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title: "大智度論 · 2"
description: "大智度论由古印度龙树菩萨所造，后秦时期著名译经家鸠摩罗什翻译成中文。该论是佛教重要典籍，属于大乘中观学派的核心论著，主要阐释《大品般若经》的深奥义理。全书共一百卷，系统论述了般若空性思想、菩萨修行次第以及六度万行的实践方法，被誉为大乘佛教的百科全书。作为早期大乘佛教的代表性论典，大智度论对汉传佛教思想体系的形成影响深远，尤其为天台宗、华严宗等宗派提供了重要理论依据，在佛教哲学史上占据崇高地位。"
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## 大智度初品中十方菩薩來釋論第十五之餘卷第十

> 大智度論　初品中「十方の菩薩が来たる」の釈論　第十五の余り<note>第十巻</note>

龍樹菩薩造

> 龍樹菩薩による

後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉　詔譯

> 後秦の亀茲国三蔵法師鳩摩羅什が詔を奉じて訳す

【經】

> お経

寶積佛報普明言：「善男子！西方度如恒河沙等世界，有世界名娑婆，是中有佛，號釋迦牟尼，今現在欲為諸菩薩摩訶薩說般若波羅蜜，是其神力。」

> 宝積仏が普明に告げた。「善男子よ、西方にガンジス川の砂の数ほどの世界を過ぎたところに、娑婆という世界があります。そこには釈迦牟尼という名の仏がおられ、今まさに菩薩摩訶薩たちのために般若波羅蜜を説こうとしておられます。これはその仏の神力によるものです。」

【論】

> 【論】 論とは、心を

問曰：

> お尋ねします。

佛譬如須彌山，不為大海水波所動，今何以答普明？

> 仏陀はたとえば須弥山のようなもので、大海の波に動かされることはありません。では、なぜ今、普明に答えるのでしょうか。

是則動相。攝心則無語，散心則有說。說法從覺觀生，覺觀麁事，佛不應有此麁事！

> それは動きの相です。心を集中すれば言葉はなく、心が散れば語りが生じます。説法は覚観から生じるものであり、覚観は粗い事柄です。仏にはこのような粗い事柄があるはずがありません。

答曰：

> お答えしますと、

佛雖入深禪定，不為世事所動，今以大慈悲心憐愍眾生，為之說法斷疑。

> 仏は深い禅定に入られていても、世の中の出来事に心を動かされることはありません。しかし今、大きな慈悲の心で生きとし生けるものを哀れみ、そのために法を説き、疑いを断ち切ってくださいます。

如須彌山王，小風則不能動，若隨藍風至則大動散；佛亦如是，有大慈悲風來，憐愍心動，散身無數，入五道教化眾生，或作天身乃至畜生。

> 須弥山王のような存在は、そよ風ではびくとも動きませんが、大暴風が吹けば大きく揺れ動いて崩れ散ります。仏もまた同じです。大きな慈悲の風が吹くと、憐れみの心が動き、その身を無数に分けて、五つの世界に赴き衆生を導きます。天の姿となり、あるいは畜生の姿となってまで、衆生を教化されるのです。

復次，佛實不動常入禪定，先世福德因緣故，身邊出聲，應物如響；如天伎樂，自然發聲。

> また、仏は実際には動くことなく、常に禅定に入っておられます。過去世の福德の因縁によって、仏の体の周りから声が聞こえ、その声は物事に応じて響くように現れます。それはまるで天の伎楽が自然に音を奏でるかのようです。

又如摩尼珠，隨人所欲，種種與之，若欲衣被、飲食、音樂，自恣所須，自然皆得；佛亦如是，從其身邊諸毛孔中自然有聲，隨心說法，是中佛無憶想，亦無分別。

> また、摩尼珠（如意宝珠）のように、人の望みに応じて、衣服や食べ物、音楽など、欲しいものを自由に得ることができます。仏も同じように、その体の毛穴から自然に声が聞こえ、心に応じて法を説かれます。その中で仏は何かを思い描くこともなく、区別することもありません。

如說《密迹金剛經》中，佛有三密：身密、語密、意密。一切諸天人皆不解、不知。

> たとえば『密迹金剛経』に説かれているように、仏には三つの秘密があります。身の秘密、言葉の秘密、心の秘密です。すべての天人たちは、これを理解することも、知ることもできません。

有一會眾生，或見佛身黃金色，白銀色，諸雜寶色；有人見佛身一丈六尺，或見一里、十里、百千萬億，乃至無邊無量遍虛空中，如是等名身密。

> ある集会の衆生の中には、仏の体が黄金色に見える者もいれば、白银色に見える者もあり、さまざまな宝石の色に見える者もいます。ある人は仏の体を一丈六尺と見なし、ある人は一里、十里、百千万億、さらには果てしなく広がり虚空に遍満するほどと見なします。このようなことを身密と名づけます。

語密者，有人聞佛聲一里，有聞十里、百千萬億無數無量遍虛空中；有一會中，或聞說布施，或有聞說持戒，或聞說忍辱、精進、禪定、智慧，如是乃至十二部經、八萬法聚，各各隨心所聞，是名語密。

> 語密（ごみつ）とは、人によって仏の声が一里までしか聞こえない者がいたり、十里、百千万億の無数のどこまでも虚空に響き渡るように聞こえる者がいたりすることです。また、一つの法会の中で、ある者は布施について説かれるのを聞き、ある者は持戒について説かれるのを聞き、ある者は忍辱、精進、禅定、智慧について説かれるのを聞きます。さらには十二部経や八万の法聚に至るまで、それぞれが自分の心に応じて聞くのです。これを語密といいます。

是時目連心念：「欲知佛聲近遠。」

> そのとき、目連は心に思った。「仏の声がどれほど近くまで届くのか、知りたいものだ。」

即時以己神足力，至無量千萬億佛世界而息，聞佛音聲如近不異。

> するとすぐに、自分の神通力によって、無数の千万億もの仏の世界を飛び越え、そこでひと休みしても、仏の声はすぐそばにいるかのように聞こえた。

所息世界，其佛與大眾方食。

> <span>所息世界</span>では、その仏と大衆がちょうど食事をしていました。

彼土人大，目連立其鉢緣，彼佛弟子問其佛言：「此人頭虫從何所來？著沙門被服而行！」

> その国の人々は体が大きかった。目連が鉢の縁に立っていると、その仏の弟子たちが仏に尋ねた。「この頭の虫はどこから来たのでしょうか。沙門の衣をまとって歩いています。」

其佛報言：「勿輕此人！此是東方過無量佛土，有佛名釋迦牟尼，此是彼佛神足弟子。」

> その仏は答えられました。「この人を軽んじてはいけない。この方は東方のはるか彼方、無量の仏の国を過ぎたところにある、釈迦牟尼という仏の神通力に優れた弟子なのだ。」

彼佛問：「目度伽略子！汝何以來此？」

> その仏はお尋ねになった。「目度伽略子よ、あなたはどうしてここへ来たのですか。」

目連答言：「我尋佛音聲故來至此。」

> 目連は答えた。「私は仏の声をたよりに、ここまで来たのです。」

彼佛告目連：「汝尋佛聲，過無量億劫，不能得其邊際。」

> その仏は目連に告げられました。「あなたが仏の声をたどって、無量億劫を過ぎても、その果てにたどり着くことはできない。」

復次，佛出世，為斷眾生疑故為說法，此不應難！如不應問曰：「何以除闇？」佛亦如是。不應問佛何以故答！

> また、仏が世に現れるのは、衆生の疑いを断つために法を説くためであり、このことを難しいと考える必要はありません。たとえば「なぜ闇を除くのか」と問うべきではないのと同じです。仏もまた同様で、「なぜ仏が答えられるのか」と問うべきではありません。

問曰：

> お尋ねします。

諸佛等故，名為等覺，今何以稱言「是彼神力」？

> すべての仏が等しいという理由から、等覚と呼ばれます。ではなぜ今、「それはあの仏の神通力による」と言うのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

示無吾我，彼此滅嫉慢故。

> 私という執着を示さず、互いの嫉妬や慢心を滅ぼすからです。

復次，世界有天常求尊勝，憍慢法故，自言天地、人物，是我化作。如梵天王謂諸梵言：「我作汝等。」

> また、世の中には、常に自分が最も優れていると考え、驕り高ぶる心から、「天地や人々は、私が作り出したものだ」と言う神がいます。ちょうど、梵天王がもろもろの梵天たちに「私があなたがたを作ったのだ」と言うようなものです。

毘紐天言：「世間有大富貴名聞人，皆是我身威德力分，我能成就世間，亦能破壞世間，世間成壞皆是我作。」

> 毘紐天は言いました。「世の中で大きな富や名声を得ている人々は、みな私の威徳の力によるものである。私は世の中を成り立たせることもできれば、壊すこともできる。世の中の成り立ちも崩壊も、すべて私が行っているのだ。」

有如是天，破因緣法相；諸佛實語不破因緣法相，故言「是彼佛神力」。

> このような天は因縁の法相を破るが、諸仏の真実の言葉は因縁の法相を破らない。だから「あの仏の神力によるものである」と言うのです。

【經】

> お経

是時，普明菩薩白寶積佛言：「世尊！我今當往見釋迦牟尼佛，禮拜、供養；及見彼諸菩薩摩訶薩紹尊位者，皆得陀羅尼及諸三昧，於諸三昧而得自在。」

> そのとき、普明菩薩は宝積仏に申し上げた。「世尊よ、私は今こそ釈迦牟尼仏にお会いしに行きましょう。礼拝し、供養いたします。また、あの菩薩摩訶薩たち、尊者に次ぐ位に就く者たちにもお会いしたいのです。彼らはみな陀羅尼とさまざまな三昧を悟り、それらの三昧において自在を得ています。」

【論】

> 【論】 論とは、心を

問曰：

> お尋ねします。

若諸佛持戒、禪定、智慧、度人皆等，是普明菩薩何以欲來見釋迦牟尼佛？

> もし諸仏が持戒・禅定・智慧において、そして人々を救うことにおいても皆等しいのであれば、普明菩薩はなぜ釈迦牟尼仏に会いに来ようとしたのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

諸菩薩常欲見佛無厭足，聽法無厭足，見諸菩薩僧無厭足；諸菩薩於世間法皆以厭患，於上三事心無厭足。

> 菩薩たちは、いつも仏にお会いしたいと願い、決して飽きることがありません。教えを聞くことにも、菩薩の僧団にお会いすることにも、決して飽きることがありません。菩薩たちは世間の物事にはみな嫌気がさしていますが、この三つのことに対しては心が満たされることがないのです。

如手居士從淨居天來欲見佛，其身微細沒失，譬如消蘇，不得立地。

> 手居士は浄居天からやってきて仏に会いたいと思いましたが、その体はあまりに微細で、まるで溶けた酥のように消えてしまい、地面に立つことができませんでした。

佛語手居士：「汝化作麁身，觀此地相！」居士即如佛言化作麁身，觀念此地相，頭面禮佛足，一面立。

> 仏は手居士（すぐりこじ）に言われた。「あなたは粗い身体に変じて、この地のありさまを観なさい。」居士はすぐに仏の言葉どおりに粗い身体に変じ、この地のありさまを観じて、頭を地につけて仏の足を礼し、脇に立った。

佛問居士：「汝幾事無厭生淨居天？」

> 仏が居士に問われた。「あなたはどのような行いによって、浄居天に生まれることができたのですか。」

答言：「我三事無厭生淨居天：一、見諸佛供養無厭，二、聽法無厭，三、供給僧無厭。如佛在閻浮提，四部眾常隨逐佛，聽法、問法；是我淨居諸天，亦常從我聽法、問法。」

> そこで私はこう答えました。「私は三つのことに飽きることなく、浄居天に生まれました。一つには、諸仏にお会いして供養することに飽きないこと。二つには、法を聞くことに飽きないこと。三つには、僧に供養することに飽きないことです。ちょうど仏が閻浮提におられるとき、四部の衆がいつも仏に従って、法を聞き、法を問うように、私たち浄居天の者たちも、いつも私に従って法を聞き、法を問うのです。」

聲聞猶尚聽法無厭足，何況法性身菩薩？

> 声聞でさえも法を聞くことに飽きることはありません。ましてや法性身の菩薩ならなおさらです。

以是故，普明菩薩來見釋迦牟尼佛。

> そのため、普明菩薩は釈迦牟尼仏に会いに来たのです。

「及見此間諸菩薩摩訶薩紹尊位者，皆得陀羅尼及諸三昧」，如先「讚菩薩品」中說。

> また、ここにいる、尊者となるべき位を継ぐ大菩薩たちが、みな陀羅尼とさまざまな三昧を得ているのを見ました。これは先の「菩薩を讃える品」で説かれたとおりです。

「於諸三昧而得自在」者。

> さまざまな瞑想の境地を自在に使いこなしている、ということです。

問曰：

> お尋ねします。

如佛一人，一切三昧中得自在，何以言「菩薩亦一切三昧中得自在」？

> 仏お一人がすべての三昧において自在を得られるのなら、なぜ「菩薩もまたすべての三昧において自在を得る」と言うのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

有二種三昧：一者佛三昧，二者菩薩三昧。

> 三昧には二つの種類があります。一つは仏の三昧、もう一つは菩薩の三昧です。

是諸菩薩於菩薩三昧中得自在，非佛三昧中。

> これらの菩薩たちは、菩薩の三昧の中では自在を得ていますが、仏の三昧の中ではそうではありません。

如說《諸佛要集經》中：

> 『諸仏要集経』の中で次のように説かれています。

文殊尸利欲見佛集，不能得到。諸佛各還本處，文殊尸利到諸佛集處，有一女人近彼佛坐入三昧，文殊尸利入，禮佛足已，白佛言：「云何此女人得近佛坐而我不得？」

> 文殊尸利が仏の集まりに会おうとしたが、参加できなかった。諸仏がそれぞれ自分のもとの場所へ戻ると、文殊尸利は諸仏の集まる場所へ行った。そこには一人の女が仏の近くに座って三昧に入っていた。文殊尸利は中に入り、仏の足を礼拝してから仏に申し上げた。「なぜこの女は仏の近くに座ることができ、私にはできないのですか。」

佛告文殊尸利：「汝覺此女人，令從三昧起，汝自問之。」文殊尸利即彈指覺之而不可覺，以大聲喚亦不可覺，捉手牽亦不可覺，又以神足動三千大千世界猶亦不覺。

> そこで仏は文殊尸利に告げられました。「あなたがこの女人を目覚めさせ、三昧から起き上がらせなさい。そして、あなた自身で彼女に尋ねなさい。」文殊尸利はすぐに指を弾いて目覚めさせようとしましたが、目覚めませんでした。大きな声で呼びかけても、目覚めませんでした。手を取って引っ張っても、目覚めませんでした。さらに神通力で三千大千世界を揺り動かしても、なお目覚めませんでした。

文殊尸利白佛言：「世尊！我不能令覺。」

> 文殊師利が仏に申し上げました。「世尊、私は覚ることができません。」

是時，佛放大光明照下方世界，是中有一菩薩名棄諸蓋，即時從下方出，來到佛所，頭面禮佛足，一面立。

> そのとき、仏は大きな光を放ち、下方の世界を照らされた。そこに棄諸蓋（けしょがい）という名の菩薩がいて、その場で下方から現れ、仏のもとへやって来て、頭を仏の足に礼して、一方に立った。

佛告棄諸蓋菩薩：「汝覺此女人！」即時彈指，此女從三昧起。

> 仏は棄諸蓋菩薩に告げられました。「あなたはこの女人を目覚めさせなさい。」その瞬間、指を鳴らすと、この女は三昧から立ち上がりました。

文殊尸利白佛言：「以何因緣，我動三千大千世界不能令此女起？棄諸蓋菩薩一彈指，便從三昧起？」

> 文殊尸利が仏に申し上げました。「どのような理由で、私が三千大千世界を揺り動かしてもこの女を立ち上がらせることができなかったのに、棄諸蓋菩薩が指を一つ鳴らすだけで、彼女は三昧から覚めたのでしょうか。」

佛告文殊尸利：「汝因此女人初發阿耨多羅三藐三菩提意，是女人因棄諸蓋菩薩初發阿耨多羅三藐三菩提意。以是故，汝不能令覺。汝於諸佛三昧中功德未滿。是諸菩薩三昧中得自在，佛三昧中少多入，而未得自在故耳。」

> 仏は文殊尸利に告げられた。「あなたはこの女人によって、初めて阿耨多羅三藐三菩提の心を起こした。この女人は棄諸蓋菩薩によって、初めて阿耨多羅三藐三菩提の心を起こした。それゆえ、あなたは彼女を覚らせることができない。あなたは諸仏の三昧における功德がまだ満ちていない。これらの菩薩たちは三昧において自在を得ているが、仏の三昧には少しばかり入ることはできても、まだ自在を得てはいないのである。」

【經】

> お経

佛告普明：「欲往隨意，宜知是時。」

> 仏は普明に告げられました。「行きたいと思うなら、思うままに行きなさい。今がその時です。」

爾時，寶積佛以千葉金色蓮華與普明菩薩而告之曰：「善男子！汝以此華散釋迦牟尼佛上。生彼娑婆世界諸菩薩，難勝難及，汝當一心遊彼世界！」

> そのとき、宝積仏は千の花びらを持つ金色の蓮華を普明菩薩に手渡し、こう告げた。「善男よ、この花を釈迦牟尼仏の上に散らしなさい。あの娑婆世界に生まれた菩薩たちは、勝ることも及ぶことも難しい。一心にその世界を訪れなさい。」

【論】

> 【論】 論とは、心を

問曰：

> お尋ねします。

佛何以言「欲往隨意，宜知是時」？

> 仏はなぜ「行きたいと思うなら、自分の判断で行くのがよい。今がその時だと知るべきだ」と言われたのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

佛於弟子愛斷故，於弟子中心不著故。

> 仏は弟子への執着を断ったため、弟子たちに心をとらわれることがないのです。

復次，是菩薩未得一切智，未得佛眼故，心中少多有疑，謂釋迦牟尼佛功德大，所益或勝，是故語言：「欲往隨意。」

> また、この菩薩はまだ一切智を得ておらず、仏の眼も得ていないため、心の中に少しばかり疑いがあります。すなわち、釈迦牟尼仏の功德は大きく、その利益はあるいは勝れているのではないか、と思ったのです。そこでこう言いました。「行きたいと思うままに参りなさい。」

復次，是菩薩遙見釋迦牟尼佛身小，心生小慢，言彼佛不如。是故佛語：「汝往莫觀佛身，勿念世界，但聽佛說法！」

> また、この菩薩は遠くから釈迦牟尼仏の体が小さいのを見て、心に少し驕りが生まれ、「あの仏は自分より劣っている」と言いました。そこで仏はこう言われました。「あなたは行きなさい。仏の体を眺めてはいけない。世界のことを思ってはいけない。ただ仏の説法を聞きなさい。」

復次，是世界離娑婆世界極遠，最在東邊。是諸菩薩聞釋迦牟尼佛所說諸法相，與寶積佛說諸法相正同，便言：「世界雖遠，法相不異！」增益大信，心轉堅固。

> また、この世界は娑婆世界からはるか遠く離れ、最も東のかなたにあります。この菩薩たちは、釈迦牟尼仏が説かれた諸法のありさまを聞いて、宝積仏が説かれた諸法のありさまとまったく同じであると知り、こう言いました。「世界は遠く離れていても、法のありさまに違いはないのだ！」こうして大きな信を増し、その心はいよいよ堅固になりました。

復次，先世因緣故，雖遠處生，應來聽法；譬如繩繫雀腳，雖復遠飛，攝之則還。

> また、過去の因縁があるからには、たとえ遠くに生まれていても、法を聞きに来るべきです。たとえば、ひもを雀の足に結んでおけば、遠くへ飛んでも引き寄せれば戻ってくるようなものです。

復次，是娑婆世界中菩薩，見普明遠來聽法，便作是念：「彼從遠來，況我生此世界中而不聽法？」

> また、この娑婆世界の菩薩たちは、普明がはるか遠くから法を聞きに来たのを見て、こう思いました。「あの方は遠くから来られたのだから、まして私たちはこの世界に生まれながら、法を聞かないわけにはいかない」と。

如是種種因緣，是故佛言：「欲往隨意，宜知是時。」

> このようなさまざまな理由から、仏はこうおっしゃいました。「行きたいと思うなら、自分の心のままに行きなさい。ただ、その時がふさわしいかをよくわきまえなさい。」

問曰：

> お尋ねします。

諸佛力等，更不求福，何故以華為信？

> 諸仏の力は等しいのに、さらに福を求めることはないのに、なぜ花をもって信とするのですか。

答曰：

> お答えしますと、

隨世間法行故。如二國王力勢雖同，亦相贈遺。

> 世間の作法に従って行動するからです。まるで、二人の国王が力も勢力も同じであっても、お互いに贈り物をし合うようなものです。

復次，示善軟心故，以華為信。世間法中，使從遠來，必應有信；佛隨世法，是故致信。

> 次に、善く柔らかな心を示すために、花をもって信となす。世間の法において、遠くから使いが来たならば、必ず信があるべきである。仏は世間の法に従われるがゆえに、信を致すのである。

復次，諸佛恭敬法故，供養於法，以法為師。何以故？三世諸佛，皆以諸法實相為師。

> また、もろもろの仏は法を敬うがゆえに、法を供養し、法を師としています。なぜでしょうか。過去・現在・未来のすべての仏は、みな諸法の実相を師としているからです。

問曰：

> お尋ねします。

何以不自供養身中法，而供養他法？

> なぜ、自分の身の中にある法を供養せずに、他の法を供養するのですか。

答曰：

> お答えしますと、

隨世間法，如比丘欲供養法寶，不自供養身中法，而供養餘持法、知法、解法者；佛亦如是，雖身中有法，而供養餘佛法。

> 世間の慣習に従い、例えば比丘が法宝を供養しようとするとき、自らの身中の法を供養せず、他の法を保ち、法を知り、法を理解する者を供養する。仏もまた同様に、自らの身中に法がありながら、他の仏法を供養される。

問曰：

> お尋ねします。

如佛不求福德，何以故供養？

> 仏が功徳を求めていないのなら、なぜ供養するのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

佛從無量阿僧祇劫中修諸功德，常行諸善，不但求報，敬功德故而作供養。

> 仏は計り知れないほどの長い時間をかけて、さまざまな功徳を積んでこられました。いつも善い行いを続け、その見返りを求めるのではなく、功徳そのものを尊ぶために供養をなさったのです。

如佛在時，有一盲比丘，眼無所見而以手縫衣，時針絍脫，便言：「誰愛福德？為我絍針！」

> 仏が在世のころ、目の見えない一人の比丘がいました。目は見えませんが、手で衣を縫っていました。そのとき針の糸が外れてしまったので、こう言いました。「福徳を求める人はいませんか。私に針に糸を通してくれませんか。」

是時佛到其所，語比丘：「我是愛福德人，為汝絍針來！」

> そのとき、仏はその場所へ来て、比丘に言いました。「私は福徳を愛する者です。あなたのために針に糸を通しに来ました。」

是比丘識佛聲，疾起著衣禮佛足，白佛言：「佛功德已滿，云何言愛福德？」

> その比丘は仏の声だと気づくと、急いで立ち上がり、衣を整えて仏の足を礼拝し、仏に申し上げた。「仏の功德はすでに満ちておられるのに、なぜ福德を愛するとおっしゃるのですか。」

佛報言：「我雖功德已滿，我深知功德恩，功德果報，功德力，令我於一切眾生中得最第一。由此功德，是故我愛。」

> 仏はお答えになった。「私はすでに功德を満たしているが、功德の恩をよく知っている。功德の果報、功德の力をよく知っている。その功德によって、私はすべての众生の中で最もすぐれた者となった。この功德があるからこそ、私はそれを愛するのだ。」

佛為此比丘讚功德已，次為隨意說法。是比丘得法眼淨，肉眼更明。

> 仏はこの比丘の功德を讃えた後、そのまま説法をされた。この比丘は法眼清らかになり、肉眼はいっそう明らかになった。

復次，佛雖功德已滿，更無所須，為教化弟子故，語之言：「我尚作功德，汝云何不作？」

> 次に、仏はすでに功德を満たしておられ、これ以上必要とされるものは何もないにもかかわらず、弟子たちを教え導くためにこうおっしゃいました。「私さえも功德を積んでいるのだから、お前たちはどうして積まないことがあろうか。」

如伎家百歲老翁而舞，有人呵之言：「老翁年已百歲，何用是舞？」翁答：「我不須舞，但欲教子孫故耳！」佛亦如是，功德雖滿，為教弟子作功德故，而作供養。

> 百歳の老いた芸人が踊っていると、ある人が叱って言った。「百歳にもなって、なぜ踊るのか」。老人は答えた。「私は踊る必要はない。ただ子孫に教えるために踊っているのだ」。仏も同じである。功德はすでに満ちているが、弟子たちに功德を積ませるために、供養をされるのである。

問曰：

> お尋ねします。

若爾者，佛何以不自遙散釋迦牟尼佛上，而遣人供養？

> それならば、仏はなぜ自ら遠くから釈迦牟尼仏の上に散らさず、人を遣わして供養させたのですか。

答曰：

> お答えしますと、

為此間諸菩薩信普明故。

> この場の菩薩たちが普明を信じているためです。

復次，佛所遣使，水、火、兵、毒，百千種害，終不能傷；道里懸遠，欲令安隱故。

> また、仏が遣わした使者は、水、火、兵、毒といった百千もの害を受けることがあっても、ついに傷つくことはありません。それは、道のりがはるかに遠く、安全に目的地へ導くためなのです。

問曰：

> お尋ねします。

何故不以好寶深經、若佛菩薩寶言此寶諸天所不見，能出種種妙物如摩尼珠寶，故曰名佛寶為信，而以蓮華？蓮華小物，何足為信？

> なぜ、優れた宝物や深い教え、あるいは仏や菩薩の宝<note>この宝は、諸天にも見ることができず、摩尼珠のようにさまざまな妙なるものを生み出すことができる。だから仏宝と名づけるのである</note>を信のしるしとせず、蓮華を用いるのか。蓮華は小さなもので、どうして信のしるしとするのに足りるだろうか。

答曰：

> お答えしますと、

佛不須物，佛寶、天寶尚亦不須，何況人寶！以不須故不遣，亦以佛自等有故不遣。深經亦爾。

> 仏は何も必要とされません。仏宝や天宝さえも必要とされないのですから、ましてや人の宝など必要ありません。必要とされないからこそ送り届けられないのであり、また仏ご自身が等しくお持ちであるからこそ送り届けられないのです。深い教えの経典もまた、同じです。

復次，諸經於佛則無甚深，甚深之稱出自凡人。凡人所疑，於佛無礙；凡人所難，佛皆易之。

> 次に、経典は仏にとっては深遠なものではなく、深遠という言葉は凡人から出たものです。凡人が疑うことも、仏には妨げになりません。凡人が難しいと感じることも、仏はすべて容易にされます。

復次，華香清妙，宜為供養；如人獻贈，必以異物。

> 次に、花や香りは清らかで素晴らしく、供養にふさわしいものです。ちょうど人が贈り物をするとき、必ず特別な品を選ぶのと同じです。

問曰：

> お尋ねします。

何故正以蓮華，不以餘物？

> なぜ蓮華をもって正とし、ほかのものをもってしないのか。

答曰：

> お答えしますと、

供養唯以華香、幡蓋；華有二事：有色、有香。

> 供養にはただ花、香り、旗、傘だけを用います。花には二つの性質があります。色と香りです。

問曰：

> お尋ねします。

餘華亦有香、有色，何故唯以蓮華供養？

> 他の花にも香りや色があるのに、なぜ蓮の花だけを供養に使うのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

如《華手經》中說：十方佛皆以華供養釋迦文佛。

> 『華手経』に説かれているように、十方の仏たちはみな花をもって釈迦文仏を供養しました。

復次，蓮華有三種：一者人華，二者天華，三者菩薩華。

> また、蓮の花には三つの種類があります。一つは人の蓮華、二つは天の蓮華、三つは菩薩の蓮華です。

人華，大蓮華十餘葉；天華，百葉；菩薩華，千葉。

> 人の花は、大きな蓮の花で十枚余りの花びらがあります。天の花は百枚、菩薩の花は千枚です。

彼世界中多有金色光明千葉蓮華，娑婆世界中唯有化華千葉，無水生者，以是故遣。

> あの世界には、金色に輝く千の花びらを持つ蓮の花がたくさんあります。しかし、この娑婆世界にあるのは、姿を変えて現れた千枚の花びらを持つ花だけで、水に生えているものはありません。ですから、使いを送ったのです。

是蓮華千葉金色，如上「舌相」中說。

> 蓮の花は千枚の花びらを持ち、金色に輝いています。これは前述の「舌相」の説明で述べたとおりです。

問曰：

> お尋ねします。

佛何以令普明以華散佛上？

> なぜ仏は普明に花を仏の上に散らすようにお命じになったのですか。

答曰：

> お答えしますと、

供養法，華、香、幡蓋：幡蓋應上，乾香應燒，濕香應塗地，末香及華應散。

> 供養の方法として、華・香・幡蓋があります。幡蓋は掲げ、乾いた香は焚き、湿った香は地に塗り、抹香と華は散らすのです。

問曰：

> お尋ねします。

何以不供奉而已，而自散上？

> なぜ供養しないだけで、自分から離れてしまうのですか。

答曰：

> お答えしますと、

手自供養是身業，軟言問訊是口業，能起身、口業是意業。

> 手ずから供養するのは身の業であり、やさしい言葉で語りかけるのは口の業であり、身と口の業を起こすのは意の業です。

是三業得功德牢固，與佛道作因緣。

> 三つの行いによって功德は確固たるものとなり、仏の道への因縁となる。

問曰：

> お尋ねします。

何以言「汝當一心敬慎，娑婆世界中諸菩薩難及難勝」？

> どうして「あなたは一心に敬い慎みなさい。娑婆世界の菩薩たちには及びもつかず、勝つこともできない」と言うのですか。

答曰：

> お答えしますと、

佛、辟支佛、阿羅漢一切諸賢聖，皆一心敬慎。

> 仏も、独覚も、阿羅漢も、すべての聖なる方々は、みな一心に敬い、慎んでいます。

魔若魔民，及內身結使，種種先世罪報皆是賊，近此諸賊故，應一心敬慎；譬如入賊中行，不自慎護，為賊所得。

> 魔や魔に従う者たち、そして自分の内側にある煩悩や、さまざまな前世の罪の報いも、すべては賊のようなものです。このような賊が近くにいるからこそ、一心に慎み深くあるべきです。たとえば、賊の中を歩くときに、自分を慎んで守らなければ、賊に捕らえられてしまうようなものです。

以是故言「一心敬慎，以遊彼界。」

> そのため、「心を一つにして慎み深く、かの世界を訪れる」と言うのです。

復次，以人心多散，如狂如醉；一心敬慎，則是諸功德初門。

> また、人の心は散りやすく、狂ったように酔ったようでもあります。一心に敬い慎むことこそ、あらゆる功德への第一の入口です。

攝心得禪，便得實智慧；得實智慧，便得解脫；得解脫，便得盡苦。如是事，皆從一心得。

> 心を集中して禅に入れば、真実の智慧が得られます。真実の智慧を得れば、解脱が得られます。解脱を得れば、苦しみを完全に終わらせることができます。このようなことは、すべて一つの心から生まれるのです。

如佛般涅槃後一百歲，有一比丘，名優波毱，得六神通阿羅漢，當爾時世為閻浮提大導師。

> 仏が涅槃に入られてから百年後、優波毱（うばきく）という名の比丘がいて、六神通を得た阿羅漢となった。その当時、彼は閻浮提（えんぶだい）の偉大な導師であった。

彼時有一比丘尼，年百二十歲，此比丘尼年小時見佛。

> そのとき、一人の比丘尼がいました。年は百二十歳で、この比丘尼は若いころに仏にお会いしたことがありました。

優波毱來入其舍，欲問佛容儀，先遣弟子。弟子語比丘尼：「我大師優波毱欲來見汝，問佛容儀。」

> 優波毱がその家に入り、仏の姿かたちについて尋ねようとして、まず弟子を遣わした。弟子は比丘尼に言った。「わが師である優波毱があなたに会いに来て、仏の姿かたちについて尋ねようとしています。」

是時，比丘尼以鉢盛滿麻油，著戶扇下試之，知其威儀詳審以不？

> そのとき、比丘尼は鉢に麻油をなみなみと注ぎ、戸の下に置いて試しました。自分の立ち居振る舞いが落ち着いているかどうかを確かめるために。

優波毱入，徐排戶扇，麻油小棄。

> 優婆毱はそっと戸を押し開け、麻油を少しだけ捨てた。

坐已，問比丘尼：「汝見佛不？容儀何似？為我說之！」

> 座ってから、比丘尼に尋ねました。「あなたは仏を見たことがありますか。その姿かたちはどのようなものでしたか。私に話してくれませんか。」

比丘尼答：「我爾時年小，見佛來入聚落，眾人言佛來，我亦隨眾人出，見光明便禮。頭上金釵墮地，在大闇林下，佛光明照之，幽隱皆見，即時得釵。我自是後，乃作比丘尼。」

> 比丘尼が答えました。「そのとき、私はまだ幼く、仏が村にいらっしゃるのを見ました。人々が『仏が来られた』と言うので、私も皆について外へ出て、光を見てお礼をしました。すると頭の金のかんざしが地面に落ちて、暗い林の中にあったのですが、仏の光がそれを照らし、隠れたところまで見えるようになり、すぐにかんざしを見つけることができました。それ以来、私は比丘尼となったのです。」

優波毱更問：「佛在世時，比丘威儀禮法何如？」

> 優波毱がさらに尋ねました。「仏が在世だったころ、比丘たちの威儀や礼法はどのようなものでしたか？」

答曰：「佛在時，六群比丘無羞無恥，最是弊惡；威儀法則勝汝今日。何以知之？六群比丘入戶不令油棄。此雖弊惡，知比丘儀法，行、住、坐、臥，不失法則；汝雖是六神通阿羅漢，不如彼也！」

> 答えていう。「仏が在世のとき、六群の比丘は羞恥心がなく、最も陋劣で悪かった。しかし威儀と法則は、あなた方の今日よりも勝っていた。どうしてそれが分かるか。六群の比丘は家に入っても油をこぼさせなかった。彼らは陋劣で悪かったとはいえ、比丘の儀法を知り、行・住・坐・臥において法則を失わなかった。あなたは六神通の阿羅漢であっても、彼らには及ばないのだ。」

優波毱聞是語，大自慚愧！

> 優波毱はこの言葉を聞いて、たいへん恥じ入りました。

以是故言「一心敬慎」。

> だからこそ「一心に敬い慎む」と言うのです。

一心敬慎，善人相也。

> 心から敬い慎むこと、それが善人の姿です。

復次，何以故言「一心敬慎，是菩薩難勝難及、難破、難近」？

> 次に、なぜ「一心に敬い慎むことは、この菩薩にとって勝つことが難しく、及ぶことが難しく、破ることが難しく、近づくことが難しい」と言うのでしょうか。

譬如大師子王，難勝難破；亦如白象王及龍王，如大火焰，皆難可近。

> たとえば、大師子王は誰も打ち負かすことができず、破ることも難しい。白象王や龍王も同じであり、大きな炎のように、近づくことさえ難しいのです。

是菩薩大福德智慧力故，若人欲勝欲破，是不可得，正可自破，是故言「難近」。

> この菩薩は大きな功徳と智慧の力を持っているので、誰かが勝とうとか打ち負かそうとしても、それはできません。むしろ自分自身が滅びてしまうだけです。だから「近づきがたい」と言うのです。

問曰：

> お尋ねします。

一切大菩薩皆大功德，智慧利根，一切難近，何以獨言「娑婆世界中菩薩難近」？

> すべての大菩薩は大きな功徳を持ち、智慧も鋭く、近づきがたいものであるのに、なぜ特に「娑婆世界の菩薩は近づきがたい」と言うのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

實如所言。

> おっしゃる通りです。

但以多寶世界中菩薩遠來，見此世界不如，石沙穢惡，菩薩身小，一切眾事皆亦不如，必生輕慢，是故佛言：「一心敬慎，彼諸菩薩難近。」

> しかし、多宝世界から遠くやって来た菩薩たちは、この世界が劣っていて、石や砂のように汚れているのを見て、菩薩の姿も小さく、すべてのものが見劣りすると、きっと軽んじる心を起こすでしょう。ですから仏はおっしゃいました。「心を一つにして慎み敬いなさい。あちらの菩薩たちは近づきがたいのだ。」

復次，樂處生人多不勇猛，不聰明，少智慧。如欝怛羅衛人，以大樂故，無出家、無受戒；諸天中亦爾。

> また、快楽にふける世界に生まれた人々は、たいてい勇気がなく、賢くもなく、智慧も乏しいものです。たとえば郁怛羅衛の人々は、大きな楽しみに浸っているために、出家する者もなく、戒を受ける者もいません。天の世界でも同じです。

是娑婆世界中，是樂因緣少，有三惡道、老、病、死，土地自活法難，以是故，易得厭心。

> 娑婆世界では、楽しい縁が少なく、三悪道や老い・病・死があり、土地で自活するのも難しい。だからこそ、厭離の心を起こしやすいのです。

見老、病、死至，心大厭患；見貧窮人，知先世因緣所致，心生大厭。以是故智慧根利。

> 老い、病、死に直面するのを見て、心に大きな嫌悪を抱いた。貧しい人を見れば、それが前世の因縁によるものだと知り、心に大きな嫌悪を生じた。それゆえに智慧の根が鋭くなったのである。

彼間菩薩，七寶世界，種種寶樹，心念飲食，應意即得，如是生厭心難，是故智慧不能大利。

> あちらの世界の菩薩たちは、七つの宝でできた世界に住み、さまざまな宝の木があり、食べたいと思うだけで思いのままに手に入ります。そのため、むしろ飽きや嫌気を起こすことが難しく、智慧を大きく成長させることができないのです。

譬如利刀，著好飲食中，刀便生垢，飲食雖好而與刀不相宜；若以石磨之，脂灰瑩治，垢除刀利。是菩薩亦如是，生雜世界中，利智難近。如人少小勤苦，多有所能，亦多有所堪；又如養馬不乘，則無所任。

> たとえば、よく切れる刀を美味しい料理の中に置けば、刀は汚れてしまう。料理は良くても、刀にはふさわしくない。しかし石で磨き、油や灰でよく手入れすれば、汚れは落ちて刀は鋭くなる。菩薩も同じである。雑多な世界に生まれると、鋭い智慧は近づきがたいものになる。人は幼いころから苦労して勤めれば、多くのことができるようになり、多くのことに耐えられる。また、馬を飼っていても乗らなければ、何の役にも立たない。

復次，是娑婆世界中菩薩，多方便故難近，餘處不爾。

> また、この娑婆世界の菩薩は、さまざまな方便を用いるため、近づきがたいことが多いのです。他の世界ではそうではありません。

如佛說：「我自憶念宿世，一日施人千命。度眾生故，雖諸功德、六波羅蜜一切佛事具足，而不作佛，恒以方便度脫眾生。」

> 仏がこう説かれたように、「私は過去世を思い起こすと、一日に千人もの命を救ったことがある。衆生を救うために、さまざまな功德や六波羅蜜、すべての仏の修行を完成させていながら、あえて仏にはならず、いつも巧みな方法で衆生を導き救ってきた」のです。

以是事故，是娑婆世界中菩薩難近。

> このような理由から、この娑婆世界では、菩薩に近づくことは難しいのです。

【經】

> お経

爾時，普明菩薩從寶積佛受千葉金色蓮花，與無數出家、在家菩薩，及諸童男、童女，俱共發引。

> そのとき、普明菩薩は宝積仏から千枚の花びらを持つ金色の蓮の花を授かり、数えきれないほどの出家・在家の菩薩たち、そして多くの少年少女たちとともに、そろって旅立ったのでした。

【論】

> 【論】 論とは、心を

問曰：

> お尋ねします。

是普明菩薩大力神通故應能來，是出家、在家菩薩及童男、童女，云何自致？

> この普明菩薩の大きな力と神通力によって、来ることができるはずです。では、出家した菩薩も在家の菩薩も、また少年少女たちも、どうやって自らそこに至ることができるのでしょうか。

多寶世界最在東邊，道里悠遠，是自用力行？

> 多宝の世界ははるか東のかなたにあり、道のりはとても遠いのに、自分の力だけで行こうというのですか。

為寶積佛力？

> 仏の力によって宝を積むのでしょうか。

是普明菩薩力耶？

> それは普明菩薩の力によるのでしょうか？

為釋迦牟尼佛力？

> 釈迦牟尼仏の力のためでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

盡是四種人力。

> すべては四つの人のはたらきによるものです。

是出家、居家菩薩，或是不退五通成就菩薩，四如意足好修，先世釋迦牟尼佛因緣，亦自用己力，亦是普明菩薩力，何以故？是中力勢薄者，是普明菩薩力故得來。如轉輪聖王飛上天時，四種兵及諸宮觀、畜獸，一切皆飛；轉輪聖王功德大故，能令一切隨而飛從。此亦如是，力勢薄者，以普明菩薩力故皆亦得來。

> 出家の菩薩であれ在家の菩薩であれ、あるいは不退転で五神通を成就した菩薩であれ、四如意足をよく修めることができます。それは前世における釈迦牟尼仏との因縁によるものでもあり、また自らの力によるものでもあり、さらに普明菩薩の力によるものでもあります。なぜでしょうか。ここにおいて力の弱い者たちは、普明菩薩の力によって来ることができるのです。ちょうど転輪聖王が天へ飛び上がるとき、四種の兵士やもろもろの宮殿、家畜や獣にいたるまで、すべてがみな飛ぶようなものです。転輪聖王の功德が大きいため、すべてのものを従えて飛ぶことができるのです。これも同じです。力の弱い者たちも、普明菩薩の力によってみな来ることができるのです。

亦是寶積佛力，及釋迦牟尼光明照之。

> これもまた、宝積仏の力と、釈迦牟尼の光明が照らしてくださっているおかげです。

若自無力，但釋迦牟尼佛光明照之，亦應能來，何況有三！

> もし自分に力がなくても、釈迦牟尼仏の光明が照らしてくださるので、来ることができるはずです。ましてや三つのものがあるなら、なおさらです。

問曰：

> お尋ねします。

是普明菩薩何不獨來而多將眾人？

> 普明菩薩は、なぜ一人で来ないで、大勢の人を連れて来たのですか。

答曰：

> お答えしますと、

翼從所宜故。譬如國王出時，必有營從。

> 王が外出するときには、必ずお供の者が従うように、それにふさわしい従者たちが付き従うのです。

復次，是普明菩薩及釋迦牟尼佛因緣人故。所以者何？

> 次に、この普明菩薩と釈迦牟尼仏は因縁のある人だからです。なぜなら、

彼大眾中二眾共來，是故知有因緣者來，無因緣者住。

> その大衆の中に二つの集まりが共に集まってきた。ですから、因縁のある者はここに来て、因縁のない者はとどまっているのだと知るのです。

問曰：

> お尋ねします。

是菩薩何以故與諸在家、出家，童男、童女俱來？

> この菩薩はなぜ、在家の人も出家した人も、少年も少女も、みんな一緒に来たのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

佛弟子七眾：比丘、比丘尼、學戒尼、沙彌、沙彌尼、優婆塞、優婆夷。

> 仏弟子の七つの集まりとは、比丘、比丘尼、学戒尼、沙弥、沙弥尼、優婆塞、優婆夷のことです。

優婆塞、優婆夷是居家，餘五眾是出家。

> 優婆塞と優婆夷は在家であり、残りの五衆は出家です。

出家、在家中更有二種：若大、若小。小者，童男、童女；餘者為大。

> 出家の人と在家の人には、それぞれさらに二つの種類があります。それは大人と子供です。子供とは少年と少女のことで、それ以外は大人です。

問曰：

> お尋ねします。

大者應行，小者何以能來？

> 大きな者は進むべきであり、小さな者はどうして来ることができましょうか。

答曰：

> お答えしますと、

在功德，不在大小。若失功德利，行不善法，雖老而小；若有功德利，行善法，雖小而大。

> 功德は、大きさではありません。功德の利益を失い、不善の行いをするなら、たとえ年を取っていても小さいのです。功德の利益があり、善い行いをするなら、たとえ幼くても大きいのです。

復次，此小者遠來，人見則歎：小而能爾，為法遠來！亦顯佛法小大皆得奉行。外道法中，婆羅門得行其法，非婆羅門不得行；佛法無大、無小，無內、無外，一切皆得修行。

> また、この若い者が遠くから来たのを人々が見て、「幼いのに、よくやっている。法のために遠くから来たのだ」と讃嘆しました。これは、仏法では年齢の高い者も低い者も、すべてが実践できることを示しています。外道の教えでは、バラモンだけがその法を実践でき、バラモンでない者は実践できません。しかし仏法には、大きいも小さいもなく、内も外もなく、すべての人が修行することができるのです。

譬如服藥，以除病為主，不擇貴賤大小。

> たとえば薬を飲むとき、病気を治すことが目的であり、薬の貴賤や大小を選ぶわけではありません。

【經】

> お経

皆供養、恭敬、尊重、讚歎東方諸佛。

> みなで東方のすべての仏を供養し、敬い、尊び、讃えましょう。

【論】

> 【論】 論とは、心を

問曰：

> お尋ねします。

若皆供養東方諸佛，諸佛甚多，何時當訖，得來此間？

> もしすべての人が東方の仏さまを供養しようとしても、仏さまはあまりに多く、いつになったら終わって、ここに来られるのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

是諸菩薩非作人、天法供養，自行菩薩供養法。

> これらの菩薩たちは、人や天のやり方で供養するのではなく、菩薩としての供養の仕方を自ら実践しているのです。

菩薩供養法，身入禪定，其身直進，從其身邊出無量身，化作種種供養之物，滿諸佛世界。譬如龍王行時，從身出水，普雨天下。

> 菩薩が供養を行うとき、自ら禅定に入り、その身はまっすぐ進みながら、その身のまわりから無数の身を現し、さまざまな供養の品々に変えて、仏の世界をあまねく満たします。ちょうど龍王が進むときに、その身から水を出して、天の下に広く雨を降らせるようなものです。

問曰：

> お尋ねします。

此諸菩薩欲詣釋迦牟尼佛，何以中道供養諸佛？

> この菩薩たちは釈迦牟尼仏のもとへ行こうとしていたのに、なぜその途中で多くの仏に供養したのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

諸佛第一福田，若供養者得大果報。譬如人廣修田業，為多得穀故。

> 仏陀は最高の功徳の田んぼのようなものです。供养する人は大きな果報を得られます。ちょうど農家が広く田畑を耕し、多くの穀物を得ようとするのと同じです。

諸菩薩見諸佛供養，得佛果報，是故供養。

> 菩薩たちは、仏に供養することで仏の果報を得られることを知り、そのために供養するのです。

復次，菩薩常敬重於佛，如人敬重父母。諸菩薩蒙佛說法，得種種三昧、種種陀羅尼、種種神力，知恩故廣供養。如《法華經》中，藥王菩薩從佛得一切變現色身三昧，作是思惟：「我當云何供養佛及法華三昧？」即時飛到天上，以三昧力，雨七寶、華、香、幡蓋，供養於佛。出三昧已，意猶不足。於千二百歲，服食眾香，飲諸香油，然後以天白疊纏身而燒，自作誓言：「使我身光明，照八十恒河沙等佛世界！」是八十恒河沙等世界中諸佛讚言：「善哉！善哉！善男子！以身供養，是為第一！勝以國城妻子供養百千萬倍，不可以譬喻為比。」於千二百歲，身然不滅。

> また、菩薩は常に仏を敬い重んじること、人が父母を敬い重んじるようなものである。もろもろの菩薩は仏の説法を聞いて、さまざまな三昧、さまざまな陀羅尼、さまざまな神通力を得て、仏の恩を知るがゆえに広く供養する。『法華経』の中で、薬王菩薩は仏から一切変現色身三昧を得て、こう思った。「わたしはどうやって仏と法華三昧を供養しようか。」そこでただちに天に飛び上がり、三昧の力で七宝、花、香、幡蓋を雨のように降らせて、仏を供養した。三昧から出た後も、なお心は満たされなかった。千二百歳の間、さまざまな香を食べ、香油を飲み、その後、天の白い布を身に巻いて焼いた。そして自ら誓いを立てた。「わたしの身の光が、八十恒河沙の数の仏の世界を照らしますように。」この八十恒河沙の数の世界のもろもろの仏は讃えて言った。「すばらしい、すばらしい。善男子よ。身をもっての供養は、これが第一である。国や城や妻子を施して供養するよりも、百千万倍すぐれている。たとえることも及ばない。」千二百歳の間、身は燃えても消えることがなかった。

復次，是供養佛，得無量名聞福德利益，諸不善事皆悉滅除，諸善根得增長，今世、後世常得供養報，久後得作佛。

> また、仏を供養することによって、はかりしれない名声と功徳の利益を得ることができます。すべての悪い行いは消え去り、善い行いはますます育っていきます。この世でも後の世でも、いつも供養された報いを受けることができ、やがては仏となることができるのです。

如是供養佛，得種種無量利。以是故，諸菩薩供養佛。

> このように仏を供養すれば、さまざまな限りない功徳を得ることができます。ですから、菩薩たちは仏を供養するのです。

【經】

> お経

持諸華、香、瓔珞、末香、澤香、燒香、塗香、衣服、幢蓋，向釋迦牟尼佛所。

> さまざまな花、香、宝玉の飾り、粉末の香、香水、焼く香、塗る香、衣服、旗や傘を手に持って、釈迦牟尼仏のもとへと向かいました。

到已，頭面禮佛足，一面立。

> 着いてから、仏の足に頭を垂れて礼拝し、傍らに立った。

【論】

> 【論】 論とは、心を

問曰：

> お尋ねします。

應言「禮」，何以名「頭面禮足」？

> 「礼」と言うべきなのに、なぜ「頭面礼足」と名づけるのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

人身中第一貴者頭，五情所著而最在上故；足第一賤，履不淨處，最在下故。

> 人の体で最も尊いのは頭です。五つの感覚器官が集まり、しかも一番上にあるからです。最も卑しいのは足です。汚れた場所を踏み、しかも一番下にあるからです。

是故以所貴禮所賤，貴重供養故。

> だからこそ、尊いものをもって、劣ったものをも礼するのです。大切な供養であるからです。

復次，有下、中、上禮：下者揖，中者跪，上者稽首；頭面禮足，是上供養。

> また、礼拝には下・中・上の三つがあります。下の礼はお辞儀、中の礼はひざまずくこと、上の礼は頭を地につけて礼をすることをいいます。頭を相手の足につけて礼をするのが、最もすぐれた供養なのです。

以是故佛毘尼中，下坐比丘兩手捉上坐兩足，以頭面禮。

> このため、仏の戒律の中では、下座の比丘は両手で上座の両足を支え、頭をその足に付けて礼拝します。

問曰：

> お尋ねします。

四種身儀：若坐、若立、若行、若臥，何以故一面立？

> 四つの姿勢について。座る、立つ、歩く、横になる、この四つです。なぜ一方に偏って立つのか、それはどうしてでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

為來故不應行，為恭敬供養故不應臥，此事易明，何足問耶？應問「或坐、或立」。坐者，於供養不重；立者，恭敬供養法。

> 来るために歩くべきではなく、恭敬と供養のために臥すべきではない。このことは明らかで、どうして問う必要があろうか。問うべきは「あるいは坐り、あるいは立つ」についてである。坐ることは供養を重んじないことであり、立つことは法を恭敬し供養することである。

復次，佛法中，諸外道出家及一切白衣，來到佛所皆坐。外道他法輕佛，故坐；白衣如客，是故坐；一切五眾身、心屬佛，是故立。若得道諸阿羅漢，如舍利弗、目連、須菩提等，所作已辦，是故聽坐；餘雖得三道，亦不聽坐，大事未辦，結賊未破故。譬如王臣，大有功勳故得坐。是諸菩薩中，雖有白衣，以從遠來供養佛，故立。

> また、仏法の中では、外道として出家した者や、すべての在家の人々が仏のもとに来ると、みな座ることができます。外道は他の教えを重んじて仏を軽んじるので座り、在家の者は客のようなものなので座り、すべての五衆は身も心も仏に属しているので立っています。すでに道を得た阿羅漢たち、たとえば舎利弗、目連、須菩提などは、なすべきことをすでに成し遂げているので、座ることを許されています。その他の者は、たとえ三道を得ていても、座ることは許されません。大きなことがまだ成し遂げられておらず、煩悩の賊がまだ打ち破られていないからです。たとえば王の臣下でも、大きな功績があるからこそ座ることが许されるようなものです。これらの菩薩の中には、在家の者であっても、遠くから仏を供養するために来ているので、立っているのです。

【經】

> お経

白佛言：「寶積如來致問世尊：少惱、少患、興居輕利，氣力安樂不？」又以此千葉金色蓮華，供養世尊。

> お釈迦様にこう申し上げました。「宝積如来が世尊によろしくお伝えくださいと伺っております。お悩みやお苦しみは少なく、お過ごしは穏やかで、お元気でいらっしゃいますか」と。また、この千枚の花びらを持つ金色の蓮華を、世尊にお供えしました。

【論】

> 【論】 論とは、心を

問曰：

> お尋ねします。

寶積佛一切智，何以方問訊釋迦牟尼佛少惱、少患，興居輕利，氣力安樂不？

> 宝積仏はすべてを知る智慧をお持ちなのに、なぜわざわざ釈迦牟尼仏に、悩みや患いが少なく、お元気で軽やかに、気力も充実して安楽でいらっしゃいますか、と挨拶なさるのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

諸佛法爾，知而故問。

> 諸仏の教えはいつもこうであり、知っていながらあえて問われるのです。

如毘尼中，達貳迦比丘作赤色瓦窟，佛見已知而問：「阿難！此作何物？」

> 律（毘尼）の中でのことです。ダルチャという比丘が赤い色の瓦の窟（ほらあな）を作りました。仏はそれを見て、すでにご存じでありながら、あえてこうお尋ねになりました。「阿難よ、これは何を作ったのか。」

阿難白佛：「是陶家子出家，字達貳迦，作小草舍，常為放牛人所壞，三作三破，是故作此瓦舍。」

> 阿難が仏に申し上げました。「あの陶工の子が出家して、ダニカと名乗り、小さな草の小屋を作りましたが、いつも牛飼いたちに壊されてしまい、三度作っては三度壊されたので、この瓦の家を作ったのです。」

佛語阿難：「破此瓦窟！何以故？外道輩當言：佛大師在時，漏處法出！」

> 仏は阿難に言われた。「この瓦の窟を壊しなさい。なぜかというと、外道たちが『仏という大師が在世のときに、漏れのある法が現れた』と言うだろうからです。」

如是等，處處知而故問。

> このように、すでに知っていることでも、あえて尋ねることがあります。

復次，佛雖一切智，隨世界法，世人問訊，佛亦問訊，佛人中生，受人法，寒熱、生死與人等，問訊法亦應等。

> 次に、仏は一切智をお持ちであっても、世間の作法に従われる。世の人が挨拶をすれば、仏もまた挨拶をされる。仏は人間の中に生まれ、人の法を受けられたので、寒さ暑さや生死についても人と同じであり、挨拶の作法もまた同じであるべきである。

復次，世界中大貴、大賤不應相問訊；佛等力故，應相問訊。

> また、世界の中では、身分の高い人と低い人は互いに挨拶をすべきではないが、仏の力によって平等であるため、互いに挨拶すべきである。

復次，是多寶世界清淨莊嚴，佛身色像光明亦大，若不問訊，人謂輕慢。

> また、この多宝の世界は清らかで荘厳であり、仏の色身の光明もまた大きいので、挨拶をしなければ、人は軽んじていると思うでしょう。

又復欲示佛世界身色光明，種種雖勝，智慧、神力俱等無異，是故問訊。

> また、仏の世界の身体の色や光明、さまざまな点では優れていても、智慧と神通力はすべて等しく変わりがないことを示そうとされた。そのため、ご挨拶を申し上げます。

問曰：

> お尋ねします。

何以問「少病、少惱不」？

> なぜ「病が少なく、悩みが少ないか」と尋ねるのですか。

答曰：

> お答えしますと、

有二種病：一者外因緣病，二者內因緣病。

> 病には二つの種類があります。一つは外の原因による病、もう一つは内の原因による病です。

外者，寒熱、飢渴、兵刃、刀杖，墜落、塠壓，如是等種種外患，名為惱。

> 外から受ける苦しみとは、寒さや暑さ、飢えや渇き、武器や刃物、刀や杖、高いところから落ちること、物に押しつぶされることなど、こうしたさまざまな外からの災いを「悩み」と呼びます。

內者，飲食不節，臥起無常，四百四病，如是等種種，名為內病。

> 内側の病とは、飲食を節制せず、寝起きが不規則で、四百四病など、このようなさまざまなものを内病といいます。

如此二病，有身皆苦，是故問：「少惱、少患不？」

> このように二つの病があり、身体を持つ者は皆、苦しみを抱えています。ですから、「悩みは少ないですか、患いは少ないですか」と尋ねたのです。

問曰：

> お尋ねします。

何以不問「無惱、無病」，而問「少惱、少患」？

> なぜ「無悩・無病」と問わずに、「少悩・少患」と問うのですか。

答曰：

> お答えしますと、

聖人實知「身為苦本，無不病時」。何以故？是四大合而為身，地、水、火、風，性不相宜，各各相害。譬如疽瘡，無不痛時，若以藥塗，可得少差而不可愈；人身亦如是，常病常治，治故得活，不治則死。以是故，不得問「無惱、無病」。

> 聖人はよくご存じです。「この身体は苦しみの根本であり、病でないときはない」と。なぜでしょうか。この身体は四大が集まってできています。地・水・火・風は、その性質が互いに馴染まず、それぞれが害し合っています。たとえばできものや腫れ物が、いつも痛んでいるようなものです。薬を塗れば少しは良くなりますが、治ることはありません。人の身体も同じです。常に病み、常に治しながら、治すからこそ生きていられ、治さなければ死んでしまいます。ですから、「悩みがなく病もない」と問うことはできないのです。

外患，常有風、雨、寒、熱為惱故。復有身四威儀：坐、臥、行、住，久坐則極惱，久臥、久住、久行皆惱。以是故問「少惱、少患」。

> 外からは、風・雨・寒・熱に悩まされることがあります。また、体の四つの姿勢――座る・横になる・歩く・立つ――も、長く座ればひどく苦しく、長く横になっても、長く立っても、長く歩いても、みな苦しみとなります。それゆえに「少悩少患（悩み少なく、患い少なく）」とお尋ねするのです。

問曰：

> お尋ねします。

問「少惱、少患」則足，何以復言「興居輕利」？

> 「悩みが少なく、病も少ない」で十分なのに、なぜさらに「起居も軽やかで快調である」と言うのですか。

答曰：

> お答えしますと、

人雖病差，未得平復，以是故問「興居輕利」。

> 人が病気から回復しても、まだ完全には元の状態に戻っていないので、そのために「興居軽利」（起居が軽やかで快いか）と尋ねるのです。

問曰：

> お尋ねします。

何以故言「氣力安樂不」？

> なぜ「気力は安らかで楽しいですか」と言うのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

有人病差，雖能行步坐起，氣力未足，不能造事施為、携輕舉重，故問「氣力」。

> 病気が治っても、まだ歩いたり起き上がったりはできても、体力が十分でなく、仕事をしたり軽いものを持ち上げたり重いものを持ち上げたりできないので、「気力」について尋ねたのです。

有人雖病得差，能舉重携輕，而未受安樂，是故問：「安樂不？」

> 病が治っても、重いものを持ち上げたり軽いものを持ち運んだりできても、まだ安楽を得ていない人がいる。だから「安楽ですか？」と尋ねるのである。

問曰：

> お尋ねします。

若無病有力，何以未受安樂？

> 病気もなく力もあるのに、どうして安楽を得られないのだろうか。

答曰：

> お答えしますと、

有人貧窮、恐怖、憂愁，不得安樂，以是故問：「得安樂不？」

> 貧しくて不安や悲しみを抱え、心の平安を得られない人がいる。だからこそ、「平安を得ることはできますか」と尋ねるのです。

復次，有二種問訊法：問訊身，問訊心。若言「少惱、少病，興居輕利，及氣力」，是問訊身。若言「安樂不」，是問訊心。

> また、挨拶の仕方には二つの種類があります。身体への挨拶と、心への挨拶です。「お悩みは少ないですか、お病気は少ないですか、お元気で軽やかにお過ごしですか、そして気力はどうですか」と言うのは、身体への挨拶です。「心安らかにお過ごしですか」と言うのは、心への挨拶です。

種種內、外諸病，名為身病；婬欲、瞋恚、嫉妬、慳貪、憂愁、怖畏等種種煩惱，九十八結，五百纏，種種欲願等，名為心病。是一一病問訊故，言「少惱、少病，興居輕利，氣力安樂不」。

> さまざまな内側や外側の病を、身の病といいます。淫欲、怒り、嫉妬、物惜しみと貪り、憂い、恐れなどのさまざまな煩悩、九十八の結、五百の纏、さまざまな欲や願いなどを、心の病といいます。これらの一つ一つの病についてお見舞いするために、「お悩みは少なく、お病も少なく、日々の暮らしは軽やかで、気力も安らかでいらっしゃいますか」と申し上げるのです。

問曰：

> お尋ねします。

人問訊則應爾，諸天尚不應如此問訊，何況於佛？

> 人に問いかけるときは、それでよいのかもしれない。しかし諸天でさえ、このように問いかけるべきではない。ましてや仏に対しては、なおさらである。

答曰：

> お答えしますと、

佛身二種：一、神通變化身，二、父母生身。

> 仏の体には二つの種類があります。一つは神通によって変化した姿、もう一つは両親から生まれた体です。

父母生身，受人法故，不如天，是故應如人法問訊。

> 両親から生まれた身は、人の法を受けるゆえに、天には及ばない。それゆえ人の法のように問訊すべきである。

問曰：

> お尋ねします。

一切賢聖，心無所著，不貪身，不惜壽，不惡死，不悅生，若如是者，何用問訊？

> すべての聖なる者たちは、心に何も執着せず、身体を貪らず、寿命を惜しまず、死を嫌わず、生を喜ばない。もしそのようであるならば、なぜ挨拶など必要だろうか。

答曰：

> お答えしますと、

隨世界法故，受人法問訊。遣問訊，亦以人法。

> 世界の習わしに従うため、人の礼法をもって挨拶を交わされる。挨拶を送る際も、また人の礼法をもってされる。

「千葉金色蓮華」，如上說。

> 「千葉の金色の蓮華」についても、先に述べたとおりです。

【經】

> お経

爾時，釋迦牟尼佛受是千葉金色蓮華已，散東方恒河沙等世界中佛。

> そのとき、釈迦牟尼仏は、この千枚の花びらを持つ金色の蓮華を受け取ると、東方のガンジス川の砂の数ほどもある世界の仏たちにまきました。

【論】

> 【論】 論とは、心を

問曰：

> お尋ねします。

佛無勝如，今何以故向東方諸佛散華供養？

> 仏に勝るものはないのに、なぜ今、東方の諸仏に花を散らして供養するのですか。

如佛初得道時，自念：「人無所尊，則事業不成，今十方天地誰可尊事者？我欲師而事之！」

> 仏が悟りを開いたばかりのころ、こうお考えになった。「人には尊敬すべき師がいなければ、何事も成し遂げられない。さて、この十方の世界で、私が尊敬して仕えるべき方は誰だろうか。その方を師と仰いで仕えたいものだ。」

是時，梵天王等諸天白佛：「佛為無上，無過佛者。」

> そのとき、梵天王をはじめとする天の神々が仏に申し上げました。「仏はこの上なく尊く、仏を超えるものはありません。」

佛亦自以天眼觀三世十方天地中無勝佛者，心自念言：「我行摩訶般若波羅蜜，今自致作佛，是我所尊，即是我師，我當恭敬供養尊事是法。」

> 仏もまた、自ら天眼をもって三世十方の天地を見渡し、自分より優れた仏はいないと知ると、心の中でこう思いました。「私は摩訶般若波羅蜜を実践し、今、自ら仏となることができた。この法こそが私の尊ぶもの、すなわち私の師である。私は恭敬の心でこの法を供養し、尊んで事えよう。」

譬如有樹名為好堅，是樹在地中百歲，枝葉具足，一日出生高百丈，是樹出已，欲求大樹以蔭其身。是時林中有神，語好堅樹言：「世中無大汝者，諸樹皆當在汝蔭中。」

> たとえば、好堅（こうけん）という名の木があるとします。この木は地中に百年もの間あって、枝や葉はすでに整っていましたが、ある日、地上に現れると百丈もの高さになりました。この木が現れると、自分を覆い隠してくれる大きな木を求めました。そのとき、林の中の神が好堅の木にこう言いました。「この世にあなたより大きなものはない。すべての木はあなたの陰に隠れることになるだろう。」

佛亦如是，無量阿僧祇劫，在菩薩地中生，一日於菩提樹下金剛座處坐，實知一切諸法相，得成佛道。是時自念：「誰可尊事以為師者，我當承事恭敬供養。」

> 仏もまた同じです。数えきれないほどの長い修行の時を経て菩薩の境地で育ち、ある日、菩提樹の下の金剛座に座り、すべてのものごとの真実のあり方を悟って、仏の道を成し遂げられました。そのとき、こうお考えになりました。「誰を尊んで師と仰ぐべきだろうか。その方を敬い、大切にお仕えしよう。」

時，梵天王等諸天白佛言：「佛為無上，無過佛者。」

> そのとき、梵天王をはじめとする多くの神々が、仏にこう申し上げました。「仏はこの上なく尊く、仏を超えるものはおりません。」

今何以故復供養東方諸佛？

> なぜ今、再び東方の諸仏を供養するのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

佛雖無上，三世十方天地中無過佛者，而行供養。供養有上、中、下：

> 仏はこの上なくすぐれたお方であり、過去・現在・未来のあらゆる世界を見渡しても、仏を超えるものはありません。それでもなお、仏に供養を捧げるのです。供養には上・中・下の三つがあります。

下於己者而供養之，是下供養；供養勝己，是上供養；供養與己等者，是中供養。

> 自分より劣る人に供養するのは、下の供養です。自分より優れた人に供養するのは、上の供養です。自分と同じくらいの人に供養するのは、中の供養です。

諸佛供養，是中供養。

> 諸仏を供養することが、ここでいう供養です。

如大愛道比丘尼，與五百阿羅漢比丘尼等，一日中一時入涅槃。

> 大愛道比丘尼は、五百人の阿羅漢比丘尼たちとともに、一日のうちに一時に涅槃に入りました。

是時，諸得三道優婆塞，舉五百床；四天王舉佛乳母大愛道床；佛自在前擎香爐燒香供養。

> そのとき、三つの道を得た優婆塞たちが五百の寝台を担ぎ、四天王が仏の乳母である大愛道の寝台を担ぎ、仏みずからが先頭に立って香炉を捧げ、香を焚いて供養されました。

佛語比丘：「汝等助我供養乳母身。」

> 釈尊は比丘たちに言われました。「あなたがたは、私が乳母の体を供養するのを助けなさい。」

爾時，諸阿羅漢比丘，各各以神足力，到摩梨山上，取牛頭栴檀香薪，助佛作𧂐，是為下供養。

> そのとき、阿羅漢である比丘たちは、それぞれ神通力によって摩梨山（マーリカ山）に赴き、牛頭栴檀の香木を取ってきて、仏のために薪の山を積み上げるのを手伝いました。これが最も基本的な供養です。

以是故，雖不求果而行等供養。

> ですから、結果を求めなくても、平等な供養を行うのです。

復次，唯佛應供養佛，餘人不知佛德。如偈說：

> 次に、仏だけが仏を供養するのにふさわしい。他の人々は仏の功徳を知らないからである。次の偈に説かれるとおりである。

「智人能敬智， 智論則智喜；智人能知智， 如蛇知蛇足！」

> 知恵ある人は知恵ある人を敬い、 知恵について語れば知恵ある人は喜ぶ。 知恵ある人は知恵ある人を理解する、 まるで蛇が蛇の足を知るように。

以是故，諸佛一切智，能供養一切智。

> だからこそ、仏の一切智は、一切智を供養することができるのです。

復次，是十方佛世世勸助釋迦牟尼佛。如七住菩薩，觀諸法空無所有，不生不滅。

> また、十方の仏たちは、代々にわたって釈迦牟尼仏を励まし支えてこられました。ちょうど七住の菩薩が、すべてのものは空であり、何も実体がなく、生まれることも滅することもないと見るのと同じです。

如是觀已，於一切世界中心不著，欲放捨六波羅蜜入涅槃。譬如人夢中作筏，渡大河水，手足疲勞，生患厭想。在中流中夢覺已，自念言：「何許有河而可渡者？」是時，勤心都放。

> このように観察した後、すべての世界に対して心が執着せず、六波羅蜜を手放して涅槃に入ろうとします。ちょうど、人が夢の中でいかだを作って大河を渡り、手足が疲れ、嫌気がさしたとします。しかし流れの途中で夢から覚めると、「どこに渡るべき川があるのか」と自分に言うのです。そのとき、努力する心はすっかり手放されます。

菩薩亦如是，立七住中，得無生法忍，心行皆止，欲入涅槃。

> 菩薩も同じです。七住の段階に至り、無生法忍を得ると、心の働きも行いもすべて止まり、涅槃に入ろうとします。

爾時，十方諸佛皆放光明，照菩薩身，以右手摩其頭，語言：「善男子！勿生此心！汝當念汝本願，欲度眾生。汝雖知空，眾生不解，汝當集諸功德，教化眾生，共入涅槃！汝未得金色身、三十二相、八十種隨形好、無量光明、三十二業。汝今始得一無生法門，莫便大喜！」

> そのとき、十方の諸仏はみな光明を放ち、菩薩の身を照らし、右手でその頭を撫でてこう言われた。「善男子よ、そのような心を起こしてはならない。あなたは自分の本願を思い起こし、衆生を救おうと願いなさい。あなたは空を知っていても、衆生は理解していない。あなたは多くの功德を積み、衆生を教化して、ともに涅槃に入るべきである。あなたはまだ金色の身、三十二相、八十種の随形好、無量の光明、三十二の業を得ていない。あなたは今ようやく無生法門を一つ得たばかりである。すぐに大喜びしてはならない。」

是時，菩薩聞諸佛教誨，還生本心行六波羅蜜以度眾生。

> そのとき、菩薩は仏たちの教えを聞いて、もとの清らかな心に立ち返り、六波羅蜜を実践して众生を救いました。

如是等初得佛道時，得是佐助。

> このように、仏道を初めて得た時、これらの助けを得たのです。

又佛初得道時，心自思惟：「是法甚深，眾生愚蒙薄福，我亦五惡世生，今當云何？」念已，我當於一法中作三分，分為三乘以度眾生。作是思惟時，十方諸佛皆現光明，讚言：「善哉！善哉！我等亦在五惡世中，分一法作三分以度眾生。」是時，佛聞十方諸佛語聲，即大歡喜，稱言：「南無佛！」

> また、仏が初めて悟りを開いたとき、心の中でこう思われました。「この法はとても深い。しかし衆生は愚かで福が薄く、私自身もこの五濁の悪世に生まれている。いったいどうしたらよいのだろうか。」そう考えた後、私は一つの法を三つに分け、三つの乗として分けて衆生を救おう、と思われました。こう思惟されたとき、十方の諸仏がみな光明を現して、こう讃えられました。「善いかな、善いかな。私たちもまた五濁の悪世にあって、一つの法を三つに分けて衆生を救っている。」このとき、仏は十方の諸仏の言葉の声をお聞きになり、たいへん喜ばれて、「南無仏」と唱えられました。

如是十方佛處處勸助為作大利，知恩重故，以華供養十方佛。

> このように、十方の仏たちは至る所で勧め助け、大きな利益を与えてくださいます。その恩の深さを知るゆえに、花をもって十方の仏に供養いたします。

最上福德，無過此德。何以故？是華寶積佛功德力所生，非是水生華。普明是十住法身菩薩，送此華來，上釋迦牟尼佛。釋迦牟尼佛知十方佛是第一福田，故以供養，是福倍多。何以故？佛自供養佛故。

> この上ない功徳があるとすれば、これに勝るものはありません。なぜでしょうか。この花は華宝積仏の功徳の力によって生じたもので、水に生える花ではないからです。普明は十住の法身菩薩であり、この花を送って、釈迦牟尼仏に捧げました。釈迦牟尼仏は、十方の仏が第一の福田であることをご存知なので、供養されました。その功徳は倍以上に大きいのです。なぜでしょうか。仏が自ら仏を供養されるからです。

佛法中有四種布施：一、施者清淨，受者不淨；二、施者不淨，受者清淨；三、施者清淨，受者亦淨；四、施者不淨，受者不淨。

> 仏法には四つの布施があります。一つ目は、施す人は清らかで、受け取る人は清らかでない布施です。二つ目は、施す人は清らかでなく、受け取る人は清らかな布施です。三つ目は、施す人も受け取る人も清らかな布施です。四つ目は、施す人も受け取る人も清らかでない布施です。

今施東方諸佛，是為二俱清淨，是福最大。

> 今、東方の諸仏に施すことは、これが二つながら清浄であることであり、その福は最も大きいのです。

以是故，佛自供養十方佛。

> そのため、仏は自ら十方の仏を供養されるのです。

問曰：

> お尋ねします。

一切聖人不受報果，後更不生，云何言是施福最大？

> すべての聖人は報いの結果を受けず、その後はもう生まれることもないのに、どうして「この施しの福徳が最も大きい」と言えるのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

是福雖無人受，其相自大；若有人受者，其報無量。諸聖人知有為法皆無常、空故，捨入涅槃，是福亦捨；譬如燒金丸，雖眼見其好，不可以手觸，燒人手故。

> この福徳は、たとえ誰も受け取らなくても、その本质はもともと大きい。もし受け取る人がいれば、その報いは無量である。聖人たちは、有為の法はすべて無常であり空であると知っているので、それを捨てて涅槃に入り、この福徳さえも捨てる。たとえば、焼けた金の玉は、目には美しく見えても、手で触れることはできない。手を焼いてしまうからである。

復次，如人有瘡，則須藥塗；若無瘡者，藥無所施。人有身亦如是，常為飢、渴、寒、熱所逼，亦如瘡發；以衣被、飲食，溫煖將適，如藥塗瘡。如愚癡人，為貪藥故，不用除瘡；若其無瘡，藥亦無用。諸佛以身為瘡，捨放身瘡故，亦不受報藥。

> たとえば、人に傷があれば薬を塗らなければなりませんが、傷がなければ薬を使う必要はありません。人の身体も同じです。いつも飢えや渇き、寒さや暑さに迫られていて、それは傷ができたようなものです。衣服や食事で温かく快適に整えるのは、傷に薬を塗るようなものです。しかし愚かな人は、薬そのものを欲しがるあまり、傷を治そうとしません。もし傷がなければ、薬もまた役に立ちません。諸仏は身体を傷と見なし、その身体の傷を手放しておられるので、報いの薬もまた受けられません。

以是故，雖有大福，亦不受報。

> だからこそ、大きな功徳があっても、その報いを受けることはないのです。

【經】

> お経

所散蓮華，滿東方如恒河沙等諸佛世界。

> 散らばった蓮の花は、東の方にあるガンジス川の砂の数ほどの、すべての仏の世界に満ちあふれていました。

【論】

> 【論】 論とは、心を

問曰：

> お尋ねします。

華少而世界多，云何滿？

> 華は少ないのに世界は多いといいますが、どうして満ちると言えるのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

佛神通力故，如上八種自恣變化法：大能令小，小能令大，輕能令重，重能令輕，自在無礙，隨意所到，能動大地，所願能辦。諸大聖人皆得是八種自在，是故佛能以小華滿東方如恒河沙等世界。

> 仏の神通力によって、以上八種の自恣変化の法がある。大きいものを小さいものに変え、小さいものを大きいものに変え、軽いものを重いものに変え、重いものを軽いものに変え、自在にして妨げなく、意のままに至るところへ行き、大地を動かすことができ、願いを成就することができる。すべての大聖人はこの八種の自在を得ている。それゆえ仏は小さな花で東方のガンジス川の砂の数ほどの世界を満たすことができるのである。

又復以示眾生未來福報，如此少華，滿東方世界。

> また、この小さな花をもって衆生の未来の福報を示せば、東方の世界を満たすほどになる。

又勸東方菩薩，言殖福於佛田中，所得果報，亦如此華彌滿無量土；汝雖遠來，應當歡喜，遇此大福田，果報無量！

> また東方の菩薩たちに勧めて言われた。「仏という福田に福を植えるならば、得られる果報も、この花が無量の国土に満ちあふれるのと同じであろう。あなたがたは遠くから来たけれども、喜ぶべきである。この大きな福田に出会ったのだから、果報は無量である。」

【經】

> お経

一一華上皆有菩薩，結加趺坐，說六波羅蜜；聞此法者，畢至阿耨多羅三藐三菩提。

> どの蓮の花の上にも菩薩がおられ、結跏趺坐して六波羅蜜を説いておられます。この法を聞いた者は、必ず阿耨多羅三藐三菩提に至ります。

【論】

> 【論】 論とは、心を

問曰：

> お尋ねします。

上佛以舌相光明化作千葉寶華，一一華上皆有坐佛；今何以故一一華上皆有坐菩薩？

> 仏は舌の光明によって千枚の花びらを持つ宝の蓮華を現し、その一つ一つの華の上に坐仏がいらっしゃいます。ではなぜ今、一つ一つの華の上に坐菩薩がいらっしゃるのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

上是佛所化華，故有坐佛；此是普明菩薩所供養華，是故有坐菩薩。

> 上にあるのは仏がお造りになった蓮の花で、そこに仏が座しておられます。こちらは普明菩薩がお供えした蓮の花で、そこに菩薩が座しておられます。

復次，上諸眾生應見坐佛得度，今此眾生應見坐菩薩得度。

> さらに、先ほどの多くの人々は、座っている仏を見て救われるべきでしたが、今ここにいる人々は、座っている菩薩を見て救われるのです。

結加趺坐，說六波羅蜜；聞此法者，畢至阿耨多羅三藐三菩提，如先說。

> 結跏趺坐して、六波羅蜜を説いた。この法を聞いた者は、みな阿耨多羅三藐三菩提に至ることができる。それは先に説いたとおりである。

【經】

> お経

諸出家、在家菩薩，及諸童男、童女，頭面禮釋迦牟尼佛足，各以供養具，供養恭敬，尊重讚歎釋迦牟尼佛。

> 出家・在家の菩薩たち、そして少年少女たちは、釈迦牟尼仏の足に頭を垂れて礼拝し、それぞれ供養の品々をもって、釈迦牟尼仏を供養し、恭敬し、尊重し、讃嘆しました。

是諸出家、在家菩薩，及諸童男、童女，各各以善根福德力故，得供養釋迦牟尼佛多陀阿伽度、阿羅呵、三藐三佛陀。

> 出家・在家の菩薩たち、そして少年少女たちは、それぞれの善根と功徳の力によって、釈迦牟尼仏・多陀阿伽度・阿羅呵・三藐三仏陀をお供えすることができました。

【論】

> 【論】 論とは、心を

如說偈：

> 次のように偈を説かれた。

「諸聖所來道， 佛亦如是來；實相及所去， 佛亦爾無異；諸聖如實語， 佛亦如實說：以是故名佛， 多陀阿伽度。忍鎧心堅固， 精進弓力強，智慧利勁箭， 破憍慢諸賊。應受天世人， 一切諸供養，以是故名佛， 以為阿羅訶。正知苦實相， 亦實知苦集，知苦滅實相， 亦知苦滅道。真正解四諦， 定實不可變，是故十方中， 號三藐三佛。得微妙三明， 清淨行亦具，是故號世尊， 鞞闍遮羅那。解知一切法， 自得妙道去，或時方便說， 愍念一切故。滅除老病死， 令到安隱處，以是故名佛， 以為修伽陀。知世所從來， 亦知世滅道，以是故名佛， 為路迦鞞陀。禪戒智等眼， 無及況出上，以是故名佛， 為阿耨多羅。大悲度眾生， 軟善教調御，以是故名佛， 富樓沙曇藐。智慧無煩惱， 說最上解脫，以是故名佛， 提婆摩㝹舍。三世動不動， 盡及不盡法，道樹下悉知， 是故名為佛。」

> 聖なる者たちが歩んだ道、仏もまた同じように歩まれた。 真理の姿も、向かう先も、仏もまったく変わらない。 聖なる者たちが真実を語るように、仏もまた真実を語られる。 だからこそ「仏」と呼ばれるのです。多陀阿伽度（如来）と。 忍耐の鎧で心を固くし、精進の弓は力強く、 智慧の鋭い矢で、慢心という賊を打ち破る。 天も人も、すべての供養を受けるにふさわしい。 だからこそ「仏」と呼ばれ、阿羅訶（応供）と称されるのです。 苦の真実の姿を正しく知り、苦の原因もまた真実に知り、 苦の消滅の真実の姿を知り、苦の消滅への道も知る。 四つの真理を正しく理解し、その悟りは揺るぎない。 だから十方の世界で、三藐三仏（正等覚者）と呼ばれるのです。 微妙な三つの明知を得て、清浄な行いも備わっている。 だから世尊と呼ばれ、鞞闍遮羅那（明行足）と称されるのです。 すべての法を理解し、自ら妙なる道を悟られた。 ときに方便をもって説かれるのは、すべてのものを慈しむからです。 老・病・死を滅し除いて、安らかな境地へと導く。 だからこそ「仏」と呼ばれ、修伽陀（善逝）と称されるのです。 世の成り立ちを知り、世の滅びの道をも知る。 だからこそ「仏」と呼ばれ、路迦鞞陀（世間解）と称されるのです。 禅定・戒・智慧などの眼は、誰も及ぶ者もなく、まして超える者などいない。 だからこそ「仏」と呼ばれ、阿耨多羅（無上士）と称されるのです。 大きな慈悲で生きとし生けるものを救い、柔らかく善き教えで導き調える。 だからこそ「仏」と呼ばれ、富樓沙曇藐（調御丈夫）と称されるのです。 智慧に煩悩はなく、最もすぐれた解脱を説かれる。 だからこそ「仏」と呼ばれ、提婆摩㝹舍（天人師）と称されるのです。 過去・現在・未来の動くものも動かないものも、尽きる法も尽きない法も、 道の樹の下ですべてをご存知である。だから「仏」と呼ばれるのです。

【經】

> お経

南方度如恒河沙等諸佛世界，其土最在邊，世界名離一切憂，佛號無憂德，菩薩名離憂。

> 南方を数えきれないほど多くの仏の世界を過ぎていった果てに、最も端にある世界があります。その名を「一切の憂いを離れた世界」といい、そこにおられる仏の名は「無憂徳」、菩薩の名は「離憂」といいます。

西方度如恒河沙等諸佛世界，其世界最在邊，世界名滅惡，佛號寶山，菩薩名儀意。

> 西方をはるか遠く、ガンジス川の砂の数ほどの仏の世界を越えた果てに、「滅悪」という名の世界があります。そこには宝山という名の仏がおられ、儀意という名の菩薩がいます。

北方度如恒河沙等諸佛世界，其世界最在邊，世界名勝，佛號勝王，菩薩名得勝。

> 北の方に、ガンジス川の砂の数ほど多くの仏の世界があります。その中で最も端にある世界は「勝」という名で、そこにおられる仏は「勝王」という名です。菩薩は「得勝」という名です。

下方度如恒河沙等諸佛世界，其世界最在邊，世界名善，佛號善德，菩薩名華上。

> その下には、ガンジス川の砂の数ほど多くの仏の世界が広がっています。その中で最も端にある世界を「善」といい、そこにおられる仏を「善徳」といい、菩薩を「華上」といいます。

上方度如恒河沙等諸佛世界，其世界最在邊，世界名喜，佛號喜德，菩薩名得喜。

> 上方には、ガンジス川の砂の数ほどの多くの仏の世界があります。その世界は最も端にあり、喜という名の世界で、仏は喜徳と名乗られ、菩薩は得喜と名乗られています。

如是一切，皆如東方。

> このように、すべては東の方と同じです。

【論】

> 【論】 論とは、心を

問曰：

> お尋ねします。

如佛法中，實無諸方名，何以故？諸五眾、十二入、十八界中所不攝，四法藏中亦無。

> 仏法の中には、実に方角という名前は存在しません。なぜなら、五衆・十二入・十八界のいずれにも含まれず、四法蔵の中にもないからです。

說方是實法，因緣求亦不可得，今何以故此中說十方諸佛、十方菩薩來？

> 「方」が実法であると言い、因縁を求めてみても得られないのに、なぜここでは十方の諸仏、十方の菩薩が来ると説くのですか。

答曰：

> お答えしますと、

隨世俗法所傳故說「方」，求「方」實不可得。

> 世間の慣習に従って「方」と説いているのであって、真に「方」を求めても、実際には得ることはできません。

問曰：

> お尋ねします。

何以言無方？汝四法藏中不說，我六法藏中說。

> なぜ「方（ほう）にとらわれない」と言えるのか。あなたの四法蔵では説かれていないが、私の六法蔵では説かれているからです。

汝眾、入、界中不攝，我陀羅驃中攝。

> あなたがたの衆・入・界は、わたしの陀羅驃の中に含まれないものはない。

是「方」法，常相故，有相故，亦有亦常。如經中說：「日出處是東方，日沒處是西方，日行處是南方，日不行處是北方。」

> それは「方」という法であり、常に形があるから、また形相があるから、また常でありながら存在するのです。経典の中にこう説かれています。「日の出る所が東方であり、日の没する所が西方であり、日の行く所が南方であり、日の行かない所が北方である。」

日有三分合：若前合，若今合，若後合。隨方日分，初合是東方，南方、西方亦如是。日不行處是無分。

> 日には三つの区分がある。すでに過ぎた区分、今の区分、まだ来ない区分である。方角にしたがって日の区分が分かれ、最初の区分は東方であり、南方、西方もまた同じである。日が巡らないところは区分がない。

彼間、此間，彼此是「方相」；若無「方」，無彼、此，彼、此是「方相」而非「方」。

> あちらとこちらという区別は「方向の特徴」です。もし方向がなければ、あちらもこちらもありません。あちらとこちらは「方向の特徴」であって、「方向」そのものではないのです。

答曰：

> お答えしますと、

不然！須彌山在四域之中，日繞須彌，照四天下：

> いいえ、そうではありません。須弥山は四つの世界の中心にあり、太陽は須弥山の周りを巡って、四つの世界を照らしているのです。

欝怛羅越日中，是弗婆提日出，於弗婆提人是東方；弗婆提日中，是閻浮提日出，於閻浮提人是東方。

> ウッタラクル（北洲）の正午は、フヴァヴィデーハ（東洲）では日の出であり、フヴァヴィデーハの人々にとっては東の方角です。フヴァヴィデーハの正午は、ジャンブディーパ（南洲）では日の出であり、ジャンブディーパの人々にとっては東の方角です。

是實無初，何以故？一切方皆東方，皆南方，皆西方，皆北方。

> 本当に「始まり」というものはないのです。なぜなら、すべての方向が東であり、すべての方向が南であり、すべての方向が西であり、すべての方向が北であるからです。

汝言「日出處是東方，日行處是南方，日沒處是西方，日不行處是北方」，是事不然！

> あなたが「日の出る所が東方で、日の進む所が南方で、日の没する所が西方で、日の進まない所が北方だ」と言うのは、間違っています。

復次，有處日不合，是為非「方」，無「方相」故。

> また、太陽が当たらない場所は「方角」ではありません。方角の特徴がないからです。

問曰：

> お尋ねします。

我說一國中「方相」，汝以四國為難，以是故，東方非無初。

> 私は一国に「方相」があると言ったのに、あなたは四国をもって難じた。それゆえ、東方に初めがないわけではない。

答曰：

> お答えしますと、

若一國中，日與東方合是為有邊，有邊故無常，無常故是不遍。

> もし一国の中で、日が東方と合するならば、これは「有辺」である。有辺であるがゆえに無常であり、無常であるがゆえに遍くない。

以是故，「方」但有名而無實。

> ですから、「方角」というものは名前だけで、実体はないのです。

【經】

> お経

爾時，是三千大千世界，變成為寶，華遍覆地，懸繒幡蓋，香樹、華樹，皆悉莊嚴。

> そのとき、この三千大千世界はすべて宝物に変わり、花が地面を覆いつくし、絹の幡や蓋がかけられ、香りの木や花の木が、ことごとく美しく飾られていました。

【論】

> 【論】 論とは、心を

問曰：

> お尋ねします。

此誰神力令地為寶？

> いったい、誰の力によって、この大地が宝となったのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

是佛無量神力變化所為。

> それは仏の無量の神力による変化がなしたことです。

有人呪術、幻法，及諸鬼神、龍王、諸天等能變化少物；令三千大千世界皆為珍寶，餘人及梵天王皆所不能。

> ある者は呪術や幻術、あるいはさまざまな鬼神や龍王、諸天などを使って、ほんのわずかなものを変化させることができる。それによって三千大千世界をすべて珍宝に変えてしまうこともある。しかし、他の人々や梵天王には、そんなことはとてもできない。

佛入四禪中十四變化心，能令三千大千世界華香樹木，一切土地皆悉莊嚴；一切眾生皆悉和同，心轉為善。何以故？

> 仏が四禅の中で十四の変化の心に入ると、三千大千世界の花や香り、樹木、すべての土地がことごとく荘厳され、すべての衆生がみな和合し、心が善へと変わっていく。なぜかというと、

莊嚴此世界，為說般若波羅蜜故。

> この世界を荘厳し、般若波羅蜜を説くためです。

亦為十方諸菩薩客來，及諸天世人故莊嚴。

> また、十方から来られる多くの菩薩のお客様や、天の神々や人々のために、このように荘厳されているのです。

如人請貴客，若一家請則莊嚴一家，一國主則莊嚴一國，轉輪聖王則莊嚴四天下，梵天王則莊嚴三千大千世界。佛為十方無量恒河沙等諸世界中主，是諸他方菩薩及諸天世人客來故。

> たとえば、大切なお客様を招くとき、一つの家が招けばその家が立派に整えられ、一国の主が招けばその国全体が整えられ、転輪聖王が招けば四天下が整えられ、梵天王が招けば三千大千世界が整えられます。仏は十方の無量のガンジス川の砂の数ほどの世界の主であり、そこへ他の世界の菩薩たちや天の人々、世の人々がお客様として訪れるからです。

亦為此彼眾人見此變化莊嚴，則生大心，生清淨歡喜心，從大心發大業，從大業得大報，受大報時更生大心，如是展轉增長，得成阿耨多羅三藐三菩提。

> また、人々がこの変化の荘厳さを見て、大きな心を起こし、清らかな喜びの心を起こします。大きな心から大きな行いが生まれ、大きな行いから大きな報いを得ます。その大きな報いを受けるとき、さらに大きな心が生まれ、このようにして次々と成長し、ついに阿耨多羅三藐三菩提を成就するのです。

以是故，變此世界皆悉為寶。

> だからこそ、この世界をすべて宝に変えたのです。

云何名寶？

> なぜ「宝」というのですか。

寶有四種：金、銀、毘琉璃、頗梨。

> 宝には四種類あります。金、銀、瑠璃、水晶です。

更有七種寶：金、銀、毘琉璃、頗梨、車𤦲、馬瑙、赤真珠此珠極貴，非是珊瑚。

> また七種類の宝があります。金、銀、瑠璃、水晶、貝殻、瑪瑙、赤真珠<note>この珠は非常に貴重で、珊瑚ではありません</note>です。

更復有寶：摩羅伽陀此珠金翅鳥口邊出，綠色，能辟一切毒，因陀尼羅天青珠、摩訶尼囉大青珠、鉢摩羅伽赤光珠、越闍金剛、龍珠、如意珠、玉貝、珊瑚、琥珀等種種名為寶。

> さらに、次のような宝もあります。摩羅伽陀<note>この珠は金翅鳥の口のそばから出るもので、緑色で、あらゆる毒を防ぐことができます</note>、因陀尼羅<note>天青珠</note>、摩訶尼囉<note>大青珠</note>、鉢摩羅伽<note>赤光珠</note>、越闍<note>金剛</note>、龍珠、如意珠、玉貝、珊瑚、琥珀など、これらのさまざまなものを宝と呼びます。

是寶有三種：有人寶、天寶、菩薩寶。

> 宝には三つの種類があります。人宝、天宝、菩薩宝です。

人寶力少，唯有清淨光色，除毒、除鬼、除闇，亦除飢、渴、寒、熱種種苦事。

> 人としての力は弱くても、清らかな光を放つことで、毒を除き、悪鬼を払い、暗闇を照らし、さらに飢えや渇き、寒さや暑さといったさまざまな苦しみも取り除くことができるのです。

天寶亦大、亦勝，常隨逐天身，可使令，可共語，輕而不重。

> 天宝は大きく優れており、常に天の身体に従い、命令に従わせることも、共に語ることもでき、軽やかで重くない。

菩薩寶勝於天寶，能兼有人寶、天寶事；又能令一切眾生知死此生彼因緣本末，譬如明鏡見其面像。

> 菩薩という宝は天の宝よりもすぐれており、人としての宝と天の宝の両方の働きを兼ね備えています。さらに、すべての生きとし生けるものに、死してここを去りあちらに生まれるという因縁の始まりと終わりを知らせることができます。それはちょうど、明るい鏡に自分の顔が映るようなものです。

復次，菩薩寶勝，能出種種法音；若為首飾寶冠，則雨十方無量世界諸佛上，幢幡、華蓋種種供養之具以供養佛。

> また、菩薩の宝勝は、さまざまな法の声を響かせることができます。もし頭飾りや宝の冠となれば、十方の無量の世界にいるもろもろの仏の上に降りそそぎ、幢や幡、華蓋などさまざまな供養の道具でもって仏を供養します。

又雨衣被、臥具、生活之物，種種眾事，隨眾生所須皆悉雨之給施眾生；如是等種種眾寶，以除眾生貧窮苦厄。

> また、雨のように衣や寝具、生活に必要なものを降らせ、あらゆる品々を、生きとし生けるものの必要に応じてすべて降らせて与えた。このようにさまざまな宝物でもって、生きとし生けるものの貧しさや苦しみを取り除いた。

問曰：

> お尋ねします。

是諸珍寶從何處出？

> そのさまざまな宝物は、どこから出てくるのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

金出山石沙赤銅中，真珠出魚腹中、竹中、蛇腦中，龍珠出龍腦中，珊瑚出海中石樹，生貝出虫甲中，銀出燒石，餘琉璃、頗梨等皆出山窟中。

> 金は山から、石や砂、赤銅の中からも出ます。真珠は魚のお腹の中、竹の中、蛇の脳の中から出ます。龍珠は龍の脳の中から出ます。珊瑚は海の中の石の樹から出ます。生貝は虫の甲羅の中から出ます。銀は焼いた石から出ます。その他の瑠璃や頗梨などは、みな山の洞窟の中から出ます。

如意珠出自佛舍利；若法沒盡時，諸舍利皆變為如意珠；譬如過千歲氷，化為頗梨珠。

> 如意珠は仏舎利から生まれます。もし仏法が滅び尽きる時には、すべての舎利が如意珠に変わります。ちょうど、千年を経た氷が玻璃珠に変わるようなものです。

如是等諸寶，是人中常寶。

> これらの宝は、人間の世界でよく見られる宝です。

佛所莊嚴一切世界，是最殊勝，諸天所不能得，何以故？是從大功德所生。

> 仏によって荘厳されたすべての世界は、この上なくすぐれており、天の者たちでさえ得ることはできません。なぜでしょうか。それは大きな功德から生まれたものだからです。

種種華、幡，如先說。香樹者，名阿伽樓蜜香樹、多伽樓木香樹、栴檀，如是等種種香樹。華樹名占匍黃華樹、阿輸迦無憂花樹、婆呵迦羅赤華樹，如是等種種華樹。

> さまざまな花や幡については、すでに述べたとおりです。香りの木とは、アガル<note>蜜香樹</note>、タガル<note>木香樹</note>、栴檀などの、さまざまな香木のことです。花の木とは、占匍<note>黄華樹</note>、阿輸迦<note>無憂花樹</note>、婆呵迦羅<note>赤華樹</note>などの、さまざまな花の木のことです。

【經】

> お経

譬如華積世界、普華世界，妙德菩薩、善住意菩薩，及餘大威神諸菩薩，皆在彼住。

> たとえば華積世界や普華世界には、妙徳菩薩や善住意菩薩をはじめ、大きな力を持つ多くの菩薩たちがみな住んでいます。

【論】

> 【論】 論とは、心を

問曰：

> お尋ねします。

何以言「譬如華積世界」？

> なぜ「譬えば華積世界のごとし」と言うのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

彼世界常有淨華，此世界變化一時，故以喻也。

> あちらの世界にはいつも清らかな花が咲いていますが、この世界では移り変わりが一時的なので、それをたとえにしたのです。

譬喻法，以小喻大。如人面好，譬如滿月。

> たとえを用いた教えは、小さなもので大きなことを例える。たとえば、人の顔立ちがよいのを、満月のようだとたとえるようなものである。

問曰：

> お尋ねします。

更有十方諸清淨世界，如阿彌陀佛安樂世界等，何以故但以普華世界為喻？

> 十方には、ほかにも清らかな世界がたくさんあります。たとえば阿弥陀仏の安楽世界などです。それなのに、どうして普華世界だけをたとえに用いたのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

阿彌陀佛世界，不如華積世界。何以故？法積比丘，佛雖將至十方觀清淨世界，功德力薄，不能得見上妙清淨世界，以是故，世界不如。

> 阿弥陀仏の世界は、華積世界には及びません。なぜでしょうか。法積比丘は、仏が十方の清浄な世界を巡らせて見せようとされたにもかかわらず、その功德の力が薄く、すぐれた清浄な世界を見ることができませんでした。それゆえ、この世界は及ばないのです。

復次，當佛變化此世界時，正與華積世界相似。以是故言「譬如華積世界」。

> また、仏がこの世界を変えたとき、それはまさに華積世界と似ていた。それゆえ「華積世界のようである」と言うのです。

問曰：

> お尋ねします。

更有餘大菩薩，如毘摩羅詰、觀世音、遍吉菩薩等，何以不言此諸菩薩在彼住，而但言文殊尸利、善住意菩薩？

> さらに、毘摩羅詰（ヴィマラキールティ）や観世音、遍吉（普賢）といった大菩薩たちがいるのに、なぜこれらの菩薩たちがそこに留まっていると言わず、ただ文殊尸利（文殊師利）と善住意（スシッティ）の菩薩だけに言及するのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

是遍吉菩薩，一一毛孔常出諸佛世界及諸佛菩薩，遍滿十方以化眾生，無適住處。文殊尸利分身變化入五道中，或作聲聞，或作緣覺，或作佛身，如《首楞嚴三昧經》中說「文殊師利菩薩，過去世作龍種尊佛」，「七十二億世作辟支迦佛」，是可言可說。遍吉菩薩不可量、不可說，住處不可知；若住，應在一切世界中住，是故不說。

> 遍吉菩薩は、その一つ一つの毛穴から常に諸仏の世界や諸仏・菩薩を現し、十方に満ちあふれて衆生を教化しておられますが、とどまる場所はありません。文殊師利は分身を変化させて五道の中に入り、あるときは声聞となり、あるときは縁覚となり、あるときは仏の身となられます。『首楞厳三昧経』に説かれるように、「文殊師利菩薩は過去世に龍種尊仏となられた」「七十二億世にわたって辟支迦仏となられた」と、これは語ることも説くこともできます。しかし遍吉菩薩は量り知ることも語ることもできず、その住処も知ることができません。もし住まわれるとすれば、すべての世界におられるはずです。それゆえ、その住処については説かないのです。

復次，「及諸大威神菩薩」者，亦應總說遍吉等諸大菩薩。

> 次に、「および諸の大いなる威神力を持つ菩薩たち」とは、普賢菩薩などの偉大な菩薩たちを広く指して言うのである。

【經】

> お経

爾時，佛知一切世界，若天世界，若魔世界，若梵世界；若沙門、若婆羅門及天，若揵闥婆、人、阿修羅等，及諸菩薩摩訶薩紹尊位者一切皆集。

> そのとき、仏はすべての世界をご存じだった。天の世界、魔の世界、梵の世界、また沙門や婆羅門、天、乾闥婆、人、阿修羅など、そして尊い位を継ぐすべての菩薩摩訶薩も、みな集まっていた。

【論】

> 【論】 論とは、心を

問曰：

> お尋ねします。

佛神力無量，一切十方眾生，若盡來在會者，一切世界應空；若不來者，佛無量神力有所不能！

> 仏の神力ははかり知れません。もし十方のすべての衆生がことごとく集まってこの法会に来るならば、すべての世界は空になってしまうでしょう。もし来ないのなら、仏の無量の神力にも及ばないところがあるということになってしまいます。

答曰：

> お答えしますと、

不應盡來，何以故？諸佛世界無邊無量，若盡來者，便為有邊。

> すべての者が集まることはありません。なぜなら、仏の世界はどこまでも広がり、限りがないからです。もしすべてが集まるなら、それは限りがあることになってしまいます。

又復十方各各有佛，亦說般若波羅蜜，如彼《般若波羅蜜》四十三品中，「十方面各千佛現，皆說般若波羅蜜」。以是故不應盡來。

> また、十方のそれぞれに仏がおられ、その仏たちも般若波羅蜜を説いておられます。あの『般若波羅蜜』の四十三品の中に、「十方のそれぞれに千の仏が現れて、みな般若波羅蜜を説いた」とあります。ですから、すべての仏が集まるわけではないのです。

問曰：

> お尋ねします。

若有十方諸佛，皆說般若波羅蜜，十方諸菩薩何以故來？

> もし十方に諸仏がいて、みな般若波羅蜜を説いているのなら、なぜ十方の諸菩薩はここに来るのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

如「普明菩薩來章」中已說，與釋迦牟尼佛因緣故來。

> 「普明菩薩来章」ですでに説かれているように、釈迦牟尼仏との因縁によって来られたのです。

復次，是諸菩薩本願故，若有說般若波羅蜜處，我當聽受、供養，是以遠來。欲以身力積功德故，亦以示諸眾生：「我從遠來供養法故，云何汝在此世界而不供養？」

> さらに、これらの菩薩たちは、過去の願いによって、「般若波羅蜜が説かれる場所があれば、私はそこへ行って聴き、供養しよう」と考えているため、はるか遠くからやって来ました。自分の身と力によって功德を積みたいからであり、また、すべての生きとし生けるものに示すためでもあります。「私は遠くから法を供養するために来たのに、どうしてあなたがたはこの世界にいながら供養しないのか」と。

問曰：

> お尋ねします。

佛於法不著，何以故七現神力而令眾生大集？

> 仏は法に執着されないのに、なぜ七つの神通力を現して衆生を大いに集められるのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

是般若波羅蜜甚深，難知難解，不可思議，是故廣集諸大菩薩，令新發意者心得信樂。譬如小人所語不為人信，貴重大人人必信受。

> これは般若波羅蜜がとても深く、知りにくく理解しにくく、思いはかることもできないものだからです。それゆえ多くの大きな菩薩を集めて、新たに志を起こした人々の心が信じ、喜ぶようにさせたのです。たとえば、身分の低い人の言葉は人に信じられませんが、身分の高い立派な人の言葉なら、人は必ず信じて受け入れます。

問曰：

> お尋ねします。

何以故言「若天世界，若魔世界，若梵世界」？但應言「天世界、人世界」則足，何以故？十號中言「天、人師」，以是故應言「天、人」而已。

> なぜ「天の世界、魔の世界、梵の世界」と言うのでしょうか。ただ「天の世界、人の世界」と言うだけで十分ではないでしょうか。なぜなら、仏の十の称号の中に「天と人の師」とあるのですから、それなら「天と人」とだけ言えばよいはずです。

答曰：

> お答えしますと、

諸天有天眼、天耳，利根智慧多，自知來，以是故言「天世界」。

> 天の世界の神々は、天眼と天耳を持ち、その能力は鋭く、智慧も豊かで、自らを知ることができる。それゆえ「天世界」と言うのです。

問曰：

> お尋ねします。

若天世界已攝魔、梵，何以故別說「若魔、若梵」？

> 天の世界がすでに魔と梵を包み込んでいるのなら、なぜわざわざ「魔、あるいは梵」と別に説くのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

天中有三大主：釋提婆那民，二處天主；魔王，六欲天主；梵世界中，大梵天王為主。

> 天には三つの大きな主宰者がいます。まず釈提婆那民は、二つの処の天の主です。次に魔王は、六欲天の主です。そして梵世界では、大梵天王が主です。

問曰：

> お尋ねします。

如夜魔天、兜率陀天、化樂天皆有主，何以但有三主？

> 夜魔天、兜率陀天、化楽天にはいずれも主がいるのに、なぜ三つの主だけなのですか。

答曰：

> お答えしますと、

釋提婆那民依地住，佛亦在地住，常來佛所，大有名稱，人多識故。魔王常來嬈佛，又是一切欲界中主；夜摩天、兜率陀天、化樂天，皆屬魔王。

> 釈提婆那民は地に依って住み、仏もまた地に住んでおられる。この神は常に仏のもとへとやって来て、たいへん名高く、多くの人に知られているからである。魔王も常に仏を煩わせにやって来る。魔王はまた、すべての欲界の主である。夜摩天、兜率陀天、化楽天は、みな魔王に属している。

復次，天世界，則三界天皆攝是天中；一切欲界，魔為主，是故別說。

> 次に、天の世界についてですが、三界の天はすべてこの天の中に含まれます。欲界においては、魔が主であるため、別に説かれています。

復次，魔常嬈佛，今來聽般若波羅蜜，餘人增益信故。

> また、魔はいつも仏を煩わせてきたが、今は般若波羅蜜を聞きに来ており、他の人々の信を増すためである。

問曰：

> お尋ねします。

色界中大有天，何以但言「梵世界集」？

> 色界には多くの天があるのに、なぜただ「梵世界の集」とだけ言うのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

上諸天無覺觀，不喜散心，又難聞故。

> 上の天の者たちは、物事を細かく観察する心の働きがなく、心が散ることを好まず、また仏の教えを聞くことが難しいからです。

梵世界有四識，易聞故。又梵世界近故。

> 梵の世界には四つの識があり、理解しやすいからです。また、梵の世界は近いからです。

復次，梵名離欲清淨，今言梵世界，已總說色界諸天。

> また、「梵」という名は離欲清浄を意味し、ここで梵世界と言うのは、すでに色界の諸天をまとめて説いたものである。

復次，餘天未有人民，劫初生時，梵天王獨在梵宮寂漠無人，其心不悅而自生念：「此間何以不生人民？」是時光音天命盡者，應念來生。

> 次に、まだ人々が存在しなかった頃、世界の始まりの時期に、梵天王はただ一人梵宮にいて、誰もおらず寂しく、心は喜ばず、「なぜここに人々が生まれないのか」と自ら思いを抱きました。その時、光音天の寿命が尽きた者たちが、その思いに応じてここに生まれてきました。

梵王便自生念：「此諸天先無，隨我念故生，我能生此諸天。」

> 梵天之王はこう思いました。「これらの神々は元々いなかったが、私の思いに従って生まれた。私がこれらの神々を生み出したのだ。」

諸天是時亦各自念：「我從梵王生，梵王是我父也。」

> その時、天界の神々もそれぞれこう思いました。「私たちは梵王から生まれた。梵王は私たちの父である。」

以是故，但說「梵世界」。

> ですから、ただ「梵世界」についてのみ説かれているのです。

復次，二禪、三禪、四禪天，於欲界見佛聽法，若勸助菩薩，眼識、耳識、身識皆在梵世界中取。以是故，別說「梵世界」。

> 次に、第二禅・第三禅・第四禅の天にいる者たちが、欲界で仏を見て法を聞き、あるいは菩薩を励まし助けるとき、眼識・耳識・身識はすべて梵世界において働く。このため、別に「梵世界」と説くのである。

問曰：

> お尋ねします。

何以故獨說「諸沙門、婆羅門」，不說國王及長者諸餘人眾？

> なぜ「沙門やバラモンたち」だけを取り上げて、国王や長者、そのほかの人々については説かないのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

智慧人有二分：沙門、婆羅門。

> 智慧ある人には二つの道があります。沙門と婆羅門です。

出家名沙門，在家名婆羅門。餘人心存世樂，是故不說。

> 出家した人は沙門と呼ばれ、在家の人は婆羅門と呼ばれます。その他の人々は心に世俗の楽しみを抱いているので、ここでは説きません。

婆羅門多學智慧求福，出家人一切求道，是故但說沙門、婆羅門。

> バラモンは多く学問や智慧によって福を求め、出家者はただもっぱら道を求める。それゆえ、ただ沙門とバラモンについて説かれたのである。

在家中七世清淨，生滿六歲皆受戒，名婆羅門。

> 家に七代にわたって清らかな血筋が続き、生まれて六歳になるとみな戒を受ける、それをバラモンと呼びます。

是沙門、婆羅門中，有道德智慧，以是故說。

> 沙門やバラモンの中には、道徳と智慧を備えた者がいる。それゆえにこう説かれたのである。

問曰：

> お尋ねします。

先已說天世界，今何以復說「天」？

> すでに天の世界について説明しましたが、なぜ今また「天」について説くのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

天世界是四天王、忉利天，魔是他化自在天，梵是色界。

> 天の世界とは、四天王と忉利天のことです。魔とは他化自在天のことです。梵とは色界のことです。

今說「天」，是欲界中夜摩、兜率陀、化樂、愛身天等；愛身在六天上，形色絕妙，故言愛身。

> ここで「天」と言うのは、欲界の中の夜摩天、兜率陀天、化楽天、愛身天などのことです。愛身天は六つの天のうちの一つで、姿かたちがこの上なくすばらしいので、愛身天と呼ばれます。

問曰：

> お尋ねします。

何以但說「揵闥婆」，不說諸餘鬼神及龍王？

> なぜ「乾闥婆」だけを取り上げて、他の鬼神や竜王については説かないのですか。

答曰：

> お答えしますと、

是揵闥婆是諸天伎人，隨逐諸天，其心柔軟，福德力小減諸天。

> 揵闥婆（けんだつば）は天界の音楽を奏でる者たちで、神々に従っています。その心は柔和ですが、福徳の力は神々より少し劣っています。

諸鬼神，鬼神道中攝；龍王，畜生道中攝。

> 多くの鬼神は鬼神の世界に属し、竜王は畜生の世界に属します。

甄陀羅亦是天伎，皆屬天，與天同住共坐，飲食伎樂皆與天同。

> 甄陀羅もまた天の伎楽師で、みな天に属し、天と同じ場所に住み、ともに座り、飲食も伎楽もすべて天と同じです。

是揵闥婆王名童籠磨秦言樹。

> これは健闥婆の王で、名を童籠磨といいます<note>秦の言葉で「樹」という意味です</note>。

是揵闥婆、甄陀羅，恒在二處住，常所居止在十寶山間；有時天上為諸天作樂，此二種常番休上下。

> これは揵闥婆と甄陀羅で、いつも二つの場所に住んでいます。普段は十宝山の間に居を構えていますが、時には天上に上がって神々のために音楽を奏でます。この二種は交代で休みながら上ったり下りたりしています。

人在四天下生，生有四種，極長壽乃至無量歲，極短壽乃至十歲。

> 人が四天下に生まれるとき、その生まれ方には四つの種類があり、最も長い寿命は無量歳にまで及び、最も短い寿命は十歳にまで及ぶ。

阿修羅惡心鬪諍而不破戒，大修施福，生在大海邊住，亦有城郭宮殿。

> 阿修羅は心が悪く、闘い争うことを好みますが、戒を破ることはありません。また、布施の功徳を大いに積んだため、大海のほとりに生まれ住み、城や宮殿も持っています。

是阿修羅王名毘摩質多、婆梨、羅睺羅，如是等名阿修羅王。

> 阿修羅王の名には、毘摩質多、婆梨、羅睺羅などがあります。このような名前の阿修羅王たちです。

如說：

> 次のように説かれています。

一時，羅睺羅阿修羅王欲噉月，月天子怖疾到佛所，說偈言：

> そのとき、羅睺羅阿修羅王が月を飲み込もうとしました。月天子は恐れて急いで仏のところへ行き、次のように唱えました。

「大智成就佛世尊， 我今歸命稽首禮；是羅睺羅惱亂我， 願佛憐愍見救護！」

> 大いなる智慧を成就された仏世尊よ、私は今、帰依し、頭を垂れて礼拝します。 この羅睺羅が私を悩ませ苦しめています。どうか仏よ、哀れみをおかけになり、私をお救いください。

佛與羅睺羅而說偈言：

> 仏は羅睺羅に偈を説いて言われた。

「月能照闇而清涼， 是虛空中大燈明，其色白淨有千光， 汝莫吞月疾放去！」

> 月は闇を照らして涼しく、これは虚空の中の大きな灯明であり、 その色は白く清らかで千の光がある。汝よ、月を飲み込んではならない、速やかに放して去れ。

是時，羅睺羅怖懅流汗，即疾放月。

> そのとき、羅睺羅は恐ろしさのあまり汗を流し、すぐに月を放した。

婆梨阿修羅王見羅睺羅惶怖放月，說偈問曰：

> 婆梨阿修羅王は、羅睺羅が恐怖のあまり月を放したのを見て、偈を唱えて尋ねました。

「汝羅睺羅何以故， 惶怖戰慄疾放月？汝身流汗如病人， 心怖不安乃如是！」

> 「羅睺羅よ、なぜそのように恐れおののき、慌てて月を放してしまったのか。 おまえの体は病人のように汗を流し、心は恐れてこれほど落ち着かないのか。」

羅睺羅爾時說偈答曰：

> 羅睺羅はそのとき、次のように詩を唱えてお答えしました。

「世尊以偈而勅我， 我不放月頭七分；設得生活不安隱， 以故我今放此月！」

> 「世尊は詩の言葉で私に教えられました。 　　私は月の頭の七日間を手放しません。 　　たとえ生き延びたとしても安らかではありません。 　　それゆえ、私は今この月を手放します！」

婆梨阿修羅王說偈：

> 婆梨阿修羅王が詩を唱えました。

「諸佛甚難值， 久遠乃出世；說此清淨偈， 羅睺即放月。」

> 諸佛にお会いするのはとても難しく、 遠い昔から長い間たってようやく世に現れます。 この清らかな詩句を説くと、 羅睺はただちに月を放ちました。

問曰：

> お尋ねします。

何以不說地獄、畜生、餓鬼？

> なぜ地獄、畜生、餓鬼について説かないのですか。

答曰：

> お答えしますと、

地獄大苦心亂，不能受法；畜生愚癡覆心，不能受化；餓鬼為飢渴火燒身故，不得受法。

> 地獄の苦しみはあまりに大きく、心が乱れてしまい、法を受け入れることができません。畜生は愚かさに心が覆われていて、教えに従うことができません。餓鬼は飢えと渇きの炎に身を焼かれているため、法を受けることができません。

復次，畜生、餓鬼中，少多有來聽法者，生福德心而已，不堪受道，是故不說。

> また、畜生や餓鬼の中にも、教えを聞きに来る者は少なからずいますが、それは福徳を積む心を起こすだけで、悟りの道を受け入れることはできません。そのため、彼らについては説きません。

問曰：

> お尋ねします。

若爾者，揵闥婆、阿修羅亦不應說，何以故？鬼神道中已攝故。

> それならば、乾闥婆や阿修羅も説かれるべきではないのでしょうか。なぜなら、すでに鬼神の道の中に含まれているからです。

答曰：

> お答えしますと、

佛不說攝，今何以言攝？此是迦旃延子等說。

> 仏は「摂（おさ）める」とは説いておられないのに、なぜ今「摂める」と言うのですか。これは迦旃延子（カセンエンシ）たちの説です。

如阿修羅力與天等，或時戰鬪勝天。

> 阿修羅の力は天に匹敵し、時に戦いで天に勝つこともある。

揵闥婆是諸天伎，與天同受福樂，有智慧能別好醜，何以不得受道法？如《雜阿含．天品》中說：「富那婆藪鬼神母，佛遊行宿其處。爾時，世尊說上妙法甘露，女男二人啼泣，母為說偈止之：

> 揵闥婆は天界の楽師であり、天衆と同じく福楽を受け、智慧があって美醜を見分けることができるのに、なぜ道法を受けることができないのか。『雑阿含経・天品』に次のように説かれている。「富那婆藪という鬼神の母のもとに、仏が遊行してその場所に泊まられた。そのとき、世尊は上妙の法の甘露を説かれた。娘と息子の二人は泣き叫んだが、母が偈を説いてこれを止めた。」

「『汝欝怛羅勿作聲， 富那婆藪亦莫啼！我今聞法得道證， 汝亦當得必如我。』」

> 「鬱怛羅よ、声を立てるな。富那婆藪も泣くな。 私は今、法を聞いて道の証りを得た。あなたもきっと、私と同じように得るだろう。」

以是事故，知鬼神中有得道者。

> このような理由から、鬼神の中にも悟りを得た者がいることが分かります。

復次，摩訶衍中密迹金剛力士，於諸菩薩中勝，何況餘人！如屯崙摩甄陀羅王、揵闥婆王，至佛所，彈琴讚佛，三千世界皆為震動，乃至摩訶迦葉不安其坐。如此人等，云何不能得道？如諸阿修羅王、龍王，皆到佛所，問佛深法，佛隨其問而答深義，何以言不能得道？

> また、大乗の中で密迹金剛力士はもろもろの菩薩の中でも優れています。まして他の人々はなおさらです。例えば屯崙摩甄陀羅王や揵闥婆王が仏のもとへ来て、琴を弾いて仏を讃えると、三千世界がすべて震動し、摩訶迦葉でさえも座に安んじていられませんでした。このような人々が、どうして道を得ることができないでしょうか。もろもろの阿修羅王や龍王も、みな仏のもとへ来て仏に深い法を問い、仏はその問いに応じて深い意味を答えられました。どうして道を得ることができないと言えるでしょうか。

問曰：

> お尋ねします。

於五道眾生中，佛是天人師，不說三惡道，以其無福、無受道分故。是諸龍、鬼，皆墮惡道中。

> 五道の衆生の中で、仏は天人師であり、三悪道については説かれません。そこには福がなく、道を受ける分がないからです。これらの龍や鬼は、みな悪道に堕ちています。

答曰：

> お答えしますと、

佛亦不分明說五道，說五道者，是一切有部僧所說；婆蹉弗妬路部僧說有六道。

> 仏もまた五道をはっきりとは説かれませんでした。五道を説くのは、一切有部の僧たちの説です。婆蹉弗妬路部の僧たちは六道があると説いています。

復次，應有六道。何以故？三惡道一向是罪處；若福多罪少，是名阿修羅、揵闥婆等，生處應別。以是故，應言六道。

> また、六道があるべきです。なぜでしょうか。三悪道は完全に罪の世界です。もし福が多く罪が少なければ、それは阿修羅や乾闥婆などと呼ばれ、生まれる場所は別であるべきです。ですから、六道と言うべきなのです。

復次，三惡道亦有受道福，少故言無。及諸菩薩紹尊位者，如先說。

> また、三悪道にも道の福を受けることはありますが、その量が少ないために「無い」と言われるのです。また、尊者位を継ぐ諸々の菩薩については、先に説いたとおりです。

## 大智度論卷第十

> 大智度論 第十巻