語，以此調御令不失道。如偈說：

> 仏は大いなる慈悲と智慧によって、時に優しい言葉を語り、時に厳しい言葉を語り、時に両方を交えた言葉を語ります。これらによって教え導き、人々が道を失わないようにするのです。偈にこうあります。

「佛法為車弟子馬， 實法寶主佛調御，若馬出道失正轍， 如是當治令調伏。若小不調輕法治， 好善成立為上道，若不可治便棄捨， 以是調御為無上。」

> 仏法を車とし、弟子を馬とし、 真実の宝を主とし、佛が調御する。 もし、馬が道を外れて正しい轍を失ったならば、 そのようにして調伏させるのがよい。 もし軽微な不調なら、軽い方法で治め、 善を好み、成立させることが最上の道となる。 もしどうしても治せないなら、捨て去る。 これをもって、調御は無上である。

復次，調御師有五種：初父母兄姊親里，中官法，下師法——今世三種法治，後世閻羅王治，佛以今世樂、後世樂及涅槃樂利益，故名師。上四種法治人不久畢壞，不能常實成就。佛成人以三種道，常隨道不失，如火自相不捨乃至滅；佛令人得善法亦如是，至死不捨。以是故，佛名可化丈夫調御師。

> さらに、調御師には五つの種類があります。第一に父母、兄、姉、親族、第二に国の法律、第三に師の教えです。この世には三つの教えによる統治があり、来世には閻魔大王による統治があります。仏は、この世の幸せ、来世の幸せ、そして涅槃の幸せをもたらすので、師と呼ばれます。上の四つの方法による統治は、人を治めても長くは続かず、やがて朽ち、真に永遠のものとはなりえません。しかし仏は、三つの道によって人を完成へと導き、その道から決して外れることがありません。まるで火が自らの性質を、消えるまで捨てないように、仏も人が善い法を得たら、死に至るまでそれを捨てさせないのです。それゆえ、仏は「教化すべき丈夫の調御師」と呼ばれるのです。

問曰：

> お尋ねします。

女人，佛亦化令得道，何以獨言丈夫？

> 女性であっても、仏は教えを説いて悟りへ導きます。それなのに、なぜ「男子のみ」と言うのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

男尊女卑故，女從男故，男為事業主故。

> 男性が尊ばれ女性が低く見られたため、女性は男性に従い、男性が家業の主体となったのです。

復次，女人有五礙：不得作轉輪王、釋天王、魔天王、梵天王、佛，以是故不說。

> また、女性には五つの障りがあります。すなわち、輪転王、釈天王、魔王、梵天王、仏となることはできません。そのため、ここでは触れませんでした。

復次，若言佛為女人調御師，為不尊重。若說丈夫，一切都攝。譬如王來，不應獨來，必有侍從。如是說丈夫，二根、無根及女盡攝，以是故說丈夫。用是因緣故，佛名可化丈夫調御師。

> また、「仏は女人の調御師である」と言うと、かえって敬意を欠くことになります。「丈夫（男性）」と言えば、すべてを包括できます。たとえば王が来るとき、決して一人では来ず、必ず従者を連れてくるのと同じです。このように「丈夫」と言えば、両性具有者や無性者、女性までもすべて含まれるのです。ですから「丈夫」と言うのです。このような因縁によって、仏は「調御すべき丈夫の調御師」と呼ばれるのです。

復名舍多提婆魔㝹舍喃：「舍多」秦言「教師」，「提婆」言「天」，「魔㝹舍喃」言「人」，是名「天人教師」。

> また、シャー・デーヴァ・マヌシャーナンと名づけられる。「シャー」とは中国語で「教師」を意味し、「デーヴァ」は「天」を、「マヌシャーナン」は「人」を意味する。これを合わせて「天人教師」と呼ぶ。

云何名天人教師？

> 天人の師とは、どのような存在を指すのでしょうか。

佛示導是應作、是不應作，是善、是不善，是人隨教行、不捨道法，得煩惱解脫報，是名天人師。

> 仏は教えを示し導く「これはなすべきこと、これはなすべきでないこと」「これは善、これは不善」と。人はその教えに従って修行し、道の教えを捨てず、煩悩からの解脱の果報を得る。これを天人の師と名づける。

問曰：

> お尋ねします。

佛能度龍、鬼、神等墮餘道中生者，何以獨言天人師？

> 仏は龍や鬼、神など、他の道に堕ちた者たちも救うことができるのに、なぜあえて「天人の師」とだけ言うのでしょうか？

答曰：

> お答えしますと、

度餘道中生者少，度天、人中生者多。如白色人，雖有黑黶子，不名黑人，黑少故。

> 他の道に生まれる者は少なく、天や人の世界に生まれる者は多い。 たとえば、白い肌の人に黒いほくろがあったとしても、黒い部分が少ないので「黒人」とは呼ばれないのと同じである。

復次，人中結使薄，厭心易得；天中智慧利。以是故，二處易得道，餘道中不爾。

> さらに、人間の世界では煩悩が薄いので、厭離の心を得やすく、天の世界では智慧が鋭いのです。このため、この二つの世界では悟りを得やすく、他の世界ではそうではありません。

復次，言天則攝一切天，言人則攝一切地上生者。何以故？天上則天大，地上則人大，是故說天則天上盡攝，說人則地上盡攝。

> さらに、仏が「天」と言えば、あらゆる天界の存在を全て含み、「人」と言えば、地上に生きる全ての者を含むことになる。なぜか。天界においては「天」が最も大きく、地上においては「人」が最も大きいからである。ゆえに、「天」と言えば天界の全てを尽くし、「人」と言えば地上の全てを尽くすのである。

復次，人中得受戒律儀、見諦道、思惟道及諸道果。或有人言：餘道中不得。或有人言：多少得。天、人中易得多得，以是故，佛為天人師。

> さらに、人間の世界では戒律や儀式、真理を見通す智慧の道、思考を深める道、そして様々な修行の成果を得ることができます。ある人々は「他の世界では得られない」と言います。また、ある人々は「多少は得られる」とも言います。天や人間の世界では、簡単に多くを得ることができます。そのため、仏は天と人間の師となられるのです。

復次，人中行樂因多，天中樂報多；善法是樂因，樂是善法報。餘道中善因報少，以是故，佛為天人師。

> また、人間の世界では幸せの原因となる行い（楽因）が多く、天の世界ではその報いとしての幸せ（楽報）が多いのです。善い行い（善法）は幸せの因であり、幸せは善行の報いです。その他の道（地獄・餓鬼・畜生・修羅）では、善い因とその報いが少ないのです。ですから、仏は天と人間の師となられます。

復名佛陀秦言「知者」。知何等法？知過去、未來、現在，眾生數、非眾生數，有常、無常等一切諸法。菩提樹下了了覺知，故名為佛陀。

> また、仏陀とは〈注：秦の言葉で「知る者」を意味する〉。何を知るのか？過去・未来・現在、衆生の数、衆生でないもの、常・無常など、あらゆるものを知る。菩提樹の下ではっきりと覚り知ったことから、仏陀と名付けられた。

問曰：

> お尋ねします。

餘人亦知一切諸法，如摩醯首羅天秦言「大自在」，八臂，三眼，騎白牛。如韋紐天秦言「遍悶」，四臂，捉貝持輪，騎金翅鳥。如鳩摩羅天秦言「童子」，是天擎雞持鈴，捉赤幡，騎孔雀，皆是諸天大將。如是等諸天，各各言大，皆稱一切智。有人作弟子，學其經書，亦受其法，言是一切智。

> また、他の人々もあらゆるものを知っていると考えます。例えば、摩醯首羅天（中国で「大自在」という）は、八本の腕、三つの目、白い牛に乗っています。韋紐天（中国で「遍悶」という）は、四本の腕、貝殻と輪を持ち、金翅鳥に乗っています。鳩摩羅天（中国で「童子」という）は、鶏を担ぎ、鈴を持ち、赤い旗を掲げ、孔雀に乗っています。これらはみな、天の大将たちです。このような様々な天は、それぞれが「大いなるもの」と自称し、全てを知っていると称しています。ある人々は彼らの弟子となり、その経典を学び、その教えを受け入れ、「これこそが全てを知る者である」と言うのです。

答曰：

> お答えしますと、

此不應一切智。何以故？瞋恚、憍慢心著故。如偈說：

> これは一切智にふさわしくありません。なぜなら、怒りや高慢にとらわれた心があるからです。偈にこう説かれています。

「若彩畫像及泥像， 聞經中天及讚天，如是四種諸天等， 各各手執諸兵杖。若力不如畏怖他， 若心不善恐怖他，此天定必若怖他， 若少力故畏怖他。是天一切常怖畏， 不能除却諸衰苦。有人奉事恭敬者， 現世不免沒憂海；有人不敬不供養， 現世不妨受富樂。當知虛誑無實事， 是故智人不屬天。若世間中諸眾生， 業因緣故如循環，福德緣故生天上， 雜業因緣故人中，世間行業屬因緣， 是故智者不依天！」

> 「絵に描かれた天の像や、土で作られた像があっても、 経典で天上界や天人が称賛されているのを聞いても、 そうした四種類の天々は、それぞれ武器や杖を手にしている。 力が弱くて他を怖がらせたり、心が善くなくて他を脅かしたり、 この天は必ず他を怖がらせようとするが、力が弱いゆえに自らも怯えている。 こうした天は常に恐れおののき、衰えや苦しみを取り除くことはできない。 ある人が敬い仕えても、この世で憂いの海から逃れられず、 ある人が敬わず供養しなくても、この世で妨げられず富楽を受ける。 まこと、それは虚偽で実体のないものだと知るべきだ。 ゆえに賢い人は天に帰依しない。 世の中のあらゆる生きとし生けるものは、 業（カルマ）の因縁によって巡り巡る。 福徳の因縁によって天上に生まれ、 雑多な業の因縁によって人間に生まれる。 世の中の行為や仕事はすべて因縁に属している。 ゆえに賢い人は天に頼らないのだ！」

復次，是三天，愛之則欲令得一切願，惡之則欲令七世滅。佛不爾。菩薩時，若怨家賊來欲殺，尚自以身肉、頭目、髓腦而供養之，何況得佛不惜身時！以是故，獨佛應當受佛名號。應當歸命佛，以佛為師，不應事天。

> さらに、これらの三つの天は、愛する者にはすべての願いを叶えさせようとし、嫌う者には七世代にわたって滅ぼそうとします。しかし仏はそうではありません。菩薩であった時でさえ、怨みある者や賊が殺そうとやって来たなら、自らの肉、頭、目、髄、脳をもって施し養ったのです。ましてや仏の位を得て、わが身を惜しまない時においてはなおさらです。それゆえに、ただ仏のみが「仏」という名号を受けるにふさわしいのです。仏に帰依し、仏を師とすべきであり、天に仕えてはなりません。

復次，佛有二事：一者大功德神通力，二者第一淨心，諸結使滅。

> さらに、仏には二つの事柄があります。 第一は大きな功徳と神通力、第二は最高に清らかな心であり、すべての煩悩が滅した状態です。

諸天雖有福德神力，諸結使不滅故，心不清淨；心不清淨故，神力亦少。

> 天の神々はたとえ大きな福徳や神通力を持っていても、心の煩悩（けぶり）が消えていないため、心が清らかではありません。心が清らかでないならば、その神通力もまた小さなものに過ぎないのです。

聲聞、辟支佛雖結使滅，心清淨，福德薄故力勢少。

> 声聞や辟支仏（びゃくしぶつ）は、煩悩の束縛を滅し、心は清らかであっても、福徳が薄いために、力や勢いは少ないのです。

佛二法滿足，故稱勝一切人；餘人不勝一切人。

> 仏の二つの法が満たされているからこそ、あらゆる人に勝ると称されるのです。他の人は、あらゆる人に勝ることはできません。

婆伽婆名有德，先已說。

> 婆伽婆とは「徳を備えた方」という意味で、すでに先に説明しました。

復名阿娑磨秦言無等，復名阿娑摩娑摩秦言無等等，復名路迦那他秦言世尊，復名波羅伽秦言度彼岸，復名婆檀陀秦言大德，復名尸梨伽那秦言厚德，如是等無量名號。父母名字悉達陀秦言成利；得道時，知一切諸法故，是名為佛，應受諸天世人供養。如是等得名大德、厚德。如是種種，隨德立名。

> また阿娑磨（無等）、阿娑摩娑摩（無等等）、路迦那他（世尊）、波羅伽（彼岸へ渡る者）、婆檀陀（大いなる徳ある者）、尸梨伽那（深き徳ある者）とも呼ばれます。このように数え切れないほどの称号があります。両親が名付けた名前は悉達陀（成し遂げる者）といいます。 悟りを開かれた時、あらゆるものを知り尽くされたので、仏と呼ばれ、天や人々からの尊敬と供養を受けるにふさわしい方です。こうした理由から、大徳、厚徳の名があります。このように、様々な徳に応じて名が定められているのです。

問曰：

> お尋ねします。

汝愛剎利種淨飯王子字悉達多，以是故而大稱讚言一切智，一切智人無也！

> あなたはシャーキャムニ族の浄飯王の王子、シッダールタに愛着しているからこそ、『一切智者』『一切智を得た人』だと大いに称賛しているのだ。しかし、本当の『一切智者』など存在しないのだ。

答曰：

> お答えしますと、

不爾！汝惡邪故妬瞋佛，作妄語，實有一切智人。何以故？佛一切眾生中，身色顏貌，端正無比，相、德、明具，勝一切人。小人見佛身相，亦知是一切智人，何況大人！

> いいえ、違います。あなたは邪悪な心で仏を妬み、怒り、偽りの言葉を吐いています。本当に一切智を持つ方は確かに存在します。なぜなら、仏はすべての衆生の中で、身体の色や容貌がとてつもなく端正で、その相、徳、光明はすべての人々に勝っているからです。小さな者でも仏の身体の相を見れば、これが一切智を持つ方だと知ることができます。ましてや偉大な人はなおさらです。

如《放牛譬喻經》中說：

> 牛飼いの譬えの経典にこのように説かれています。

摩伽陀國王頻婆娑羅，請佛三月，及五百弟子。王須新乳酪酥供養佛及比丘僧，語諸放牛人，來近處住，日日送新乳酪酥。竟三月，王憐愍此放牛人，語言：「汝往見佛，還出放牛。」諸放牛人往詣佛所，於道中自共論言：「我等聞人說佛是一切智人，我等是下劣小人，何能別知實有一切智人！」諸婆羅門喜好酥酪故，常來往諸放牛人所作親厚，放牛人由是聞婆羅門種種經書名字。故言：「四違陀經中治病法、鬪戰法、星宿法、祠天法、歌舞、論議難問法，如是等六十四種世間伎藝，淨飯王子廣學多聞，若知此事不足為難。其從生已來不放牛，我等以放牛祕法問之，若能解者，實是一切智人。」

> 摩ガダ国のビンビサーラ王は、ブッダと五百人の弟子たちを三ヶ月の間、供養のために招きました。王は新たな乳・酪・酥を用意してブッダと比丘僧に捧げ、牛飼いたちに命じて近くに住まわせ、毎日新しい乳・酪・酥を届けさせました。三ヶ月が過ぎた後、王はこの牛飼いたちを哀れに思い、「あなたたちはブッダに会いに行きなさい。その後で牛飼いに戻るがよい」と言いました。 牛飼いたちはブッダの元へ向かう途中、互いに話し合いました。「私たちは人々が『ブッダは一切知者である』と言うのを聞いたことがあるが、私たちのような取るに足らない者たちに、本当に一切知者がいるのかどうかを確かめる術はないのではないか。」彼らはバラモンたちが酥や酪を好むため、バラモンたちが頻繁に牛飼いたちのところへ訪れて親しくしていたので、そのことから様々な経典の名前を聞いていました。そこで彼らは言いました。「四ヴェーダ経典には、治病法、戦術、星占い、天への祭祀、歌舞、論議や問答の方法など、六十四種の世間の技芸が記されている。浄飯王の王子（シッダールタ）は広く学び多く聞いているから、これらのことを知っていても驚くには当たらない。しかし彼は生まれてからずっと牛を飼ったことがない。私たちが牛飼いの秘法を問うてみよう。もしそれを解き明かすことができれば、本当に一切知者である証拠だ。」

作是論已，前入竹園，見佛光明照於林間。進前覓佛，見坐樹下，狀似金山，如酥投火，其炎大明，有似融金，散竹林間上，紫金光色，視之無厭，心大歡喜，自相謂言：

> このように語り合いながら、彼らは竹園に入った。すると、仏の光明が林の中を照らしているのが見えた。さらに進んで仏を探すと、木の下に座っている姿が見えた。その様子は金山のように見え、まるで酥（ギー）を火に投じたようにその炎は明るく輝き、溶けた黄金が竹林の間に散らばっているかのようであった。紫金の光の色は見飽きることがなく、彼らの心は大きな喜びで満たされ、互いに言い合った。

「今此釋師子， 一切智有無，見之無不喜， 此事亦已足。光明第一照， 顏貌甚貴重，身相威德備， 與佛名相稱。相相皆分明， 威神亦滿足，福德自纏絡， 見者無不愛；圓光身處中， 觀者無厭足！若有一切智， 必有是功德。一切諸彩畫， 寶飾莊嚴像，欲比此妙身， 不可以為喻！能滿諸觀者， 令得第一樂，見之發淨信， 必是一切智！」

> 「見よ、この師子（しし）こと釈尊を。 一切智あるか、ないのか。 その姿を見て喜ばぬ者はない。 もうこのことだけで、十分である。 光明は最も輝き、顔立ちはこの上なく尊く、 身に備わる相は威厳に満ち、 「仏」の名にふさわしい。 一つ一つの相がはっきりと現れ、 威光・神通力もまた満ち足りている。 福徳が自ずからからみつくように備わり、 見る者すべてが愛さずにはいられない。 背後の円光の中に立つその姿は、 見ても見ても飽きることがない。 もし一切智ある方がおられるなら、 必ずやこのような功徳を備えておられるはずだ。 あらゆる絵画や、宝飾で飾られた像も、 この素晴らしい御身に比べれば、 たとえようもない。 すべての見る者の心を満たし、 最高の喜びを与え、 見て清らかな信を起こさせる。 この方は、まさに一切智ある方である！」

如是思惟已，禮佛而坐，問佛言：「放牛人有幾法成就，能令牛群番息？有幾法不成就，令牛群不增、不得安隱？」

> こう考え終えて、仏に礼拝してから座り、仏に問いました。「牛飼いが何の条件を備えていれば牛の群れを増やせるのでしょうか。また、何の条件が欠けていると、牛の群れが増えず、安らかでいられないのでしょうか。」

佛答言：「有十一法，放牛人能令牛群番息。何等十一？知色，知相，知刮刷，知覆瘡，知作煙，知好道，知牛所宜處，知好度濟，知安隱處，知留乳，知養牛主。若放牛人知此十一法，能令牛群番息；比丘亦如是，知十一法能增長善法。

> 仏がお答えになりました。「牛飼いが牛の群れを増やし栄えさせる方法は十一の法がある。その十一とは何か？色を知り、相を知り、掻き梳ることを知り、傷を覆うことを知り、煙を作ることを知り、良い道を知り、牛に適した場所を知り、良い渡し場を知り、安全な場所を知り、乳を残すことを知り、牛の主を養うことを知ることである。もし牛飼いがこの十一の法を知れば、牛の群れを増やし栄えさせることができる。比丘もまたこれと同じように、十一の法を知れば、善い法を増やすことができるのである。」

「云何知色？知黑、白、雜色；比丘亦如是，知一切色皆是四大，四大造。

> いかにして色（物質）を知るか？黒、白、さまざまな色を知る。修行者もまた同様に、あらゆる物質はすべて四大元素（地・水・火・風）であり、四大元素から成り立っていると知る。

「云何知相？知牛吉不吉相，與他群合，因相則識；比丘亦如是，見善業相，知是智人；見惡業相，知是愚人。

> 相を知るとはどういうことか。 牛はその相を見て、吉凶を知り、他の群れと交わっているかを知る。 比丘もまた同じように、善い行いの相を見て、その人が智者であると知り、 悪い行いの相を見て、その人が愚か者であると知るのである。

「云何刮刷？為諸虫飲血則增長諸瘡，刮刷則除害；比丘亦如是，惡邪覺觀虫飲善根血，增長心瘡，除則安隱。

> 掻き洗いとは何かということです。例えば、虫が血を吸うと傷が悪化しますが、掻き洗いすれば害を取り除けます。比丘も同じで、悪しき邪な考えという虫が善根の血を吸い、心の傷を大きくします。それを除けば、心は安らかになるのです。

「云何覆瘡？若衣若草葉以防蚊虻惡刺；比丘亦如是，念正觀法，覆六情瘡，不令煩惱貪欲、瞋恚惡虫刺蕀所傷。

> 覆い傷とは何か。衣や草の葉を用いて蚊や虻、棘から身を守るように、比丘もまた正しい観察の教えを心に留め、六つの感覚の傷を覆い、煩悩や貪欲、怒りという毒虫や棘に傷つけられないようにすることである。

「云何知作煙？除諸蚊虻，牛遙見煙則來趣向屋舍。比丘亦如是，如所聞而說，除諸結使蚊虻，以說法煙引眾生入於無我實相空舍中。

> どのようにして煙を知るべきか。それは、蚊やあぶを追い払うためである。牛は遠くから煙を見ると、家屋へと向かって来る。比丘もまたこれと同じである。聞いたままに説法し、煩悩という蚊やあぶを取り除き、説法の煙によって衆生を導き、無我という真実の相、すなわち空の家の中へと入らせるのである。

「云何知道？知牛所行來去好惡道；比丘亦如是，知八聖道能至涅槃，離斷常惡道。

> どのようにして道を知るのでしょうか。牛が通る道筋や、良い道と悪い道を知っているように、修行者もまた、八つの正しい道（八正道）を知ることで、涅槃に至り、断滅や常住といった誤った道から離れることができるのです。

「云何知牛所宜處？能令牛番息少病；比丘亦如是，說佛法時，得清淨法喜，諸善根增盛。

> 牛に適した場所をどう知るのか。それは、牛がよく増え、病気も少なくなる場所である。僧侶もまた同じだ。仏法を説くときに、清らかな法の喜びを得て、善い根が一層大きく成長するのである。

「云何知濟？知易入易度無波浪惡虫處；比丘亦如是，能至多聞比丘所問法。說法者知前人心利鈍、煩惱輕重，令入好濟，安隱得度。

> どのようにして「渡し場を知る」のかというと、それは容易に入ることができ、容易に渡ることができ、波や悪い虫のいない場所を知るようなものです。比丘もまた同様に、多くのことを聞いた比丘のところに行き、法を問うことができるのです。法を説く者は、相手の心の機敏さや鈍さ、煩悩の軽重を理解し、良い渡し場に導き入れて、安穩に渡らせることができるのです。

「云何知安隱處？知所住處無虎、狼、師子、惡虫、毒獸；比丘亦如是，知四念處安隱，無煩惱、惡魔、毒獸，比丘入此，則安隱無患。

> 安穏の場所を知るとは、どのようなことでしょうか。 それは、住む場所に虎や狼、獅子、毒虫や猛獣がいないと知ることです。 比丘もまた、このように四念処が安穏であると知るべきです。 そこには煩悩も悪魔も毒獣もいません。 比丘がここに入れば、安穏にして患いがないのです。

「云何留乳？犢母愛念犢子故與乳，以留殘乳故犢母歡喜，則犢子不竭，牛主及放牛人，日日有益；比丘亦如是，居士白衣給施衣食，當知節量，不令罄竭，則檀越歡喜，信心不絕，受者無乏。

> \*\*「乳を残すとはどういうことか？」\*\* 子牛を産んだ牛は、子牛をかわいがるから乳を与える。乳をわざと少し残しておくことで、母牛は安心し、子牛も乳が尽きず、牛の主人や世話をする人にとっても毎日が益となる。 比丘（僧侶）もこれと同じである。在家の信徒たちが衣や食料を布施してくれるなら、その布施の量を程よく知り、すべてを使い果たさないように心がけるべきである。そうすれば施主たちは喜び、信心が絶えることなく、受け取る側も不足することがないのである。

「云何知養牛主？諸大特牛能守牛群故，應養護，不令羸瘦，飲以麻油，飾以瓔珞，標以鐵角，摩刷、讚譽稱等；比丘亦如是，眾僧中有威德大人，護益佛法，摧伏外道，能令八眾得種諸善根，隨其所宜恭敬供養等。」

> 「牛の主（牛飼い）はどのように牛を養うべきかを知っています。大きな雄牛たちは牛の群れを守ることができるので、彼らを養い、やせ細らせないようにし、ごま油を飲ませ、装飾品で飾り、鉄の角で印をつけ、こすり洗いし、ほめたたえるなどします。比丘もまた同じです。僧団の中には威厳と徳のある方々がおられ、仏法を護り益し、外道を打ち負かし、八つの衆生たちに善根を植え付けさせることができます。その人にふさわしく、敬意を払い、供養するなどするべきです。」

放牛人聞此語已，如是思惟：「我等所知不過三四事，放牛師輩遠不過五六事，今聞此說，歎未曾有！若知此事，餘亦皆爾，實是一切智人，無復疑也。」

> この話を聞いた牛飼いたちは、こう考えました。「私たちが知っているのは三、四の事柄に過ぎず、牛飼いの師匠たちでさえ五、六の事柄を超えることはない。今、このお話を聞くと、これまでにない素晴らしさに感動する。このようなことを知っておられるなら、他のこともすべて同様であろう。実に一切智者であって、もはや疑いの余地はない。」

是經，此中應廣說。以是故，知有一切智人。

> この経典においては、ここで詳しく説かれるべきである。ゆえに、すべてを知る覚者は存在すると知るべきである。

問曰：

> お尋ねします。

世間不應有一切智人。何以故？無見一切智人者。

> 世の中に、すべてを知り尽くした人は存在しないはずです。なぜなら、そのような人を見た者は誰もいないからです。

答曰：

> お答えしますと、

不爾！不見有二種，不可以不見故便言無。

> いいえ、そうではありません。二つのものとして見えないからといって、存在しないと言うことはできません。

一者、事實有，以因緣覆故不見。譬如人姓族初，及雪山斤兩、恒河邊沙數，有而不可知。

> 一つ目は、物事が実際に存在するにもかかわらず、因縁に覆われているために見えない場合です。例えば、人の姓や家族の始まり、雪山の重さ、ガンジス川の砂の数などは、存在しているけれども知ることができないのと同じです。

二者、實無，無故不見。譬如第二頭、第三手，無因緣覆而不見。

> 第二に、実際に存在しないものは、存在しないので見えない。例えば、第二の頭や第三の手のように、それらを覆い隠す原因がなくても、見ることはできない。

如是一切智人，因緣覆故汝不見，非無一切智人。何等是覆因緣？未得四信，心著惡邪；汝以是因緣覆故，不見一切智人。

> このように、あらゆる智慧をそなえた人がいるのです。しかし、あなたは因縁（原因と条件）に覆われているために、その姿を見ることができないだけであって、「すべてを知る人がいない」というわけではありません。では、その覆いとなる因縁とは何か？それは、四つの確かな信心を得ておらず、心が誤った見解に執着していることです。あなたは、この因縁によって覆われているために、あらゆる智慧をそなえた人を見ることができないのです。

問曰：

> お尋ねします。

所知處無量故，無一切智人。諸法無量無邊，多人和合尚不能知，何況一人！以是故，無一切智人！

> 知るべきことが無量であるから、一切を知る人は存在しない。あらゆる現象は限りなく、際限がない。多くの人が力を合わせてもなお知り尽くせないものを、まして一人で知ることなどできようか。ゆえに、一切を知る人は存在しないのである。

答曰：

> お答えしますと、

如諸法無量，智慧亦無量無數無邊；如函大蓋亦大，函小蓋亦小。

> あらゆる現象（諸法）には限りがありません。したがって、それを観る智慧もまた、限りなく、数えきれず、果てしなく広がっています。ちょうど、大きな箱には大きな蓋が、小さな箱には小さな蓋がぴったり合うように、智慧もまた、その対象に応じて無限に広がるのです。

問曰：

> お尋ねします。

佛自說佛法，不說餘經。若藥方、星宿、算經世典，如是等法；若是一切智人，何以不說？以是故，知非一切智人。

> 仏陀は自ら説いた教え（仏法）のみを説き、それ以外の経典（例えば医薬の書や占星術、算術、世俗の学問など）は説きませんでした。もし仏陀が本当に“全知者”であるなら、なぜこれらのことも説かなかったのでしょうか？このことから、仏陀は全知者ではないと分かります。

答曰：

> お答えしますと、

雖知一切法，用故說，不用故不說；有人問故說，不問故不說。

> 一切の法を知っていても、問われるからこそ説き、問われなければ説かない。役に立つときに説き、役に立たなければ説かない。

復次，一切法略說有三種：一者、有為法，二者、無為法，三者、不可說法，此已攝一切法。

> さらに、すべての「法（ダルマ）」は、大きく分けて三つに分類できます。第一に「有為法（ういほう）」（条件によって生じるもの）、第二に「無為法（むいほう）」（条件を超えたもの）、第三に「不可説法（ふかせつほう）」（言葉で説明できないもの）です。この三つで、あらゆる現象は網羅されます。

問曰：

> お尋ねします。

十四難不答故，知非一切智人。何等十四難？

> 十四の難問に答えなかったからこそ、釈迦はすべてを知る者ではないと知るべきである。では、その十四の難問とは何か？

世界及我常，世界及我無常，世界及我亦有常亦無常，世界及我亦非有常亦非無常；世界及我有邊，無邊，亦有邊亦無邊，亦非有邊亦非無邊；死後有神去後世，無神去後世，亦有神去亦無神去，死後亦非有神去亦非無神去後世；是身、是神，身異、神異。

> 世界と自己は永遠である、永遠ではない、永遠でありかつ永遠ではない、永遠でも永遠でないのでもない。 世界と自己には限りがある、限りがない、限りがありかつ限りがない、限りがあるのでも限りがないのでもない。 死後、魂はあり来世へ行く、魂はなく来世へ行かない、魂がありかつなく来世へ行く、死後は魂があるのでもなく、ないのでもなく、来世へ行くのでもない。 この身体がそのまま魂である、身体と魂は別である。

若佛一切智人，此十四難何以不答？

> もし仏がすべてを知る者であるならば、なぜこの十四の難問にお答えにならなかったのですか。

答曰：

> お答えしますと、

此事無實故不答。諸法有常，無此理；諸法斷，亦無此理；以是故，佛不答。譬如人問搆牛角得幾升乳，是為非問，不應答。

> このことは実体がないので、答えることはありません。あらゆる現象には永遠の実体があるという道理はなく、また、あらゆる現象が断滅するという道理もありません。そのため、仏はお答えにならなかったのです。たとえば、牛の角を搾ってどれだけの乳が取れるかと尋ねるようなもので、それは意味のない問いであり、答えるべきではないのです。

復次，世界無窮，如車輪無初無後。

> また、この世界には限りがなく、車輪のように始まりも終わりもありません。

復次，答此無利有失，墮惡邪中。佛知十四難，常覆四諦諸法實相。如渡處有惡虫水，不應將人渡；安隱無患處，可示人令渡。

> さらに、これに答えるならば、その問いは無益であり、むしろ害をもたらし、誤った見解に陥らせるものです。仏は十四の無記（答えるべきでない問い）を知り、これらは常に四つの聖なる真理や諸法の真実の姿を覆い隠しています。例えば、渡し場に悪い虫や危険な水があるなら、人を渡らせるべきではありません。安全で害のない場所なら、人に示して渡らせることができるのです。

復次，有人言：是事非一切智人不能解，以人不能知，故佛不答。

> さらに、こう言う人もいます。「この問題は、全てを知る智慧ある人でなければ解けないものです。人が理解できないからこそ、仏様はお答えにならなかったのです。」

復次，若人無言有，有言無，是名非一切智人；一切智人有言有，無言無。佛有不言無，無不言有，但說諸法實相，云何不名一切智人？譬如日不作高下，亦不作平地，等一而照；佛亦如是，非令有作無，非令無作有，常說實智慧光照諸法。如一道人問佛言：「大德！十二因緣佛作耶？他作耶？」佛言：「我不作十二因緣，餘人亦不作。有佛無佛，生因緣老死，是法常定住。」佛能說是生因緣老死，乃至無明因緣諸行。

> さらに、もしある人が「ない」ことを「ある」と言い、「ある」ことを「ない」と言うならば、その人は一切智者（すべてを知る者）ではありません。一切智者は「ある」ことは「ある」と言い、「ない」ことは「ない」と言います。仏は「ある」ことを「ない」とは言わず、「ない」ことを「ある」とは言わず、ただ諸法の実相（ありのままの真実）を説かれます。どうして一切智者と呼ばれないことがありましょうか。 たとえば、太陽は高い所も低い所も作り出さず、平らな地も作り出さず、すべてを等しく照らすようなものです。仏もまた同じように、「ある」ものを「ない」にせず、「ない」ものを「ある」にせず、常に真実の智慧の光をもって諸法を照らし出されます。 ある修行者が仏に問いました。「尊き方！十二因縁は仏がお作りになったのですか？それとも他の方がお作りになったのですか？」 仏は答えて言われました。「私は十二因縁を作ってはいない。他の人も作ってはいない。仏が世にいようと、いまいと、『生』という因縁によって『老いと死』がある。この理法は常に定まって住しているのだ。」 仏は、この「生」という因縁によって「老いと死」があること、さらには「無明」という因縁によって「行」があることを説くことができるのです。

復次，十四難中若答有過罪。若人問：「石女、黃門兒，長短好醜何類？」此不應答，以無兒故。

> また、十四の難問の中には、答えることでかえって過ちを犯してしまうものがあります。もし誰かが「石女（子を産めない女性）や宦官（去勢された男性）の子どもは、背が高いか低いか、美しいか醜いか、どのようなものか」と尋ねても、答えるべきではありません。子どもがいないからです。

復次，此十四難，是邪見非真實；佛常以真實，以是故，置不答。

> さらに、これら十四の難問は誤った見解であり、真実ではありません。仏陀は常に真実を説かれるため、これらの問いには答えなかったのです。

復次，置不答，是為答。有四種答：一、決了答，如佛第一涅槃安隱；二、解義答；三、反問答；四、置答。此中佛以置答。

> さらに、「不答」をもって「答」とする。回答には四種類がある。一つは、明確に決断する回答。例えば仏が第一の涅槃は安らかであると説くようなもの。二つは、意味を解説する回答。三つは、逆に問い返す回答。四つは、答えを保留する回答である。ここで仏は答えを保留する回答を用いたのである。

汝言無一切智人，有是言而無義，是大妄語。實有一切智人。何以故？得十力故：知處非處故，知因緣業報故，知諸禪定解脫故，知眾生根善惡故，知種種欲解故，知種種世間無量性故，知一切至處道故，先世行處憶念知故，天眼分明得故，知一切漏盡故；淨不淨分明知故，說一切世界中上法故，得甘露味故，得中道故，知一切法若有為、若無為實相故，永離三界欲故。如是種種因緣故，佛為一切智人。

> あなたは「全てを知る人はいない」と言うが、その言葉に意味はなく、それは大きな偽りの言葉である。実に、全てを知る人は存在する。なぜなら、十の力を得ているからである。すなわち、道理と道理でないことを知る力、因縁と業の報いを知る力、様々な禅定と解脱を知る力、衆生の根の善悪を知る力、様々な欲と理解を知る力、様々な世間の無量の性質を知る力、あらゆる境地に至る道を知る力、過去世の行いを記憶し知る力、天眼を明らかに得る力、そして一切の煩悩の尽きたことを知る力である。清らかと清らかでないものを明らかに知る力、あらゆる世界において最上の法を説く力、甘露の味を得る力、中道を得る力、あらゆる法の有為・無為の実相を知る力、三界の欲を永遠に離れる力があるからである。このような様々な因縁によって、仏は一切を知る者なのである。

問曰：

> お尋ねします。

有一切智人，何等人是？

> 一切智者とは、どのような人のことを指すのですか？

答曰：

> お答えしますと、

是第一大人，三界尊，名曰佛。如讚佛偈說：

> この方は、第一の大いなる人であり、三界（迷いの世界すべて）の中で最も尊い方です。その名を「仏」といいます。まさに、仏を讃える偈（うた）に説かれている通りです。

「頂生轉輪王， 如日月燈明；釋迦貴種族， 淨飯王太子。生時動三千， 須彌山海水；為破老病死， 哀愍故生世。生時行七步， 光明滿十方；四觀發大音， 我生胎分盡。成佛說妙法， 大音振法鼓；以此覺眾生， 世間無明睡。如是等種種， 希有事已現；諸天及世人， 見之皆歡喜！佛相莊嚴身， 大光滿月面；一切諸男女， 視之無厭足！生身乳餔力， 勝萬億香象；神足力無上， 智慧力無量。佛身大光明， 照曜佛身表；佛在光明中， 如月在光裏。種種惡毀佛， 佛亦無惡想；種種稱譽佛， 佛亦無憙想。大慈視一切， 怨親等無異；一切有識類， 咸皆知此事。忍辱慈悲力， 故能勝一切；為度眾生故， 世世受勤苦。其心常一定， 為眾作利益。智慧力有十， 無畏力有四，不共有十八， 無量功德藏。如是等無數， 希有功德力，如師子無畏， 破諸外道法，轉無上梵輪， 度脫諸三界。」

> 頂生転輪聖王は、日月灯明の如く。 釈迦の尊い種族に生まれ、浄飯王の太子となられた。 誕生の時、三千世界を動かし、須弥山や海水までも震わせた。 老い・病・死を打ち破るため、哀れみの心でこの世に生まれられたのだ。 誕生の時、七歩歩まれ、光明は十方に満ち溢れた。 四方を見渡し、大いなる声で宣言された。「我が胎内での生は尽きた」と。 成仏して妙なる法を説き、大いなる響きで法の太鼓を打ち鳴らした。 これによって衆生を目覚めさせ、世の中の無明という眠りを打ち破られた。 このような様々な希有の出来事がすでに現れている。 諸天や世の人々は、それを見て皆、歓喜した！ 仏の相好は荘厳な身、大いなる光は満月のごとき御顔。 すべての男女は、見ても見飽きることがない！ 生身の乳の力は、一万億の香象にも勝る。 神足の力は無上であり、智慧の力は限りがない。 仏の御身の大いなる光明は、仏の御身の表面を照らし出している。 仏は光明の中に坐し、まるで月が光の中にあるかのようだ。 様々に仏を謗っても、仏には悪い思いは一切ない。 様々に仏を称賛しても、仏には喜びの思いも一切ない。 大いなる慈悲で一切を見渡し、怨みも親しみも等しく、差別がない。 すべての識ある類は、皆このことを知っている。 忍辱と慈悲の力によって、それゆえ一切に勝つことができる。 衆生を救済するため、世々にわたって苦しみを受けられた。 その心は常に一つの定にあり、衆生のために利益をなされる。 智慧の力には十種あり、恐れなき力には四種あり、 仏だけに備わる力は十八種あり、無量の功徳の蔵である。 このような数限りない、希有の功徳の力は、 獅子の如く畏れることなく、すべての外道の法を打ち破り、 無上の梵輪を転じ、三界の諸々を解脱させたまう。

是名為婆伽婆。

> これこそが世尊（バガヴァン）と呼ばれる方です。

婆伽婆義無量，若廣說則廢餘事，以是故略說。

> バガヴァンの意味は無量である。もし詳しく述べれば他の事柄が疎かになるため、ここでは簡略に説く。

## 大智度論卷第二

> 大智度論 第二巻