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title: "大智度論 · 11 十喻釋論"
description: "大智度论由古印度龙树菩萨所造，后秦时期著名译经家鸠摩罗什翻译成中文。该论是佛教重要典籍，属于大乘中观学派的核心论著，主要阐释《大品般若经》的深奥义理。全书共一百卷，系统论述了般若空性思想、菩萨修行次第以及六度万行的实践方法，被誉为大乘佛教的百科全书。作为早期大乘佛教的代表性论典，大智度论对汉传佛教思想体系的形成影响深远，尤其为天台宗、华严宗等宗派提供了重要理论依据，在佛教哲学史上占据崇高地位。"
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## 大智度初品中十喻釋論第十一第六卷

> 大智度論 初品：十喩の解釈（第十一）<note>第六巻</note>

龍樹菩薩造

> 龍樹菩薩による

後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉　詔譯

> 後秦の亀茲国三蔵法師鳩摩羅什が詔を奉じて訳す

【經】

> お経

解了諸法如幻、如焰、如水中月、如虛空、如響、如犍闥婆城、如夢、如影、如鏡中像、如化。

> あらゆる現象は、幻のように、陽炎のように、水に映る月のように、虚空のように、こだまのように、蜃気楼のように、夢のように、影のように、鏡の中の像のように、変化のように理解すべきである。

【論】

> 【論】 論とは、心を

是十喻，為解空法故。

> これらの十の喩えは、「空」の道理を理解するための教えです。

問曰：

> お尋ねします。

若一切諸法空如幻，何以故諸法有可見、可聞、可嗅、可甞、可觸、可識者？

> もしすべてのものが空で幻のようなものなら、どうしてあるものは見えたり、聞こえたり、匂ったり、味わったり、触れたり、認識できたりするのでしょうか？

若實無所有，不應有可見乃至可識。

> もし実際に何も存在しないのであれば、見ることや認識することは不可能なはずです。

復次，若無而妄見者，何以不見聲、聞色？若皆一等空無所有，何以有可見、不可見者？以諸法空故，如一指第一甲無，第二甲亦無，何以不見第二甲，獨見第一甲？以是故知：第一甲實有故可見，第二甲實無故不可見。

> さらに、もし何もないのに誤った見解を持つのであれば、なぜ音を聞かずに色を見ることがあるのでしょうか？すべてが等しく空で何もないのなら、なぜ見えるものと見えないものがあるのでしょうか？諸法が空であるからといって、例えば一本の指の第一関節が存在せず、第二関節も存在しないなら、なぜ第二関節は見えず、第一関節だけが見えるのでしょうか？このことから、第一関節は実在するから見え、第二関節は実在しないから見えないと知るべきです。

答曰：

> お答えしますと、

諸法相雖空，亦有分別可見、不可見。

> 諸法の形は本来空であっても、見えるものと見えないものという分別が存在します。

譬如幻化象、馬及種種諸物，雖知無實，然色可見，聲可聞，與六情相對，不相錯亂。

> たとえば幻の象や馬、さまざまな物のように、実体がないと知りながらも、その色は見え、音は聞こえ、六つの感覚（眼・耳・鼻・舌・身・意）と向かい合っても、互いに混ざり合うことなく乱れることがないのです。

諸法亦如是，雖空而可見、可聞，不相錯亂。

> 諸々の法もまたこれと同じです。空（くう）でありながら、見ることも聞くこともでき、互いに乱れることはありません。

如《德女經》說：

> 『徳女経』に次のように説かれています。

「德女白佛言：『世尊！如無明內有不？』

> 徳女が仏に申し上げました。「世尊よ、無明（むみょう）というものは、内側に実体として存在するのでしょうか？」

「佛言：『不！』

> 仏は言われた。「いいえ。」

「『外有不？』

> 外にありや？

「佛言：『不！』

> 仏は言われた。「いいえ。」

「『內外有不？』

> 「内にも外にもあるのか？」

「佛言：『不！』

> 仏は言われた。「いいえ。」

「『世尊！是無明從先世來不？』

> 「世尊よ。この無明は、過去世から来ているのでしょうか？」

「佛言：『不！』

> 仏は言われた。「いいえ。」

「『從此世至後世不？』

> 「この世からあの世へ行くのですか？」

「佛言：『不！』

> 仏は言われた。「いいえ。」

「『是無明有生者、滅者不？』

> 「無明には、生じるものもなく、滅するものもないのでしょうか？」

「佛言：『不！』

> 仏は言われた。「いいえ。」

「『有一法定實性，是名無明不？』

> 「ある一つの法に、真実の実体があると見る――それを無明と呼ぶのではないか？」

「佛言：『不！』

> 仏は言われた。「いいえ。」

「爾時德女復白佛言：『若無明無內，無外，亦無內外，不從先世至今世、今世至後世，亦無真實性者，云何從無明緣行乃至眾苦集？世尊！譬如有樹，若無根者，云何得生莖、節、枝、葉、華、果？』

> その時、徳という名の女性が再び仏に申し上げました。 「もし無明（むみょう）が内にもなく、外にもなく、内外にもなく、前世から今世へ、今世から後世へと移ることもなく、真実の本質を持たないのであれば、どのようにして無明を縁として行（ぎょう）が生じ、さらには苦しみの集まりに至るのでしょうか。世尊よ、例えば木があるとして、もし根がなければ、どのようにして茎、節、枝、葉、花、果実が生じ得るでしょうか。」

「佛言：『諸法相雖空，凡夫無聞無智故，而於中生種種煩惱，煩惱因緣作身、口、意業，業因緣作後身，身因緣受苦受樂。是中無有實作煩惱，亦無身、口、意業，亦無有受苦樂者。譬如幻師，幻作種種事。於汝意云何？是幻所作內有不？』

> 仏陀は言われた。「すべての現象の本質は空であるが、凡夫は教えを聞かず智慧もないために、その中にさまざまな煩悩を生じさせる。煩悩を縁として、身・口・意の業が生まれ、その業を縁として次の世の身が生まれ、その身を縁として苦しみや楽しみを受ける。しかし、その中には実際に煩悩をつくる者もなく、身・口・意の業もなく、苦しみや楽しみを受ける者も存在しない。例えば、幻術師が幻でさまざまな物事をつくり出すようなものだ。あなたはどう思うか。その幻がつくり出したものの中に、実体があるだろうか。」

「答言：『不！』

> 「いいえ。」

「『外有不？』

> 外にありや？

「答言：『不！』

> 「いいえ。」

「『內外有不？』

> 「内にも外にもあるのか？」

「答言：『不！』

> 「いいえ。」

「『從先世至今世，今世至後世不？』

> 「前世からこの世へ、この世から来世へと旅をするのでしょうか？」

「答言：『不！』

> 「いいえ。」

「『幻所作有生者滅者不？』

> 「幻が作り出したものに、生まれたり滅したりするものがあるでしょうか？」

「答言：『不！』

> 「いいえ」と答えました。

「『實有一法是幻所作不？』

> 「実際に、ある一つの法が幻によってつくられたものなのでしょうか？」

「答言：『不！』

> 「いいえ。」

「佛言：『汝頗見頗聞幻所作妓樂不？』

> 仏が言われた。「お前は、幻術師が作り出した芸や音楽を見たり聞いたりしたことがあるか？」

「答言：『我亦聞亦見。』

> 答えて言った。「私も聞き、また見ました。」

「佛問德女：『若幻空，欺誑無實，云何從幻能作伎樂？』

> 仏が徳女に問われた。「もし幻（まぼろし）が空（くう）であり、人を欺きごまかすだけで実体がないのなら、どうして幻から芸能（音楽や舞）を生み出すことができるのであろうか。」

「德女白佛：『世尊！是幻相爾，雖無根本而可聞見。』

> 徳女が仏に申し上げました。「世尊よ、その幻の姿はその通りで、本来は実体がないけれども、聞くことも見ることもできるのです。」

「佛言：『無明亦如是，雖不內有，不外有，不內外有；不先世至今世，今世至後世，亦無實性，無有生者、滅者，而無明因緣諸行生，乃至眾苦陰集。如幻息，幻所作亦息；無明亦爾，無明盡，行亦盡，乃至眾苦集皆盡。』」

> 仏は言われた。「無明もまた同じである。それは内にあるのでもなく、外にあるのでもなく、内外にあるのでもない。前世から今世へ、今世から後世へと移るものでもない。実体もなく、生じるものも滅するものもない。しかし、無明を縁として行（諸々の形成作用）が生じ、ついには苦しみの集まりが生じるのだ。幻が消えれば、幻によって生じたものも消えるように、無明もまた、無明が尽きれば行も尽き、ついには苦しみの集まりもすべて尽きるのである。」

復次，是幻譬喻，示眾生一切有為法空不堅固；如說：「一切諸行如幻，欺誑小兒，屬因緣，不自在，不久住。」

> さらに、この幻のたとえは、すべての衆生に「一切の有為法（条件づけられた現象）は空であり、堅固ではない」と示しています。すなわち、「すべての行（形成されたもの）は幻のようであり、子供たちを欺くもので、因縁（原因と条件）に属し、自由ではなく、長くは留まらない」と説かれているのです。

是故說「諸菩薩知諸法如幻」。

> ゆえに「諸々の菩薩は、すべての現象が幻のようなものであると知る」と説かれるのです。

「如炎」者，炎以日光風動塵故，曠野中見如野馬，無智人初見謂之為水。男相、女相亦如是，結使煩惱日光熱諸行塵，邪憶念風，生死曠野中轉，無智慧者謂為一相，為男、為女。是名「如炎」。

> 「陽炎（かげろう）」というのは、太陽の光と風が埃を動かすことによって、荒野の中に立ちのぼる陽炎が馬のような形に見えるものを指します。無知な人は最初それを見て水だと思ってしまうのです。男性の相や女性の相もこれと同じです。煩悩という太陽の光の熱と、様々な行為（行）という埃、さらに誤った憶念という風によって、生死の荒野の中を巡り続ける私たちは、無知ゆえに一つの形に固執し、それが男性であるとか女性であると思い込んでしまうのです。これが「陽炎のようである」という意味です。

復次，若遠見炎，想為水，近則無水想。無智人亦如是，若遠聖法，不知無我，不知諸法空，於陰、界、入性空法中，生人相、男相、女相；近聖法，則知諸法實相，是時虛誑種種妄想盡除。

> さらに、遠くで陽炎（かげろう）を見て「水だ」と思っても、近づけば水ではないとわかる。智慧のない人もこれと同じだ。聖なる教えから遠く離れていると、「無我」を理解できず、すべてのものが本質的に空であることを知らない。そのため、五蘊（ごうん）、十八界、十二処という本来空である法の中で、「人」「男」「女」といった固定的なイメージを生み出してしまう。しかし、聖なる教えに近づけば、諸法の真実の姿（実相）を知る。そのとき、虚偽やさまざまな妄想的な思いはすべて消え去るのである。

以是故說「諸菩薩知諸法如炎」。

> このような理由から、「菩薩たちは諸々の法が陽炎のようなものであると知る」と説かれるのです。

「如水中月」者，月實在虛空中，影現於水；實法相月在如、法性、實際虛空中，而凡天人心水中有我、我所相現。以是故名「如水中月」。

> 「水中の月のようなもの」とは、月は実際には虚空にあり、その影が水に映るようなものです。真実の法のすがた（実相）である「如」「法性」「実際」という虚空にありながら、凡夫や天人の心という水には、私や私のものという執着の影が映し出されます。それゆえに「水中の月のようなもの」と名づけられるのです。

復次，如小兒見水中月，歡喜欲取，大人見之則笑。無智人亦如是，身見故見有吾我；無實智故，見種種法；見已歡喜，欲取諸相：男相、女相等；諸得道聖人笑之。如偈說：

> また、例えば子供が水面に映る月を見て喜んで取ろうとするが、大人はそれを見て笑う。智慧のない人もまた同様である。身への執着（身見）があるゆえに「私」というものがあると思い込み、真実の智慧がないゆえに様々な現象（法）を実在と見なす。そう見て喜び、様々な相——男相や女相などの——を捉えようとする。その様を、悟りを得た聖人たちは笑うのである。偈に説かれる通りに。

「如水中月炎中水， 夢中得財死求生；有人於此實欲得， 是人癡惑聖所笑！」

> 水中の月や陽炎の中の水のように、 夢の中で財宝を得て、死を生きながら得ようとするようなもの。 これを本当に手に入れようとする人がいれば、 その人は愚かで迷っていると、聖者たちは笑うのだ。

復次，譬如靜水中見月影，攪水則不見。無明心靜水中，見吾我、憍慢諸結使影；實智慧杖攪心水，則不見吾我等諸結使影。

> また、たとえば静かな水面に月の影が映るが、水をかき混ぜると影は見えなくなる。無明（むみょう）の心が静かな水のような状態のときには、「我」や高慢（こうまん）といったさまざまな煩悩の影が見える。しかし、真実の智慧という杖で心の水をかき混ぜれば、「我」などといった煩悩の影は見えなくなるのである。

以是故說「諸菩薩知諸法如水中月」。

> かれゆえに説く「諸菩薩は諸法の、水中の月のようなものであると知る」と。

「如虛空」者，但有名而無實法。

> 「虚空のごとし」とは、ただ名前だけあって、実体のない法（もの）であるという意味です。

虛空非可見法，遠視故，眼光轉見縹色。諸法亦如是，空無所有，人遠無漏實智慧故，棄實相，見彼我、男女、屋舍、城郭等種種雜物心著。

> 虚空（くう）は目に見えるものではありません。遠くを見るとき、目の働きによって、かすんだ青い色が見えるのです。あらゆる現象（諸法）も同じです。本来は空であり、何も実体はありません。人が煩悩を離れた真実の智慧（無漏の智慧）から遠ざかっているため、真実の姿（実相）を捨てて、自分と他人、男と女、家、家屋、城など、さまざまなものがあると思い込み、心がそれらに執着してしまうのです。

如小兒仰視青天，謂有實色，有人飛上極遠而無所見，以遠視故，謂為青色；諸法亦如是。以是故說「如虛空」。

> 虚空を仰ぎ見る子供が、そこに実体としての色があると思い込む。しかし誰かが空高く飛び上がっても、そこには何も見えない。遠くから見ているから、青く見えるだけだ。すべての存在もこれと同じである。だから「虚空の如し」と説かれたのだ。

復次，如虛空性常清淨，人謂陰曀為不淨。諸法亦如是，性常清淨，婬欲、瞋恚等曀故，人謂為不淨。如偈說：

> さらに、虚空の本性は常に清らかであるが、人々は雲がかかっているのを見て不浄だと言う。諸法もまた同じで、その本性は常に清らかであるが、貪欲や怒りなどの雲によって、人々は不浄だと思う。次の偈に説かれている通りである。

「如夏月天雷電雨， 陰雲覆曀不清淨；凡夫無智亦如是， 種種煩惱常覆心。如冬天日時一出， 常為昏氣雲蔭曀；雖得初果第二道， 猶為欲染之所蔽。若如春天日欲出， 時為陰雲所覆曀；雖離欲染第三果， 餘殘癡慢猶覆心。若如秋日無雲曀， 亦如大海水清淨；所作已辦無漏心， 羅漢如是得清淨。」

> 「夏の暑い日、雷や雨が降るとき、 曇り空で空はすっきりと晴れ渡らない――。 凡夫の智もそれと同じで、 様々な煩いがいつも心を覆い隠している。 冬の日に、太陽がようやく顔を出しても、 よく曇った陰気が空を覆い陰る。 初果や第二の道を得ても、 なおも欲の汚れに覆われてしまう。 もし春の日、太陽がまさに昇ろうとしても、 しばしば陰雲に覆われてかげる。 欲の汚れを離れた第三果を得ても、 なお残りの愚かさや慢心が心を覆う。 もし秋の日、雲の陰りがなく、 また大海の水のように清らかであるならば、 なすべきことを成し終えた漏なき心によって、 羅漢はこのように清らかさを得るのである。」

復次，虛空無初、無中、無後，諸法亦如是。

> さらに、虚空（くう）には、始まりも、中間も、終わりもありません。あらゆる現象（すべての物事）も、また同じように、始まりもなく、中間もなく、終わりもないのです。

復次，如摩訶衍中，佛語須菩提：「虛空無前世，亦無中世，亦無後世，諸法亦如是。」彼經，此中應廣說。

> また、大乗経典の中で仏が須菩提に説かれたように、『虚空には前世もなく、中世もなく、後世もない。すべての法もまた同様である。』この経の教えは、ここで詳しく説明されるべきである。

是故說「諸法如虛空」。

> 故に「すべての現象は空のように実体がない」と説かれています。

問曰：

> お尋ねします。

虛空實有法。何以故？若虛空無實法者，若舉、若下，若來、若往，若屈、若申，若出、若入等，有所作應無有，以無動處故。

> 虚空は実在する法です。なぜなら、もし虚空が実在する法でなければ、上げる、下ろす、来る、行く、曲げる、伸ばす、出す、入れるといった動作はすべて成り立たなくなるからです。なぜなら、動くための場が存在しないからです。

答曰：

> お答えしますと、

若虛空法實有，虛空應有住處。何以故？無住處則無法。若虛空在孔穴中住，是為虛空在虛空中住，以是故不應孔中住；若在實中住，是實非空，則不得住，無所受故。

> たとえ「空」というものが実在するとしても、それはどこかに存在する場所があるはずです。なぜなら、存在する場所がないものは、実在とは言えないからです。 仮に「空」が穴や隙間の中に存在するとしたら、それは「空」が「空」の中にあることになり、不自然です。そのため、穴の中にあるとは言えません。 もし「空」が何か具体的な物質の中にあるとすれば、その物質は「空」ではなく実体であり、そこに「空」が宿ることはできません。なぜなら、実体の中には「空」を受け入れる余地がないからです。

復次，汝言「住處是虛空」，如石壁實中，無有住處；若無住處則無虛空，以虛空無住處，故無虛空。

> さらに、あなたが「場所とは虚空（くう）である」と言うが、岩や壁の内部には、住む場所はない。もし住む場所がなければ、虚空も存在しない。虚空には住む場所がないからである。

復次，無相故無虛空；諸法各各有相，相有故知有法。如地堅相，水濕相，火熱相，風動相，識識相，慧解相，世間生滅相，涅槃永滅相；是虛空無相故無。

> さらに、虚空には形がありません。あらゆるものにはそれぞれ特徴（相）があり、特徴があるからこそ、そのものが存在するとわかります。たとえば、地には固いという特徴、水には湿っているという特徴、火には熱いという特徴、風には動くという特徴、認識には対象を識別するという特徴、智慧には理解するという特徴、世の中には生まれては滅するという特徴、涅槃には永遠に滅するという特徴があります。虚空にはこうした特徴がないため、存在しないと言えるのです。

問曰：

> お尋ねします。

虛空有相，汝不知故言無，無色處是虛空相。

> 虚空には形がある。 お前がそれを知らないから「無い」と言うのだ。 色のないところこそが、虚空の形である。

答曰：

> お答えしますと、

不爾！無色是名破色，更無異法，如燈滅，更無法。以是故，無有虛空相。

> いいえ、そうではありません。「無色」とは「色が壊れたこと」を指す名前であり、他に別のものがあるわけではありません。例えば、灯が消えた後に別のものがあるわけではないのと同じです。ですから、虚空という性質は存在しないのです。

復次，是虛空法無。何以故？汝因色故，以無色處是虛空相。若爾者，色未生時，則無虛空相。

> さらに、この「虚空」という現象には実体がありません。なぜなら、あなたは「色（物質的な形）」があるからこそ、「色がない場所」を虚空の特徴と見なしているからです。もしそうなら、色がまだ生じていない時には、虚空の特徴も存在しないことになります。

復次，汝謂：「色是無常法，虛空是有常法。」色未有時，應先有虛空法，以有常故。若色未有，則無無色處；若無無色處，則無虛空相；若無相則無法。以是故虛空但有名而無實。

> さらに、あなたは「色は無常の法であり、虚空は常なる法である」と言います。しかし、色がまだ存在しない時点で、まず虚空という法が存在しているはずです。なぜなら、虚空は常住不変だと考えるからです。もし色がまだ存在しないなら、色のない場所（無色処）もありません。無色処がなければ、虚空の特徴（相）もありません。特徴がなければ、法そのものが存在しません。したがって、虚空は単なる名前だけのものであり、実体はないのです。

如虛空，諸法亦如是，但有假名而無實。

> 空のようなもの、すべての現象もまた同じである。ただ仮の名前があるだけで、実体はない。

以是故，「諸菩薩知諸法如虛空」。

> だからこそ、菩薩たちはあらゆる現象が虚空のようなものであると知るのです。

「如響」者，若深山狹谷中，若深絕㵎中，若空大舍中；若語聲，若打聲，從聲有聲，名為「響」。無智人謂為有人語聲；智者心念：「是聲無人作，但以聲觸，故更有聲，名為響。響事空，能誑耳根。」

> 「響き」とは、深い山の谷間や、深い絶壁の谷の中、あるいは広々とした空き家の中で生じるものです。人の話し声や打つ音など、元の音に応じてさらに別の音が生じることを「響き」といいます。無知な人は、それを誰かの話し声だと思い込んでしまい、一方で、智慧ある人は「この音は誰かが作ったわけではない。ただ音が響き合って、さらに別の音が生まれただけであり、それが『響き』と呼ばれるものだ。響きというものは本質的に実体がなく、ただ耳を惑わすにすぎない」と理解します。

如人欲語時，口中風名憂陀那，還入至臍，觸臍響出，響出時觸七處退，是名語言。如偈說：

> 人が言葉を話そうとすると、口の中の風（呼吸）が「ウダーナ（上行気）」となって、再び臍のあたりまで入り込みます。その風が臍に触れることで響きが生まれ、その響きがさらに七つの場所に触れては戻ることで、言葉となるのです。これを偈（詩）で説くと、次の通りです。

「風名憂檀那， 觸臍而上去；是風七處觸， 項及齗齒脣，舌咽及以胸， 是中語言生。愚人不解此， 惑著起瞋癡；中人有智慧， 不瞋亦不著，亦復不愚癡， 但隨諸法相。曲直及屈申， 去來現語言，都無有作者。 是事是幻耶？為機關木人？ 為是夢中事？我為熱氣悶， 有是為無是？是事誰能知？ 是骨人筋纏，能作是語聲， 如融金投水。」

> 「風に憂檀那という名があり、臍に触れて上へとのぼる。 この風は七つの場所に触れる—— 項、歯茎、歯、唇、舌、喉、そして胸。この中から言葉が生まれる。 愚かな人はこれを理解できず、迷いにとらわれて怒りや無知を起こす。 中くらいの人は智慧をもつため、怒らず、執着せず、愚かでもない。 ただ、あらゆる物事のあり方に従うのみである。 曲がる、直る、縮める、伸ばす、去る、来る、現れる、言葉を発する—— これらすべてに、動作主は存在しない。 この事は幻なのだろうか？ からくり人形のようなものか？ それとも夢の中の出来事か？ 私は熱気で思い悩んでいるのだろうか。 これはあるのか、ないのか？ この事を誰が知り得よう？ この骨の体に筋が絡まり、 そのような声を出すのは、溶かした金を水に投じるようなものだ。」

以是故言「諸菩薩知諸法如響」。

> だからこそ、「諸菩薩はすべての法がこだまの如しと知る」と言うのである。

「如犍闥婆城」者，日初出時，見城門、樓櫓、宮殿、行人出入，日轉高轉滅；此城但可眼見而無有實，是名揵闥婆城。

> 「乾闥婆城」というのは、東の空に陽が昇り始めた時、一瞬、城門や楼閣、宮殿や行き交う人の姿が見えるが、陽が高くなるにつれて消え去ってしまう。この城は目には見えても、実体のないもの——これが乾闥婆城のたとえである。

有人初不見揵闥婆城，晨朝東向見之，意謂實樂；疾行趣之，轉近轉失，日高轉滅；飢渴悶極，見熱氣如野馬，謂之為水，疾走趣之，轉近轉滅；疲極困厄，至窮山狹谷中，大喚啼哭，聞有響應，謂有居民，求之疲極而無所見；思惟自悟，渴願心息。無智人亦如是，空陰、界、入中見吾我及諸法，婬瞋心著，四方狂走，求樂自滿，顛倒欺誑，窮極懊惱；若以智慧知無我無實法者，是時顛倒願息。

> ある人がまだ乾闥婆城（蜃気楼の城）を見たことがなく、ある朝東の空にそれを見て、これを実在の楽しみと思い込みました。急いでそこへ向かいましたが、近づくにつれて姿は消え、日が高くなるにつれて完全に見えなくなりました。飢えと渇きに苦しみ、陽炎が野馬のように立ち上るのを見て、それを水と思い込み、またもや走って向かいましたが、近づくにつれて消えてしまいました。疲れ果て、困り果てて、深山の狭い谷に至り、大声で泣き叫ぶと、こだまが返ってきました。これに住民がいると思い、探し回って疲れ果てましたが、何も見つかりませんでした。そこで自ら考え悟り、渇望の思いは静まりました。 智慧のない人もまた同じです。実体のない五蘊（色・受・想・行・識）、十二処、十八界の中に、「私」や「我がもの」、さらにはあらゆる現象が実在すると見なして、欲望や怒りに心を奪われ、四方八方に狂ったように走り回り、楽しみを求めて自分を満たそうとします。しかしそれはすべて倒錯した見方による欺きであり、行き詰まって懊悩するばかりです。もし智慧によって、「私」も実体ある法（現象）も存在しないと知れば、その時、この倒錯した願望は静まるのです。

復次，揵闥婆城非城，人心想為城；凡夫亦如是，非身想為身，非心想為心。

> また、蜃気楼の街は実際には存在しないのに、人の心が思い描いて「街」とみなすようなものだ。 凡夫もまた同じで、実体のないものを「身体」と思い、実体のない心を「心」と思い込んでいる。

問曰：

> お尋ねします。

一事可知，何以多喻？

> 一つ話せば分かることなのに、なぜ多くのたとえを用いるのか。

答曰：

> お答えしますと、

我先已答，是摩訶衍如大海水，一切法盡攝；摩訶衍多因緣故，多譬喻無咎。

> 私が先に答えた通り、大乗は大海の水のように、あらゆる法を全て含みます。大乗には様々な因縁があるため、多くの譬えを用いても問題はありません。

復次，是菩薩甚深利智故，種種法門，種種因緣，種種喻，壞諸法；為人解故，應多引喻。

> さらに、この菩薩は深遠な智慧を備えているため、様々な教えの方法、様々な縁起、様々な譬えを用いて、あらゆる物事への執着を取り除きます。人々に理解してもらうために、多くの譬えを引くべきなのです。

復次，一切聲聞法中，無揵闥婆城喻，有種種餘無常喻——「色如聚沫，受如泡，想如野馬，行如芭蕉，識如幻」，及《幻網經》中空譬喻。以是揵闥婆城喻異故，此中說。

> また、声聞（しょうもん）の教えには、乾闥婆城（けんだつばじょう）のたとえはなく、他のさまざまな無常のたとえ話がある——「色は泡の集まりのようであり、受は水泡のよう、想は陽炎のよう、行は芭蕉のよう、識は幻のようである」というものや、『幻網経』の中の空のたとえなどである。この乾闥婆城のたとえが異なるので、ここで説かれているのである。

問曰：

> お尋ねします。

聲聞法中以城喻身，此中何以說揵闥婆城喻？

> 声聞の教えでは身体を城に例えていますが、なぜここでは乾闥婆城（蜃気楼の城）に例えているのでしょうか？

答曰：

> お答えしますと、

聲聞法中城喻眾緣實有，但城是假名；揵闥婆城眾緣亦無，如旋火輪，但惑人目。聲聞法中為破吾我故，以城為喻；此中菩薩利根深入諸法空中故，以揵闥婆城為喻。

> 声聞の教えでは、「城」という譬えにより、さまざまな因縁（条件）が実在すると説く。しかし、城そのものは仮の名前に過ぎない。一方、乾闥婆城は因縁すらも実在せず、火を回した輪のように、ただ人の目を惑わすだけである。声聞の教えでは、自我への執着を破るために城を譬えとして用いるが、ここでの菩薩は利根であり、あらゆる法が空であることを深く悟っているため、乾闥婆城を譬えとするのである。

以是故說「如揵闥婆城」。

> ゆえに「ガンダルヴァの城（蜃気楼の幻影）のようなものだ」と説かれているのです。

「如夢」者，如夢中無實事，謂之有實，覺已知無，而還自笑；人亦如是，諸結使眠中，實無而著，得道覺時，乃知無實，亦復自笑。以是故言「如夢」。

> 夢のようなものとは、夢の中で実際にはないことをあたかも実在するかのように思い、目覚めるとそれが無かったと知り、自ら笑ってしまうようなものだ。人もまた同じである。煩悩という眠りの中では、実体のないものを固く執着するが、悟りの道を得て覚醒した時には、実体がないことを知り、同じように自ら笑うのである。このゆえに「夢のようである」と言うのだ。

復次，夢者眠力故，無法而見；人亦如是，無明眠力故，種種無而見有，所謂我、我所，男女等。

> また、夢というものは、眠りの力によって、実体がないのに見えるものです。人もこれと同じで、無明（むみょう）という眠りの力によって、本来ないものを様々にあるかのように見てしまいます。いわゆる「私」や「私のもの」、男や女などという区別です。

復次，如夢中無喜事而喜，無瞋事而瞋，無怖事而怖；三界眾生亦如是，無明眠故，不應瞋而瞋，不應喜而喜，不應怖而怖。

> また、夢の中では、喜ぶべきことがないのに喜び、怒るべきことがないのに怒り、恐れるべきことがないのに恐れます。三界の衆生もまた同じで、無明の眠りに覆われているために、怒るべきでないのに怒り、喜ぶべきでないのに喜び、恐れるべきでないのに恐れるのです。

復次，夢有五種：若身中不調，若熱氣多，則多夢見火，見黃、見赤；若冷氣多，則多見水、見白；若風氣多，則多見飛、見黑；又復所聞見事多思惟念故，則夢見；或天與夢，欲令知未來事故。是五種夢皆無實事而妄見。人亦如是，五道中眾生，身見力因緣故，見四種我：色陰是我，色是我所，我中色，色中我。如色，受、想、行、識亦如是，四五二十。得道實智慧覺已，知無實。

> さらに、夢には五つの種類がある。身体の調子が整わず、熱気が多い場合には、火や黄色、赤色を見る夢をよく見る。冷気が多い場合には、水や白色を見る夢をよく見る。風気が多い場合には、飛ぶことや黒色を見る夢をよく見る。また、見聞きしたことを多く思い巡らせることによっても夢を見る。あるいは、天が未来の出来事を知らせようとして夢を与えることもある。この五種類の夢は、いずれも実体のない誤った見え方である。 人間もまた同様である。五道の衆生は、身体への執着（身見）の力によって、四種類の「我」を見る。すなわち、「色陰が我である」「色は我のものである」「我の中に色がある」「色の中に我がある」という捉え方である。色の場合と同様に、受・想・行・識についても同じように四通りずつ考えられ、合わせて二十通りの見解が生じる。悟りの真実の智慧を得て目覚めたならば、それらに実体がないことを知るのである。

問曰：

> お尋ねします。

不應言「夢無實」。何以故？識心得因緣便生；夢中識有種種緣，若無此緣，云何生識？

> 夢は実在しないと言ってはならない。なぜなら、心の認識は原因と条件（因縁）があって初めて生じるからである。夢の中での認識にも様々な条件がある。もしその条件がなければ、どうして認識が生じるだろうか？

答曰：

> お答えしますと、

無也！不應見而見，夢中見人頭有角，或夢見身飛虛空，人實無角，身亦不飛，是故無實。

> ないのです！見るべきでないものが見えることがあります。夢の中で人の頭に角が生えているのを見たり、あるいは自分の体が空中に浮かんでいる夢を見ますが、実際には角はなく、体も飛んではいません。それゆえ、実体はないのです。

問曰：

> お尋ねします。

實有人頭，餘處亦實有角；以心惑故，見人頭有角。實有虛空，亦實有飛者；以心惑故，自見身飛。非無實也？

> 確かに人の頭は実在し、別の場所には角が実在します。心が惑わされているため、人の頭に角があると見えるのです。虚空も実在し、飛ぶ者も実在します。心が惑わされているため、自分自身が飛んでいるのを見るのです。これらは決して実在しないわけではありません。

答曰：

> お答えしますと、

雖實有人頭，雖實有角，但人頭生角者，是妄見。

> 確かに人は頭を持ち、確かに角もある。しかし、人の頭に角が生えるというのは、誤った見方である。

問曰：

> お尋ねします。

世界廣大，先世因緣種種不同；或有餘國，人頭生角，或一手一足，有一尺人，有九頭人，人有角何所怪？

> 世界は広大で、前世の因縁もさまざまです。ある国には、頭から角が生えている人や、手や足が一本しかない人、身長が一尺しかない人、九つの頭を持つ人もいます。そうした中で、人に角があることなど、何も不思議ではありません。

答曰：

> お答えしますと、

若餘國人有角可爾，但夢見此國所識人有角，則不可得。

> もし他の国の人に角があったとしても、それはあり得ることです。しかし、自分のよく知っている人々に角がある夢を見た場合、それはあり得ないことです。

復次，若人夢見虛空邊、方邊、時邊，是事云何有實？何處無虛空、無方、無時？以是故夢中無而見有。

> また、もし人が夢の中で虚空の果てや方角の果てや時間の果てを見たとして、そのようなことがどうして実在するだろうか？虚空も方角も時間も存在しない場所などあり得ない。そのため、夢の中では存在しないものが、存在するように見えるのである。

汝先言：「無緣云何生識？」雖無五塵緣，自思惟念力轉故，法緣生。若人言「有二頭」，因語生想；夢中無而見有，亦復如是。

> あなたが先に、「対象（縁）がなければ、どうして認識が生じるのか」と言いました。しかし、五つの感覚の対象（五塵）がなくとも、自らの思考や念の力が働くことによって、心の中に概念（法）が対象として生じるのです。例えば、人が「二つの頭がある」と言えば、その言葉によって想像が生まれます。また、夢の中では実際にはないものがあたかもあるかのように見えますが、これも同じ道理です。

諸法亦爾，諸法雖無而可見、可聞、可知。如偈說：

> すべてのものごともこれと同じです。存在しないけれども、見え、聞こえ、知ることができるのです。次の偈（うた）に説かれています。

「如夢、如幻、 如揵闥婆； 一切諸法，亦復如是。」

> 「すべてのものごとは、夢のようであり、幻のようであり、さらに空想の産物のようなものです。 あらゆる現象もまた、これと同じなのです。」

以是故說「諸菩薩知諸法如夢」。

> ゆえに説く、「諸々の菩薩は、あらゆる法が夢のごとしと知る」と。

「如影」者，影但可見而不可捉；諸法亦如是，眼情等見、聞、覺、知，實不可得。如偈說：

> 「影のようなもの」とは、影は見えても捕まえられないことを指す。あらゆる現象もこれと同じで、目や心などで見たり聞いたり感じたり知ったりしても、実際にはつかみどころがない。偈にこうある。

「是實知慧， 四邊叵捉； 如大火聚，亦不可觸； 法不可受， 亦不應受。」

> これは真実の智慧であり、 四方から掴むことはできない。 まるで大火の集まりのように、 触れることもできない。 法は受け取るべきものではなく、 また受け取ろうとしてもならない。

復次，如影，映光則現，不映則無；諸結煩惱遮正見光，則有我相、法相影。

> また、影のようなものです。光が当たれば影は現れ、光が当たらなければ影はありません。あらゆる煩わしい執着が正しい見解の光を遮ると、自分という固定したイメージや、物事に実体があるというイメージの影が現れるのです。

復次，如影，人去則去，人動則動，人住則住。善惡業影亦如是，後世去時亦去，今世住時亦住，報不斷故，罪福熟時則出。如偈說：

> 次に、影のようなものについて考えてみましょう。人が去れば影も去り、人が動けば影も動き、人が止まれば影も止まります。善悪の業の影もまた同じです。この世を去るときにはその影も去り、この世に留まっているときにはその影も留まります。報いは決して断ち切られることなく、罪や福徳が熟した時に現れるのです。偈にこうあります。

「空中亦逐去， 山石中亦逐，地底亦隨去， 海水中亦入！處處常隨逐， 業影不相離。」

> 空中までも追いかけてきて、 山中の岩場でも追いかけてくる。 地の底までもついてきて、 海の中にも入り込む！ どこにいても常に付きまとう、 業（カルマ）の影は決して離れない。

以是故說「諸法如影」。

> だから「あらゆる現象は影のようなものである」と説かれたのです。

復次，如影空無，求實不可得；一切法亦如是，空無有實。

> また、影が実体なく、実（真実）を求めても得られないように、あらゆる現象（すべてのものごと）もまた同じです。空（くう）であり実体はありません。

問曰：

> お尋ねします。

影空無有實，是事不然！何以故？《阿毘曇》說：「云何名色入？青、黃、赤、白、黑、縹、紫、光、明、影等，及身業三種作色，是名可見色入。」汝云何言無？

> 影や虚空には実体がないというのは、正しくありません。なぜなら、『阿毘曇』（アビダルマ）にこう説かれているからです。「目に見える対象（色入）とは何か。それは青、黄、赤、白、黒、あさぎ、紫、光、明かり、影など、また身体の三種の動作による色のことを言う。これらを『見える色の領域』と呼ぶ。」あなたはなぜ「存在しない」と言うのですか？

復次，實有影，有因緣故——因為樹，緣為明，是二事合有影生，云何言無？若無影，餘法因緣有者，亦皆應無！

> さらに、実際に影は存在します。原因と条件があるからです──木が原因であり、光が条件です。この二つが合わさって影が生じます。どうして「無い」と言えるのでしょうか。もし影が無いのなら、他の因縁によって存在するものもすべて無くなるはずです！

復次，是影色，可見長短、大小、麁細、曲直，形動影亦動，是事皆可見，以是故應有。

> さらに、影の色は長短・大小・粗細・曲直が目に見え、形が動けば影も動きます。これらのことはすべて目に見えるため、存在すると言えるのです。

答曰：

> お答えしますと、

影實空無，汝言阿毘曇中說者，是釋阿毘曇義人所作；說一種法門，人不體其意，執以為實。如《鞞婆沙》中說：「微塵至細，不可破，不可燒。」是則常有！

> 影も実も、空も無いのです。あなたが「アビダルマの中に説かれている」と言うのは、それはアビダルマの意味を解釈する者が作ったものです。一つの法門を説いても、人はその意図を理解せず、執着してそれを実在だと見なします。例えば『ビバシャ』の中で「微塵は極めて細かく、破ることも焼くこともできない」と説かれていますが、これはまさに「常に存在する」という見方です。

「復有三世中法，未來中出至現在，從現在入過去，無所失。」是則為常！

> さらに、三世（過去・現在・未来）の法則について言えば、未来から現れて現在に至り、現在から過去へと入っていっても、何も失われることはない。これこそが「常（永遠の真理）」である。

又言：「諸有為法，新新生滅不住。」若爾者，是則為斷滅相！何以故？先有今無故。

> 「すべての因緣によって生じるものは、絶え間なく生まれては消えていき、とどまることがない」と言われています。もしそうだとすると、それは「断滅」の姿ではないでしょうか。なぜなら、以前は存在したものが、今は消えてしまったからです。

如是等種種異說，違背佛語，不可以此為證。

> このような様々な異説は、仏の教えに反するものであり、それらを証拠とすることはできません。

影今異於色法，色法生必有香、味、觸等，影則不爾，是為非有。

> 影は色法とは異なります。なぜなら、色法が生じれば必ず香り・味・感触などが伴うのに対し、影にはそれがなく、存在しないものだからです。

如瓶二根知：眼根、身根；影若有，亦應二根知，而無是事。以是故，影非有實物，但是誑眼法；如捉火㷮，疾轉成輪，非實。

> もし瓶が存在するなら、それを認識するには眼根と身根という二つの感覚器官が必要だ。影ももし実体として存在するなら、やはり二つの器官で認識されるはずだが、実際にはそうではない。したがって、影には実体がない。それは単に目を惑わす現象にすぎない。たとえば、燃えている火のついた炭を素早く回すと、まるで輪のように見えるが、それに実体がないのと同じである。

影非有物！若影是有物，應可破可滅；若形不滅，影終不壞，以是故空。

> 影は実体のあるものではない！もし影に実体があれば、壊したり消したりできるはずだ。しかし、形が消えない限り、影も決して壊れることはない。だからこそ、影は「空」なのだ。

復次，影屬形，不自在故空，雖空而心生眼見。

> さらに、影は形に属しており、自ら存在するものではないから「空」である。空であるにもかかわらず、心が生じれば眼に見えるのである。

以是故說「諸法如影」。

> だから「あらゆる現象は影のようなものである」と説かれたのです。

「如鏡中像」者，如鏡中像非鏡作，非面作，非執鏡者作，亦非自然作，亦非無因緣。

> 鏡の中の像とは、鏡が作ったものではなく、顔が作ったものではなく、鏡を持つ人が作ったものでもなく、自然に生じたものでもなく、また原因なくして生じたものでもありません。

何以非鏡作？若面未到，鏡則無像，以是故非鏡作。

> なぜ鏡が像を作るのでしょうか？顔が鏡の前に来ていなければ、鏡には像は映りません。ですから、鏡が像を作るわけではありません。

何以非面作？無鏡則無像。

> なぜ顔以外〔のものが鏡に〕映らないのか。鏡がなければ映像も現れないからだ。

何以非執鏡者作？無鏡、無面則無像。

> なぜ鏡を執らない者が作るのか？ 鏡がなく、顔もなければ、姿も現れないからである。

何以非自然作？若未有鏡、未有面則無像，像待鏡、待面然後有。以是故非自然作。

> なぜ、自然に生じたものではないのか。もし鏡がなく、顔もなければ、姿（像）は存在しない。姿は鏡と顔に依存して初めて現れる。この理由から、自然に生じたものではない。

何以非無因緣？若無因緣應常有；若常有，若除鏡、除面，亦應自出，以是故非無因緣。

> なぜ因縁なしなのでしょうか？もし因縁（原因や条件）がなければ、ものは常に存在するはずです。常に存在するのであれば、鏡や顔を取り除いたとしても、それ自身で現れるはずです。ですから、因縁なしではないのです。

諸法亦如是，非自作，非彼作，非共作，非無因緣。

> すべての現象もまた、こうした道理のとおりです。自ら生じるのではなく、他者が作り出すのでもなく、両者が共同して生み出すのでもなく、原因や縁なしに生じるのでもありません。

云何非自作？我不可得故，一切因生法不自在故，諸法屬因緣故，是以非自作。

> なぜ「自作」ではないのか？「我」（永遠不変の自己）は見出せないからである。すべての因によって生じる法は自由ではなく、あらゆるものは因縁に従うものである。ゆえに自作ではないのである。

亦非他作者，自無故他亦無，若他作則失罪福力。他作有二種：若善、若不善；若善應與一切樂，若不善應與一切苦。若苦樂雜，以何因緣故與樂？以何因緣故與苦？

> 自作に非ず、他作にも非ず。 自性が無いゆえに、他もまた無い。 もし他による所作だとすれば、罪や福の力は成り立たなくなる。 他による所作には、善と不善の二種がある。 もし善であれば、一切に楽を与えるべきであり、 もし不善であれば、一切に苦を与えるべきである。 しかし、もし苦楽が混ざり合っているならば、 どのような因縁によって楽を与え、 どのような因縁によって苦を与えるのか。

若共，有二過故：自過、他過。

> もし共にすれば、二つの過ちがあるからです。自らの過ちと、他者の過ちです。

若無因緣生苦樂，人應常樂，離一切苦；若無因緣，人不應作樂因、除苦因；一切諸法必有因緣，愚癡故不知。

> もし因縁なくして苦楽が生じるならば、人は常に楽しく、すべての苦しみから離れているはずです。しかし実際にはそうではありません。もし因縁がなければ、人は喜びの原因を作り出したり、苦しみの原因を取り除いたりする必要もないでしょう。すべての現象（諸法）には必ず原因と条件（因縁）が存在します。ただ、愚かさゆえに、そのことを知らないだけなのです。

譬如人從木求火，從地求水，從扇求風；如是等種種各有因緣。是苦樂和合因緣，是苦樂和合因緣生：先世業因，今世若好行、若邪行緣，從是得苦樂；是苦樂種種因緣，以實求之，無人作，無人受，空五眾作，空五眾受。無智人得樂，婬心愛著，得苦生瞋恚；是樂滅時，更求欲得。如小兒見鏡中像，心樂愛著，愛著失已，破鏡求索，智人笑之；失樂更求，亦復如是，亦為得道聖人所笑。

> 例えば、人が木から火を求め、地面から水を求め、扇（うちわ）から風を求めるようなものです。このように、すべてのものにはそれぞれ因縁（原因と条件）があります。 この苦しみと楽しみも、様々な因縁が合わさって生じます。すなわち、過去世の業（行い）という因と、現在世での善行や悪行という縁（条件）によって、苦しみや楽しみが生まれるのです。 これらの苦楽は多くの因縁によって成り立っていますが、真実をもってその本質を探求すれば、「作る者」も「受ける者」も存在しません。ただ、空（くう）なる五蘊（ごうん）が作り、空なる五蘊が受け取っているに過ぎないのです。 智慧のない人は、楽しみを得ると貪りの心で執着し、苦しみを得ると怒りの心を起こします。そして、その楽しみが消え去ると、さらに新たな楽しみを求めて追い求めます。 それはまるで、子供が鏡の中の像を見て心を奪われ、それが消えてしまった後に、鏡を割ってその像を探し求めるようなものです。賢い人はその愚かさを笑います。 楽しみを失ってさらに求めることも全く同じであり、悟りを得た聖人たちもまた、そのような人々を笑うのです。

以是故，說諸法如鏡中像。

> だからこそ、あらゆる現象は鏡に映る像のようなものだと説かれるのです。

復次，如鏡中像實空，不生不滅，誑惑凡人眼；一切諸法亦復如是空無實，不生不滅，誑惑凡夫人眼。

> また、鏡の中の映像は実体がなく、生じることも滅することもないのに、凡人の目を欺くように、すべての諸法もまたそのように空であり実体がない。生じることも滅することもなく、凡人の目を欺くのである。

問曰：

> お尋ねします。

鏡中像從因緣生，有面、有鏡、有持鏡人、有明，是事和合故像生；因是像生憂喜，亦作因，亦作果，云何言「實空，不生不滅」？

> 鏡の中の像は、因と縁によって生じます。顔があり、鏡があり、鏡を持つ人がおり、光があります。これらの条件が揃って初めて像が生じます。この像によって喜びや悲しみが生じ、それがまた因にもなり果にもなります。ではなぜ、「それは実体がなく空であり、生まれもせず滅びもしない」と言うのでしょうか？

答曰：

> お答えしますと、

從因緣生，不自在故空；若法實有，是亦不應從因緣生。何以故？若因緣中先有，因緣則無所用；若因緣中先無，因緣亦無所用。

> 因縁から生じるものは、自ら支配できないから「空」である。 もし物事が実在するならば、それもまた因縁から生じるはずがない。 なぜなら、因縁の中にすでに存在しているなら、因縁は役に立たず、 因縁の中にまだ存在していないなら、因縁もまた用をなさないからである。

譬如，乳中若先有酪，是乳非酪因，酪先有故；若先無酪，如水中無酪，是乳亦非因；若無因而有酪者，水中何以不生酪？若乳是酪因緣，乳亦不自在，乳亦從因緣生；乳從牛有，牛從水草生，如是無邊，皆有因緣。以是故因緣中果，不得言有，不得言無，不得言有無，不得言非有非無，諸法從因緣生，無自性，如鏡中像。如偈說：

> 例えば、乳の中にあらかじめ酪が存在するならば、その乳は酪の因ではなくなる。なぜなら酪がすでに存在するからである。もし乳の中にあらかじめ酪が存在しないならば、水の中に酪がないのと同じで、その乳もまた因ではない。もし因なくして酪が生じるならば、水の中でどうして酪が生じないことがあろうか？もし乳が酪の因縁であるとしても、乳もまた自在ではなく、乳もまた因縁によって生じる。乳は牛から生じ、牛は水草から生じる。このように限りなく、すべては因縁がある。ゆえに因縁の中の果については、「有」とも言えず、「無」とも言えず、「有無」とも言えず、「非有非無」とも言えない。すべての法は因縁から生じるため、自性がなく、鏡の中の像のようなものである。偈に説かれるように。

「若法因緣生， 是法性實空；若此法不空， 不從因緣有。譬如鏡中像， 非鏡亦非面，亦非持鏡人， 非自非無因。非有亦非無， 亦復非有無，此語亦不受， 如是名中道。」

> もしある法が因縁によって生じたならば、その法の本質は実に空である。 もしこの法が空でなければ、それは因縁から存在することはない。 例えば鏡の中の像は、鏡そのものではなく、顔そのものでもなく、 鏡を持っている人そのものでもなく、自ら生じたのでも因なく生じたのでもない。 「有る」とも「無い」とも言えず、また「有るのでも無いのでもない」とも言えない、 この言葉にすら執着してはならない。これをこそ中道というのである。

以是故說「諸法如鏡中像」。

> そのような理由から、あらゆる現象は「鏡の中の映像のようなもの」であると説かれます。

「如化」者，十四變化心：初禪二：欲界、初禪；二禪三：欲界、初禪、二禪；三禪四：欲界、初禪、二禪、三禪；四禪五：欲界、初禪、二禪、三禪、四禪。

> 「『如化』とは、十四の変化心を指します。初禅には二つあり、それは欲界と初禅です。第二禅には三つあり、欲界、初禅、第二禅です。第三禅には四つあり、欲界、初禅、第二禅、第三禅です。第四禅には五つあり、欲界、初禅、第二禅、第三禅、第四禅です。」

是十四變化心，作八種變化：一者、能作小乃至微塵；二者、能作大乃至滿虛空；三者、能作輕乃至如鴻毛；四者、能作自在：能以大為小，以長為短，如是種種；五者、能有主力有大力人無所下故言「有主力」；六者、能遠到；七者、能動地；八者、隨意所欲盡能得：一身能作多身，多身能作一；石壁皆過，履水蹈虛，手捫日月；能轉四大：地作水、水作地，火作風、風作火，石作金、金作石。

> この十四の変化心は、八種の変化をもたらします。 第一に、微小な粒子の大きさにもなることができます。 第二に、虚空を満たすほどの大きさにもなれます。 第三に、鴻の羽のように軽くなることもできます。 第四に、自在な変化ができます。すなわち、大きなものを小さくし、長いものを短くするなど、様々な変化です。 第五に、大力を持つことができます。〈注〉大力の人は、何ものにも屈しないことから「有主力」といいます。 第六に、遠くへ赴くことができます。 第七に、大地を震動させることができます。 第八に、思いのままに全てを成し遂げられます。すなわち、一つの身体で多くの身体となり、多くの身体で一つの身体となること。石壁をも通り抜け、水の上を歩き、虚空を踏み、手で日月に触れること。また、四大を転変させることができます。すなわち、地を水とし、水を地とし、火を風とし、風を火とし、石を黄金とし、黄金を石とすることができます。

是變化復有四種：欲界藥物、寶物、幻術能變化諸物；諸神通人神力故，能變化諸物；天龍鬼神輩得生報力故，能變化諸物；色界生報、修定力故，能變化諸物。

> 変化にはさらに四種あります。欲界では、薬や宝、幻術によって物を変化させることができます。神通力を得た人は、その力によって物を変化させることができます。天・竜・鬼・神などの生き物は、生まれながらの報いの力によって物を変化させることができます。色界の生き物は、生まれながらの報いと修行で得た定の力によって物を変化させることができます。

如化人無生老病死、無苦無樂，異於人生，以是故空無實。一切諸法亦如是，皆無生住滅。以是故說「諸法如化」。

> 例えば、幻人のように生・老・病・死がなく、苦も楽もなく、普通の人間とは異なっています。だからこそ、それは空であり実体がないのです。あらゆる現象もこれと同じで、すべてに生じ、とどまり、滅するという性質はありません。そのため「すべての現象は幻のようなものである」と説かれています。

復次，化生無定物，但以心生，便有所作，皆無有實。人身亦如是，本無所因，但從先世心生今世身，皆無有實。以是故說「諸法如化」。

> さらに、幻化は特定の実体を持ちません。ただ心が生じることで様々な現象が現れるだけで、どれも実体はありません。人間の身体もこれと同じで、もとより確固たる原因はなく、ただ前世の心によって今世の身体が生じたにすぎず、どれも実体はありません。それゆえに『すべての現象は幻のようなものである』と説かれるのです。

如變化心滅則化滅；諸法亦如是，因緣滅果亦滅，不自在。

> 変化する心が消えれば、変化も消えます。すべての現象も同じです。原因と条件が消えれば結果も消え、自由ではありえません。

如化事雖實空，能令眾生生憂苦、瞋恚、喜樂、癡惑；諸法亦如是，雖空無實，能令眾生起歡喜、瞋恚、憂怖等。以是故說「諸法如化」。

> たとえ幻のような出来事が実体のない空であっても、それが原因で人々に憂いや苦しみ、怒り、喜び、迷いが生じるように、あらゆる現象もまた、空であり実体がないにもかかわらず、人々に喜びや怒り、憂いや恐怖などを起こさせるのです。だからこそ「諸法は幻のようなものだ」と説かれているのです。

復次，如變化生法，無初、無中、無後；諸法亦如是。

> さらに、幻のように現れるものには、始まりも中間も終わりもありません。すべての現象もまた、同じです。

如變化，生時無所從來，滅亦無所去；諸法亦如是。

> 例えば変化するように、生じるときもどこからも来ず、滅するときもどこへも行かない。あらゆる存在もまた、同じである。

復次，如變化相，清淨如虛空，無所染著，不為罪福所污；諸法亦如是，如法性，如如，如真際，自然常淨。譬如閻浮提四大河，一河有五百小河屬，是水種種不淨，入大海水中皆清淨。

> さらに、変化の相（すべての現象が常に変化していく様子）は、まるで虚空のように清らかで、何ものにも染まらず、罪や福によって汚されることがありません。すべての現象もまた、これと同じです。それらは法の本質（ありのままの真理）そのものであり、真実の境界（真如）であり、自然のままで常に清らかなのです。 たとえば、閻浮提（人間世界）には四本の大河があり、それぞれに五百の小さな川が流れ込んでいます。これらの水はさまざまな不純物を含んでいますが、大海に入るやいなや、すべて清らかになります。

問曰：

> お尋ねします。

不應言變化事空。何以故？變化心亦從修定得，從此心作種種變化——若人、若法；是化有因有果，云何空？

> 変化したものを空と言ってはならない。なぜなら、変化の心も修行によって得られた定（集中）から生じ、その心によって様々な変化——人や物——が作られるからである。この変化には原因と結果がある。それならば、どうして空と言えようか。

答曰：

> お答えしますと、

如影中已答，今當更答。此因緣雖有，變化果空。如口言「無所有」，雖心生口言，不可以心口有故，所言「無所有」便是有；若言「有第二頭、第三手」，雖從心口生，不可言「有頭、有手」。如佛說：「觀無生，從有生得脫；依無為，從有為得脫。」雖觀無生法無，而可作因緣，無為亦爾；變化雖空，亦能生心因緣。譬如幻、焰等九譬喻雖無，能生種種心。

> 影の中ですでに答えたが、今、さらに答えよう。この因縁は存在するものの、変化した結果は空である。例えば、口で「無所有」と言う時、心と口からその言葉が生じるが、心や口があるからといって、その言うところの「無所有」が存在するわけではない。もし「第二の頭、第三の手がある」と言っても、心と口から生じたとしても、「頭があり、手がある」と言えるものではない。仏が説かれたように、「無生を観じることで、有生から解脱する。無為に依ることで、有為から解脱する。」無生の法は無いと観じても、因縁となることはできる。無為もまた同じである。変化は空であっても、心の因縁を生じさせることができる。例えば、幻や陽炎などの九つの譬えは無いものであっても、様々な心を生じさせることができる。

復次，是化事於六因、四緣中求不可得，是中六因、四緣不相應故空。

> さらに、この変化する現象は、六因や四縁の中に求めても得られません。六因や四縁が対応しないからです。そのため空である、と知るべきです。

復次，空不以不見為空，以其無實用故言空。

> さらに、空とは、何も見えないから空なのではありません。実際の働きがないから空と言うのです。

以是故言「諸法如化」。

> したがって、「すべての現象は幻のようなものである」と説かれているのです。

問曰：

> お尋ねします。

若諸法十譬喻皆空無異者，何以但以十事為喻，不以山河石壁等為喻？

> もし、すべてのものが十のたとえで説かれるように、どれもこれも本来空（くう）であって違いがないのなら、なぜわざわざ十の事柄をたとえに用いるのであって、山川や岩壁などを用いないのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

諸法雖空而有分別，有難解空，有易解空。今以易解空喻難解空。

> すべてのもの（諸法）は空（実体がない）であるが、その中には理解しにくい空もあれば、理解しやすい空もある。いま、理解しやすい空を用いて、理解しにくい空をたとえて説明しよう。

復次，諸法有二種：有心著處，有心不著處。以心不著處解心著處。

> さらに、すべての現象には二つの種類がある。心が執着するものと、心が執着しないものである。心が執着しないものによって、心が執着するものを解きほぐすのである。

問曰：

> お尋ねします。

此十譬喻，何以是心不著處？

> この十の比喩は、なぜ心が執着しないための指針となるのでしょうか？

答曰：

> お答えしますと、

是十事不久住，易生易滅故，以是故，是心不著處。

> この十の事柄は長く続くものではなく、生じては滅びやすいからです。そのため、心をとどめるべき対象ではありません。

復次，有人知十喻，誑惑耳目法，不知諸法空故，以此喻諸法。

> さらに、ある人々は十のたとえを知っていて、耳目を惑わす法を説きますが、諸法が空であることを知らないために、これらのたとえを用いて諸法を説明します。

若有人於十譬喻中心著，不解種種難論，以此為有，是十譬喻不為其用，應更為說餘法門。

> たとえ十の譬えを聞いても、心がそれに執われ、様々な難解な議論を理解せず、これを実在するものと思い込むなら、その人にとって十の譬えは意味を成しません。そのような人には、さらに別の教えの門を説くべきです。

問曰：

> お尋ねします。

若諸法都空，不生不滅，是十譬喻等種種譬喻，種種因緣論議，我已悉知為空。若諸法都空，不應說是喻；若說是喻，是為不空。

> もしすべてのものが「空」であるなら、生も滅もなく、十の比喩などを用いた様々な例えや論議も、すべて私は「空」であると理解しています。しかし、もしすべてのものが本当に「空」であるなら、そもそも比喩を用いて説明する必要はないはずです。比喩を用いて説明するということは、それはすなわち「空」ではないことを示しているのではないでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

我說空，破諸法有。今所說者，若說有，先已破；若說無，不應難！

> 私が「空」と言うのは、あらゆる「存在する」という考えを打ち破るためです。 今ここで言っていることは、もし「有る」と言えば、それはすでに打ち破られており、 「無い」と言うなら、それに対して反論する必要はありません。

譬如執事比丘高聲舉手唱言：「眾皆寂靜！」是為以聲遮聲，非求聲也。以是故，雖說諸法空，不生不滅，愍念眾生故，雖說非有也。

> 例えば、寺院の役僧が大声で手を挙げて唱えるように、「皆、静かにせよ！」というのは、声をもって声を制しているのであって、声そのものを求めているわけではありません。それと同じように、諸法は空であり、生じも滅しもしないと説くけれども、それは衆生を哀れみ慈しむがゆえに、あえて「有るのでない」と説くのです。

以是故說「諸法如化」。

> だからこそ「すべての現象は幻のようなものである」と説かれるのです。

【經】

> お経

得無礙無所畏。

> 無碍にして無所畏を得る。

【論】

> 【論】 論とは、心を

種種眾、界、入因緣中，心無礙、無盡、無滅，是為無礙無所畏。

> 様々な衆生、世界、そして感覚の領域という因縁の中で、心に妨げがなく、尽きることがなく、消え去ることもない。これを「妨げられることなく、何も恐れないこと」という。

問曰：

> お尋ねします。

如先說諸菩薩於無量眾中無所畏，今何以更說「無礙無所畏」？

> まず、先に諸菩薩が無数の衆生の中で何の恐れもないと説かれましたが、今さらなぜ「障害なく、何の恐れもない」と改めて説かれるのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

先說無所畏因，今說無所畏果。於諸大眾乃至菩薩眾中，說法無盡，論議無減，心無疑難，已得無礙無所畏故。

> まず、恐れない原因（無所畏の因）について述べてきたが、ここではその結果（無所畏の果）について説明する。諸々の大衆や菩薩たちの中で、法を説き尽くすことがなく、議論にも滞ることがなく、心に疑いや困難がなく、すでに何ものにも妨げられない恐れなき境地（無礙無所畏）を得ているからである。

復次，如先說於無量眾中無所畏，不知以何等力故無畏；以是故，更說無所畏，以得無礙力故。

> 次に、先に述べたように、無量の衆生の中にあっても何の恐れもないことについて、どのような力によってそれが可能となるのかが明らかにされていませんでした。そこで改めて、無碍の力を得たがゆえに恐れがないことを説きます。

問曰：

> お尋ねします。

若諸菩薩亦有無礙無所畏，佛與菩薩有何等異？

> もし菩薩にも無礙智と無畏があるなら、仏と菩薩にはどのような違いがあるのでしょうか？

答曰：

> お答えしますと、

如我先說，諸菩薩自有無所畏力故，於諸法中無所畏，非佛無所畏。

> 先に私が説いたように、すべての菩薩たちは、自らの恐れのない力によって、あらゆる教えに対して恐れを抱かないのです。しかし、それは仏陀の持つ恐れのなさとは別のものです。

復次，無礙法有二種：一者、一切處，二者、非一切處。非一切處者，如入一經書乃至百千經書中無礙，若入一眾、若入百千眾中無所畏。諸菩薩亦如是，自智慧中無礙，非佛智慧。如佛放鉢時，五百阿羅漢及彌勒等諸菩薩皆不能取。諸菩薩亦如是，自力中無礙，佛智慧力中有礙。

> さらに、無碍の法には二種類があります。第一はあらゆる場所において無碍であること、第二は一部の場所においてのみ無碍であることです。一部の場所においてのみ無碍であるとは、例えば一つの経典や書物、あるいは百千の経典や書物の中に入っても妨げられず、一つの集まりや百千の集まりの中に入っても何ら怖れることがないといった状態です。菩薩たちもまた、これと同じように、自己の智慧においては無碍ですが、仏の智慧においては無碍ではありません。これは、仏が鉢を置かれた時に、五百人の阿羅漢や弥勒などの菩薩たちでさえも、それを取ることができなかったことからも明らかです。菩薩たちもまた、このように、自己の力においては無碍ですが、仏の智慧の力においては妨げがあるのです。

以是故說「諸菩薩得無礙無所畏」。

> だからこそ、「全ての菩薩は障りのない恐れのない境地に達している」と説かれるのです。

【經】

> お経

悉知眾生心行所趣，以微妙慧而度脫之。

> すべての生きとし生けるものの、心の動きや向かう先をことごとく知り、 その深く微妙な智慧によって、彼らを救い導かれるのです。

【論】

> 【論】 論とは、心を

問曰：

> お尋ねします。

云何「悉知眾生心行」？

> どのようにして「衆生の心の動きをすべて知る」のでしょうか？

答曰：

> お答えしますと、

知眾生心種種法中處處行，如日光遍照，菩薩悉知眾生心行有所趣向而教之。言一切眾生趣有二種：一者、心常求樂；二者、智慧分別，能知好惡。汝莫隨著心，當隨智慧，當自責心；汝無數劫來，集諸雜業而無厭足，而但馳逐世樂不覺為苦。汝不見世間貪樂致患，五道受生，皆心所為，誰使爾者？汝如狂象蹈藉殘害，無所拘制，誰調汝者？若得善調，則離世患。當知處胎不淨，苦厄猶如地獄；既生在世，老病死苦，憂悲萬端；若生天上，當復墮落；三界無安，汝何以樂著？如是種種呵責其心，誓不隨汝。是為菩薩知眾生心行。

> 衆生の心が、様々な法（ものごと）の中、あらゆる場面ではたらく様子を、まるで太陽の光が全てを照らすかのように知り、菩薩は衆生の心の動きがどこへ向かおうとしているのかを全て見極めた上で教えを説く。 「一切の衆生の趣（向かう先）には二つある。一つは、心が常に楽（快楽）を求めること。もう一つは、智慧による分別によって、善し悪しを見極めることだ。お前（心よ）は、心に従ってはならない。智慧に従いなさい。そして、自らの心を責めなさい。お前（心）は、数え切れない劫（長い時間）のあいだ、様々な業を積み重ねては決して満足することがなく、ただ世の中の楽しさを追い求めて、それが苦しみであることに気づかない。お前は世間の人が快楽を貪って患いを招き、五つの道（地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間）に生を受けているのは、全て心のなせる業であり、誰がそうさせているのか、見えないのか。お前（心）は、あたかも狂った象のごとく、踏みにじり、傷つけ、一切の制御もきかず、いったい誰がお前を調御するのか。もし善く調御されるならば、世の患いから離れられるだろう。知るがよい。胎内に宿ることは不浄であり、その苦しみは地獄のようである。生まれ出てこの世にあっては、老い・病・死の苦しみ、憂い悲しみは数限りない。もし天に生まれても、また堕ちていく運命にある。三界（欲界・色界・無色界）には安らかな場所などない。それなのに、どうしてお前はそれに執着し楽しむのか？」と。 このように様々に自らの心を呵責し、「決してお前に従わない」と誓う。これが、菩薩が衆生の心の行（はたらき）を知るということである。

問曰：

> お尋ねします。

云何名「以微妙慧而度脫之」？是中云何名微妙慧？云何名麁智慧？

> 「微妙な智慧によって救い導く」とはどういうことか。ここでいう「微妙な智慧」とは何か。また、「粗い智慧」とは何を指すのか。

答曰：

> お答えしますと、

世界巧慧是名麁智慧，行施、戒、定是名微妙慧。

> 世界巧みな知恵は、これを粗い智慧といいます。布施、戒、定の実践は、これを微妙な智慧といいます。

復次，布施智是為麁慧，戒、定智是名微妙慧。

> さらに、施しについての智慧は粗い智慧であり、戒律と禅定についての智慧は微細な智慧と呼ばれます。

復次，戒、定智是為麁慧，禪定智是名微妙慧。

> さらに、戒（道徳的な訓練）と定（心を集中させる修行）の智慧は粗い智慧であり、禅定（深い瞑想）の智慧は微細な智慧と呼ばれます。

復次，禪定智是為麁慧，無猗禪定是名微妙慧。

> さらに、禅定の智慧は粗い智慧であり、禅定に執着しないことが微細な智慧と呼ばれる。

復次，取諸法相是為麁慧，於諸法相不取不捨是名微妙慧。

> さらに、あらゆる現象の特質を捉えることは粗い智慧です。現象の特質に捉われもせず、捨て去りもせずにいること、これを微細な智慧と名づけます。

復次，破無明等諸煩惱，得諸法相，是名麁慧；入如法相者，譬如真金不損不失，亦如金剛不破不壞，又如虛空無染無著，是名微妙慧。

> さらに、無明などのあらゆる煩悩を打ち破り、諸法の本質を体得することを「粗い智慧」と呼びます。一方、真理の本質そのものに入る智慧とは、例えるならば純金のように損なわれず失われることなく、金剛のように壊れず破られず、虚空のように染まらず執着しないものであり、これを「微妙な智慧」と呼びます。

如是等無量微妙慧，菩薩自得，復教眾生。

> このような無数の微妙な智慧を、菩薩は自ら得るとともに、さらに衆生にも教え示すのです。

以是故說「諸菩薩悉知眾生心行所趣，以微妙慧而度脫之」。

> だからこそ「全ての菩薩は、衆生の心の働きや向かうところをことごとく知り、微細な智慧によって彼らを救い導く」と説かれるのです。