---
title: "大智度論 · 1"
description: "大智度论由古印度龙树菩萨所造，后秦时期著名译经家鸠摩罗什翻译成中文。该论是佛教重要典籍，属于大乘中观学派的核心论著，主要阐释《大品般若经》的深奥义理。全书共一百卷，系统论述了般若空性思想、菩萨修行次第以及六度万行的实践方法，被誉为大乘佛教的百科全书。作为早期大乘佛教的代表性论典，大智度论对汉传佛教思想体系的形成影响深远，尤其为天台宗、华严宗等宗派提供了重要理论依据，在佛教哲学史上占据崇高地位。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cma8zpq2n0hj4ib0451sy5gey"
---

### 大智度初品中十方諸菩薩來釋論第十五

> 大智度論　初品の中の十方諸菩薩来　釈論第十五

【經】

> お経

是時，東方過如恒河沙等諸佛世界，其世界最在邊，世界名多寶，佛號寶積，今現在為諸菩薩摩訶薩說般若波羅蜜。

> そのとき、東方にあるガンジス川の砂の数ほど多くの仏の世界を過ぎた、その最も端にある世界を多宝といい、そこにおられる仏を宝積といいます。その仏は今、多くの菩薩たちのために般若波羅蜜を説いておられます。

【論】

> 【論】 論とは、心を

問曰：

> お尋ねします。

如佛所說「一切世界無量無邊」，云何言「其世界最在邊」？

> 仏が説かれたように「すべての世界は無限で果てがない」のなら、なぜ「その世界が最も端にある」と言えるのでしょうか。

「最在邊」者，是墮有邊相；若世界有邊，眾生應盡。何以故？無量諸佛，一一佛度無量阿僧祇眾生令入無餘涅槃，更無新眾生，故者應盡！

> 「最も辺にある」とは、有辺の相に堕ちることです。もし世界に辺があるならば、衆生は尽きてしまうはずです。なぜでしょうか。無数の諸仏がおられ、その一仏一仏が無量阿僧祇の衆生を救って無余涅槃に入れられても、新たな衆生はないのですから、衆生は尽きてしまうはずです。

答曰：

> お答えしますと、

佛經雖言世界無量，此方便說，非是實教。如實無神，方便故說言有神。

> 仏典は世界が無数にあると言っていますが、これは便宜的な教えであって、真実の教えではありません。真実には神は存在しませんが、便宜上、神が存在すると説いているのです。

此十四難，世界有邊、無邊俱為邪見。

> この十四の難問は、世界に辺りがあるとか、辺りがないとか、どちらも誤った見方です。

若無邊，佛不應有一切智。何以故？智慧普知，無物不盡，是名一切智。若世界無邊，是有所不盡。

> もし世界に果てがないのなら、仏に一切智などあるはずがありません。なぜなら、智慧とはあまねく知ることであり、知り尽くせないものは何一つない、それこそが一切智と呼ばれるものだからです。もし世界に果てがあるのなら、知り尽くせないものがあるということになります。

若有邊，如先說咎。

> もし「辺りがある」と言うならば、先に述べた過ちと同じです。

此二俱邪見。何以故？依無邊以破有邊故。

> これら二つはどちらも邪見です。なぜなら、無辺によって有辺を破るからです。

是多寶世界非一切世界邊，是釋迦牟尼佛因緣眾生可應度者最在邊。譬如一國中最在邊，不言一閻浮提最在邊。

> 多宝の世界はすべての世界の辺にあるのではありません。釈迦牟尼仏がご縁を結んだ衆生の中で、救われるべき人々が最も辺にいるのです。たとえば、一国の中で最も辺にいるとは言えても、一閻浮提の中で最も辺にいるとは言わないようなものです。

若無邊，佛不應一切智者，如上佛義中答，佛智無量故應知，譬如函大故蓋亦大。

> もし限りがないというなら、仏は一切智者ではないということになってしまう。しかし、前述の仏についての説明で答えたように、仏の智慧は無量であるから、そう知るべきである。たとえば、箱が大きければ蓋もまた大きいようなものである。

問曰：

> お尋ねします。

世界名多寶。寶有二種：財寶、法寶，何等寶多名為「多寶世界」？

> その世界の名前は多宝といいます。宝には二種類あります。財宝と法（ほう）の宝です。どの宝が多いので「多宝世界」というのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

二種皆有。

> 両方とも備わっています。

又多菩薩照法性等諸寶言此寶大菩薩所有，以為寶冠；寶冠中皆見諸佛。又了達一切諸法之性，多故名為「多寶」。

> また多くの菩薩が法性などの諸々の宝を照らしている。<note>この宝は大菩薩が持っているもので、宝冠とされている。宝冠の中にはすべての仏が見える。また、すべての法の本性をはっきりと悟っている。</note>多いことから「多宝」と名づけられている。

是中有佛名「寶積」。以無漏根、力、覺、道等法寶集故，名為「寶積」。

> そこには「宝積」という名の仏がおられます。煩悩のない根・力・覚・道といった法宝を集めておられるので、「宝積」と名づけられています。

問曰：

> お尋ねします。

若爾者，一切佛皆應號寶積！何以獨稱彼佛為「寶積」？

> それならば、すべての佛が「寶積」と名乘るべきではないか。なぜ特にあの佛だけを「寶積」と稱するのか。

答曰：

> お答えしますと、

雖一切諸佛皆有此寶，但彼佛即以此寶為名。如彌勒名為慈氏，諸佛雖皆有慈，但彌勒即以慈為名。

> すべての仏がこの宝を持っていても、その仏はこの宝をもって名とされています。たとえば弥勒は慈氏と呼ばれますが、すべての仏に慈があっても、弥勒だけが慈をもって名とされているのです。

復次，如寶華佛生時，一切身邊有種種華色光明故，名寶華太子。

> 次に、宝華仏が生まれたとき、その身の周りにさまざまな花の色の光が輝いていたため、宝華太子と名づけられました。

如燃燈佛生時，一切身邊如燈故，名燃燈太子，作佛亦名燃燈丹注云：舊名定光佛也。

> 燃燈仏がお生まれになったとき、その身のまわりがすべて灯りのように輝いていたので、燃燈太子と名づけられ、仏となられた後も燃燈仏と呼ばれました。

寶積佛亦如是，應當初生時亦多諸寶物生，或地生、或天雨，種種寶集故名為「寶積」。

> 宝積仏も同じように、最初に生まれたとき、多くの宝物が現れたと言われています。地から生じたものもあれば、天から降ったものもあり、さまざまな宝が集まったので「宝積」と名づけられたのです。

問曰：

> お尋ねします。

唯有釋迦牟尼一佛，無十方佛。何以故？是釋迦文尼佛無量威力、無量神通，能度一切眾生，更無餘佛。

> 釈迦牟尼というただ一つの仏だけがおられ、十方に仏がおられるわけではありません。なぜでしょうか。この釈迦牟尼仏には限りない力と限りない神通力があり、すべての生きとし生けるものを救うことがおできになるからです。ほかに仏はおられません。

如說：阿難一心思惟：「過去諸佛寶華、燃燈等，皆生好世，壽命極長，能度一切眾生。今釋迦牟尼佛，惡世生，壽命短，將無不能度一切弟子耶？」如是心疑。佛時即知阿難心之所念，即以日出時入日出三昧。爾時，佛身一切毛孔出諸光明，亦如日邊出諸光明，其光遍照閻浮提內；其明滿已，照四天下；照四天下滿已，照三千大千世界；照三千大千世界滿已，照十方無量世界。爾時世尊從臍邊出諸寶蓮華，如偈說：

> アナンは心の中でこう思いました。「過去の仏たち、宝華仏や燃灯仏などは、みな良い時代に生まれ、寿命も非常に長く、すべての衆生を救うことができた。しかし、今の釈迦牟尼仏は悪い時代に生まれ、寿命も短い。もしかすると、すべての弟子たちを救うことができないのではないだろうか」と。このように心に疑いを抱きました。仏はその時すぐに、アナンの心に浮かんだ思いをご存じになり、日の出の時刻に日出三昧に入られました。そのとき、仏の体のすべての毛穴からさまざまな光明が放たれ、まるで太陽の辺りから光が放たれるように、その光は閻浮提の中をあまねく照らしました。その明かりが満ちると、四天下を照らし、四天下を照らし終えると、三千大千世界を照らし、三千大千世界を照らし終えると、十方の無量の世界を照らしました。そのとき世尊は、へそのあたりからさまざまな宝の蓮華を出されました。次の偈に説かれるとおりです。

「青光琉璃莖， 千葉黃金色，金剛為華臺， 琥珀為華飾，莖軟不麁曲， 其高十餘丈，真青琉璃色， 在佛臍中立。其葉廣而長， 白光間妙色，無量寶莊嚴， 其華有千葉。妙華色如是， 從佛臍中出。是四華臺上， 寶座曜天日，座各有坐佛。 如金山四首，光曜等如一。 從四佛臍中，各出妙寶華； 華上有寶座，其座各有佛。 從是佛臍中，展轉出寶華， 華華皆有座，座座各有佛。 如是展轉化，乃至淨居天。 若欲知近遠，當以譬喻說： 有一大方石，縱廣如太山， 從上放令下，直過無所礙， 萬八千三百，八十有三歲， 如是年歲數，爾乃得到地。 於是兩中間，化佛滿其中， 其光大盛明，踰於火日月。 有佛身出水，亦有身出火， 或復現經行，有時靜默坐， 有佛行乞食，以此福眾生。 或復說經行，有時放光明， 或到三惡趣，氷闇火地獄。 和氣濟寒氷，光明照闇獄， 熱處施涼風，隨事救其害， 安之以無患，度之以法樂！」

> 青い光の瑠璃の茎、千の葉は黄金色、 金剛を華の台とし、琥珀を華の飾りとす。 茎は軟らかく、粗く曲がることなく、その高さは十丈あまり、 真青の瑠璃の色にして、仏のへその中に立つ。 その葉は広くして長く、白光と妙なる色が交じり、 無量の宝をもって荘厳せられ、その華には千の葉あり。 妙なる華の色はかくのごとし、仏のへその中より出ず。 この四つの華の台の上に、宝の座は天日を照らし、 座ごとに坐す仏あり。金山の四つの頂のごとく、 光輝き等しくひとつなり。四仏のへその中より、 おのおの妙なる宝の華を出す。華の上に宝の座あり、 その座ごとに仏あり。この仏のへその中より、 次々に宝の華を出し、華ごとにみな座あり、 座ごとにみな仏あり。かくのごとく次々に変化して、 浄居天に至るまで及ぶ。その遠近を知らんと欲すれば、 譬えをもって説くべし。ひとつの大きな方石あり、 縦横は太山のごとく、その上より落として下せば、 直ちに過ぎて障るるところなく、万八千三百、 八十三年を経て、かくのごとき年数ののち、 ようやく地に到る。かくしてその間の中に、 化仏はその中に満ち、その光は大いに盛んに明るく、 火と日月に逾えたる。仏ありて身より水を出し、 また身より火を出すものあり、あるいはまた経行を現し、 ときに静かに黙して坐し、仏ありて行乞食し、 この福をもって衆生を益す。あるいはまた経を説き行じ、 ときに光明を放ち、あるいは三悪趣に到り、 氷の闇と火の地獄に至る。和氣もて寒氷を済い、 光明もて闇獄を照らし、熱き処には涼風を施し、 事に随いてその害を救い、これを安んずるに無患をもてし、 これを度するに法楽をもてす。

如是種種方便，一時頃能度十方無量眾生；度眾生已，還入本處住佛臍中。

> このようにさまざまな方法によって、わずかな間に十方の無量の众生を救い、众生を救い終えると、またもとの場所に戻り、仏のへその中に住まわれた。

爾時，世尊從日出三昧起，問阿難言：「汝見此三昧神通力不？」阿難白佛：「唯然！已見。」重白佛言：「若佛住世一日之中，所度弟子可滿虛空，何況在世八十餘年！」

> そのとき、世尊は日出三昧から立ち上がり、阿難に問いかけられた。「あなたはこの三昧の神通力を見たか。」阿難は仏に申し上げた。「はい、すでに見ました。」そして重ねて仏に申し上げた。「もし仏が世に一日とどまられるだけで、お救いになる弟子は虚空を満たすほどでしょう。ましてや世に八十余年もとどまられるのですから。」

以是故言一佛功德神力無量，現化十方，無異佛也。

> このようなわけで、一仏の功德と神力は無量であり、十方に姿を現して化すこと、異なる仏はないのである。

復次，如佛所言「女人不得作轉輪聖王，不得作天帝釋、魔天王、梵天王，不得作佛」；「轉輪聖王不得一處並治，十力世尊亦無一世二佛」。又佛說言「佛言不虛，世無二佛」；「一法難值，是佛世尊也」；「無量億劫時時一有。是九十一劫中，三劫有佛。賢劫之前九十一劫，初有佛名鞞婆尸秦言種種見。第三十一劫中有二佛：一名尸棄秦言火，二名鞞恕婆附秦言一切勝。是賢劫中有四佛：一名迦羅鳩飡陀，二名迦那伽牟尼秦言金仙人也，三名迦葉，四名釋迦牟尼。除此餘劫皆空無佛，甚可憐愍」。若有十方佛，何以故言「餘劫無佛，甚可憐愍」？

> また、仏がおっしゃったように、「女性は転輪聖王になることはできず、天帝釈、魔天王、梵天王になることもできず、仏になることもできない」。「転輪聖王が同じ場所に二人並んで治めることはなく、十力の世尊もまた一つの世に二人の仏はない」。また仏はこう説かれた。「仏の言葉は偽りではない、世に二人の仏はいない」。「一つの法は遇い難く、それが仏世尊である」。「無量億劫のうち、時に一度だけ現れる。この九十一劫のうち、三劫に仏がいた。賢劫の前の九十一劫に、最初に鞞婆尸という仏がいた<note>秦の言葉で種々見</note>。第三十一劫の中に二人の仏がいた。一人は尸棄といい<note>秦の言葉で火</note>、二人目は鞞恕婆附といった<note>秦の言葉で一切勝</note>。この賢劫の中に四人の仏がいる。一人は迦羅鳩飡陀、二人目は迦那伽牟尼<note>秦の言葉で金仙人</note>、三人目は迦葉、四人目は釈迦牟尼である。これ以外の劫はすべて空しく仏がいない、まことに哀れむべきである」。もし十方に仏がいるのなら、なぜ「他の劫には仏がおらず、まことに哀れむべきである」と言うのか。

答曰：

> お答えしますと、

雖釋迦文尼佛有無量神力，能變化作佛，在十方說法、放光明、度眾生，亦不能盡度一切眾生，墮有邊故，則無未來世佛故。然眾生不盡，以是故應更有餘佛。

> 釈迦牟尼仏には無量の神力があり、仏に変化身して十方で法を説き、光明を放ち、衆生を救うことができるとしても、すべての衆生を救い尽くすことはできません。それは「有辺」に堕ちるからであり、未来の仏が存在しなくなるからです。しかし衆生は尽きることがないため、それゆえ他の仏がさらに存在するはずです。

復次，汝言：「佛自說：女人不得作五事；二轉輪聖王不得同時出世，佛亦如是，同時一世亦無二佛。」

> 次に、あなたはこう言いました。「仏ご自身が説かれた。女人は五つのことを成し遂げることができない。二人の転輪聖王が同時に世に現れることはない。仏もまた同じであり、同じ時代に二人の仏は現れない」と。

汝不解此義！佛經有二義：有易了義，有深遠難解義。如佛欲入涅槃時，語諸比丘：「從今日應依法不依人，應依義不依語，應依智不依識，應依了義經不依未了義。」

> あなたはこの意味を理解していない！仏経には二つの意味がある。わかりやすい意味と、深遠で理解しがたい意味である。たとえば、仏が涅槃に入ろうとされたとき、比丘たちにこう説かれた。「今日からは、人に依らず法に依るべきである。言葉に依らず意味に依るべきである。識に依らず智に依るべきである。未了義の経に依らず了義の経に依るべきである。」

「依法」者，法有十二部，應隨此法，不應隨人。

> 「法による」とは、法には十二部があり、この法に従うべきであり、人に従うべきではないということです。

「依義」者，義中無諍好惡、罪福、虛實故，語以得義，義非語也。如人以指指月以示惑者，惑者視指而不視月，人語之言：「我以指指月令汝知之，汝何看指而不視月？」此亦如是，語為義指，語非義也。是以故不應依語。

> 「依義」とは、真理の内容そのものには、好き嫌いや善悪、損得、実か虚かといった争いはないからです。言葉は真理を指し示すためにあるのであって、真理そのものが言葉なのではありません。たとえば、誰かが指で月を指し示して迷っている人に教えるとき、その迷っている人は指ばかりを見て月を見ません。そこでその人は言います。「私は指で月を指し示してあなたに知らせようとしているのに、なぜあなたは指を見て月を見ないのか」と。これも同じです。言葉は真理を指し示す指のようなもので、言葉そのものが真理ではありません。だからこそ、言葉に依拠してはならないのです。

「依智」者，智能籌量、分別善惡；識常求樂、不入正要。是故言「不應依識」。

> 「智に依る」とは、智はよく物事を考えはかり、善と悪とを見分けることができる。しかし識は、いつも楽しみを求めるばかりで、正しい道に入ることがない。だから「識に依るべきではない」と言うのです。

「依了義經」者：有一切智人佛第一，一切諸經書中佛法第一，一切眾生中比丘僧第一；布施得大富，持戒得生天——如是等是了義經。如說法師說法有五種利：一者大富，二者人所愛，三者端正，四者名聲，五者後得涅槃——是為未了義。云何「未了」？施得大富，是為了了可解；說法無財施而言「得富」，「得富」者，說法人種種讚施，破人慳心，亦自除慳，以是因緣得富，是故言「未了」。

> 「依了義経」とは、すべての知恵ある者のうち仏が第一であり、すべての経典のうち仏法が第一であり、すべての衆生のうち比丘僧が第一であるということ。布施をすれば大いなる富を得、戒を守れば天に生まれる――このようなものが了義経である。 説法師が法を説くことには五つの利益があると説かれる。第一に大いなる富、第二に人に愛されること、第三に端正な姿、第四に名声、第五に後に涅槃を得ること――これは未了義である。 なぜ「未了」というのか。施しによって大いなる富を得ることは、了了として理解できる。しかし説法には財の施しがないのに「富を得る」と言う。その「富を得る」とは、説法する者がさまざまに施しを讃え、人の慳みの心を破り、また自らも慳みを除く。この因縁によって富を得るのである。だから「未了」と言うのである。

是《多持經》方便說，非實義。是經中佛雖言世無二佛俱出，不言一切十方世界；雖言世無二轉輪聖王，亦不言一切三千大千世界無，但言四天下世界中無二轉輪聖王，作福清淨故獨王一世，無諸怨敵；若有二王不名清淨。雖佛無嫉妬心，然以行業世世清淨故，亦不一世界有二佛出。

> これは『多持経』で方便として説かれたもので、本当の意味ではありません。この経の中で仏は、世に二仏が同時に現れることはないと説いていますが、すべての十方世界について語っているのではありません。世に二人の転輪聖王はないと説いていますが、すべての三千大千世界にいないと言っているのではなく、四天下の世界の中に二人の転輪聖王はいないとだけ言っているのです。福徳を積んで清らかであるからこそ、ひとりで一世を治め、怨敵がいないのです。もし二人の王がいれば、清浄とは言えません。仏には嫉妬の心はありませんが、行業が世々清浄であるために、一つの世界に二仏が現れることもないのです。

百億須彌山，百億日月，名為三千大千世界。如是十方恒河沙等三千大千世界，是名為一佛世界。是中更無餘佛，實一釋迦牟尼佛。是一佛世界中，常化作諸佛種種法門、種種身、種種因緣、種種方便以度眾生。

> 百億の須弥山、百億の日月を、三千大千世界と呼びます。このような十方のガンジス川の砂の数ほどの三千大千世界を、一仏の世界と呼びます。その中には他の仏はおらず、ただお一人の釈迦牟尼仏がおられます。この一仏の世界において、常にさまざまな仏の教え、さまざまな姿、さまざまな因縁、さまざまな方便を現して、衆生を救っておられるのです。

以是故，《多持經》中一時一世界無二佛，不言十方無佛。

> ですから、『多持経』の中で「一つの時に一つの世界に二人の仏はいない」と説かれているのは、十方の世界に仏がいないと言っているのではありません。

復次，如汝言：「佛言：『一事難值，是佛世尊。』」又言：「九十一劫，三劫有佛，餘劫皆空無佛，甚可憐愍。」

> また、あなたが言うには、「仏は仰った。『一つのことに巡り会うのは難しい、それは仏世尊である。』」また言うには、「九十一劫のうち、三劫にだけ仏がおられ、残りの劫はすべて空しく仏はおられない。まことに哀れむべきである。」

佛為此重罪不種見佛善根人，說言：「佛世難值，如優曇波羅樹華，時時一有。」如是罪人輪轉三惡道，或在人天中，佛出世時，其人不見。如說：舍衛城中九億家，三億家眼見佛，三億家耳聞有佛而眼不見，三億家不聞不見。佛在舍衛國二十五年，而此眾生不聞不見，何況遠者！

> 仏は、この重い罪のために仏を見る善根を植えていない人々に対して、こう説かれました。「仏がこの世に現れることは、優曇波羅樹の花のように、ほんの時たまにしかない」と。このような罪ある人々は三悪道を巡り続け、あるいは人や天の世界にいても、仏が世に現れるとき、その人は見ることができません。次のように説かれています。舎衛城の九億の家のうち、三億の家は仏を目の当たりにし、三億の家は仏がおられると耳にしたが目には見えず、三億の家は聞くことも見ることもなかった。仏が舎衛国におられた二十五年の間、これらの衆生は聞くことも見ることもなかったのですから、まして遠く离れた人々はなおさらです。

復次，佛與阿難入舍衛城乞食，是時有一貧老母立在道頭。阿難白佛：「此人可愍，佛應當度。」佛語阿難：「是人無因緣。」阿難言：「佛往近之，此人見佛相好光明，發歡喜心，為作因緣。」佛往近之，迴身背佛；佛從四邊往，便四向背佛，仰面上向；佛從上來，低頭下向；佛從地出，兩手覆眼不肯視佛。佛語阿難：「復欲作何因緣？」有如是人無度因緣，不得見佛。以是故佛言：「佛難得值，如優曇波羅樹華。」譬如水雨雖多，處處易得，餓鬼常渴，不能得飲。

> また、仏が阿難と共に舎衛城へ托鉢に入られたとき、一人の貧しい老女が道の端に立っていた。阿難は仏に申し上げた。「この人は気の毒です。仏がお救いになるべきです。」仏は阿難に言われた。「この人にはご縁がない。」阿難が言った。「仏が近づかれれば、この人は仏の立派なお姿と光明を見て、喜ぶ心を起こすでしょう。それがご縁となります。」仏が近づかれると、老女は体を巡らせて仏に背を向けた。仏が四方から近づかれると、四方に背を向け、顔を上に向けた。仏が上から来られると、頭を低くして下を向いた。仏が地面から現れると、両手で目を覆い、仏を見ようとしなかった。仏は阿難に言われた。「またどんなご縁を作ろうというのか。」このように、救われる縁のない人は、仏に会うことができないのである。それゆえ仏は言われた。「仏に会うことは難しく、優曇波羅の花のようにまれである。」たとえば、雨がどんなに多く降っても、あちこちで水は簡単に手に入るが、餓鬼はいつも渇きながらも、それを飲むことができないようなものである。

汝言：「九十一劫，三劫有佛。」為一佛世界故，不為一切餘諸世界。

> あなたはこう言いました。「九十一劫の間に、三つの劫に仏が現れた」と。これは一つの仏の世界についてのことであって、その他のすべての世界についてではないのです。

「是處劫空無有佛出，甚可憐愍」者，亦是此間一佛世界，非為一切餘諸世界也。以是故知有十方佛。

> 「この場所では、長い間、仏が現れないので、たいそうあわれである」というのは、これもこの一つの仏の世界のことであって、すべての他の世界のことではない。だからこそ、十方に仏がおられることがわかる。

復次，聲聞法中有十方佛，汝自不解。如《雜阿含經》中說：「譬如大雨連注，渧渧無間，不可知數。諸世界亦如是，我見東方無量世界，有成、有住、有壞，其數甚多，不可分別；如是乃至十方。是十方世界中，無量眾生有三種身苦：老、病、死；三種心苦：婬、瞋、癡；三種後世苦：地獄、餓鬼、畜生。」一切世界皆有三種人：下、中、上。下人著現世樂；中人求後世樂；上人求道，有慈悲心，憐愍眾生。有因緣云何無果報？佛言：「若無老、病、死，佛不出世。」是人見老、病、死苦惱眾生，心中作願：「我當作佛，以度脫之，拔其心病，濟後世苦。」如是十方世界皆有佛出因緣，何以故獨言「此間有佛，餘處無」耶？譬如有人言「有木無火，有濕地而無水」，是不可信。佛亦如是，眾生身有老、病、死苦，心有婬、瞋、癡病，佛為斷此三苦，令得三乘故出世。一切世界中皆有此苦，云何無佛？

> また、声聞の法の中にも十方の仏がいると説かれているのに、あなた自身がそれを理解していないのです。たとえば『雑阿含経』にはこう説かれています。「激しい雨が続けて降り注ぎ、一滴一滴と絶え間がなく、その数を知ることができないように、もろもろの世界もまた同じである。私は東方の無量の世界を見ると、そこには生まれ、とどまり、壊れるものがあり、その数は非常に多く、区別することができない。同じように十方の世界もそうである。この十方の世界には、無量の衆生がいて、三つの身体の苦しみがある。すなわち、老い、病い、死である。三つの心の苦しみがある。すなわち、婬欲、怒り、愚かさである。三つの来世の苦しみがある。すなわち、地獄、餓鬼、畜生である。」すべての世界には三種の人がいる。下の人、中の人、上の人である。下の人は現世の楽しみに執着する。中の人は来世の楽しみを求める。上の人は道を求め、慈悲の心を持ち、衆生をあわれむ。原因と縁があるのに、どうして果報がないことがあろうか。仏は言われた。「もし老い、病い、死がなければ、仏は世に出られない。」この人は老い、病い、死に悩まされる衆生を見て、心の中に願いを起こす。「私は仏となって、彼らを救い解脱させ、その心の病を取り除き、来世の苦しみから救おう。」このように十方の世界には、すべて仏が世に出る原因と縁がある。なぜただ「ここにだけ仏がいて、他のところにはいない」と言うのか。たとえば、ある人が「木はあるが火はない、湿った土地はあるが水はない」と言うようなもので、これは信じられない。仏もまた同じである。衆生の身体には老い、病い、死の苦しみがあり、心には婬欲、怒り、愚かさの病がある。仏はこの三つの苦しみを断ち、三乗を得させるために世に出られる。すべての世界にこの苦しみがあるのに、どうして仏がいないことがあろうか。

復次，盲人無量而言唯須一醫，此亦不然。以是故應更有十方佛。

> また、目の見えない人が大勢いても、必要な医者は一人だけでよい、というのは正しくありません。ですから、十方に仏がおられるべきなのです。

復次，《長阿含》中有經言：有鬼神王守北方，與眾多百千萬鬼神後夜到佛所，頭面禮佛足，一面住，放清淨光，普照祇桓，皆令大明。合掌讚佛說此二偈：

> また、『長阿含経』の中にこう説かれています。北方を守る鬼神の王が、数多くの百千万の鬼神たちとともに、後夜に仏のもとへやって来ました。頭を地につけて仏の足を礼拝し、一方に退いてとどまり、清らかな光を放つと、その光は祇桓精舎をあまねく照らし、すべてを明るく輝かせました。そして合掌して仏を讃え、次の二つの偈を唱えました。

「大精進人我歸命！ 佛二足中尊最上，智慧眼人能知見， 諸天不解此慧事。過去未來今諸佛， 一切我皆稽首禮！如是我今歸命佛， 亦如恭敬三世尊。」

> 大いに精進する人に私は帰依します。　　仏は二足あるものの中で最も尊く、　 智慧の目を持つ人は知ることができますが、　　もろもろの天はこの智慧のことを理解できません。 過去・未来・現在のすべての仏に、　　私はすべて頭を垂れて礼拝します。 このように私は今、仏に帰依し、　　また三世の尊い方々を恭敬するのと同じです。

如是偈中有十方佛。

> このように、この偈には十方の仏がおられます。

鬼神王稽首三世佛，然後別歸命釋迦牟尼佛。若無十方現在佛，當應但歸命釋迦文尼佛，不應言過去、未來、現在諸佛。是故知有十方佛。

> 鬼神の王たちが三世の仏に跪いて礼拝し、その後、別に釈迦牟尼仏に帰依しました。もし十方に現在仏がいないのであれば、ただ釈迦牟尼仏だけに帰依すべきであり、過去・未来・現在の諸仏と言うべきではありません。ですから、十方に仏がおられることが分かります。

復次，過去世有無量佛，未來世亦有無量佛，以是故現在亦應有無量佛。

> また、過去の世には無数の仏がおられ、未来の世にもまた無数の仏がおられる。ですから、現在にも無数の仏がおられるはずです。

復次，若佛於聲聞法中言有十方無數無量佛，眾生當言「佛易可遇」，不勤求脫；「若不值此佛，當遇彼佛」，如是懈怠，不勤求度。譬如鹿未被箭時不知怖畏，既被箭已，踔圍而出。人亦如是，有老、病、死苦，聞唯有一佛，甚難可遇，心便怖畏，勤行精進，疾得度苦。以是故佛於聲聞法中不言有十方佛，亦不言無。若有十方佛，汝言無，得無限罪；若無十方佛，而我言有，生無量佛想，得恭敬福。所以者何？善心因緣福德力大故。譬如慈心三昧力觀一切眾生皆見受樂，雖無實益，以慈觀故，是人得無量福。十方佛想亦復如是。若實有十方佛而言無，得破十方佛無量重罪。何以故？破實事故。肉眼人雖俱不知，但心信言有，其福無量；若實有而意謂無，其罪甚重。人自用心尚應信有，何況佛自說摩訶衍中言實有十方佛而不信耶？

> 次に、もし仏が声聞の教えの中で「十方に無数の仏がいる」と説かれたなら、人々は「仏に会うのは簡単だ」と思い、解脱を求めて努力しなくなるでしょう。「この仏に会えなくても、あの仏に会えるだろう」と考え、怠けて悟りを求める努力をしなくなります。たとえば鹿は矢に射られるまでは怖れを知らず、射られてから圍いを跳び越えて逃げ出します。人も同じです。老・病・死の苦しみがあっても、「ただ一つの仏だけがいて、会うのはとても難しい」と聞けば、心に怖れが生じ、怠らず精進して、すばやく苦しみから救われようとします。それゆえ仏は声聞の教えの中で十方に仏がいるとは説かれず、またいないとも説かれませんでした。 もし十方に仏がいるのに「いない」と言えば、無限の罪を得ます。もし十方に仏がいないのに「いる」と言えば、無量の仏を想い、恭敬の福を得ます。なぜでしょうか。善い心を縁とする福德の力は大きいからです。たとえば慈心三昧の力で一切の衆生がみな楽しみを受けていると観じれば、実際の利益はなくても、慈しみをもって観じることで、その人は無量の福を得ます。十方の仏を想うこともまた同じです。 もし実際に十方に仏がいるのに「いない」と言えば、十方の仏を否定する無量の重罪を得ます。なぜでしょうか。真実を損なうからです。肉眼の人はみな知らないとしても、ただ心から信じて「いる」と言えば、その福は無量です。もし実際にいるのに心で「いない」と思うなら、その罪はとても重いのです。自分自身の心でさえ信じるべきなのに、まして仏が自ら摩訶衍の中で「実際に十方に仏がいる」と説かれているのを信じないことがありましょうか。

問曰：

> お尋ねします。

若有十方無量諸佛及諸菩薩，今此眾生多墮三惡道中，何以不來？

> 十方に無数の仏や菩薩がおられるのに、なぜ今ここで多くの人々が三悪道に落ちているのに、来てくださらないのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

眾生罪重故，諸佛菩薩雖來不見。又法身佛常放光明、常說法，而以罪故不見、不聞。譬如日出，盲者不見；雷霆振地，聾者不聞。如是法身常放光明、常說法，眾生有無量劫罪垢厚重不見、不聞。如明鏡淨水，照面則見；垢翳不淨，則無所見。如是眾生心清淨則見佛；若心不淨則不見佛。今雖實有十方佛及諸菩薩來度眾生，而不得見。

> 罪が重いために、仏や菩薩が来られても見えないのです。また、法身の仏は常に光明を放ち、常に説法されていますが、罪のゆえに見えず、聞こえないのです。たとえば、太陽が昇っても目の見えない人には見えず、雷が地を揺るがしても耳の聞こえない人には聞こえないのと同じです。このように法身は常に光明を放ち、常に説法されていますが、衆生は無量劫にわたる罪の汚れが厚く重いために、見ることも聞くこともできません。明るい鏡や澄んだ水は、顔を映すことができますが、汚れで曇っていては何も映りません。同じように、衆生の心が清らかであれば仏を見ることができ、心が清らかでなければ仏を見ることはできません。今、実際に十方の仏やもろもろの菩薩が衆生を救うために来ておられますが、それを見ることができないのです。

復次，如釋迦牟尼佛在閻浮提中生，在迦毘羅國，多遊行東天竺六大城。有時飛到南天竺億耳居士舍受供養。有時暫來北天竺月氏國降阿波羅龍王。又至月氏國西，降女羅剎；佛在彼石窟中一宿，于今佛影猶在，有人就內看之則不見，出孔遙觀光相如佛。有時暫飛至罽賓隸跋陀仙人山上，住虛空中，降此仙人；仙人言：「我樂住此中，願佛與我佛髮、佛爪，起塔供養。」塔于今現存此山下有離越寺；離越，應云隸跋陀。人與佛同國而生猶不遍見，何況異處！以是故，不可以不見十方佛故而言無也。

> 次に、釈迦牟尼仏が閻浮提の中に生まれ、迦毘羅国にあって、主に東天竺の六大城を遊行されたことについてお話ししましょう。あるときは南天竺の億耳居士の家へ飛んで行かれ、供養を受けられました。あるときは少しの間、北天竺の月氏国へ来られ、阿波羅龍王を調伏されました。また月氏国の西へ行き、女羅刹を調伏されました。仏はそこの石窟で一晩を過ごされ、その仏の影は今もなお残っています。人が中に入って見ようとしても見えませんが、穴から遠くに眺めると、その光の姿は仏さながらです。あるときは少しの間、罽賓の隸跋陀仙人の山へ飛んで行かれ、虚空の中に留まってこの仙人を調伏されました。仙人は言いました。「私はここに住むのが楽しみです。どうか仏よ、私に仏の髪と爪をお与えください。塔を建てて供養いたします。」その塔は今も現存しています<note>この山の下に離越寺があります。離越は、隸跋陀と言うべきです</note>。人々は仏と同じ国に生まれても、なお遍くお会いすることはできません。ましてや別の場所にいる場合はなおさらです。ですから、十方の仏を見ないからといって、仏が存在しないと言ってはならないのです。

復次，彌勒菩薩有大慈悲而在天宮不來此間，可以不來故便謂無彌勒耶？彌勒近而不來不以為怪，十方佛遠，何足怪也？

> また、弥勒菩薩は大きな慈悲をお持ちでありながら天宮にいてここには来られませんが、来られないからといって弥勒がいないということになるでしょうか。弥勒は近くにいて来られないことを不思議とは思いませんが、十方の仏は遠くにおられるのですから、どうして不思議に思うことがありましょうか。

復次，十方佛不來者，以眾生罪垢深重不種見佛功德，是故不來。

> また、十方の仏が来られないのは、衆生の罪の汚れが深く重く、仏を見る功徳を積んでいないためであり、それゆえに来られないのです。

復次，佛知一切眾生善根熟、結使薄然後來度。如說：

> 次に、仏はすべての衆生の善根が成熟し、煩悩が薄くなってから、救いに来られることを知っておられます。次のように説かれています。

「諸佛先觀知有人， 一切方便不可度，或有難度或易化， 或復有遲或有疾，或以光明或神足， 種種因緣度眾生：有欲作逆佛愍除， 或欲作逆佛不遮；剛強難化用麁言， 心柔易度用軟言；雖有慈悲平等心， 知時智慧用方便。」

> 仏たちはまず、人々の心を見て知る。あらゆる手立てをもってしても、すべてを導けるわけではない。 導きやすい人もいれば、導きにくい人もいる。進みが遅い人もいれば、早い人もいる。 あるときは光によって、あるときは神通力によって、さまざまなきっかけで生きとし生けるものを導く。 背こうとする者には、仏は哀れんで妨げを取り除き、また背こうとする者を、仏はあえて止めないこともある。 頑なで導きにくい者には強い言葉を用い、心やわらかく導きやすい者にはやさしい言葉を用いる。 慈悲と平等の心を持ちながらも、時を知る智慧によって、適切な手立てを用いるのである。

以是故，十方佛雖不來，不應言無。

> だからといって、十方の仏が来られないからといって、仏など存在しないと言ってはならない。

復次，佛智慧力、方便、神通，舍利弗等大阿羅漢、大菩薩彌勒等尚不能知，何況凡人！

> また、仏の智慧の力、方便、神通は、舎利弗などの大阿羅漢や、弥勒などの大菩薩でさえ知ることができないのです。ましてや普通の人間には、とうてい及ぶものではありません。

復次，諸佛大菩薩，有時眾生恐懼急難，一心念，或時來度之。

> また、諸仏や大菩薩は、時に衆生が恐怖や困難に陥ったとき、一心に念じれば、そのときに救いに来てくださることがあります。

如大月氏西佛肉髻住處國，一佛圖中，有人癩風病，來至遍吉菩薩像邊，一心自歸念遍吉菩薩功德，願除此病。是時遍吉菩薩像即以右手寶𤦲光明摩其身，病即除愈。

> 大月氏の西にある、仏の肉髻が留まっているという国のことです。ある仏塔の中で、癩病を患った人が、遍吉菩薩の像のもとへやって来ました。そして一心に帰依し、遍吉菩薩の功徳を心に念じて、この病を除いてくださるよう願いました。そのとき、遍吉菩薩の像は右手の宝の光でその人の体を撫で、病はたちまち癒えたのです。

復一國中，有一阿蘭若比丘大讀摩訶衍，其國王常布髮令蹈上而過。有一比丘語王言：「此人摩訶羅，不多讀經，何以大供養如是？」王言：「我一日夜半欲見此比丘，即往到其住處。見此比丘在窟中讀《法華經》，見一金色光明人騎白象、合手供養，我轉近便滅。我即問大德：『以我來故，金色光明人滅？』比丘言：『此即遍吉菩薩。遍吉菩薩自言：「若有人誦讀《法華經》者，我當乘白象來教導之。」我誦《法華經》故遍吉自來。』」遍吉，《法華經》名為普賢。

> ある国に、一人の阿蘭若比丘がいて、大乗経典をよく読んでいた。その国の王は、いつも自分の髪を敷いてこの比丘に踏ませて通らせていた。別の比丘が王に言った。「この人はただの凡僧で、それほど経典を読んでもいないのに、なぜそれほど手厚く供養なさるのですか。」王は答えた。「ある日の夜半、私はこの比丘に会いたくなって、すぐにその住まいへ行った。するとこの比丘が洞窟の中で『法華経』を読んでいるのが見えた。金色の光明を放つ人が白い象に乗り、両手を合わせて供養しているのを見たが、私が近づくにつれて消えてしまった。そこで私は大徳に尋ねた。『私が来たために、金色の光明の人が消えたのですか。』比丘は言った。『あれこそ遍吉菩薩です。遍吉菩薩は自らこう言っておられます。「もし『法華経』を読誦する者がいれば、私は白い象に乗って導きに来る」と。私が『法華経』を読誦しているので、遍吉が自ら来られたのです。』」<note>遍吉とは、『法華経』では普賢と呼ばれる菩薩である。</note>

復有一國，有一比丘誦《阿彌陀佛經》及《摩訶般若波羅蜜》，是人欲死時語弟子言：「阿彌陀佛與彼大眾俱來。」即時動身自歸，須臾命終。命終之後弟子積薪燒之。明日，灰中見舌不燒。誦《阿彌陀佛經》故，見佛自來；誦《般若波羅蜜》故，舌不可燒。

> また、ある国に一人の僧がいて、『阿弥陀仏経』と『摩訶般若波羅蜜経』を唱えていた。この人が死ぬときに弟子たちに言った。「阿弥陀仏が大勢の仏たちとともに来られた。」すぐに体を動かして自ら帰依し、まもなく命が終わった。命が終わった後、弟子たちは薪を積んで火をつけた。翌日、灰の中に舌が焼けずに残っているのを見た。『阿弥陀仏経』を唱えた功徳によって、仏が自ら来られるのを見ることができ、『般若波羅蜜経』を唱えた功徳によって、舌は焼けなかったのである。

此皆今世現事。如經中說：諸佛菩薩來者甚多。如是處處，有人罪垢結薄、一心念佛、信淨不疑，必得見佛，終不虛也。

> これらはみな、今の世で実際に起こっていることです。経典にも説かれているとおり、諸仏や菩薩が現れることは非常に多くあります。ですから、どのような場所であっても、罪や汚れが薄く、心を一つにして念仏し、浄らかな信を持って疑わない人ならば、必ず仏にお会いできるのです。決してむだにはなりません。

以是諸因緣故知實有十方佛。

> これらの多くの理由から、十方に仏が実在することがわかります。

【經】

> お経

爾時，彼世界有菩薩，名曰普明。

> そのとき、その世界に普明という名の菩薩がいました。

【論】

> 【論】 論とは、心を

「菩薩」義，如〈讚菩薩品〉中已說。

> 「菩薩」という言葉の意味については、すでに〈菩薩を讃える品〉の中で説明しました。

問曰：

> お尋ねします。

云何名「普明」？

> なぜ「普明」と呼ばれるのですか。

答曰：

> お答えしますと、

其明常照一切世界，是故名「普明」。

> その光はいつもすべての世界を照らしているので、「普明」と呼ばれます。

【經】

> お経

見此大光，見地大動，又見佛身。到寶積佛所，白佛言：「世尊！今何因緣有此光明照於世間，地大震動，又見佛身？」

> 大きな光を見て、大地が大きく揺れるのを見て、また仏のお姿を見ました。そこで宝積仏のもとへ行き、仏に申し上げました。「世尊、どのような理由で、今この光が世間を照らし、大地が大きく震動し、また仏のお姿を見ることができるのでしょうか。」

【論】

> 【論】 論とは、心を

地動、佛身、光明如先說。

> 大地が揺れ動き、仏の体から光が放たれたことは、先に述べたとおりです。

問曰：

> お尋ねします。

是普明菩薩於諸菩薩中最尊第一，應自知因緣，何以問佛？

> ここにいる普明菩薩は、もろもろの菩薩の中で最も尊く第一であり、自らその因縁を知っているはずなのに、なぜ仏に問いかけたのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

是普明菩薩雖大，不能知諸佛智慧、神力；譬如月光雖大，日出則滅。以是故問佛。

> 普明菩薩はすぐれた方ですが、それでも諸仏の智慧や神通力を知ることはできません。たとえば月の光がどんなに大きくても、日が昇れば消えてしまうようなものです。それゆえに、普明菩薩は仏に尋ねたのです。

復次，菩薩常欲見佛，心無厭足；無因緣尚欲見佛，何況有大因緣！

> 次に、菩薩は常に仏に会いたいと願い、その心に満足することがありません。特別な理由がなくても仏に会いたいと願うのですから、ましてや大きな理由があるときはなおさらです。

復次，是事不應疑。譬如犢子隨母，未足怪也！又如小王朝宗大王，法應爾故。諸大菩薩亦如是，得利大故常欲隨佛。是菩薩見是事，心即覺知是必大事，見無數無量世界皆得相見，以是故問。

> また、このことについて疑う必要はありません。たとえば子牛が母牛に従うのは、少しも不思議なことではありません。また、小さな王が大きな王に従うのも、道理として當然のことです。偉大な菩薩たちも同じで、大きな利益を得ているため、常に仏に従いたいと願っています。この菩薩はこの光景を見て、心にすぐに「これはきっと大きな出来事に違いない」と気づき、無数の世界がすべて互いに見えるようになるのを見て、それゆえに問いかけたのです。

復次，有人言：是菩薩自有神力能知，亦是釋迦牟尼佛力令知；但為諸小菩薩不知故問佛。諸小菩薩怖難未除，不能問佛，是故為之發問。是普明菩薩發其世界，與諸小男子、小女人俱，以是故知不能問佛。譬如大象能劈大樹，令諸小象得食枝葉。

> また、ある人々はこう言います。「この菩薩は自らの神通力によって知ることができ、また釈迦牟尼仏の力によっても知ることができる。しかし、小さな菩薩たちが知らないために、仏に尋ねたのである。小さな菩薩たちは恐怖や困難がまだ取り除かれておらず、仏に問うことができない。そのために、彼らのために問いを発したのである。この普明菩薩は自らの世界から発ち、多くの若い男子や若い女子と共に来ている。それゆえに、仏に問うことができないと知られるのである。たとえば、大きな象が大きな木を裂くことができ、小さな象たちが枝や葉を食べることができるようなものである。」

是故問佛：「大德！何因何緣有此大光明、地大震動，又見佛身？」

> そこで仏に尋ねました。「尊き方よ、どのような理由と縁によって、この大きな光明と大地の大きな揺れがあり、また仏のお姿を拝することができるのでしょうか。」

## 大智度論卷第九

> 大智度論 第九巻