---
title: "大智度論 · 13 佛土願釋論"
description: "大智度论由古印度龙树菩萨所造，后秦时期著名译经家鸠摩罗什翻译成中文。该论是佛教重要典籍，属于大乘中观学派的核心论著，主要阐释《大品般若经》的深奥义理。全书共一百卷，系统论述了般若空性思想、菩萨修行次第以及六度万行的实践方法，被誉为大乘佛教的百科全书。作为早期大乘佛教的代表性论典，大智度论对汉传佛教思想体系的形成影响深远，尤其为天台宗、华严宗等宗派提供了重要理论依据，在佛教哲学史上占据崇高地位。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cma8zpoak0gxiib04gekc8m56"
---

## 大智度初品中佛土願釋論第十三卷第七

> 大智度経 初品 仏国土の誓願の解釈 第十三（第七巻）

龍樹菩薩造

> 龍樹菩薩による

後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉　詔譯

> 後秦の亀茲国三蔵法師鳩摩羅什が詔を奉じて訳す

【經】

> お経

願受無量諸佛世界。

> 無量の諸仏の世界をお受け入れくださいますように。

【論】

> 【論】 論とは、心を

諸菩薩見諸佛世界無量嚴淨，發種種願。

> 多くの菩薩たちは、無数の仏の世界が、限りなく荘厳で清らかに整っているのを見て、様々な願いを起こしました。

有佛世界都無眾苦，乃至無三惡之名者；菩薩見已，自發願言：我作佛時，世界無眾苦，乃至無三惡之名，亦當如是。

> ある仏の世界には、一切の苦しみがなく、三悪道（地獄・餓鬼・畜生）の名前さえも存在しません。菩薩はこのような世界を見て、自ら誓いを立てます。「私が仏となる時、その世界にも一切の苦しみがなく、三悪道の名前さえもありませんように。まさにそのような世界を実現しよう」と。

有佛世界七寶莊嚴，晝夜常有清淨光明，無有日月；便發願言：我作佛時，世界常有嚴淨光明，亦當如是。

> ある仏の世界は七宝で飾られ、昼も夜も清らかな光に満ち、日月が存在しなかった。そこで彼は誓いを立てた。「私が仏となるとき、私の世界も常に厳かで清らかな光に満ち、このようであれと。」

有佛世界一切眾生皆行十善，有大智慧，衣被飲食，應念而至；便發願言：我作佛時，世界中眾生，衣被飲食，亦當如是。

> ある仏の世界では、すべての生きとし生けるものが十の善行を実践し、大きな智慧を備え、衣や食べ物も思いのままに手に入る。その様子を見て、彼はこう誓いを立てた。「私が仏となるとき、私の世界の生きとし生けるものも、同じように衣や食べ物が思いのままに得られるようにあれかし」と。

有佛世界純諸菩薩，如佛色身三十二相，光明徹照，乃至無有聲聞、辟支佛名，亦無女人，一切皆行深妙佛道，遊至十方，教化一切；便發願言：我作佛時，世界中眾生，亦當如是。

> ある仏の世界には、菩薩だけが住み、仏のような色身と三十二相を備え、光明が徹り照らしている。そこには声聞や辟支仏の名もなく、女性もいない。皆、深妙な仏道を修行し、十方に遊行して一切を教化している。そこでこの菩薩は誓いを立てた。「私が仏となるとき、私の世界の衆生もまた、このようであってほしい」と。

如是等無量佛世界種種嚴淨，願皆得之。以是故名「願受無量諸佛世界」。

> このように無数の仏の世界には、さまざまな荘厳と清らかさがあり、私はそのすべてを得たいと願います。そのため、これを「無数の諸仏の世界を受け入れる願い」と呼びます。

問曰：

> お尋ねします。

諸菩薩行業清淨，自得淨報，何以要須立願然後得之？譬如田家得穀，豈復待願？

> 諸菩薩の行いはすでに清らかであり、その結果もまた自然と清らかな報いを得るものです。それなのに、なぜさらに願を立てる必要があるのでしょうか？たとえば農家が穀物を得るのに、わざわざ願を待つ必要があるでしょうか？

答曰：

> お答えしますと、

作福無願，無所摽立，願為導御，能有所成。譬如銷金，隨師所作，金無定也。如佛所說：

> 福となる行いをしても願いがなければ、それは確かな基盤を持ちません。願いは導き手となり、それを成し遂げる力となります。たとえるなら、金は鍛冶屋の腕前次第で様々な形になるように、それ自体に決まった形はないのと同じです。これは仏の説かれたことです。

有人修少施福，修少戒福，不知禪法；聞人中有富樂人，心常念著，願樂不捨，命終之後，生富樂人中。

> わずかな布施の功徳や、わずかな戒律の功徳を積んでも、禅の修行法を知らずにいる人がいます。そうした人は、他人の中に裕福で幸せに暮らしている人を見聞きすると、心で常にその姿を思い浮かべ、その幸せを願ってやみません。そうして命が終わった後、裕福で幸せな人々の間に生まれ変わります。

復有人修少施福，修少戒福，不知禪法；聞有四天王天處、三十三天，夜摩天、兜率陀天、化樂天專念色欲，化來從己、他化自在天此天他化色欲，與之行欲，展轉如是，故名他化自在，心常願樂，命終之後，各生其中；此皆願力所得。

> あるいは、わずかな布施の功徳やわずかな戒律の功徳を積んでも、禅定の修行を知らない人がいます。そうした人が、四天王天、三十三天、夜摩天、兜率天、化楽天<note>色欲に専念し、それを自ら作り出して楽しむ</note>、他化自在天<note>この天では、他の者が作り出した色欲を楽しみ、そのようにして欲を満たすことから、他化自在と名づけられる</note>という天界があると聞き、心からそれを願い望みます。すると命終の後、それぞれの天界に生まれます。これらはすべて、願いの力によって得られるものなのです。

菩薩亦如是，修淨世界願，然後得之。以是故知，因願受勝果。

> 菩薩もまた、そうである。清らかな世界を願い、その願いを修めて、はじめてそれを得るのだ。それゆえに知るべきである──願いによって、優れた結果が生まれると。

復次，莊嚴佛世界事大，獨行功德不能成故，要須願力。譬如牛力雖能挽車，要須御者能有所至；淨世界願亦復如是，福德如牛，願如御者。

> さらに、仏の世界を荘厳するということは大変なことであり、独りで行う功徳だけでは成し遂げられない。そのためには願いの力が必要である。たとえば、牛の力だけで車を引くことはできても、御者がいて初めて目的地に到達できるように、清らかな世界を実現する願いもまた同じである。福徳は牛のようなものであり、願いは御者のようなものなのである。

問曰：

> お尋ねします。

若不作願，不得福耶？

> 願いを立てなければ、福は得られないのでしょうか？

答曰：

> お答えしますと、

雖得，不如有願；願能助福，常念所行，福德增長。

> 願いを持たずに得るものは、たとえ手に入れても、願いを持つことには及ばない。願いは福徳を助け、常に行いを念じることで、福徳はさらに増し大きくなる。

問曰：

> お尋ねします。

若作願得報，如人作十惡，不願地獄，亦不應得地獄報？

> もし「願えば報いを得る」というなら、人が十の悪を行っても地獄を願わなければ、地獄の報いを受けるべきではないことになるのではないでしょうか？

答曰：

> お答えしますと、

罪福雖有定報，但作願者修少福，有願力故得大果報，如先說。罪中報苦，一切眾生皆願得樂，無願苦者，是故不願地獄。以是故，福有無量報，罪報有量。

> 罪と福には確かな報いがあるが、願いを立てて少しの福を修めれば、その願いの力によって大きな果報を得られる。これは先に述べた通りである。罪の報いは苦しみであり、すべての生きとし生けるものは皆、楽を得ることを願い、苦しみを願う者はいない。それゆえ、地獄を願う者もないのである。したがって、福には無限の報いがあり、罪の報いには限りがある。

有人言：最大罪在阿鼻地獄，一劫受報；最大福在非有想非無想處，受八萬大劫報。諸菩薩淨世界願，亦無量劫入道得涅槃，是為常樂。

> 「この世で最も重い罪は、無間地獄に落ち、一劫もの間、報いを受けることです。最も大きな福は、非有想非無想処に生まれ、八万大劫もの間、その報いを受けることです。しかし、諸々の菩薩が清らかな世界を願い、限りない劫を経て悟りを得て涅槃に至る、これこそが永遠の安らぎなのです。」

問曰：

> お尋ねします。

如〈泥黎品〉中謗般若波羅蜜罪，此間劫盡，復至他方泥黎中，何以言「最大罪受地獄中一劫報」？

> 浄土教の中で、『泥黎品』に説かれる般若波羅蜜を誹謗する罪は、この世界の劫が尽きても、さらに他の世界の泥黎（地獄）へ移るとされています。それなのに、なぜ「最大の罪は地獄で一劫の報いを受ける」と説くのでしょうか？

答曰：

> お答えしますと、

佛法為眾生故，有二道教化：一者、佛道，二者、聲聞道。

> 仏法は、すべての人々（衆生）の救いのために、二つの道を教えています。一つは仏道（完全な悟りを目指す道）、もう一つは声聞道（教えを聞いて悟りを目指す道）です。

聲聞道中作五逆罪人，佛說受地獄一劫；菩薩道中破佛法人，說此間劫盡，復至他方受無量罪。

> 声聞（しょうもん）の道において五逆の罪を犯した者は、仏は地獄で一劫（いっこう）の苦しみを受けると説かれました。 しかし菩薩の道において教えを破る者は、この世界での劫が尽きても、さらに他の世界で限りない罪を受けると説かれています。

聲聞法最第一福，受八萬劫；菩薩道中大福，受無量阿僧祇劫。

> 声聞の教えにおける最高の功徳は、八万劫の間、その果報を受ける。 菩薩道における大いなる功徳は、無量阿僧祇劫の間、その果報を受けるのである。

以是故福德要須願，是名「願受無量諸佛世界」。

> したがって、その功徳には願いが不可欠なのです。これを「無量の諸仏の世界を受け入れるための願い」と名づけます。

【經】

> お経

念無量佛土，諸佛三昧，常現在前。

> 心に無数の仏の国々を思い描き、諸仏の悟りの境地（三昧）が常に目の前に現れている。

【論】

> 【論】 論とは、心を

「無量佛土」，名十方諸佛土。「念佛三昧」，名十方三世諸佛，常以心眼見，如現在前。

> 無量の仏の国土とは、十方（あらゆる方向）にある諸仏の国土を指します。また、念仏三昧とは、十方三世のすべての仏を、心の眼で常に、あたかも今目の前に現れているかのように見ることです。

問曰：

> お尋ねします。

云何為念佛三昧？

> 念仏三昧とは何でしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

念佛三昧有二種：一者、聲聞法中，於一佛身，心眼見滿十方；二者、菩薩道於無量佛土中，念三世十方諸佛。

> 念仏三昧には二種類ある。一つ目は声聞の教えにおけるもので、一つの仏の姿を心の目で見ると、それが十方に満ち満ちて見えるというもの。二つ目は菩薩の道におけるもので、無数の仏の国々において、過去・現在・未来の十方すべての仏を心に念じるというもの。

以是故言「念無量佛土，諸佛三昧，常現在前」。

> だからこそ、「無量の仏の世界を念じ、諸仏の三昧が常に目の前に現れる」と言うのである。

問曰：

> お尋ねします。

如菩薩三昧種種無量，何以故但讚是菩薩念佛三昧常現在前？

> 菩薩の三昧は様々で限りがありません。それにもかかわらず、なぜこの菩薩の「念仏三昧が常に目の前にある」ことだけを称賛するのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

是菩薩念佛故，得入佛道中。以是故，念佛三昧常現在前。

> 菩薩が仏を念じるゆえに、佛の道に入ることができるのです。そのため、仏を念じる三昧（深い瞑想の境地）が常に目の前に現れます。

復次，念佛三昧能除種種煩惱及先世罪；餘諸三昧，有能除婬不能除瞋，有能除瞋不能除婬，有能除癡不能除婬、恚，有能除三毒不能除先世罪。是念佛三昧，能除種種煩惱、種種罪。

> さらに、念仏三昧は、さまざまな煩悩や過去世の罪を取り除くことができます。他の三昧には、欲を除くことはできても怒りを除くことはできないものもあれば、怒りを除くことはできても欲を除くことができないものもあります。また、愚かさを除くことはできても欲や怒りを除くことができないものもあり、三毒を除くことはできても過去世の罪を除くことができないものもあります。しかし、この念仏三昧は、さまざまな煩悩や様々な罪を取り除くことができるのです。

復次，念佛三昧有大福德，能度眾生；是諸菩薩欲度眾生，諸餘三昧無如此念佛三昧福德，能速滅諸罪者。如說：昔有五百估客，入海採寶；值摩伽羅魚王開口，海水入中，船去駃疾。船師問樓上人：「汝見何等？」答言：「見三日出，白山羅列，水流奔趣，如入大坑。」船師言：「是摩伽羅魚王開口，一是實日，兩日是魚眼，白山是魚齒，水流奔趣是入其口。我曹了矣！各各求諸天神以自救濟！」是時諸人各各求其所事，都無所益。中有五戒優婆塞語眾人言：「吾等當共稱南無佛，佛為無上，能救苦厄！」眾人一心同聲稱南無佛。是魚先世是佛破戒弟子，得宿命智，聞稱佛聲心自悔悟，即便合口，船人得脫。以念佛故，能除重罪、濟諸苦厄，何況念佛三昧！

> また、仏を念じる三昧（念仏三昧）には大きな福徳があり、衆生を救うことができる。これらの菩薩たちが衆生を救おうとするとき、他の様々な三昧よりも、この念仏三昧のような福徳を持ち、速やかに諸々の罪を滅ぼすことのできるものはない。 例えば、こう語られている。昔、五百人の商人が海へ宝を採りに入った。そのとき、摩伽羅（マカラ）という大魚の王が口を開け、海水がその中へ流れ込み、船は猛スピードで進んでいった。船長がやぐらの上の者に尋ねた。「あなたには何が見えるか？」答えていう。「三つの太陽が現れ、白い山々が並び立ち、水流が奔り注ぎ、大きな穴に入っていくかのようです。」船長が言った。「それは摩伽羅魚の王が口を開けているのだ。一つが本物の太陽で、二つは魚の眼、白い山々は魚の歯、水流が奔り注ぐのはその口の中に入っているのだ。我々はもうおしまいだ！各々、諸々の天の神々に助けを求めよ！」そのとき、人々はそれぞれ自分たちが拝むものに祈ったが、全く効果がなかった。その中に、五戒を保つ在家の信者がいて、人々に言った。「私たちは共に南無仏（仏に帰依します）と唱えましょう。仏はこの上ないお方で、苦しみや災いから救ってくださいます。」人々は心を一つにして声を揃えて南無仏と唱えた。この魚は前世で仏の戒律を破った弟子であり、宿命智（過去世を覚えている智慧）を持っていたため、仏の御名を聞く声に触れて心から悔い改め、すぐに口を閉じた。そのおかげで船の人々は救われた。このように、ただ仏を念じるだけでも、重い罪を除き、苦しみや災いから救われるのである。ましてや、念仏三昧においてはなおさらである。

復次，佛為法王，菩薩為法將，所尊所重唯佛世尊，是故應常念佛。

> また、仏は法の王であり、菩薩は法の将軍です。尊敬し重視すべきは、ただ仏世尊のみです。それゆえ、常に仏を念じるべきなのです。

復次，常念佛得種種功德利。譬如大臣特蒙恩寵常念其主；菩薩亦如是，知種種功德、無量智慧皆從佛得，知恩重故常念佛。汝言「云何常念佛，不行餘三昧」者，今言「常念」，亦不言「不行餘三昧」，行念佛三昧多，故言「常念」。

> また、常に仏を念じることで、様々な功徳や利益が得られます。たとえて言うなら、大臣が特別な恩寵を受けて常に主君を思うようなものです。菩薩もこれと同じで、様々な功徳や無量の智慧がすべて仏から得られるものであると知り、その恩の重さを知るゆえに常に仏を念じるのです。あなたが「どうして常に仏を念じて、他の三昧を行わないのか」と言われるかもしれませんが、今ここで「常に念じる」と言うのは、他の三昧を行わないという意味ではなく、特に仏を念じる三昧を多く行うからこそ「常に念じる」と表現しているのです。

復次，先雖說空、無相、無作三昧，未說念佛三昧，是故今說。

> さらに、これまでは空・無相・無作の三昧については説いてきたが、まだ念仏三昧については説いていない。それゆえに、ここでこれを説く。

【經】

> お経

能請無量諸佛。

> 無量の諸仏をお招きすることができる。

【論】

> 【論】 論とは、心を

「請」有二種：

> 「請」には二つの種類があります。

一者、佛初成道，菩薩夜三、晝三六時禮請；偏袒右肩，合掌言：「十方佛土無量諸佛初成道時未轉法輪，我某甲請一切諸佛為眾生轉法輪度脫一切。」

> 一つには、仏が初めて悟りを開かれた時、菩薩は夜に三回、昼に三回、合わせて六回の時節に礼拝して請願します。右肩を露わにし、合掌して申し上げます。「十方の仏の国土におられる無量の諸仏が、初めて悟りを開かれた時にまだ法輪を転じていないならば、私、某（それがし）は、一切の諸仏が衆生のために法輪を転じて、すべての者を救い導かれるようお願いいたします。」

二者、諸佛欲捨無量壽命入涅槃時，菩薩亦夜三時、晝三時，偏袒右肩，合掌言：「十方佛土無量諸佛，我某甲請令久住世間，無央數劫度脫一切，利益眾生。」

> 二つには、諸仏が無量の寿命を捨てて涅槃に入ろうとするとき、菩薩もまた夜三時・昼三時に、右肩を露わにして合掌し、こう申し上げます。「十方の仏国土にある無量の諸仏よ、私、○○は、あなたがたが長くこの世に留まり、数え切れない劫の間、一切の衆生を救い、利益を与えられますようお願い申し上げます。」

是名「能請無量諸佛」。

> これを「無量の諸仏をお招きする力」と名づけます。

問曰：

> お尋ねします。

諸佛之法，法應說法廣度眾生，請與不請法自應爾，何以須請？若於自前面請諸佛則可，今十方無量佛土諸佛亦不自見，云何可請？

> 諸仏の法は、本来、説法によって広く衆生を救うべきものです。請われるか請われないかにかかわらず、法は自ずから説かれるべきものなのに、なぜ特に請う必要があるのでしょうか。もし目の前におられる諸仏に請うのであれば理解できますが、今、十方の無量の仏国土におられる諸仏は、自らをお見せになることもありません。そのような仏に、どうやって請うことができるのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

諸佛雖必應說法，不待人請，請者亦應得福。如大國王雖多美饍，有人請者必得恩福，錄其心故。又如慈心念諸眾生令得快樂，眾生雖無所得，念者大得其福。請佛說法，亦復如是。

> 諸仏は必ずしも人の請いを待たずして法を説かれるが、請い求める者もまた福を得る。ちょうど大国の王が多くの美味を備えていても、誰かが請えば必ず恩恵と福を得る――その心を認められるからである。また、慈しみの心で全ての生きとし生けるものに安楽を与えようと願うとき、たとえ衆生が直接何かを得なくとも、願う者自身が大きな福を得る。仏に法を説いてくださるよう請うことも、また同じである。

復次，有諸佛無人請者，便入涅槃而不說法。如《法華經》中多寶世尊，無人請故便入涅槃。後化佛身及七寶塔，證說《法華經》故，一時出現。亦如須扇多佛，弟子本行未熟，便捨入涅槃，留化佛一劫以度眾生。今是釋迦文尼佛，得道後五十七日寂不說法；自言：「我法甚深，難解難知！一切眾生縛著世法，無能解者，不如默然入涅槃樂。」是時，諸菩薩及釋提桓因、梵天王諸天合掌敬禮，請佛為諸眾生初轉法輪。佛時默然受請，後到波羅㮏鹿林中轉法輪。如是，云何言請無所益？

> また、ある仏陀たちは、誰も教えを乞う者がいないため、涅槃に入り説法をされませんでした。例えば『法華経』の中の多宝世尊は、誰も教えを請わなかったため涅槃に入られました。後に、化仏の姿と七宝の塔が現れて『法華経』を証明し説くために、一時に出現しました。また、須扇多仏のように、弟子たちの根本的な行いが未だ熟していなかったため、ただちに涅槃に入られ、一劫の間、化仏を留めて衆生を救済されました。 今、この釈迦文尼仏は、悟りを開かれてから五十七日間、沈黙して説法されませんでした。自ら「私の法は極めて深く、理解し難く、知り難い。一切の衆生は世間の法に縛られており、これを理解できる者はない。沈黙して涅槃の楽しみに入るほうがよい」とおっしゃいました。その時、諸菩薩や帝釈天、梵天王、そして諸天が合掌し敬礼して、仏に、最初の法輪を衆生のために転じてくださるよう請いました。仏はその時、黙ってその請けを受け入れ、後にバラナシーの鹿野苑で法輪を転じられました。このように、請いに益がないなどとどうして言えましょうか？

復次，佛法等觀眾生，無貴無賤，無輕無重；有人請者，為其請故便為說法。雖眾生不面請佛，佛常見其心亦聞彼請；假令諸佛不聞不見，請佛亦有福德，何況佛悉聞見而無所益？

> さらに、仏の教えは全ての生きとし生けるものを平等に見ており、貴い者も卑しい者もなく、軽い者も重い者もありません。もし誰かが請うなら、その請いに応じて教えを説かれます。たとえ生きとし生けるものが直接仏の前に現れて請わなくとも、仏は常にその心を見抜き、その請いを聞き届けておられます。仮に諸仏が聞きも見もしなかったとしても、請うこと自体にすでに功徳があるのです。ましてや仏がすべてを聞き見ておられるのに、何の利益もないことがありましょうか。

問曰：

> お尋ねします。

既知請佛有益，何以正以二事請？

> すでに仏にお願いすることが有益だとわかっているのに、なぜ特に二つのこと（因位と果位）に限ってお願いするのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

餘不須請，此二事要必須請；若不請而說，有外道輩言：「體道常定，何以著法，多言多事？」以是故，須請而說。若有人言：「若知諸法相，不應貪壽久住世間而不早入涅槃。」以是故須請。若不請而說，人當謂佛愛著於法，欲令人知；以是故，要待人請而轉法輪。諸外道輩自著於法，若請、若不請而自為人說；佛於諸法不著不愛，為憐愍眾生故，有請佛說者，佛便為說，諸佛不以無請而初轉法輪。如偈說：

> 余は請う必要はないが、この二つのことは必ず請わねばならない。請わずに説けば、外道たちが言うであろう。「道を体得した者は常に定にあり、なぜ法に執着し、多くを語り多くを事とするのか」と。ゆえに請うてから説くのである。ある人が言う。「もし諸法の相を知るならば、寿命を貪り長く世に留まることなく、早く涅槃に入るべきだ」と。ゆえに請う必要がある。請わずに説けば、人々は仏が法に愛着し、人に知らせようとしていると思うであろう。ゆえに人の請いを待って法輪を転ずるのである。 諸々の外道たちは自らの法に執着し、請われると請われないとにかかわらず、自ら進んで人に説く。しかし仏は諸法に執着も愛着もなく、衆生を憐れむがゆえに、請うて説く者があれば、そのために説かれるのである。諸仏は請われずして初めて法輪を転ずることはない。偈にいう如く、

「諸佛說何實， 何者是不實，實之與不實， 二事不可得。如是真實相， 不戲於諸法；憐愍眾生故， 方便轉法輪。」

> 諸仏が説く、何が真実であり、何が真実ならざるものか。 真実も真実ならざることも、その二つはつかみとれないもの。 このように真実のすがたは、あらゆるものごとにとらわれない。 ただ、生きとし生けるものをあわれみ、巧みな方法で教えの輪を回すのである。

復次，佛若無請而自說法者，是為自顯自執法，應必答十四難。今諸天請佛說法，但為斷老病死，無戲論處，是故不答十四難無咎。以是因緣故，須請而轉法輪。

> また、仏が請われずして自ら説法するならば、それは自己顕示と自己の教えに執着する行為となり、十四の難問に必ず答えねばならなくなります。 しかし今、天人が仏に説法を請うのは、ただ老いと病と死を断ち切るためであり、そこには無益な議論の余地はありません。ゆえに十四の難問に答えなくとも、それは過ちとはならないのです。 このような理由により、請われてから法輪を転じるべきなのです。

復次，佛在人中生，用大人法故，雖有大悲，不請不說；若不請而說，外道所譏。以是故，初要須請。又復外道宗事梵天，梵天自請，則外道心伏。

> さらに、仏は人間の世界に生まれるため、大人の方法に従っておられる。そのため、たとえ大きな慈悲があっても、請われるまでは説法されない。もし請われずに説けば、外道から非難されることになる。ゆえに、最初に請うことが重要なのである。 また、外道たちは梵天を崇拝している。梵天自らが請うならば、外道たちの心も自然と従うのである。

復次，菩薩法，晝三時、夜三時常行三事：

> さらに、菩薩の修行法として、昼の三つの時間と夜の三つの時間に、常に三つのことを実践しなさい。

一者、清旦偏袒右肩，合掌禮十方佛，言：「我某甲若今世、若過世無量劫，身口意惡業罪，於十方現在佛前懺悔，願令滅除，不復更作。」中、暮、夜三亦如是。

> \*\*朝の清めの作法\*\* まず、朝には衣の右肩を出して合掌し、十方の仏様に向かって礼をします。 そしてこう唱えます。「私は（自分の名前を唱えます）、この世、あるいは過去の無数の劫（長い年月）にわたって、身と口と心で犯したあらゆる悪い行いの罪を、今、十方の現存する仏様の前で懺悔します。どうかこれらの罪が消え去り、二度と犯すことがありませんように。」 昼、夕、夜も、同じように三回行います。

二者、念十方三世諸佛所行功德，及弟子眾所有功德，隨喜勸助。

> 二つには、あらゆる時と場所の諸仏が行った功徳と、その弟子たちが持つすべての功徳を心に思い浮かべ、共に喜び、それを勧め助けることです。

三者、勸請現在十方諸佛初轉法輪，及請諸佛久住世間無量劫，度脫一切。

> 三つ目は、現在、十方の諸仏に初めて法輪を転じてくださるようお願いし、また、諸仏がこの世に無量の劫の間とどまり、すべての衆生を救い導いてくださるようお願いすることです。

菩薩行此三事，功德無量，轉近得佛。以是故須請。

> 菩薩がこの三つの行いを実践すると、その功徳は計り知れず、仏陀の境地へと近づくことができます。ですから、必ず請い求めるべきなのです。

【經】

> お経

能斷種種見、纏及諸煩惱。

> あらゆる見解や執着、そして様々な煩悩を断ち切ることができる。

【論】

> 【論】 論とは、心を

「見」有二種：一者常，二者斷。

> 「見」には二つの種類があります。一つは「常住」の見解、もう一つは「断滅」の見解です。

常見者，見五眾常，心忍樂；斷見者，見五眾滅，心忍樂。

> 常見の人とは、五蘊（色・受・想・行・識）を常住不変なものと見て、心からそれに安らぎ喜びを感じる者のことです。 断見の人とは、五蘊が完全に滅びると見て、心からそれに安らぎ喜びを感じる者のことです。

一切眾生多墮此二見中。菩薩自斷此二，亦能除一切眾生二見，令處中道。

> すべての衆生（しゅじょう）は、ほとんどこの二つの見解（けんげ）に堕ちています。菩薩（ぼさつ）は自らこの二つの見解を断ち、また、すべての衆生の二つの見解を取り除き、彼らを中道（ちゅうどう）に導くことができます。

復有二種見：有見、無見。

> さらに二つの見方があります。「存在する」という見方と、「存在しない」という見方です。

復有三種見：一切法忍，一切法不忍，一切法亦忍亦不忍。

> さらに、三種類の「見解」があります。すべての現象（法）を認める見解、すべての現象を認めない見解、そしてすべての現象を認めもすれば認めもしないという見解です。

復有四種見：世間常，世間無常，世間亦常亦無常，世間亦非常亦非無常。

> さらに、四つの見解があります。世間は永遠である、世間は永遠ではない、世間は永遠でありかつ永遠ではない、世間は永遠でもなく永遠でないでもない、というものです。

我及世間有邊、無邊亦如是。

> 私と世間とに端があるのか、端がないのかについても、同じである。

有死後如去，有死後不如去，有死後如去不如去，有死後亦不如去亦不不如去。

> 来世について、如来が存在すると言うのは適切ですか、存在しないと言うのが適切ですか。それとも、存在すると同時に存在しないと言うのが適切ですか。あるいは、存在するとも存在しないとも言えないのが適切ですか。

復有五種見：身見、邊見、邪見、見取、戒取。

> さらに五つの見解があります。自己への執着（身見）、両極端な見方（辺見）、誤った見解（邪見）、誤った見解への執着（見取）、誤った戒律や修行への執着（戒取）です。

如是等種種諸見，乃至六十二見斷。如是諸見，種種因緣生，種種智門觀，種種師邊聞。如是種種相，能為種種結使作因，能與眾生種種苦，是名「種種見」。「見」義，後當廣說。

> このように様々な見解があり、最終的には六十二見が断ち切られます。これらの様々な見解は、様々な因縁から生じ、様々な智慧の門を通じて観察され、様々な師のもとで聞かれたものです。このような様々な相（すがた）は、様々な煩悩（けつし）の原因となり、生きとし生けるものに様々な苦しみをもたらします。これを「種々の見解（しゅじゅのけんげ）」と呼びます。「見」という言葉の意味については、後で詳しく説明します。

「纏」者，十纏：瞋纏、覆罪纏、睡纏、眠纏、戲纏、掉纏、無慚纏、無愧纏、慳纏、嫉纏。

> 「煩わし」とは、十種類の煩わしを指します。すなわち、怒りの煩わし、罪を隠す煩わし、居眠りの煩わし、眠りの煩わし、ふざける煩わし、落ち着きのない煩わし、恥じることのない煩わし、恐れのない煩わし、物惜しみの煩わし、嫉みの煩わしです。

復次，一切煩惱結繞心故，盡名為「纏」。

> さらに、すべての煩悩が心を縛りつけるため、これらをすべて「纏（まとわりつくもの）」と呼びます。

「煩惱」者，能令心煩，能作惱故，名為「煩惱」。煩惱有二種：內著，外著——內著者，五見、疑、慢等；外著者，婬、瞋等；無明內外共。

> 「煩悩」とは、心を煩わせ、悩ませる働きがあるから、そう呼ばれます。 煩悩には二種類あります。内側への執着と、外側への執着です。 内側への執着とは、五つの誤った見解、疑い、慢心などです。 外側への執着とは、欲望や怒りなどです。 無明（むみょう）は、内側と外側の両方に共通して存在します。

復有二種結：一、屬愛，二、屬見。

> また、二つの結びがあります。第一は愛によるもの、第二は見解によるものです。

復有三種：屬婬，屬瞋，屬癡。

> さらに、三つの種類があります。それは、欲に属するもの、怒りに属するもの、愚かさに属するものです。

是名煩惱。

> これを煩悩（ぼんのう）と名づけます。

纏者，有人言「十纏」，有人言「五百纏」。

> 束縛（煩悩）について、十の束縛があると言う人もいれば、五百の束縛があると言う人もいます。

煩惱名一切結使：結有九結，使有七，合為九十八結。

> 煩悩には「結」と「使」という二つの呼び方があります。「結」は九種類あり、「使」は七種類。これらを合わせると、九十八の結（煩悩）となります。

如《迦旃延子阿毘曇》義中說：十纏、九十八結，為百八煩惱。

> 『迦旃延子の阿毘曇』の教えによれば、十の煩わしさ（纏）と九十八の束縛（結）を合わせて、百八の煩悩と説かれています。

《犢子兒阿毘曇》中結使亦同纏，有五百。

> 『犢子児阿毘曇』では「結使」は「纏（まとわりつく煩悩）」と同じく、五百あるとされています。

如是諸煩惱，菩薩能種種方便自斷，亦能巧方便斷他人諸煩惱。

> このように、あらゆる煩悩に対して、菩薩は様々な巧みな方法を用いて自らの煩悩を断ち切ることができます。また、その巧みな方法によって、他人の煩悩を断ち切ることもできるのです。

如佛在時，三人為伯、仲、季，聞毘耶離國婬女人名菴羅婆利，舍婆提有婬女人名須曼那，王舍城婬女人名優鉢羅槃那。有三人各各聞人讚三女人端正無比，晝夜專念，心著不捨，便於夢中夢與從事。覺已心念：「彼女不來，我亦不往，而婬事得辦。」因是而悟：「一切諸法皆如是耶？」於是往到颰陀婆羅菩薩所，問是事。颰陀婆羅答言：「諸法實爾，皆從念生。」如是種種為此三人方便巧說諸法空，是時三人即得阿鞞跋致。

> 仏陀が在世の頃、三人の兄弟がいた。彼らは長男、次男、末弟であった。ある時、毘耶離国には菴羅婆利という遊女がおり、舎衛国には須曼那という遊女が、王舎城には優鉢羅槃那という遊女がいるという噂を耳にした。 三人はそれぞれ別々に、これらの女たちがこの上なく美しいと讃える評判を聞き、昼夜心を奪われ、想いを募らせて離れられなくなった。そしてついに夢の中で、彼女たちと交わったのである。 目覚めた後、彼らはこう思った。「彼女たちは来なかったし、私も彼女らのもとへ行っていない。それなのに、情事は成し遂げられた。」このことから悟った。「あらゆる物事も、まさにこのようなものなのだろうか？」 そこで彼らは颰陀婆羅菩薩の許へ行き、このことを尋ねた。颰陀婆羅は答えた。「諸々の事柄は実にその通り、すべて心に生じる想いから生まれるのです。」 こうして様々に、この三人のために巧みに諸法の空を説いたところ、この三人は即座に不退転の位を得たのである。

是諸菩薩亦復如是，為諸眾生種種巧說法，斷諸見、纏、煩惱。是名「能斷種種見、纏及諸煩惱」。

> これらの菩薩たちもまた同じように、あらゆる生きとし生けるもののために、さまざまな巧みな方法で法を説き、さまざまな間違った見解や心のわずらわしさ、煩悩を断ち切ります。これを「種々の見解、心の結びつき、そして煩悩を断ち切ることができる」と名づけるのです。

【經】

> お経

遊戲出生百千三昧。

> 無数の三昧（深い瞑想の境地）を自在に生み出します。

【論】

> 【論】 論とは、心を

諸菩薩禪定心調，清淨智慧方便力故，能生種種諸三昧。何等為三昧？善心一處住不動，是名三昧。

> 多くの菩薩（ぼさつ）は、心を落ち着かせ、清らかな智慧と巧みな力によって、さまざまな三昧（さんまい）を生み出すことができます。では、三昧とは何でしょうか。善い心が一つのところに留まり、動かないこと。これを三昧といいます。

復有三種三昧：有覺有觀、無覺有觀、無覺無觀三昧。

> また、三つの三昧がある。すなわち、思考と観察がある三昧、思考はないが観察がある三昧、思考も観察もない三昧である。

復有四種三昧：欲界繫三昧、色界繫三昧、無色界繫三昧，不繫三昧。

> さらに、四種類の三昧（瞑想）があります。欲界（欲望の世界）に縛られた三昧、色界（物質のある世界）に縛られた三昧、無色界（物質を超えた世界）に縛られた三昧、そして、いかなる世界にも縛られない三昧です。

是中所用菩薩三昧，如先說，於佛三昧中未滿，勤行勤修故，言「能出生」。

> ここで言う「菩薩の三昧」とは、先に述べた通りです。しかし、仏の三昧においてはまだ完全ではありません。それゆえに、努め行い、努め修めるからこそ、「生み出すことができる」と説かれているのです。

問曰：

> お尋ねします。

諸菩薩何以故出生遊戲是百千種三昧？

> 諸々の菩薩たちは、どうして百千という多くの種類の三昧を自在に現し遊ぶことができるのでしょうか？

答曰：

> お答えしますと、

眾生無量，心行不同，有利有鈍，於諸結使有厚有薄；是故菩薩行百千種三昧，斷其塵勞。譬如為諸貧人欲令大富，當備種種財物，一切備具，然後乃能濟諸貧者。又復如人欲廣治諸病，當備種種眾藥，然後能治。菩薩亦如是，欲廣度眾生故，行種種百千三昧。

> 衆生は数えきれず、その心の働きも様々で、鋭い者も鈍い者もおり、煩悩の結びつきにも強い者と弱い者がいます。そのため菩薩は百千もの三昧を修め、彼らの塵のような煩悩を取り除くのです。例えば、貧しい人々に大きな富を与えようとするなら、様々な財物をすべてそろえてから、はじめて彼らを救えるのと同じです。また、あらゆる病気を治そうとするなら、様々な薬をそろえてから、はじめて治療ができるのと同じです。菩薩もまた、多くの衆生を広く救うために、多くの百千の三昧を修めるのです。

問曰：

> お尋ねします。

但當出生此三昧，何以故復遊戲其中？

> ただこの三昧を生み出すべきなのに、なぜまたその中で遊ぶのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

菩薩心生諸三昧，欣樂出入自在，名之為「戲」，非結愛戲也。「戲」名自在；如師子在鹿中自在無畏故，名為「戲」。是諸菩薩於諸三昧有自在力，能出能入亦能如是。

> 菩薩が心に諸々の三昧を起こし、楽しんで自由に出たり入ったりすることを「遊戯」と呼びます。これは執着や愛着から生じる遊びではありません。「遊戯」とは自在さを意味します。例えば、獅子が鹿の群れの中で自在で恐れを知らないことから、「遊戯」と呼ばれるのです。この菩薩たちも様々な三昧において自在の力を備え、出入りを思いのままにすることができるのです。

餘人於三昧中，能自在入，不能自在住、自在出；有自在住，不能自在入、自在出；有自在出，不能自在住、自在入；有自在入、自在住，不能自在出；有自在住、自在出，不能自在入。

> 三昧における他の人々は、自由に入ることができても、自由にとどまることや自由に出ることができない者もいる。自由にとどまることができても、自由に入ることや自由に出ることができない者もいる。自由に出ることができても、自由にとどまることや自由に入ることができない者もいる。自由に入ることと自由にとどまることができても、自由に出ることができない者もいる。自由にとどまることと自由に出ることができても、自由に入ることができない者もいる。

是諸菩薩能三種自在，故言「遊戲出生百千三昧」。

> それらの菩薩たちは、三つの自在の力を備えているため、「百千もの三昧を自在に生み出す」と言われているのです。

【經】

> お経

諸菩薩如是等無量功德成就。

> 諸菩薩は、このような無量の功徳を成就しておられます。

【論】

> 【論】 論とは、心を

是諸菩薩共佛住，欲讚其功德，無量億劫不可得盡。以是故言「無量功德成就」。

> これらの菩薩たちは仏と共にあり、その功徳を讃えようとしても、無量億劫の時間をかけても尽くすことはできません。したがって、「無量の功徳が成就した」と言われるのです。

【經】

> お経

其名曰：颰陀婆羅菩薩秦言善守、剌那伽羅菩薩秦言寶積、導師菩薩、那羅達菩薩、星得菩薩、水天菩薩、主天菩薩、大意菩薩、益意菩薩、增意菩薩、不虛見菩薩、善進菩薩、勢勝菩薩、常勤菩薩、不捨精進菩薩、日藏菩薩、不缺意菩薩、觀世音菩薩、文殊尸利菩薩秦言妙德、執寶印菩薩、常舉手菩薩、彌勒菩薩，如是等無量千萬億那由他諸菩薩摩訶薩，皆是補處紹尊位者。

> その名は、颰陀婆羅菩薩（秦の言葉で「善く守る」という）、剌那伽羅菩薩（秦の言葉で「宝を積む」という）、導師菩薩、那羅達菩薩、星得菩薩、水天菩薩、主天菩薩、大意菩薩、益意菩薩、増意菩薩、不虚見菩薩、善進菩薩、勢勝菩薩、常勤菩薩、不捨精進菩薩、日蔵菩薩、不缺意菩薩、観世音菩薩、文殊尸利菩薩（秦の言葉で「妙なる徳」という）、執宝印菩薩、常挙手菩薩、弥勒菩薩など、無量千万億那由他の菩薩摩訶薩たちです。これらの方々は皆、次の仏の位を継ぐ補処の菩薩なのです。

【論】

> 【論】 論とは、心を

如是等諸菩薩，共佛住王舍城耆闍崛山中。

> このような多くの菩薩たちは、仏と共に王舎城の耆闍崛山（ぎじゃくっせん）に滞在していました。

問曰：

> お尋ねします。

如是菩薩眾多，何以獨說二十二菩薩名？

> 多くの菩薩がいるのに、なぜ特に二十二菩薩の名だけを挙げるのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

諸菩薩無量千萬億，說不可盡，若都說者，文字所不能載。

> あらゆる菩薩たちは、無量無数の千万億もの数が存在し、そのすべてを言葉で尽くすことはできません。もし全てを語ろうとすれば、どんな文字も書き記すことはできないでしょう。

復次，是中二種菩薩：居家、出家。

> 次に、ここには二種類の菩薩がいる。在家の者と出家の者である。

善守等十六菩薩，是居家菩薩；颰陀婆羅居士菩薩，是王舍城舊人；寶積王子菩薩，是毘耶離國人；星得長者子菩薩，是瞻波國人；導師居士菩薩，是舍婆提國人；那羅達婆羅門菩薩，是彌梯羅國人；水天優婆塞菩薩。

> 善守など十六の菩薩は在家（ざいけ）の菩薩です。颰陀婆羅（はつだばら）居士（こじ）菩薩は王舎城（おうしゃじょう）の旧家（きゅうか）に生まれた方です。宝積（ほうしゃく）王子菩薩は毘耶離国（びやりこく）の方です。星得（せいとく）長者子（ちょうじゃし）菩薩は瞻波国（せんぱこく）の方です。導師（どうし）居士菩薩は舎婆提国（しゃばだいこく）の方です。那羅達（ならたつ）婆羅門（ばらもん）菩薩は弥梯羅国（みたいらこく）の方です。水天（すいてん）優婆塞（うばそく）菩薩は——。

慈氏、妙德菩薩等，是出家菩薩。

> 弥勒菩薩や文殊菩薩などは、出家の菩薩です。

觀世音菩薩等，從他方佛土來。

> 観世音菩薩たちが、他の仏の国からやって来ました。

若說居家，攝一切居家菩薩；出家、他方亦如是。

> もし在家の話をするなら、あらゆる在家の菩薩たちを含むものとする。出家や他方の場合も同様である。

問曰：

> お尋ねします。

善守菩薩有何殊勝，最在前說？若最大在前，應說遍吉、觀世音、得大勢菩薩等；若最小在前，應說肉身初發意菩薩等。

> 善守菩薩にどのような特別な功徳があって、最も前に説かれたのでしょうか。もし最も優れた者が前に置かれるのなら、普賢菩薩や観世音菩薩、大勢至菩薩などが前に説かれるべきです。もし最も位の低い者が前に置かれるのなら、まだ悟りを開いていない初心の菩薩たちが前に説かれるべきです。

答曰：

> お答えしますと、

不以大，不以小，以善守菩薩是王舍城舊人，白衣菩薩中最大。佛在王舍城欲說般若波羅蜜，以是故最在前說。

> 大乗も小乗も問わず、善き守り手である菩薩は、この王舎城の旧くからの住人で、在家の菩薩の中でも最も優れています。仏が王舎城で般若波羅蜜を説こうとされた時、その故をもって、まず最初に彼が説かれたのです。

復次，是善守菩薩，無量種種功德，如《般舟三昧》中，佛自現前讚其功德。

> さらに、この善守菩薩は無量のさまざまな功徳を持ち、『般舟三昧経』の中でも、仏が自ら現れてその功徳を称賛している。

問曰：

> お尋ねします。

若彌勒菩薩應稱補處，諸餘菩薩何以復言「紹尊位者」？

> 弥勒菩薩が「補処の菩薩」と呼ばれるべきなら、なぜ他の菩薩たちも「仏の位を継ぐ者」と言われるのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

是諸菩薩於十方佛土皆補佛處。

> これらの菩薩たちは、十方の仏の国土すべてにおいて、仏の後を継ぐ者となるのです。