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title: "大智度論 · 17 檀波羅蜜義"
description: "大智度论由古印度龙树菩萨所造，后秦时期著名译经家鸠摩罗什翻译成中文。该论是佛教重要典籍，属于大乘中观学派的核心论著，主要阐释《大品般若经》的深奥义理。全书共一百卷，系统论述了般若空性思想、菩萨修行次第以及六度万行的实践方法，被誉为大乘佛教的百科全书。作为早期大乘佛教的代表性论典，大智度论对汉传佛教思想体系的形成影响深远，尤其为天台宗、华严宗等宗派提供了重要理论依据，在佛教哲学史上占据崇高地位。"
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### 大智度論釋初品中檀波羅蜜義第十七

> 大智度論釈初品中檀波羅蜜義第十七

【經】

> お経

佛告舍利弗：「菩薩摩訶薩以不住法住般若波羅蜜中，以無所捨法具足檀波羅蜜，施者、受者及財物不可得故。」

> 仏は舎利弗に告げられた。「菩薩摩訶薩は、とらわれない心で般若波羅蜜にとどまり、何も手放すことのない法によって檀波羅蜜を完成させる。与える者、受け取る者、そして与える物が、いずれも得られないからである。」

【論】

> 【論】 論とは、心を

問曰：

> お尋ねします。

「般若波羅蜜」是何等法？

> 「般若波羅蜜」とはどのような法なのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

有人言：無漏慧根是般若波羅蜜相。何以故？一切慧中第一慧是名般若波羅蜜；無漏慧根是第一，以是故，無漏慧根名般若波羅蜜。

> ある人が言った。「無漏の慧根が般若波羅蜜の相である。なぜかといえば、一切の慧の中で第一の慧を般若波羅蜜と名づける。無漏の慧根は第一であるから、それゆえに無漏の慧根を般若波羅蜜と名づけるのである。」

問曰：

> お尋ねします。

若菩薩未斷結，云何得行無漏慧？

> 菩薩がまだ煩悩の結びつきを断ち切っていないのに、どうして漏れのない智慧を行うことができるのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

菩薩雖未斷結，行相似無漏般若波羅蜜，是故得名行無漏般若波羅蜜。譬如聲聞人行暖法、頂法、忍法、世間第一法，先行相似無漏法，後易得生苦法智忍。

> 菩薩はまだ煩悩の結を断ち切ってはいないけれども、その行いは無漏の般若波羅蜜に似ている。だからこそ、無漏の般若波羅蜜を行じていると言えるのです。たとえば、声聞が暖法・頂法・忍法・世間第一法を修める場合、まず無漏の法に似た行いをして、その後で苦法智忍を容易に生じることができるのと同じです。

復有人言：菩薩有二種：有斷結使清淨，有未斷結使不清淨。斷結使清淨菩薩，能行無漏般若波羅蜜。

> また、ある人はこう言っています。菩薩には二つの種類があります。煩悩の束縛を断ち切って清らかになった菩薩と、まだ煩悩の束縛を断ち切っていない清らかでない菩薩です。煩悩の束縛を断ち切って清らかになった菩薩は、煩悩のない智慧の完成（般若波羅蜜）を実践することができます。

問曰：

> お尋ねします。

若菩薩斷結清淨，復何以行般若波羅蜜？

> もし菩薩が煩悩の束縛を断ち切って清らかになっているのなら、なぜまだ般若波羅蜜を行うのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

雖斷結使，十地未滿，未莊嚴佛土，未教化眾生，是故行般若波羅蜜。

> 煩悩を断ち切ったとしても、まだ十地を完成しておらず、仏の国土を荘厳しておらず、衆生を教化していない。そのために般若波羅蜜を実践するのです。

復次，斷結有二種：一者、斷三毒心，不著人天中五欲；二者、雖不著人天中五欲，於菩薩功德果報五欲未能捨離——如是菩薩，應行般若波羅蜜。

> 次に、煩悩を断つことには二つの種類があります。一つは、三毒の心を断ち、人や天の世界の五欲に執着しないことです。二つは、人や天の世界の五欲には執着しなくても、菩薩の功德と果報としての五欲をまだ捨て切れないことです——このような菩薩は、般若波羅蜜を行うべきです。

譬如長老阿泥盧豆，在林中坐禪時，淨愛天女等，以淨妙之身來試阿泥盧豆。阿泥盧豆言：「諸姊作青色來，不用雜色。」欲觀不淨，不能得觀；黃、赤、白色，亦復如是。時阿泥盧豆閉目不視，語言：「諸姊遠去！」是時天女即滅不現。天福報形，猶尚如是，何況菩薩無量功德果報五欲？

> たとえば、長老アニルッダが林の中で座禅をしていたとき、浄愛の天女たちが清らかで美しい姿でアニルッダを試そうとやって来ました。アニルッダは言いました。「姉さんたちよ、青色になっておいでください。混じった色は要りません。」不浄を観ようとしても観ることができず、黄・赤・白の場合も同じでした。そのときアニルッダは目を閉じて見ずに言いました。「姉さんたちよ、遠くへ行ってください。」すると天女たちはたちまち消えて現れなくなりました。天の福報の姿でさえこのようであるのに、ましてや菩薩の無量の功德の果報である五欲においてはどうでしょうか。

又如甄陀羅王與八萬四千甄陀羅來到佛所，彈琴歌頌，以供養佛。爾時，須彌山王及諸山樹木、人民、禽獸一切皆舞。佛邊大眾，乃至大迦葉，皆於座上不能自安。是時，天須菩薩問長老大迦葉：「耆年舊宿，行十二頭陀法之第一，何以在座不能自安？」大迦葉言：「三界五欲不能動我；是菩薩神通功德果報力故，令我如是，非我有心不能自安也。譬如須彌山，四邊風起，不能令動；至大劫盡時，毘藍風起，如吹爛草。」

> また、あるとき甄陀羅（ケンダラ）の王が八万四千の甄陀羅とともに仏のもとへやって来て、琴を弾き、歌をうたって仏を供養しました。そのとき、須弥山の王をはじめ、もろもろの山や草木、人々、鳥や獣まで、すべてが踊り出しました。仏のそばにいた大勢の人々も、大迦葉でさえも、座にじっとしていることができませんでした。そこで天須菩薩が長老大迦葉に尋ねました。「あなたは年長の長老であり、十二の頭陀行を実践する者の中でも第一とされる方です。どうして座にじっとしていられないのですか。」大迦葉は答えました。「三界の五欲は私を動かすことはできません。しかし、この菩薩の神通と功德の果報の力によって、私もこのようになってしまうのです。私自身の心が動いたのではありません。たとえば須弥山は四方から風が吹きつけても揺れることはありませんが、大劫が尽きるときに吹く毘藍風には、腐った草のように吹き飛ばされてしまいます。」

以是事故，知二種結中一種未斷；如是菩薩等，應行般若波羅蜜。

> このことから、二つの結のうち一つがまだ断たれていないことがわかります。ですから菩薩たちは、般若波羅蜜を実践すべきなのです。

是阿毘曇中如是說，復有人言：般若波羅蜜是有漏慧。何以故？菩薩至道樹下乃斷結；先雖有大智慧，有無量功德，而諸煩惱未斷。是故言菩薩般若波羅蜜是有漏智慧。

> 阿毘曇ではこのように説かれています。また、ある人々はこう言います。「般若波羅蜜は有漏の慧である。なぜかというと、菩薩は道樹の下に至って初めて煩悩の結を断つからである。それ以前は、たとえ大きな智慧や無量の功德があっても、諸々の煩悩はまだ断たれていない。だから、菩薩の般若波羅蜜は有漏の智慧であると言うのである。」

復有人言：從初發意乃至道樹下，於其中間所有智慧，是名般若波羅蜜。成佛時，是般若波羅蜜轉名薩婆若。

> また、ある人はこう言います。「最初に菩提心を起こしてから道場の樹の下で悟りを開くまでの間の、すべての智慧を般若波羅蜜と呼ぶ。成仏した時、この般若波羅蜜は名前を変えて薩婆若（一切智）となる」と。

復有人言：菩薩有漏、無漏智慧，總名般若波羅蜜。何以故？菩薩觀涅槃，行佛道，以是事故，菩薩智慧應是無漏；以未斷結使，事未成辦故，應名有漏。

> また、ある人々はこう言います。「菩薩の有漏の智慧と無漏の智慧を、総じて般若波羅蜜と呼ぶ。なぜか。菩薩は涅槃を観じて仏道を歩む。このことから、菩薩の智慧は無漏であるべきである。しかし、まだ煩悩を断ち切っておらず、修行が完成していないため、有漏とも呼ぶべきである」と。

復有人言：菩薩般若波羅蜜，無漏無為，不可見無對。

> また、ある人はこう言います。「菩薩の般若波羅蜜は、煩悩の漏れがなく、作られたものではなく、見ることもできず、対となるものもない」と。

復有人言：是般若波羅蜜，不可得相，若有若無，若常若無常，若空若實。是般若波羅蜜，非陰界入所攝，非有為、非無為，非法、非非法，無取無捨，不生不滅，出有無四句，適無所著。譬如火焰，四邊不可觸，以燒手故；般若波羅蜜相，亦如是不可觸，以邪見火燒故。

> また、ある人はこう言います。「この般若波羅蜜は、とらえられる形を持たない。有るとも無いとも、常とも無常とも、空とも実とも言えない。この般若波羅蜜は、五蘊・十八界・十二入のいずれにも属さず、有為でもなく無為でもなく、法でもなく非法でもなく、取ることも捨てることもなく、生じることも滅することもなく、有・無の四句を超えて、どこにも執着しない。たとえば炎は四方どこからも触れることができない、手を焼くからである。般若波羅蜜のすがたもまた同じで、触れることができない、邪見の火に焼かれるからである。」

問曰：

> お尋ねします。

上種種人說般若波羅蜜，何者為實？

> さまざまな人々に般若波羅蜜を説かれましたが、その中でどれが真実なのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

有人言：各各有理，皆是實。如經說：五百比丘各各說二邊及中道義，佛言皆有道理。

> ある人がこう言いました。「それぞれに道理があり、すべてが真実である。経典に説かれているように、五百人の比丘がそれぞれに二つの極端と中道の意味を語ったとき、仏は『すべてに道理がある』と言われた。」

有人言：末後答者為實。所以者何？不可破、不可壞故。若有法如毫氂許有者，皆有過失可破，若言無亦可破。此般若中，有亦無，無亦無，非有非無亦無，如是言說亦無，是名寂滅、無量、無戲論法。是故不可破、不可壞，是名真實般若波羅蜜，最勝無過者。如轉輪聖王降伏諸敵而不自高；般若波羅蜜亦如是，能破一切語言戲論，亦不有所破。

> ある人がこう言いました。「最後の答えこそが真実である。なぜなら、それは破ることができず、壊すこともできないからだ。もし何らかの法がほんのわずかでも『ある』とするなら、そこには過ちがあり、破ることができる。『無い』と言っても、また破ることができる。この般若の中では、『有』も無く、『無』も無く、『非有非無』も無く、そのような言説さえも無い。これを寂滅・無量・無戯論の法という。だからこそ破ることも壊すこともできず、これを真実の般若波羅蜜と呼び、最もすぐれていてこれに勝るものはない。転輪聖王が敵を降伏させても自ら高ぶらないのと同じように、般若波羅蜜もまたそうである。すべての言語の戯論を打ち破りながらも、破るものがあるわけではない。」

復次，從此已後，品品中種種義門，說般若波羅蜜，皆是實相。以不住法住般若波羅蜜中，能具足六波羅蜜。

> また、これ以降、それぞれの品々の中でさまざまな観点から般若波羅蜜について説かれたものは、すべてが実相です。法にとどまらないという在り方で般若波羅蜜にとどまることによって、六波羅蜜を完全に円満にすることができます。

問曰：

> お尋ねします。

云何名不住法住般若波羅蜜中，能具足六波羅蜜？

> 「どのようにして、法に執着せずに般若波羅蜜の中に留まり、六波羅蜜を完全に実践することができるのでしょうか。」

答曰：

> お答えしますと、

如是菩薩觀一切法，非常非無常，非苦非樂，非空非實，非我非無我，非生滅非不生滅。如是住甚深般若波羅蜜中，於般若波羅蜜相亦不取，是名不住法住；若取般若波羅蜜相，是為住法住。

> 菩薩はこのように、すべての法を観じます。それは常でもなく、無常でもなく、苦でもなく、楽でもなく、空でもなく、実でもなく、我でもなく、無我でもなく、生滅でもなく、不生滅でもありません。このように深い般若波羅蜜の中に安住しながらも、般若波羅蜜の相さえも執りません。これを「法に住まない住」といいます。もし般若波羅蜜の相を執るならば、それは「法に住む住」となります。

問曰：

> お尋ねします。

若不取般若波羅蜜相，心無所著，如佛所言：「一切諸法，欲為其本。」若不取者，云何得具足六波羅蜜？

> もし般若波羅蜜の相を取らなければ、心は何にも執着しない、と仏が言われるとおりです。「一切の諸法は、欲をその根本とする。」もし取らなければ、どのようにして六波羅蜜を具足することができるのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

菩薩憐愍眾生故，先立誓願，我必當度脫一切眾生。以精進波羅蜜力故，雖知諸法不生不滅如涅槃相，復行諸功德，具足六波羅蜜。所以者何？以不住法住般若波羅蜜中故。

> 菩薩は衆生を哀れむがゆえに、まず誓願を立てられます。「私は必ずすべての衆生を救い解き放とう」と。精進波羅蜜の力によって、諸法が生じも滅びもしない涅槃の姿のようであると知りながらも、さらにさまざまな功德を行じ、六波羅蜜を具足されます。なぜでしょうか。法に執着せずに般若波羅蜜の中に住しておられるからです。

是名「不住法住般若波羅蜜中」。

> これを「法に住まないで般若波羅蜜に住する」と名づけるのです。