---
title: "大智度論 · 1"
description: "大智度论由古印度龙树菩萨所造，后秦时期著名译经家鸠摩罗什翻译成中文。该论是佛教重要典籍，属于大乘中观学派的核心论著，主要阐释《大品般若经》的深奥义理。全书共一百卷，系统论述了般若空性思想、菩萨修行次第以及六度万行的实践方法，被誉为大乘佛教的百科全书。作为早期大乘佛教的代表性论典，大智度论对汉传佛教思想体系的形成影响深远，尤其为天台宗、华严宗等宗派提供了重要理论依据，在佛教哲学史上占据崇高地位。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cma8zpoak0gxkib04uypilmtn"
---

### 大智度初品中放光釋論第十四

> 大智度初品 放光 釈論 第十四

【經】

> お経

爾時，世尊自敷師子座，結加趺坐，直身繫念在前，入三昧王三昧，一切三昧悉入其中。

> その時、世尊みずから獅子座を整え、結跏趺坐（けっかふざ）の姿勢をとられた。背筋を伸ばし、心を現在の瞬間に集中させて、三昧王三昧（さんまいおうざんまい）に入られた。その中には、あらゆる三昧がすべて含まれていた。

【論】

> 【論】 論とは、心を

問曰：

> お尋ねします。

佛有侍者及諸菩薩，何以故自敷師子座？

> 仏にはお世話をする者や多くの菩薩たちがいるのに、なぜご自身で獅子座をお敷きになったのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

此是佛所化成，欲以可適大眾，以是故，阿難不能得敷。

> これは仏が変化によって作り出したもので、大勢の皆さんに適応させようとされたものです。そのため、阿難よ、あなたがそれを整えることはできなかったのです。

復次，佛心化作，故言「自敷」。

> さらに、仏の心が変化して現れたものであるから、「自ら敷く」と言うのである。

問曰：

> お尋ねします。

何以名「師子座」？為佛化作師子，為實師子來，為金銀木石作師子耶？又師子非善獸故，佛所不須，亦無因緣故，不應來！

> なぜ「師子座」と名づけるのか？仏が師子に化けたのか、実際の師子が来たのか、それとも金・銀・木・石で師子を作ったのか？そもそも師子は善い獣ではないので、仏には必要ない。また、来るべき因縁もないので、師子が現れるはずはない。

答曰：

> お答えしますと、

是號名「師子」，非實師子也。佛為人中師子，佛所坐處若床若地，皆名「師子座」。譬如今者國王坐處，亦名師子座。

> 「師子」という名は使われていますが、実際のライオンという意味ではありません。仏陀は人間の中の師子（獅子）のような存在であり、仏陀が坐る場所――それが寝台であれ地面であれ――すべてを「師子座」と呼びます。たとえば、現代の国王が坐る場所も師子座と呼ばれるのと同じです。

復次，王呼健人，亦名人師子；人稱國王，亦名人師子。又如師子，四足獸中獨步無畏，能伏一切；佛亦如是，於九十六種道中一切降伏無畏故，名人師子。

> また、王様は「人師子（じんしし）」とも呼ばれます。人々が国王を「人師子」と称するのも同じです。獅子は四つ足の獣の中で、ひとり歩み、何も恐れず、すべてを従わせることができます。仏もまた、九十六種の教えの中で、すべてを降伏させ、恐れることがないので、「人師子」と呼ばれるのです。

問曰：

> お尋ねします。

多有坐法，佛何以故唯用結加趺坐？

> 多くの坐法があるのに、なぜ仏は特に結跏趺坐（けっかふざ）を用いるのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

諸坐法中結加趺坐最安隱，不疲極；此是坐禪人坐法，攝持手足，心亦不散；又於一切四種身儀中，最安隱。

> 様々な座り方の中で、結跏趺坐（両足を組んで坐る方法）が最も安定しており、疲れにくいのです。これは坐禅を修める人の坐法であり、手足を整えて心も散乱しません。また、四種類の身体の姿勢（行・住・坐・臥）の中でも、最も安らかで確かな坐り方なのです。

此是禪坐取道法坐，魔王見之，其心憂怖。

> これは、坐禅によって道を求める者の坐法である。魔の王はこれを見て、その心に憂いと恐れを抱く。

如是坐者，出家人法，在林樹下結加趺坐，眾人見之皆大歡喜，知此道人必當取道。如偈說：

> このように座るということは、出家者の作法である。林の木の下で結跏趺坐を組めば、それを見た人々は皆、大いに喜び、「この修行者は必ずや悟りを得るであろう」と知るのである。偈に説かれた通りである。

「若結加趺坐， 身安入三昧；威德人敬仰， 如日照天下。除睡嬾覆心， 身輕不疲懈；覺悟亦輕便， 安坐如龍蟠。見畫加趺坐， 魔王亦愁怖，何況入道人， 安坐不傾動。」

> もし、足を組んで坐ることができれば、 身体は安らかに三昧に入る。 その威徳ある姿は人々の敬うところとなり、 あたかも太陽が世界を照らすようである。 眠気や怠惰が心を覆うことなく、 身体は軽く、疲れも怠けもない。 目覚めもまた軽やかで、 龍がとぐろを巻くように安らかに坐る。 絵に描かれた結跏趺坐の姿を見るだけでも、 魔王でさえも恐れおののく。 ましてや道に入りて、安らかに坐り動じない者においてはなおさらである。

以是故，結加趺坐。

> ですから、足を組んで座るのです。

復次，佛教弟子應如是坐。有外道輩，或常翹足求道、或常立、或荷足——如是狂狷，心沒邪海，形不安隱；以是故，佛教弟子結加趺直身坐。何以故直身？心易正故，其身直坐則心不嬾；端心正意，繫念在前。若心馳散，攝之令還。欲入三昧故，種種馳念皆亦攝之；如此繫念，入三昧王三昧。

> さらに、仏の弟子たちはこのように坐るべきである。外道の中には、常につま先立ちで道を求めたり、常に立っていたり、脚を組んで座ったりする者もいる。このような行き過ぎた振る舞いは、心を邪見の海に沈め、身体を不安定にする。そのため、仏は弟子たちに結跏趺坐（けっかふざ）で背筋を伸ばして坐るよう教えられたのである。なぜ背筋を伸ばすのか。心を正しくしやすくするためである。背筋を伸ばして坐れば、心がだらけず、心を整え、意識を前方に集中させることができる。もし心が散り散りになれば、それを捉えて元の状態に戻す。三昧に入ろうとするなら、様々な散り散りの思いもすべて捉え戻すのである。このように心を一つの対象に留めることで、三昧王三昧に入ることができるのである。

云何名「三昧王三昧」？是三昧於諸三昧中最第一自在，能緣無量諸法。如諸人中王第一，王中轉輪聖王第一，一切天上天下佛第一；此三昧亦如是，於諸三昧中最第一。

> 三昧王三昧とは何でしょうか。この三昧は、あらゆる三昧の中で最も優れ、自在であり、無量のあらゆる法を対象とすることができます。たとえば、人々の中では王が第一であり、王の中では転輪聖王が第一であり、あらゆる天や人のうちでは仏が第一であるのと同じように、この三昧もまた、あらゆる三昧の中で最も第一なのです。

問曰：

> お尋ねします。

若以佛力故，一切三昧皆應第一，何以故獨稱三昧王為第一？

> たとえ仏の力によるとしても、すべての三昧はそれぞれに第一であるべきです。それなのに、なぜ「三昧王」だけが第一と称されるのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

雖應以佛神力故，佛所行諸三昧皆第一，然諸法中應有差降。如轉輪聖王眾寶，雖勝一切諸王寶，然此珍寶中自有差別，貴賤懸殊。

> たとえ仏の神通力によって、仏が修行されるあらゆる三昧はすべて最上のものとなり得ても、諸々の教えの間には、やはり優劣の違いがあるべきです。それはちょうど、転輪聖王が持つすべての宝が、他のあらゆる王たちの宝よりも優れているとはいえ、その宝の中にも自ずと貴賤の差があり、価値に大きな隔たりがあるのと同じです。

是三昧王三昧，何定攝？何等相？

> この三昧王三昧は、どのような定に含まれ、どのような特徴を持つのか。

有人言：三昧王三昧名為自在相，善五眾攝，在第四禪中。何以故？

> ある人は言う： 「三昧王三昧は自在の相と名づけられ、善の五蘊に含まれ、第四禅にある。それはなぜか。」

一切諸佛於第四禪中行見諦道，得阿那含，即時十八心中得佛道。

> すべての仏陀は第四禅において真理を見極める修行（見諦道）を行い、阿那含の境地に達し、その瞬間の十八心の中で仏道を成就します。

在第四禪中捨壽，於第四禪中起，入無餘涅槃。

> 第四禅において命を終え、第四禅から立ち上がって、無余涅槃に入る。

第四禪中有八生住處。

> 第四禅には、八つの生まれる場所がある。

背捨、勝處、一切入多在第四禪中。

> 「背捨」「勝處」「一切入」の修行は、すべて第四禅の境地において行われます。

第四禪名不動，無遮禪定法。欲界中諸欲遮禪定心，初禪中覺觀心動，二禪中大喜動，三禪中大樂動，四禪中無動。

> 第四禅は「動なきもの」と呼ばれ、妨げるもののない禅定の境地です。 欲界では様々な欲望が禅定の心を妨げ、初禅では「覚」と「観」という心の動きがあり、二禅では大きな喜びが心を揺さぶり、三禅では大きな楽しさが心を動かしますが、第四禅にはそのような動きは全くありません。

復次，初禪火所燒，二禪水所及，三禪風所至，四禪無此三患；無出入息，捨念清淨。

> さらに、初禅は火に焼かれ、二禅は水に及ぼされ、三禅は風に至らされますが、四禅にはこれら三つの苦しみがありません。また、出入りの呼吸もなく、執着を捨てて心が清らかです。

以是故，三昧王三昧應在第四禪中，如好寶物置之好藏。

> そのため、三昧王三昧は第四禅の中に位置づけられるべきです。まるで良い宝を良い蔵に納めるように。

更有人言：佛三昧誰能知其相？一切諸佛法，一相無相，無量、無數、不可思議。諸餘三昧尚不可量、不可數、不可思議，何況三昧王三昧！如此三昧，唯佛能知。如佛神足、持戒尚不可知，何況三昧王三昧！

> さらに「仏の三昧（さんまい）の相（すがた）を、誰が知ることができようか。すべての仏の教えは一つの相であり、相なきものであり、限りがなく、数えきれず、思いはかることさえできない。他の様々な三昧でさえ、量ることも数えることも思いはかることもできない。ましてや三昧王三昧（おうざんまい）はなおさらである。このような三昧は、仏のみが知ることができる。仏の神通力や戒律でさえ、知ることができない。ましてや三昧王三昧はなおさらである」と言う人がいる。

復次，三昧王三昧，諸一切三昧皆入其中故，名三昧王三昧。譬如閻浮提眾川萬流皆入大海，亦如一切民人皆屬國王。

> さらに、三昧の王たる三昧について。あらゆる三昧はこの三昧の中に収まることから、これを三昧王三昧と名づける。たとえば、閻浮提の無数の川や流れがすべて大海に注ぐように、またすべての民が国王に属するかの如くである。

問曰：

> お尋ねします。

佛一切智無所不知，何以故入此三昧王三昧，然後能知？

> 仏陀は一切智を得て何も知らないことはないのに、なぜこの三昧王三昧に入って初めて知ることができるのでしょうか？

答曰：

> お答えしますと、

欲明智慧從因緣生故，止外道六師輩言「我等智慧一切時常有、常知」故。以是故言「佛入三昧王三昧故知，不入則不知。」

> 智慧は因緣によって生じるものであることを明らかにしたいがゆえに、外道の六師たちが「我々の智慧は常にあり、常に知っている」と主張するのを止めさせるためである。そのため、「仏は三昧王三昧に入ることによって知り、入らなければ知らない」と説かれたのである。

問曰：

> お尋ねします。

若如是者，佛力減劣！

> そうであれば、仏の力は劣ってしまうではありませんか！

答曰：

> お答えしますと、

入是三昧王三昧時，不以為難，應念即得；非如聲聞、辟支佛、諸小菩薩方便求入。

> この三昧王三昧に入ろうとする時、難しいと思う必要はなく、思ったその瞬間に得られます。声聞や独覚、あるいは小さな菩薩たちが方便を使って入ろうとするのとは異なるのです。

復次，入是三昧王三昧中，令六神通通徹十方，無限無量。

> さらに、この三昧王三昧に入ると、六神通が十方の世界に通じ、限りもなく計り知れないものとなります。

復次，佛入三昧王三昧，種種變化現大神力。若不入三昧王三昧而現神力者，有人心念：「佛用幻力、呪術力，或是大力龍神力，或是天，非是人。何以故？一身出無量身，種種光明變化故，謂為非人。」斷此疑故，佛入三昧王三昧。

> さらに、仏は三昧王三昧に入り、さまざまな変化によって大いなる神力を現わされました。もし三昧王三昧に入らずに神力（神通力）を現したならば、「仏は幻術や呪術の力を使っているのではないか」とか、「あるいは大力の龍神の力、あるいは天人の力であって、人間ではないのではないか。なぜなら、一身から無数の身を出し、さまざまな光明や変化を現すからだ」と疑う人がいるでしょう。 この疑いを断ち切るために、仏は三昧王三昧に入られたのです。

復次，佛若入餘三昧中，諸天、聲聞、辟支佛或能測知；雖言佛神力大而猶可知，敬心不重。以是故，入三昧王三昧中，一切諸眾聖，乃至十住菩薩不能測知，不知佛心何所依、何所緣。以是故，佛入三昧王三昧。

> さらに、仏が他の三昧に入るときには、天や声聞、辟支仏たちもその内容をある程度推し量ることができます。仏の神力が非常に大きいとは言っても、まだ理解できる部分があるため、人々の敬いの心もそれほど深くはなりません。そのため、仏は三昧王三昧に入られます。この三昧の中では、一切の聖者たち、たとえ十住の菩薩でさえも、仏の心が何に依り、何を縁としているのかを測り知ることができません。故に、仏は三昧王三昧に入られるのです。

復次，佛有時放大光明，現大神力：如生時、得道時、初轉法輪時、諸天聖人大集會時、若破外道時，皆放大光明。今欲現其殊特故，放大光明，令十方一切天人眾生及諸阿羅漢、辟支佛、菩薩皆得見知。以是故，入三昧王三昧。

> さらに、仏は時に大いなる光明を放ち、神通力を現される。例えば、誕生の時、悟りを開かれた時、初めて法輪を転じられた時、諸天や聖人が大集会を開かれた時、外道を打ち破られた時など、いずれも大光明を放たれたのである。今、その特別なはたらきを示そうとして、大光明を放ち、十方のあらゆる天、人、衆生、そして阿羅漢・辟支仏（びゃくしぶつ）・菩薩たちにも、それを見聞きさせるのである。そのために、三昧王三昧に入られるのである。

復次，光明神力有下、中、上：呪術、幻術能作光明變化，下也；諸天龍神報得光明神力，中也；入諸三昧，以今世功德心力，放大光明現大神力，上也。以是故，佛入三昧王三昧。

> さらに、光明の神力には下・中・上の三つがある。呪術や幻術で光を放ち変化を起こすのは下である。天や龍神が業報として得る光明の神力は中である。そして、さまざまな三昧に入り、この世での功徳と心の力によって大いなる光を放ち大神力を現すのが上である。ゆえに、仏は三昧王三昧に入られるのである。

問曰：

> お尋ねします。

如諸三昧各各相，云何一切三昧悉入其中？

> あらゆる禅定にはそれぞれ異なる特徴があるのに、なぜすべての禅定がその中に含まれるのでしょうか？

答曰：

> お答えしますと、

得是三昧王三昧時，一切三昧悉得，故言「悉入其中」。是三昧力故，一切諸三昧皆得，無量無數，不可思議。以是故名為「入」。

> 三昧王の三昧を得るとき、あらゆる三昧がことごとく得られる。だから「その中に全て入る」と言う。この三昧の力によって、無量無数、不可思議な一切の諸三昧が得られる。ゆえにこれを「入る」と名付けるのである。

復次，入是三昧王三昧中，一切三昧欲入即入。

> さらに、この三昧王三昧に入っているときは、あらゆる三昧に、入ろうと思えばすぐに入ることができる。

復次，入是三昧王三昧，能觀一切三昧相，如山上觀下。

> さらに、この三昧王三昧に入ると、あらゆる三昧の相を観察することができます。それはちょうど、高い山の上から下の景色を見渡すようなものです。

復次，佛入是三昧王三昧中，能觀一切十方世界，亦能觀一切眾生。

> さらに、仏がこの三昧王三昧に入るとき、あらゆる十方の世界を観ることができ、またすべての衆生を観ることもできるのです。

以是故，入三昧王三昧。

> そのため、三昧王三昧に入るのです。

【經】

> お経

爾時，世尊從三昧安庠而起，以天眼觀視世界，舉身微笑。

> そのとき、世尊は静かに瞑想から覚め、天の目で世界を見渡し、全身に微笑みを浮かべられた。

【論】

> 【論】 論とは、心を

問曰：

> お尋ねします。

云何世尊入三昧王三昧無所施作，而從定起觀視世界？

> 世尊がどのようにして三昧王三昧に入り、何も施されることなく、その定から起き上がって世界をご覧になるのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

佛入是三昧王三昧，一切佛法寶藏悉開悉看。是三昧王三昧中觀已，自念：「我此法藏無量無數，不可思議！」然後從三昧安庠而起，以天眼觀眾生，知眾生貧苦。此法藏者從因緣得，一切眾生皆亦可得，但坐癡冥，不求不索。以是故，舉身微笑。

> 仏がこの三昧王三昧に入られた時、すべての仏法の宝庫が開かれ、その中身が明らかになりました。この三昧王三昧において観察した後、自らこう思われました。「私のこの法の宝蔵は無量無数、思いもよらないものである！」そして、三昧から優雅に立ち上がられ、天眼をもって衆生をご覧になりました。すると、衆生が貧しく苦しんでいることを知られました。この法の宝蔵は因縁によって得られるものであり、すべての衆生もまた得ることができるのです。ただ、無明の闇に惑わされて、求めようとせず、探そうとしないだけなのです。そのために、全身に微笑みを浮かべられたのです。

問曰：

> お尋ねします。

佛有佛眼、慧眼、法眼，勝於天眼，何以用天眼觀視世界？

> 仏には仏眼、慧眼、法眼という、天眼より優れた眼がある。それなのに、なぜ天眼を使って世界を見るのか？

答曰：

> お答えしますと、

肉眼所見不遍故；慧眼知諸法實相；法眼見是人以何方便、行何法得道；佛眼名一切法現前了了知。

> 肉眼ではすべてを見渡すことができません。慧眼はすべてのものごとの真実の姿を悟ります。法眼は、その人がどのような方法で、どのような教えを実践して悟りに至るかを見極めます。仏眼とは、あらゆる事柄をありのままにはっきりと見通すことをいいます。

今天眼緣世界及眾生，無障無礙，餘眼不爾。慧眼、法眼、佛眼雖勝，非見眾生法；欲見眾生，唯以二眼：肉眼、天眼。以肉眼不遍，有所障故，用天眼觀。

> 今日、肉眼は世界や衆生を見渡すのに、障りなく妨げがない。他の眼はそうではない。慧眼、法眼、仏眼は優れてはいるが、それらは衆生を見るためのものではない。衆生を見ようとするなら、ただ二つの眼を用いる。すなわち肉眼と天眼である。肉眼はすべてを見渡せず、障りがあるため、天眼を用いて観察するのである。

問曰：

> お尋ねします。

今是眼在佛，何以名為「天眼」？

> ただいま、あなたのその眼は仏そのものです。それなのに、なぜ「天眼」と呼ぶのでしょうか？

答曰：

> お答えしますと、

此眼多在天中，天眼所見，不礙山壁樹木。若人精進、持戒、禪定行力得，非是生分。以是故，名為天眼。

> この天眼は、天の世界に多く存在します。天眼が見るものは、山や壁、木々などの障害に妨げられることがありません。 もし人が努力し、戒律を守り、静かに心を集中する修行を積めば、この天眼を得ることができます。生まれながらに備わっているものではありません。 そのため、これを「天眼」と呼ぶのです。

復次，人多貴天，以天為主，佛隨人心，以是故名為天眼。

> さらに、人々は天を尊び、天を主とします。仏は人の心に随って、そのため天眼と名づけられたのです。

復次，天有三種：名天、生天、淨天。

> さらに、天には三つの種類があります。すなわち、名天、生天、浄天です。

名天：天王、天子是也。

> 名天とは、すなわち天の王や天の子のことです。

生天：釋、梵諸天是也。

> 天に生まれるとは、釈尊や梵天などの天人のことを指します。

淨天：佛、辟支佛、阿羅漢是也。

> 浄天とは、仏、辟支仏（縁覚）、阿羅漢のことです。

淨天中尊者是佛，今言「天眼」，亦無咎也。

> 清らかな天の世界における尊者は仏であり、ここで「天眼」と言っても、誤りはありません。

「天眼觀視世界」者，以世界眾生常求安樂而更得苦；心著吾我，是中實無吾我。眾生常畏苦而常行苦，如盲人求好道，反墮深坑。

> 「天眼で世界を見る」とは、世界の衆生が常に安楽を求めているのに、かえって苦しみを得ている様を指す。心は「我」に執着するが、そこには実際には「我」など存在しない。衆生は苦しみを恐れながらも、絶えず苦しみを積み重ねている。それは盲人が良い道を求めて、かえって深い穴に落ちてしまうようなものだ。

如是等種種觀已，舉身微笑。

> このように様々な観察を終えた後、その全身にほほえみが広がりました。

問曰：

> お尋ねします。

笑從口生，或時眼笑，今云何言「一切身笑」？

> 笑いは口から生じるものだ。あるいは時には目で笑うこともある。それなのに、なぜ「全身で笑う」と言うのか？

答曰：

> お答えしますと、

佛，世界中尊，得自在，能令一切身如口、如眼，故皆能笑。

> 仏は世界における至尊であり、自在の境地を得ておられます。そのため、一切の身を口や目のように自在に働かせ、すべてにおいて微笑みを示すことができるのです。

復次，一切毛孔皆開，故名為笑；由口笑歡喜故，一切毛孔皆開。

> さらに、すべての毛穴が開かれることを、笑いといいます。口元に笑みが浮かび喜びがあるからこそ、すべての毛穴が開かれるのです。

問曰：

> お尋ねします。

佛至尊重，何以故笑？

> 仏様は最も尊い存在であるにもかかわらず、なぜお笑いになるのですか。

答曰：

> お答えしますと、

如大地，不以無事及小因緣而動；佛亦如是，若無事及小因緣則不笑，今大因緣故一切身笑。云何為大？佛欲說摩訶般若波羅蜜，無央數眾生當續佛種，是為大因緣。

> 大地は、つまらない理由や小さな出来事では動きません。仏様も同じです。些細な理由や取るに足らない出来事ではお笑いになりません。今、すべての身が笑われたのは、大きな理由があるからです。その大きな理由とは何でしょうか。仏様が「摩訶般若波羅蜜（マカハンニャハラミツ）」を説かれようとしており、数え切れないほどの多くの人々が、仏様の教えの種を未来に受け継いでいくことになるからです。これこそが、まさに大きな理由なのです。

復次，佛言：「我世世曾作小虫、惡人，漸漸集諸善本，得大智慧；今自致作佛，神力無量最上最大。一切眾生亦可得爾，云何空受勤苦而墮小處？」以是故笑。

> さらに、仏は言われた。「私は何世にもわたって、小さな虫や悪人でありながら、少しずつ善い行いを積み重ねて、大きな智慧を得た。その結果、今や自ら仏となり、無限の力を持つ最も尊く、最も偉大な存在となった。すべての生きとし生けるものも、同じようにできるのだ。それなのに、どうして無駄に苦しみを受け、小さな境地に落ちてしまうのだろうか？」そのため、私は微笑まれたのである。

復次，有小因大果、小緣大報。如求佛道，讚一偈、一稱南無佛、燒一捻香，必得作佛；何況聞知諸法實不生不滅、不不生不不滅，而行因緣業亦不失！以是事故笑。

> さらに、小さな原因が大きな結果を生み、小さな縁が大きな報いをもたらすことがあります。例えば、仏道を求めて一つの偈を讃えたり、一度「南無仏」と唱えたり、一握りの香を焚いたりするだけで、必ず仏となることができます。ましてや、諸法が実に生まれもせず滅びもせず、不生不滅でもなく、不不生不滅でもないと知りながら、因縁の業も失われることがないと理解するならば、なおさらです。このような理由で、仏は微笑まれたのです。

復次，般若波羅蜜相，清淨如虛空，不可與，不可取。佛種種方便，光明神德，欲教化一切眾生令心調柔，然後能信受般若波羅蜜。以是故，因笑放光。

> さらに、般若波羅蜜の本質は、虚空のように清らかであり、与えることも、受け取ることもできません。仏は様々な方便と光明の神徳を用いて、すべての衆生を教え導き、心を穏やかに整えさせようとされます。そうして初めて、彼らは般若波羅蜜を信じ受け入れることができるのです。そのため、仏は微笑みとともに光を放たれたのです。

笑有種種因緣：有人歡喜而笑，有人瞋恚而笑，有輕人而笑，有見異事而笑，有見可羞恥事而笑，有見殊方異俗而笑，有見希有難事而笑。

> 笑いにも様々な理由があります。喜びから笑う人もいれば、怒りから笑う人もいます。人を軽んじて笑う者、珍しい出来事に笑う者、恥ずべきことに笑う者、遠くの異なる習慣に笑う者、そして稀有で難しいことに笑う者もいるのです。

今是第一希有難事：諸法相，不生不滅，真空無字無名，無言無說；而欲作名立字，為眾生說令得解脫，是第一難事。譬如百由旬大火聚，有人負乾草入火中過，不燒一葉，是甚為難。佛亦如是，持八萬法眾名字草，入諸法實相中，不為染著火所燒，直過無礙，是為甚難，以是難事故笑。

> これは、まさに第一の稀有にして難しいことです。 あらゆる現象の本質は、生まれもせず滅びもせず、真実の姿は文字も名もなく、言葉で語ることもできません。そのようなものを、あえて名付け、言葉にして、人々に説いて悟りへ導くこと、これが第一の難しいことなのです。 例えば、百由旬にもわたる大火の塊があるとします。その中を、ある人が乾いた草を背負って通り抜け、葉っぱ一枚も焼けずに済ませる。これは非常に難しいことです。 仏様もまた、これと同じです。八万もの教えの名前や言葉という草を携えながら、あらゆる現象の真実の姿という火の中に入っても、執着の火に焼かれることなく、何の妨碍もなくまっすぐに通り抜ける。これこそが非常に難しいことです。 この難しいことを成し遂げられたからこそ、仏様はお笑いになったのです。

如是種種希有難事故，舉身微笑。

> このように様々な滅多にない素晴らしい出来事があるため、仏様は全身で微笑まれました。

【經】

> お経

從足下千輻相輪中，放六百萬億光明。

> 足の下の千輻相輪から、六百万億の光明が放たれました。

【論】

> 【論】 論とは、心を

問曰：

> お尋ねします。

佛何以故先放身光？

> なぜ仏はまず身体の光明を放たれたのでしょうか？

答曰：

> お答えしますと、

上笑因緣中已答，今當更說。有人見佛無量身，放大光明，心信清淨恭敬故，知非常人。

> 笑いの因縁については既に答えた。今、さらに詳しく説こう。 ある人が仏の無量の姿を見、大いなる光明を放つさまを目にした。その心に清らかな信仰と敬いの念が生じたゆえに、決して凡庸な人ではないと知るのである。

復次，佛欲現智慧光明神相故，先出身光，眾生知佛身光既現，智慧光明亦應當出。

> 次に、仏は智慧の光明という神々しい姿を示そうとして、まず身体から光を放たれました。そうすることで、衆生は仏の身体の光が既に現れたなら、智慧の光明もまた現れるはずだと知るのです。

復次，一切眾生常著欲樂，五欲中第一者色；見此妙光，心必愛著，捨本所樂；令其心漸離欲，然後為說智慧。

> さらに、すべての生きとし生けるものは、常に欲望の快楽に執着しています。五つの欲望の中で最も強力なのは「色」への執着です。この美しい光を目にすれば、心は必ず愛着し、本来の楽しみを捨ててしまうでしょう。しかし、その光によって徐々に心を欲望から遠ざけ、その後で智慧について説き示すのです。

問曰：

> お尋ねします。

其餘天人亦能放光，佛放光明有何等異？

> 他の天人の者も光を放つことができますが、仏さまの放つ光には、どのような特別な点があるのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

諸天人雖能放光，有限有量；日月所照，唯四天下；佛放光明，滿三千大千世界，三千大千世界中出，遍至下方。餘人光明，唯能令人歡喜而已；佛放光明，能令一切聞法得度，以是為異。

> あらゆる天人は光を放つことができますが、それは限られた範囲にすぎません。太陽や月の光も、世界の四方を照らすだけです。しかし、仏陀の放つ光は、三千大千世界全体を満たし、さらにその外にも届き、下の世界にまで及ぶのです。 他の者の光は、人々を喜ばせるだけのものですが、仏陀の光は、すべての者が教えを聞いて悟りを得ることを可能にします。これが仏陀の光と他者の光との違いです。

問曰：

> お尋ねします。

如一身中，頭為最上，何以故先從足下放光？

> 一つの体の中で、頭が最も尊い位置にあるのに、なぜ最初に足の裏から光を放ったのでしょうか？

答曰：

> お答えしますと、

身得住處，皆由於足。

> 身体の安定は、すべて足にあります。

復次，一身中雖頭貴而足賤，佛不自貴光，不為利養，以是故於賤處放光。

> また、一つの身体の中では頭が尊く足は賤しいとされますが、仏は自らの光を尊ぶことなく、利益や供養のためにその光を用いることはありません。それゆえに、賤しい場所からも光を放たれるのです。

復次，諸龍、大蛇、鬼神，從口中出光，毒害前物；若佛口放光明，眾生怖畏，是何大光！復恐被害，是故從足下放光。

> また、竜や大蛇、鬼神たちが口から光を放ち、前にいる者を毒で害することがあります。もし仏が口から光明を放てば、眾生は恐れ畏れ、「これは何という大いなる光であろうか！」と驚き、害されるのではと再び恐れるでしょう。そのため、仏は足の下から光を放たれるのです。

問曰：

> お尋ねします。

足下六百萬億光明，乃至肉髻，是皆可數；三千大千世界尚不可滿，何況十方！

> 足元の六百萬億もの光明から、頭頂の肉髻に至るまで、それらはすべて数えられるものです。しかし、三千大千世界でさえ、その光明で満たすことはできません。ましてや十方の世界ではなおさらのことです。

答曰：

> お答えしますと、

此身光是諸光之本，從本，枝流無量無數。譬如迦羅求羅虫，其身微細，得風轉大，乃至能吞食一切；光明亦如是，得可度眾生轉增無限。

> この身の光は、あらゆる光のもとであり、その根本から無数の光が枝分かれして流れ出るのです。例えるなら、ガロジュラ虫（※）のようなもので、その体はごく小さくとも風を受けると大きくなり、ついにはすべてを飲み込めるようになります。光もこれと同じで、教えを受け入れられる人に出会えば、限りなく増大していくのです。 （※）インド神話に登場する巨大な虫。初めは極小だが風に乗って巨大化するとされる。

【經】

> お経

足十指、兩踝、兩𨄔、兩膝、兩髀、腰、脊、腹、背、臍、心、胸德字、肩、臂、手十指、項、口、四十齒、鼻兩孔、兩眼、兩耳、白毫相、肉髻，各各放六百萬億光明。

> 足の十本の指、両方のくるぶし、両方のすね、両方のひざ、両方のもも、腰、背骨、腹、背中、へそ、心臓、胸の徳のあらわれ、肩、腕、手の十本の指、首、口、四十本の歯、鼻の二つの穴、両目、両耳、白毫の相、肉髻。これらの一つ一つから、それぞれ六百万億の光明が放たれました。

【論】

> 【論】 論とは、心を

問曰：

> お尋ねします。

足下光明能照三千大千及十方世界，何用身分各各放六百萬億光明？

> あなたの足の下から放たれる光明は、三千大千世界と十方世界を照らすことができます。それならば、なぜ身体の各部分がそれぞれ六百万億もの光を放つ必要があるのですか？

答曰：

> お答えしますと、

我先言足下光明照下方，餘方不滿，是故更放身分光明。

> まず、私は足の下の光明で下方を照らしましたが、他の方角には十分に行き渡りませんでした。そこで、さらに全身の光明を放ったのです。

有人言：一切身分，足為立處故最大，餘不爾；是故佛初放足下六百萬億光明以示眾生。如三十二相中初種足下安住相，一切身分皆有神力。

> ある人が言うには、「すべての身体の部位の中で、足は身体を支える場所であるゆえに最も大きく、他の部位はそうではない。ゆえに仏は初めに足の下から六百萬億の光明を放って、衆生に示したのである。三十二相の中でも、初めに足下安住の相を修めるように、すべての身体の部位には神通力が備わっている。」

問曰：

> お尋ねします。

依何三昧、依何神通、何禪定中放此光明？

> どのような三昧（サマーディ）に基づき、どのような神通（超自然的な力）によって、またどのような禅定（瞑想の境地）の中で、この光を放ったのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

三昧王三昧中放此光明，六通中如意通、四禪中第四禪放此光明。第四禪中火勝處、火一切入，此中放光明。

> 三昧王三昧の中から、この光を放つ。 六通の中では如意通、四禅の中では第四禅がこの光を放つ。 第四禅の中では、火勝処、火一切入が、この中から光を放つ。

復次，佛初生時、初成佛時、初轉法輪時皆放無量光明滿十方，何況說摩訶般若波羅蜜時而不放光？譬如轉輪聖王珠寶，常有光明照王軍眾，四邊各一由旬；佛亦如是，眾生緣故，若不入三昧，恒放常光。何以故？佛眾法寶成故。

> また、仏が初めて生まれた時、初めて悟りを開かれた時、初めて法輪を回された時も、限りない光明を放って十方の世界を満たされました。ましてや、摩訶般若波羅蜜を説かれる時に、光明を放たれないことがありましょうか。例えて言えば、転輪聖王の宝珠は常に光明を放ち、王の軍勢を照らし、四方にそれぞれ一由旬の範囲を照らします。仏もまた同様で、衆生の因縁により、もし三昧に入られなくても、常に光明を放ち続けておられます。なぜでしょうか。仏は、あらゆる法宝を成就しておられるからです。

【經】

> お経

從是諸光出大光明，遍照三千大千世界。從三千大千世界，遍照東方如恒河沙等諸世界，南西北方、四維、上下亦復如是。若有眾生遇斯光者，必得阿耨多羅三藐三菩提。

> その数々の光から大きな光明が放たれ、三千大千世界全体を照らし渡しました。さらに、その三千大千世界から、東方のガンジス川の砂の数ほどもあるあらゆる世界、そして南・西・北・四隅・上・下も同じように照らし渡しました。この光に出会った生きとし生けるものは、必ず無上正等覚を得ることになります。

【論】

> 【論】 論とは、心を

問曰：

> お尋ねします。

如火相上焰，水相下潤，風相傍行；是光明火氣應當上去，云何遍滿三千大千世界及十方世界？

> 火は上に向かって燃え上がり、水は下へと潤い、風は横へと流れる性質があります。この光明の火の気は本来、上へ昇るべきものなのに、どうして三千大千世界や十方の世界に満ち渡ることができるのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

光明有二種：一者火氣，二者水氣。日珠火氣，月珠水氣。火相雖焰上，而人身中火上下遍到。日火亦爾，是故夏月地水盡熱。以是故，知火不皆上。

> 光には二種類ある。一つは火の気（火性）であり、もう一つは水の気（水性）である。太陽の珠は火の気を持ち、月の珠は水の気を持つ。火の性質は上に向かって燃え上がるように見えるが、人の体内にある火は上下に行き渡る。太陽の火もまた同様である。だから夏には地面の水までもが熱くなるのだ。これによって、火がすべて上に向かうわけではないと知ることができる。

復次，是光明，佛力故，遍至十方；譬如強弓遣箭，隨所向至。

> さらに、その光明は、仏の力によって十方（あらゆる方向）に届きます。それはちょうど、強い弓から放たれた矢が、狙った先へどこまでも届くようなものです。

問曰：

> お尋ねします。

何以先照東方，南、西、北後？

> なぜまず東を照らし、その後に南、西、北を照らすのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

以日出東方為上故，佛隨眾生意，先照東方。

> 仏は、人々の心に合わせて、まず東を照らす。それは、日が東から昇るのを尊びの象徴とするからである。

復次，俱有一難。若先照南方，當言：「何以不先照東、西、北方？」若先照西方、北方亦爾。

> また、一つ難しい問題がある。もし最初に南方を照らせば、「なぜ最初に東方、西方、北方を照らさないのか」と言うだろう。もし最初に西方を照らせば、同じように言うだろう。北方の場合も同様である。

問曰：

> お尋ねします。

光明幾時當滅？

> 光明は、いつ消えるのでしょうか？

答曰：

> お答えしますと、

佛用神力欲住便住，捨神力便滅。佛光如燈，神力如脂，若佛不捨神力，光不滅也。

> 仏が神通力を使えば、その神通力が続く限りとどまり、神通力を捨てれば消え去ります。仏の光は灯明のようなもので、神通力は油のようなものです。もし仏が神通力を捨てなければ、その光は消えることはありません。

【經】

> お経

光明出過東方如恒河沙等世界，乃至十方亦復如是。

> 光明が東方の数えきれないほどの世界を照らし出し、さらに十方すべての世界にも同様に輝き渡ります。

【論】

> 【論】 論とは、心を

問曰：

> お尋ねします。

云何為三千大千世界？

> 三千大千世界とは何でしょうか？

答曰：

> お答えしますと、

佛《雜阿含》中分別說：千日、千月、千閻浮提、千衢陀尼、千欝怛羅越、千弗婆提、千須彌山、千四天王天處、千三十三天、千夜摩天、千兜率陀天、千化自在天、千他化自在天、千梵世天、千大梵天，是名小千世界，名周利。以周利千世界為一，一數至千，名二千中世界。以二千中世界為一，一數至千，名三千大千世界。初千小，二千中，第三名大千。千千重數，故名「大千」；二過復千，故言「三千」。是合集名。百億日月乃至百億大梵天，是名三千大千世界。是一時生、一時滅。

> 仏の『雑阿含経』の中で説かれている。千の日、千の月、千の閻浮提、千の衢陀尼、千の欝怛羅越、千の弗婆提、千の須弥山、千の四天王天、千の三十三天、千の夜摩天、千の兜率陀天、千の化自在天、千の他化自在天、千の梵世天、千の大梵天——これを小千世界と名づけ、周利とも呼ぶ。この周利の千世界を一つの単位とし、それを一から千まで数えたものを、二千の中世界と呼ぶ。さらに、その二千の中世界を一つの単位とし、それを一から千まで数えたものを、三千の大千世界と呼ぶ。初めの千を小、次の千を中、三番目の千を大千とする。千を重ねて数えるから「大千」といい、さらにその二つを超えて千に至るから「三千」という。これはすべてを合わせた呼び名である。百億の日月から百億の大梵天に至るまでを、三千大千世界という。これは一度に生じ、一度に滅する。

有人言：住時一劫，滅時一劫，還生時一劫。是三千大千世界，大劫亦三種破：水、火、風；小劫亦三種破：刀、病、飢。此三千大千世界在虛空中；風上水，水上地，地上人。須彌山有二天處：四天處，三十三天處。餘殘夜摩天等，福德因緣七寶地，風舉空中；乃至大梵天，皆七寶地，皆在風上。是三千大千世界光明遍照，照竟，餘光過出，照東方如恒河沙等諸世界；南西北方、四維、上下，亦復如是。

> ある人が言う。「世界が存続する期間は一劫（こう）、壊滅する期間は一劫、そして再び生じる期間は一劫である。この三千大千世界には、大きな劫として水・火・風による三種の破壊があり、小さな劫としても刀病・飢饉による三種の破壊がある。この三千大千世界は虚空の中にあり、風の上に水、水の上に地、地の上に人が住む。須弥山には二つの天の住処がある。四天王天と三十三天である。残りの夜摩天などは、福徳の因縁によって七宝の地となり、風によって空中に浮かんでいる。さらに大梵天に至るまで、すべてが七宝の地であり、すべて風の上にある。この三千大千世界は光明が遍く照らし、照らし終えた後、その余光がさらに進んで東方のガンジス川の砂の数ほどもある諸世界を照らす。南・西・北・四維（四方の中間）・上下もまた同様である。」

問曰：

> お尋ねします。

是光遠照，云何不滅？

> この光明が遠くまで照らすのに、どうして消えることがありましょうか。

答曰：

> お答えしますと、

光明以佛神力為本，本在故不滅。譬如龍泉，龍力故水不竭。是諸光明以佛心力故，遍照十方，中間不滅。

> 光明は仏の神通力を根本とし、その根本があるからこそ消えません。例えば、竜の泉は竜の力によって水が枯れないように、これらの光明も仏の心の力によって十方に照らし渡り、その間決して消えることがないのです。

問曰：

> お尋ねします。

如閻浮提中種種大河，亦有過恒河者，何以常言「恒河沙等」？

> （問）例えば、閻浮提（人間界）には様々な大河があり、ガンジス川よりもさらに大きな川もあるのに、なぜ仏典では常に「恒河沙等（ガンジス川の砂の数ほど）」と言うのでしょうか？

答曰：

> お答えしますと、

恒河沙多，餘河不爾。

> ガンジス川の砂は数え切れないほど多く、他の川はそうではない。

復次，是恒河是佛生處、遊行處，弟子眼見，故以為喻。

> さらに、このガンジス川は仏が生まれ、遊行された場所です。弟子たちが実際に目にしたため、例えとして用いられたのです。

復次，佛出閻浮提，閻浮提四大河北邊出，入四方大海中。北邊雪山中，有阿那婆達多池；是池中有金色七寶蓮華，大如車蓋。阿那婆達多龍王，是七住大菩薩。是池四邊有四流水：東方象頭，南方牛頭，西方馬頭，北方師子頭。東方象頭出恒河，底有金沙；南方牛頭出辛頭河，底亦有金沙；西方馬頭出婆叉河，底亦有金沙；北方師子頭出私陀河，底亦有金沙。是四河皆出北山：恒河出北山入東海，辛頭河出北山入南海，婆叉河出北山入西海，私陀河出北山入北海。是四河中，恒河最大；四遠諸人經書，皆以恒河為福德吉河，若入中洗者，諸罪垢惡皆悉除盡。以人敬事此河，皆共識知故，以恒河沙為喻。

> さらに、仏は閻浮提（人間界）に現れました。閻浮提では、四大河が北の山から源を発し、四方の大海に流れ込んでいます。北の雪山の中には阿那婆達多池があり、この池には金色の七宝でできた蓮の花が、車の蓋ほどの大きさで咲いています。阿那婆達多龍王は、七住の大菩薩です。この池の四方からは四本の流れが出ています。東は象の頭、南は牛の頭、西は馬の頭、北は獅子の頭の形をしています。東の象の頭からは恒河が流れ出し、その底には金沙があります。南の牛の頭からは辛頭河が流れ出し、その底にも金沙があります。西の馬の頭からは婆叉河が流れ出し、その底にも金沙があります。北の獅子の頭からは私陀河が流れ出し、その底にも金沙があります。この四本の川はすべて北山に源を発しています。恒河は北山から出て東海に入り、辛頭河は北山から出て南海に入り、婆叉河は北山から出て西海に入り、私陀河は北山から出て北海に入ります。この四つの川の中で、恒河が最も大きいです。遠くの国々の人々も、経典や書物において、恒河を福徳をもたらす吉祥の川としています。この川に入って身を洗えば、あらゆる罪や汚れ、悪いものがすべて除かれるとされています。人々がこの川を敬い大切にし、広く知られていることから、仏は恒河の砂の数を例えに用いたのです。

復次，餘河名字喜轉，此恒河世世不轉，以是故，以恒河沙為喻，不取餘河。

> また、他の川の名前は変わることがあるが、このガンジス川は世々変わることがない。そのため、ガンジス川の砂をたとえに用いるのであって、他の川を取らないのである。

問曰：

> お尋ねします。

恒河中沙，為有幾許？

> ガンジス川の砂の数は、どれほどあるでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

一切算數所不能知，唯有佛及法身菩薩能知其數。佛及法身菩薩，一切閻浮提中微塵生滅多少，皆能數知，何況恒河沙？如佛在祇桓外林中樹下坐，有一婆羅門來到佛所問佛：「此樹林有幾葉？」佛即時便答：「有若干數。」婆羅門心疑：「誰證知者？」婆羅門去至一樹邊，取一樹上少葉藏，還問佛：「此樹林定有幾葉？」即答：「今少若干葉。」如其所取語之。婆羅門知已，心大敬信，求佛出家，後得阿羅漢道。以是故，知佛能知恒河沙數。

> いかなる計算をもってしても、その数を知ることはできません。ただ仏と法身の菩薩だけがその数を知ることができるのです。仏と法身の菩薩は、この閻浮提のすべての微塵の生じたり滅したりする数さえも、ことごとく知ることができます。ましてやガンジス河の砂ほどの数など、なおさらです。 かつて仏が祇桓の林の外れの木の下に座っておられた時のことです。一人のバラモンが仏のもとに来て尋ねました。「この林には葉が何枚あるのか？」仏は即座に「その数は〇枚である」と答えました。バラモンは心の中で疑いました。「誰がそれを証しようか？」彼は一本の木に近づき、その木の葉を何枚か隠し取ってから、再び仏に問いました。「この林の葉の数は、いくつなのか？」仏は答えました。「今は、〇枚少なくなっている。」それはまさに、彼が取った葉の枚数と同じでした。これを聞いたバラモンは深く敬い信じ、仏に従って出家し、後に阿羅漢の悟りを得ました。 このことからも、仏がガンジス河の砂のような数を知ることができると、知るべきなのです。

問曰：

> お尋ねします。

有幾許人值佛光明必得阿耨多羅三藐三菩提？若值光明便得道者，佛有大慈，何以不常放光明令一切得道？何須持戒、禪定、智慧，然後得道？

> どれほどの人々が仏の光明に遇えば、必ず無上正等覚（阿耨多羅三藐三菩提）を得るのでしょうか？もし光明に遇うだけで悟りが得られるなら、仏は大いなる慈悲をお持ちなのだから、どうして常に光明を放ってすべての人を悟りに導かないのでしょう？また、なぜ戒律を守り、禅定を修め、智慧を磨いてからでなければ悟りを得られないのでしょう？

答曰：

> お答えしますと、

眾生種種因緣得度不同：有禪定得度者，有持戒說法得度者，有光明觸身而得度者。譬如城有多門入處，各各至處不異。有人光明觸身而得度者，有若見光明、若觸身不得度者。

> さまざまな人々が、それぞれの縁に応じて悟りを得る道は異なります。 座禅によって悟りを得る人もいれば、戒律を守り説法することによって悟りを得る人もいます。また、光明が身に触れることによって悟りを得る人もいます。 それはあたかも城に多くの門があり、どの門から入っても目的地は同じであるのと同じです。しかし、光明が身に触れても悟りを得る人がいる一方で、光明を見たり触れたりしても悟りを得られない人もいるのです。

【經】

> お経

爾時，世尊舉身毛孔皆亦微笑而放光明，遍照三千大千世界，復至十方如恒河沙等世界。若有眾生遇斯光者，必得阿耨多羅三藐三菩提。

> その時、世尊（お釈迦様）は全身の毛穴から微笑み、光を放たれました。その光は三千大千世界（この宇宙全体）を照らし、さらに十方にあるガンジス川の砂の数ほどの世界にも届きました。この光に触れた生きとし生けるものは、必ず最高の悟り（阿耨多羅三藐三菩提）を得ることができるのです。

【論】

> 【論】 論とは、心を

問曰：

> お尋ねします。

上已舉身微笑，今何以故復一切毛孔皆笑？

> すでに全身で微笑みを示されたのに、なぜ今、すべての毛穴をもって笑うのでしょうか？

答曰：

> お答えしますと、

舉身微笑是麁分，今一切毛孔皆笑是細分。

> 全身で微笑むのは粗い部分であり、今、すべての毛孔が笑うのは微細な部分である。

復次，先舉身微笑光明有數，今一切毛孔皆笑，有光明而無數。

> 次に、まず全身の微笑みと光明には数がありましたが、今や全ての毛穴が笑い、光明は無数にあります。

復次，先舉身光明所未度者，今值毛孔光明，即便得度。譬如搖樹取果，熟者前墮；若未熟者，更須後搖。又如捕魚，前網不盡，後網乃得。

> さらに、まず全身から放たれた光明によって救われなかった者たちが、今この毛穴から放たれる光明に出会い、たちまち救われるのです。たとえば、木を揺すって果実を取るようなもので、熟したものは先に落ちますが、まだ熟していないものは、後にもう一度揺する必要があります。また、魚を捕るようなもので、最初の網で捕りきれなかった魚は、次の網でようやく得られるのです。

笑因緣，如上說。

> 笑いの因縁については、先に述べた通りです。

## 大智度論卷第七

> 大智度論 第七巻