---
title: "大智度論 · 12 意無礙釋論"
description: "大智度论由古印度龙树菩萨所造，后秦时期著名译经家鸠摩罗什翻译成中文。该论是佛教重要典籍，属于大乘中观学派的核心论著，主要阐释《大品般若经》的深奥义理。全书共一百卷，系统论述了般若空性思想、菩萨修行次第以及六度万行的实践方法，被誉为大乘佛教的百科全书。作为早期大乘佛教的代表性论典，大智度论对汉传佛教思想体系的形成影响深远，尤其为天台宗、华严宗等宗派提供了重要理论依据，在佛教哲学史上占据崇高地位。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cma8zpnf40gonib04tn11s45n"
---

### 大智度初品中意無礙釋論第十二

> 大智度初品 意無礙釈論 第十二

【經】

> お経

意無罣礙。

> 心に障りがなければ、

【論】

> 【論】 論とは、心を

云何名「意無罣礙」？

> 「意無罣礙」とはどういう意味か？

菩薩於一切怨、親、非怨非親人中，等心無有礙。

> 菩薩は、すべての怨みある人、親しい人、また怨みでも親しみでもない人々に対して、平等な心で接し、何の障りもありません。

復次，一切世界眾生中，若來侵害，心不恚恨；若種種恭敬，亦不喜悅。如偈說：

> さらに、あらゆる世界のあらゆる生き物たちの中にあっても、もし誰かが自分を傷つけに来たとしても、心に怒りや恨みを抱くことはありません。また、様々な形で敬われたとしても、決して喜んだりしません。偈（うた）にこうあります――

「諸佛菩薩， 心不愛著； 外道惡人，心不憎恚。」

> すべての仏様や菩薩様は、心によいものに執着せず、外道や邪な人々を憎んだり怒ったりしません。

如是清淨，名為意無罣礙。

> このように清らかであれば、心に障りがないと言えるのです。

復次，於諸法中心無礙。

> さらに、あらゆる事柄に対して、心に何の妨げもなくありなさい。

問曰：

> お尋ねします。

是菩薩未得佛道，未得一切智，云何於諸法中心無礙？

> 菩薩がまだ仏の道を悟っておらず、一切智を得ていなくても、どのようにしてあらゆる物事に対して心に障りがないのでしょうか？

答曰：

> お答えしますと、

是菩薩得無量清淨智慧故，於諸法中心無礙。

> この菩薩は無量の清らかな智慧（プラジュニャー）を得ているため、あらゆるものごとに対して心にさまたげがありません。

問曰：

> お尋ねします。

諸菩薩未得佛道故，不應有無量智；有殘結故，不應有清淨智。

> 諸菩薩は、まだ仏道を成就していないため、無限の智慧を持つことはできません。また、煩悩の残りがあるため、清らかな智慧も持つことはできません。

答曰：

> お答えしますと、

是諸菩薩，非三界中結業肉身，皆得法身自在，過老病死；憐愍眾生故，在世界中行；為莊嚴佛土，教化眾生；已得自在，欲成佛能成。

> これらの菩薩たちは、三つの世界（欲界・色界・無色界）の煩悩に縛られた肉体ではなく、皆、法の身を得て自在であり、老いも病も死も超えています。しかし、衆生を哀れむがゆえに、この世界に現れて活動します。仏の国を荘厳し、衆生を教え導くためです。すでに自在の境地を得ており、成仏しようと思えば成仏できるのです。

問曰：

> お尋ねします。

如法身菩薩，則與佛無異，何以名為菩薩？何以禮佛、聽法？

> 法身の菩薩は、すでに仏と変わるところがありません。それでは、なぜ菩薩と呼ばれるのでしょうか？なぜ仏に礼拝し、法を聴くのでしょうか？

若與佛異，云何有無量清淨智？

> もし仏と異なるなら、どうして無量の清らかな智慧が存在しうるでしょうか？

答曰：

> お答えしますと、

是菩薩雖為法身，無老病死，與佛小異。譬如月十四日，眾人生疑，若滿若不滿；菩薩如是，雖能作佛、能說法，然未實成佛。佛如月十五日，滿足無疑。

> 菩薩は法身を得ているとはいえ、老・病・死がなく、仏とわずかに異なる。たとえば、月の十四日には、人々が「満ちているのか、まだ満ちていないのか」と疑うように、菩薩もまた、仏となり法を説くことはできても、まだ実際に仏となるには至っていない。仏は月の十五日のように、満ち足りていて疑いがない。

復次，無量清淨有二種：一者、實有量，於不能量者謂之無量。譬如海水、如恒河沙等，人不能量，名為無量；於諸佛菩薩，非為無量。菩薩無量清淨智亦復如是，於諸天人及聲聞、辟支佛所不能量，名為無量智；菩薩得無生道時，諸結使斷故，得清淨智。

> さらに、無量清浄には二種類あります。第一に、実際には限度があるが、それを測れない者にとっては無量と見なされるものです。例えば、海水やガンジス川の砂のように、人間には測れないため無量と呼ばれます。しかし、仏や菩薩にとっては無量ではありません。菩薩の無量清浄智もこれと同じで、天、人、声聞、縁覚などには測れないため、無量智と呼ばれます。菩薩が無生の悟りを得た時、すべての煩悩が断たれることで、清浄智を得るのです。

問曰：

> お尋ねします。

若爾時已斷諸結，成佛時復何所斷？

> もし、その時にすでにすべての煩悩の束縛を断ち切っていたなら、成仏する際に、さらに何を断つ必要があるのでしょうか？

答曰：

> お答えしますと、

是清淨有二種：一者、得佛時，除結都盡，得實清淨；二者、菩薩捨肉身、得法身時，斷諸結清淨。

> 清らかさには二つの種類がある。 第一は、仏となる時、すべての煩悩が尽きて、真実の清らかさを得ること。 第二は、菩薩が肉体を捨てて法の体を得る時、様々な煩悩を断ち切って清らかになることである。

譬如一燈能除闇，得有所作，更有大燈，倍復明了。佛及菩薩斷諸結使亦復如是；菩薩所斷，雖曰已斷，於佛所斷猶為未盡。

> 例えば、一筋の灯りが闇を晴らして物事を可能にするように、さらに大きな灯りがあれば、より一層明るくなる。仏や菩萨も煩悩の束縛を断ち切るのも同じである。菩薩が断ち切ったとしても、それがすでに断たれたものであっても、仏が断ち切ったものに比べれば、まだ完全ではないのである。

是名「得無量清淨智故，於諸法中意無罣礙」。

> これこそが「無量の清らかな智慧を得るがゆえに、すべての法において心に障りがない」という状態なのです。

【經】

> お経

大忍成就。

> 大いなる忍びの境地を完成させた。

【論】

> 【論】 論とは、心を

問曰：

> お尋ねします。

先已說等忍、法忍，今何以故復說「大忍成就」？

> すでに「等忍」や「法忍」についてお話ししましたのに、なぜ今あらためて「大忍成就」をお説きになるのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

此二忍增長，名為大忍。

> この二つの忍びが成長すると、それを大いなる忍びと名づける。

復次，等忍在眾生中一切能忍；柔順法忍於深法中忍。此二忍增長作證，得無生忍；最後肉身，悉見十方諸佛化現在前於空中坐，是名「大忍成就」。

> また、衆生の中にあってすべてを耐え忍ぶ「等忍」、深い真理を受け入れる「柔順法忍」。 この二つの忍耐が成長し、実証されることで「無生忍」を得る。 最後の肉体において、十方の諸仏が空中に座して目前に現れるのを見る。これを「大忍成就」という。

譬如聲聞法中，煖法增長名為頂法，頂法增長名為忍法，更無異法增長為異。等忍、大忍，亦復如是。

> 例えば、声聞の教えにおいて、 煖法が成長したものを頂法と呼び、 頂法が成長したものを忍法と呼びますが、 別の異なる法が成長して別のものになるわけではありません。 等しい忍、大きな忍についても、まったく同じです。

復次，有二種忍：生忍、法忍，生忍名眾生中忍，如恒河沙劫等眾生種種加惡，心不瞋恚；種種恭敬供養，心不歡喜。

> さらに、二種類の「忍」があります。それは「生忍（衆生に対する忍び）」と「法忍（真理に対する忍び）」です。 「生忍」とは、あらゆる生きとし生けるものに対する忍びのことです。たとえ無数の劫（非常に長い時間）にわたって、さまざまな生き物からひどい仕打ちや悪意を受けても、心に怒りを起こさないことです。また、様々な敬いや供養を受けても、心が喜びに浮かれたりしません。

復次，觀眾生無初，若有初則無因緣；若有因緣則無初，若無初亦應無後。何以故？初後相待故。若無初後，中亦應無。如是觀時，不墮常、斷二邊，用安隱道觀眾生，不生邪見，是名生忍。

> さらに、衆生には始まりがないと観察せよ。もし始まりがあれば、因果関係は成り立たない。因果関係があれば、始まりは存在しない。始まりがなければ、終わりもまた存在しないはずである。なぜなら、始まりと終わりは互いに依存して成り立つからだ。始まりと終わりがなければ、中間もまた存在しない。このように観察するとき、常住と断滅という二つの極端な見解に陥ることなく、安らかな道によって衆生を観察し、誤った見解を生じない。これを生忍という。

甚深法中心無罣礙，是名法忍。

> 深遠なる真理の境地において、心に何の執着もなく、とらわれないこと。これを「法忍」と名づける。

問曰：

> お尋ねします。

何等甚深法？

> どのような深い教えがあるのでしょうか？

答曰：

> お答えしますと、

如先甚深法忍中說。

> 先に述べた深い法の忍びに関する教えの中で説かれている通りです。

復次，甚深法者，於十二因緣中展轉生果，因中非有果，亦非無果，從是中出，是名甚深法。

> さらに、甚深の法とは、十二因縁のなかで、縁がめぐりめぐって果を生じさせることです。因のうちに果があるのでもなく、また果がないのでもなく、そこから生じるものを、甚深の法と名づけます。

復次，入三解脫門：空、無相、無作，則得涅槃常樂故，是名甚深法。

> さらに、三解脱門（空・無相・無作）に心を入れるならば、涅槃の常なる安らぎを得ることができます。このゆえに、これを深遠な教えと名づけます。

復次，觀一切法非空非不空，非有相非無相，非有作非無作；如是觀中心亦不著，是名甚深法。如偈說：

> さらに、あらゆる現象（法）は「空」でもなければ「空でない」のでもなく、「相がある」のでも「相がない」のでもなく、「作為がある」のでも「作為がない」のでもないと観じなさい。このように観じるとき、心もまた執着することがありません。これを「甚深の法（深遠な真理）」と呼びます。偈にいう、

「因緣生法， 是名空相， 亦名假名，亦名中道。 若法實有， 不應還無；今無先有， 是名為斷。 不常不斷，亦不有無； 心識處滅， 言說亦盡。」

> 因縁によって生じるもの、これを「空の姿」と言い、また「仮の名」とも言い、また「中道」とも言う。もし法が実に存在するならば、後に無くなることはないはずである。ところが、今ないものが先にあったと考えるのは、これを「断見」と言う。常ならず、断ならず、また「有る」と「無い」のいずれでもない。心がとどまる場所も尽き、言葉による説明も尽きるのである。

於此深法信心無礙，不悔不沒，是名「大忍成就」。

> この深い教えに対して、妨げられることなく信じ、悔やまず、沈むこともない。これを「大きな忍耐の成就」と名づける。

【經】

> お経

如實巧度。

> 真実のままに、巧みに救い導くこと。

【論】

> 【論】 論とは、心を

有外道法，雖度眾生，不如實度。何以故？種種邪見結使殘故。

> 外道の教えにも衆生を救うものはあるが、それが真実の救いではない。なぜなら、さまざまな誤った見解や煩悩のしこりが残っているからである。

二乘雖有所度，不如所應度。何以故？無一切智，方便心薄故。

> 二乗の修行者たちは、たとえ他者を救おうとしても、本来救うべきようには救えません。なぜなら、すべてを知る智慧がなく、方便の心が薄いからです。

唯有菩薩能如實巧度。

> ただ菩薩のみが、ありのままに巧みに人々を救うことができるのです。

譬如渡師，一人以浮囊草筏渡之，一人以方舟而渡，二渡之中相降懸殊；菩薩巧渡眾生亦如是。

> 例えば、川を渡す者のようなものです。一人は浮き袋や草の筏で渡そうとし、もう一人は立派な舟で渡そうとします。この二つの渡し方の間には、大きな違いがあります。それと同じように、菩薩が巧みに衆生を渡す（救う）のもまた、このようなものなのです。

復次，譬如治病，苦藥針炙，痛而得差；如有妙藥名蘇陀扇陀，病人眼見，眾病皆愈。除病雖同，優劣法異。

> また、これは病気の治療にたとえられます。苦い薬や鍼灸は、痛みを伴うけれども治癒をもたらします。ところが、スダルシャナという素晴らしい薬があれば、病人が見るだけであらゆる病気が治ってしまいます。病気を治すという点では同じでも、その方法には優れたものと劣ったものとの違いがあるのです。

聲聞、菩薩教化度人亦復如是。苦行頭陀，初、中、後夜，勤心坐禪，觀苦而得道，聲聞教也。觀諸法相，無縛無解，心得清淨，菩薩教也。如文殊師利本緣：

> 声聞や菩薩が人々を教え導くのも、これと同じです。苦行や頭陀（ずだ）の修行をし、夜の初め・中頃・終わりに心を込めて座禅し、「苦」を観察して悟りを得るのが、声聞の教えです。一方、すべての物事の本質を見極め、そこには束縛も解放もないと知り、心が清らかになるのが、菩薩の教えです。それは、文殊師利の本来の因縁の物語にもある通りです。

文殊師利白佛：「大德！昔我先世過無量阿僧祇劫，爾時有佛名師子音王，佛及眾生壽十萬億那由他歲，佛以三乘而度眾生。國名千光明，其國中諸樹皆七寶成，樹出無量清淨法音：空、無相、無作、不生不滅、無所有之音，眾生聞之，心解得道。

> 文殊師利が仏に申し上げました。「大徳よ、前世のはるか無量阿僧祇劫の昔、獅子音王という仏がおられました。その仏と人々の寿命は十万億那由他歳でした。仏は三つの乗り物によって人々を救済されました。その国の名は千光明といい、国中の木々はすべて七宝でできていて、その木々からは無量の清らかな法の音が響き渡っていました。すなわち、空・無相・無作・不生不滅・無所有の音です。人々がそれを聞くと、心が開けて悟りを得たのでした。」

「時師子音王佛初會說法，九十九億人得阿羅漢道，菩薩眾亦復如是。是諸菩薩，一切皆得無生法忍，入種種法門，見無量諸佛恭敬供養，能度無量無數眾生，得無量陀羅尼門，能得無量種種三昧。初發心新入道門菩薩不可稱數。是佛土無量莊嚴，說不可盡。時佛教化已訖，入無餘涅槃；法住六萬歲，諸樹法音亦不復出。

> その時、師子音王仏は最初の説法の席で、九十九億の人々が阿羅漢の道を得ました。菩薩たちについてもまた同様でした。 これらの菩薩たちは、皆、無生法忍を得て、様々な法門に入り、無量の諸仏を拝見して敬い供養し、無数無量の衆生を救い導き、無量の陀羅尼の門を得て、無量の様々な三昧を得ることができました。 初めて心を起こし新たに仏道に入る菩薩たちも、数えきれないほどでした。 この仏の国土の荘厳は無量で、言葉で尽くすことはできません。 やがて、仏の教化が終わり、無余涅槃に入られました。 正法は六万年間とどまりましたが、諸々の樹木から発せられる法の音も、もはや聞こえなくなりました。

「爾時，有二菩薩比丘：一名喜根，二名勝意。

> その時、二人の菩薩であり比丘がいました。一人の名は喜根、もう一人は勝意といいました。

「是喜根法師，容儀質直，不捨世法，亦不分別善惡。

> 喜根法師という方は、その容姿や振る舞いが素朴で飾り気がなく、世俗の生き方を否定せず、善悪を分別することもありませんでした。

「喜根弟子聰明樂法，好聞深義；其師不讚少欲知足，不讚戒行頭陀，但說諸法實相清淨。語諸弟子：『一切諸法婬欲相、瞋恚相、愚癡相，此諸法相即是諸法實相，無所罣礙。』以是方便，教諸弟子入一相智。時諸弟子於諸人中無瞋無悔，心不悔故得生忍，得生忍故則得法忍，於實法中不動如山。

> 喜根の弟子たちは聡明で、法を楽しみ深い義を好んで聞きました。その師匠は少欲や知足を讃えず、戒行や頭陀行を称賛せず、ただ諸法の実相は清浄であると説きました。弟子たちに告げて言うには、「一切の諸法、婬欲の相、瞋恚の相、愚癡の相、これらの法相こそがすなわち諸法の実相であり、何ものにも妨げられることはない」と。このような方便をもって、弟子たちを一相の智に入らせました。その時、弟子たちは多くの人々の中で、怒りも後悔もなく、心に悔いがないゆえに生忍を得、生忍を得るゆえに法忍を得て、実法の中にあって山のように動じることがありませんでした。

「勝意法師持戒清淨，行十二頭陀，得四禪、四無色定。

> 勝意法師は戒律を清らかに守り、十二頭陀の修行を行い、四禅と四無色定を体得していました。

「勝意諸弟子鈍根多求，分別是淨、是不淨，心即動轉。

> 勝意よ、私の弟子たちは鈍根であり、多くを求め、これは清らか、これは清らかでないと分別するゆえに、心が揺れ動くのだ。

「勝意異時入聚落中，至喜根弟子家，於坐處坐；讚說持戒、少欲、知足，行頭陀行，閑處禪寂；訾毀喜根言：『是人說法教人入邪見中，是說婬欲、瞋恚、愚癡無所罣礙相，是雜行人，非純清淨。』

> ある日、勝意は村に入り、喜根の弟子の家を訪ねて座に着き、戒律を守ること、欲が少ないこと、足ることを知ること、頭陀行を実践すること、静かな場所で坐禅することの功徳を称えました。そして喜根を非難して言いました。「あの人の説法は人々を誤った見解に導くものである。あれは欲望や怒りや無知を妨げるものがないと説く教えで、雑多な行いをする者であり、純粋に清らかではない。」

「是弟子利根得法忍，問勝意言：『大德！是婬欲法名何等相？』

> ＞ あの弟子は、\*\*利根（りこん）\*\* の者で、すでに法忍（ほうにん）を得ていました。彼は勝意（しょうい）に問いました。 「大徳（だいとく）よ。この婬欲（いんよく）の法は、いったいどのような相（すがた）を持つものなのでしょうか。」

「答言：『婬欲是煩惱相。』

> 答えはこうだ。「欲望や情愛は、悩みや苦しみの元となる現象である。」

「問言：『是婬欲煩惱，在內耶？在外耶？』

> 問うて言わく、「この婬欲の煩悩は、内にあるのか？外にあるのか？」

「答言：『是婬欲煩惱不在內，不在外；若在內，不應待外因緣生；若在外，於我無事，不應惱我。』

> 答えていわく、「この婬欲の煩悩は、内にあらず、外にあらず。もし内にあるならば、外的な因縁を待って生じることはないはずである。もし外にあるならば、我が身に関わることなく、我を悩ますこともないはずである。」

「居士言：『若婬欲非內、非外，非東西南北、四維、上下來，遍求實相不可得，是法即不生不滅；若無生滅相，空無所有，云何能作惱？』

> 居士が言った。『もし婬欲が内から来るのでも、外から来るのでもなく、東西南北や四方、上下から来るのでもないならば、その実相をどこに求めても得ることはできない。この法はすなわち生じもせず滅しもしない。もし生滅の相がなく、空であり何ものも存在しないならば、どうして悩みを生じさせることができようか。』

「勝意聞是語已，其心不悅，不能加答，從座而起，說如是言：『喜根多誑眾人著邪道中。』

> 勝意はこの言葉を聞いて、心が喜ばず、答えることもできずに席を立って、こう言った。「喜根は多くの人々を惑わし、邪道に陥れている。」

「是勝意菩薩未學音聲陀羅尼，聞佛所說便歡喜，聞外道語便瞋恚；聞三不善則不歡悅，聞三善則大歡喜；聞說生死則憂，聞涅槃則喜。

> 勝意という菩薩は、まだ音声陀羅尼を修めていなかったため、仏の説法を聞けば喜び、外道の言葉を聞けば怒りました。また、三つの不善について聞けば喜ばず、三つの善について聞けば大いに喜びました。さらに、生死についての話を聞けば憂い、涅槃についての話を聞けば喜んだのです。

「從居士家至林樹間，入精舍中，語諸比丘：『當知喜根菩薩是人虛誑，多令人入惡邪中。何以故？其言婬、恚、癡相，及一切諸法皆無礙相。』

> 居士の家から林の中へ、そして精舎に入り、比丘たちにこう語った。 「知っておきなさい。喜根菩薩という者は、虚偽の人であり、多くの人を悪や邪見に導く者だ。なぜなら、彼は『欲の心も、怒りの心も、愚かさの心も、すべてのものに妨げはない』と説くからだ。」

「是時，喜根作是念：『此人大瞋，為惡業所覆，當墮大罪！我今當為說甚深法，雖今無所得，為作後世佛道因緣。』是時，喜根集僧，一心說偈：

> その時、喜根はこう思いました。「この人は大いに怒っており、悪業に覆われている。大きな罪に堕ちるだろう！今、私はこの人のために甚深の法を説こう。今は何も得られなくとも、後の世における仏道の因縁となるように。」その時、喜根は僧を集め、一心に偈を説きました。

「婬欲即是道， 恚癡亦如是；如此三事中， 無量諸佛道。若有人分別， 婬怒癡及道；是人去佛遠， 譬如天與地。道及婬怒癡， 是一法平等；若人聞怖畏， 去佛道甚遠。婬法不生滅， 不能令心惱；若人計吾我， 婬將入惡道。見有無法異， 是不離有無；若知有無等， 超勝成佛道。」

> 欲情そのものが道であり、 怒りや愚かさもまた同じ。 この三つの営みの中に、 無数の諸仏の道がある。 もし人が「欲」「怒り」「愚痴」と「道」を 別々のものと分けて考えるなら、 その人は仏から遠く離れている。 例えれば天と地ほどの差がある。 道と欲・怒り・愚痴は、 一つの真理において平等である。 もしこの言葉を聞いて恐れるなら、 その人は仏の道から甚だ遠い。 欲の本質は生まれも滅びもせず、 心を悩ますこともできない。 もし人が「私」という思いに執着すれば、 欲はその人を悪道へ導く。 「ある」と「ない」を別々のものと見るのは、 まだ「有」と「無」のとらわれを離れていない。 もし「有る」と「無い」が等しいと知るなら、 それを超えて仏の道を成し遂げる。

「說如是等七十餘偈，時三萬諸天子得無生法忍，萬八千聲聞人，不著一切法故皆得解脫。

> このような七十余りの偈を説かれたとき、三万の天人が無生法忍（一切の現象が生じも滅しもせぬと悟る智慧）を得、一万八千の声聞（仏の教えを聞いて修行する者たち）は、あらゆるものに執着しないがゆえに、皆解脱を得たのである。

「是時，勝意菩薩身即陷入地獄，受無量千萬億歲苦！出生人中，七十四萬世常被誹謗，無量劫中不聞佛名。是罪漸薄，得聞佛法，出家為道而復捨戒，如是六萬三千世常捨戒；無量世中作沙門，雖不捨戒，諸根闇鈍。

> その時、勝意菩薩はたちまち地獄に落ち、無量千万億年の苦しみを受けました。その後人間に生まれ変わっても、七十四万世にわたって常に誹謗され、無量の劫の間、仏の御名を聞くことができませんでした。やがて罪が次第に薄れ、仏法を聞くことができ、出家して修行の道に入りましたが、再び戒律を捨てました。こうして六万三千世もの間、常に戒律を捨て続けました。さらに無量の世で沙門（出家者）となりましたが、戒律を捨てなかったとしても、諸々の感覚機能は鈍く、暗いままでした。

「是喜根菩薩於今東方過十萬億佛土作佛，其土號寶嚴，佛號光踰日明王。」

> この喜根菩薩は、今から東方に十万億もの仏の国土を超えたところで仏となり、その国を宝厳と名づけ、その仏の名を光踰日明王とおっしゃいます。

文殊師利言：「爾時勝意比丘，我身是也，我觀爾時受是無量苦。」

> 文殊師利菩薩は言いました。「その時の勝意という名の比丘（僧侶）とは、私自身のことです。私は、その時に受けた限りない苦しみを、はっきりと見つめています。」

文殊師利復白佛：「若有人求三乘道，不欲受諸苦者，不應破諸法相而懷瞋恚。」

> 文殊師利が再び仏に申し上げた。「もし三乗の道を求める人がいて、さまざまな苦しみを受けまいと望むなら、あらゆる物事の本質的なあり方を破壊し、怒りや憎しみを抱いてはなりません。」

佛問文殊師利：「汝聞諸偈，得何等利？」

> 仏が文殊師利に問われた。「お前は諸々の偈を聞いて、どのような利益を得たのか。」

答曰：「我聞此偈，得畢眾苦，世世得利根智慧，能解深法，巧說深義，於諸菩薩中最為第一。」

> 答えて言った。「私はこの偈を聞いて、あらゆる苦しみを終わらせることができました。生涯を通じて鋭い智慧を得て、深い教えを理解し、巧みにその深い意味を説くことができ、菩薩たちの中でも最も優れた者となりました。」

如是等，名巧說諸法相。

> このように、さまざまな形で諸法の本質を巧みに説き明かすことを、「巧みに諸法の相を説く」と言うのです。

是名「如實巧度」。

> これを「まことの道理にかなった、巧みな救い」と名づける。

## 大智度論卷第六

> 大智度論 巻第六