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title: "大智度論 · 2"
description: "大智度论由古印度龙树菩萨所造，后秦时期著名译经家鸠摩罗什翻译成中文。该论是佛教重要典籍，属于大乘中观学派的核心论著，主要阐释《大品般若经》的深奥义理。全书共一百卷，系统论述了般若空性思想、菩萨修行次第以及六度万行的实践方法，被誉为大乘佛教的百科全书。作为早期大乘佛教的代表性论典，大智度论对汉传佛教思想体系的形成影响深远，尤其为天台宗、华严宗等宗派提供了重要理论依据，在佛教哲学史上占据崇高地位。"
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## 大智度初品中放光釋論第十四之餘卷第八

> 大智度論　初品　放光についての解説（第十四章の続き）<note>巻第八</note>

龍樹菩薩造

> 龍樹菩薩による

後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉　詔譯

> 後秦の亀茲国三蔵法師鳩摩羅什が詔を奉じて訳す

【經】

> お経

爾時，世尊以常光明遍照三千大千世界，亦至東方如恒河沙等諸佛世界，乃至十方亦復如是。若有眾生遇斯光者，必得阿耨多羅三藐三菩提。

> その時、世尊は常に放つ光明で三千大千世界をくまなく照らし、さらには東方のガンジス川の砂の数ほどもある仏の世界々々にも、そして十方のすべてにまで、同じように光を届けられた。この光に触れた者があれば、必ず最高の悟り（阿耨多羅三藐三菩提）を得ることができるのである。

【論】

> 【論】 論とは、心を

問曰：

> お尋ねします。

上已舉身微笑及放毛孔光明，今何以復放常光而照十方？

> すでに全身で微笑み、毛穴から光明を放たれた上に、今またどうして常の光を放って十方を照らされるのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

有人見異光明，謂非佛光。

> 異なる光明を見て、それを仏の光ではないと言う人がいる。

見佛常光轉大，心則歡喜，此實佛光，便畢至阿耨多羅三藐三菩提。

> 仏の常なる光が大きく輝くのを見て、心は喜びに満ちる。このこそが真実の仏の光であり、この光によって、ついに無上正等覚（阿耨多羅三藐三菩提）に至るのである。

問曰：

> お尋ねします。

云何為「常光」？

> 「常光」とは何か？

答曰：

> お答えしますと、

佛身四邊各一丈光明，菩薩生便有此，是三十二相之一，名為丈光相。

> 仏の身体の四方、それぞれ一丈の光明が輝いています。菩薩が生まれたときからこの光明を備えており、これは三十二相の一つで、「丈光相」と呼ばれています。

問曰：

> お尋ねします。

佛何以故光常一丈而不多？

> なぜ仏の光明が常に一丈で、それ以上広がらないのでしょうか？

答曰：

> お答えしますと、

一切諸佛常光無量，常照十方世界。

> あらゆる仏様の常なる光は限りがなく、常に十方の世界を照らしておられます。

釋迦牟尼佛神通身光無量，或一丈、百丈、千萬億，乃至滿三千大千世界；乃至十方，如諸佛常法。

> 釈迦牟尼仏の神通の身の光には限りがありません。時には一丈、時には百丈、あるいは千億、さらには三千大千世界いっぱいに広がり、そして十方の世界にまで及ぶこともあります。これは諸仏にとって常のあり方です。

但於五濁世為眾生少德、少智故，受一丈光明；若受多光，今眾生薄福鈍根，目不堪其明。如人見天身眼則失明，以光盛眼微故。

> ただ、五濁の世においては、人々の徳が少なく、知恵も乏しいために、一丈（約三メートル）の光を身に受けているのです。もしもっと多くの光を受ければ、今の世の人々は福が薄く、根が鈍いので、その明るさに目が耐えられないでしょう。たとえば、人が天人の姿を見ると目が失明してしまうようなものです。それは光が強すぎて、人の目が弱いからです。

若眾生利根福重，佛則為之現無量光明。

> もし衆生に鋭い知恵と大きな福徳があれば、仏は彼らのために無限の光明を現されます。

復次，有人見佛常光歡喜得度。譬如國王以常食之餘賜諸群下，得者大喜；佛亦如是，有人見佛種種餘光心不歡喜，見佛常光，必至阿耨多羅三藐三菩提。

> また、ある人々は、仏の常光（常に放たれる光）を見て喜び、そのまま悟りを得ることがあります。たとえば、王がいつも食べている食事の余りを家来たちに与えた時、それをもらった人々は大喜びするようなものです。仏もまた同じように、ある人々は仏のさまざまな光を見ても心から喜ばないことがありますが、仏の常光を見た人々は、必ず阿耨多羅三藐三菩提（最高の悟り）に至るのです。

【經】

> お経

爾時，世尊出廣長舌相，遍覆三千大千世界，熙怡而笑。從其舌根出無量千萬億光，是一一光化成千葉金色寶華。是諸華上，皆有化佛結加趺坐，說六波羅蜜；眾生聞者，必得阿耨多羅三藐三菩提。復至十方如恒河沙等諸佛世界，皆亦如是。

> その時、世尊は広く長い舌相を現し、三千大千世界全体を覆い、柔和に微笑まれました。その舌の根元から無数無量の光が放たれ、その一つ一つの光が千枚の花びらを持つ金色の宝の蓮華となりました。これらの蓮華の上にはすべて、化身の仏が結跏趺坐して六波羅蜜を説いておられました。それを聞く者は、必ず無上正等覚（アヌッタラ・サンミャク・サンボーディ）を得るのです。また、ガンジス川の砂の数ほどある十方の仏の世界に至るまで、すべて同様でありました。

【論】

> 【論】 論とは、心を

問曰：

> お尋ねします。

如佛世尊大德尊重，何以故出廣長舌，似如輕相？

> かのように尊い仏世尊が、なぜ広長舌を出して軽々しい相を示されるのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

上三種放光，照十方眾生令得度脫。今欲口說摩訶般若波羅蜜；摩訶般若波羅蜜甚深，難解、難知、難可信受，是故出廣長舌為證。舌相如是，語必真實。

> 以上の三種の放光は、十方の衆生を照らし、彼らを救済へと導くためのものである。今、私は口をもって摩訶般若波羅蜜を説こうとしている。しかし、摩訶般若波羅蜜は極めて深遠であり、理解しがたく、知りがたく、信じ受け入れることも難しい。そのため、広長舌を現して証とするのである。このような舌相が示すように、語ることは必ず真実である。

如昔一時佛於舍婆提國受歲竟，阿難從佛遊行諸國，欲到婆羅門城。

> 昔々、あるとき、お釈迦様はシャーラバスティという国で雨期の修行を終えました。そして、阿難尊者がお釈迦様と共に諸国を巡り、バラモンの町へ向かおうとしていました。

婆羅門城王知佛神德，能化眾人感動群心，今來到此，誰復樂我？便作制限：「若有與佛食、聽佛語者，輸五百金錢。」

> 婆羅門の都の王は、仏陀の神々しい徳が多くの人々を教化し、皆の心を動かすのを知っていました。「仏陀がここに来られると、誰がまた私を喜んで従うだろうか」と思い、次のような掟を定めました。「もし仏陀に食べ物を与えたり、仏陀の教えを聞いたりする者は、五百金を納めよ。」

作制限後，佛到其國，將阿難持鉢入城乞食。城中眾人皆閉門不應，佛空鉢而出。

> 制限が設けられた後、仏はその国へ赴き、阿難を連れて鉢を持って町に入り托鉢しました。町の人々は皆、門を閉ざして応じず、仏は空の鉢を持って立ち去られました。

是時，一家有一老使人，持破瓦器，盛臭𤄜淀，出門棄之，見佛世尊空鉢而來。老使人見佛相好：金色、白毛、肉髻、丈光，鉢空無食；見已思惟：「如此神人應食天廚，今自降身持鉢行乞，必是大慈愍一切故。」信心清淨，欲好供養，無由如願；慚愧白佛：「思欲設供，更不能得，今此弊食，佛須者可取！」

> その時、ある家に年老いた召使いの女がいた。彼女は壊れた土器で、臭くて濁った米のとぎ汁を持ち、門の外に捨てに行った。すると、仏世尊が空の鉢を手にして托鉢に来られるのを目にした。年老いた召使いは、仏の相好（金色の肌、白毫（びゃくごう）、肉髻（にっけい）、一丈の光明）を見て、鉢の中には食べ物が何もないのを知った。彼女は思った。「このような神々しいお方なら、天の料理を召し上がるべきなのに、今、自ら身を低くして鉢を持ち、行乞なさるのは、きっと大いなる慈悲で全ての者を哀れんでおられるからに違いない。」そして、清らかな信心を起こし、良い供養をしたいと願ったが、その願いが叶う方法はなかった。恥じ入りつつ仏に申し上げた。「供養をしようと思いましたが、できません。今この粗末な食べ物でよろしければ、お取りください。」

佛知其心信敬清淨，伸手以鉢受其施食；佛時即笑，出五色光，普照天地，還從眉間相入。

> 仏はその心が清らかに敬い信じていることを知り、手を差し伸べて鉢でその供え物を受け取られた。その時、仏は微笑み、五色の光を放って天地を照らし、その光は再び眉間の相に収まった。

阿難合掌長跪白佛：「唯然！世尊！今笑因緣，願聞其意！」

> 阿難は合掌し、長く跪いて仏に申し上げた。「はい、世尊よ。今お笑いになった因縁について、そのお考えをお聞かせくださいませ。」

佛告阿難：「汝見老女人信心施佛食不？」

> 仏、阿難に告げたまわく、「汝、老女人の信心をもって仏に施したる食を見るや。」

阿難言：「見。」

> 阿難が言いました。「見えます。」

佛言：「是老女人施佛食故，十五劫中天上人間受福快樂，不墮惡道；後得男子身，出家學道，成辟支佛，入無餘涅槃。」

> 仏は言われた。「この老女は、仏に食事を施したことにより、十五劫の間、天界や人間界で幸せな報いを受け、悪しき道に堕ちることはない。その後、男身を得て、出家して修行し、独覚（びゃくし）となり、無余涅槃（むよねいじょう）に入るのである。」

爾時佛邊有一婆羅門立，說偈言：

> その時、仏のそばに一人のバラモンが立って、次の偈を唱えた。

「汝是日種剎利姓， 淨飯國王之太子，而以食故大妄語， 如此臭食報何重？」

> 「おまえは日種族のクシャトリアの生まれで、 浄飯王の太子であるのに、 食べ物のために大妄語をした。 こんな臭い食べ物で、何という重い報いを受けるのか。」

是時，佛出廣長舌，覆面上至髮際，語婆羅門言：「汝見經書，頗有如此舌人而作妄語不？」

> その時、仏が広く長い舌を出され、顔の上から髪の生え際まで覆って、バラモンに告げられました。「あなたは経典を見てきたが、このような舌を持つ者が偽りを語るということがあるだろうか」

婆羅門言：「若人舌能覆鼻，言無虛妄，何況乃至髮際？我心信佛必不妄語，不解小施報多如是！」

> バラモンは言いました。「もし人の舌で鼻を覆うことができれば、その言葉に偽りはないと言われます。ましてや額の生え際まで覆うことができればなおさらです。私は仏の言葉が決して虚偽ではないと心から信じます。しかし、わずかな施しでこのような大きな報いがあるとは理解できません。」

佛告婆羅門：「汝頗曾見世所希有難見事不？」

> 仏がバラモンに告げた。「あなたは、この世でめったに見ることのできない、稀有な出来事を見たことがありますか。」

婆羅門言：「見！我曾共婆羅門道中行，見一尼拘盧陀樹，蔭覆賈客五百乘車，蔭猶不盡，是謂希有難見事也！」

> バラモンが言いました。「ご覧なさい！私がかつて他のバラモンと道を旅していた時、一本のニグローダ樹（インドボダイジュ）を見ました。その木陰は五百台の商人の馬車をすっぽりと覆い、なおも余るほどでした。これはまさに稀有で、そう簡単に見られるものではありません。」

佛言：「此樹種子，其形大小？」

> 仏がおっしゃいました。「この木の種は、どんな形でどれくらいの大きさですか？」

答言：「大如芥子三分之一。」

> 答え：『芥子粒の三分の一ほどの大きさです。』

佛言：「誰當信汝言者？樹大乃爾，而種子甚小！」

> 仏は言われた。「誰があなたの言葉を信じるだろうか？ これほど大きな木に対して、種はとても小さいのに。」

婆羅門言：「實爾！世尊！我眼見之，非虛妄也。」

> バラモンは言いました。「その通りです、世尊。私は自分の目で確かに見ました。それは偽りではありません。」

佛言：「我亦如是，見老女人淨信心施佛，得大果報，亦如此樹，因少報多；又是如來福田良美之所致也。」

> 仏陀は言われた。「私もまた同じである。老いた女性が清らかな信心を持って仏陀に施しを行い、大きな果報を得たのも、この木がわずかな種から多くの実りをもたらしたのと同じである。これもまた、如来という福田が素晴らしく美しいがゆえに得られた結果である。」

婆羅門心開意解，五體投地悔過向佛：「我心無狀，愚不信佛。」

> バラモンは心が開けて理解が得られ、五体投地して仏に悔い改めました。「私の心は道理がなく、愚かにも仏を信じませんでした。」

佛為種種說法，得初道果；即時舉手大發聲言：「一切眾人！甘露門開，如何不出！」

> 仏はさまざまな説法をしたことで、初めての悟りの境地を得ました。するとすぐに手を挙げて大声で言いました。「皆さん！甘露の門が開かれているのに、どうして出てこないのですか！」

城中一切諸婆羅門，皆送五百金錢與王，迎佛供養，皆言：「得甘露味，誰當惜此五百金錢！」眾人皆去，制限法破。

> 都の中のすべてのバラモンたちは、皆五百金銭を王に納め、仏を迎えて供養した。彼らは言った。「甘露の味を得るのに、誰がこの五百金銭を惜しむだろうか。」人々は皆、出かけていった。制限の法は破られたのである。

是婆羅門王亦共臣民歸命佛法，城人一切皆得淨信。

> そのバラモンの王も臣民とともに仏法に帰依しました。町の人々は皆、清らかな信仰を得ました。

如是佛出廣長舌相，為不信者故。

> このように、仏は広長舌相（広く長い舌の相）を示された。これは、信じない者のためである。

問曰：

> お尋ねします。

如為婆羅門出舌相覆面，今舌相光明，何以乃至三千大千世界？

> 婆羅門のために、仏陀が舌相を出して顔を覆うほどの光明を現しました。今、その舌相の光明がどうして三千大千世界にまで及ぶのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

覆面髮際，為小信故；今為般若波羅蜜大事興故，廣長舌相覆三千大千世界。

> かつては、仏の髪の生え際を覆うほどにしか及ばなかった舌の相も、それはまだ小さな信心のためのものでした。しかし今、般若波羅蜜という大いなる教えが現れるにあたり、その広く長い舌の相は、三千大千世界を覆い尽くすほどに広がったのです。

問曰：

> お尋ねします。

是一城中人，盡得見此覆面舌相，猶尚為難；何況今說摩訶般若波羅蜜，一切大會，此及他方無量眾集而得盡見？

> この一つの町の中にいる人々が、皆そろってこの覆面された舌の相を見ることさえも難しいことです。 ましてや、今ここで摩訶般若波羅蜜の教えを説き、この大集会に、この世や他方世界から無数の人々が集まっているのを、すべて見尽くすことなど、なおさら難しいことではないでしょうか。

又以人目所覩不過數里，今言遍三千大千世界，無乃大而難信！

> また、人の目で見える範囲はせいぜい数里に過ぎないのに、「三千大千世界すべてに及ぶ」と言うのは、あまりにも大きくて信じがたいのではないでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

佛以方便借其神力，能令一切皆見舌相覆此三千大千世界。若不加神力，雖復十住亦不知佛心；若加神力，乃至畜生能知佛心。

> 仏は方便の力によって、その神力を用いて、すべての者に舌相がこの三千大千世界を覆うのを見せることができる。もし神力が加えられなければ、十住の菩薩でさえも仏の心を知ることはできない。しかし、神力が加えられれば、畜生でさえも仏の心を知ることができるのである。

如《般若波羅蜜》後品中說：「一切眾人皆見阿閦佛會，與眼作對。」

> 例の『般若波羅蜜多経』の後の章で説かれているように、「すべての人が、阿閦仏の教えの集いを、その目で直接に見ることができる」のです。

亦如佛說阿彌陀佛世界種種嚴淨。阿難言：「唯願欲見。」佛時即令一切眾會皆見無量壽佛世界嚴淨。

> また、仏が説かれたアミダ仏の世界のさまざまな荘厳と清らかさについて、阿難が「ぜひ見たいと願います」と申し上げました。すると仏は、その場に集まったすべての人々が、無量寿仏の世界の荘厳と清らかさを目の当たりにできるようにされました。

見佛舌相，亦復如是。

> 仏の舌相を見ることも、また同じである。

佛以廣長舌相遍覆三千大千世界已，然後便笑。笑因緣，如上說。

> 仏は、広く長い舌相で三千大千世界をすべて覆ってから、微笑まれました。その微笑みの理由は、前に述べたとおりです。

問曰：

> お尋ねします。

前已出舌相光明，今何以故舌根復放光明？

> すでに舌の相（聖なるしるし）から光明を現したのに、今なぜ再び舌から光明を放たれるのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

欲令一切得重信故。

> すべての人々に深い信頼（敬信）を得させようと願うからである。

又以舌相色如珊瑚，金光明淨共相發起，故復放光。

> また、舌の相は珊瑚のような色であり、金色の光が清らかに輝き、互いに照らし合うことから、再び光を放たれた。

復次，是諸光明變成千葉金色寶華。從舌相出此千葉金色寶華，光明徹照，如日初出。

> さらに、これらの光明は千の花びらを持つ金色の宝の花に変わります。舌の相からこの千の花びらを持つ金色の宝の花が現れ、その光明は朝日が昇るように、すべてを照らし渡ります。

問曰：

> お尋ねします。

何以故光明中變化作此寶華？

> なぜかというと、光明の中から変じてこの宝の華を生じさせたからである。

答曰：

> お答えしますと、

佛欲坐故。

> 仏が坐ろうとお思いになったからである。

問曰：

> お尋ねします。

諸床可坐，何必蓮華？

> どの座にでも坐ることができるのに、どうして必ず蓮華の座でなければならないのか。

答曰：

> お答えしますと、

床為世界白衣坐法。

> 床を世界の白い衣として座る修行の方法。

又以蓮華軟淨，欲現神力，能坐其上令花不壞故；又以莊嚴妙法座故；又以諸華皆小，無如此華香淨大者。人中蓮華，大不過尺；漫陀耆尼池及阿那婆達多池中蓮華，大如車蓋；天上寶蓮華復大於此，是則可容結加趺坐。佛所坐華，復勝於此百千萬倍。

> また、蓮華は柔らかく清らかであり、その上に座っても花を傷つけずに神力を示すことができるからである。 さらに、見事な法座を荘厳するためでもある。 また、世の中の蓮華はどれも小さく、この蓮華のように香り高く清らかで大きなものはない。 人の世の蓮華は、大きさが一尺（約30センチ）を超えない。 曼陀耆尼池や阿那婆達多池（アナヴァタプタ池）にある蓮華は、車の覆いほどもある。 天上の宝蓮華はさらにこれより大きく、その上で結跏趺坐（あぐらを組む坐法）することができる。 そして、仏が座る蓮華は、これらよりもさらに百千万倍も勝れているのである。

又如此華華臺，嚴淨香妙可坐。

> また、この蓮華の花床は、清らかで香り高く、坐るのにふさわしい。

復次，劫盡燒時，一切皆空；眾生福德因緣力故，十方風至，相對相觸，能持大水；水上有一千頭人，二千手足，名為韋紐；是人臍中出千葉金色妙寶蓮花，其光大明，如萬日俱照；華中有人結加趺坐，此人復有無量光明，名曰梵天王；此梵天王心生八子，八子生天地人民。

> また、劫の終わりに焼き尽くされる時、すべては空となります。しかし、衆生の福徳と因縁の力によって、十方から風が吹き寄せ、互いに触れ合い、大きな水を支えることができます。その水の上に、千の頭と二千の手足を持つ、韋紐という者がいます。その者の臍から、千の葉を持つ金色の妙なる宝の蓮華が現れます。その光は大変明るく、一万の太陽が同時に輝くかのようです。その蓮華の中に、結跏趺坐する者がおり、この者もまた無量の光明を放ち、梵天王と名付けられます。この梵天王の心から八人の子が生まれ、その八人の子から天地と人民が生まれました。

是梵天王於諸婬瞋已盡無餘，以是故言：「若有人修禪淨行，斷除婬欲，名為行梵道。」

> この梵天の王は、あらゆる欲望や怒りを余すところなく断ち尽くしている。それゆえにこう言われているのだ。「もし人が禅定を修行し清らかな行いを実践し、婬欲を断ち切るならば、それを梵道を行う者と名づける。」と。

佛轉法輪，或名法輪，或名梵輪。是梵天王坐蓮華上，是故諸佛隨世俗故，於寶華上結加趺坐，說六波羅蜜。聞此法者，畢至阿耨多羅三藐三菩提。

> 仏が法輪を転じることを、あるいは法輪、あるいは梵輪と名づける。梵天の王は蓮華の上に座る。それゆえ、諸仏は世俗に従って、宝の華の上に結跏趺坐して、六波羅蜜を説く。この法を聞く者は、必ず無上正等覚に至る。

問曰：

> お尋ねします。

釋迦文尼佛化作無量千萬億諸佛，云何一時能說法耶？如《阿毘曇》說：「一時無二心。」若化佛語時，化主應默；化主語時，化亦應默。云何一時皆說六波羅蜜？

> 釈迦牟尼仏は、無数の千万億の仏に化身されたのです。では、どうして同時に説法することができるのでしょうか？『アビダルマ（阿毘曇）』には「一つの瞬間に二つの心はない」と説かれています。もし化身の仏が話すとき、本体の仏は沈黙しているべきであり、本体の仏が話すとき、化身の仏も沈黙しているべきです。では、どうして同時に皆が六波羅蜜を説くことができるのでしょうか？

答曰：

> お答えしますと、

如此說者，外道及聲聞變化法耳。

> このように説くのは、外道や声聞の変化の法に過ぎません。

如佛變化，無量三昧力不可思議，是故佛自語時，無量千萬億化佛亦一時皆語。

> 仏の神通変化の力は、無量の三昧力によって不可思議であり、そのため仏が自ら語るとき、無量千万億の化身仏もまた一斉に語るのである。

又諸外道及聲聞，化不能作化；如佛世尊，化復作化。

> また、外道や声聞（修行者）は、変化した姿からさらに別の姿を生み出すことはできません。しかし、仏世尊（仏陀）は、変化した姿からさらに別の姿を生み出すことができるのです。

諸外道及聲聞，滅後不能留化；如佛世尊自身滅度後，復能留化如佛無異。

> 様々な外道や声聞たちは、亡くなった後も変化の身をとどめておくことはできません。しかし、仏世尊はご自身が滅度された後も、仏と何ら変わらない変化の身をとどめておかれるのです。

復次，《阿毘曇》中，一時無二心；今佛亦如是，當化語時，亦不有心；佛心念化，欲令化語即便皆語。

> さらに、『アビダルマ』（論蔵）においては、一瞬のうちに二つの心が生じることはないと説かれています。今、仏さまもまた同じで、化身（けしん）によって言葉を発するときにも、心を起こしているわけではありません。仏さまが心に思いを巡らせて化身を生み出し、その化身に語らせようとされると、即座にすべてが語るのです。

問曰：

> お尋ねします。

佛今欲說般若波羅蜜，何以令化佛說六波羅蜜？

> 仏は今、般若波羅蜜を説こうとしているのに、なぜ化仏に六波羅蜜を説かせるのでしょうか？

答曰：

> お答えしますと、

是六波羅蜜及般若波羅蜜，一法無異。

> 六波羅蜜と般若波羅蜜は、同じ一つの教えであり、異なるものではありません。

是五波羅蜜不得般若波羅蜜，不名波羅蜜。如檀波羅蜜，不得般若波羅蜜，沒在世界有盡法中，或得阿羅漢、辟支佛道般涅槃；若得般若波羅蜜共合，是名波羅蜜，能至佛道。以是故般若波羅蜜與六波羅蜜，一法無異。

> これらの五つの波羅蜜は、般若波羅蜜を得なければ、本当の「波羅蜜」とは呼べません。例えば、檀波羅蜜（布施の完成）も、般若波羅蜜を得なければ、世の中の尽きるものに埋もれてしまい、阿羅漢や辟支仏の道を得て涅槃に入るだけです。しかし、般若波羅蜜と結びつけば、それは「波羅蜜」と呼べるものとなり、仏の道に至ることができるのです。ですから、般若波羅蜜は六波羅蜜と、別のものではなく、同じ一つの教えなのです。

般若波羅蜜有二種：一者莊嚴，二者未莊嚴。如人著好瓔珞莊嚴其身，有人不著，名未莊嚴。亦如國王將諸官從，是名王來；若無官從，是名獨身。

> 般若波羅蜜には二つの種類があります。一つは「飾られたもの」、もう一つは「飾られていないもの」です。ちょうど人が美しい装飾品を身につけて自分の体を飾るのと、飾らない場合を「飾られていない」と言うようなものです。また、王様が多くの家来や従者を連れてくるときは「王が来た」と言い、家来がいなければ「一人で来た」と言うのと同じです。

如是東方如恒河沙等世界，乃至十方亦爾。

> このように、東方の無数の世界も、さらに十方の世界もすべて同じである。

問曰：

> お尋ねします。

若佛有如是大神力，無數千萬億化佛，乃至十方說六波羅蜜度脫一切，應盡得度，不應有殘！

> もし仏にこのような大きな神通力があり、無数の千億もの化身仏が十方の世界で六波羅蜜を説き、すべての者を救い導くならば、本来は誰もが救われるべきであり、救われずに残る者があってはならないはずです。

答曰：

> お答えしますと、

有三障：三惡道中眾生不能解知；人中、天上，若大小，若大老，若大病；及上無色、無想天——皆不能聞、不能知。

> 三つの障害があります。三悪道の生き物は理解できません。人間や天人の世界でも、子どもの場合や老人の場合、重い病の場合、さらに上の無色界・無想天にいる者は、いずれも仏法を聞くことも知ることもできません。

問曰：

> お尋ねします。

諸能聞、能知者，何以不皆得道？

> すべての人が教えを聞き、理解できるのに、なぜみな悟りを得られないのでしょうか？

答曰：

> お答えしますと、

是亦不應盡得道。何以故？結使、業障故。有人於結使重，常為結使覆心，以是故不盡得道。

> それでいて、悟りを完全に得ることもできません。なぜなら、煩悩や業の障害があるからです。ある人は煩悩が重く、常に煩悩に心を覆われています。そのため、悟りを完全に得ることができないのです。

問曰：

> お尋ねします。

當令十方諸佛，亦應遣化說六波羅蜜，我等亦無三障，何以不聞？

> このようにして、十方のすべての諸仏が、神通力によって化身を遣わして六波羅蜜を説かせるべきです。私たちには三障もないのに、なぜその教えを聞くことができないのでしょうか？

答曰：

> お答えしますと、

當今眾生，生在惡世，則入三障中！

> 現代の衆生は、悪しき世の中に生まれたために、三つの障り（三障）の中に陥っています。

生在佛後，不善業報，或有世界惡罪業障，或有厚重結使障。墮在佛後，人多為厚重結使所障：或婬欲薄而瞋恚厚，瞋恚薄而婬欲厚，婬欲薄而愚癡厚，愚癡薄而瞋恚厚，如是等展轉互有厚薄。

> 仏の後に生まれるというのは、不善な業の報いである。ある世界では、悪しき罪や業の障りがあり、あるいは深く重い煩悩の結びつきが障りとなる。仏の後に生まれる者は、多くの場合、この深く重い結びつきの煩悩に妨げられている。すなわち、ある者は欲望は薄いが怒りが深く、ある者は怒りは薄いが欲望が深く、またある者は欲望は薄いが無知が深く、ある者は無知は薄いが怒りが深い。このように、それぞれに相互に厚みや薄みが異なっているのである。

是結使障故，不聞、不知化佛說法，不見諸佛光明，何況得道！

> これらの結使（煩悩）に妨げられているからこそ、化仏の説法を聞くことも、知ることもできず、諸仏の光明を拝することもできない。ましてや悟りを得ることなど、なおさらである！

譬如日出，盲人不見，便謂世間無有日月，日有何咎！

> 例えるなら、太陽が昇っても、目の見えない人はそれを見ることができません。そのため、「この世には太陽も月もない」と言ってしまいますが、太陽に何の咎があるでしょうか。

又如雷電震地，聾人不聞，聲有何過！

> また、雷が大地を震わせようとも、耳の聞こえない人には聞こえません。音に何の過ちがあるでしょうか。

今十方諸佛常說經法，常遣化佛至十方世界說六波羅蜜，罪業、盲聾故，不聞法聲；以是故不盡聞見。雖復聖人有大慈心，不能令皆聞、皆見。若罪欲滅、福將生者，是時乃得見佛聞法。

> 今、十方の諸仏は常に経典の教えを説き、常に化身の仏を十方の世界に遣わして六波羅蜜を説いています。しかし、罪業によって盲目や聴覚障害があるため、その法の声を聞くことができません。そのため、全てを聞き、見ることはできないのです。 たとえ聖人に大きな慈悲の心があっても、全ての人に聞かせ、見せることはできません。 罪が滅びようとし、福徳が生まれようとする時、その時になって初めて仏を見、法を聞くことができるのです。

【經】

> お経

爾時，世尊故在師子座，入師子遊戲三昧，以神通力感動三千大千世界，六種震動。

> そのとき、世尊は獅子座におられたまま、獅子の遊戯三昧（ししのゆげざんまい）に入り、神通力をもって三千大千世界を感動し、六種に震動させた。

【論】

> 【論】 論とは、心を

問曰：

> お尋ねします。

此三昧何以名「師子遊戲」？

> この三昧をなぜ「獅子の遊戯」と名付けるのか。

答曰：

> お答えしますと、

譬如師子搏鹿，自在戲樂；佛亦如是，入此三昧，能種種迴轉此地，令六反震動。

> 例えるならば、獅子が鹿を捕らえて、自由自在に戯れるかのように、仏もまたこのように、この三昧に入って、様々にこの地を引き回し、六度にわたって震動させることができるのです。

復次，師子遊戲，譬如師子戲日，諸獸安隱；佛亦如是，入是三昧時，震動三千大千世界，能令三惡眾生一時得息，皆得安隱。

> また、獅子の戯れの三昧について。例えるなら、獅子が戯れる日には、すべての獣たちが安らかになるように、仏もまた同じく、この三昧に入るときには、三千大千世界を震動させ、三悪道の众生を一時に休息させ、皆を安らかにするのです。

復次，佛名人師子，師子遊戲三昧，是佛戲三昧也。入此三昧時，令此大地六種震動，一切地獄惡道眾生，皆蒙解脫得生天上，是名為戲。

> さらに、仏陀は「人の師子（獅子）」と呼ばれる。獅子が遊戯するような三昧、これこそが仏の遊戯三昧である。この三昧に入るとき、この大地は六種に震動し、あらゆる地獄や悪道の衆生は、みな救いを得て天上に生まれ変わる。これを「遊戯」と名づける。

問曰：

> お尋ねします。

佛何以故入此三昧？

> なぜ仏はこの三昧（さんまい）に入るのでしょうか？

答曰：

> お答えしますと、

欲動三千大千世界，出三惡道眾生，著二道中故。

> 欲界の三千大千世界から、三悪道の衆生を救い出そうと願うのは、彼らがまだ二つの道（人・天）に執着しているからです。

復次，上三種變化，出自佛身，人或信心不深；今動大地，欲令眾生知佛神力無量，能令外物皆動，信淨心喜，皆得離苦。

> さらに、以上の三種の変化は仏の身から現れるものですが、人によっては信心が深くない場合もあります。そこで今、大地を震動させ、仏の神通力には限りがなく、外部の物すべてを動かす力があることを人々に知らせます。そうすれば、人々は清らかな信心と喜びの心を得て、皆が苦しみから離れることができるのです。

問曰：

> お尋ねします。

有諸阿羅漢及諸天亦能動地，何以獨言是佛神力？

> 答えて申し上げます。多くの阿羅漢や天人の方々も大地を動かすことはできます。しかし、それらは全て仏の力によるものなのです。なぜなら、阿羅漢や天人たちの力も、最終的には仏の教えと導きによって得られたものだからです。あたかも、多くの者が水を飲むことができても、その水がもとをたどれば一つの泉から湧き出ているのと同じです。したがって、大地を動かすという現象の根源にある力を指して「仏の神力」とおっしゃるのです。

答曰：

> お答えしますと、

諸阿羅漢及諸天不能具足動，唯佛世尊能令大地六種震動。

> あらゆる阿羅漢や天人の力をもってしても、大地を完全に揺り動かすことはできません。 ただ、仏陀・世尊のみが、大地に六種の震動を起こすことができるのです。

問曰：

> お尋ねします。

佛何以故震動三千大千世界？

> なぜ仏が三千大千世界を震動させたのでしょうか？

答曰：

> お答えしますと、

欲令眾生知一切皆空、無常故。有諸人言：「大地及日月、須彌、大海，是皆有常。」是以世尊六種動地，示此因緣，令知無常。

> 世尊は、すべてのものが空であり、無常であることを人々に知らせようとされた。ある人々は言う、「大地や日月、須弥山、大海はすべて永遠に変わらないものだ」と。そこで世尊は大地を六種に震わせ、この因果を示して、無常を悟らせたもうたのである。

復次，如人欲染衣，先去塵土；佛亦如是，先令三千世界眾生見佛神力，敬心柔軟，然後說法，是故六種動地。

> また、人が衣服を染めようとするとき、まず埃を落とすように、仏もまた同じである。まず三千世界の衆生に仏の神通力を示し、敬う心を柔らかくしてから説法する。ゆえに六種の地震が起こるのである。

云何六種動？

> 六つの動きとは何か

【經】

> お経

東涌西沒，西涌東沒；南涌北沒，北涌南沒；邊涌中沒，中涌邊沒。

> 東に現れては西に消え、西に現れては東に消える。南に現れては北に消え、北に現れては南に消える。端に現れては中心に消え、中心に現れては端に消える。

【論】

> 【論】 論とは、心を

問曰：

> お尋ねします。

何以故正有六種動？

> では、なぜ正しい揺れには六つの種類があるのでしょうか？

答曰：

> お答えしますと、

地動有上、中、下。

> 地震には、上・中・下の三段階があります。

下者，二種動：或東涌西沒，或南湧北沒，或邊中。

> 下に位置するものには、二種類の動きがあります。すなわち、東から湧き出て西に没するか、南から湧き出て北に没するか、あるいは縁から中央へと動くかです。

中者，有四：或東、西、南、北，或東、西、邊、中，或南、北、邊、中。

> 中には四つの種類があります。すなわち、東・西・南・北、または東・西・辺・中、あるいは南・北・辺・中です。

上者，六種動。

> 上なる者は、六種の動きあり。

有種種因緣令地大動，如佛告阿難：「八因八緣，令地震動。」如別說。

> 様々な因縁によって大地は大きく動くことがあります。例えば、仏が阿難に告げて言われました。「八つの因と八つの縁によって、大地は震動する。」と別に説かれている通りです。

復次，有人言：「四種地動：火動，龍動，金翅鳥動，天王動。」二十八宿，月月一周繞：

> さらに、「地が動く原因には四つある。火の動き、竜の動き、金翅鳥の動き、天王の動きである。」と言う人もいます。 二十八の星宿は、毎月一巡りしています。

若月至昴宿、張宿、氐宿、婁宿、室宿、胃宿，是六種宿中，爾時地動若崩，是動屬火神；是時無雨，江河枯竭，年不宜麥，天子凶，大臣受殃。

> もし月が昴宿・張宿・氏宿・婁宿・室宿・胃宿にあるとき、この六種類の宿のうちで、もし大地が揺れたり崩れたりするならば、その震動は火の神に関わるものです。その時は雨が降らず、川や池は干上がり、その年は麦の作柄が良くなく、天子には不幸があり、大臣は災いを受けます。

若柳宿、尾宿、箕宿、壁宿、奎宿、危宿，是六種宿中，爾時，地動若崩，是動屬龍神；是時無雨，江河枯竭，年不宜麥，天子凶，大臣受殃。

> もし柳宿、尾宿、箕宿、壁宿、奎宿、危宿という六つの星宿のもとで、その時に地面が動き崩れるならば、その動きは龍神の仕業です。このとき雨は降らず、川や川は干上がり、その年は麦作に適さず、天子には凶事が起こり、大臣たちは災いを受けます。

若參宿、鬼宿、星宿、軫宿、亢宿、翼宿，是六種宿中，爾時，若地動若崩，是動屬金翅鳥；是時無雨，江河枯竭，年不宜麥，天子凶，大臣受殃。

> もし「参宿」「鬼宿」「星宿」「軫宿」「亢宿」「翼宿」という六つの星宿のいずれかにおいて、その時に大地が揺れたり崩れたりするならば、これは金翅鳥（こんじちょう）の力によるものです。その時には雨が降らず、川や池は干上がり、その年は麦の生育に適さず、天子には不幸があり、大臣たちも災いを受けるでしょう。

若心宿、角宿、房宿、女宿、虛宿、井宿、畢宿、觜宿、斗宿，是九種宿中，爾時地動若崩，是動屬天帝；是時安隱豐雨，宜五穀，天子吉，大臣受福，萬民安隱。

> 心宿・角宿・房宿・女宿・虚宿・井宿・畢宿・觜宿・斗宿――この九つの星宿のもとで、もし大地が動いたり崩れたりすれば、それは天帝　の働きによるものです。その時は、安らかで雨も豊かに降り、五穀　が実りやすくなります。天子には吉があり、大臣は福を受け、すべての人々は安らかで穏やかになります。

復次，地動因緣有小有大，有動一閻浮提，有動四天下、一千、二千、三千大千世界。小動以小因緣故：若福德人若生若死，一國地動，是為小動。大動大因緣故：如佛初生時、初成佛時、將滅度時，三千大千世界皆為震動，是為大動。

> また、地が動く原因には小と大とがある。一つの閻浮提（地球上の人間世界）だけが動く場合もあれば、四つの天下、一千世界、二千世界、三千大千世界が動く場合もある。 小さな動きは、小さな原因によるものである。例えば、功徳のある人が生まれたり亡くなったりした場合、一つの国が揺れる。これが小動である。 大きな動きは、大きな原因によるものである。例えば、仏様がお生まれになった時、初めて悟りを開かれた時、そして涅槃に入られる時には、三千大千世界すべてが震動する。これが大動である。

今佛欲大集眾生故，令此地六種震動。

> 今、仏が多くの生きとし生けるものを集めようとなさったため、この大地が六種に震動しました。

復次，《般若波羅蜜》中授諸菩薩記，當得作佛；佛為天地大主，是時地神大喜：「我今得主！」是故地動。譬如國主初立，臣民喜慶，皆稱萬歲，踊躍歌舞。

> さらに、『般若波羅蜜多経』の中で、多くの菩薩たちに「必ず仏となるであろう」という授記が与えられました。仏は天地の大いなる主であり、その時、地の神々は大いに喜びました。「今こそ、私たちは主を得たのだ！」と。そのために大地が震れたのです。たとえば、新しい国主が即位した時、臣民たちは喜び祝い、こぞって「万歳」と叫び、踊り歌うのと同じことです。

復次，三千大千世界眾生福德因緣故，有此大地山河樹木一切眾物，而眾生不知無常！是故佛以福德智慧大力，動此世界眾生福德，令知微薄，一切磨滅，皆歸無常。

> さて、この三千大千世界に生きとし生けるものたちの、善い行いの力によって、大地や山々、川、木々、すべてのものがあるのです。しかし、人々はそのすべてが無常であることを知りません。そこで仏は、その大きな智慧と慈しみの力によって、この世界のものたちの善い行いの力（福徳）を動かし、それがほんのわずかなものであり、すべてはやがて消え去り、無常へと帰するのだということを示されたのです。

【經】

> お経

地皆柔軟，令眾生和悅。

> 地面はすべて柔らかくなり、人々を和やかに喜ばせます。

【論】

> 【論】 論とは、心を

問曰：

> お尋ねします。

地動，云何能令眾生心得和悅？

> 大地が動いても、どうして衆生の心を和らぎ喜ばせることができるでしょうか？

答曰：

> お答えしますと、

心隨身故，身得樂事，心則欣悅。悅者，共住之人及便身之具，能令心悅。今以是三千大千世界雜惡眾生其心麁獷，無有善事；是故世尊動此大地，令皆柔軟，心得利益。

> 心は身体に従うものですから、身体に楽しいことがあれば、心は喜びに満ちます。この喜びとは、共に暮らす人や身体に必要な道具によって心が楽しくなることをいいます。ところが、この三千大千世界には様々な悪さをする者たちがいて、その心は粗く荒々しく、善い行いがありません。そのため、世尊はこの大地を揺り動かし、すべてを柔らかくして、心が利益を得られるようにされたのです。

譬如三十三天王歡樂園中，諸天入者，心皆柔軟，歡樂和悅，麁心不生；若阿修羅起兵來時，都無鬪心。是時，釋提婆那民將諸天眾入麁澁園中，以此園中樹木華實氣不和悅，麁澁惡故，諸天人眾鬪心即生。佛亦如是，以此大地麁澁弊惡故，變令柔軟，使一切眾生心得喜悅。

> 例えて言うなら、三十三天の王の歓楽園に、天人が入ると心は皆、柔らかく和み、楽しみ喜び合って、荒々しい心は生じません。もし阿修羅が兵を起こして来ても、戦う心は全く起こりません。ところが、帝釈天が天人の群れを率いて麁澁園（そしつえん）に入ると、この園の木々や花、実の気配は和やかで楽しくなく、荒々しく不快であるため、天人の人々はたちまち戦う心を起こします。仏もまたこのように、この大地が荒々しく劣った悪いものであるため、これを変えて柔らかくなめらかにし、全ての衆生の心に喜びが生じるようにされるのです。

又如呪術藥草熏人鼻時，恚心便生，即時鬪諍；復有呪術藥草能令人心和悅歡喜，敬心相向。呪術草藥尚能如此，何況三千大千世界地皆柔軟？

> 例えば、呪術や薬草の香りを嗅ぐと、怒りの心が生じてすぐに争いが起こることがあります。また、呪術や薬草によって、人の心を和らげ喜ばせ、互いに敬い合う心を生じさせることもあります。呪術や薬草でさえもこのように働くのです。ましてや、三千大千世界の地がすべて柔らかくなるならば、なおさらのことでしょう。

【經】

> お経

是三千大千世界中地獄、餓鬼、畜生及八難處，即時解脫，得生天上，從四天王天處乃至他化自在天處。

> この三千大千世界の地獄、餓鬼、畜生、そして八つの苦しみの場所にいる者たちは、たちまち苦しみから解き放たれ、天上に生まれ変わることができた。それは四天王天から他化自在天に至るまでである。

【論】

> 【論】 論とは、心を

問曰：

> お尋ねします。

若佛入師子遊戲三昧，能令地獄、餓鬼、畜生及餘八難皆得解脫，生四天處乃至他化自在天者，復何用修福行善，乃得果報？

> もし仏が師子遊戲三昧に入れば、地獄・餓鬼・畜生やその他八つの苦難からすべての者を救い、四天王天から他化自在天に至るまで生まれ変わらせることができるのなら、なぜ修行や善行を行って果報を得る必要があるのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

此如上說，福德多者，見光得度；罪垢深者，地動乃悟。

> 上述のように、善い行いを多く積んだ者は、光を見て悟りを得ます。一方で、罪の汚れが深い者は、大地が震動して初めて目覚めるのです。

譬如日出照蓮華池，熟者先開，生者未敷。佛亦如是，先放光明，福熟智利，先得解脫；其福未熟，智心不利，是故未得。佛大慈悲，等度一切，無憎愛也。

> 例えば、太陽が昇り蓮池を照らす時、熟れた蓮は先に開き、未熟なものはまだ開かない。仏もまた同じである。まず光明を放つが、福徳が熟し智慧が鋭い者は先に解脱を得る。その福徳が未熟で智慧の心が鈍い者は、まだ得られない。仏は大いなる慈悲をもって、一切を平等に救い、好き嫌いの心はないのである。

亦如樹果，人動其樹，熟者先墮；佛亦如是，是三千大千世界如樹，動之者佛；先度者果熟，未度者果生。

> また、木の果実のようなものです。人が木を揺らせば、熟した実から先に落ちます。仏さまも同じように、この三千大千世界を一つの木にたとえるなら、揺らすのは仏さまです。先に救われる者は熟した果実であり、まだ救われていない者は未熟な果実のようなものなのです。

問曰：

> お尋ねします。

何以故善心因緣生欲界天，不生色界及無色界？

> なぜでしょうか。善い心が因縁となって欲界の天には生まれるが、色界や無色界には生まれないのは。

答曰：

> お答えしますと、

佛欲度此眾生令得道證。無色界中以無身故，不可為說法；色界中則無厭心，難可得道，禪樂多故，慧心則鈍。

> 仏は、これらの衆生を悟りへ導き、その証を得させようと願われました。しかし、無色界には身体がないため、説法ができません。また色界には厭離の心がなく、禅定の楽しみが多いために智慧の心が鈍く、悟りを得るのが難しいのです。

復次，佛以神通感動，令此三千大千世界地皆柔軟，眾生心信得歡喜故，生欲界天；不行四禪及四空定故，不得生色、無色界。

> さらに、仏は神通力によってこの三千大千世界の大地をすべて柔らかくされました。衆生が心から信じ、喜びを得たことにより、欲界の天に生まれました。四禅や四空定を修行しなかったため、色界や無色界に生まれることはありませんでした。

問曰：

> お尋ねします。

五眾無常、空、無我，云何生天人中？誰死誰生者？

> 五つの元素（五蘊）は全て移り変わり、実体はなく、私というものもありません。では、どのようにして天や人の世界に生まれるのでしょうか？誰が死に、誰が生まれるというのでしょう？

答曰：

> お答えしますと、

是事，〈讚菩薩品〉中已廣說，今當略答：汝言「五眾無常、空、無我」者，是般若波羅蜜中，五眾無有常無常、有空無空、有我無我。若如外道求索實我，是不可得；但有假名，種種因緣和合而有，有此名字。

> このことについては、〈菩薩を称賛する章〉ですでに詳しく説かれています。今は簡潔に答えましょう。あなたが「五つの構成要素（五蘊）は無常であり、空であり、我（永遠の自我）はない」と言われましたが、般若波羅蜜（智慧の完成）においては、五つの構成要素には「常」も「無常」もなく、「有る」も「空」もなく、「我」も「無我」もありません。もし外道のように実在する「我」を求めても、それは得られません。ただ仮の名前（仮名）があり、様々な原因と条件がより集まって存在し、この名前があるにすぎないのです。

譬如幻人相殺，人見其死；幻術令起，人見其生；生死名字，有而無實。世界法中實有生死，實相法中無有生死。

> 例えば、幻術師が見せかけの人形を殺し合わせれば、人はそれを見て死んだと思い、幻術で再び動かせば、人は生きたと思う。生死という名前はあるが、その実体はない。 世の中の道理（世俗諦）では確かに生死があるが、真実の姿（実相）の道理には生死は存在しない。

復次，生死人有生死，不生死人無生死。何以故？不生死人以大智慧能破生相。如說偈言：

> さらに、生と死のある人は生と死を持ち、生と死のない人は生と死を持ちません。なぜなら、生と死のない人は、大いなる智慧（プラジュニャー）によって生の相を打ち破ることができるからです。偈頌にこうあります：

「佛法相雖空， 亦復不斷滅；雖生亦非常， 諸行業不失。諸法如芭蕉， 一切從心生；若知法無實， 是心亦復空。若有人念空， 是則非道行；諸法不生滅， 念有故失相。有念墮魔網， 無念則得出；心動故非道， 不動是法印。」

> 仏の教えの本質は「空」であっても それによって完全に消え去ることはない 生じることはあっても永続しないが 行為の結果は失われることがない すべての現象は芭蕉の幹のように 心から生じるものである もし法に実体がないと知れば その心もまた「空」であると悟る もし「空」を固定観念として捉えるなら それは正しい道ではない すべての現象は生滅を超えているのに 「存在する」と執着するゆえに真理を見失う 執着があれば悪魔の罠に落ち 執着がなければそこから解脱する 心が動くゆえに道ではなく 動かないことこそが真理の教えである

【經】

> お経

是諸天人自識宿命，皆大歡喜，來詣佛所頭面禮佛足，却住一面。

> 諸々の天人は、自ら過去世の記憶を思い起こし、皆大いに喜んで、仏の御許に参り、額を地につけて仏の足を礼拝し、その後一方に控えて立った。

【論】

> 【論】 論とは、心を

問曰：

> お尋ねします。

諸天生時，有三事自知：知所從來處，知所修福田處，知本所作福德。

> 天人（神々）が天界に生まれる時、三つのことを自ら知ります。 1. 自分がどこから来たのかを知る。 2. どこで善い行い（福徳）を積んだのかを知る。 3. 過去にどのような善い行いをしたのかを知る。

是人生時，無此三事，云何識宿命？

> 人が生まれるとき、この三つのことがなければ、どのようにして前世の記憶を知ることができるでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

人道不定，或有識者，有不識者。

> 人の道は一定ではなく、ある者は識（さと）り、ある者は識らない。

復次，假佛神力，則識宿命。

> さらに、仏の力によって、過去世を思い知ることができるのです。

問曰：

> お尋ねします。

諸天有報五神通，自識宿命能到佛所；人雖蒙佛神力得知宿命，所住處遠，云何能至佛所？

> 天人には五つの神通力があり、自分で過去世の記憶を知り、仏のもとへ行くことができます。しかし、人は仏の神力によってようやく過去世を知ることができても、住んでいる場所が遠ければ、どうやって仏のもとへ行くことができるのでしょうか？

答曰：

> お答えしますと、

或有人生報得神通，如轉輪王、聖人等；或有人假佛神力。

> ある人は生まれつき神通力を得ることがあります。例えば、転輪聖王や聖者のような存在です。また、ある人は仏の神通力に頼ることもあります。

問曰：

> お尋ねします。

人生十月，三年乳餔，十歲後能自出。今蒙佛威神，三惡、八難皆得解脫，生天、人中，即至佛所。天則可爾，人法未成，云何得來？

> 人生十年の月日、三年の乳哺、十歳を過ぎてようやく独り立ちできる。今や仏の威神力により、三悪道・八難の苦しみから全て解き放たれ、天界や人間界に生まれ、そのまま仏のもとに至ることができた。天人はそれで良いとしても、人間としての作法がまだできていないのに、どうして来ることができたのだろうか。

答曰：

> お答えしますと、

五道生法各各不同：

> 五つの道における修行法は、それぞれ異なっている

諸天、地獄皆化生。

> 天や地獄にいる者たちは、すべて化身によって生まれます。

餓鬼二種生：若胎、若化生。

> 餓鬼には二つの生まれ方がある。胎生と化生である。

人道、畜生四種生：卵生、濕生、化生、胎生。

> 人間や動物には、四つの生まれ方があります。卵から生まれるもの、湿気から生まれるもの、突然変化的に生まれるもの、そして母胎から生まれるものです。

卵生者，如毘舍佉、彌伽羅母三十二子毘舍佉母生三十二卵，卵剖生三十二男，皆為力士。彌伽羅，大兒字也，此母人得三道果——如是等名卵生。

> 卵生とは、たとえば毘舎佉母（ヴィシャーカーの母）が三十二の卵を生み、その卵が割れて三十二人の男子が生まれ、皆が力士となったようなものです。弥伽羅（ミガーラ）は長男の名前で、この母は三道の果報を得ました——このようなものを卵生といいます。

濕生者，如揜羅婆利揜烏甘反婬女，頂生轉輪聖王——如是等名濕生。

> 湿生（しっしょう）とは、例えば、アンバパーリー<note>アンバパーリーは、古代インドの遊女</note>のような遊女や、頂生転輪聖王（ちょうしょうてんりんじょうおう）などのことを指します。

化生者，如佛與四眾遊行，比丘尼眾中，有比丘尼名阿羅婆，地中化生；及劫初生時，人皆化生——如是等名為化生。

> 化生とは、例えば仏が四衆と共に遊行された際、比丘尼の衆の中にアーラヴァという名の比丘尼がおり、地中から化生したことであったり、劫の初めの時代の人々は皆、化生によって生まれた——このようなものを化生という。

胎生者，如常人生。

> 胎生とは、普通の人間が生まれるように、母胎から生まれるものです。

化生人即時長大，能到佛所。有人報得神通故，能到佛所。復次，佛借神通力故，能到佛所。

> 化生の人は、ただちに成長し、仏のもとへ至ることができます。ある者は生まれつき神通力を得ているからです。また、仏が神通力により力を貸してくださるので、至ることができるのです。

【經】

> お経

如是十方如恒河沙等世界，地皆六種震動；一切地獄、餓鬼、畜生及餘八難處，即得解脫，得生天上，齊第六天。

> このように、十方にあるガンジス川の砂の数ほどの世界で、地面が六種に震動しました。そして、すべての地獄・餓鬼・畜生の世界、さらにその他の八つの苦難の境遇にあった者たちは、たちまち苦しみから解き放たれ、天に生まれ変わり、第六天に至りました。

【論】

> 【論】 論とは、心を

問曰：

> お尋ねします。

三千大千世界無量無數，眾生甚多，何以復及十方如恒河沙等世界眾生？

> 三千大千世界は無量無数であり、そこに生きる者たちも非常に多い。それなのに、どうしてさらに十方の、ガンジス川の砂の数ほどもある世界の生きとし生けるものにまで及ぶのか。

答曰：

> お答えしますと、

佛力無量，雖度三千大千世界眾生，猶以為少，以是故復及十方。

> 仏の力は無限で、三千大千世界のすべての生きものを救い導いても、まだ足りないと感じられます。そのため、さらに十方の世界にも及ぶのです。

問曰：

> お尋ねします。

若釋迦文尼佛以大神力廣度十方，復何須餘佛？

> もし釈迦牟尼仏が大きな神通力で十方世界のすべての人々を広く救済しているのなら、なぜ他の仏が必要なのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

眾生無量，不一時熟故。又眾生因緣各各不同，如聲聞法中說：「舍利弗因緣弟子，除舍利弗，諸佛尚不能度，何況餘人？」

> 衆生は無量であり、皆が同時に成熟するわけではありません。また、衆生の因縁は各々異なります。声聞法に説かれるように、「舎利弗の因縁の弟子は、舎利弗を除いては、諸仏でさえも度することができない。ましてや他の者にできるだろうか」と。

復次，今但說東方一恒河沙等，不說若二、三、四乃至千萬億恒河沙等諸世界。又以世界無邊無量，若有邊有量，眾生可盡。

> さらに、ここでは東方にある一つのガンジス川の砂の数ほどの世界だけを挙げている。 二つ、三つ、四つ、あるいは千、万、億のガンジス川の砂の数に等しい無数の世界については、今は語っていない。 また、世界に限りや区切りがあるならば、そこに生きる人々も尽きることがあるだろう。 しかし、世界には限りがなく、量り知れないのである。

以是故十方無量世界，諸佛應度。

> それゆえに、十方の無数の世界において、諸仏が人々を救うべきなのです。

【經】

> お経

爾時，三千大千世界眾生，盲者得視，聾者得聽，啞者能言，狂者得正，亂者得定，裸者得衣，飢渴者得飽滿，病者得愈，形殘者得具足。

> その時、三千大千世界の生きとし生けるものは、盲人が見えるようになり、聾者が聞こえるようになり、唖者が話せるようになり、狂った者が正気を取り戻し、乱れた心が落ち着き、裸の者が衣を得て、飢え渇いた者が満たされ、病める者が癒え、体の不自由な者が完全な姿を取り戻しました。

【論】

> 【論】 論とは、心を

問曰：

> お尋ねします。

眾生苦患有百千種，若佛神力，何以不遍令得解脫？

> 全ての生きとし生けるものの苦しみには、百種類も千種類もあり、数え切れないほどあります。もし仏の神通力が本当に力を持つなら、どうして全ての苦しみを一度に取り除いて、すべての者を救いの道へ導かないのでしょうか？

答曰：

> お答えしますと、

一切皆救，今但略說麁者；如種種結使，略說為三毒。

> あらゆるものは救われる。今は、その大まかなものだけを簡単に説こう。例えば、様々な煩悩（けっし）は、大まかに三毒（さんどく）として説かれる。

問曰：

> お尋ねします。

但言「盲者得視」則足，何以故言「生盲」？

> ただ「目の見えない人が見えるようになる」と言えばそれで十分です。なぜ「生まれつきの盲人」と言う必要があるのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

生盲者，先世重罪故。重罪者，猶尚能令得視，何況輕者？

> 生まれつき目が見えないのは、過去世の重い罪によるものです。しかし、その重い罪でさえ、人をして見えるようにすることができるのです。ましてや軽い罪であればなおさらです。

問曰：

> お尋ねします。

云何先世重罪而令生盲？

> なぜ前世の重い罪が原因で、生まれつき目が見えないのでしょうか？

答曰：

> お答えしますと、

若破眾生眼，若出眾生眼，若破正見眼，言無罪福，是人死墮地獄，罪畢為人，從生而盲。

> もし衆生の目を傷つけたり、あるいはその目をえぐり出したり、正しい見解の目を破壊して「罪や福などない」と言う者がいれば、その人は死後、地獄に堕ちる。その罪の報いが終わって人間に生まれ変わっても、生まれつき目が見えない者となる。

若復盜佛塔中火珠及諸燈明，若阿羅漢、辟支佛塔珠及燈明，若餘福田中奪取光明。

> もし、仏塔の中にある火珠や灯りの明かりを盗み、あるいは阿羅漢（応供）や辟支仏（縁覚）の塔にある珠や灯明を奪い、さらにその他の福田から光明を奪い取るならば。

如是等種種先世業因緣故失明。

> このように、様々な前世の行いが原因となって、目が見えなくなるのです。

今世若病、若打故失明，是今世因緣。

> もしこの人生で、病気や暴行が原因で目が見えなくなったなら、それは現世での因縁によるものだ。

復次，九十六種眼病，闍那迦藥王所不能治者，唯佛世尊能令得視。

> また、九十六種の眼の病があっても、ジャナカ薬王では治療できないものがある。ただ仏陀だけが、それを見えるようにすることができるのだ。

復次，先令得視，後令得智慧眼。

> 次に、まず見ることを得させ、その後で智慧の眼を得させる。

聾者得聽，亦如是。

> 聾者が聞こえるようになることも、また同じようなものです。

問曰：

> お尋ねします。

若有生盲，何以不說生聾？

> 生まれつき目が見えない人については語るのに、なぜ生まれつき耳の聞こえない人については語らないのですか？

答曰：

> お答えしますと、

多有生盲，生聾者少，是故不說。

> 多くの人は生まれつき盲目であり、生まれつき耳の聞こえない者は少ない。それゆえ、このことについては説かない。

問曰：

> お尋ねします。

以何因緣故聾？

> 何の因縁によって、耳が聞こえなくなるのでしょうか？

答曰：

> お答えしますと、

聾者，是先世因緣：師父教訓，不受不行而反瞋恚，以是罪故聾。復次，截眾生耳，若破眾生耳，若盜佛塔、僧塔、諸善人福田中揵稚、鈴、貝及鼓，故得此罪。如是等種種先世業因緣。

> 耳が聞こえないのは、過去世の行いが原因です。師匠の教えを受け入れず、実践せず、むしろ怒りを抱いたことで、このような報いを受けるのです。また、他の生き物の耳を切り落としたり傷つけたり、仏塔や僧塔、善人たちの功徳を積む場にある鐘や鈴、法螺貝、太鼓を盗んだことによっても、この罪を得ます。このように様々な過去世の業因縁があるのです。

今世因緣，若病、若打，如是等是今世因緣得聾。

> 現世の因縁（直接的な原因）によって、病気になったり殴られたりすると、その結果として耳が聞こえなくなることがあるのです。

問曰：

> お尋ねします。

啞者不能言，作何等罪故啞？

> 言葉の不自由な人々は、どのような罪の結果として、話すことができないのでしょうか？

答曰：

> お答えしますと、

先世截他舌，或塞其口，或與惡藥令不得語；或聞師教、父母教勅，斷其語，非其教；或作惡邪人，不信罪福破正語；地獄罪出，生世為人，啞不能言。如是種種因緣故啞。

> 前世で人の舌を切り、口を塞ぎ、毒薬を飲ませて言葉を奪った。あるいは師や親の教えを妨げ、その言葉を遮り、教えに背かせた。あるいは邪見を持ち、罪や福を信じず、正しい言葉を破った。そうした人が地獄の業を終えて人間に生まれ変わると、言葉を発することができない。このように様々な因縁によって、人は言葉を失うのである。

問曰：

> お尋ねします。

「狂者得正」，云何為狂？

> 「狂った者が正しさを得る」とは、いったい何を「狂った」というのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

先世作罪，破他坐禪，破坐禪舍，以諸呪術呪人令瞋鬪諍婬欲。

> 前世において罪をつくり、他人の坐禅を妨げ、坐禅のための場所を壊し、さまざまな呪術で人を呪い、怒らせ争わせ、情欲に陥れた。

今世諸結使厚重。如婆羅門失其福田，其婦復死，即時狂發，裸形而走。

> この世で生じる様々な悩みや執着（けっし）は、どれも重くのしかかるものです。ちょうど、あるバラモンが功徳を積む機会を失い、さらに妻に先立たれてしまい、その衝撃で発狂して裸で駆け出してしまったのと同じようなことです。

又如翅舍伽憍曇比丘尼，本白衣時，七子皆死，大憂愁故，失心發狂。

> また、翅舍伽憍曇比丘尼という尼僧は、まだ在家の頃に七人の子ども全てを失い、その深い悲しみのために心を失い、発狂してしまいました。

有人大瞋不能自制，成大癡狂。

> 激しく怒りを抑えられない人は、大きな愚かさと狂気に陥ります。

有愚癡人惡邪故，以灰塗身，拔髮裸形，狂癡食糞。

> 愚かな人々が邪悪な見解にとらわれ、灰を体に塗り、髪を抜き、裸で歩き回り、狂ったように糞を食べる。

有人若風病、若熱病，病重成狂。

> もしも風病や熱病に罹り、病が重くなって狂ってしまう人がいるならば。

有人惡鬼所著，或有人癡飲雨水而狂。

> 悪鬼に取り憑かれる者もいれば、雨水を飲んで狂ってしまう者もいる。

如是失心，如是種種名為狂。得見佛故，狂即得正。

> このように心を失い、このように様々な状態を「狂い」と呼ぶ。しかし仏を見ることで、その狂いはただちに正される。

問曰：

> お尋ねします。

「亂者得定」，狂則是亂，以何事別？

> 「乱れた者が静まる」とは、狂っていることが乱れであるとすれば、どのような出来事によって区別されるのか。

答曰：

> お答えしますと、

有人不狂而心多散亂，志如獼猴，不能專住，是名亂心。

> 心は乱れていなくても、心が散り散りになりやすい人がいます。その心は猿のように落ち着かず、一つのことに集中できません。これを「乱心」と言います。

復有劇務怱怱，心著眾事，則失心力，不堪受道。

> また、忙しいことに追われて、心が多くのことに囚われると、心の力が失われ、道を受け入れることができなくなります。

問曰：

> お尋ねします。

亂心有何因緣？

> 乱れた心には、どのような原因や条件があるのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

善心轉薄，隨逐不善，是名心亂。

> 善心が薄くなり、不善（よくない心）に流されること、これを心の乱れと言います。

復次，是人不觀無常，不觀死相，不觀世空；愛著壽命，計念事務，種種馳散，是故心亂。

> さらに、その人は無常を観ず、死の相を観ず、世の中の空しさを観ません。寿命に執着し、日々の用事を気にかけ、あれこれと思いを散らすため、心が乱れるのです。

復次，不得佛法中內樂，外求樂事，隨逐樂因，是故心亂。

> また、仏法の内なる喜びを得られず、外に楽しみを求めて、快楽の原因を追い求めるため、心が乱れるのです。

如是亂人得見佛故，其心得定。

> このような迷いの人が仏を見ることができると、その心は定まるのです。

問曰：

> お尋ねします。

先言「狂者得正」，今言「裸者得衣」，除狂，云何更有裸？

> まず「狂った者が正しくなる」と言い、今度は「裸の者が衣服を得る」と言う。では、狂った者がいなくなるのなら、どうして裸の者がさらに存在するというのか。

答曰：

> お答えしますと、

狂有二種：一者、人皆知狂；二者、惡邪故自裸，人不知狂。

> 狂気には二種類ある。一つ目は、誰の目にも明らかな狂い。二つ目は、邪悪な考えに囚われて自ら裸になるような、人の気づかない狂いである。

如說：南天竺國中有法師，高坐說五戒義，是眾中多有外道來聽。

> 南天竺の国に一人の法師がいました。高い座に上がって、五戒の教えを説いていました。その聴衆の中には、多くの外道たちも混じって聞いていたのです。

是時國王難曰：「若如所說，有人施酒及自飲酒，得狂愚報，當今世人應狂者多，正者少；而今狂者更少，不狂者多，何以故爾？」

> そこで国王が問うた。「もしあなたの言う通り、酒を他人に施したり自ら飲んだりすれば、愚かで狂った報いを受けるのなら、今の世の中は狂った者が多く、正しい者が少なくなるはずではないか。ところが実際には、狂った者はむしろ少なく、狂っていない者の方が多いのは、なぜなのか。」

是時諸外道輩言：「善哉！斯難甚深！是禿高坐，必不能答，以王利智故。」

> そのとき、外道たちは言った。「素晴らしい！この難題は非常に深遠だ。この坊主頭の高座では、きっと答えられないだろう。王様が利口だからこそだ。」

是時法師以指指諸外道，而更說餘事，王時即解。

> その時、法師は指を外道たちに向けて示し、さらに別の話を述べ始めました。王はその場で即座にその意味を理解しました。

諸外道語王言：「王難甚深，是不知答，恥所不知，而但舉指更說餘事。」

> 諸々の外道が王に言いました。「王よ、その問いは極めて深遠です。答えがわからず、知らないことを恥じて、ただ指を上げて別の話をされたのですね。」

王語外道：「高坐法師指答已訖，將護汝故，不以言說；向者指汝，言汝等是狂，狂不少也。汝等以灰塗身，裸形無恥，以人髑髏盛糞而食；拔頭髮，臥刺上，倒懸熏鼻；冬則入水，夏則火炙。如是種種所行非道，皆是狂相。復次，汝等法以賣肉賣鹽，即時失婆羅門法；於天祠中得牛布施，即時賣之，自言得法；牛則是肉，是誑惑人，豈非失耶？又言『入吉河水中，罪垢皆除』，是為罪福無因無緣。賣肉、賣鹽，此有何罪？入吉河水中言能除罪，若能除罪，亦能除福，誰有吉者？如此諸事，無因無緣，強為因緣，是則為狂。如是種種狂相，皆是汝等；法師將護汝故，指而不說。是名為裸形狂。」

> 王は外道に向かって言いました。「高座の法師は、すでに指で答えを伝え終えました。あなた方を気遣って、言葉では説明しなかったのです。先ほどあなた方を指さしたのは、『あなた方は狂っている』という意味であり、その狂いは少なくありません。あなた方は灰を体に塗り、裸で恥を知らず、人の頭蓋骨に糞を盛って食べ、髪を引き抜き、とげの上に寝転び、逆さまに吊るされて鼻を燻され、冬には水に入り、夏には火で焼かれます。このような様々な行いは道に適っておらず、すべて狂った姿です。 さらに、あなた方の教えでは、肉や塩を売ると即座にバラモンの法を失うとし、祠堂で牛を布施として受け取ればすぐにそれを売り、自ら法を得たと言います。牛はすなわち肉であり、これは人を欺くものです。失ったのではありませんか？また、『吉き川の水に入れば、罪や汚れはすべて除かれる』と言いますが、これは罪や福に原因や縁がないということです。肉を売ったり塩を売ったりすることに、何の罪があるのでしょう？吉き川の水に入れば罪が除かれるというなら、もし罪が除かれるならば、福も除かれるはずであり、誰が吉き者でありましょうか？このような諸々の事柄は、原因も縁もないのに、無理やり原因や縁を作り出している。これこそが狂いです。このような様々な狂った姿が、すべてあなた方にあるのです。法師はあなた方を気遣って、指さしただけで言葉にはしませんでした。これを『裸形の狂い』と言うのです。」

復次，有人貧窮無衣，或弊衣藍縷，以佛力故，令其得衣。

> また、貧しくて着る物がなく、あるいは衣服がぼろぼろで身を覆うことができない人でも、仏の力によって衣服を得ることができるのです。

問曰：

> お尋ねします。

「飢者得飽，渴者得飲」，云何飢渴？

> 飢えた者が満たされ、渇いた者が潤う——では、飢えや渇きとは何か。

答曰：

> お答えしますと、

福德薄故，先世無因，今世無緣，是故飢渴。

> 福徳が薄いからです。前世に原因がなく、現世に縁がないため、飢えと渇きに苦しむのです。

復次，是人先世奪佛、阿羅漢、辟支佛食，及父母所親食；雖值佛世，猶故飢渴，以罪重故。

> さらに、この人は前世において、仏や阿羅漢、辟支仏の食べ物を奪い、また父母や親しい人の食べ物を奪ったことがあります。そのため、たとえ仏の世に出会っても、なお飢えと渇きに苦しむのです。それは罪が重いからです。

問曰：

> お尋ねします。

今有惡世生人得好飲食，值佛世生而更飢渴；若罪人不應生值佛世，若福人不應生惡世，何以故爾？

> 今の世の中には、悪い時代に生まれながら、良い食べ物や飲み物に恵まれる人がいます。しかし、仏の世に生まれながら、かえって飢えや渇きに苦しむ人もいます。もし、罪深い人が仏の世に生まれるべきではないのなら、なぜ生まれるのでしょう？また、福徳ある人が悪い時代に生まれるべきではないのなら、なぜ生まれるのでしょう？これは、いったいどういう理由によるのでしょうか？

答曰：

> お答えしますと、

業報因緣，各各不同。或有人有見佛因緣，無飲食因緣；或有飲食因緣，無見佛因緣。

> 業や報い、その因縁は一人ひとり異なります。ある人は仏に出会う因縁があっても、飲食を得る因縁がない場合があり、また別の人は飲食の因縁があっても、仏に出会う因縁がない場合もあるのです。

譬如黑蛇而抱摩尼珠臥，有阿羅漢人乞食不得。

> 例えば、黒い蛇が摩尼の宝珠を抱いて眠っているようなものです。托鉢の僧が食べ物を得られない時のように。

又如迦葉佛時，有兄弟二人出家求道，一人持戒、誦經、坐禪；一人廣求檀越，修諸福業。

> また、迦葉仏の時代に、出家して道を求める兄弟が二人いました。一人は戒律を守り、経典を誦し、座禅に励みました。もう一人は多くの施主を求めて、様々な福徳の業を修めました。

至釋迦文佛出世，一人生長者家，一人作大白象，力能破賊。

> お釈迦さまがお生まれになるとき、一人は長者の家に生まれ、一人は大きな白い象となった。その象の力は、敵を打ち破ることができた。

長者子出家學道，得六神通阿羅漢，而以薄福，乞食難得。

> ある長者の息子が出家して修行の道に入り、六神通を備えた阿羅漢となりました。しかし、福徳が薄かったため、托鉢して食べ物を得ることが難しいままでした。

他日持鉢入城乞食，遍不能得；到白象廐中，見王供象種種豐足。語此象言：「我之與汝，俱有罪過。」象即感結，三日不食。

> ある日、托鉢の鉢を持って町に入り食を乞うたが、どこへ行っても得られなかった。そこで白象の厩に立ち寄り、王が象に与える豊かな供え物を見て、この象に向かって言った。「私とあなたには、どちらにも罪があるのだ。」すると象は深く心に感じ入り、三日間、食べ物を口にしなかった。

守象人怖，求覓道人，見而問言：「汝作何呪，令王白象病不能食？」答言：「此象是我先身時弟，共於迦葉佛時出家學道。我但持戒、誦經、坐禪，不行布施；弟但廣求檀越作諸布施，不持戒，不學問。以其不持戒、誦經、坐禪故，今作此象；大修布施故，飲食備具，種種豐足。我但行道，不修布施故，今雖得道，乞食不能得。」

> 象使いが恐れ、道の人を探し求めて見つけ、問いかけました。「あなたはどんな呪文を唱えて、王の白象を病気にして食べられなくしたのですか？」その人は答えました。「この象は私の前世の弟でした。共に迦葉仏の時代に出家して学びました。私はただ戒律を守り、経典を読み、座禅を組みましたが、布施は行いませんでした。弟はただ多くの施主を求めて様々な布施を行いましたが、戒律を守らず、学問もしませんでした。その戒律を守らず、経典を読まず、座禅を組まなかったために、今この象となったのです。大いに布施を修めたために、飲食物は整い、様々に豊かに備えられています。私はただ道を行じ、布施を修めなかったために、今は道を得たものの、托鉢しても食べ物を得ることができないのです。」

以是事故，因緣不同，雖值佛世，猶故飢渴。

> このようなわけで、縁（えん）が異なるため、仏の世に生まれ合わせても、なお飢えと渇きに苦しむのです。

問曰：

> お尋ねします。

此諸眾生，云何飽滿？

> これらの衆生たちは、どのようにして満たされるのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

有人言：「佛以神力變作食，令得飽滿。」

> ある人が言いました。「仏は神通力で食べ物を変化させて、人々を満腹にさせたのです。」

復有人言：「佛光觸身，令不飢渴。譬如如意摩尼珠，有人心念，則不飢渴，何況值佛！」

> また、こう言う人もいます。「仏の光が身に触れると、飢えや渇きがなくなる。例えば如意宝珠（にょいほうじゅ）のように、人が心に念じれば飢えや渇きがなくなる。ましてや、仏に出会うことができたなら、なおさらである。」

「病者得愈」，病有二種：

> 病が治る、とありますが、病には二つの種類があります。

先世行業報故，得種種病。今世冷熱風發故，亦得種種病。

> 前世の行いの報いとして、さまざまな病を得ることがあります。また、今世の冷えや熱、風の乱れによっても、さまざまな病を得ることがあります。

今世病有二種：一者、內病，五藏不調，結堅宿疹；二者、外病，奔車逸馬，塠壓墜落，兵刃刀杖，種種諸病。

> 現代の世の中には、二種類の病があります。一つ目は内の病で、五臓の調子が悪く、固いものが詰まっていたり、慢性的な症状を抱えているものです。二つ目は外の病で、暴走した車や馬による衝突、倒れた物に押し潰されること、高い所からの転落、武器や刃物による傷など、様々な災いによるものです。

問曰：

> お尋ねします。

以何因緣得病？

> どのような原因（因縁）で病気になるのですか？

答曰：

> お答えしますと、

先世好行鞭杖、拷掠、閉繫，種種惱故，今世得病。

> 前世において、むち打ちや拷問、監禁など、様々な方法で生き物を苦しめてきた結果、現世で病気を得ることがある。

現世病，不知將身，飲食不節，臥起無常。以是事故，得種種諸病。

> 現世においていうなら、自分の身体を顧みず、飲食に節度なく、寝起きも不規則にする。そうしたことによって、さまざまな病を得るのである。

如是有四百四病，以佛神力故，令病者得愈。

> このように、四百四の病があるが、仏の力によって病の者は治癒するのである。

如說：佛在舍婆提國，有一居士請佛及僧於舍飯食，佛住精舍迎食有五因緣：一者、欲入定，二者、欲為諸天說法，三者、欲遊行觀諸比丘房，四者、看諸病比丘，五者、若未結戒欲為諸比丘結戒。

> このように伝えられています。釈尊がシャーラヴァスティー（舎衛城）におられた時、ある在家の信者が釈尊と僧団をおもてなしのために食事に招きました。 釈尊が精舎で施しの食事を迎えるのには五つの理由があります。 第一に、心を静めて瞑想に入ろうとされる時。 第二に、天の神々のために説法されようとする時。 第三に、比丘たちの住まいを見て回ろうとされる時。 第四に、病にかかった比丘たちを見舞おうとされる時。 第五に、まだ戒律が定められていない場合、比丘たちのために戒律を定めようとされる時です。

是時佛手持戶排，入諸比丘房，見一比丘病苦，無人瞻視，臥大小便，不能起居。

> その時、仏はみずから戸の鍵を手に取り、比丘たちの房へと入られた。すると一人の比丘が病気で苦しみ、看病する者もなく、大小便の中に伏したまま、起き上がることもできないのをご覧になった。

佛問比丘：「汝何所苦？獨無人看！」

> 仏が比丘に尋ねられた。「何に苦しんでいるのか。一人で看病する者もないのか。」

比丘答言：「大德！我性嬾，他人有病，初不看視；是故我病，他亦不看！」

> 比丘が答えて言いました。「大徳さま、私は生まれつき怠け者で、他人が病気になっても最初から見舞いに行きませんでした。ですから、私が病気になった時も、誰も見舞いに来てくれなかったのです。」

佛言：「善男子！我當看汝。」

> 仏は言われた。「善き男子よ、私があなたを見守ろう。」

時釋提婆那民盥水，佛以手摩其身。摩其身時，一切苦痛即皆除愈，身心安隱。是時，世尊安徐扶此病比丘起，將出房澡洗著衣，安徐將入，更與敷褥令坐。

> そのとき、帝釈天が水を注ぐと、仏は手でその比丘の身体をさすった。身体をさすられると、すべての苦しみはすぐに消え去り、心身ともに安らかになった。そこで世尊は、静かにこの病む比丘を起こし、部屋の外に連れ出して湯浴みさせ、衣を着せ、再び静かに中へ連れ戻し、改めて褥（しとね）を敷いて座らせた。

佛語病比丘：「汝久來不勤求未得事令得、未到事令到、未識事令識，受諸苦患，如是方當更有大苦！」

> 仏は病の僧に言われた。「お前は長い間、努力して得るべきものを得ず、到達すべきところに至らず、知るべきことを知らなかった。様々な苦しみを受けてきたが、これからさらに大きな苦しみが訪れるだろう。」

比丘聞已，心自思念：「佛恩無量，神力無數，以手摩我苦痛即除，身心快樂！」

> 比丘はこれを聞いて、心の中でこう思った。「仏の恩は計り知れず、その神力は限りない。御手で私をさすってくださったおかげで、苦しみはたちまち消え去り、心身ともに安らかで幸せだ！」

以是故，佛以神力令病者得愈。

> そのため、仏は神通力によって病める者を癒されたのです。

「形殘者得具足」，云何名「形殘者」？

> 「身体に障がいがある者でも具足を満たせる」とは、では「身体に障がいがある者」とは何を指すのでしょうか。

若有人先世破他身，截其頭，斬其手足，破種種身分；或破壞佛像，毀佛像鼻，及諸賢聖形像；或破父母形像。以是罪故，受形多不具足。

> もし、ある人が前世で他者の身体を傷つけ、首を切り落とし、手足を断ち、様々な身体の部分を損なったなら。あるいは仏像を壊し、その鼻を毀ち、聖者たちの像を損ねたなら。あるいは父母の像を破壊したなら。これらの罪によって、生まれながらにして身体に多くの欠損を抱えることになるのである。

復次，不善法報，受身醜陋。

> さらに、不善の行いの報いとして、醜い姿の身体を受けることになるのです。

若今世被賊，或被刑戮，種種因緣以致殘毀；或風寒熱病，身生惡瘡，體分爛壞，是名形殘。

> もし今の世の中で、盗賊に襲われたり、刑罰を受けて手足を切断されたり、さまざまな因緣で体が傷つけられたり、あるいは風邪や熱病のためにひどい腫れ物ができて体が爛れて壊れてしまう——これを「形の損傷」という。

蒙佛大恩，皆得具足。

> 仏の大いなる恩恵を受け、全てが満たされました。

譬如祇洹中奴，字犍抵揵抵秦言續也，是波斯匿王兄子；端正勇健，心性和善。王大夫人見之心著，即微呼之，欲令從己。犍抵不從，夫人大怒，向王讒之，反被其罪。王聞，即節節解之，棄於塚間；命未絕頃，其夜虎、狼、羅剎來欲食之。是時佛到其邊，光明照之，身即平復，其心大喜；佛為說法，即得三道；佛牽其手將至祇洹。是人言：「我身已破、已棄，佛續我身，今當盡此形壽，以身布施佛及比丘僧。」明日波斯匿王聞如是事，來至祇洹，語犍抵言：「向汝悔過！汝實無罪，枉相刑害，今當與汝分國半治。」犍抵言：「我已厭矣，王亦無罪。我宿世殃咎，罪報應爾！我今以身施佛及僧，不復還也。」

> 例えば、祇園精舎に「ケンダイ」という名の奴隷がいました。 （※ケンダイとは、現世に繋がれた者という意味です。） 彼はペセナダ王の甥にあたり、見目麗しく勇敢で、心根も善良でした。 王の第一夫人は彼を気に入り、密かに呼び寄せて、自分の思いのままにしようとしました。 しかしケンダイはそれに応じませんでした。夫人は大いに怒り、王に讒言して、逆に彼に罪を着せたのです。 王はそれを聞き、彼の手足を関節ごとに切り離させ、墓地に捨てました。 息も絶え絶えのその夜、虎や狼、羅刹が彼を食べようと近づいてきました。 その時、仏が彼のもとに現れ、光明を放って照らし出すと、彼の体は元通りになりました。 ケンダイは心から喜びました。仏は彼に法を説き、彼はすぐに悟りの第一段階を得ました。 仏は彼の手を取って祇園精舎に連れて行き、彼は言いました。 「私は体をバラバラにされ、捨てられました。しかし仏が私の身を再び繋ぎ直してくださいました。この命ある限り、この身を仏と僧団に捧げます。」 翌日、ペセナダ王がこのことを聞き、祇園精舎に来てケンダイに言いました。 「先ほどは謝罪いたします。あなたにはまったく罪がなかったのに、不当に罰してしまいました。 今から私と国を二分して治めましょう。」 しかしケンダイは答えました。 「私はもう俗世には飽き飽きしています。王様に罪はありません。 ただ私の前世の行いが悪く、その報いを受けたまでです。 私は今、この身を仏と僧団に捧げました。もはや戻ることはありません。」

如是若有眾生形殘不具足者，蒙佛光明即時平復。是故言：乃至形殘皆得具足，蒙佛光明，即時平復。

> このように、もし体に障害のある者が仏の光明に触れれば、すぐにその身は完全な状態に癒される。したがって、たとえ体に障害があっても、仏の光明によってすべての者が完全に癒されるのである。

【經】

> お経

一切眾生皆得等心相視：如父如母、如兄如弟、如姊如妹，亦如親親及善知識。是時，眾生等行十善業道，淨修梵行，無諸瑕穢，惔然快樂，譬如比丘入第三禪；皆得好慧，持戒自守，不嬈眾生。

> すべての生きとし生けるものが、互いに心を等しくして見つめ合うようになる。それはまるで、父と母のように、兄と弟のように、姉と妹のように、あるいは親しい人や善き友のように。その時、人々は等しく十善業の道を行じ、清らかな修行に励み、汚れや穢れがなく、静かで満ち足りた安らぎのうちにある。それはまるで、比丘が第三禅に入ったような心地である。皆、優れた智慧を得て、戒を守り自らを慎み、他の生き物を悩ますことがない。

【論】

> 【論】 論とは、心を

問曰：

> お尋ねします。

是諸眾生未離欲，無禪定，不得四無量心，云何「得等心」？

> まだ欲を離れておらず、禅定もなく、四無量心を体得していないこれらの衆生が、どうして「平等心を得る」と言えるのでしょうか？

答曰：

> お答えしますと、

是等，非禪中等，是於一切眾生中無怨無恚；以此等故，善心相視。

> 彼らは、瞑想の中にいる者というだけではありません。すべての生きとし生けるものの中で、怨みもなく、怒りもないのです。そのような心で、互いに慈しみの眼差しを向け合うのです。

復次，等心者，經中有言：「云何等心？相視如父母，是名等心。」

> さらに、「平等の心」について、経典にはこう説かれています。「どのような心を平等と言うのか。すべての人を父母のごとく見ること、これを平等の心というのです。」

問曰：

> お尋ねします。

視一切眾生便是父母、兄弟、姊妹不？

> すべての生きとし生けるものを、父母、兄弟、姉妹のように見なすことができるでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

不也！見老者如父母，長者如兄，少者如弟，姊妹亦爾。等心力故，皆如親親。

> いいえ、そうではありません。年長者を自分の父母のように、自分より上の年長者を兄のように、年少者を弟のように見なし、女性に対しても姉妹のように見なすのです。心が平等であるからこそ、すべてを自分の肉親のように扱うのです。

問曰：

> お尋ねします。

云何非父母言父母，乃至非親親言親親？不墮妄語耶？

> なぜ「親でないのに親と言い、親しい縁者でないのに親しいと言う」のか。それは虚偽の言葉に堕ちるのではないか？

答曰：

> お答えしますと、

一切眾生無量世中，無非父母、兄弟、姊妹、親親者。

> すべての生きとし生けるものは、限りない過去世において、父母、兄弟、姉妹、親しい肉親でなかった者はいないのです。

復次，實法相中，無父母、兄弟；人著吾我，顛倒計故，名為父母、兄弟。今以善心力故，相視如父如母，非妄語也。

> さらに、真実の法の姿（実相）においては、父母や兄弟というものは本来存在しません。人は「自分」という考えに執着し、誤った見方（顛倒）によって計り考えるからこそ、父母や兄弟と呼んでいるのです。今、善い心の力によって、互いに父や母のように見なすことは、決して偽りの言葉ではないのです。

復次，如人以義相親，非父事之為父，非母事之為母，兄弟、兒子亦復如是。如人有子行惡，黜而棄之；他姓善行，養以為子。

> また、たとえば人が道理によって親しくなるように、実の親でなくても親として敬い、実の母でなくても母として敬い、兄弟や子どもについても同じことである。たとえば、ある人に悪事を働く子がいたならば、その子を追い出し捨てるであろう。しかし、他姓の者が善行を行うならば、その者を養い自分の子として迎えるであろう。

如是相視，則為等心。如說偈：

> そのように互いを見つめ合うとき、そこには等しい心が生まれる。次の詩のように。

「視他婦如母， 見他財如火，一切如親親， 如是名等見。」

> 他の女性は母のように見て、他人の財産は火のように見よ。 全てを親しい身内のようにすれば、それが正しい見方である。

是時，眾生等行十善業道者。

> その時、生きとし生けるものたちは、皆等しく十善の道を実践していました。

身業道三種：不殺、不盜、不邪婬；口業道四種：不妄語、不兩舌、不惡口、不綺語；意業道三種：不貪、不惱害、不邪見。

> 身の行いに関する三つの道：殺さないこと、盗まないこと、不適切な性行をしないこと。 口の行いに関する四つの道：嘘をつかないこと、仲違いをさせないこと、乱暴な言葉を使わないこと、飾った無意味な話をしないこと。 心の行いに関する三つの道：むさぼらないこと、怒りや害意を持たないこと、間違った見解を持たないこと。

自不殺生，不教他殺，讚不殺者，見人不殺代其歡喜；乃至邪見亦有四種。

> 自らは生き物を殺さず、他人にも殺させず、殺さない人を称賛し、人が殺さないのを見てともに喜ぶ。邪見に関しても、同じように四つの種類がある。

問曰：

> お尋ねします。

後三業道非業，前七業道亦業，云何言十善業道？

> 後の三つの業道（意業）は「行為そのもの」ではなく、前の七つの業道（身業・語業）は「行為」です。それなのに、なぜ「十善業道」と言うのでしょうか？

答曰：

> お答えしますと、

沒少從多故，通名業道。

> 多くのものを少なくするというわけではなく、通じて「業道」と名づけるのです。

後三雖非業，能起業；又復為業故生，是故總名業道。

> 後の三つは、業そのものではないけれども、業を起こすことができる。また、業のゆえに生じるものなので、まとめて「業道」と名付けられる。

「淨修梵行，無諸瑕穢」者。

> 「清らかな行いを身につけ、少しの汚れもない」ということです。

問曰：

> お尋ねします。

上說行十善業道，此理已足，今何以復言「淨修梵行」？

> 以上に十善業道を実践することについて述べたが、その道理はすでに十分である。それでは、なぜ今さらに「清らかに梵行を修める」と言うのだろうか。

答曰：

> お答えしますと、

有人行十善業道，不斷婬；今更讚此行梵天行，斷除婬欲故，言「淨修梵行」。

> 十善業道を実践している人がいても、まだ婬欲を断ち切っていない場合がある。 ここでさらに「梵天行」を称賛するのは、婬欲を完全に断ち尽くすからである。 ゆえに「清らかに梵行を修める」と言うのである。

「無諸瑕穢」者，行婬之人，身惡名臭，以是故讚斷婬人，言「無諸瑕穢」。

> 「瑕や汚れがない」とは、淫らな行いをする者は身も悪く名も臭くなる。ゆえに淫行を断った人を讃えて「瑕や汚れがない」と言うのである。

「惔然快樂」者。

> 淡々と、しかし確かな安らぎのうちにある。それが本当の幸せだ。

問曰：

> お尋ねします。

此何等樂？

> これは何という楽しみだろうか。

答曰：

> お答えしますと、

是樂二種：內樂，涅槃樂。是樂不從五塵生，譬如石泉，水自中出，不從外來。心樂亦如是，行等心，修梵行，得十善業道，清淨無穢，是名內樂。

> 楽には二つの種類がある。内なる楽と涅槃の楽である。この楽は五つの感覚対象から生じるものではない。例えば、岩清水が内部から湧き出て外部から来ないように、心の楽もまた同じである。平等な心で行動し、清らかな行いを修め、十の善行を成就して、清浄で汚れのない状態、これを内なる楽という。

問曰：

> お尋ねします。

此樂何界繫？欲界繫、色界繫、無色界繫耶？

> この楽は、どの世界に属するものか。欲界に属するのか、色界に属するのか、それとも無色界に属するのか。

答曰：

> お答えしますと、

是樂欲界繫，亦不繫；非色、無色界繫。

> 楽しいというのは、欲界に縛られていることもあり、また縛られていないこともあります。しかし、色界や無色界に縛られているということはありません。

今言「譬如比丘入第三禪」，若是色界繫，不應言「譬如」。以是事故知非色界繫。此欲界心生喜樂，一切滿身；譬如煖蘇漬身，柔軟和樂。

> 今、「たとえば比丘が第三禅に入るようなものだ」と言うが、もしそれが色界に属するのであれば、「たとえば」と言うべきではない。このことから、それは色界に属さないとわかる。この欲界の心は喜びと楽を生じ、全身に満ち渡る。それはちょうど、温めた酥（蘇）を身に染み込ませたかのように、柔らかく和らいで楽しいのである。

不繫者，得般若波羅蜜相，觀諸法不生不滅，得實智慧，心無所著，無相之樂，是為不繫。

> 執着しないとは、般若波羅蜜（プラジュニャー・パーラミター）の相を得て、諸々の法が生じもせず滅しもしないと観じ、真実の智慧を得て、心に執着するところがなく、相のない楽しみを得ることである。これが執着しないという意味である。

問曰：

> お尋ねします。

佛言涅槃第一樂，何以言「第三禪樂」？

> 仏が「涅槃こそ第一の楽である」と説かれたのに、なぜ「第三禅の楽」と言うのですか。

答曰：

> お答えしますと、

有二種樂：有受樂，有受盡樂。

> 二つの楽しみがあります。すなわち、「受け取る楽しみ」と「受け取ることのない楽しみ」です。

受盡樂，一切五眾盡更不生，是無餘涅槃樂。

> すべての楽しみを受け尽くし、五蘊のすべてが尽きて、再び生じることがない。これが無余涅槃の楽しみである。

能除憂愁煩惱，心中歡喜，是名樂受；如是樂受滿足，在第三禪中。

> 苦しみや煩いを取り除き、心に喜びが満ちる。これを楽受という。この楽受が完成した境地、それが第三禅である。

以是故言「譬如第三禪樂」。

> だからこそ「それは第三禅の楽（平安の境地）のようなものだ」と言われるのです。

問曰：

> お尋ねします。

初禪、二禪亦有樂受，何以故但言「第三禪」？

> 初禅と第二禅にも楽受はありますが、なぜ第三禅だけが特に「第三禅」とだけ言われるのでしょうか？

答曰：

> お答えしますと、

樂有上、中、下：下者初禪，中者二禪，上者三禪。

> 楽しみには上・中・下の3つがあります。下は初禅、中は第二禅、上は第三禅です。

初禪有二種：樂根、喜根；五識相應樂根，意識相應喜根。

> 初禅には二種類の楽受がある。五感に対応する身体的な楽受と、意識に対応する精神的な喜受である。

二禪中意識相應喜根。

> 二禅においては、意識に対応する喜びの根（喜根）がある。

三禪意識相應樂根。

> 三禅の意識と対応する楽の根。

一切三界中，除三禪，更無意識相應樂根。是五識不能分別，不知名字相，眼識生如彈指頃，意識已生。

> すべての三界（三つの世界）の中で、第三禅（第三段階の瞑想）を除けば、意識に対応する楽の根（快楽の源）は他に存在しません。五つの感覚（眼・耳・鼻・舌・身の識）は物事を区別することができず、名称や形を知ることもありません。例えば、眼の認識（視覚）が生じるのは指を弾くほどの一瞬であり、その間に既に意識（心の認識）は生じているのです。

以是故，五識相應樂根不能滿足樂，意識相應樂根能滿足樂。

> それゆえ、五つの感官に対応する楽根では楽を満たすことができませんが、意識に対応する楽根は楽を満たすことができるのです。

以是故，三禪中諸功德少，樂多故，無背捨、勝處、一切入。

> それゆえに、第三禅には多くの功徳が少なく、楽が多いため、背捨・勝処・一切入はありません。

過是三禪更無樂，以是故言「譬如比丘入第三禪」。

> この第三禅を過ぎれば、さらに楽しみはない。ゆえに「あたかも比丘が第三禅に入るかのようである」と言うのである。

一切眾生「皆得好慧，持戒、自守，不嬈眾生」者。

> すべての生きとし生けるものは、「みな優れた智慧を得て、戒律を守り、自らを慎み、他者を悩ませない」のである。

問曰：

> お尋ねします。

何以故次樂後，言「皆得好慧」？

> なぜなら、楽の後に「皆、優れた智慧を得る」と言ったのは、楽を追求すれば必ず智慧が生じるからである。

答曰：

> お答えしますと、

人未得樂，能作功德；既得樂已，心著樂多故，不作功德！是故樂後次第心得好慧。

> 楽しい時でさえも功徳を積もうとしない人が、まだ楽を得ていない時に、どうして功徳を積むことができましょうか。 しかし、一度楽を得てしまうと、心が楽に執着しすぎて、かえって功徳を積まなくなってしまうのです。 だからこそ、楽を得た後に、心が徐々に善い智慧を得ていくのです。

好慧者，持戒、自守，不嬈眾生。

> 善き智慧ある者は戒を守り自らを慎み、他者を害しない。

問曰：

> お尋ねします。

持戒是名自守，亦名不嬈眾生，何以故復言「自守、不嬈眾生」耶？

> 戒律を守ることを「自己を律する」といい、また「他者を害さない」とも言います。ではなぜ、重ねて「自己を律し、他者を害さない」と言うのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

身口善，是名「持戒」；撿心就善，是名「自守」，亦名「不嬈眾生」。

> 身と口で善を行うこと、これを「戒を保つ」といいます。 心を整えて善に従うこと、これを「自らを守る」といい、また「生きとし生けるものを悩ませない」ともいいます。

一切諸功德，皆戒身、定身、慧身所攝。

> すべての功徳（善き行いの成果）は、戒の実践、心を落ち着ける修行、智慧の体得という三つの柱に含まれています。

言「好持戒」，是戒身攝；「好自守」者，是定身攝；「不嬈眾生」，禪中慈等諸功德，是慧身攝。

> 「戒律をよく守る」とは、戒の集まりに含まれる。「自らをよく保つ」とは、定の集まりに含まれる。「生きとし生けるものを煩わせない」とは、禅定の中の慈しみなどの諸々の功徳であり、慧の集まりに含まれる。

問曰：

> お尋ねします。

亦無有人言「不好持戒」者，今何以言「好持戒」？

> また、「戒律をよく守るのは良くない」と言う人もいません。それなのに、なぜ今ここで「戒律をよく守ること」を言うのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

有如婆羅門著世界法者言：「捨家好持戒，是為斷種人。」

> 「あるバラモンが世の中の決まりに固執して言うには、『家を捨てて戒律をしっかり守る者は、家系を絶やす者だ』と。」

又以自力得財，廣作功德，如是有福。出家乞食，自身不給，何能作諸功德？如是為呵好持戒。

> また、自分の力で財を得て、広く功徳を積むことで福があるという。出家して托鉢（たくはつ）をする者は、自分の身すら満たせないのに、どうして様々な功徳を積めるのか。このようにして戒律を重んじることを非難した。

亦有著世界治法道人，呵好自守者言：「人當以法治世，賞善罰惡，法不可犯，不捨尊親，立法濟世，所益者大，何用獨善其身，自守無事？世亂而不理，人急而不救！」如是名為呵好自守。

> また、世の中を治める道を説く者たちがいて、自己を慎み守る者を非難して言う。「人は法をもって世を治めるべきだ。善を賞し悪を罰し、法を犯してはならない。目上の者や親しい者を捨てず、法を定めて世を救えば、その益は大きい。どうして独り善がりに身を慎み、何もせずにいるのか？ 世が乱れているのに治めず、人が危機にあるのに助けないとは！」 これが「自己を慎み守ることを非難する」ということである。

亦有人呵好不嬈眾生者言：「有怨不能報，有賊不能繫，惡人不能治，有罪無以肅，不能却患救難，默然無益，何用此為！」如是為呵好不嬈眾生。如說：

> また、「害をなさず、衆生を悩ませないこと」を非難する人もいます。「怨みがあっても報復できず、賊がいても捕らえられず、悪人を罰することもできず、罪人を裁くこともできない。災いを退け、苦難を救うこともできず、黙っているだけでは何の役にも立たない。一体何の意味があるのか」と。このようにして「害をなさず、衆生を悩ませないこと」を非難するのです。それは、次のように説かれています——

「人而無勇健， 何用生世間，親難而不救， 如木人在地！」

> 人は勇気がなければ、この世に生まれてくる意味がない。 困難にある親族を救おうとしないのは、まるで木偶の坊のようなものだ。

如是等種種不善語，名為呵不嬈眾生。

> このように様々な不善の言葉を、衆生を悩ませない「呵」といいます。

是諸天人皆得好慧，持戒、自守，不嬈眾生；行是善法，身心安隱，無所畏難，無熱無惱，有好名善譽，人所愛敬，是為向涅槃門。命欲終時，見福德心喜，無憂無悔。若未得涅槃，生諸佛世界，若生天上。以是故言：「得好慧，持戒、自守，不嬈眾生。」

> 天人は皆、優れた智慧を得て、戒律を守り、自らを慎み、他者を悩ませません。この善法を修めれば、心身ともに安らかで、恐れや困難がなく、苦しみや悩みもありません。良い名声と誉れを得て、人々から愛され敬われます。これが涅槃へと向かう門です。命が終わろうとするとき、善行の功徳を心に思い、喜びに満ち、憂いや悔いはありません。もし涅槃に至らなくとも、諸仏の浄土に生まれ、あるいは天上に生まれます。故にこう言うのです。「優れた智慧を得、戒律を守り、自らを慎み、他者を悩ませない」と。

## 大智度論卷第八

> 『大智度論』巻第八