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title: "大智度論 · 6 共摩訶比丘僧釋論"
description: "大智度论由古印度龙树菩萨所造，后秦时期著名译经家鸠摩罗什翻译成中文。该论是佛教重要典籍，属于大乘中观学派的核心论著，主要阐释《大品般若经》的深奥义理。全书共一百卷，系统论述了般若空性思想、菩萨修行次第以及六度万行的实践方法，被誉为大乘佛教的百科全书。作为早期大乘佛教的代表性论典，大智度论对汉传佛教思想体系的形成影响深远，尤其为天台宗、华严宗等宗派提供了重要理论依据，在佛教哲学史上占据崇高地位。"
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### 大智度共摩訶比丘僧釋論第六

> 大智度論 第六章：摩訶比丘僧の解釈

【經】

> お経

共摩訶比丘僧。

> 多くの偉大な修行僧たちと共に。

【論】

> 【論】 論とは、心を

「共」名一處、一時、一心、一戒、一見、一道、一解脫，是名為「共」。

> 「共」とは、一つの場所、一つの時、一つの心、一つの戒め、一つの見解、一つの道、一つの解脱を共にすること、これを「共」と言います。

「摩訶」，秦言大，或多，或勝。

> 「摩訶」とは、中国語で言う「大」、または「多い」や「優れた」という意味です。

云何大？一切眾中最上故，一切障礙斷故，天王等大人恭敬故，是名為大。

> 「大」とはどういう意味か。あらゆる衆生の中で最も優れていること、全ての障りを断ち切っていること、そして天の王のような高貴な方々からも敬われること、これらを理由に「大」と呼ばれるのです。

云何多？數至五千，故名多。

> 問うに、多とは何か。数が五千にまで至るから、これを多と名づける。

云何勝？一切九十六種道論議，能破故名勝。

> 「勝」とは何か。あらゆる九十六種の教えや議論を打ち破ることができるから、勝と名づけるのである。

云何名「比丘」？

> 「比丘」とは、どのような意味でしょうか？

比丘名乞士，清淨活命故，名為乞士。

> 僧侶のことを「乞士」と呼ぶのは、清らかに生活していくために托鉢（たくはつ）を行うからです。

如經中說：「舍利弗入城乞食，得已，向壁坐食。是時有梵志女，名淨目，來見舍利弗，問舍利弗言：『沙門汝食耶？』答言：『食。』淨目言：『汝沙門下口食耶？』答言：『不！姊。』『仰口食耶？』『不！』『方口食耶？』『不！』『四維口食耶？』『不！』淨目言：『食法有四種，我問汝，汝言不；我不解，汝當說。』舍利弗言：『有出家人合藥、種穀、殖樹等不淨活命者，是名下口食。有出家人觀視星宿、日月，風雨、雷電、霹靂，不淨活命者，是名仰口食。有出家人曲媚豪勢，通使四方，巧言多求，不淨活命者，是名方口食。有出家人學種種呪術，卜筮吉凶，如是等種種不淨活命者，是名四維口食。姊！我不墮是四不淨食中，我用清淨乞食活命。』是時淨目聞說清淨法食，歡喜信解。舍利弗因為說法，得須陀洹道。」

> 経典にこう説かれています。「舎利弗が町に托鉢に行き、食べ物を得て壁に向かって座って食べていた。その時、浄目という名のバラモンの娘が来て、舎利弗に尋ねた。『沙門よ、あなたは食事をしているのか？』舎利弗は答えた。『食べている。』浄目が言った。『沙門よ、あなたは“下の口”で食事をする者なのか？』舎利弗は答えた。『いいえ、姉よ。』『では“上の口”で食べる者なのか？』『いいえ。』『“四角い口”で食べる者なのか？』『いいえ。』『“四方の口”で食べる者なのか？』『いいえ。』浄目が言った。『食べ方には四つの種類があります。私はあなたに尋ねましたが、あなたは違うと言います。理解できませんから、どうか説明してください。』舎利弗は言った。『出家者でありながら、薬を調合したり、穀物を植えたり、木を育てるなど、清らかでない方法で生計を立てる者を、“下の口で食べる者”と言う。出家者でありながら、星宿や日月、風雨、雷電、霹靂（へきれき）を観察し、清らかでない方法で生計を立てる者を、“上の口で食べる者”と言う。出家者でありながら、権力者に取り入り、方々に使いをし、巧みな言葉で多くを求め、清らかでない方法で生計を立てる者を、“四角い口で食べる者”と言う。出家者でありながら、さまざまな呪術を学び、吉凶を占うなど、そのような清らかでない方法で生計を立てる者を、“四方の口で食べる者”と言う。姉よ、私はこの四つの清らかでない食べ方には陥っていません。私は清らかな托鉢の食によって生計を立てているのです。』この時、浄目は清らかな法（教え）の食についての説法を聞き、喜びと信解（信じて理解すること）を得た。舎利弗はさらにそのために法を説き、彼女は須陀洹（すだおん）の悟りを得たのである。」

如是清淨乞食活命，故名乞士。

> このように清らかに托鉢（たくはつ）して生活するから、托鉢僧（たくはつそう）と呼ばれるのです。

復次，「比」名破，「丘」名煩惱；能破煩惱，故名比丘。

> また、「比」とは「破る」という意味で、「丘」とは煩悩を意味します。煩悩を打ち破ることができるので、比丘といいます。

復次，出家人名比丘。（譬如胡、漢、羌、虜，各有名字。）

> また、出家した人を「比丘」と呼びます。 （たとえば、胡や漢、羌、虜といったように、それぞれに名前があるのと同じです。）

復次，受戒時自言：我某甲比丘，盡形壽持戒，故名比丘。

> さらに、戒を受ける時に、自ら「私はこれこれという比丘です。生涯にわたって戒を守ります」と宣言するから、比丘と呼ぶのです。

復次，「比」名怖，「丘」名能，能怖魔王及魔人民。當出家剃頭著染衣受戒，是時魔怖。何以故怖？魔王言：「是人必得入涅槃。」如佛說：「有人能剃頭著染衣，一心受戒，是人漸漸斷結，離苦入涅槃。」

> また、「比」は「恐れる」という意味で、「丘」は「できる」という意味です。すなわち、魔王や魔の民を恐れさせることができるのです。人が出家して頭を剃り、染めた衣を身にまとい、戒律を受けるとき、魔王は恐れます。なぜ恐れるのか。魔王は言います。「この人は必ず涅槃に達するであろう」と。仏が説かれたように、「ある人が頭を剃り、染めた衣をまとい、一心に戒律を受けるなら、この人は徐々に煩悩を断ち切り、苦しみを離れて涅槃に入るであろう」と。

云何名僧伽？「僧伽」秦言眾；多比丘一處和合，是名僧伽。譬如大樹叢聚，是名為林；一一樹不名為林，除一一樹亦無林。如是一一比丘不名為僧，除一一比丘亦無僧，諸比丘和合故僧名生。

> 僧伽とは何か。「僧伽」はこの国（インド）では「集まり」という意味だ。多くの修行僧が一つの場所に集まり和合することを、僧伽と呼ぶ。たとえば大きな木が群がり集まっていることを「林」と呼ぶが、一本一本の木を林とは言わず、一本一本の木を除いても林は存在しない。これと同じように、一人一人の比丘（修行僧）を僧とは呼ばず、一人一人の比丘を除いても僧は存在しない。多くの比丘が和合することによって、僧という名が生まれるのである。

是僧四種：有羞僧、無羞僧、啞羊僧、實僧。

> 僧には四つの種類があります。恥を知る僧、恥を知らない僧、愚かな羊のような僧、そして真実の僧です。

云何名有羞僧？持戒不破，身、口清淨，能別好醜，未得道，是名有羞僧。

> 羞恥ある僧とは何か。 戒を保ち破らず、身と口が清らかで、善悪を区別できるが、まだ悟りを得ていない者を、羞恥ある僧という。

云何名無羞僧？破戒，身、口不淨，無惡不作，是名無羞僧。

> 無羞僧とは何か。戒律を破り、身体と言葉が清らかでなく、あらゆる悪を行わない者を、無羞僧と呼ぶ。

云何名啞羊僧？雖不破戒，鈍根無慧，不別好醜，不知輕重，不知有罪無罪；若有僧事，二人共諍，不能斷決，默然無言。譬如白羊，乃至人殺，不能作聲，是名啞羊僧。

> 何をもって「唖羊僧」というのか。戒律を破ってはいないが、根が鈍く智慧がなく、善悪の区別がつかず、軽重を知らず、罪があるかないかもわからない。もし僧団の中で問題が起きて二人が争っても、判断して決めることができず、黙ったまま何も言えない。まるで白い羊のように、人が殺そうとしても声を出すことができない。これを「唖羊僧」という。

云何名實僧？若學人、若無學人，住四果中、行四向道，是名實僧。

> 「真実の僧とは何か？」 学び身にある者（有学）、あるいは学びを完成した者（無学）であって、四つの悟りの果（預流果、一来果、不還果、阿羅漢果）に安住し、四つの道（四向道）を実践している者を、真実の僧と呼びます。

是中二種僧，可共百一羯磨、說戒、受歲，種種得作。

> ここには二種の僧伽がいる。この僧たちは、共に百一羯磨（忏悔の儀式）や説戒、受歳など、様々な修行を行うことができるのだ。

是中實聲聞僧六千五百。菩薩僧二種：有羞僧、實僧。以是實僧故，餘皆得名僧。以是故名比丘僧。

> この中には、実際の声聞（しょうもん）の僧が六千五百人いる。菩薩の僧には二種類ある。恥を知る僧と、実際の僧である。この実際の僧があるからこそ、その他の者もみな僧と名乗ることができる。このような理由から、比丘僧と呼ばれるのである。

【經】

> お経

大數五千分。

> およそ五千の部分からなる。

【論】

> 【論】 論とは、心を

云何名「大數」？少過少減，是名為「大數」。

> 「大数」とは何か。わずかに過ぎ、わずかに減じることを「大数」という。

云何名「分」？多眾邊取一分，是名「分」。

> 「分」とは何か。多くの集まりの中から一部分を取ること、これを「分」と名づける。

是諸比丘，千萬眾中取一分五千人，以是故名「五千分」。

> これらの比丘たちのうち、千万の衆の中から一部の五千人を選んで名付けたので、これによって「五千分」というのです。

【經】

> お経

皆是阿羅漢。

> みな、阿羅漢（あらかん）たちです。

【論】

> 【論】 論とは、心を

云何名阿羅漢？

> 阿羅漢とは何かというと、完全に修行を果たし、一切の煩悩を断ち切り、もう二度と迷いの世界に生まれ変わることがない尊い人のことです。

「阿羅」名賊，「漢」名破；一切煩惱賊破，是名「阿羅漢」。

> 「阿羅」とは盗賊のことで、「漢」とは打ち破るという意味です。つまり、あらゆる煩悩という盗賊を打ち破った者、それが「阿羅漢」です。

復次，阿羅漢一切漏盡，故應得一切世間諸天人供養。

> さらに、阿羅漢はあらゆる煩悩を完全に尽くしているため、この世の全ての天や人々からの供養を受けるにふさわしい存在です。

復次，「阿」名不，「羅漢」名生；後世中更不生，是名「阿羅漢」。

> さらに、「阿」とは「不生（生じない）」を意味し、「羅漢」とは「生」を意味します。 未来の世において再び生まれ変わることがないこと、これを「阿羅漢」と呼びます。

【經】

> お経

諸漏已盡。

> もろもろの煩悩が、すでに尽きています。

【論】

> 【論】 論とは、心を

三界中三種漏已盡無餘，故言漏盡也。

> 三つの世界における三種の煩悩が、すでに完全に尽くされた。そのため、「漏尽」と言われるのである。

【經】

> お経

無復煩惱。

> もう煩うことはありません。

【論】

> 【論】 論とは、心を

一切結、使、流、受、扼、縛、蓋、見、纏等斷除故，名無煩惱也。

> あらゆる「結び目」「束縛」「流れ」「執着」「絞めつけ」「縛り」「覆い」「誤った見解」「絡まり」などが断ち切られたからこそ、これを「煩悩がない」と呼ぶのです。

【經】

> お経

心得好解脫，慧得好解脫。

> 心がよく解脱し、智慧もよく解脱している。

【論】

> 【論】 論とは、心を

問曰：

> お尋ねします。

何以說「心得好解脫，慧得好解脫」？

> なぜ「心がよく解脱し、智慧がよく解脱した」と言うのでしょうか？

答曰：

> お答えしますと、

外道離欲人，一處一道心得解脫，非於一切障法得解脫。以是故，阿羅漢名「心得好解脫，慧得好解脫」。

> 外道の離欲者も、一つの境地・一つの道において、心の解脱を得ることはある。しかし、すべての障りとなる法（ダルマ）に対して解脱したわけではない。それゆえ、阿羅漢は「心においてよく解脱し、智慧においてよく解脱した」と呼ばれるのである。

復次，諸阿羅漢二道心得解脫：見諦道、思惟道，以是故名心得好解脫。學人心雖得解脫，非好解脫。何以故？有殘結使故。

> さらに、阿羅漢たちは二つの道によって心の解脱を得ます。すなわち、真理を見極める道と、それを心に深く思惟する道です。このことから、彼らの心は完全な解脱を得たと言えるのです。学びの段階にある者も心の解脱を得ることはありますが、それは完全なものではありません。なぜなら、まだ煩悩の残りがあるからです。

復次，諸外道等助道法不滿，若行一功德，若行二功德，求道不能得。如人但布施求清淨；如人祀天，言能脫憂衰，能得常樂國中生；亦更有言八清淨道：一、自覺，二、聞，三、讀經，四、畏內苦，五、畏大眾生苦，六、畏天苦，七、得好師，八、大布施——但說第八名清淨道。

> さらに、さまざまな外道（仏教以外の教えを説く者たち）は、悟りに至るための助けとなる修行法を完全に身につけていません。ある者は一つの功徳のみを行い、またある者は二つの功徳を行っても、悟りに至ることはできません。 例えば、ある人はただ施しを行うだけで心の清らかさを得ようとします。また、ある人は天の神々に祈りを捧げ、「憂いや衰えから逃れられ、永遠の喜びの国に生まれ変われる」と信じています。さらに「八つの清らかな道」を唱える者もいます。それは以下の通りです。 一、自ら悟ること。 二、教えを聞くこと。 三、経典を読誦すること。 四、内なる苦しみ（自らの苦しみ）を恐れること。 五、多くの生きとし生けるものの苦しみを恐れること。 六、天界における苦しみ（天人の苦）を恐れること。 七、優れた師に出会うこと。 八、大いに施しを行うこと。 ——ただし、これらのうち第八の施しのみを「清らかな道」と呼ぶ者もいるのです。

復次，有外道但布施、持戒說清淨，有但布施、禪定說清淨，有但布施、求智慧說清淨。

> また、外道の中には、布施と戒律の実践のみを清らかだと説く者もいる。あるいは、布施と禅定のみを清らかだと説く者もいる。また、布施と智慧の追求のみを清らかだと説く者もいる。

如是等種種道不具足，若無功德、若少功德說清淨。是人雖一處心得解脫，不名好解脫，涅槃道不滿足故。如偈說：

> このようなあらゆる修行の道が十分に備わっておらず、功徳が全くないか、または少ない状態で「清らか」と言っても、それは真の清らかさとは言えません。そのような人は、たとえ一つのことに心の解脱を得ても、それは立派な解脱とは呼べません。なぜなら、涅槃に至る道が満たされていないからです。偈にこうあります。

「無功德人不能渡， 生老病死之大海；少功德人亦不渡， 善行道法佛所說。」

> 功徳のない人は、生・老・病・死という大きな海を渡れない。 わずかな功徳のある人も、渡ることはできない。 善く道を行じる法こそ、仏の説かれたものである。

是中應說《須跋陀梵志經》：「須跋陀梵志，年百二十歲，得五神通，阿那跋達多池邊住。夜夢見一切人失眼，裸形，冥中立。日墮、地破，大海水竭，大風起吹須彌山破散。

> ここで『須跋陀梵志経』の話をお伝えしましょう。 須跋陀という百二十歳の梵志（修行者）は、五つの神通力を得て、阿那跋達多という池のほとりに住んでいました。ある夜、彼は夢を見ました。すべての人々が目を失い、裸のまま暗闇の中に立っていました。太陽が堕ち、地が裂け、大海の水が干上がり、大風が吹いて須弥山を打ち砕き散らしていました。

「覺已恐怖，思惟言：『何以故爾？我命欲盡？若天地主欲墮？』猶豫不能自了，以有此惡夢故。

> 目が覚めて恐れ、考えた。「なぜこんな夢を見たのだろう？私の命が尽きようとしているのか？それとも天地の主が滅びようとしているのか？」と。迷って自分で理解できず、この悪夢があるからであった。

「先世有善知識天，從上來下，語須跋陀言：『汝莫恐怖！有一切智人名佛，後夜半當入無餘涅槃，是故汝夢，不為汝身。』

> 前世において、善き知友である天人が天上から降りてきて、須跋陀に告げた。「あなたは恐れてはならない。全てを知る智慧を持つ方、すなわち仏がおわします。今夜の後夜半に、この方は無余涅槃に入られる。それゆえ、あなたが見た夢は、あなた自身に関わるものではないのだ。」

「是時，須跋陀明日到拘夷那竭國，樹林中見阿難經行，語阿難言：『我聞汝師說新涅槃道，今日夜半當取滅度！我心有疑，請欲見佛，決我所疑。』

> その時、須跋陀羅（スバドラ）という修行者が、翌日、クシナガラの国にある林の中にやって来ました。そして、アーナンダ（阿難）が歩いているのを見かけて、こう言いました。 「あなたの師である仏陀が、新しい『涅槃の道』を説いていると聞きました。そして、今夜の真夜中に、その生涯を終えられるそうです。私は心に疑問があります。どうか仏陀にお会いして、その疑問を解いていただきたいのです。」

「阿難答言：『世尊身極，汝若難問，勞擾世尊。』須跋陀如是重請至三，阿難答如初。

> 阿難が答えました。「世尊はお体がすぐれない。あなたが難しい質問をするのは、世尊を煩わせることになる。」 須跋陀が三度にわたって同じように請うたが、阿難は最初と同じように答えた。

「佛遙聞之勅語阿難：『聽須跋陀梵志來前，自在難問，是吾末後共談，最後得道弟子。』

> 仏は遠くからこれを聞かれ、阿難に告げられた。「須跋陀梵（すばつだぼん）を前に呼び、自由に質問させなさい。これこそ我が最後の対話であり、最後に悟りを得る弟子となる。」

「是時須跋陀得前見佛，問訊世尊已，於一面坐，如是念：『諸外道輩，捨恩愛財寶出家，皆不得道，獨瞿曇沙門得道。』

> その時、須跋陀は前に進んで仏をお見かけし、世尊にご挨拶を申し上げた後、片隅に座ってこう思いました。「多くの外道たちは、愛着や財産を捨てて出家したけれども、みな悟りを得ることはできなかった。ただ、ゴータマ・沙門だけが悟りを得たのだ。」

「如是念竟，即問佛言：『是閻浮提地六師輩，各自稱言我是一切智人，是語實不？』

> かくの如く念じて終わり、即ち仏に問いて言わく、「この閻浮提の地に六師の輩あり、各々自ら称して言う『我は一切智人なり』と。この語は実なるや、実ならざるや。」

「爾時，世尊以偈答曰：

> その時、世尊は偈（うた）でお答えになりました。

「『我年一十九， 出家學佛道，我出家已來， 已過五十歲。淨戒禪智慧， 外道無一分，少分尚無有， 何況一切智？

> 「私は十九歳の年に出家して、仏道を学びました。 出家してからすでに五十年が過ぎました。 清らかな戒律や禅定（瞑想）、智慧といったものは、外道にはまったくありません。 わずかな部分すらもないのですから、ましてや一切の智慧があるはずがありません。」

「『若無八正道，是中無第一果，第二、第三、第四果；若有八正道，是中有第一果，第二、第三、第四果。須跋陀！是我法中有八正道，是中有第一道果，第二、第三、第四道果。餘外道法皆空，無道、無果，無沙門，無婆羅門。如是我大眾中，實作師子吼！』

> 「もし八正道が存在しなければ、その中に第一果（預流果）も、第二果（一来果）も、第三果（不還果）も、第四果（阿羅漢果）もありません。しかし八正道があるならば、その中に第一果、第二果、第三果、第四果があります。須跋陀よ、私の教えには八正道があります。その中に第一の道果、第二、第三、第四の道果があるのです。他の外道の教えは全て空しく、道もなければ果もなく、沙門（修行者）もいなければ、婆羅門（聖者）もいません。このように、私の教えの集まりの中で、まさに獅子吼（真理の宣言）を行っているのです！」

「須跋陀梵志聞是法，得阿羅漢道。思惟言：『我不應佛後般涅槃。』如是思惟竟，在佛前結加趺坐，自以神力，身中出火燒身而取滅度。」

> スバッダラという修行者がこの教えを聞いて、阿羅漢の境地に達しました。そして考えました。「私はお釈迦さまの後で涅槃に入るべきではない」と。そう思った後、お釈迦さまの前で結跏趺坐し、自らの神通力で体内から火を出して身を焼き、そのまま涅槃に入られました。

以是故，佛言：「無功德、少功德，是助道法不滿，皆不得度。」佛說一切功德具足故，能度弟子。譬如小藥師，以一種藥、二種藥，不具足故，不能差重病；大藥師輩，具足眾藥，能差諸病。

> ゆえに仏は説かれた。「功徳がない、または功徳が少ないというのは、悟りへの道を助ける法が満ち足りていないことであり、いずれも彼岸に渡ることはできない」と。仏は一切の功徳を具えているからこそ、弟子たちを救済することができるのである。たとえば、未熟な医師が一種類や二種類の薬しか持たず、十分な備えがないために重い病気を治せないのに対し、熟達した医師たちは様々な薬を揃えているので、どんな病も治せるようなものである。

問曰：

> お尋ねします。

若一切三界煩惱離故，心得解脫，何以故佛言「染愛離，心得解脫」？

> もし、あらゆる三界の煩悩から離れることで心が解脱するのなら、なぜ仏は「貪りの愛執から離れて、心は解脱を得る」とおっしゃったのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

愛能繫閉心，有大力，以是故說；不說餘煩惱。愛斷餘則斷。

> 愛は心を縛り閉じ込める力が強く、そのため特に説かれているのです。他の煩悩については説かれていません。愛を断ち切れば、他の煩悩も自然と断たれるからです。

復次，若人言王來，知必有將從；染愛亦如是。又如捉巾一頭，餘則盡隨；愛染亦如是，愛斷則知餘煩惱皆已斷。

> また、人が「王が来た」と言えば、必ず従者も来ていると知るように、愛執もまた同じである。また、布の一端を掴めば残りもすべて付いてくるように、愛執もまた同じである。愛執が断たれれば、他の煩悩もすべて断たれたと知るのである。

復次，諸結使皆屬愛、見：屬愛煩惱覆心，屬見煩惱覆慧。如是愛離故，屬愛結使亦離，得心解脫。如是無明離故，屬見結使亦離，得慧解脫。

> さらに、あらゆる煩悩の束縛は、愛欲と誤った見解に分類されます。愛欲に属する煩悩は心を覆い、誤った見解に属する煩悩は智慧を覆います。このように、愛欲が離れるならば、愛欲に属する煩悩の束縛も離れ、心の解脱を得ます。また、無明が離れるならば、誤った見解に属する煩悩の束縛も離れ、智慧の解脱を得るのです。

復次，是五千阿羅漢，應不退法，得無生智，以是故言「心得好解脫，慧得好解脫」，不退故。退法阿羅漢得時解脫，如劬提迦等，雖得解脫，非好解脫，以退法故。

> さらに、この五千人の阿羅漢たちは、退くことのない境地にあり、不生の智慧を得ています。そのため、「心がよく解脱し、智慧がよく解脱した」と言われるのです。退くことがないからです。 退くことのある阿羅漢は、時によって解脱を得ます。クティカらのように、たとえ解脱を得ても、その解脱は完全なものではありません。退くことがあるからです。

【經】

> お経

心調柔軟。

> 心が柔らかく、調和のとれた状態になる。

【論】

> 【論】 論とは、心を

若有恭敬供養、瞋恚罵詈撾打者，心等無異；若得珍寶、瓦石，視之一等；若有持刀斫截手足，有持栴檀塗身者，亦等無異。

> もし人々が敬意を込めて供養しようが、怒って罵り殴ろうが、心は全く同じで変わりありません。もし宝を得ようが、瓦や石を得ようが、それらを同じように見ます。もし刀で手足を切り落とす者がいようが、栴檀の香りを体に塗る者がいようが、それもまた同じで全く違いはありません。

復次，婬欲、瞋恚、憍、慢、疑、見，根本已斷故，是謂心調柔軟。

> さらに、欲望や怒り、傲慢、思い上がり、疑い、誤った見解が根本から断ち切られているから、この心は柔らかく調和していると言えるのです。

復次，是諸阿羅漢，欲染處不染，應瞋處不瞋，應癡處不癡，守護六情，以是故名心調柔軟。如偈說：

> さらに、これらの阿羅漢たちは、欲情を生じる場面でも執着せず、怒るべき場面でも怒らず、迷いを生じる場面でも惑わされず、六つの感覚器官をしっかりと守っている。そのような理由から、彼らの心は調和し、柔らかく安らかである。それを偈は次のように説いている。

「人守護六情， 如好馬善調；如是實智人， 諸天所敬視。」

> 人が六つの感覚をしっかりと守り、 あたかも名馬をうまく調教するかのように。 そのように真実の智慧ある人は、 諸天の神々からも敬われ、見守られる。

諸餘凡人輩，不能守護六情，欲、瞋、慢、癡、疑、見不斷故，不調柔，如惡弊馬。以是故，諸阿羅漢名心調柔軟。

> 他の凡夫たちは、六つの感覚器官をしっかりと守ることができません。欲望、怒り、慢心、無知、疑い、誤った見解を断ち切れないからです。そのため心は穏やかにならず、まるで手に負えない荒馬のようなものです。ですから、阿羅漢たちは「心が調えられ、柔らかくなった者」と呼ばれるのです。

【經】

> お経

摩訶那伽。

> 摩訶那伽とは、偉大なる龍（または偉大なる象）のことです。

【論】

> 【論】 論とは、心を

「摩訶」言大，「那」名不，「伽」名罪。諸阿羅漢諸煩惱斷，以是故名不罪。

> 「摩訶」は「大きい」という意味、「那」は「ない」という意味、「伽」は「罪」という意味です。すべての阿羅漢は煩悩を断ち切っているため、「罪なき者」と呼ばれます。

復次，「那伽」或名龍，或名象。是五千阿羅漢，諸無數阿羅漢中最大力，是以故言如龍、如象。水行中龍力大，陸行中象力大。

> また、「ナーガ」とは龍、あるいは象を指します。この五千人の阿羅漢たちは、数えきれないほどの阿羅漢の中でも最も力が強い。そのため、「龍のようであり、象のようである」と言われるのです。水中では龍の力が最も大きく、陸上では象の力が最も大きいからです。

復次，如善調象王，能破大軍，直入不迴，不畏刀杖，不難水火，不走不退，死至不避。諸阿羅漢亦復如是，修禪定、智慧故，能破魔軍及諸結使賊。罵詈、撾打，不悔、不恚；老死、水火，不畏不難。

> さらに、よく調教された象の王のように、大きな軍勢を打ち破り、まっすぐに突入して退かず、刀や杖を恐れず、水火も避けず、逃げも退きもせず、死が訪れても避けない。すべての阿羅漢もまた、これと同じである。禅定と智慧を修行したことにより、魔王の軍勢やさまざまな煩悩の賊を打ち破ることができる。罵倒されたり、打たれたりしても、悔やまず、怒らない。老いや死、水火を前にしても、恐れず、避けることもない。

復次，如大龍王從大海出，起於大雲，遍覆虛空，放大電光，明照天地，澍大洪雨，潤澤萬物。諸阿羅漢亦復如是，從禪定、智慧大海水中出，起慈悲雲，潤及可度，現大光明，種種變化，說實法相，雨弟子心，令生善牙。

> さらに、大龍王が大海から出て大雲を起こし、虚空をおおい尽くし、大きな電光を放って天地を明るく照らし、大雨を降らせて万物を潤すように、すべての阿羅漢もまた同様である。彼らは禅定と智慧という大海の水から出て、慈悲の雲を起こし、救うべき者を潤し、大いなる光明を現し、さまざまな変化を示し、真実の法の姿を説き、弟子たちの心に雨を注いで、善の芽を生じさせるのである。

【經】

> お経

所作已辦。

> 成し遂げるべきことを、すでに成し遂げました。

【論】

> 【論】 論とは、心を

問曰：

> お尋ねします。

云何名所作？云何名已辦？

> 問う、「作す」とは何か？また、「成す」とは何か？

答曰：

> お答えしますと、

信、戒、捨、定等諸善法得故，名為所作；智慧、精進、解脫等諸善法得故，是名已辦。二法具足滿故，名「所作已辦」。

> 信（信仰）、戒（戒律）、捨（布施）、定（禅定）などの善い教えを身につけることを「所作」といいます。そして智慧（プラジュニャー）、精進（努力）、解脱（悟りの解放）などの善い教えを身につけることを「已辦（すでに成し遂げたこと）」といいます。この二つの教えが共に完全に満たされた状態を「所作已辦（なすべきことをなし終えた）」と呼びます。

復次，諸煩惱有二種：一種屬愛，一種屬見。屬愛煩惱斷故名所作，屬見煩惱斷故名已辦。

> さらに、煩惱には二種類あります。一つは「愛」に属する煩惱、もう一つは「見」に属する煩惱です。「愛」に属する煩惱を断ち切ることを「所作」といい、「見」に属する煩惱を断ち切ることを「已辦」といいます。

復次，色法善見故名所作，無色法善見故名已辦。可見、不可見，有對、無對等二法亦如是。

> さらに、物質的なものは「よく見える」ことから「所作」と呼ばれ、物質を超えたものは「よく見える」ことから「已辦」と呼ばれます。見えるものと見えないもの、対するものと対しないもの、こうした二つの法もまた、同じように説かれます。

復次，不善、無記法斷故名所作，善法思惟故名已辦。聞、思慧成就故名所作，修慧成就故名已辦。種種三法亦如是。

> さらに、不善（よくないこと）と無記（善悪に分類できないこと）の法を断ち切るから「所作（なすべきこと）」といい、善の法をよく考えるから「已辦（すでに成し遂げたこと）」といいます。聞慧（聞いて得た智慧）と思慧（考えて得た智慧）を成就するから「所作」、修慧（修行して得た智慧）を成就するから「已辦」といいます。他のさまざまな三つの法についても、同じように理解すべきです。

復次，煖法、頂法、忍法、世間第一法得故名所作，苦法忍等諸無漏善根得故名已辦。

> 次に、暖法・頂法・忍法・世間第一法を修得することを「所作」といい、苦法忍などの無漏の善根を修得することを「已辦」といいます。

見諦道得故名所作，思惟道得故名已辦。

> 真理を見極める道において得られたものだから「所作（為すべきこと）」と言い、熟考する道において得られたものだから「已辦（成し遂げられたこと）」と言うのです。

成學道故名所作，無學道得故名已辦。

> 学びの道を完成したことから「所作をなす」といい、学びを超えた道を得たことから「すでに成し遂げた」といいます。

心解脫得故名所作，慧解脫得故名已辦。

> 心の解脱を得たから「なすべきことをなした」といい、智慧の解脱を得たから「すでに成し遂げた」というのです。

漏盡故名所作，得共解脫故名已辦。

> 煩悩が尽きたから「なすべきことをなした」といい、共に解脱を得たから「すでに成し遂げた」というのです。

一切結使除故名所作，得非時解脫故名已辦。

> あらゆる煩悩を除き終えたので「なすべきことをなした」といい、時に依らない解脱を得たので「すでに成し遂げた」といいます。

自利益竟故名所作，利益他人故名已辦。

> 自らの利益を究め尽くしたから「なすべきことをなした」といい、他者の利益を図ったから「既に成し遂げた」というのです。

如是等所作已辦義，自在說。

> このように、なすべきことを全て成し遂げたという意味を、自由自在に説き示すのである。

【經】

> お経

棄擔能擔。

> 荷物を下ろせる者は、真に担うことができる。

【論】

> 【論】 論とは、心を

五眾麁重常惱故名為「擔」。如佛所說：「何謂擔？五眾是擔。」諸阿羅漢此擔已除，以是故言「棄擔」。

> 五つのまとまり（五蘊）という重荷が、常に悩ませるものであることから、「担い」と呼ばれます。仏が説かれる通り、「何を担いと呼ぶのか。五つのまとまりこそが担いである」と。阿羅漢たちはこの担いをすでに除き去っています。それゆえに、「担いを捨てた」と言われるのです。

「能擔」者，是佛法中二種功德擔應擔：一者自益利，二者他益利。一切諸漏盡、不悔解脫等諸功德，是名自利益；信、戒、捨、定、慧等諸功德能與他人，是名利益他。是諸阿羅漢，自擔、他擔能擔，故名能擔。

> 「能擔」とは、仏法における二種の功徳の荷を担うことです。一つ目は自己利益、二つ目は他者利益です。あらゆる煩悩が尽き、後悔のない解脱などの功徳を、自己利益と言います。また、信・戒・捨・定・慧（智慧）などの功徳を他者に与えられることを、他者利益と言います。これらの阿羅漢たちは、自己の荷も他者の荷も担うことができるため、「能擔」と呼ばれます。

復次，譬如大牛壯力，能服重載；此諸阿羅漢亦如是，得無漏根、力、覺、道，能擔佛法大事擔。以是故諸阿羅漢名能擔。

> また、たとえば大きな力ある牛が重い荷を負うことができるように、これらの阿羅漢たちもまた、煩悩のない根・力・覚・道を身につけ、仏法という大きな責任を担うことができます。そのため、これらの阿羅漢は「担うことができる者」と呼ばれるのです。

【經】

> お経

逮得己利。

> 自らの利益を確かに得た。

【論】

> 【論】 論とは、心を

云何名己利？云何非己利？

> 己の利益とは何か？ 己の利益ではないものとは何か？

行諸善法，是名己利；諸餘非法，是名非己利。

> 善い行いを実践することが、真の自分のための利益です。 それ以外の正しくない行いは、自分のための利益とは言えません。

復次，信、戒、捨、定、慧等諸功德，一切財寶勝故，今世後世常得樂故，能到甘露城故，以是三因緣故名己利。如〈信品〉中偈說：

> さらに、信仰（信）、戒律（戒）、施し（捨）、心の集中（定）、智慧（慧）などのさまざまな功徳は、すべての財宝よりも勝れています。なぜなら、現在の世でも後の世でも常に安楽をもたらし、不死の境地（甘露の城）に至らせることができるからです。この三つの理由によって、これらを「自己の真の利益」と呼びます。『信仰の章』の偈にも説かれています。

「若人得信慧， 是寶最第一；諸餘世財利， 不及是法寶！」

> もし人が信心と智慧を得たならば、それが最も第一の宝です。 この世の他のどんな財産や利益も、この法の宝には及びません。

復次，若人今世得樂，後世得樂，及涅槃常樂，是名己利；餘非己利。如偈說：

> 次に、もし人が現世で楽を得、来世でも楽を得、さらには涅槃の常住の楽をも得るならば、これを「己の利」と呼ぶ。その他のことは、己の利ではない。偈にこうある。

「世知種種無道法， 與諸禽獸等無異。當求正智要道法， 得脫老死入涅槃！」

> 世の中には様々な間違った教えや方法があるが、 それは結局、動物たちと変わらないものでしかない。 正しい智慧と真実の道を求めなさい。 そうすれば、老いと死から解脱して、涅槃（悟りの境地）に入ることができるのだ。

復次，八正道及沙門果，是名諸阿羅漢己利。是五千阿羅漢得道及果，二事俱得，故名己利。以是故言逮得己利。

> さらに、「八正道」と「沙門の果報」、これらをあわせて「阿羅漢の自らの利（己利）」といいます。この五千人の阿羅漢たちは、道と果報の両方を得たため、「己利を得た」と称されます。ゆえに、「逮得己利（みずから利を得るに至る）」と表現されるのです。

【經】

> お経

盡諸有結。

> すべての束縛を尽くした。

【論】

> 【論】 論とは、心を

三種有：欲有、色有、無色有。

> 三つの生存のあり方があります。欲望の世界への執着、形ある世界への執着、形なき世界への執着です。

云何欲有？「欲界繫業取因緣，後世能生，亦是業報，是名欲有。」

> 「欲有」とは何か。欲界に属する業が因縁となって、来世に生を受けることをいう。これもまた、業の報いとしての存在であり、これを「欲有」と名づける。

色有、無色有亦如是。是名為「有」。

> 色界（物質的な世界）も、無色界（物質を超えた世界）も、同じように考える。これを「有（存在）」と呼ぶ。

結盡者，結有九結：愛結、恚結、慢結、癡結、疑結、見結、取結、慳結、嫉結。

> 結び目（けっ）が尽きるというのは、九つの結び目のことを指します。すなわち、愛着の結び目、怒りの結び目、慢心の結び目、無知の結び目、疑いの結び目、誤った見解の結び目、執着の結び目、物惜しみの結び目、嫉妬の結び目です。

是結使盡及有，是有盡及結使，以是故名有結盡。

> 欲望や煩悩が尽きることと、存在が尽きること。これらがあるから、「執着の滅尽」と呼ばれるのです。

問曰：

> お尋ねします。

諸阿羅漢結使應永盡，得一切煩惱離故。有不應盡。何以故？阿羅漢未滅度時，眼根等五眾、十二入、十八持諸有成就故。

> 阿羅漢の煩悩の束縛は、完全に尽きるべきであり、すべての煩悩から離れているからです。しかし、すべてが尽きるわけではありません。なぜなら、阿羅漢は入滅していない間、眼根などの五蘊、十二処、十八界という存在条件がなお成り立っているからです。

答曰：

> お答えしますと、

無所妨！是果中說因。

> 妨げるところはない！これは果(実)の中に因(原因)を説く、ということだ。

如佛語：「檀越施食時，與五事：命、色、力、樂、𥊳。」食不能必與五事，有人大得飲食而死，有人得少許食而活。食為五事因，是故佛言施食得五事。

> 仏がおっしゃったように、「在家の信者が食べ物を施す時、五つの功徳（寿命・容色・体力・安楽・すばやさ）を与えるのである。」食べ物は必ずしもこれら五つを確実に与えるとは限らない。ある人はたくさんの食べ物を得ても死に、ある人はわずかな食べ物で生き延びる。食べ物はこれら五つの功徳の縁（原因）となる。だからこそ仏は「食べ物を施せば五つの功徳を得る」とおっしゃったのである。

如偈說：

> 次のように偈で説かれています。

「斷食死無疑， 食者死未定；以是故佛說， 施食得五事。」

> 「断食すれば必ず死に至るが、食事をとる者の死期は定まらない。 それゆえに仏は説かれた。食物を施す者には五つの功徳があると。」

亦如人食百斤金，金不可食，金是食因，故言「食金」。佛言「女人為戒垢」，女人非戒垢，是戒垢因故，言「女人為戒垢」。如人從高處墮未至地，言此人死，雖未死，知必死故，言「此人死」。如是諸阿羅漢結使已盡，知有必當盡故，言「有結盡」。

> たとえば人が百斤の金を食べるというが、金は食べられない。金は食べるための原因であるから「金を食べる」と言うのである。仏が「女は戒の垢である」と言われるのも、女そのものが戒の垢なのではなく、戒の垢の原因であるから「女は戒の垢である」と言うのである。また、人が高所から落ちて地面に着く前に「この人は死んだ」と言う場合、まだ死んでいなくとも必ず死ぬと知っているから「この人は死んだ」と言うのと同じである。このように、諸々の阿羅漢は既に煩悩の束縛を断ち切っているが、必ず尽きると知っているから「束縛が尽きた」と言うのである。

【經】

> お経

正智已得解脫。

> 正しい智慧によってすでに解脱を得ている。

【論】

> 【論】 論とは、心を

如摩犍提梵志弟子，舉其屍著床上，輿行城市中多人處，唱言：「若有眼見摩犍提屍者，是人皆得清淨道，何況禮拜供養者！」多有人信其言。諸比丘聞是語，白佛言：「世尊！是事云何？」

> マガンディンというバラモンの弟子が、その死体を寝台に載せて、街中の人々が集まる場所で宣言した。 「もしこのマガンディンの死体を目にした者は、皆が清らかな道を得られる。ましてや礼拝し供養する者はなおさらである！」 多くの人がこの言葉を信じた。比丘たちがこの話を聞いて、仏に尋ねた。 「世尊よ、このことはどういうことでしょうか？」

佛說偈言：

> 仏が詩（うた）を説かれた。

「小人眼見求清淨， 如是無智無實道，諸結煩惱滿心中， 云何眼見得淨道？若有眼見得清淨， 何用智慧功德寶？智慧功德乃為淨， 眼見求淨無是事。」

> 「愚かな人は、目に見えるものだけに清らかさを求めます。 しかし、それは智慧のない、真実の道ではありません。 様々な煩悩が心に満ちているのに、 どうして目に見えるものだけで清らかな道が得られるでしょうか？ もし目に見えるものだけで清らかさが得られるなら、 智慧や功徳の宝など、必要ないでしょう。 智慧と功徳こそが清らかさをもたらすのです。 目に見えるものに清らかさを求めるのは、まったく見当違いなのです。」

以是故言「正智得解脫」。

> そういうわけで、「正しい智慧によって解脱を得る」と言われるのです。

問曰：

> お尋ねします。

諸阿羅漢所作已辦，更不求進，何以故常在佛邊，不餘處度眾生？

> 諸々の阿羅漢は、すでに成すべきことを成し遂げており、さらなる向上を求めてはいません。なぜ、常に仏のそばにおりながら、他の場所で衆生を救済しないのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

一切十方眾生，雖盡應供養佛，阿羅漢受恩重故，應倍供養。所以者何？是阿羅漢從佛得成，受無量功德，知結使斷，信心轉多，是故諸大德阿羅漢，佛邊受功德樂味，供養恭敬，報佛恩故，在佛邊住。

> あらゆる時空のすべての生きとし生けるものは、皆、仏に供養を捧げるべきですが、阿羅漢は受けた恩が特に大きいため、倍の供養を受けるべきです。 なぜなら、この阿羅漢は仏のもとで悟りを成就し、計り知れない功徳を受けて、煩悩が断たれたことを知り、信仰心がより深まるからです。 このように、高徳の阿羅漢たちは、仏のもとで功徳の味わいを受け、供養や恭敬をもって仏の恩に報いるため、仏のそばに留まるのです。

諸阿羅漢圍繞佛故，佛德益尊。如梵天人遶梵天王，如三十三天遶釋提桓因，如諸鬼神遶毘沙門王，如諸小王遶轉輪聖王，如病人病愈住大醫邊；如是諸阿羅漢住在佛邊，諸阿羅漢圍繞供養故，佛德益尊。

> 多くの阿羅漢たちが仏を囲んでいるので、仏の徳はますます尊くなります。それはちょうど、梵天の衆が梵天王を囲み、三十三天が帝釈天を囲み、諸々の鬼神が毘沙門王を囲み、多くの小国の王たちが転輪聖王を囲むようなものです。また、病気が治った人が大医者のそばにいるように、阿羅漢たちが仏のそばに集まり、彼らが囲んで供養するからこそ、仏の徳は一層尊く輝くのです。

問曰：

> お尋ねします。

若諸阿羅漢所作已辦，逮得己利，不須聽法，何以故說般若波羅蜜時，共五千阿羅漢？

> もし阿羅漢たちがすでに成すべきことを成し遂げ、自らの利益を得ているのなら、もはや法を聞く必要はないはずです。それなのに、なぜ般若波羅蜜を説くときに、五千もの阿羅漢が共に集まったのでしょうか？

答曰：

> お答えしますと、

諸阿羅漢雖所作已辦，佛欲以甚深智慧法試。如佛問舍利弗，如《波羅延經》阿耆陀難中偈說：

> すべての阿羅漢はすでに修行を成し遂げていましたが、仏はより深い智慧の教えをもって彼らを試そうとされました。ちょうど仏が舎利弗に問いかけたように、また『波羅延経』の阿耆陀難の偈で説かれているように。

「種種諸學人， 及諸數法人，是人所行法， 願為如實說！」

> 様々な学問を志す人々や、教えの言葉を数多く研究する人々がおります。 そうした人々が実践すべき法について、ありのままにお教えください。

「是中，云何學人？云何數法人？」爾時，舍利弗默然。如是三問，三默。佛示義端，告舍利弗：「有生不？」舍利弗答：「世尊！有生。有生者，欲為滅有為生法故，名學人；以智慧得無生法故，名數法人。」是經，此中應廣說。

> ここでいう「学人」とは何か？「数法人」とは何か？ このように問われた舎利弗は、沈黙した。三度問われても、三度とも沈黙した。 そこで仏は、その意味の一端を示して舎利弗に問われた。「『有生（うしょう）』というのは存在するか？」 舎利弗は答えた。「世尊よ、『有生』は存在します。この『有生』ある者は、有為の生の法を滅しようと努めるゆえに『学人』と呼ばれます。また、智慧によって無生の法を得た者は『数法人』と呼ばれます。」 この経典については、ここで詳しく説かれるべきである。

復次，若有漏、若無漏，諸禪定未得故欲得，已得欲令堅深故，諸阿羅漢佛邊聽法。

> また、煩悩のあるものも、煩悩のないものも、あらゆる禅定に至っていないために得たいと願い、すでに得たものはそれを堅固に深めたいと願うため、阿羅漢たちは仏のそばで法を聞くのである。

復次，現前樂故，如《難陀迦經》中說：「以今世樂故聽法。」

> さて、目の前の楽しみがあるからこそ、『難陀迦経』にも「この世での楽しみのために、法を聞く」と説かれています。

復次，諸阿羅漢在佛邊聽法，心無厭足，如《蜫盧提迦經》中說：「舍利弗語蜫盧提迦：『我法中聽法無厭。』」

> さらに、すべての阿羅漢（アラハン）は仏のそばで法を聞くとき、心に満ち足りることがありません。これは『蜫盧提迦経』の中で、舎利弗が蜫盧提迦にこう語った通りです。「私の教えでは、法を聞くことに飽きることがないのです。」

復次，如佛大師，自一心從弟子邊聽法，不應難言阿羅漢所作已辦，何以聽法？譬如飽滿人得好食，猶尚更食，云何飢渴人而言不應食！以是故，諸阿羅漢雖所作已辦，常在佛邊聽法。

> また、仏という大いなる師が、自ら一心に弟子から法を聞くのだから、「阿羅漢はなすべきことを成し遂げたのだから、なぜ法を聞くのか」と難じてはならない。たとえば、満腹の人が良い食べ物を得ても、なおさらに食べるように、ましてや飢え渇いている人が「食べるべきではない」と言えるだろうか。それゆえ、諸々の阿羅漢は、なすべきことを成し遂げていながらも、常に仏のそばで法を聞くのである。

復次，佛住解脫法中，諸阿羅漢亦住解脫法中，住法相應，眷屬莊嚴。如《栴檀譬喻經》中言：「有栴檀林，伊蘭圍之；有伊蘭林，栴檀圍之。有栴檀，栴檀以為叢林；有伊蘭，伊蘭自相圍繞。」佛、諸阿羅漢，亦復如是。佛住善法解脫中，諸阿羅漢亦住善法解脫中，住法相應，眷屬莊嚴。

> さらに、仏は解脱の法の中に住しておられる。同様に、阿羅漢たちも解脱の法の中に住している。このように、住している法が互いに対応し合い、その眷属たちによって荘厳されている。『栴檀譬喩経』にこう言われている。「栴檀の林があると、その周りを伊蘭が取り囲む。伊蘭の林があると、その周りを栴檀が取り囲む。栴檀は、栴檀をもって林を成す。伊蘭は、伊蘭が互いに取り巻き合う。」仏と阿羅漢たちも、まさにこのとおりである。仏は善き法である解脱の中に住し、阿羅漢たちもまた善き法である解脱の中に住して、住する法が互いに対応し合い、その眷属たちによって荘厳されているのである。

佛以大眾圍繞，如須彌山王，十寶山圍繞；如白香象王，白香象圍繞；如師子王，師子眾圍遶。佛亦如是，佛為世間無上福田，與諸弟子圍繞共住。

> 仏が大勢の弟子たちに囲まれている様子は、まるで巨大な須弥山が十の宝山に囲まれているかのようです。あるいは、白い香りの象の王が白い香りの象たちに囲まれているかのようであり、獅子の王が獅子の群れに取り囲まれているかのようです。仏もまさにそのように、この世における最高の福田として、弟子たちと共に暮らし、彼らに囲まれているのです。

【經】

> お経

唯除阿難在學地，得須陀洹。

> ただし、阿難が学地にあって須陀洹を得ていたのは除く。

【論】

> 【論】 論とは、心を

問曰：

> お尋ねします。

何以言「唯除阿難」？

> なぜ「阿難を除く」と言うのか？

答曰：

> お答えしますと、

上所讚諸阿羅漢，阿難不在其數。何以故？以在學地，未離欲故。

> ここで讃えられている阿羅漢たちの中に、阿難は含まれていません。なぜなら、彼は修行の途上にあり、まだ欲望を離れていないからです。

問曰：

> お尋ねします。

大德阿難第三師，大眾法將，種涅槃種已無量劫，常近佛，持法藏。

> 大徳なる阿難は、第三の師であり、大衆の法の将として、涅槃の種を無量の劫（こう）の昔から植え続けてきました。常に仏に近づき、法の宝庫を守り続けてきたのです。

大德利根，何以至今未離欲作學人？

> 尊者利根の方よ、どうして今なお煩悩を離れず、学ぶ者であり続けるのですか。

答曰：

> お答えしますと、

大德阿難本願如是：「我於多聞眾中最第一。」亦以諸佛法，阿羅漢所作已辦，不應作供給供養人，以其於佛法中能辦大事，煩惱賊破，共佛在解脫床上坐故。

> 徳のあるアーナンダは、もともとこう誓っていました。「私は、多くの教えを聞く人々の中でも最も優れた者となるでしょう」と。また、諸仏の教えに従い、阿羅漢（悟りを開いた者）はすでにすべきことを成し遂げているため、供養や奉仕の対象となるべきではないとされています。なぜなら、彼らは仏の教えの中で大切な業を果たし、煩悩という敵を打ち破り、仏と共に解脱という安らぎの床に座しているからです。

復次，長老阿難種種諸經，聽、持、誦利、觀故智慧多，攝心少；二功德等者，可得漏盡道。以是故，長老阿難是學人須陀洹。

> さらに、長老アーナンダは、様々な経典を聞き、暗唱し、朗読し、観想する修行によって智慧は多く蓄えられたものの、心を集中させる力は少なかった。その二つの功徳が等しくなって初めて、煩悩を尽くす道を得ることができるのだ。それゆえに、長老アーナンダは、いまだ修学中の身である須陀洹果（預流果）にあるのである。

復次，貪供給世尊故，是阿難為佛作供給人；如是念：「若我早取漏盡道，便遠世尊，不得作供給人。」以是故，阿難雖能得阿羅漢道，自制不取。

> さらに、世尊への供養を貪るがゆえに、阿難は仏の侍者となった。彼はこう考えた。「もし私が早く煩悩を尽くす道を得れば、世尊から遠ざかり、侍者として仕えられなくなるだろう」と。そのため、阿難は阿羅漢の境地を得る能力がありながら、自らそれを制して受け入れなかったのである。

復次，處、時、人未合故。何等處？能集法千阿羅漢未在耆闍崛山，是為處；世尊過去時未到；長老婆耆子不在。以是故，長老阿難漏不盡。要在世尊過去，集法眾合，婆耆子說法勸諫——三事合故，得漏盡道。

> また、場所、時、人の条件が整わなかったからである。どのような場所か。法を集める千人の阿羅漢たちがまだ耆闍崛山に揃っていなかった。これが場所の条件である。世尊が過去に入られる時がまだ来ていなかった。長老婆耆子がその場にいなかった。これらの理由により、長老アーナンダは煩悩を尽くしきれなかった。すなわち、世尊が過去に入られ、法を集める僧団が整い、婆耆子が説法して勧め諭す——この三つの条件が揃って初めて、煩悩を尽くす道を得ることができたのである。

復次，大德阿難厭世法少，不如餘人。是阿難世世王者種，端正無比，福德無量；世尊近親，常侍從佛，必有此念：「我佛近侍，知法寶藏，漏盡道法，我不畏失。」以是事故，不大慇懃。

> また、大徳アーナンダは世俗の煩わしさをあまり気にせず、他の修行者たちとは異なっていた。アーナンダは代々王家に生まれ、その容姿は比類なく美しく、福徳も計り知れなかった。世尊の近しい親族として常にそばに仕え、自らこう思っていたに違いない。「私は仏の近しい侍者であり、法の宝庫を知り尽くしている。煩悩を尽くす道の教えについては、失うことを恐れる必要はない」と。そのような理由から、彼はそれほど熱心に修行しなかったのである。

問曰：

> お尋ねします。

大德阿難名，以何因緣？是先世因緣？是父母作字？是依因緣立名？

> 尊者アーナンダという名は、どのような理由でつけられたのでしょうか？前世の因縁によるもの？それとも父母が名づけた？あるいは、何か因縁に基づいて名づけられたのでしょうか？

答曰：

> お答えしますと、

是先世因緣，亦父母作名，亦依因緣立字。

> 前世の因縁や、親がつけた名前、さらには他の因縁によっても、その人は名づけられるのです。

問曰：

> お尋ねします。

云何先世因緣？

> 前世の因縁とは、過去の行いによって生じた原因と結果の関係のことです。

答曰：

> お答えしますと、

釋迦文佛先世作瓦師，名大光明。爾時，有佛名釋迦文，弟子名舍利弗、目乾連、阿難，佛與弟子俱到瓦師舍一宿。爾時，瓦師布施草坐、燈明、石蜜漿，三事供養佛及比丘僧，便發願言：「我於當來老、病、死、惱五惡之世作佛，如今佛名釋迦文；我佛弟子名，亦如今佛弟子名。」以佛願故，得字阿難。

> 釈迦文仏は前世、瓦師（かわらし）で、大光明という名でした。その時、釈迦文という名の仏がおられ、弟子に舎利弗、目乾連、阿難がいました。仏は弟子たちと共に瓦師の家に一晩泊まりました。その時、瓦師は草の座、灯明、石蜜（せきみつ）の飲み物を施し、これら三つの品で仏と比丘僧団を供養し、こう誓願を立てました。「私は未来の、老い・病・死・悩みという五つの悪に満ちた世に仏となり、今の仏が釈迦文という名であるように、私もその名を用いましょう。また、私の仏弟子の名も、今の仏弟子と同じ名としましょう。」この仏の願いにより、阿難という名を得たのです。

復次，阿難世世立願：「我在釋迦文佛弟子多聞眾中，願最第一，字阿難。」

> さらに、阿難は世々にわたって誓いを立てました。 「私は、釈迦牟尼仏の弟子の中で、多くの教えを聞き、よく記憶することで最も優れた者となり、阿難という名であらせられますように。」と。

復次，阿難世世忍辱除瞋，以是因緣故，生便端正。父母以其端正，見者皆歡喜故，字阿難阿難者，秦言歡喜。

> また、阿難は世々にわたって忍辱（にんにく）を実践し、怒りの心を除いてきました。この因縁（いんねん）により、彼は端正（たんせい）な姿に生まれました。父母はその端正さゆえに、見る者が皆、喜び楽しむことから、彼を阿難（あなん）と名づけました。<note>阿難とは、この国では「歓喜」を意味します。</note>

是為先世因緣字。

> これは、前世の因縁を示す言葉である。

云何父母作字？

> では、父母がどのように名づけをするのか、ご説明しましょう。

昔有日種王名師子頰，其王有四子：第一名淨飯，二名白飯，三名斛飯，四名甘露飯。有一女，名甘露味。

> 昔、日種の王様で師子頬という方がいました。その王様には四人の王子がいらっしゃいました。長男は浄飯、次男は白飯、三男は斛飯、四男は甘露飯といいます。また、甘露味という名のお姫様も一人いらっしゃいました。

淨飯王有二子：佛、難陀。

> 浄飯王には二人の子がいました。一人は仏陀、もう一人は難陀です。

白飯王有二子：跋提、提沙。

> 白飯王には二人の子がいた。跋提と提沙である。

斛飯王有二子：提婆達多、阿難。

> ヒルとシャカ族の国王・斛飯王（こくぼんのう）には、ふたりの王子がいました。デーヴァダッタ（提婆達多）と、アーナンダ（阿難）です。

甘露飯王有二子：摩訶男、阿泥盧豆。

> 甘露飯王には、二人の息子がいました。マハーナーマ（摩訶男）とアニルッダ（阿泥盧豆）です。

甘露味女有一子，名施婆羅。

> 甘露味女には一人の息子がいて、その名を施婆羅といいました。

是中悉達陀菩薩漸漸長大，棄轉輪聖王位，夜半出家，至漚樓鞞羅國中尼連禪河邊，六年苦行。是時，淨飯王愛念子故，常遣使問訊，欲知消息：「我子得道不？若病？若死？」

> 現（いま）ここに、シッダールタ菩薩は次第に成長し、転輪聖王の位を捨てて、真夜中に出家されました。そして、ウルヴェーラー国（おうろくびょうらこく）のネーランジャナー川（にれんぜんがわ）のほとりで、六年にわたり苦行をされました。 その時、浄飯王（じょうぼんのう）はわが子を深く愛したため、常に使いを送って見舞わせ、消息を知ろうとされました。「我が子は悟りを得たであろうか？あるいは病にかかったのか？それとも亡くなったのか？」と。

使來白王：「菩薩唯有皮骨筋相連持耳，命甚微弱！若今日、若明日，不復久也。」王聞其言，甚大愁念，沒憂惱海。「我子既不作轉輪王，又不得作佛，一何衰苦，無所得而死！」如是憂惱，荒迷憒塞。是時，菩薩棄苦行處，食百味乳糜，身體充滿；於尼連禪水中洗浴已，至菩提樹下，坐金剛座而自誓言：「要不破此結加趺坐，成一切智；不得一切智，終不起也。」是時，魔王將十八億眾到菩薩所，敢與菩薩決其得失。菩薩智慧力故，大破魔軍。魔不如而退，自念：「菩薩叵勝，當惱其父。」至淨飯王所，詭言：「汝子今日後夜已了。」王聞此語，驚怖墮床，如熱沙中魚。王時悲哭而說偈言：

> 使いの者が王のもとに来て申し上げました。「菩薩様には、皮と骨と筋がつながってかろうじてお体を支えているだけで、命はとてもかよわいものです。今日か、明日には、もう長くはお持ちになりません。」王はこれを聞いて、大いに悲しみ憂え、憂いの海に沈みました。「わが子が、転輪聖王にもなれず、また仏にもなれずして、なんと哀れなことに、何も得られずに死んでしまうのか！」と、このように悩み悲しみ、ぼんやりとして心は閉ざされてしまいました。 そのとき、菩薩は苦行の場を捨て、美味なる乳粥を食べて身体は満ち足り、尼連禅河で沐浴したのち、菩提樹のもとに至り、金剛の座に坐って自ら誓われました。「この結跏趺坐を解かずして、一切智を成就しよう。一切智を得なければ、決して立ち上がることはない。」と。 このとき、魔王は十八億の大軍を率いて菩薩のもとに来て、敢えて菩薩とその勝敗を決しようとしました。しかし、菩薩の智慧の力によって、魔王の軍は大いに打ち破られました。魔王はかなわず退き、心の中で考えました。「菩薩は打ち勝ちがたい。ならばその父を悩ませよう。」そして浄飯王のもとへ行き、偽って言いました。「あなたの子は、今日の後夜に亡くなりました。」王はこの言葉を聞いて、驚き怖れて床から転げ落ち、まるで熱い砂の中の魚のようでした。王は悲しみ泣きながら、偈を唱えました。

「阿夷陀虛言， 瑞應亦無驗，得利之吉名， 一切無所獲！」

> 「阿夷陀の嘘の言葉も、瑞兆も何の役にも立たなかった。 彼の得た利益や良い評判も、すべてむなしいものだった。」

是時，菩提樹神大歡喜，持天曼陀羅華，至淨飯王所，說偈言：

> その時、菩提樹の神は大いに喜び、天の曼陀羅華を手に持って、浄飯王の許に至り、偈を唱えて言った。

「汝子已得道， 魔眾已破散；光明如日出， 普照十方土！」

> あなたの子はすでに悟りを得て、悪魔の群れは打ち破られ散り去りました。その光は、朝日が昇るように明るく輝き、十方の世界をくまなく照らし出すのです。

王言：「前有天來言『汝子已了』，汝今來言『壞魔得道』；二語相違，誰可信者？」

> 王が言いました。「以前、天が来て『あなたの息子は亡くなった』と言った。今、あなたは『悪魔を打ち破り、悟りを得た』と言う。この二つの言葉は食い違っている。どちらを信じれば良いのか？」

樹神又言：「實不妄語。前來天者詭言已了，是魔懷嫉，故來相惱。今日諸天、龍神華香供養，空中懸繒；汝子身出光明，遍照天地。」王聞其言，於一切苦惱心得解脫。

> 木の精霊がさらに言いました。「本当に偽りの言葉はありません。先に来た天人は偽って終わったと言いましたが、あれは魔が妬み心を抱いて、わざわざ悩ませに来たのです。今日は、多くの天や竜の神々が花や香りを捧げ、空には絹の飾りが掲げられています。そして、あなたの御子の身体からは光明が放たれ、天地を照らし尽くしています。」王はこの言葉を聞いて、一切の苦しみや悩みから心が解き放たれました。

王言：「我子雖捨轉輪聖王，今得法轉輪王，定得大利，無所失也。」王心大歡喜。是時，斛飯王家使來，白淨飯王言：「貴弟生男。」王心歡喜言：「今日大吉，是歡喜日！」語來使言：「是兒當字為阿難。」

> 王が言いました。「わが子は転輪聖王の位を捨てたが、今や法の転輪王を得たのだ。確かに大きな利益を得て、失ったものは何もない。」王の心は大いに喜びました。その時、斛飯王の家から使いが来て、白浄王に申し上げました。「尊い弟君に男の子が生まれました。」王は心から喜び、「今日は大吉だ、この喜ばしい日よ！」と言いました。そして使いに命じました。「この子の名を阿難とせよ。」

是為父母作字。

> 父母のために文字を作る。

云何依因緣立名？

> どのように因縁によって名前が立てられるのでしょうか？

阿難端正清淨，如好明鏡，老少好醜，容貌顏狀，皆於身中現。其身明淨，女人見之，欲心即動，是故佛聽阿難著覆肩衣。是阿難能令他人見者心眼歡喜，故名阿難。於是造論者讚言：

> アーナンダは端正で清らかであり、まるで美しい明るい鏡のようであった。老若や美醜、容貌や姿のすべてが、その身に映し出された。彼の体は明るく清らかであったため、女性が見ると、たちまち欲心が動いた。それゆえ、仏はアーナンダに肩覆いの衣を着ることを許された。このアーナンダは、見る人の心と眼に歓喜をもたらすことができたので、「アーナンダ」と名づけられた。ここに、論を著す者が讃えて言う。

「面如淨滿月， 眼若青蓮華；佛法大海水， 流入阿難心！能令人心眼， 見者大歡喜；諸來求見佛， 通現不失宜！」

> 顔は清らかな満月のようで、　目は青い蓮の花のよう。 仏法という大海の水が、　アーナンダの心に流れ入る！ 人の心と目を開かせ、　見る者に大きな喜びを与える。 仏を求め訪ねる者たちに、　状況に応じて適切に導きを示すのだ！

如是阿難雖能得阿羅漢道，以供給供養佛故，自不盡漏。以此大功德故，雖非無學，在無學數中；雖未離欲，在離欲數中；以是故共數五千中。以實未是阿羅漢故，言「唯除阿難」。

> ※ただし、阿難はすでに阿羅漢の境地に達することができたとしても、仏に供養し仕えるために自ら煩悩を完全に滅ぼさなかった。この大きな功徳によって、まだ完全な境地（無学）に達していないが、無学の列に数えられ、欲を離れていないが、離欲の列に数えられる。そのため、五千人の僧の中に共に数えられている。実際にはまだ阿羅漢ではないので、「ただ阿難だけを除く」と言うのである。