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title: "大智度論 · 2"
description: "大智度论由古印度龙树菩萨所造，后秦时期著名译经家鸠摩罗什翻译成中文。该论是佛教重要典籍，属于大乘中观学派的核心论著，主要阐释《大品般若经》的深奥义理。全书共一百卷，系统论述了般若空性思想、菩萨修行次第以及六度万行的实践方法，被誉为大乘佛教的百科全书。作为早期大乘佛教的代表性论典，大智度论对汉传佛教思想体系的形成影响深远，尤其为天台宗、华严宗等宗派提供了重要理论依据，在佛教哲学史上占据崇高地位。"
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## 大智度論釋初品中檀波羅蜜法施之餘卷第十二

> 大智度論 初品における檀波羅蜜の法施の余りを解釈する <note>巻第十二</note>

龍樹菩薩造

> 龍樹菩薩による

後秦龜茲國三藏鳩摩羅什奉　詔譯

> 後秦の亀茲国三蔵、鳩摩羅什（クマーラジーヴァ）が詔によりて訳す

問曰：

> お尋ねします。

云何名檀波羅蜜滿？

> 檀波羅蜜が満たされるとは、どういうことでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

「檀」義，如上說。

> 「檀」の意味は、以上で説明したとおりです。

「波羅秦言彼岸蜜秦言到」，是名渡布施河得到彼岸。

> 「波羅<note>中国語で彼岸</note>蜜<note>中国語で到る</note>」とは、布施の河を渡って彼岸に到ることを名づけたものです。

問曰：

> お尋ねします。

云何名不到彼岸？

> どうして「彼岸に至らない」と言うのですか。

答曰：

> お答えしますと、

譬如渡河未到而還，名為不到彼岸。

> たとえば、川を渡ろうとしてまだ向こう岸に着かないうちに引き返すことを、彼岸に到らないというのです。

如舍利弗於六十劫中行菩薩道，欲渡布施河。時有乞人來乞其眼，舍利弗言：「眼無所任，何以索之？若須我身及財物者，當以相與！」答言：「不須汝身及以財物，唯欲得眼。若汝實行檀者，以眼見與！」爾時，舍利弗出一眼與之。乞者得眼，於舍利弗前嗅之嫌臭，唾而棄地，又以腳蹋。舍利弗思惟言：「如此弊人等，難可度也！眼實無用而強索之，既得而棄，又以腳蹋，何弊之甚！如此人輩，不可度也。不如自調，早脫生死。」思惟是已，於菩薩道退，迴向小乘，是名不到彼岸。若能直進不退，成辦佛道，名到彼岸。

> 舎利弗は六十劫の間、菩薩の道を歩み、布施の河を渡ろうとしていました。あるとき、一人の乞食がやって来て、舎利弗の目を欲しがりました。舎利弗は言いました。「目など何の役にも立たないのに、どうしてそれを求めるのですか。もし私の体や財産が必要なら、差し上げましょう。」乞食は答えました。「あなたの体も財産も要りません。ただ目が欲しいのです。もしあなたが本当に布施を行う者なら、その目を私にください。」そこで舎利弗は、片方の目を抜き出して与えました。乞食は目を受け取ると、舎利弗の前でその匂いを嗅ぎ、臭いと嫌って唾をかけ、地面に捨て、さらに足で踏みつけました。舎利弗はこう考えました。「このような悪い者たちは、救い難い。目は実際に何の役にも立たないのに無理に求め、手に入れると捨て、しかも足で踏みつけるとは、なんとひどいことか。このような者たちは、救うことができない。それならば自分自身を調え、早く生死の輪から脱け出すほうがよい。」こう考えて、舎利弗は菩薩の道から退き、小乗の道へと向きを変えました。これが彼岸に到らないということです。もし真っ直ぐに進んで退かず、仏の道を成し遂げることができれば、それを彼岸に到ると呼ぶのです。

復次，於事成辦，亦名到彼岸天竺俗法，凡造事成辦皆言到彼岸。

> 次に、物事が成就することをも「彼岸に到る」と言います。

復次，此岸名慳貪，檀名河中，彼岸名佛道。

> また、こちら岸はけちとむさぼりという意味で、布施は川の流れの中であり、あちら岸は仏の道です。

復次，有無見名此岸，破有無見智慧名彼岸，懃修布施是名河中。

> また、「有る」「無い」という見方にとらわれることが此岸であり、そのような見方を打ち破る智慧が彼岸であり、布施を努めて行うことが川の中なのである。

復次，檀有二種：一者魔檀，二者佛檀。若為結使賊所奪，憂惱怖畏，是為魔檀，名曰此岸。若有清淨布施，無結使賊，無所怖畏，得至佛道，是為佛檀，名曰到彼岸，是為波羅蜜。

> 次に、布施には二つの種類があります。一つは魔の布施、もう一つは仏の布施です。もし煩悩の賊に奪われ、憂い悩み恐れるならば、それは魔の布施であり、こちら岸と呼ばれます。もし清らかな布施があり、煩悩の賊がなく、恐れることがなく、仏の道に至ることができるならば、それは仏の布施であり、向こう岸に到ると呼ばれ、これが波羅蜜です。

如佛說《毒蛇喻經》中：有人得罪於王，王令掌護一篋，篋中有四毒蛇。王勅罪人，令看視養育。此人思惟：「四蛇難近，近則害人，一猶叵養，而況於四？」便棄篋而走，王令五人拔刀追之。復有一人，口言附順，心欲中傷，而語之言：「養之以理，此亦無苦！」其人覺之，馳走逃命，至一空聚。有一善人，方便語之：「此聚雖空，是賊所止處，汝今住此，必為賊害，慎勿住也！」於是復去，至一大河，河之彼岸，即是異國。其國安樂，坦然清淨，無諸患難。於是集眾草木，縛以為栰，進以手足，竭力求渡，既到彼岸，安樂無患。

> 仏が説かれた『毒蛇のたとえ経』に、こんな話があります。 ある人が王の怒りを買いました。王はその人に、一つの箱を守るよう命じました。箱の中には四匹の毒蛇が入っていました。王は罪人に、その蛇の世話をして育てるようにと命じたのです。 この人は考えました。「四匹の蛇には近づきがたい。近づけば人を傷つける。一匹でも飼うのは難しいのに、まして四匹などとても無理だ」と。そこで箱を捨てて逃げ出しました。 王は五人に命じて、刀を持たせて追わせました。さらに別の一人が、口では従順なふりをしながら、心ではその人を傷つけようと企み、こう言いました。「道理にかなった方法で飼えば、苦にはならないだろう」と。 その人はそれを見抜き、疾走して命からがら逃げ、ある空き集落にたどり着きました。そこに一人の善人がいて、巧みにこう教えました。「この集落は空(から)ではあるが、盗賊が潜む場所だ。おまえが今ここに留まれば、必ず盗賊に害される。決してここに留まってはならない」と。 そこでその人はまた立ち去り、大きな川にたどり着きました。川の向こう岸は、もう別の国です。その国は安楽で、何事もなく清らかで、あらゆる災いがありません。 そこで人々は草や木を集め、縛って筏を作りました。手足でこぎ進め、力を尽くして渡りました。向こう岸に着くと、安楽で、悩みも苦しみもありませんでした。

王者，魔王；篋者，人身；四毒蛇者，四大；五拔刀賊者，五眾；一人口善心惡者，是染著；空聚是六情；賊是六塵；一人愍而語之是為善師；大河是愛；栰是八正道；手足懃渡是精進；此岸是世間；彼岸是涅槃；度者漏盡阿羅漢。

> 王とは魔王のことです。箱とは人の体のことです。四匹の毒蛇とは四大のことです。五人の抜刀した盗賊とは五衆のことです。一人で口は善いが心は悪い者とは、染まり執着することです。空の村とは六情のことです。盗賊とは六塵のことです。一人が哀れんで語りかけるのは、善き師のことです。大河とは愛のことです。筏とは八正道のことです。手足を勤めて渡るのは精進のことです。この岸は世間のことです。あの岸は涅槃のことです。渡る者とは、漏尽の阿羅漢のことです。

菩薩法中亦如是，若施有三礙：我與、彼受、所施者財，是為墮魔境界，未離眾難。如菩薩布施，三種清淨，無此三礙，得到彼岸，為諸佛所讚，是名檀波羅蜜。以是故名到彼岸。

> 菩薩の法においても同じです。もし布施をするときに三つのとらわれがあるなら、それはすなわち「私が与える」「相手が受け取る」「施しの財物である」という三つです。これは魔の境界に落ちているのであり、まだ多くの困難を離れていません。菩薩の布施のように、三つのものが清らかで、この三つのとらわれがなければ、彼岸に到達し、諸仏に讃えられ、これを檀波羅蜜（布施の完成）と名づけます。それゆえに彼岸に到ると名づけるのです。

此六波羅蜜，能令人渡慳貪等煩惱染著大海，到於彼岸，以是故名波羅蜜。

> この六つの波羅蜜は、人をして悩みや貪りなどの煩悩の染りついた大海を渡らせ、彼岸に到らせることができる。それゆえに波羅蜜と名づけるのである。

問曰：

> お尋ねします。

阿羅漢、辟支佛亦能到彼岸，何以不名波羅蜜？

> 阿羅漢や辟支仏も彼岸に到達できますが、なぜ波羅蜜とは呼ばないのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

阿羅漢、辟支佛渡彼岸，與佛渡彼岸，名同而實異。彼以生死為此岸，涅槃為彼岸，而不能渡檀之彼岸。所以者何？

> 阿羅漢や辟支仏が彼岸に渡るのと、仏が彼岸に渡るのとは、名は同じでも実質は異なります。彼らは生死を此岸とし、涅槃を彼岸としていますが、布施の彼岸を渡ることはできません。なぜでしょうか。

不能以一切物、一切時、一切種布施；設能布施，亦無大心；或以無記心、或有漏善心、或無漏心施；無大悲心；不能為一切眾生施。

> すべての物を、いつでも、あらゆる形で布施することはできません。たとえ布施ができても、大きな心がないのです。あるいは無記心で、あるいは有漏の善心で、あるいは無漏の心で布施するのです。大悲の心がなく、すべての衆生のために布施することはできません。

菩薩施者，知布施不生不滅，無漏無為，如涅槃相，為一切眾生故施，是名檀波羅蜜。

> 菩薩が布施をするとき、布施は生じることも滅することもなく、煩悩の漏れもなく、作為もなく、涅槃のあり方と同じであると知って、すべての衆生のために施すこと、これを檀波羅蜜（布施の完成）といいます。

復次，有人言：一切物、一切種內外物，盡以布施，不求果報；如是布施，名檀波羅蜜。

> また、ある人はこう言います。すべてのもの、あらゆる種類の内外のものを、すべて布施して、果報を求めない。このような布施を、檀波羅蜜と呼びます。

復次，不可盡故，名檀波羅蜜。所以者何？

> また、「尽きることがない」という理由から、檀波羅蜜（だんはらみつ）と呼ばれます。なぜでしょうか。

知所施物畢竟空，如涅槃相；以是心施眾生，是故施報不可盡，名檀波羅蜜。如五通仙人，以好寶物，藏著石中；欲護此寶，磨金剛塗之，令不可破。菩薩布施亦復如是，以涅槃實相智慧磨塗之布施，令不可盡。

> 施し与えるものは究極的には空であり、涅槃の姿そのものであると知る。この心で生きとし生けるものに施すならば、その報いは尽きることがなく、これを檀波羅蜜（布施の完成）と呼びます。たとえば五通仙人が、すぐれた宝物を石の中に隠し、これを守ろうとして金剛石を磨いて塗り、壊れないようにするようなものです。菩薩の布施もまた同じです。涅槃の真実の智慧で磨き塗りした布施は、尽きることがありません。

復次，菩薩為一切眾生故布施，眾生數不可盡故，布施亦不可盡。

> 次に、菩薩はすべての生きとし生けるもののために布施を行います。生きとし生けるものの数は限りがないため、布施もまた限りがないのです。

復次，菩薩為佛法布施，佛法無量無邊，布施亦無量無邊。

> さらに、菩薩が仏法のために布施を行うとき、仏法は量りなく限りがないので、布施もまた量りなく限りがないのです。

以是故，阿羅漢、辟支佛，雖到彼岸，不名波羅蜜。

> だから、阿羅漢や辟支仏は、たとえ彼岸に達していても、波羅蜜とは呼ばれないのです。

問曰：

> お尋ねします。

云何名「具足滿」？

> 「具足満」とは、どういう意味でしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

如先說，菩薩能一切布施，內外大小，多少麁細，著不著，用不用，如是等種種物，一切能捨，心無所惜，等與一切眾生，不作是觀：「大人應與，小人不應與；出家人應與，不出家人不應與；人應與，禽獸不應與。」於一切眾生平等心施，施不求報，又得施實相，是名具足滿。

> 先に述べたように、菩薩はすべてを布施することができます。内のものも外のものも、大きいものも小さいものも、多いものも少ないものも、粗いものも細かいものも、執着するものも執着しないものも、使うものも使わないものも、このようなさまざまなものを、すべて喜んで手放し、心に惜しむことがありません。すべての生きとし生けるものに平等に与え、「目上の人には与えるべきだが、目下の人には与えるべきではない」「出家者には与えるべきだが、在家者には与えるべきではない」「人間には与えるべきだが、鳥や獣には与えるべきではない」などとは考えません。すべての生きとし生けるものに対して平等な心で施しを行い、見返りを求めず、さらに施しの真実の姿を得ることを、具足満と名づけるのです。

亦不觀時，無晝無夜，無冬無夏，無吉無衰，一切時常等施，心無悔惜，乃至頭目髓腦，施而無悋，是為具足滿。

> 時を選ぶこともなく、昼も夜もなく、冬も夏もなく、吉も凶もなく、いつでも平等に施しを与え、心に悔やむ気持ちはなく、さらには自分の頭や目、髄や脳までも、惜しむことなく施すこと、これが完全に満たされているということです。

復次，有人言：菩薩從初發心，乃至菩提樹下三十四心，於是中間，名為布施具足滿。

> また、ある人々はこう言います。菩薩が最初に菩提心を起こしてから、菩提樹の下で三十四の心を経るまでの間、その期間を布施が具足して満ちた状態と呼ぶのです。

復次，七住菩薩得一切諸法實相智慧，是時，莊嚴佛土，教化眾生，供養諸佛，得大神通，能分一身作無數身，一一身皆雨七寶、華香、幡蓋，化作大燈如須彌山，供養十方佛及菩薩僧；復以妙音讚頌佛德，禮拜供養，恭敬將迎。

> 次に、七住の菩薩は一切の諸法の実相を知る智慧を得ます。その時、仏の国土を荘厳し、衆生を教え導き、諸仏に供養し、大きな神通力を得て、一つの身を分けて無数の身とすることができます。その一つ一つの身が皆、七宝や花、香、幡蓋を雨のように降らせ、須弥山のような大きな灯りを現じて、十方の仏と菩薩の僧に供養します。さらに、すばらしい声で仏の功徳を讃え、礼拝し供養し、恭敬の心で迎え敬います。

復次，是菩薩於一切十方無量餓鬼國中，雨種種飲食、衣被，令其充滿；得滿足已，皆發阿耨多羅三藐三菩提心。

> 次に、この菩薩は、すべての十方の無量の餓鬼の国々において、さまざまな飲み物や食べ物、衣服を雨のように降らせて、彼らを満たします。満たされた彼らは皆、阿耨多羅三藐三菩提の心を起こすのです。

復至畜生道中，令其自善，無相害意，除其畏怖，隨其所須，各令充足；得滿足已，皆發阿耨多羅三藐三菩提心。

> そしてまた畜生道においても、生きとし生けるものが自ら善を修め、互いに害し合う心をなくし、その恐れや畏れを取り除き、それぞれが必要とするものに応じて満たされました。満たされた後には、皆が阿耨多羅三藐三菩提心を起こしました。

於地獄無量苦中，能令地獄火滅湯冷，罪息心善，除其飢渴，得生天上、人中；以此因緣故，皆發阿耨多羅三藐三菩提心。

> 地獄の無量の苦しみの中で、地獄の火を消し、煮えた湯を冷まし、罪を静めて心を善にし、飢えと渇きを除いて、天や人として生まれることができるようにする。この因縁によって、皆が阿耨多羅三藐三菩提の心を起こすのである。

若十方人，貧窮者給之以財，富貴者施以異味異色，令其歡喜；以此因緣故，皆發阿耨多羅三藐三菩提心。

> もし十方の人々に、貧しい者には財を与え、富貴な者には珍しい味や美しい色のものを施し、その心を喜ばせるならば、この因縁によって、みな阿耨多羅三藐三菩提の心を起こすのです。

若至欲天中，令其除却天上欲樂，施以妙寶法樂，令其歡喜；以此因緣故，皆發阿耨多羅三藐三菩提心。

> もし欲天の中に至れば、天上の欲楽を取り除き、すばらしい宝の法楽を与えて、喜ばせる。この因縁によって、みな阿耨多羅三藐三菩提の心を起こすのである。

若至色天中，除其樂著，以菩薩禪法而娛樂之；以此因緣故，皆發阿耨多羅三藐三菩提心。

> もし色界の天に生まれた者たちが、その楽しみへの執着を捨て、菩薩の禅の教えを喜びとするならば、この縁によって、みな阿耨多羅三藐三菩提の心を起こすのです。

如是乃至十住，是名檀波羅蜜具足滿。

> このようにして十住に至るまで、これを布施波羅蜜が完全に満たされたというのです。

復次，菩薩有二種身：一者結業生身，二者法身。是二種身中，檀波羅蜜滿，是名具足檀波羅蜜。

> さらに、菩薩には二つの身があります。一つは業によって生まれた身、もう一つは法の身です。この二つの身において、布施の波羅蜜が満ちていることを、布施の波羅蜜を具足していると名づけます。

問曰：

> お尋ねします。

云何名結業生身檀波羅蜜滿？

> 「結業によって生まれた身（けつごうしょうしん）が、檀波羅蜜（だんはらみつ）を満たす」とは、どういう意味でしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

未得法身，結使未盡，能以一切寶物、頭、目、髓、腦、國、財、妻、子，內、外所有，盡以布施，心不動轉。

> まだ法身を得ておらず、煩悩も尽きていない者が、あらゆる宝物や頭、目、髄、脳、国、財産、妻、子など、内に持つものも外に持つものもすべてを惜しみなく施しても、心が揺らぐことはありません。

如須提拏太子秦言好愛以其二子布施婆羅門，次以妻施，其心不轉。

> 須提拏太子<note>漢訳では「好愛」</note>は、二人の子を婆羅門に布施し、次に妻をも施したが、その心は動じなかった。

又如薩婆達王秦言一切施為敵國所滅，身竄窮林。見有遠國婆羅門來，欲從己乞。自以國破家亡，一身藏竄，愍其辛苦，故從遠來而無所得，語婆羅門言：「我是薩婆達王，新王募人，求我甚重。」即時自縛以身施之，送與新王，大得財物。

> また、サッパダ王（中国語では「一切施」といいます）は、敵国に滅ぼされ、身一つで深い森に逃れました。そこへ遠い国からバラモンがやって来て、自分に物を乞おうとしているのを見ました。自分は国も家も滅び、ただ一人隠れている身でありながら、そのバラモンが苦労して遠くから来たのに何も得られないことを哀れに思い、バラモンに言いました。「私はサッパダ王です。新しい王は人を募って、私を懸命に探しています。」そこでただちに自ら縄で身を縛り、その身を施し、新しい王のもとへ送られて、多くの財物を得ました。

亦如月光太子，出行遊觀。癩人見之要車，白言：「我身重病，辛苦懊惱，太子嬉遊，獨自歡耶？大慈愍念，願見救療！」太子聞之，以問諸醫。醫言：「當須從生長大無瞋之人血髓，塗而飲之，如是可愈。」太子念言：「設有此人，貪生惜壽，何可得耶？自除我身，無可得處。」即命旃陀羅，令除身肉，破骨出髓以塗病人，以血飲之。

> また、月光太子が外出して景色を眺めていたときのことです。癩病の人がそれを見て車にすがり、こう言いました。「私は重い病に苦しみ、悩みもだえています。太子は遊び楽しんで、ひとりで喜んでおられるのですか。どうか大いなる慈悲で私を哀れみ、癒やしてくださいますようお願いします。」 太子はこれを聞き、医者たちに尋ねました。医者は言いました。「生まれつき怒りの心を持たない人の血と骨髄が必要です。それを患部に塗り、飲ませれば、治るでしょう。」 太子は考えました。「もしそんな人がいたとしても、命を惜しみ長生きを願うだろうから、どうして得られようか。私自身のほかには、手に入れる方法はない。」そこで、すぐに旃陀羅（死者を扱う賤民）に命じて、自分の体の肉を削らせ、骨を砕いて髄を取り出し、病人に塗り、血を飲ませました。

如是等種種，身及妻子，施而無悋，如棄草木。觀所施物，知從緣有，推求其實，都無所得，一切清淨，如涅槃相，乃至得無生法忍，是為結業生身行檀波羅蜜滿。

> このように、さまざまなもの、すなわち我が身や妻子までも、惜しむことなく施し、草木を捨てるかのように行うのです。施すものはすべて因縁によって生じたものだと見て、その実体を求めてみても、何も得られるものはありません。すべては清らかで、涅槃の姿そのものであり、やがて無生法忍を得るに至ります。これが、結業によって生じた身で檀波羅蜜を完成するということです。

云何法身菩薩行檀波羅蜜滿？

> 法身菩薩が檀波羅蜜を満たすとは、どういうことでしょうか。

菩薩末後肉身得無生法忍，捨肉身得法身。於十方六道中，變身應適以化眾生，種種珍寶、衣服、飲食，給施一切。又以頭、目、髓、腦、國、財、妻、子，內、外所有，盡以布施。

> 菩薩は最後の肉身で無生法忍を得て、肉身を捨てて法身を得ます。十方六道の中で、姿を変えて众生に応じて教化し、さまざまな珍宝や衣服、飲食をすべての人に施します。また、頭や目、髄や脳、国や財産、妻や子、内外のすべてを、惜しみなく布施します。

譬如釋迦文佛曾為六牙白象，獵者伺便，以毒箭射之。諸象競至，欲來蹈殺獵者。白象以身捍之，擁護其人，愍之如子，諭遣群象。徐問獵人：「何故射我？」答曰：「我須汝牙！」即時以六牙內石孔中，血肉俱出，以鼻舉牙，授與獵者。

> たとえば、釈迦文仏はかつて六本の牙を持つ白い象でした。猟師が機会をねらって毒矢を射かけました。他の象たちが競って駆け寄り、猟師を踏み殺そうとしました。白象は身をもって猟師をかばい、わが子のようにいつくしみ、象の群れをなだめて追い払いました。そして静かに猟師に尋ねました。「なぜ私を射たのですか。」猟師は答えました。「私はあなたの牙が欲しいのです。」そこで白象はただちに六本の牙を岩の穴に突っ込み、血と肉をともに引き抜き、鼻で牙を持ち上げて猟師に差し出しました。

雖曰象身，用心如是，當知此象非畜生行報。阿羅漢法中，都無此心，當知此為法身菩薩。

> 象の体を持っていても、その心がこのようなものであるなら、この象は畜生の報いを受けた存在ではないと知るべきです。阿羅漢の法の中には、このような心はまったくありません。この方が法身の菩薩であると知るべきです。

有時閻浮提人，不知禮敬。耆舊有德，以言化之，未可得度。是時，菩薩自變其身，作迦頻闍羅鳥。是鳥有二親友：一者大象，二者獼猴，共在必鉢羅樹下住。自相問言：「我等不知誰應為長？」象言：「我昔見此樹在我腹下，今大如是。以此推之，我應為長！」獼猴言：「我曾蹲地，手挽樹頭。以是推之，我應為長！」鳥言：「我於必鉢羅林中，食此樹果，子隨糞出，此樹得生。以是推之，我應最長！」鳥復說言：「先生宿舊，禮應供養！」即時大象背負獼猴，鳥在猴上，周遊而行。一切禽獸見而問之：「何以如此？」答曰：「以此恭敬供養長老！」禽獸受化，皆行禮敬，不侵民田，不害物命。眾人疑怪，一切禽獸不復為害。獵者入林，見象負獼猴，獼猴戴鳥，行敬化物，物皆修善。傳告國人，人各慶曰：「時將太平，鳥獸而仁！」人亦效之，皆行禮敬。自古及今，化流萬世。當知是為法身菩薩。

> 時に閻浮提の人々は、礼敬のことを知りませんでした。年長者や徳のある人々が言葉で教え諭しても、なかなか改まりませんでした。そこで菩薩は自ら姿を変え、迦頻闍羅鳥となりました。この鳥には二人の親友がいました。一頭の大象と、一匹の獼猴です。彼らは必鉢羅樹の下に一緒に住んでいました。互いに問いかけました。「私たちの中で、誰が一番年長なのでしょう？」象が言いました。「私は昔、この木が私の腹の下にあったのを見た。それが今ではこんなに大きくなった。これから推せば、私が一番年長だ！」獼猴が言いました。「私はかつて地にしゃがんで、手で木の先を引っ張った。これから推せば、私が一番年長だ！」鳥が言いました。「私は必鉢羅林の中で、この木の実を食べた。その種が糞とともに出て、この木が生まれた。これから推せば、私が一番年長だ！」鳥はさらに言いました。「先に生まれた年長者には、礼を尽くして供養すべきです！」そこで大象は獼猴を背負い、鳥は猴の上に乗り、周りを巡り歩きました。すべての禽獣がこれを見て尋ねました。「なぜそのようなことをするのですか？」答えて言いました。「これによって長老を恭敬し供養しているのです！」禽獣たちは教えに従い、皆礼敬を行うようになり、民の田を侵さず、生き物の命を害することもなくなりました。人々は不思議に思い怪しみましたが、すべての禽獣がもはや害をなすことはありませんでした。狩人が林に入り、象が獼猴を背負い、獼猴が鳥を戴いて、礼敬を行い生き物を教化し、生き物たちが皆善を修めているのを見ました。そのことを国人に伝え告げると、人々はそれぞれ喜び合いました。「時はまさに太平に向かい、鳥や獣さえ仁義を行うとは！」人々もそれに倣い、皆礼敬を行うようになりました。古から今に至るまで、その教化は万世に流れています。これが法身菩薩であると知るべきです。

復次，法身菩薩，一時之頃，化作無央數身，供養十方諸佛；一時能化無量財寶，給足眾生；能隨一切上中下聲，一時之頃，普為說法；乃至坐佛樹下。

> 次に、法身の菩薩は、一瞬のうちに無数の姿を現し、十方のすべての仏に供養をささげます。また、一瞬のうちに無量の財宝を生み出し、すべての生きとし生けるものの願いを満たします。さらに、あらゆる高い声も中くらいの声も低い声にも応じて、一瞬のうちに広く法を説き、ついには仏の樹の下に座るに至ります。

如是等種種，名為法身菩薩行檀波羅蜜滿。

> このようにさまざまな行いを、法身を得た菩薩が檀波羅蜜を完成させる修行と呼びます。

復次，檀有三種：一者、物施，二者、供養恭敬施，三者、法施。

> 次に、檀には三つの種類があります。一つ目は物を施すこと、二つ目は供養し敬うこと、三つ目は法を施すことです。

云何物施？珍寶、衣、食、頭、目、髓、腦——如是等一切內、外所有，盡以布施，是名物施。

> 物を施すとは何でしょうか。宝物や衣服、食べ物、あるいは頭や目、髄や脳までも——このように、内にあるものも外にあるものも、すべてを惜しみなく与えること、これが物を施すということです。

恭敬施者，信心清淨，恭敬禮拜，將送迎逆，讚遶供養——如是等種種，名為恭敬施。

> 尊敬の心で施しを行うとは、信じる心が清らかで、敬いの気持ちをもって礼拝し、迎え送り、讃えて繞り、供養することです。このようなさまざまな行いを、恭敬の施しと呼びます。

法施者，為道德故，語言論議，誦讀講說，除疑問答，授人五戒——如是等種種，為佛道故施，是名法施。

> 法施とは、道徳のために、言葉で語り合い、議論し、経典を読み誦し、講じ説き、疑問を取り除き、問いに答え、人に五戒を授けること——このようなさまざまな行いを、仏道のために施すこと、これを法施と呼びます。

是三種施滿，是名檀波羅蜜滿。

> 三つの施しが満ちていること、これが檀波羅蜜が満ちたというのです。

復次，三事因緣生檀：一者、信心清淨，二者、財物，三者、福田。

> また、三つの条件がそろったときに布施が生まれます。一つ目は清らかな信仰心、二つ目は財物、三つ目は福田です。

心有三種：若憐愍，若恭敬，若憐愍恭敬。

> 心には三つのあり方があります。哀れみの心、うやまう心、そして哀れみとうやまう心の両方です。

施貧窮下賤及諸畜生，是為憐愍施；施佛及諸法身菩薩等，是為恭敬施；若施諸老病貧乏阿羅漢、辟支佛，是為恭敬憐愍施。

> 貧しい人や身分の低い人、生き物に施しをするのは、あわれみの施しです。仏や真理の身である菩薩に施しをするのは、うやまいの施しです。年老いた人、病気の人、貧しい人、阿羅漢や独覚に施しをするのは、うやまいとあわれみの施しです。

施物清淨，非盜非劫，以時而施，不求名譽，不求利養。

> 施しは清らかで、盗みでも強奪でもなく、時をわきまえて行い、名誉を求めず、利益や供養を求めません。

或時從心大得福德，或從福田大得功德，或從妙物大得功德。

> ある時は心から大きな福徳を得て、ある時は福田から大きな功徳を得て、ある時は素晴らしい物から大きな功徳を得ます。

第一從心，如四等心、念佛三昧、以身施虎，如是名為從心大得功德。

> 第一は心からです。四等心や念仏三昧、わが身を虎に施すことのように、これを心から大きな功徳を得るといいます。

福田有二種：一者、憐愍福田，二者、恭敬福田。

> 福田には二種類あります。一つは憐れみの福田、もう一つは恭敬の福田です。

憐愍福田，能生憐愍心；恭敬福田，能生恭敬心。如阿輸伽秦言無憂王以土上佛。

> 哀れみの心を育てる福田は、哀れみの心を生じさせます。敬う心を育てる福田は、敬う心を生じさせます。たとえば阿輸伽王が土を仏に捧げたように。

復次，物施中，如一女人，酒醉沒心，誤以七寶瓔珞布施迦葉佛塔，以福德故，生三十三天。如是種種，名為物施。

> 次に、物を施すことについてです。たとえば、ある女が酒に酔って心が乱れ、誤って七宝の瓔珞を迦葉仏の塔に施しました。その功徳によって、三十三天に生まれました。このようにさまざまな形の施しを、物施といいます。

問曰：

> お尋ねします。

檀名捨財，何以言「具足無所捨法」？

> 名前を捨てて財を施すというのに、なぜ「すべてを捨てる法を具えている」と言うのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

檀有二種：一者、出世間，二者、不出世間。今說出世間檀無相，無相故無所捨，是故言「具足無所捨法」。

> 檀には二つの種類があります。一つは出世間の檀、もう一つは不出世間の檀です。今ここで説かれているのは出世間の檀であり、それは無相です。無相であるがゆえに捨てるものは何もありません。それゆえ「捨てるもののない法を具足している」と言うのです。

復次，財物不可得故，名為無所捨。是物未來、過去空，現在分別，無一定法，以是故言無所捨。

> また、財物は得ることができないから、捨てるものがないといいます。この物は未来にも過去にも空であり、現在も分別によってとらえられるだけで、決まった実体はありません。だからこそ、捨てるものがないというのです。

復次，以行者捨財時，心念此施大有功德，倚是而生憍慢、愛結等；以是故言無所捨。以無所捨故無憍慢，無憍慢故愛結等不生。

> 次に、修行者が財を捨てるとき、「この施しには大きな功德がある」と考え、それに頼って憍慢や愛結などが生じる。だからこそ「捨てるものは何もない」と言うのだ。捨てるものが何もないから憍慢もなく、憍慢がないから愛結なども生じない。

復次，施者有二種：一者、世間人，二者、出世間人。世間人能捨財，不能捨施；出世間人能捨財，能捨施。何以故？以財物、施心俱不可得故。以是故言具足無所捨法。

> 次に、施しを行う者には二つの種類があります。一つは世間の人、二つは出世間の人です。世間の人は財を捨てることはできますが、施しそのものを捨てることはできません。出世間の人は財を捨てることができ、施しそのものも捨てることができます。なぜでしょうか。財物も施しの心も、ともに捉えることができないからです。このことから「具足して捨てるものがない法」と言うのです。

復次，檀波羅蜜中，言：「財、施、受者，三事不可得。」

> 次に、檀波羅蜜（だんぱらみつ）の中で、「財と、施しと、受ける者、この三つの事は得ることができない」と説かれています。

問曰：

> お尋ねします。

三事和合，故名為檀；今言三事不可得，云何名「檀波羅蜜具足滿」？今有財、有施、有受者，云何三事不可得？

> 三つのことが和合するから檀（だん）と名づける。しかし今、三つのことは得られないと言う。どうして「檀波羅蜜（だんはらみつ）が具足し満ちている」と名づけられるのか。今、財があり、施しがあり、受ける者があるのに、どうして三つのことが得られないのか。

如所施疊實有。何以故？

> 施された布が実在するからです。なぜかというと、

疊有名，則有疊法，若無疊法，亦無疊名；以有名故，應實有疊。

> 重ねるという名前があれば、重ねるというものがある。もし重ねるというものがなければ、重ねるという名前もない。名前があるからこそ、実際に重ねるものが存在するのである。

復次，疊有長、有短，麁、細、白、黑、黃、赤，有因有緣，有作有破，有果報，隨法生心。十尺為長，五尺為短；縷大為麁，縷小為細；隨染有色；有縷為因，織具為緣，是因緣和合故為疊。人功為作，人毀為破；御寒暑，弊身體，名果報。人得之大喜，失之大憂。以之施故，得福助道；若盜若劫，戮之都市，死入地獄。如是等種種因緣，故知有此疊，是名疊法，云何言施物不可得？

> 次に、布には長いものもあれば短いものもあり、粗いものも細かいものもあり、白・黒・黄・赤があり、原因があり縁があり、作られもすれば壊れもするものであり、果報があり、法に従って心を生じます。十尺を長いとし、五尺を短いとします。糸が太ければ粗く、糸が細ければ細かいといいます。染める色に従って色がつきます。糸があることを因とし、織る道具があることを縁とし、この因と縁が和合するから布となるのです。人の手仕事を作とし、人が壊すことを破とします。寒暑を防ぎ、身体を覆うことを果報といいます。人はそれを得れば大いに喜び、失えば大いに憂えます。それを施すことで福を得て道を助けます。もし盗んだり奪ったりすれば、都市で処刑され、死んで地獄に堕ちます。このようにさまざまな因と縁があるからこそ、この布があると知られるのです。これが布の法です。どうして施す物は得られないと言えるでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

汝言有名故有，是事不然。何以知之？

> あなたは「名前があるから存在する」と言いますが、それは正しくありません。どうしてそう言えるのでしょうか。

名有二種：有實、有不實。

> 名前には二つの種類があります。本当の名前と、そうでない名前です。

不實名，如有一草名朱利朱利秦言賊也，草亦不盜不劫，實非賊而名為賊。又如兔角、龜毛，亦但有名而無實。

> 実体のない名の例を挙げましょう。たとえば「朱利」という草があります。朱利とは、中国語で「賊」という意味です。しかし、この草は盗みもせず奪いもしません。実際には賊ではないのに、賊という名で呼ばれています。また、兎の角や亀の毛のように、名前だけがあって実体のないものもあります。

疊雖不如兔角、龜毛無，然因緣會故有，因緣散故無。如林、如軍，是皆有名而無實。譬如木人，雖有人名，不應求其人法。疊中雖有名，亦不應求疊真實。

> 積み重ねは、兎の角や亀の毛のように全く無いわけではないが、因縁が集まれば有り、因縁が散れば無くなる。林や軍のように、名前はあっても実体はない。たとえば木で作った人形は、人の名はあっても、そこに本当の人を求めるべきではない。積み重ねにも名はあるが、そこに積み重ねの真実を求めるべきではない。

疊能生人心念因緣，得之便喜，失之便憂，是為念因緣。心生有二因緣：有從實而生，有從不實而生。如夢中所見，如水中月，如夜見杌樹謂為人，如是名從不實中能令心生。是緣不定，不應言心生有故便是有。若心生因緣故有，更不應求實有。如眼見水中月，心生謂是月，若從心生便是月者，則無復真月。

> 重なり合うことが人の心に念いを生じさせる因縁となり、それを得れば喜び、失えば憂える。これが念の因縁である。心が生じるには二つの因縁がある。実際のものから生じる場合と、実際でないものから生じる場合である。夢の中で見たもの、水に映る月、夜に切り株を見て人だと思うような場合、これらは実際でないものから心が生じる例である。この縁は定まったものではないから、心が生じたからといって、それが実在すると言うべきではない。もし心が生じる因縁によって実在するというなら、あえて実在を求める必要はない。たとえば目で水に映る月を見て、心に月だと思い込む。もし心から生じたものがそのまま月であるなら、本当の月は存在しなくなってしまう。

復次，「有」，有三種：一者、相待有，二者、假名有，三者、法有。

> 次に、「有」には三つの種類があります。一つは相対的な有、二つは仮名の有、三つは法としての有です。

相待者，如長短、彼此等，實無長短，亦無彼此，以相待故有名。長因短有，短亦因長；彼亦因此，此亦因彼；若在物東，則以為西，在西則以為東；一物未異而有東、西之別，此皆有名而無實也。如是等，名為相待有，是中無實法，不如色、香、味、觸等。

> 互いに相対して存在するもの、たとえば長い・短い、あちら・こちらなどは、実は長いも短いもなく、あちらもこちらもありません。相対し合っているからこそ、その名前があるのです。長いのは短いがあるからであり、短いのも長いがあるからです。あちらもこちらがあるからであり、こちらもあちらがあるからです。ある物が東にあれば西と考え、西にあれば東と考えます。一つの物に違いはないのに、東と西の区別があるのです。これらはみな名前だけで、実体がありません。このように、相対的な存在と名づけられるものには、実体としての法はなく、色や香や味や触などのようではありません。

假名有者，如酪有色、香、味、觸，四事因緣合故，假名為酪。雖有，不同因緣法有；雖無，亦不如兔角、龜毛無；但以因緣合故，假名有酪。疊亦如是。

> 仮に名づけられた存在とは、たとえば酪（ヨーグルト）が色・香・味・触という四つの要素の因縁が合わさったものであるように、仮に酪と名づけられているのです。それは「有る」といっても、因縁によって生じた法として有るのとは異なります。また「無い」といっても、兎の角や亀の毛のように無いのとは異なります。ただ因縁が合わさったから、仮に酪が有ると名づけるのです。積み重ねも同じです。

復次，有極微色、香、味、觸，故有毛分，毛分因緣故有毛，毛因緣故有毳，毳因緣故有縷，縷因緣故有疊，疊因緣故有衣。

> 次に、極微の色・香・味・触があるから毛の成分があり、毛の成分があるから毛があり、毛があるから毳があり、毳があるから縷があり、縷があるから疊があり、疊があるから衣があるのです。

若無極微色、香、味、觸因緣，亦無毛分，毛分無故亦無毛，毛無故亦無毳，毳無故亦無縷，縷無故亦無疊，疊無故亦無衣。

> もし極微と呼ばれる色・香・味・触の要素がなければ、毛の一部もありません。毛の一部がなければ毛もなく、毛がなければ毳もなく、毳がなければ縷もなく、縷がなければ織物もなく、織物がなければ衣もありません。

問曰：

> お尋ねします。

亦不必一切物皆從因緣和合故有，如微塵至細故無分，無分故無和合。疊麁故可破，微塵中無分，云何可破？

> すべてのものがみな因と縁が和合して生じるわけでもありません。たとえば微塵はあまりに細かいため、それ以上分けることができません。分けることができない以上、和合することもありません。粗いものは積み重なっているからこそ壊すことができますが、微塵には分けるべき部分がないのですから、どうして壊すことができるでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

至微無實，強為之名。何以故？麁細相待，因麁故有細，是細復應有細。

> ごく微細なものには実体がなく、無理に名づけただけです。なぜでしょうか。粗いものと細かいものは互いに依存し合っており、粗いものがあるからこそ細かいものが存在するのです。しかしその細かいものにも、さらに細かいものがなければなりません。

復次，若有極微色，則有十方分；若有十方分，是不名為極微；若無十方分，則不名為色。

> また、もし極微という色があるならば、十方の分があるはずです。もし十方の分があるならば、それは極微とは言えません。もし十方の分がなければ、それは色とは言えません。

復次，若有極微，則應有虛空分齊；若有分者，則不名極微。

> 次に、もし極微（こくみ）というものが存在するならば、虚空（こくう）の区切りがあるはずです。もし区切りがあるならば、それはもはや極微とは言えません。

復次，若有極微，是中有色、香、味、觸作分，色、香、味、觸作分，是不名極微。

> さらに、もし極微（ごくみ）というものが、その中に色・香・味・触という性質の部分を持つならば、それはもはや極微とは呼べません。

以是推求，微塵則不可得。如經言：「色若麁若細，若內若外，總而觀之，無常無我。」不言有微塵。是名分破空。

> このように考察していくと、微塵（極微の粒子）は見出すことができません。経典に説かれているとおりです。「色は粗いものであれ細かいものであれ、内なるものであれ外なるものであれ、全体として観察すれば、無常であり無我である。」そこには微塵が存在するとは説かれていません。これを「分破空（ぶんはくう）」と名づけます。

復有觀空：是疊隨心有。如坐禪人觀疊或作地、或作水、或作火、或作風，或青、或黃、或白、或赤，或都空，如十一切入觀。

> また、空を観るとは、心のままに現れるものを重ねて見ることです。坐禅する人が、あるものを地と見たり、水と見たり、火と見たり、風と見たり、あるいは青・黄・白・赤と見たり、あるいはすべてを空と見たりする、十一切入の観法のようなものです。

如佛在耆闍崛山中，與比丘僧俱，入王舍城。道中見大水，佛於水上敷尼師壇坐，告諸比丘：「若比丘入禪，心得自在，能令大水作地，即成實地。何以故？是水中有地分故。如是水、火、風、金、銀種種寶物即皆成實。何以故？是水中皆有其分。」

> 仏が耆闍崛山で比丘たちと共におられ、王舎城へ入られた。その道中で大きな川をご覧になり、仏は水面に尼師壇を敷いて座り、比丘たちに告げられた。「もし比丘が禅に入り、心が自在になれば、大水を地に変えることができる。そうすれば、それは本当の地となる。なぜか。この水の中には地の要素があるからだ。同じように、水・火・風・金・銀などのさまざまな宝物も、みな本当のものとすることができる。なぜか。この水の中には、それらすべての要素があるからだ。」

復次，如一美色，婬人見之以為淨妙，心生染著；不淨觀人視之，種種惡露，無一淨處；等婦見之，妬瞋憎惡，目不欲見，以為不淨；婬人觀之為樂；妬人觀之為苦；行人觀之得道；無豫之人觀之，無所適莫，如見土木。若此美色實淨，四種人觀，皆應見淨；若實不淨，四種人觀，皆應不淨。以是故，知好醜在心，外無定也。觀空亦如是。

> 次に、たとえば一人の美しい女性がいるとします。淫らな心の人は彼女を見て、清らかで美しいと思い、心に執着を生じます。不浄観を修める人は彼女を見て、さまざまな汚れたものばかりで、清らかなところは一つもないと見ます。嫉妬深い女性は彼女を見て、妬みや怒り、憎しみを抱き、目で見ることさえ嫌がり、不浄だと思います。淫らな人にとっては楽しみであり、嫉妬する人にとっては苦しみであり、修行する人にとっては道を得るきっかけとなり、何の関わりもない人にとっては、特にこだわりもなく、土や木を見るように見ます。もしこの美しい女性が本当に清らかなら、四人が見たとき、みな清らかだと見るはずです。もし本当に不浄なら、四人が見たとき、みな不浄だと見るはずです。このことから、美しさや醜さは心の中にあり、外にあるものは決まったものではないとわかります。空を観じることもまた、同じです。

復次，是疊中有十八空相故，觀之便空，空故不可得。

> 次に、この集まりの中には十八の空の相があるため、それを観ずればただちに空となり、空であるがゆえに得ることはできない。

如是種種因緣財物空，決定不可得。

> このように、さまざまな因縁によって財物は空であり、決して手に入れることはできないと定まっているのです。

云何施人不可得？

> なぜ施しを与える人も、とらえることができないのでしょうか。

如疊因緣和合故有，分分推之，疊不可得。施者亦如是，四大圍虛空，名為身，是身識動作來往坐起，假名為人。分分求之，亦不可得。

> たとえば、布はさまざまな条件が集まってできたものであるから、細かく分けていけば、布そのものは見つけられません。与える人も同じです。四大という要素が虚空を囲んで、それを体と呼びます。この体が意識によって動き、行き来し、座り立ちするのを、かりに人と呼ぶのです。細かく分けて求めていっても、やはり人そのものは見つけられません。

復次，一切眾、界、入中，我不可得，我不可得故，施人不可得。何以故？我，有種種名字：人、天，男、女，施人、受人，受苦人、受樂人，畜生等；是但有名，而實法不可得。

> さらに、すべての蘊・界・入の中において、私は得られない。私が得られないからこそ、施す人も得られない。なぜか。私にはさまざまな名前がある。人、天、男、女、施す人、受ける人、苦を受ける人、楽を受ける人、畜生などである。これらはただ名前だけであって、実体としての法は得られないのである。

問曰：

> お尋ねします。

若施者不可得，云何有菩薩行檀波羅蜜？

> 施す者が本当に存在しないのなら、どうして菩薩が檀波羅蜜（布施の修行）を行うことができるのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

因緣和合故有名字，如屋、如車，實法不可得。

> さまざまな条件が集まり合っているからこそ、屋根や車といった名前があるだけで、本当に独立して存在する実体はどこにもありません。

問曰：

> お尋ねします。

云何我不可得？

> どうして「私」は存在しないと言えるのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

如上「我聞一時」中已說，今當更說。佛說六識：眼識及眼識相應法，共緣色，不緣屋舍、城郭種種諸名。耳、鼻、舌、身識，亦如是。意識及意識相應法，知眼、知色、知眼識，乃至知意、知法、知意識。是識所緣法，皆空無我，生滅故，不自在故。

> さきほど「我聞一時」のところでお話ししたとおりです。ここでさらに説明しましょう。仏は六識について説かれました。眼識と、眼識にともなう諸法は、ともに色を対象とし、家や城壁といったさまざまな名を対象とはしません。耳識、鼻識、舌識、身識についても同じです。意識と、意識にともなう諸法は、眼を知り、色を知り、眼識を知り、さらに意を知り、法を知り、意識を知ります。この識が対象とする法は、すべて空であり無我です。生じては滅するからであり、自由にならないからです。

無為法中亦不計我，苦樂不受故。是中若強有我法，應當有第七識識我；而今不爾，以是故知無我。

> 無為の法の中でもまた「我」を計ることはありません。苦も楽も受けないからです。もしここに強いて「我」という法があるならば、第七識が「我」を識るはずです。しかし今はそうではありません。それゆえに「我」がないと知るのです。

問曰：

> お尋ねします。

何以識無我？

> どうすれば「無我」を理解できるのでしょうか。

一切人各於自身中生計我，不於他身中生我；若自身中無我，而妄見為我者，他身中無我，亦應於他身而妄見為我。

> すべての人は、それぞれ自分自身の中に「我」があると考え、他人の中には「我」を見ない。もし自分自身の中に「我」がないのに、誤って「我」があると見るのなら、他人の中にも「我」がないのだから、同じように他人の中にも誤って「我」があると見るはずである。

復次，若內無我，色、識念念生滅，云何分別知是色青、黃、赤、白？

> また、もし内に我がなく、色と識が念念に生滅するならば、どうしてそれが青・黄・赤・白の色であると分別して知ることができるでしょうか。

復次，若無我，今現在人識，漸漸生滅，身命斷時亦盡，諸行罪福，誰隨誰受？誰受苦樂？誰解脫者？

> さらに、もし無我であるならば、今生きている人の意識は、少しずつ生じては滅し、命が尽きるときにはそれも尽きてしまいます。そうなると、さまざまな行いによる罪や福は、誰に従い、誰が受け取るのでしょうか。誰が苦しみや楽しみを受けるのでしょうか。誰が解脱するのでしょうか。

如是種種因緣故知有我。

> このようないろいろな理由から、自我があると知られるのです。

答曰：

> お答えしますと、

此俱有難！

> これは本当に難しいことです。

若於他身生計我者，復當言「何以不自身中生計我」？

> もし他人の中に「我」を見出すのなら、なぜ自分自身の中に「我」を見出さないのか、と言うべきでしょう。

復次，五眾因緣生故空無我，從無明因緣生二十身見，是我見自於五陰相續生。以從此五眾緣生故，即計此五眾為我，不在他身，以其習故。

> さらに、五つの構成要素は因縁によって生じるがゆえに、空であり無我です。無明の因縁から二十の身見が生じ、この我見は自らの五陰の相続から生じます。この五つの構成要素が因縁から生じるがゆえに、ただちにこの五つの構成要素を我であると執着し、他人の身にはないと考えるのです。それは慣れ親しんできたためです。

復次，若有神者，可有彼我。汝神有無未了，而問彼我！其猶人問兔角，答似馬角。馬角若實有，可以證兔角；馬角猶尚未了，而欲以證兔角。

> さらに、もし神というものがあるなら、彼我の区別もあり得るでしょう。しかし、あなたの神が有るのか無いのかすらまだ明らかでないのに、彼我を問うとは！それはちょうど、人が兎の角を問うたのに、馬の角のようなものだと答えるようなものです。馬の角がもし実在するなら、それを証拠として兎の角を証明できるでしょう。しかし馬の角すらまだ明らかでないのに、それで兎の角を証明しようというのですか。

復次，自於身生我故，便自謂有神。汝言「神遍」，亦應計他身為我。以是故，不應言「自身中生計我心，於他身不生，故知有神」。

> 次に、自分自身の体に「我」が生じるために、それによって神（魂）があると自ら言うのです。あなたが「神は遍く存在する」と言うなら、他人の体もまた「我」と考えるべきです。したがって、「自分の体に我という心が生じ、他人の体には生じないから、神が存在すると知る」と言うべきではありません。

復次，有人於他物中我心生，如外道坐禪人，用地一切入觀時，見地則是我，我則是地，水、火、風、空，亦如是。顛倒故，於他身中亦計我。

> 次に、他人の中に自己を見る人がいます。たとえば外道の座禅者は、地の一切入観を修める時、地を見て「これが私だ」と考え、私がすなわち地であるとします。水、火、風、空についても同じです。このように錯覚しているため、他人の身体の中にも自己を想定してしまうのです。

復次，有時於他身生我，如有一人，受使遠行，獨宿空舍。夜中有鬼擔一死人來著其前，復有一鬼逐來，瞋罵前鬼：「是死人是我物，汝何以擔來？」先鬼言：「是我物，我自持來。」後鬼言：「是死人實我擔來！」二鬼各捉一手爭之。前鬼言：「此有人可問。」後鬼即問：「是死人誰擔來？」是人思惟：「此二鬼力大，若實語亦當死，若妄語亦當死，俱不免死，何為妄語？」語言：「前鬼擔來。」

> また、ときには他人の体を自分だと考えることがある。たとえば、ある人が使者として遠くへ旅立ち、誰もいない空き家に独りで泊まったとする。夜中に鬼が一人の死者を担いで来て、その人の前に置いた。さらに別の鬼が追いかけて来て、先の鬼を怒り罵った。「この死者は私のものだ。なぜ担いで来たのか」と。先の鬼は言った。「これは私のものだ。私が自分で持って来たのだ」。後の鬼は言った。「この死者は本当に私が担いで来たのだ！」二人の鬼はそれぞれ片手をつかんで争った。先の鬼が言った。「ここに人がいるから聞けばよい」。後の鬼がすぐに尋ねた。「この死者は誰が担いで来たのか」。この人は考えた。「この二人の鬼は力が強い。本当のことを言っても死ぬだろうし、嘘を言っても死ぬだろう。どちらにしても死を免れないのなら、なぜ嘘をつく必要があるだろうか」。そして言った。「先の鬼が担いで来たのだ」と。

後鬼大瞋，捉人手拔出著地，前鬼取死人一臂拊之即著。如是兩臂、兩腳、頭、脇，舉身皆易。於是二鬼共食所易人身，拭口而去。

> 後の鬼はひどく怒り、人の腕を引き抜いて地面に投げ捨てた。前の鬼は死人の片腕を取ってそれを体につけると、すぐに付いた。同じように両腕、両脚、頭、脇と、全身すべてを取り替えた。そこで二匹の鬼は取り替えた人の体を一緒に食べ、口を拭って去っていった。

其人思惟：「我人母生身，眼見二鬼食盡，今我此身盡是他肉。我今定有身耶？為無身耶？若以為有，盡是他身；若以為無，今現有身。」如是思惟，其心迷悶，譬如狂人。

> その人はこう考えた。「私の母が生んでくれたこの身を、目の前で二匹の鬼が食べ尽くしてしまった。今の私のこの体は、すべて鬼の肉だ。では、私は本当に体があるのだろうか、それとも体がないのだろうか。あると思えば、すべて鬼の体だ。ないと思えば、今こうして体がある。」このように考えて、心は混乱し、思い悩み、まるで狂人のようであった。

明朝尋路而去，到前國土，見有佛塔眾僧，不論餘事，但問己身為有為無？諸比丘問：「汝是何人？」答言：「我亦不自知是人、非人？」即為眾僧廣說上事。諸比丘言：「此人自知無我，易可得度。」而語之言：「汝身從本已來，恒自無我，非適今也。但以四大和合故，計為我身，如汝本身，與今無異。」諸比丘度之為道，斷諸煩惱，即得阿羅漢。

> 明くる日、道を尋ねて歩き、前の国に着くと、仏塔と多くの僧がいた。他のことは一切尋ねず、ただ自分の身は有るのか無いのかとだけ問うた。比丘たちが「あなたは何者か」と尋ねると、「私は自分が人なのか人でないのかさえ分かりません」と答えた。そこで僧たちにこれまでの出来事を詳しく語った。比丘たちは言った。「この人は自ら無我を知っている。導きやすい」。そして彼に告げた。「あなたの身はもともとから常に無我であり、今始まったことではない。ただ四大が和合しているために、それを我が身と数えているだけだ。あなた本来の身は、今と同じである」。比丘たちは彼を導いて道に入れ、諸々の煩悩を断ち、すなわち阿羅漢を得た。

是為有時他身亦計為我。不可以有彼此故謂有我。

> 「それは、ある時には他人の体をも『わたし』と考えることがあるからです。互いに異なるものが存在するからといって、『わたし』があるとは言えません。」

復次，是我實性，決定不可得。若常相、非常相，自在相、不自在相，作相、不作相，色相、非色相，如是等種種皆不可得。若有相則有法，無相則無法，我今無相，則知無我。

> 次に、この「私の真実の本性」も、決してつかむことはできません。それが永遠の姿であれ、永遠でない姿であれ、自由な姿であれ、不自由な姿であれ、つくられた姿であれ、つくられない姿であれ、形ある姿であれ、形のない姿であれ、このようなどんな姿も、すべてつかむことはできません。姿があればこそ「もの」があり、姿がなければ「もの」はありません。私には今、姿がないのですから、そこに「私」はないと知るのです。

若我是常，不應有殺罪。

> もし私が永遠に変わらない存在なら、殺しの罪を負うことはないはずです。

何以故？身可殺，非常故；我不可殺，常故。

> なぜなら、身体は殺すことができても、それは無常だからです。しかし、真の「私」は殺すことができません。それは永遠だからです。

問曰：

> お尋ねします。

我雖常故不可殺，但殺身則有殺罪。

> 私がいつも殺さないとしても、殺せば殺した罪を犯すことになります。

答曰：

> お答えしますと、

若殺身有殺罪者，《毘尼》中言：「自殺無殺罪。」罪福從惱他益他生，非自供養身、自殺身故有罪有福。以是故《毘尼》中言：「自殺身無殺罪，有愚癡、貪欲、瞋恚之咎。」

> もし自分の体を殺すことに殺罪があるならば、『毘尼』の中に「自殺には殺罪はない」と説かれている。罪と福とは、他者を悩ませること、あるいは他者を益することから生じるのであって、自分で自分の体を養うことや、自分で自分の体を殺すことによって罪や福があるのではない。したがって『毘尼』の中に「自ら体を殺しても殺罪はなく、ただ愚痴、貪欲、瞋恚という過ちがある」と説かれている。

若神常者，不應死，不應生。何以故？汝等法神常，一切遍滿五道中，云何有死生？死名此處失，生名彼處出。以是故，不得言神常。

> もし神が常に存在するなら、死ぬことも生まれることもないはずです。なぜでしょうか。あなた方が説くところの神は常に存在し、五道のすべてに遍満していると言うのに、どうして死や生があるのでしょうか。死とはここから失われることをいい、生とはあちらに現れることをいいます。ですから、神が常であるとは言えません。

若神常者，亦應不受苦樂。何以故？苦來則憂，樂至則喜，若為憂喜所變者，則非常也。

> もし神が永遠不変であるなら、苦しみも楽しみも受けないはずです。なぜなら、苦しみが来れば憂い、楽しみが来れば喜ぶからです。もし憂いや喜びによって変わるのなら、それは永遠不変ではありません。

若常，應如虛空，雨不能濕，熱不能乾，亦無今世、後世。

> もし永遠に変わらないのなら、虚空のようなもので、雨に濡れず、熱に乾かされることもなく、今の世も後の世もないはずです。

若神常者，亦不應有後世生、今世死。

> もし神が永遠であるなら、あの世に生まれることも、この世で死ぬこともないはずです。

若神常者，則常有我見，不應得涅槃。

> もし神が常に存在するなら、常に我という見方にとらわれてしまい、涅槃を得ることはできないでしょう。

若神常者，則無起無滅，不應有忘失；以其無神，識無常故，有忘有失，是故神非常也！

> もし神（魂）が永遠不変のものであるなら、生じることも滅することもなく、忘れ去られたり失われたりすることもないはずです。しかし、神（魂）は存在せず、識（意識）は無常であるため、忘れることも失うこともあります。したがって、神（魂）は永遠不変ではないのです。

如是等種種因緣，可知神非常相。

> このようなさまざまな理由から、神は永遠不変のものではないことがわかります。

若神無常相者，亦無罪無福。若身無常，神亦無常，二事俱滅，則墮斷滅邊。墮斷滅，則無到後世受罪福者。若斷滅，則得涅槃不須斷結，亦不用後世罪福因緣。如是等種種因緣，可知神非無常。

> もし神が無常であるならば、罪も福もないことになる。もし身体が無常であり、神もまた無常であるならば、この二つはともに滅び、断滅の極端に陥ることになる。断滅に陥るならば、後世で罪や福を受ける者はいなくなる。もし断滅であるならば、煩悩の結びを断たなくても涅槃を得ることになり、後世の罪福の因縁も必要なくなる。このようなさまざまな理由から、神は無常ではないと知ることができる。

若神自在相、作相者，則應隨所欲得皆得；今所欲更不得，非所欲更得。若神自在，亦不應有作惡行，墮畜生惡道中。

> もし神が自在に形を現し、自在に働くことができるのなら、望むものは何でも手に入るはずです。しかし現実には、望むものは得られず、望まないものこそ得られます。もし神が自在であるなら、悪行をなして畜生や悪道に堕ちることもないはずです。

復次，一切眾生皆不樂苦，誰當好樂而更得苦？以是故，知神不自在，亦不作。

> また、すべての生きとし生けるものは苦を好まないのに、誰が好んでさらに苦を得ようとするでしょうか。このことから、神は自在ではなく、また作ることもないと知るのです。

又如人畏罪故，自強行善，若自在者，何以畏罪而自強修福？

> また、人が罪を恐れるあまり、自ら進んで善を行う場合、もし本当に自在な力があるのなら、なぜ罪を恐れて自ら努力して福を積む必要があるでしょうか。

又諸眾生不得如意，常為煩惱愛縛所牽。

> また、多くの人々は思い通りにならず、いつも悩みや執着に縛られて振り回されています。

如是等種種因緣，知神不自在、不自作。

> このようなさまざまな理由から、神は自在ではなく、自ら作るものではないと知られます。

若神不自在、不自作者，是為無神相，言我者，即是六識，更無異事。

> もし神が自在でなく、自ら作るものでないならば、それは神の相ではない。我と言うのは、すなわち六識のことであり、それ以外の何ものでもない。

復次，若不作者，云何閻羅王問罪人：「誰使汝作此罪者？」罪人答言：「是我自作。」以是故，知非不自作。

> 次に、もし自分で作らないのなら、なぜ閻魔大王は罪人に「誰があなたにこの罪を犯させたのか」と問うのか。罪人は「私が自分で犯しました」と答える。このことから、自分で作らないのではないと知られる。

若神色相者，是事不然。何以故？一切色無常故。

> もし色が常住であるというのなら、それは間違いです。なぜなら、すべての色は無常だからです。

問曰：

> お尋ねします。

人云何言「色是我相」？

> 人はなぜ「色が私の姿である」と言うのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

有人言：「神在心中，微細如芥子，清淨名為淨色身。」更有人言「如麥」，有言「如豆」，有言「半寸」，有言「一寸」。初受身時，最在前受，譬如像骨；及其成身，如像已莊。有言：「大小隨人身，死壞時，此亦前出。」

> ある人は言いました。「神は心の中にあり、芥子粒ほどに小さく、清らかである。これを浄色身と呼ぶ。」またある人は「麦粒ほど」と言い、ある人は「豆粒ほど」と言い、ある人は「半寸ほど」と言い、ある人は「一寸ほど」と言いました。最初に身体を受けるとき、真っ先にこれを受けます。ちょうど像の骨組みのように。やがて身体が完成すると、像が飾り立てられたようになります。ある人は言いました。「大きさは人の身体に応じる。死んで壊れるとき、これもまた先に出る。」

如此事，皆不爾也！何以故？一切色，四大所造，因緣生故無常。若神是色，色無常，神亦無常。若無常者，如上所說。

> これについては、そうではありません。なぜなら、すべての色は四大によって造られ、因縁によって生じるため無常だからです。もし神が色であるならば、色が無常である以上、神もまた無常です。もし無常であるならば、それは上述のとおりです。

問曰：

> お尋ねします。

身有二種：麁身及細身。麁身無常，細身是神，世世常去入五道中。

> 体には二つの種類があります。粗い体と細かい体です。粗い体は無常であり、細かい体は魂と呼ばれ、何度も生まれ変わって五つの世界を巡ります。

答曰：

> お答えしますと、

此細身不可得。若有細身，應有處所可得，如五藏、四體一一處中求，皆不可得。

> この細かい身体は得ることはできない。もし細かい身体があるならば、それはある場所に存在するはずである。例えば五臓や四肢の一つ一つを探し求めても、どこにも得ることはできない。

問曰：

> お尋ねします。

此細身微細，初死時已去，若活時則不可求得，汝云何能見？又此細身，非五情能見能知，唯有神通聖人乃能得見。

> この細やかな身は、死んだ直後にはすでに去ってしまい、生きている時には求めることもできない。どうしてお前は見ることができようか。またこの細やかな身は、五感で見たり知ったりできるものではなく、神通力を持つ聖人だけが見ることができるのだ。

答曰：

> お答えしますと、

若爾者，與無無異。如人死時，捨此生陰，入中陰中。是時，今世身滅，受中陰身，此無前後，滅時即生。譬如蠟印印泥，泥中受印，印即時壞，成壞一時，亦無前後。是時，受中陰中有，捨此中陰，受生陰有。汝言細身，即此中陰，中陰身無出無入。譬如然燈，生滅相續，不常不斷。

> もしそうなら、無と同じではないか。たとえば人が死ぬとき、この生の五蘊を捨てて中陰に入る。そのとき、今の世の身は滅し、中陰の身を受けるが、これには前も後もなく、滅すると同時に生まれる。ちょうど蝋の印を泥に押すと、泥に印がつき、印はその瞬間に壊れる。成ることと壊れることは同時であって、前も後もない。それと同じく、中陰の有を受けて、この中陰を捨て、生の蘊の有を受ける。あなたが言う細い身とは、すなわちこの中陰であり、中陰の身には出ることも入ることもない。ちょうど灯をともすと、生と滅が続いていくが、常でもなく断でもないようなものである。

佛言：「一切色眾，若過去、未來、現在，若內、若外，若麁、若細，皆悉無常。」汝神微細色者，亦應無常斷滅。

> 仏はおっしゃいました。「すべての物質的なものは、過去・未来・現在のいずれにあっても、内にあっても外にあっても、粗くても細かくても、すべて無常である。」あなたの微細な物質的なものもまた、無常であり、滅びるべきものです。

如是等種種因緣，可知非色相。

> このようなさまざまな理由から、色相ではないことが分かります。

神非無色相，無色者，四眾及無為。四眾無常故，不自在故，屬因緣故，不應是神。三無為中，不計有神，無所受故。如是等種種因緣，知神非無色相。

> 神には色も形もない、というわけではない。色がないものとは、四衆と無為である。四衆は無常であり、自由にならず、因縁に属するから、神であるはずがない。三つの無為の中にも、神があるとは考えられない。受けるものが何もないからである。このようなさまざまな因縁によって、神に色も形もない、というわけではないことがわかる。

如是天地間，若內若外，三世、十方，求我不可得。但十二入和合生六識，三事和合名觸，觸生受、想、思等心數法。是法中，無明力故身見生，身見生故謂有神。是身見，見苦諦，苦法智及苦比智則斷，斷時則不見有神。

> この天地の間にあって、内であれ外であれ、三世・十方のどこを探しても、私は得られない。ただ十二入が和合して六識が生じ、三つの事が和合するのを触と呼び、触から受・想・思などの心数法が生じる。これらの法において、無明の力によって身見が生じ、身見が生じたために神（我）があると考える。この身見は、苦諦を見、苦法智と苦比智によって断たれ、断たれたときには神（我）があるとは見なくなる。

汝先言：「若內無神，色識念念生滅，云何分別知色青、黃、赤、白？」

> あなたは先にこう言いました。「もし内に神（たましい）がなく、色と識が念々に生滅するならば、どうして色の青・黄・赤・白を分別して知ることができるのか」と。

汝若有神，亦不能獨知，要依眼識故能知。若爾者，神無用也。眼識知色，色生滅，相似生，相似滅，然後心中有法生，名為念。是念相有為法，雖滅過去，是念能知。如聖人智慧力，能知未來世事；念念亦如是，能知過去法。若前眼識滅，生後眼識，後眼識轉利有力。色雖暫有不住，以念力利故能知。以是事故，雖念念生滅無常，能分別知色。

> もし神というものがあるとしても、それだけで単独に知ることはできません。必ず眼識に頼ってこそ知ることができるのです。そうだとすれば、神は役に立たないということになります。眼識は色を知りますが、色は生じては滅し、似た形で生じ、似た形で滅します。その後、心の中に一つの法が生じ、これを念と呼びます。この念のあり方もまた有為法であり、たとえ滅して過去のものとなっても、この念は知ることができます。聖人の智慧の力が未来の世の事を知ることができるようなものです。一つ一つの念もまた同じように、過去の法を知ることができます。もし前の眼識が滅し、後の眼識が生じれば、後の眼識はますます鋭く力強くなります。色はたとえ一時的に存在してもとどまることはありませんが、念の力が鋭いためによく知ることができるのです。こうした理由から、一つ一つの念が生滅して無常であっても、色をはっきりと見分けて知ることができるのです。

又汝言：「今現在人識新新生滅，身命斷時亦盡，諸行罪福，誰隨誰受？誰受苦樂？誰解脫者？」

> またあなたはこう言う。「今、現に生きている人の識は、次々に生まれては滅し、命が尽きる時にはそれも尽きてしまう。ならば、さまざまな行いによる罪や福を、誰が従い、誰が受け、誰が苦や楽を受け、誰が解脱するのか」と。

今當答汝：

> 今、あなたにお答えしましょう。

今未得實道，是人諸煩惱覆心，作生因緣業，死時從此五陰相續生五陰。譬如一燈，更然一燈。又如穀生，有三因緣：地、水、種子。後世身生，亦如是。有身，有有漏業，有結使，三事故後身生。是中身、業因緣，不可斷、不可破，但諸結使可斷。結使斷時，雖有殘身、殘業，可得解脫。如有穀子、有地，無水故不生。如是雖有身、有業，無愛結水潤則不生。是名雖無神，亦名得解脫。無明故縛，智慧故解，則我無所用。

> 今、まだ真実の道を得ていない人は、さまざまな煩悩が心を覆い、生まれる原因となる業を作ります。死ぬときには、この五陰が続いて新たな五陰が生まれます。たとえば、一つの燈火から別の燈火に火を移すようなものです。また、穀物が実るのには三つの条件があります。地と、水と、種子です。後の世の身体が生まれるのも、同じです。身体と、煩悩を伴う業と、煩悩の結びつき、この三つのことがあって後の身体が生まれます。このうち、身体と業の因縁は断つことも壊すこともできませんが、煩悩の結びつきだけは断つことができます。結びつきが断たれたとき、たとえ残った身体と残った業があっても、解脱を得ることができます。たとえば、穀物の種子があり、地があっても、水がなければ芽は出ません。同じように、身体と業があっても、愛という結びつきの水が潤さなければ、生まれることはありません。これを、神我がなくても解脱を得ると言います。無明によって縛られ、智慧によって解かれるのであり、そこに我は必要ありません。

復次，是名色和合，假名為人。是人為諸結所繫，得無漏智慧爪，解此諸結，是時，名人得解脫。如繩結、繩解，繩即是結，結無異法，世界中說結繩、解繩。名色亦如是，名色二法和合，假名為人。是結使與名色不異，但名為名色結、名色解。受罪福亦如是，雖無一法為人實，名色故受罪福果，而人得名。譬如車載物，一一推之，竟無車實，然車受載物之名。人受罪福亦如是，名色受罪福，而人受其名。受苦樂亦如是。

> 次に、名色（精神と肉体）が和合して、仮に人と名づけられます。この人はさまざまな煩悩の結び目に縛られていますが、無漏の智慧の爪を得て、これらの結び目を解きほどく、そのとき、人が解脱を得たと名づけられます。たとえば、縄の結び目と、縄が解けること、縄そのものがすなわち結び目であり、結び目に別の法があるわけではありません。世間では縄を結ぶ、縄を解くと言います。名色もまた同じです。名と色の二つの法が和合して、仮に人と名づけられます。この煩悩の結び目は名色と異なるものではなく、ただ名色の結び目、名色の解脱と名づけられるだけです。罪や福を受けることもまた同じです。人が実体として存在する一つの法はないけれども、名色であるがゆえに罪や福の果報を受け、そして人が名づけられるのです。たとえば、車が物を載せるとき、一つ一つ推し究めていけば、ついに車の実体はありません。しかし車は物を載せるという名を受けます。人が罪や福を受けるのもまた同じです。名色が罪や福を受け、そして人がその名を受けるのです。苦や楽を受けることもまた同じです。

如是種種因緣，神不可得。

> このようなさまざまな理由から、神は得ることはできません。

神即是施者，受者亦如是。汝以神為人，以是故，施人不可得，受人不可得亦如是。

> 神が施す者であり、受け取る者もまた同じです。あなたは神を人間だと考えているので、施す人も得られず、受け取る人も同じく得られないのです。

如是種種因緣，是名財物、施人、受人不可得。

> このようなさまざまな縁により、財物も、施す人も、受け取る人も、いずれも得ることができないのである。

問曰：

> お尋ねします。

若施於諸法，是如實相無所破、無所滅、無所生、無所作，何以故言「三事破析不可得」？

> もし諸法に施すならば、それは実相のままに破ることもなく、滅することもなく、生じることもなく、作すこともない。なぜ「三つの事柄を破り分析しても得られない」と言うのか。

答曰：

> お答えしますと、

如凡夫人見施者、見受者、見財物，是為顛倒妄見，生世間受樂，福盡轉還。是故佛欲令菩薩行實道，得實果報，實果報則是佛道。佛為破妄見故，言三事不可得，實無所破。何以故？諸法從本已來畢竟空故。

> 凡夫は施す者、受ける者、財物を見て、これを誤った思い込みの見方とし、世間の楽しみを得ますが、福が尽きればまた元に戻ります。そこで仏は菩薩に真実の道を行じ、真実の果報を得させようとされました。真実の果報とは仏の道です。仏は誤った見方を破るために、三つの事柄は得られないと言われましたが、実は破るものは何もありません。なぜなら、すべての法はもともとから究竟して空だからです。

如是等種種無量因緣，不可得故，名為檀波羅蜜具足滿。

> このように、さまざまな限りない理由によって、それらは捉えられないものであるから、檀波羅蜜が完全に満たされたと呼ばれるのです。

復次，若菩薩行檀波羅蜜，能生六波羅蜜，是時，名為檀波羅蜜具足滿。

> また、菩薩が布施の修行を実践するとき、六つの修行が自然に生まれます。この状態を、布施の修行が完全に成就したと呼びます。

云何布施生檀波羅蜜？

> どのようにして、施しは檀波羅蜜を生み出すのでしょうか。

檀有下、中、上：從下生中，從中生上。若以飲食麁物，軟心布施，是名為下；習施轉增，能以衣服寶物布施，是為從下生中；施心轉增，無所愛惜，能以頭、目、血、肉、國、財、妻、子盡用布施，是為從中生上。

> 檀木には下・中・上の三つがあります。下から中が生まれ、中から上が生まれます。食べ物や粗末なものを、やわらかな心で施すのが「下」です。施しに慣れて心が育ち、衣服や宝物を施せるようになるのが「下から中が生まれる」ということです。さらに施しの心が育ち、惜しむことなく、頭や目、血や肉、国や財産、妻や子までもすべて施せるようになるのが「中から上が生まれる」ということです。

如釋迦牟尼佛初發心時，作大國王，名曰光明，求索佛道，少多布施。轉受後身作陶師，能以澡浴之具及石蜜漿，布施異釋迦牟尼佛及比丘僧。其後轉身作大長者女，以燈供養憍陳若佛。如是等種種，名為菩薩下布施。

> 釈迦牟尼仏が初めて菩提心を起こしたとき、大きな国の王となり、光明という名で佛道を求め、少しずつ布施をしました。後に生まれ変わって陶師となり、沐浴の道具と石蜜の漿を、別の釈迦牟尼仏と比丘僧に布施しました。その後にまた生まれ変わって長者の娘となり、燈をもって憍陳若仏に供養しました。このようなさまざまな行いを、菩薩の下布施といいます。

如釋迦文尼佛本身作長者子，以衣布施大音聲佛；佛滅度後，起九十塔。後更轉身作大國王，以七寶蓋供養師子佛。後復受身作大長者，供養妙目佛上好房舍及七寶妙華。如是等種種，名為菩薩中布施。

> 釈迦文尼仏がまだ長者の子であったころ、衣を大音声仏に布施しました。仏が亡くなられた後には、九十の塔を建てました。その後、再び生まれ変わって大きな国の王となり、七宝の蓋を師子仏に供養しました。さらにまた生まれ変わって大長者となり、妙目仏に立派な房舎と七宝の美しい花を供養しました。このようにさまざまな行いを、菩薩の中の布施と呼びます。

如釋迦牟尼佛本身作仙人，見憍陳若佛端政殊妙，便從高山上自投佛前，其身安隱，在一面立。又如眾生喜見菩薩，以身為燈，供養日月光德佛。如是等種種，不惜身命，供養諸佛，是為菩薩上布施。

> 釈迦牟尼仏はかつて仙人であり、憍陳若仏の端正で殊勝な姿を見て、高い山の上から仏の前へ自ら身を投げました。すると、その身は安らかに保たれ、一方に立ったのです。また、衆生喜見菩薩が自らの身を灯として、日月光徳仏に供養した例もあります。このように、さまざまな形で身命を惜しまず、諸仏に供養すること、これが菩薩の最上の布施です。

是名菩薩三種布施。

> これが菩薩の三つの布施です。

若有初發佛心，布施眾生，亦復如是。初以飲食布施，施心轉增，能以身肉與之。先以種種好漿布施，後心轉增，能以身血與之。先以紙墨經書布施，及以衣服、飲食四種供養，供養法師；後得法身，為無量眾生說種種法，而為法施。

> もし初めて仏の心を発した人が、众生に布施をする場合も、同じです。まず食べ物や飲み物を布施し、布施の心が次第に増大して、ついには自分の身肉をも与えることができます。まずさまざまな良い飲み物を布施し、後に心が次第に増大して、自分の身血をも与えることができます。まず紙や墨、経典の書物を布施し、また衣服・飲食の四種の供養をもって法師を供養します。後に法身を得て、無量の衆生のためにさまざまな法を説き、それが法施となるのです。

如是等種種，從檀波羅蜜中生檀波羅蜜。

> このように、さまざまな功徳は、布施の実践から生まれ、また布施の実践へとつながっていきます。

云何菩薩布施生尸羅波羅蜜？

> 菩薩の布施が、どのようにして戒律の完成へとつながるのでしょうか。

菩薩思惟：「眾生不布施故，後世貧窮；以貧窮故，劫盜心生；以劫盜故而有殺害；以貧窮故，不足於色；色不足故而行邪婬。又以貧窮故，為人下賤；下賤畏怖而生妄語——如是等貧窮因緣故，行十不善道。若行布施，生有財物，有財物故，不為非法。何以故？五塵充足，無所乏短故。」

> 菩薩はこう考えました。「衆生が布施をしないために、後の世で貧しくなる。貧しいために、盗みの心が起こる。盗みのために、殺し合いが起きる。貧しいために、色欲に満たされず、色欲が満たされないために、邪な婬欲を行う。また貧しいために、人の下に立たされ、虐げられる。虐げられる恐怖から、嘘をつく——このように、貧しさが原因となって、十の不善の道を歩むのである。もし布施を行えば、財物が生まれ、財物があるために、不法なことをしなくなる。なぜか。五つの感覚の対象が満たされ、何も不足しないからである。」

如提婆達本生曾為一蛇，與一蝦蟇、一龜，在一池中，共結親友。其後池水竭盡，飢窮困乏，無所控告。時蛇遣龜以呼蝦蟇，蝦蟇說偈以遣龜言：

> 提婆達多の前世は一匹の蛇で、一匹のヒキガエルと一匹の亀と、ある池の中で親しい友達になっていました。その後、池の水がすっかり涸れてしまい、食べ物もなく飢えと貧しさに苦しみ、頼るあてもありませんでした。そこで蛇は亀にヒキガエルを呼びに行かせました。ヒキガエルは詩を唱えて亀を帰らせようと言いました。

「若遭貧窮失本心， 不惟本義食為先；汝持我聲以語蛇， 蝦蟇終不到汝邊！」

> もし貧しくなって心を見失っても、 まずは食べることを考えなさい。 あなたが私の言葉を蛇に伝えれば、 蛙があなたのところに来ることはないでしょう。

若修布施，後生有福，無所短乏，則能持戒，無此眾惡，是為布施能生尸羅波羅蜜。

> 布施を実践すれば、来世で福を受け、何の不足もなくなり、そうして戒を保つことができ、もろもろの悪を犯さなくなります。これが、布施が戒波羅蜜を生み出すということです。

復次，布施時，能令破戒諸結使薄，益持戒心，令得堅固；是為布施因緣增益於戒。

> また、布施を行うとき、戒を破るさまざまな煩悩を薄くし、戒を守る心をいっそう強くして、揺るぎないものにすることができます。これが、布施の働きによって戒がさらに深まるということです。

復次，菩薩布施，常於受者生慈悲心，不著於財，自物不惜，何況劫盜？慈悲受者，何有殺意？如是等能遮破戒，是為施生戒。若能布施以破慳心，然後持戒、忍辱等，易可得行。

> さらに、菩薩が布施をするときは、いつも受け取る人に対して慈悲の心を起こし、財物に執着せず、自分のものを惜しみません。ましてや盗みを働くことがあるでしょうか。受け取る人を慈しんでいながら、どうして殺そうとする心があるでしょうか。このように、戒を破ることを防ぐことができるのが、布施から戒が生まれるということです。もし布施によって物惜しみする心を打ち破ることができれば、そのあとに戒を守り、忍耐するなどの修行も、たやすく行うことができるのです。

如文殊師利，在昔過去久遠劫時曾為比丘，入城乞食，得滿鉢百味歡喜丸。城中一小兒，追而從乞。不即與之，乃至佛圖，手捉二丸而要之言：「汝若能自食一丸，以一丸施僧者，當以施汝！」即相然可，以一歡喜丸布施眾僧，然後於文殊師利許受戒，發心作佛。如是布施，能令受戒發心作佛，是為布施生尸羅波羅蜜。

> 文殊師利は、はるか昔の遠い劫の時代に、比丘として町に入り托鉢をして、鉢いっぱいの百種類の味の歓喜丸を得ました。町のある小さな子どもが、後を追ってそれを乞いました。文殊師利はすぐには与えず、寺に着くまで手に二つの丸を持ったまま、子どもにこう約束しました。「あなたが自分で一つを食べ、もう一つを僧たちに施すことができるなら、これをあなたに与えましょう。」子どもはすぐに承知し、一つの歓喜丸を僧たちに布施し、そのあとで文殊師利のもとで戒を受け、仏になろうと心を起こしました。このような布施は、戒を受け仏になろうと心を起こさせるのです。これが、布施から戒波羅蜜が生まれるということです。

復次，布施之報，得四事供養，好國善師，無所乏少，故能持戒。

> 次に、布施の報いとして、四つの供養を受け、良い国と優れた師に出会い、何一つ不足することがないため、戒を守ることができるのです。

又布施之報，其心調柔；心調柔故，能生持戒；能生持戒故，從不善法中能自制心。

> また、布施の報いによって心はおだやかになります。心がおだやかであるがゆえに、持戒を生み出すことができます。持戒を生み出すことができるがゆえに、不善の法から自らの心を制することができるのです。

如是種種因緣，從布施生尸羅波羅蜜。

> このようなさまざまな縁によって、布施から戒律の完成が生まれます。

云何布施生羼提波羅蜜？

> どのようにして布施が忍辱波羅蜜を生み出すのでしょうか。

菩薩布施時，受者逆罵，若大求索，若不時索，或不應索而索。是時，菩薩自思惟言：「我今布施，欲求佛道，亦無有人使我布施。我自為故，云何生瞋？」如是思惟已，而行忍辱，是名布施生羼提波羅蜜。

> 菩薩が布施をするとき、受け取る人が逆に罵ったり、多くを求めたり、時でないのに求めたり、求めるべきでないのに求めたりすることがあります。そのとき、菩薩は自らこう考えます。「私は今、布施をして仏道を求めているのであって、誰かに布施をさせられているわけではない。自分のためにしているのに、どうして怒りが生じるだろうか。」こう考えてから、忍辱を行います。これを布施が生む羼提波羅蜜といいます。

復次，菩薩布施時，若受者瞋惱，便自思惟：「我今布施內外財物，難捨能捨，何況空聲而不能忍？若我不忍，所可布施則為不淨。譬如白象，入池澡浴，出已還復以土坌身；布施不忍，亦復如是。」如是思惟已，行於忍辱。

> 次に、菩薩が布施をするとき、もし受け取る人が怒りや悩みを抱いていたなら、こう自ら考えます。「私は今、内外の財物を布施している。捨てがたいものさえもよく捨てられているのだから、ましてや空の声のようなものを耐えられないことがあろうか。もし私が耐えられなければ、なした布施は清らかではなくなってしまう。たとえば白い象が池に入って体を洗い、出た後にまた土をかぶってしまうようなものだ。布施をして耐えられないのも、それと同じである。」このように考えてから、忍辱を行います。

如是等種種布施因緣，生羼提波羅蜜。

> このようなさまざまな布施の行いによって、忍耐の完成が生まれます。

云何布施生毘梨耶波羅蜜？

> どのようにして布施が精進波羅蜜を生み出すのでしょうか。

菩薩布施時，常行精進。何以故？菩薩初發心時，功德未大，爾時，欲行二施，充滿一切眾生之願。以物不足故，懃求財、法，以給足之。

> 菩薩が布施を行うとき、常に精進します。なぜでしょうか。菩薩が初めて発心したときには、功德はまだ大きくありません。そのとき、二つの施しを行い、すべての衆生の願いを満たそうとします。しかし物が足りないため、財と法を熱心に求め、それによって衆生を満足させます。

如釋迦文尼佛本身，作大醫王，療一切病，不求名利，為憐愍眾生故。病者甚多，力不周救，憂念一切而不從心，懊惱而死，即生忉利天上。自思惟言：「我今生天，但食福報，無所長益。」即自方便，自取滅身，捨此天壽。生婆迦陀龍王宮中為龍太子。其身長大，父母愛重，欲自取死，就金翅鳥王，鳥即取此龍子於舍摩利樹上吞之。父母嘷咷，啼哭懊惱。

> 釈迦文尼仏は、かつて大いなる医王として、すべての病を癒やしておられました。名声や利益を求めることなく、ただ衆生をあわれむがゆえでした。しかし、病に苦しむ者はあまりに多く、その力だけでは救いきれません。すべての者を思うのに、思うままにならないことを憂え、懊悩のうちに命を終え、忉利天に生まれました。 天に生まれた後、自らこう思いました。「私は今、天に生まれたが、ただ福報を享けるだけで、少しも益するところがない。」そこで自ら方便をめぐらし、みずから身を滅ぼして、この天の寿命を捨てました。そして婆迦陀龍王の宮中に生まれ、龍の太子となりました。その身は長大で、父母は深く愛しましたが、みずから死を取ろうとして金翅鳥王のもとへ赴くと、鳥はこの龍の子を舍摩利樹の上で呑み込みました。父母は号泣し、嘆き悲しみ懊悩しました。

龍子既死，生閻浮提中為大國王太子，名曰能施。生而能言，問諸左右：今此國中有何等物，盡皆持來以用布施！眾人怪畏，皆捨之走。其母憐愛，獨自守之。語其母言：「我非羅剎，眾人何以故走？我本宿命常好布施，我為一切人之檀越。」母聞其言，以語眾人，眾人即還。母好養育，及年長大，自身所有，盡以施盡；至父王所，索物布施，父與其分，復以施盡。見閻浮提人貧窮辛苦，思欲給施而財物不足，便自啼泣，問諸人言：「作何方便，當令一切滿足於財？」諸宿人言：「我等曾聞有如意寶珠，若得此珠，則能隨心所索，無不必得。」菩薩聞是語已，白其父母：「欲入大海求龍王頭上如意寶珠。」父母報言：「我唯有汝一兒耳，若入大海，眾難難度。一旦失汝，我等亦當何用活為？不須去也！我今藏中猶亦有物，當以給汝！」兒言：「藏中有限，我意無量。我欲以財充滿一切，令無乏短，願見聽許，得遂本心，使閻浮提人一切充足！」父母知其志大，不敢制之，遂放令去。

> 龍子が亡くなった後、閻浮提に生まれ変わり、大きな国の王の太子となった。名を能施といった。生まれるとすぐに話すことができ、周りの者たちに尋ねた。「この国にはどんなものがあるのか。すべて持ってきて布施に使いなさい。」人々は驚いて恐れ、みな捨てて逃げ去った。母だけが慈しみ、一人で守っていた。母に言った。「私は羅刹ではないのに、なぜ人々は逃げるのですか。私は前世からいつも布施を好み、すべての人々の檀越なのです。」母はその言葉を聞いて、人々に伝えると、人々は戻ってきた。母はよく養い育て、成長するに及んで、自分の持ち物をすべて施し尽くした。父王のもとへ行き、布施するものを求めた。父は自分の分け前を与えたが、また施し尽くした。閻浮提の人々が貧しく苦しんでいるのを見て、施しを与えたいと思ったが財物が足りず、自ら泣き、人々に尋ねた。「どんな方法で、すべての人を財物で満たすことができるだろうか。」年長者たちが言った。「かつて如意宝珠というものがあると聞いたことがあります。この珠を得れば、心のままに求めるものは、得られないものはないといいます。」菩薩はこの言葉を聞いて、父母に申し上げた。「大海に入り、龍王の頭の上の如意宝珠を求めたいと思います。」父母は答えた。「私たちにはお前という一人の子しかいない。大海に入れば、多くの難所を越えるのは難しい。もしお前を失ってしまえば、私たちはどうして生きていけるだろうか。行く必要はない。今、蔵にもまだ物があるから、それを与えよう。」子は言った。「蔵の物は限りがありますが、私の志は限りありません。私は財物で一切を満たし、乏しい者をなくしたいと願っています。どうか許してください。本心を遂げさせ、閻浮提の人々をすべて充足させたいのです。」父母はその志が大きいことを知り、制止することができず、ついに許して行かせた。

是時，五百賈客，以其福德大人，皆樂隨從；知其行日，集海道口。菩薩先聞婆伽陀龍王頭上有如意寶珠，問眾人言：「誰知水道，至彼龍宮？」有一盲人名陀舍，曾以七反入大海中，具知海道。菩薩即命共行。答曰：「我年既老，兩目失明，曾雖數入，今不能去！」菩薩語言：「我今此行，不自為身，普為一切求如意寶珠，欲給足眾生令身無乏，次以道法因緣而教化之。汝是智人，何得辭耶？我願得成，豈非汝力！」陀舍聞其要言，欣然同懷，語菩薩言：「我今共汝俱入大海，我必不全，汝當安我尸骸，著大海之中金沙洲上。」

> そのとき、五百人の商人たちは、その福徳豊かな立派な方につき従うことを皆喜び、出発の日を知ると海への道の入口に集まりました。菩薩は以前、婆伽陀竜王の頭の上に如意宝珠があると聞いていたので、皆に尋ねました。「誰か、海の道を知り、あの竜宮まで行ける者はいるか」と。陀舎という名の一人の盲人がいて、かつて七度大海に入り、海の道を詳しく知っていました。菩薩はすぐに彼にも一緒に来るよう命じました。彼は答えました。「私はすでに年老い、両目を失明しています。昔は何度も入りましたが、今は行けません」と。菩薩は言いました。「私が今回この旅をするのは、自分のためではありません。すべての人のために如意宝珠を求め、生きとし生けるものに不足がないように満たし、次に仏道の教えの縁によって彼らを導こうとするのです。あなたは賢い人です。どうして断ることがありましょうか。私の願いが成就するのは、ひとえにあなたの力によるのではないですか」と。陀舎はその大切な言葉を聞いて、喜んで心を共にし、菩薩に言いました。「私は今、あなたと共に大海に入りましょう。私はきっと無事ではいられないでしょう。あなたは私の亡骸を手厚く扱い、大海の中の金沙洲の上に置いてください」と。

行事都集，斷第七繩，船去如馳，到眾寶渚。眾賈競取七寶，各各已足。語菩薩言：「何以不取？」菩薩報言：「我所求者，如意寶珠，此有盡物，我不須也。汝等各當知足知量，無令船重，不自免也！」是時，眾賈白菩薩言：「大德！為我呪願，令得安隱！」於是辭去。陀舍是時語菩薩言：「別留艇舟，當隨是別道而去。待風七日，博海南岸，至一險處，當有絕崖，棗林枝皆覆水。大風吹船，船當摧覆！汝當仰板棗枝，可以自濟。我身無目，於此當死。過此隘岸，當有金沙洲，可以我身置此沙中；金沙清淨，是我願也！」

> 商人たちはみな集まって七本目の綱を断ち切り、船は矢のように進み、宝の洲に着きました。商人たちは競って七宝を取り、それぞれ満足しました。そして菩薩に言いました。「どうして取らないのですか。」菩薩は答えました。「私が求めるのは如意宝珠です。ここにあるものは朽ちるもの、私は必要としません。あなたがたはそれぞれ足ることを知り、量を知り、船を重くして自分たちを救えなくしてはいけません。」そこで商人たちは菩薩に言いました。「大徳よ、私たちのために願を唱えて、無事でいられますように。」そして別れを告げました。そのとき陀舎が菩薩に言いました。「別に小舟を残し、この別の道に沿って行きなさい。風を七日待ち、海の南岸を渡り、ある険しい場所に着くでしょう。そこには切り立った崖があり、棗の林の枝が水を覆っています。大風が船を吹き、船は壊れて転覆するでしょう。あなたは棗の枝にすがって、自らを救うのです。私は目が見えないので、ここで死ぬでしょう。この狭い岸を過ぎると、金沙の洲があります。私の体をこの砂の中に置いてください。金沙は清らかです。これが私の願いです。」

即如其言，風至而去。既到絕崖，如陀舍語。菩薩仰板棗枝，得以自免。置陀舍屍，安厝金地，於是獨去。如其先教，深水中浮七日，至垒咽水中行七日，垒腰水中行七日，垒膝水中行七日，泥中行七日。見好蓮華，鮮潔柔軟，自思惟言：「此華軟脆，當入虛空三昧，自輕其身。」行蓮華上七日，見諸毒蛇，念言：「含毒之虫，甚可畏也！」即入慈心三昧，行毒蛇頭上七日，蛇皆擎頭授與菩薩，令蹈上而過。過此難已，見有七重寶城，有七重塹，塹中皆滿毒蛇，有三大龍守門。龍見菩薩形容端政，相好嚴儀，能度眾難，得來至此，念言：「此非凡夫，必是菩薩大功德人！」即聽令前，逕得入宮。

> 菩薩は言われたとおりにし、風が来るとそこを去りました。絶壁に着くと、陀舎の教えのとおりにしました。菩薩は板の棗の枝を見上げて、それによって難を逃れることができました。陀舎の遺体を安置し、金の地に葬って、そこでひとり去りました。 先に教えられたとおり、深い水の中を七日間浮かび、咽まで水に浸かって七日間歩き、腰まで水に浸かって七日間歩き、膝まで水に浸かって七日間歩き、泥の中を七日間歩きました。 美しい蓮の花を見ると、清らかで柔らかく、こう自ら思いました。「この花は柔らかく脆い。虚空三昧に入り、自らその身を軽くしよう。」蓮の花の上を七日間歩きました。 多くの毒蛇を見ると、こう思いました。「毒を持つ虫は、まことに恐ろしいものだ。」そこで慈心三昧に入り、毒蛇の頭の上を七日間歩きました。蛇たちは皆、頭を持ち上げて菩薩に差し出し、その上を踏んで通らせました。 この難所を過ぎると、七重の宝の城があり、七重の堀があり、堀の中はすべて毒蛇で満ちており、三匹の大きな龍が門を守っていました。龍は菩薩の姿かたちが端正で、相好が立派で、多くの難を乗り越えてここまで来たのを見て、こう思いました。「この方は凡人ではない。きっと菩薩の大功徳のある方だ。」すぐに前へ進むことを許し、そのまま宮殿に入ることができました。

龍王夫婦喪兒未久，猶故哀泣；見菩薩來，龍王婦有神通，知是其子，兩乳汁流出。命之令坐，而問之言：「汝是我子，捨我命終，生在何處？」菩薩亦自識宿命，知是父母，而答母言：「我生閻浮提上，為大國王太子。憐愍貧人，飢寒勤苦，不得自在，故來至此，欲求如意寶珠！」母言：「汝父頭上有此寶珠，以為首飾，難可得也！必當將汝入諸寶藏，隨汝所欲，必欲與汝。汝當報言：『其餘雜寶，我不須也，唯欲大王頭上寶珠；若見憐愍，願以與我。』如此可得。」

> 龍王の夫婦は、子供を亡くしてからまだ間もなく、悲しみに涙を流し続けていました。そこへ菩薩がやって来るのを見て、龍王の妻には神通力があり、それが自分の子だとわかりました。両方の乳房から乳が流れ出ました。彼を座らせて、こう尋ねました。「あなたは私の子です。私を捨てて命を終え、どこに生まれたのですか？」菩薩もまた、自らの宿命を知っていて、この二人が父母であるとわかり、母にこう答えました。「私は閻浮提の上に生まれ、大きな国の王の太子となりました。貧しい人々が飢えや寒さに苦しみ、自由になれないのを哀れに思い、ここへ来たのです。如意宝珠を求めたいのです！」母は言いました。「あなたの父の頭の上に、その宝珠があります。冠の飾りとしているので、手に入れるのは難しいでしょう！きっとあなたを宝物庫へ連れて行き、望むままに与えようとするはずです。そのとき、あなたはこう言いなさい。『その他のさまざまな宝物は、私は必要ありません。ただ大王の頭の上の宝珠だけが欲しいのです。もしお憐れみくださるなら、どうか私に与えてください』と。そうすれば手に入ります。」

即往見父。父大悲喜，歡慶無量；愍念其子，遠涉艱難，乃來至此，指示妙寶，隨意與汝，須者取之。菩薩言：「我從遠來，願見大王，求王頭上如意寶珠；若見憐愍，當以與我，若不見與，不須餘物！」龍王報言：「我唯有此一珠，常為首飾，閻浮提人薄福下賤，不應見也！」菩薩白言：「我以此故，遠涉艱難，冒死遠來，為閻浮提人薄福貧賤，欲以如意寶珠濟其所願，然後以佛道因緣而教化之！」龍王與珠而要之言：「今以此珠與汝，汝既去世，當以還我！」答曰：「敬如王言！」

> そこで菩薩はすぐに王のもとへ向かいました。王はたいそう喜び、このうえなく慶びました。そして、わが子がはるばる艱難を越えてここまで来たことを哀れに思い、すばらしい宝を示して、「おまえの望むままに与えよう。必要なものがあれば取りなさい」と言いました。 菩薩が言いました。「私は遠くから参りました。願わくは大王にお会いし、王の頭上にある如意宝珠をいただきたいのです。もしお憐れみいただけるなら、どうか私に与えてください。もし与えていただけないのなら、ほかの物は何も要りません。」 龍王がお答えになりました。「私にはただこの一つの珠しかなく、いつも頭の飾りとしている。閻浮提の人々は福が薄く身分も低い。この珠を見るに値しないのだ。」 菩薩が申し上げました。「私はこのために、はるばる艱難を越え、死をも顧みず遠くまで参りました。閻浮提の人々は福が薄く貧しく卑しい。その願いを如意宝珠で満たし、その後、仏道の因縁によって教化したいのです。」 龍王は珠を授けて、こう念を押しました。「今この珠をおまえに与えるが、おまえがこの世を去ったなら、私に返しなさい。」 菩薩はお答えしました。「謹んで王のお言葉に従います。」

菩薩得珠，飛騰虛空，如屈伸臂頃，到閻浮提。人王父母見兒吉還，歡悅踊躍，抱而問言：「汝得何物？」答言：「得如意寶珠。」問言：「今在何許？」白言：「在此衣角裏中。」父母言：「何其泰小？」白言：「在其神德，不在大也。」白父母言：「當勅城中內外，掃灑燒香，懸繒幡蓋，持齋受戒。」明日清旦，以長木為表，以珠著上。菩薩是時自立誓願：「若我當成佛道、度脫一切者，珠當如我意願，出一切寶物，隨人所須，盡皆備有！」是時，陰雲普遍，雨種種寶物，衣服、飲食、臥具、湯藥，人之所須，一切具足。至其命盡，常爾不絕。

> 菩薩は宝珠を手に入れると、空高く飛び上がり、腕を伸ばすほどのわずかな間に、閻浮提にたどり着きました。人の王である父母は、わが子が無事に帰ってきたのを見て、大喜びで抱きしめながら尋ねました。「どんな物を手に入れたのかね？」菩薩は答えました。「如意の宝珠を手に入れました。」父母が「それは今どこにあるのか？」と尋ねると、「この衣の隅の中にあります」と答えました。父母が「なんとまあ、小さいことか」と言うと、菩薩は言いました。「その不思議な力にこそ意味があり、大きさにあるのではありません。」そして父母にこう言いました。「どうか城中の内外に命じて、掃き清め、香を焚き、絹の幡や蓋をかけ、斎を守り戒を受けさせてください。」翌日の早朝、長い木を目印として立て、その上に珠を載せました。菩薩はその時、みずから誓願を立てました。「もし私が仏の道を成し遂げ、すべての人を救い解き放つことができるなら、この珠は私の願いのままに、あらゆる宝物を出し、人が求めるものに応じて、すべてを備えさせてください！」その時、暗い雲が一面に広がり、さまざまな宝物を雨のように降らせました。衣服、食べ物、飲み物、寝具、薬にいたるまで、人が必要とするものはすべて揃いました。そして命が尽きるまで、絶えることなく続きました。

如是等，名為菩薩布施生精進波羅蜜。

> このように、これらは菩薩が布施を行うことによって生まれる精進波羅蜜と呼ばれます。

云何菩薩布施生禪波羅蜜？

> 菩薩の布施は、どのようにして禅波羅蜜を生み出すのでしょうか。

菩薩布施時，能除慳貪。除慳貪已，因此布施而行一心，漸除五蓋；能除五蓋，是名為禪。

> 菩薩が布施をするとき、貪りを除くことができます。貪りを除いたなら、その布施によって心を一つに集中させ、しだいに五つの煩悩の覆いを除いていきます。この五つの覆いを除くことが、禅と呼ばれるのです。

復次，心依布施，入於初禪，乃至滅定禪。云何為依？若施行禪人時，心自念言：「我以此人行禪定故，淨心供養，我今何為自替於禪？」即自歛心，思惟行禪。若施貧人，念此宿命作諸不善，不求一心，不修福業，今世貧窮。以是自勉修善，一心以入禪定。

> 次に、心は布施に支えられて、初禅に入り、さらには滅尽定に至るまで進みます。どのように支えられるのでしょうか。布施を行いながら禅を行う人は、心の中でこう思います。「私はこの人が禅定を行うからこそ、清らかな心で供養しよう。ならば私自身も、なぜ禅を怠ってよいだろうか」と。そこで自ら心を引き締め、禅を行うことを思います。貧しい人に施すときは、この人が前世でさまざまな悪を行い、一心を求めず、福徳を積まなかったために、今世で貧しくなったのだと考えます。それによって自らを励まして善を修め、一心に禅定に入るのです。

如說喜見轉輪聖王，八萬四千小王來朝，皆持七寶妙物來獻。王言：「我不須也，汝等各可自以修福！」諸王自念：「大王雖不肯取，我等亦復不宜自用。」即共造工，立七寶殿，殖七寶行樹，作七寶浴池。於大殿中造八萬四千七寶樓，樓中皆有七寶床座，雜色被枕，置床兩頭，懸繒幡蓋，香熏塗地。

> たとえば、喜見という転輪聖王のもとに八万四千の小王たちが集まってきたとします。小王たちは皆、七つの宝でできたすばらしい品々を持って献上しようとしました。そこで王は言いました。「私はそのようなものは必要ありません。あなたがたはそれぞれ、自分のために善い行いを積みなさい。」小王たちはこう考えました。「大王が受け取らないのなら、私たちもまた、自分たちで使うべきではない。」そこで彼らは協力して職人を集め、七宝でできた宮殿を建て、七宝の並木を植え、七宝の沐浴池を作りました。そして大きな宮殿の中に八万四千の七宝の楼閣を建て、それぞれの楼閣には七宝の床と座を設け、さまざまな色の敷物や枕を床の両端に置き、絹の幡や蓋をかけ、香をたいて地面を塗り清めました。

眾事備已，白大王言：「願受法殿、寶樹、浴池！」王默然受之，而自念言：「我今不應先處新殿以自娛樂，當求善人、諸沙門、婆羅門等先入供養，然後我當處之！」即集善人，先入寶殿，種種供養，微妙具足。

> 準備がすべて整うと、大臣たちは大王にこう申し上げました。「どうか法の殿、宝の樹、浴の池をお受けください。」王は黙ってそれをお受けになり、そして心の中でこうお思いになりました。「私は今、先に新しい殿に住んで自分だけ楽しむべきではない。善い人々、沙門や婆羅門たちを先に招いて供養し、それから私がそこに住もう。」そこで善い人々を集め、まず宝の殿に入っていただき、さまざまな供養を、微妙に、不足なく行いました。

諸人出已，王入寶殿，登金樓，坐銀床，念布施，除五蓋，攝六情，却六塵，受喜樂，入初禪。次登銀樓，坐金床，入二禪。次登毘琉璃樓，坐頗梨寶床，入三禪。次登頗梨寶樓，坐毘琉璃床，入四禪。獨坐思惟，終竟三月。

> 人々が出ていった後、王は宝の殿堂に入り、金の楼に登り、銀の床に座りました。布施を心に念じ、五つの蓋を除き、六つの感覚を整え、六つの塵を退け、喜びと楽しみを受け、初禅に入りました。次に銀の楼に登り、金の床に座り、第二禅に入りました。次に瑠璃の楼に登り、水晶の宝床に座り、第三禅に入りました。次に水晶の宝楼に登り、瑠璃の床に座り、第四禅に入りました。ただ独り座して思いを巡らせ、ついに三か月の間を過ごしました。

玉女寶后，與八萬四千諸侍女俱，皆以白珠名寶瓔珞其身，來白大王：「久違親覲，敢來問訊！」王告諸妹：「汝等各當端心，當為知識，勿為我怨！」玉女寶后垂淚而言：「大王！何為謂我為妹？必有異心，願聞其意，云何見勅『當為知識，勿為我怨』？」王告之言：「汝若以我為世因緣，共行欲事以為歡樂，是為我怨；若能覺悟非常，知身如幻，修福行善，絕去欲情，是為知識。」諸玉女言：「敬如王勅！」說此語已，各遣令還。

> 玉女宝后と八万四千の侍女たちは、皆、白珠という名宝の瓔珞を身に着けて、大王のもとに来て申し上げた。「久しくお目にかかっておりませんでしたので、ご機嫌を伺いに参りました。」王は侍女たちにお告げになった。「お前たちはそれぞれ、心を正しく整え、善き友となるように努めなさい。私の怨みとなるようにしてはならない。」玉女宝后は涙を流して言った。「大王、なぜ私を妹とお呼びになるのですか。きっと別のお心がおありなのでしょう。そのお志を聞かせてください。なぜ『善き友となれ、私の怨みとなるな』とお命じになるのですか。」王はお告げになった。「お前が私を世の縁として、共に欲の行いをなして楽しみとするなら、それは私の怨みとなる。しかし、無常を覚り、この身は幻のごとくであると知り、福を修め善を行い、欲の心を断ち切るなら、それは善き友となるのだ。」侍女たちは言った。「謹んで王のお命に従います。」そう言い終えると、王はそれぞれを帰らせた。

諸女出已，王登金樓，坐銀床，行慈三昧；登銀樓，坐金床，行悲三昧；登毘琉璃樓，坐頗梨床，行喜三昧；登頗梨寶樓，坐毘琉璃床，行捨三昧。

> 女性たちが退出すると、王は金の楼閣に登り、銀の床に座って慈の三昧に入りました。銀の楼閣に登り、金の床に座って悲の三昧に入りました。瑠璃の楼閣に登り、水晶の床に座って喜の三昧に入りました。水晶の楼閣に登り、瑠璃の床に座って捨の三昧に入りました。

是為菩薩布施生禪波羅蜜。

> これは菩薩が布施を行うことによって禅の波羅蜜を生み出すということです。

云何菩薩布施生般若波羅蜜？

> 菩薩が布施を行うとき、どのようにして般若波羅蜜が生まれるのでしょうか。

菩薩布施時，知此布施必有果報而不疑惑，能破邪見無明，是為布施生般若波羅蜜。

> 菩薩が布施をするとき、この布施には必ず果報があると知って疑わず、邪見と無明を破ることができる、これが布施が般若波羅蜜を生むということです。

復次，菩薩布施時，能分別知：

> 次に、菩薩が布施をする時、よく分別して知ることができる。

不持戒人，若鞭打拷掠閉繫，枉法得財而作布施，生象、馬、牛中，雖受畜生形，負重鞭策，羇靽乘騎，而常得好屋好食，為人所重，以人供給。

> 戒めを守らない人が、もし人を鞭で打ち、拷問し、閉じ込め、法を曲げて財を得て、それを布施として行えば、象や馬や牛の姿に生まれ変わる。畜生の姿を受けながらも、重い荷を負わされ鞭で打たれ、手綱をつけられて乗られるが、いつも良い家と良い食べ物を得て、人々に大切にされ、人間によって養われるのである。

又知惡人多懷瞋恚，心曲不端而行布施，當墮龍中，得七寶宮殿，妙食好色。

> また、悪い人は怒りや恨みを抱き、心がねじけて正しくないまま布施を行うことがあります。そのような人は竜の世界に生まれ変わり、七つの宝でできた宮殿を得て、すばらしい食べ物と美しい姿を得るのです。

又知憍人多慢、瞋心布施，墮金翅鳥中，常得自在。有如意寶珠以為瓔珞，種種所須，皆得自恣，無不如意，變化萬端，無事不辦。

> また、驕り高ぶる人が慢心から怒りの心で布施をすると、金翅鳥（こんじちょう）に生まれ変わり、常に自由自在に過ごすことができる。如意宝珠を瓔珞として身にまとり、必要とするものは何でも思いのままに手に入り、思うにまかせないことはない。あらゆる姿に変幻自在で、できないことは何もない。

又知宰官之人，枉濫人民，不順治法而取財物，以用布施，墮鬼神中，作鳩槃茶鬼，能種種變化，五塵自娛。

> また、役人が人民を苦しめ、法に従わずに財物を奪って、それを布施に使うならば、鬼神の世界に堕ちて鳩槃茶鬼となり、さまざまに姿を変えて、五つの欲楽を楽しむことができる。

又知多瞋佷戾、嗜好酒肉之人而行布施，墮地夜叉鬼中，常得種種歡樂、音樂、飲食。

> また、怒りっぽく荒々しく、酒や肉を好む人が布施を行えば、地夜叉鬼の中に生まれ、さまざまな喜びや音楽、飲食を常に得ることができます。

又知有人剛愎強梁而能布施，車馬代步，墮虛空夜叉中而有大力，所至如風。

> また、頑固で強引な人でも布施をすれば、車や馬に乗って移動し、虚空夜叉として生まれても大きな力を持ち、行く先々で風のように速く動けることを知りなさい。

又知有人妬心好諍，而能以好房舍、臥具、衣服、飲食布施，故生宮觀飛行夜叉中，有種種娛樂便身之物。

> また、妬みの心が強く、言い争いを好む人が、立派な部屋や寝具、衣服、食べ物を布施したために、宮殿に住み、空を飛ぶ夜叉として生まれ、さまざまな娯楽や身を楽しませるものを得ることがあると知りなさい。

如是種種，當布施時能分別知，是為菩薩布施生般若。

> このようにさまざまなことを、布施を行うときに見分けて知ることができる。これが菩薩の布施が般若を生み出すということです。

復次，布施飲食得力、色、命、樂、瞻。若布施衣服，得生知慚愧，威德端正，身心安樂；若施房舍，則得種種七寶宮觀，自然而有，五欲自娛；若施井池泉水種種好漿，所生則得無飢、無渴，五欲備有；若施橋船及諸履屣，生有種種車馬具足；若施園林，則得豪尊，為一切依止，受身端政，心樂無憂。如是等種種人中，因緣布施所得。

> また、飲食を施すと、力・色・命・楽・瞻を得ます。衣服を施すと、生まれながらにして慚愧の心を知り、威徳が備わり端正で、身心ともに安楽になります。房舎を施すと、さまざまな七宝の宮殿が自然に現れ、五欲を自在に楽しめます。井戸や池、泉水、さまざまな美味しい飲み物を施すと、生まれるところで飢えも渇きもなく、五欲がすべて備わります。橋や船、履物を施すと、さまざまな車や馬に恵まれます。園林を施すと、豪族や尊い身となり、すべてのものの拠り所となって、端正な身体を受け、心は楽しみ憂いがありません。このように、人として受けるさまざまな果報は、布施の因縁によって得られるのです。

若人布施修作福德，不好有為作業生活，則得生四天王處；若人布施，加以供養父母，及諸伯叔兄弟姊妹，無瞋無恨，不好諍訟，又不喜見諍訟之人，得生忉利天上、焰摩、兜術、化自在、他化自在。如是種種分別布施，是為菩薩布施生般若。

> もし人が布施をして功徳を積みながらも、形ある行いにこだわった暮らしを好まないなら、四天王の世界に生まれることができます。さらに人が布施をし、加えて父母や伯父・叔父・兄弟・姉妹に供養し、怒りや恨みを持たず、争いごとを好まず、争う人を見ることも喜ばないなら、忉利天、焰摩天、兜率天、化自在天、他化自在天に生まれることができます。このように、さまざまに区別して布施を行うことが、菩薩の布施が般若を生み出すということなのです。

若人布施，心不染著，厭患世間，求涅槃樂，是為阿羅漢、辟支佛布施；若人布施為佛道，為眾生故，是為菩薩布施。如是等種種布施中分別知，是為布施生般若波羅蜜。

> 人が布施をするとき、心が執着に染まらず、世間を厭い離れて涅槃の安楽を求めるなら、それは阿羅漢や辟支仏の布施です。人が仏の道のために、すべての生きとし生けるもののために布施をするなら、それは菩薩の布施です。このように、さまざまな布施のあり方をそれぞれに見分けて理解することが、布施から般若波羅蜜が生まれるということなのです。

復次，菩薩布施時，思惟三事實相，如上說。如是能知，是為布施生般若波羅蜜。

> 次に、菩薩が布施をするとき、三つの事の真実の相を思惟することは、すでに述べたとおりです。このように理解できることが、布施が般若波羅蜜を生じさせるということです。

復次，一切智慧功德因緣，皆由布施。如千佛始發意時，種種財物布施諸佛，或以華香、或以衣服、或以楊枝布施而以發意。

> また、すべての智慧や功德の因縁は、みな布施によるものです。たとえば、千の仏が最初に菩提心を起こしたとき、さまざまな財物を諸仏に布施し、あるいは花や香を、あるいは衣服を、あるいは楊枝を布施して、それによって菩提心を起こしました。

如是等種種布施，是為菩薩布施生般若波羅蜜。

> このようなさまざまな布施を行うことが、菩薩が布施によって般若波羅蜜を生み出すということです。

## 大智度論卷第十二

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