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title: "大智度論 · 22 戒相義"
description: "大智度论由古印度龙树菩萨所造，后秦时期著名译经家鸠摩罗什翻译成中文。该论是佛教重要典籍，属于大乘中观学派的核心论著，主要阐释《大品般若经》的深奥义理。全书共一百卷，系统论述了般若空性思想、菩萨修行次第以及六度万行的实践方法，被誉为大乘佛教的百科全书。作为早期大乘佛教的代表性论典，大智度论对汉传佛教思想体系的形成影响深远，尤其为天台宗、华严宗等宗派提供了重要理论依据，在佛教哲学史上占据崇高地位。"
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### 大智度論釋初品中戒相義第二十二之一

> 大智度論釈初品中戒相義第二十二之一

問曰：

> お尋ねします。

已知如是種種功德果報，云何名為「戒相」？

> これまでに述べてきたようなさまざまな功徳や果報があるとして、ではいったい何を「戒のあり方」と呼ぶのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

惡止不更作，若心生、若口言、若從他受，息身、口惡，是為戒相。

> 悪を止めて二度と行わず、心に思ったときも、口に出して言ったときも、人から教えられたときも、身と口の悪をやめること、これが戒のすがたです。

云何名為「惡」？若實是眾生，知是眾生，發心欲殺而奪其命，生身業有作色，是名殺生罪。其餘繫閉、鞭打等，是助殺法。

> 「悪」とは何を意味するのでしょうか。もし相手が本当に生きている者であり、それが生きている者だと分かった上で、殺そうと思い、その命を奪うならば、体によって行う行為が形となって現れます。これが殺生の罪です。そのほか、縛りつけたり、鞭で打ったりすることは、殺生を助ける行いです。

復次，殺他得殺罪，非自殺身。心知眾生而殺是名殺罪，不如夜中見人謂為杌樹而殺者。故殺生得殺罪，非不故也。快心殺生得殺罪，非狂癡。命根斷，是殺罪，非作瘡。身業是殺罪，非但口教勅。口教是殺罪，非但心生。如是等，名殺罪；不作是罪，名為戒。

> また、他人を殺せば殺罪を得るのであって、自分を殺すのではない。心に衆生だと知って殺すのを殺罪といい、夜中に人を見て切り株だと思って殺すような場合とは違う。だから殺生は殺罪を得るのであり、故意でない場合ではない。快く思って殺生すれば殺罪を得るのであり、狂った状態ではない。命の根を断つことが殺罪なのであって、傷をつけることではない。身体の行いが殺罪なのであって、ただ口で命じることだけではない。口で命じることが殺罪なのであって、ただ心に思うだけではない。このようなものが殺罪と呼ばれる。この罪を行わないことを戒という。

若人受戒，心生、口言：「我從今日不復殺生！」若身不動，口不言，而獨心生自誓：「我從今日不復殺生！」是名不殺生戒。

> もし人が戒を受けるとき、心に思い、口に出して「私は今日からもう生き物を殺しません」と言うなら、それは戒を受けたことになります。また、体を動かさず、口にも出さず、ただ心の中でひとり誓って「私は今日からもう生き物を殺しません」と思うだけでも、これを不殺生戒といいます。

有人言：「是不殺生戒，或善或無記。」

> ある人が言いました。「この不殺生戒は、善であるか、あるいは無記である。」

問曰：

> お尋ねします。

如阿毘曇中說「一切戒律儀皆善」，今何以言無記？

> 阿毘曇の中では「すべての戒律儀は善である」と説かれているのに、なぜここでは無記だと説かれるのですか。

答曰：

> お答えしますと、

如《迦栴延子阿毘曇》中言一切善，如餘《阿毘曇》中言不殺戒，或善、或無記。何以故？若不殺戒常善者，持此戒人，應如得道人，常不墮惡道。以是故，或時應無記；無記無果報故，不生天上、人中。

> 『迦栴延子阿毘曇』の中で「すべては善である」と説かれているように、他の『阿毘曇』の中では「不殺の戒は、あるときは善であり、あるときは無記である」と説かれています。なぜでしょうか。もし不殺の戒が常に善であるならば、この戒を守る人は、悟りを得た人と同じように、常に悪道に堕ちないはずです。したがって、あるときは無記となるべきであり、無記には果報がないため、天上や人中に生まれることはありません。

問曰：

> お尋ねします。

不以戒無記故墮地獄，更有惡心生故墮地獄！

> 戒を守らないから地獄に堕ちるのではありません。むしろ、悪い心が生まれるから地獄に堕ちるのです。

答曰：

> お答えしますと、

不殺生，得無量善法，作、無作，福常日夜生故；若作少罪，有限、有量。何以故隨有量而不隨無量？以是故，知不殺戒中，或有無記。

> 生き物を殺さないことは、計り知れないほどの善い行いを生み出します。行いとしても、行いを支える心のはたらきとしても、その福は日夜絶えず生まれ続けるからです。これに対して、たとえ少しでも罪を犯せば、その結果は限りがあり、量も決まっています。なぜ、限りあるものに従い、限りないものには従わないのでしょうか。このことから、生き物を殺さないという戒の中には、善でも悪でもない中性的なものも含まれていることが分かります。

復次，有人不從師受戒，而但心生自誓：「我從今日不復殺生！」如是不殺，或時無記。

> また、ある人は師から戒を受けることなく、ただ心の中で自ら誓いました。「私は今日からもう生き物を殺さない」と。このように殺さないことには、時に無記となることもあります。

問曰：

> お尋ねします。

是不殺戒何界繫？

> 殺さないという戒は、どの世界に属するのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

如《迦栴延子阿毘曇》中言：「一切受戒律儀，皆欲界繫。」餘《阿毘曇》中言：「或欲界繫，或不繫。」以實言之，應有三種：「或欲界繫，或色界繫，或無漏。」殺生法雖欲界，不殺戒，應隨殺在欲界；但色界不殺、無漏不殺，遠遮故，是真不殺戒。

> 『迦栴延子阿毘曇』にはこう言われています。「すべての受戒の律儀は、みな欲界に繫（つな）がれる」と。しかし他の『阿毘曇』にはこう言われています。「あるものは欲界に繫がれ、あるものは繫がれない」と。実際のところから言えば、三つの種類があるはずです。「あるものは欲界に繫がり、あるものは色界に繫がり、あるものは無漏である」と。殺生の法は欲界に属しますが、不殺の戒は、殺生に従って欲界にあるべきです。ただし色界の不殺と無漏の不殺は、遠くから遮（さえぎ）るものであるため、これが真の不殺の戒なのです。

復次，有人不受戒，而從生已來，不好殺生，或善或無記，是名無記。

> また、ある人は戒を受けていなくても、生まれたときから生き物を殺すことを好まず、それが善であることもあれば無記であることもある。これを無記という。

是不殺生法，非心，非心數法，亦非心相應；或共心生，或不共心生。

> それは殺生をしないという法であり、心ではなく、心に伴う法でもなく、心と対応するものでもありません。心とともに生じることもあれば、心とともに生じないこともあります。

《迦栴延子阿毘曇》中言：「不殺生是身、口業，或作色、或無作色，或時隨心行、或不隨心行丹注云：隨心行：定共戒；不隨心意：五戒，非先世業報。二種修應修，二種證應證丹注云：身證、慧證。思惟斷，一切欲界最後得；見斷、時斷，凡夫、聖人所得。是色法，或可見、或不可見法，或有對法、或無對法，有報法，有果法，有漏法，有為法，有上法丹注云：非極故有上，非相應因。如是等分別，是名不殺戒。」

> 『迦栴延子阿毘曇』の中でこう言われています。「不殺生は身と口の業であり、形として現れる場合もあれば、形として現れない場合もある。心に従って行われることもあれば、心に従わずに行われることもある<note>丹の注に云く：心に随って行ずるとは、定共戒である。心に随わずとは、五戒である</note>。過去世の業報ではない。二つの修行を修めるべきであり、二つの証を得るべきである<note>丹の注に云く：身証と慧証である</note>。思惟によって断じ、一切の欲界において最後に得られる。見によって断じ、時にによって断じ、凡夫も聖人も得るものである。これは色法であり、見える場合もあれば見えない場合もあり、対がある場合もあれば対がない場合もあり、報がある法であり、果がある法であり、漏がある法であり、為がある法であり、上がある法である<note>丹の注に云く：極ではないから上がある</note>。相応因ではない。このような区別が、不殺戒と呼ばれるのである。」

問曰：

> お尋ねします。

八直道中戒，亦不殺生，何以獨言「不殺生戒有報、有漏」？

> 八正道の中の戒について、すでに不殺生も含まれているのに、なぜ特に「不殺生戒には報いがあり、煩悩の漏れがある」とだけ言うのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

此中但說受戒律儀法，不說無漏戒律儀。

> ここではただ受戒の律儀の法について説いており、無漏戒の律儀については説いていません。

復次，餘《阿毘曇》中言：「不殺法常不逐心行，非身口業，不隨心業行；或有報，或無報；非心相應法，或有漏，或無漏。」是為異法，餘者皆同。

> 次に、他の『阿毘曇』の中ではこう言われています。「殺さないという法は、常に心に従って働くものではなく、身業や口業ではなく、心の業に従って働くものではない。報いがある場合もあれば、報いがない場合もある。心と相应する法ではなく、有漏である場合もあれば、無漏である場合もある。」これが異なる点であり、その他の点はすべて同じです。

復有言：「諸佛賢聖不戲論諸法丹注云：種種異說名為『戲』也，現前眾生各各惜命，是故佛言莫奪他命；奪他命，世世受諸苦痛。」眾生有、無，後當說。

> また、こうも言われています。「諸仏や賢聖は、諸法について無駄な議論をなさらない。目の前にいる衆生はそれぞれ自分の命を惜しんでいる。だからこそ仏は『他人の命を奪ってはならない』と説かれた。命を奪えば、来世もまた来世も、さまざまな苦しみを受けることになる。」衆生に実体があるかないかについては、後に説くことにする。

問曰：

> お尋ねします。

人能以力勝人，并國、殺怨，或田獵皮肉，所濟處大；令不殺生，得何等利？

> 人が力で人に勝ち、国を奪い、敵を殺し、あるいは狩りをして獣の皮や肉を得ることは、大きな利益があるように見えます。しかし、生き物を殺さないようにすれば、どんな利益があるのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

得無所畏，安樂無怖。我以無害於彼故，彼亦無害於我，以是故，無怖、無畏。好殺之人，雖復位極人王，亦不自安；如持戒之人，單行獨遊，無所畏難。

> 恐れを知ることはありません。安らかで楽しく、恐怖もありません。私が相手を害さないからこそ、相手も私を害することがありません。だからこそ、恐怖もなく、恐れることもないのです。殺すことを好む人は、たとえ人の王の位にまで上り詰めても、心安らかではありません。それに対して、戒めを守る人は、たった一人で歩き旅をしても、恐れることがないのです。

復次，好殺之人，有命之屬皆不喜見；若不好殺，一切眾生皆樂依附。

> また、殺生を好む人には、命あるものはみな会いたがりません。殺生を好まなければ、すべての生きとし生けるものは喜んで寄り添ってきます。

復次，持戒之人，命欲終時其心安樂，無疑、無悔；若生天上、若在人中，常得長壽；是為得道因緣，乃至得佛，住壽無量。

> また、戒律を守る人は、命が終わろうとするとき、その心は安らかで楽しく、疑いも悔いもありません。天の世界に生まれようと、人の世界に生まれようと、いつも長寿を得ることができます。これが悟りへの道を得るきっかけとなり、ついには仏となり、限りない寿命にとどまるのです。

復次，殺生之人，今世、後世受種種身、心苦痛；不殺之人，無此眾難，是為大利。

> また、生き物を殺す人は、この世でも後の世でも、さまざまな体と心の苦しみを受けます。生き物を殺さない人は、そのような多くの災いがなく、これが大きな利益なのです。

復次，行者思惟：「我自惜命、愛身，彼亦如是，與我何異？」以是之故，不應殺生。

> 次に、修行者はこう考えます。「私は自分の命を惜しみ、体を愛している。相手も同じだ。私と何の違いがあるだろうか。」だからこそ、生き物を殺してはいけないのです。

復次，若人殺生者，為善人所訶、怨家所嫉；負他命故，常有怖畏，為彼所憎；死時心悔，當墮地獄，若畜生中；若出為人，常當短命。

> また、もし人が生き物を殺せば、善良な人々から責められ、敵からは憎まれます。他人の命を奪ったために、いつも恐怖におびえ、憎しみを持たれます。死ぬときには心から後悔し、地獄や畜生の世界に堕ちるでしょう。たとえ人間に生まれても、いつも短命になります。

復次，假令後世無罪，不為善人所訶、怨家所嫉，尚不應故奪他命。何以故？善相之人所不應行，何況兩世有罪，弊惡果報！

> また、たとえ後の世に罪がなく、善人に責められず、敵に憎まれることもないとしても、それでも他人の命を奪ってはなりません。なぜでしょうか。善い行いをする人なら決してすべきことではないからです。ましてや、現世と来世の両方で罪を得て、悪い報いを受けることは言うまでもありません。

復次，殺為罪中之重。何以故？人有死急，不惜重寶，但以活命為先。譬如賈客入海採寶，垂出大海，其船卒壞，珍寶失盡，而自喜慶，舉手而言：「幾失大寶！」眾人怪言：「汝失財物，裸形得脫，云何喜言幾失大寶？」答言：「一切寶中，人命第一；人為命故求財，不為財故求命。」以是故，佛說十不善道中，殺罪最在初；五戒中亦最在初。若人種種修諸福德，而無不殺生戒，則無所益。何以故？雖在富貴處生，勢力豪強而無壽命，誰受此樂？以是故，知諸餘罪中，殺罪最重；諸功德中，不殺第一。世間中惜命為第一。何以知之？一切世人，甘受刑罰刑殘考掠以護壽命。

> 次に、殺生は罪の中でも最も重いものです。なぜでしょうか。人は死の危険に直面すると、大切な財宝も惜しまず、ただ命を助かることだけを第一にします。たとえば、商人が海に出て宝を採り、大海を出ようとしたその時に船が突然壊れ、珍宝をすべて失っても、かえって喜び、手を挙げて「危うく大いなる宝を失うところだった」と言います。人々は不思議に思って、「お前は財物を失い、裸で逃げ延びたのに、なぜ『危うく大いなる宝を失うところだった』と喜んで言うのか」と言います。すると彼は答えます。「すべての宝の中で、人の命が第一です。人は命のために財を求めこそすれ、財のために命を求めることはありません」と。このことから、仏が十不善道を説く中で、殺生の罪を最初に置かれたのです。五戒の中でもまた最初に置かれています。もし人がさまざまに福德を修めても、殺生をしないという戒がなければ、何の益もありません。なぜでしょうか。たとえ富貴の家に生まれ、勢力が強くても、寿命がなければ、誰がその楽しみを受けられるでしょうか。このことから、他の罪の中では殺生の罪が最も重く、諸々の功徳の中では不殺生が第一であることがわかります。世間では命を惜しむことが第一です。どうしてそれがわかるでしょうか。すべての世の人は、刑罰を受け、体を傷つけられ、責め苛まれても、命を守ることを甘んじて受け入れるからです。

復次，若有人受戒，心生：「從今日不殺一切眾生。」是於無量眾生中，已以所愛重物施與，所得功德亦復無量。如佛說：「有五大施，何等五？一者、不殺生，是為最大施；不盜、不邪婬、不妄語、不飲酒，亦復如是。」

> 次に、もし人が戒を受け、心にこう思うことです。「今日から一切の生きとし生けるものを殺さない。」これは無数の生きとし生けるものに対して、すでに自分が愛し重んじるものを施し与えたのであり、得られる功德もまた無量です。仏が説かれたように、「五つの大きな施しがある。何が五つか。第一に、殺さないこと、これが最も大きな施しである。盗まないこと、不邪淫、嘘をつかないこと、酒を飲まないことも、また同じである。」

復次，行慈三昧，其福無量，水、火不害，刀、兵不傷，一切惡毒所不能中；以五大施故，所得如是。

> 次に、慈しみの三昧（じひのさんまい）を実践すると、その功徳は限りなく、水や火にも害されず、刀や武器にも傷つけられず、あらゆる毒も害を及ぼすことができません。五つの大きな施しのため、このような結果が得られるのです。

復次，三世十方中尊，佛為第一。如佛語難提迦優婆塞：「殺生有十罪，何等為十？一者、心常懷毒，世世不絕；二者、眾生憎惡，眼不喜見；三者、常懷惡念，思惟惡事；四者、眾生畏之，如見蛇虎；五者、睡時心怖，覺亦不安；六者、常有惡夢；七者、命終之時，狂怖惡死；八者、種短命業因緣；九者、身壞命終，墮泥梨中；十者、若出為人，常當短命。」

> また、三世十方の中で最も尊いのは、仏が第一です。仏が難提迦優婆塞におっしゃったように、「殺生には十の罪があります。その十とは何か。一つには、心は常に毒を抱き、世々に絶えることがない。二つには、衆生に憎まれ、目で見られることを好まれない。三つには、常に悪い念を抱き、悪いことを考える。四つには、衆生が蛇や虎を見るように恐れる。五つには、眠るときも心が恐れ、目覚めても安らかでない。六つには、常に悪夢を見る。七つには、命終のときに狂ったように恐怖し、悪い死に方をする。八つには、短命の業の因縁を種まく。九つには、身が壊れ命終えて、地獄に堕ちる。十には、もし人として生まれても、常に短命である。」と。

復次，行者心念：「一切有命，乃至昆虫，皆自惜身；云何以衣服、飲食自為身故而殺眾生？」

> また、修行者は心の中でこう考えます。「すべての命あるものは、虫けらに至るまで、みな自分の身を大切にしている。どうして衣服や食べ物のために、自分の身を養おうとして他の生き物を殺すことがあろうか。」

復次，行者當學大人法，一切大人中，佛為最大。何以故？一切智慧成就，十力具足，能度眾生，常行慈愍，持不殺戒，自致得佛，亦教弟子行此慈愍。行者欲學大人行故，亦當不殺。

> 次に、修行者は大人の法を学ぶべきです。すべての大人の中で、仏が最も尊いのです。なぜなら、仏はすべての智慧を成就し、十力を見足し、衆生を救うことができ、常に慈しみの心を持って、不殺の戒を守り、自ら仏の境地に至り、また弟子たちにもこの慈しみの行いを教えられるからです。修行者が大人の行いを学ぼうとするならば、同じく殺してはなりません。

問曰：

> お尋ねします。

不侵我者，殺心可息；若為侵害、強奪、逼迫，是當云何？

> 私を侵害しない者なら、殺そうとする心は消えるでしょう。しかし、もし侵害され、強奪され、迫害されたなら、そのときはどうすべきでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

應當量其輕重。若人殺己，先自思惟：「全戒利重？全身為重？破戒為失？喪身為失？」如是思惟已，知持戒為重，全身為輕。若苟免全身，身何所得？是身名為老、病、死藪，必當壞敗！若為持戒失身，其利甚重。

> 自分にとって何が重く何が軽いかを見極めるべきです。たとえば、誰かが自分を殺そうとしているとき、まずこう考えます。「戒を守り通すことの利益が重いのか、体を守ることのほうが重いのか。戒を破ることの損失が大きいのか、体を失うことの損失が大きいのか」と。こう考えた末に、戒を守ることのほうが重く、体を守ることは軽いと知るのです。かりに体を免れたとして、その体に何が得られるでしょうか。この体は老いと病と死の集まる場所であり、必ず壊れてしまうものです。戒を守るために体を失うなら、その利益ははかりしれません。

又復思惟：「我前後失身，世世無數，或作惡賊、禽獸之身，但為財利諸不善事；今乃得為持淨戒故，不惜此身，捨命持戒，勝於毀禁全身百千萬倍，不可為喻。如是定心，應當捨身以護淨戒。」

> また、このように考えた。「私はこれまで何度も生まれ変わり、その数は数えきれない。あるときは悪い盗賊となり、あるときは鳥や獣の身となり、ただ富や利益のためにさまざまな悪いことをしてきた。しかし今は、清らかな戒を守るために、この身を惜しむことなく、命を捨ててでも戒を守ることができる。これは、戒を破って身を全うするよりも、百千万倍も勝れており、たとえることもできない。このように心を定めて、清らかな戒を守るために身を捨てるべきである。」

如一須陀洹人，生屠殺家；年向成人，應當修其家業而不肯殺生。父母與刀并一口羊，閉著屋中而語之言：「若不殺羊，不令汝出、得見日月、生活飲食！」兒自思惟言：「我若殺此一羊，便當終為此業，豈以身故為此大罪？」便以刀自殺。父母開戶，見羊在一面立，兒已命絕。當自殺時，即生天上。

> ある須陀洹の人が、屠殺を生業とする家に生まれました。成人に近づき、家業を継ぐべき年頃になりましたが、殺生をしようとしませんでした。そこで両親は刀と一頭の羊を彼に与え、部屋に閉じ込めてこう言いました。「この羊を殺さなければ、外に出ることも、日や月を見ることも、食べ物や飲み物を得ることも許さない！」子はこう考えました。「もしこの一頭の羊を殺せば、これからずっとこの仕事を続けることになる。自分の身のために、どうしてこんな大きな罪を犯せようか。」そして、刀で自分自身の命を絶ちました。両親が戸を開けると、羊はそばに立っており、子はすでに息絶えていました。自らの命を絶ったその瞬間、彼は天の世界に生まれ変わったのです。

若如此者，是為不惜壽命，全護淨戒。

> このようにするならば、それは寿命を惜しまず、清らかな戒を完全に守ることです。

如是等義，是名不殺生戒。

> このような意味を持つものを、不殺生戒（ふせっしょうかい）と呼びます。

不與取者，知他物，生盜心，取物去離本處，物屬我，是名盜。若不作，是名不盜。

> 他人のものを盗むとは、他人の所有物だと知りながら、盗む心を起こして、その物を取り、本来の場所から離して自分のものにすることです。これを盗みといいます。もしそうしなければ、盗まないということになります。

其餘方便計挍，乃至手捉未離地者，名助盜法。

> そのほかの方法で計算したり、あるいは手に取ったものがまだ地面から離れていないものは、盗みを助ける方法と呼ばれます。

財物有二種：有屬他，有不屬他。取屬他物，是為盜罪。屬他物亦有二種：一者、聚落中，二者、空地。此二處物，盜心取，得盜罪。若物在空地，當撿挍知是物近誰國？是物應當有屬，不應取。

> 財物には二種類ある。他人に属するものと、属さないものとである。他人に属するものを取るのは、盗みの罪である。他人に属する物にもまた二種類ある。一つは集落の中にあるもの、二つは空き地にあるものである。この二つの場所の物を、盗む心で取れば、盗みの罪になる。もし物が空き地にあれば、よく調べて、その物がどの国に近いかを知るべきである。その物には属する者がいるはずであり、取ってはならない。

如毘尼中說種種不盜，是名不盜相。

> 毘尼（戒律）の中で説かれているように、さまざまな形で盗まないことが、不盗の相（盗まないことの本質）です。

問曰：

> お尋ねします。

不盜有何等利？

> 盗まないことには、どんな利益があるのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

人命有二種：一者、內，二者、外。

> 人の命には二つの側面があります。一つは内なる命、もう一つは外なる命です。

若奪財物，是為奪外命。何以故？命依飲食、衣被等故活，若劫若奪，是名奪外命。如偈說：

> 財物を奪うことは、外の命を奪うことです。なぜなら、命は飲食や衣服などによって支えられているからです。それを奪い取るなら、外の命を奪ったことになります。次の偈にもあるとおりです。

「一切諸眾生， 衣食以自活；若奪若劫取， 是名劫奪命。」

> すべての生きとし生けるものは、 衣食によって命をつないでいる。 それを奪い、あるいは搶い取るならば、 それは命を奪うことにほかならない。

以是事故，有智之人不應劫奪。

> ですから、知恵のある人は奪い取ってはなりません。

復次，當自思惟：「劫奪得物，以自供養，雖身充足，會亦當死；死入地獄，家室親屬，雖共受樂，獨自受罪，亦不能救。」已得此觀，應當不盜。

> 次に、自分自身でこう考えなさい。「他人から奪い取った物で自分を養い、たとえ身体が満たされても、いつかは必ず死ぬ。死後には地獄に落ちる。家族や親しい者たちはともに楽しみを受けていても、自分だけが罪を受けるのであり、彼らも救うことはできない。」このように観察できたら、盗みを犯してはならない。

復次，是不與取有二種：一者、偷，二者、劫。此二共名不與取。於不與取中，盜為最重。何以故？一切人以財自活，而或穿踰盜取，是最不淨。何以故？無力勝人，畏死盜取故。

> 次に、不与取（ふよしゅ）には二つの種類があります。一つは「盗み」、もう一つは「強奪」です。この二つを合わせて不与取といいます。不与取の中でも、盗みが最も重い罪とされます。なぜでしょうか。すべての人は財産によって生活しているのに、壁を破ったり垣根を越えたりして盗み取ることは、最も汚れた行為だからです。なぜでしょうか。力がなくて相手に勝てないため、死を恐れて盗み取るのです。

劫奪之中，盜為罪重，如偈說：

> 略奪が横行する世の中では、盗みは最も重い罪となります。次の偈にもあるとおりです。

「飢餓身羸瘦， 受罪大苦劇；他物不可觸， 譬如大火聚。若盜取他物， 其主泣懊惱，假使天王等， 猶亦以為苦。」

> 飢えに苦しみ、体はやせ細り、大きな苦しみの罰を受ける。 他人のものを触れることさえできない。まるで大火の塊のように。 もし他人のものを盗めば、その持ち主は泣き悲しむ。 たとえ天王のような者でも、これをもって苦しみとする。

殺生人罪雖重，然於所殺者是賊，偷盜人於一切有物人中賊。若犯餘戒，於異國中有不以為罪者；若偷盜人，一切諸國無不治罪。

> 殺生の罪は重いとはいえ、殺された相手を賊と見なすこともあります。しかし、盗みを働く者は、物を持つすべての人にとって賊となります。他の戒めを破った場合、別の国では罪とされないこともありますが、盗みを働く者は、どこの国でも罰せられないことはありません。

問曰：

> お尋ねします。

劫奪之人，今世有人讚美其健，於此劫奪，何以不作？

> 奪い取る人を、今の世でたくましいとほめる者がいる。それなら、どうして奪い取らないことがあろうか。

答曰：

> お答えしますと、

不與而盜，是不善相；劫盜之中，雖有差降，俱為不善。譬如美食雜毒，惡食雜毒，美惡雖殊，雜毒不異。亦如明闇蹈火，晝夜雖異，燒足一也。今世愚人，不識罪、福二世果報，無仁慈心，見人能以力相侵，強奪他財，讚以為強。諸佛賢聖，慈愍一切，了達三世殃禍不朽，所不稱譽。以是故，知劫盜之罪，俱為不善，善人行者之所不為。

> 他人のものを奪うことは、不善の行いです。強盗や盗みには軽いものと重いものの違いがあっても、すべて不善であることに変わりはありません。たとえば、おいしい食べ物に毒が混じっていても、まずい食べ物に毒が混じっていても、味の良し悪しは違っても毒であることは同じです。また、明るい所で火を踏んでも、暗い所で火を踏んでも、昼と夜の違いはあっても足を焼くことは同じです。今の世の愚かな人は、罪と福の二世の果報を知らず、慈しみの心もなく、人が力で他人を押さえつけ、財物を奪い取るのを見て、それを強いと褒めます。しかし、仏や賢い聖者はすべてを慈しみ、三世の災いが朽ちることなく続くことをはっきりと見通しておられるので、そのような行いを決して褒められません。ですから、奪い取る罪はすべて不善であり、善人が行うことではないと知るべきです。

如佛說：「不與取有十罪，何等為十？一者、物主常瞋；二者、重疑丹注云：重罪人疑；三者、非行時，不籌量；四者、朋黨惡人，遠離賢善；五者、破善相；六者、得罪於官；七者、財物沒入；八者、種貧窮業因緣；九者、死入地獄；十者、若出為人，勤苦求財，五家所共：若王、若賊、若火、若水、若不愛子用，乃至藏埋亦失。」

> 仏がこうおっしゃいました。「盗みには十の罪があります。その十とは何でしょうか。第一に、物の持ち主は常に怒ります。第二に、重い罪を犯した人は疑いを抱きます。第三に、行うべきでないときに、よく考えません。第四に、悪人とつるみ、賢く善い人から遠ざかります。第五に、善い行いを台無しにします。第六に、役所から罰せられます。第七に、財産を没収されます。第八に、貧しくなる原因をつくります。第九に、死後は地獄に落ちます。第十に、もし人として生まれても、苦労して財を求めながら、五つのものに奪われます。それは王、盗賊、火事、水害、そして愛さない子供に使われることであり、さらには隠して埋めておいても失ってしまいます。」

邪婬者，若女人為父母、兄弟、姊妹、夫主、兒子、世間法、王法守護，若犯者，是名邪婬。若有雖不守護，以法為守；云何法守？一切出家女人，在家受一日戒，是名法守。若以力，若以財，若誑誘；若自有妻受戒、有娠、乳兒、非道，如是犯者，名為邪婬。如是種種乃至以華鬘與婬女為要，如是犯者，名為邪婬。如是種種不作，名為不邪婬。

> 邪淫とは、女性が父母・兄弟・姉妹・夫・息子・世間の法・王法によって守られている場合に、それを犯すことを邪淫といいます。たとえ守られていなくても、法によって守られている場合があります。法による守りとは何か。すべての出家女性、在家で一日戒を受けた女性が、それにあたります。力によって、財によって、あるいは欺いて誘う場合。また、自分の妻であっても戒を受けている場合、妊娠中、授乳中、または道に外れた行為は、これを行えば邪淫といいます。このように種々の場合、たとえば花飾りを淫女に与えて約束するような場合も、これを行えば邪淫といいます。このような種々のことを行わないのを、不邪淫といいます。

問曰：

> お尋ねします。

人守人瞋，法守破法，應名邪婬；人自有妻，何以為邪？

> 人が自分を守るために他人を怒らせ、法を守るふりをして法を破るなら、それは邪淫と呼ばれるべきです。人が自分の妻を持っているのに、どうして邪淫になるのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

既聽受一日戒，墮於法中；本雖是婦，今不自在；過受戒時，則非法守。有娠婦人，以其身重，厭本所習，又為傷娠。乳兒時婬其母，乳則竭；又以心著婬欲，不復護兒。非道之處，則非女根，女心不樂，強以非理，故名邪婬。是事不作，名為不邪婬。

> 一日戒を聞き受けて、法の中に堕ちた。もともとは婦であったが、今は自在ではない。戒を受ける時を過ぎれば、それは法の守りではない。妊娠した婦人は、その身が重いために、もとの習いを厭い、また胎を傷つける。乳児に乳を与えている時、その母と婬すれば、乳は竭きる。また心が婬欲に著けば、もはや子を護らない。道ならざるの処は、すなわち女根にあらず、女の心は楽しまず、強いて非理をもってする、ゆえに邪婬と名づける。この事を作さなければ、不邪婬と名づける。

問曰：

> お尋ねします。

若夫主不知、不見、不惱，他有何罪？

> もし主人が知らず、見ず、心を乱していなければ、その者に何の罪がありましょうか。

答曰：

> お答えしますと、

以其邪故；既名為邪，是為不正，是故有罪。

> 間違った行いであるがゆえに、それは邪(よこしま)なものであり、正しくないため、罪となるのです。

復次，此有種種罪過，夫妻之情，異身同體，奪他所愛，破其本心，是名為賊。復有重罪，惡名醜聲，為人所憎；少樂多畏，或畏刑戮，又畏夫主傍人所知；多懷妄語，聖人所呵，罪中之罪丹注云：婬罪，邪婬破戒故，名罪中之罪。

> さらに、これにはさまざまな罪過がある。夫婦の情というものは、別々の身体でありながら一体のように結ばれ、他人が愛するものを奪い、その人の本心を壊す。これを賊と呼ぶ。また重い罪があり、悪い評判や醜い噂によって人から憎まれる。楽しみは少なく恐れは多く、あるいは刑罰を恐れ、また夫や他の人に知られることを恐れる。偽りの言葉を多く抱くことは、聖者に責められるところであり、罪の中の罪である<note>丹の注に云く：婬の罪は、邪淫が戒を破るゆえに、罪の中の罪と名づける。</note>。

復次，婬妷之人，當自思惟：「我婦他妻，同為女人，骨肉情態，彼此無異，而我何為橫生惑心，隨逐邪意？邪婬之人，破失今世、後世之樂好名善譽、身心安樂，今世得也；生天、得道、涅槃之利，後世得也。」

> また、淫らな行いをする人は、自らこう考えるべきです。「我が妻も他人の妻も、同じ女人であり、骨や肉のありよう、姿かたちに互いの違いはない。それなのに、なぜ私はむやみに心を惑わし、邪な心に従い続けるのか。邪淫の人は、現世と来世の楽しみを壊し失ってしまう<note>良い名声と誉れ、心身の安楽は、現世で得られるもの。天に生まれ、道を得、涅槃に至る利益は、来世で得られるもの。</note>。」

復次，迴己易處，以自制心：「若彼侵我妻，我則忿恚；我若侵彼，彼亦何異？」恕己自制，故應不作。

> 次に、自分の立場を相手の立場に置き換えて、自分の心を制します。「もし相手が私の妻を奪ったら、私は怒り悲しむだろう。もし私が相手の妻を奪ったら、相手も同じではないか。」自分を相手に置き換えて怒りを抑えるべきですから、奪ってはなりません。

復次，如佛所說：「邪婬之人，後墮劍樹地獄，眾苦備受；得出為人，家道不穆，常值婬婦、邪僻殘賊。邪婬為患，譬如蝮蛇，亦如大火，不急避之，禍害將及！」如佛所說：「邪婬有十罪：一者、常為所婬夫主欲危害之；二者、夫婦不穆，常共鬪諍；三者、諸不善法日日增長，於諸善法日日損減；四者、不守護身，妻子孤寡；五者、財產日耗；六者、有諸惡事，常為人所疑；七者、親屬、知識所不愛憙；八者、種怨家業因緣；九者、身壞命終，死入地獄；十者、若出為女人，多人共夫；若為男子，婦不貞潔。」

> 次に、仏が説かれたとおりです。「邪淫を行う人は、やがて剣樹地獄に堕ちて、あらゆる苦しみを受ける。そこを抜け出して人として生まれても、家庭は和らがず、いつも淫らな女や邪な者、人を傷つける者に出会う。邪淫の害は、まむしのようであり、大火のようでもある。すぐに避けなければ、災いが及ぶであろう。」 仏が説かれたとおりです。「邪淫には十の罪がある。一つには、いつも淫らな相手の夫から危害を加えられようとされる。二つには、夫婦が和らがず、いつも争う。三つには、さまざまな不善の法が日ごとに増え、善い法は日ごとに減っていく。四つには、身を守ることができず、妻子が孤寡となる。五つには、財産が日ごとに減っていく。六つには、悪い出来事があると、いつも人から疑われる。七つには、親族や知人から愛され好かれない。八つには、怨みの家を生む因縁を種まく。九つには、身が壊れ命が終わると、死んで地獄に堕ちる。十には、もし女として生まれれば、多くの人と夫を共にすることになり、もし男として生まれれば、妻は貞潔でなくなる。」

如是等種種因緣不作，是名不邪婬。

> このようないろいろな理由から、そうした行為をしないことを、邪淫を犯さないということです。

妄語者，不淨心，欲誑他，覆隱實，出異語，生口業，是名妄語。妄語之罪，從言聲相解生；若不相解，雖不實語，無妄語罪。是妄語，知言不知，不知言知；見言不見，不見言見；聞言不聞，不聞言聞——是名妄語。若不作，是名不妄語。

> 妄語とは、汚れた心で他人を欺き、真実を隠して異なる言葉を口にし、口の業を生じさせることです。これが妄語です。妄語の罪は、言葉の意味が相手に理解されて初めて生じます。もし相手に意味が通じなければ、たとえ不実なことを言っても妄語の罪にはなりません。この妄語とは、知っているのに知らないと言い、知らないのに知っていると言い、見たのに見ていないと言い、見ていないのに見たと言い、聞いたのに聞いていないと言い、聞いていないのに聞いたと言うことです。これが妄語です。もしこのようなことをしなければ、それは不妄語といいます。

問曰：

> お尋ねします。

妄語有何等罪？

> 嘘をつくことには、どのような罪があるのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

妄語之人，先自誑身，然後誑人；以實為虛，以虛為實，虛實顛倒，不受善法。譬如覆瓶，水不得入。妄語之人，心無慚愧，閉塞天道、涅槃之門。觀知此罪，是故不作。

> 嘘をつく人は、まず自分自身を欺き、それから他人を欺きます。実を虚とし、虚を実として、虚実が逆転し、善い法を受け入れることができません。たとえば、伏せた瓶には水が入らないようなものです。嘘をつく人には心に慚愧がなく、天道と涅槃の門を閉ざしてしまいます。この罪をよく見知っているからこそ、嘘をつかないのです。

復次，觀知實語，其利甚廣，實語之利，自從己出，甚為易得，是為一切出家人力。如是功德，居家、出家人，共有此利，善人之相。

> また、真実の言葉の利益は非常に広く、真実の言葉の利益は自分自身から生まれ、とても得やすいものであり、これはすべての出家者の力です。このような功德は、在家の人も出家の人も共に持つ利益であり、善人の姿です。

復次，實語之人，其心端直；其心端直，易得免苦。譬如稠林曳木，直者易出。

> また、真実を語る人は心がまっすぐです。心がまっすぐであれば、苦しみから逃れやすくなります。たとえば、密林の中で木を引くとき、まっすぐな木は引き出しやすいようなものです。

問曰：

> お尋ねします。

若妄語有如是罪，人何以故妄語？

> もし嘘をつくことにこのような罪があるのなら、人はなぜ嘘をつくのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

有人愚癡少智，遭事苦厄，妄語求脫；不知事發今世得罪，不知後世有大罪報。

> 愚かな人は智慧が足りないため、困難な状況に直面すると、嘘をついて逃れようとします。しかし、その行いが現世で罪を得ることを知らず、来世で大きな罪の報いを受けることも知りません。

復有人雖知妄語罪，慳貪、瞋恚、愚癡多故，而作妄語。

> また、ある人は妄語の罪を知っていながらも、物惜しみや貪り、怒り、愚かさが強いために、妄語を犯してしまうことがあります。

復有人雖不貪恚，而妄證人罪，心謂實爾，死墮地獄。

> また、ある人は貪りや怒りはないけれども、他人の罪を偽って証言し、心の中でそれが真実だと思い込んでいると、死後、地獄に堕ちます。

如提婆達多弟子俱伽離，常求舍利弗、目揵連過失。是時，二人夏安居竟，遊行諸國，值天大雨，到陶作家，宿盛陶器舍。此舍中先有一女人在闇中宿，二人不知。此女人其夜夢失不淨，晨朝趣水澡洗。是時，俱伽離偶行見之。俱伽離能相，知人交會情狀，而不知夢與不夢。

> 提婆達多の弟子である倶伽離は、いつも舎利弗と目揵連の欠点を探していました。ちょうどそのころ、二人は夏安居を終えて諸国を巡り歩いていましたが、激しい雨に遭い、陶器職人の家にたどり着いて、陶器を入れる小屋に泊まることにしました。その小屋には、先に一人の女が暗がりで寝ていましたが、二人はそれに気づきませんでした。その夜、女は夢の中で不浄を漏らし、朝になると水場へ向かって体を洗いに行きました。そこへ倶伽離がたまたま通りかかって、この女を見かけました。倶伽離は人相見に長けており、男女が交わったときの様子を見抜くことができましたが、それが夢だったのかどうかまでは分かりませんでした。

是時，俱伽離顧語弟子：「此女人昨夜與人情通。」即問女人：「汝在何處臥？」

> そのとき、俱伽離（くがり）は弟子たちを振り返って言いました。「この女は昨夜、男と通じていた。」そして女に問いました。「お前はどこで寝ていたのか。」

答言：「我在陶師屋中寄宿。」

> 「陶芸師の家に泊めてもらっています」と答えました。

又問：「共誰？」

> そこでまた問いました。「誰と一緒なのですか。」

答言：「二比丘。」

> 「二人の比丘です」とお答えになりました。

是時，二人從屋中出，俱伽離見已，又以相驗之，意謂二人必為不淨。先懷嫉妬，既見此事，遍諸城邑聚落告之；次到祇洹唱此惡聲。於是中間，梵天王來欲見佛。佛入靜室，寂然三昧；諸比丘眾，亦各閉房三昧，皆不可覺。

> そこで、二人が家の中から出てくると、俱伽離はこれを見て、またその様子から二人はきっと不浄の行いをしたに違いないと思い込んだ。もともと嫉妬の心を抱いていた俱伽離は、この出来事を見ると、あちこちの町や村へ行って言いふらし、次には祇洹精舎にまで来て、この悪口を大声で唱えた。ちょうどその頃、梵天王が仏に会おうとやって来た。しかし仏は静かな部屋に入って、静かに三昧に入っておられ、多くの比丘たちもそれぞれの部屋にこもって三昧に入っており、誰も気づくことができなかった。

即自思惟：「我故來見佛，佛入三昧，且欲還去。」

> そこでこう思った。「私はわざわざ仏に会いに来たのに、仏は三昧に入っておられる。ひとまず帰ろう。」

即復念言：「佛從定起，亦將不久，於是小住。」到俱伽離房前，扣其戶而言：「俱伽離！俱伽離！舍利弗、目揵連心淨柔軟，汝莫謗之而長夜受苦！」

> そこでまたこう思いました。「仏が定からお立ちになるのも、もうすぐだろう」と。そこでしばらく待ちました。そして俱伽離の部屋の前に行き、戸を叩いて言いました。「俱伽離よ、俱伽離よ。舎利弗と目揵連の心は清らかで柔らかい。彼らを謗って、長く苦しみを受けてはならない。」

俱伽離問言：「汝是何人？」

> 倶伽離が尋ねました。「あなたは誰ですか？」

答言：「我是梵天王。」

> 「私は梵天王です」とお答えになりました。

問言：「佛說汝得阿那含道，汝何以故來？」

> 「仏があなたは阿那含の道を得たとおっしゃったのに、なぜここに来たのですか」と尋ねた。

梵王心念而說偈言：

> 梵天が心の中で念じて、偈を唱えました。

「無量法欲量， 不應以相取；無量法欲量， 是野人覆沒！」

> 「無量の法を量ろうとして、相をもって取るべきではない。 無量の法を量ろうとするのは、教えを知らぬ者が滅びに沈むことだ。」

說此偈已，到佛所，具說其事。

> この偈を説き終えて、仏のもとへ行き、その出来事を詳しく話しました。

佛言：「善哉！善哉！快說此偈！」爾時，世尊復說此偈：

> 仏陀は言われました。「すばらしい、すばらしい。よくこの詩を説いたものだ。」そのとき、世尊は再びこの詩を説かれました。

「無量法欲量， 不應以相取；無量法欲量， 是野人覆沒！」

> 「無量の法を量ろうとして、相をもって取るべきではない。 無量の法を量ろうとするのは、教えを知らぬ者が滅びに沈むことだ。」

梵天王聽佛說已，忽然不現，即還天上。爾時，俱迦離到佛所，頭面禮佛足，却住一面。

> 梵天王は仏の教えを聞き終えると、忽然と姿を消し、天の世界へ戻っていきました。そのとき、クカリが仏のもとへやって来て、頭を地につけて仏の足を礼拝し、少し離れたところに立ちました。

佛告俱伽離：「舍利弗、目揵連心淨柔軟，汝莫謗之而長夜受苦！」

> 仏は倶伽離に告げられた。「舎利弗と目揵連の心は清らかで柔らかい。あなたは彼らを謗って、長く苦しみを受けてはならない。」

俱伽離白佛言：「我於佛語不敢不信，但自目見了了，定知二人實行不淨。」佛如是三呵，俱伽離亦三不受，即從坐起而去。還其房中，舉身生瘡，始如芥子，漸大如豆、如棗、如㮈，轉大如苽，翕然爛壞，如大火燒，叫喚嘷哭，其夜即死，入大蓮華地獄。

> 倶伽離は仏に申し上げた。「私は仏のお言葉を信じないわけではありません。しかし、この目ではっきりと見たのです。二人が実際に不清らかな行いをしたと、確かに知っています。」仏がこのように三度いさめても、倶伽離も三度受け入れず、その場から立ち上がって去った。自分の部屋に戻ると、全身にできものが生じ、初めは芥子粒ほどだったが、しだいに豆ほど、棗ほど、㮈ほどに大きくなり、さらに瓜ほどに大きくなって、たちまち崩れ爛れ、大火に焼かれるように叫び泣き、その夜のうちに死んで、大蓮華地獄に堕ちた。

有一梵天夜來白佛：「俱伽離已死。」

> ある梵天が夜に仏のもとへ来て、「俱伽離はすでに亡くなりました」と告げました。

復有一梵天言：「墮大蓮華地獄。」

> また、ある梵天がこう言いました。「大蓮華地獄に堕ちる。」

其夜過已，佛命僧集而告之言：「汝等欲知俱伽離所墮地獄壽命長短不？」

> その夜が過ぎると、仏は僧たちを集めるよう命じて、こう告げられました。「あなたがたちは、俱伽離が堕ちた地獄の寿命の長さを知りたいと思うか。」

諸比丘言：「願樂欲聞！」

> 比丘たちは言いました。「ぜひお聞きしたいと願っております！」

佛言：「有六十斛胡麻，有人過百歲取一胡麻，如是至盡，阿浮陀地獄中壽故未盡。二十阿浮陀地獄中壽，為一尼羅浮陀地獄中壽；如二十尼羅浮陀地獄中壽，為一阿羅邏地獄中壽；二十阿羅邏地獄中壽，為一阿婆婆地獄中壽；二十阿婆婆地獄中壽，為一休休地獄中壽；二十休休地獄中壽，為一漚波羅地獄中壽；二十漚波羅地獄中壽，為一分陀梨迦地獄中壽；二十分陀梨迦地獄中壽，為一摩呵波頭摩地獄中壽。俱伽離墮是摩呵波頭摩地獄中，出其大舌，以百釘釘之，五百具犁耕之。」

> 仏がおっしゃいました。「六十斛（こく）の胡麻（ごま）があるとします。人が百年かけて一粒ずつ取り除いていき、すべて取り尽くしても、阿浮陀地獄の寿命はまだ尽きません。阿浮陀地獄の寿命の二十倍が、一つの尼羅浮陀地獄の寿命です。尼羅浮陀地獄の寿命の二十倍が、一つの阿羅邏地獄の寿命です。阿羅邏地獄の寿命の二十倍が、一つの阿婆婆地獄の寿命です。阿婆婆地獄の寿命の二十倍が、一つの休休地獄の寿命です。休休地獄の寿命の二十倍が、一つの漚波羅地獄の寿命です。漚波羅地獄の寿命の二十倍が、一つの分陀梨迦地獄の寿命です。分陀梨迦地獄の寿命の二十倍が、一つの摩呵波頭摩地獄の寿命です。俱伽離はこの摩呵波頭摩地獄に堕ち、その大きな舌を出し、百本の釘を打ち込まれ、五百台の鋤で耕されています。」

爾時，世尊說此偈言：

> そのとき、世尊はこの詩を説かれました。

「夫士之生， 斧在口中； 所以斬身，由其惡言。 應呵而讚， 應讚而呵；口集諸惡， 終不見樂！心、口業生惡， 墮尼羅浮獄；具滿百千世， 受諸毒苦痛。若生阿浮陀， 具滿三十六；別更有五世， 皆受諸苦毒。心依邪見， 破賢聖語； 如竹生實，自毀其形。」

> 人は生まれたならば、口の中に斧を持っているようなものだ。 その斧が自分自身を斬るのは、悪い言葉を口にするからである。 褒めるべきときに叱り、叱るべきときに褒める。 その口がさまざまな悪を積み重ねるなら、ついに楽しみを得ることはない。 心と口の業が悪を生み、ニラヴァ地獄に堕ちる。 百千の世を満たすほどの長きにわたり、さまざまな毒の苦しみを受ける。 アフダ地獄に生まれるならば、三十六の世を満たす。 さらに別に五つの世があり、いずれももろもろの苦毒を受ける。 心が邪見に依り、賢聖の言葉を壊す。 それは竹が実を生じて、自らその姿を滅ぼすようなものである。

如是等心生疑謗，遂至決定，亦是妄語。妄語人，乃至佛語而不信受，受罪如是！

> このように心に疑いやそしりを生じ、ついには決めつけてしまうのも、また偽りの言葉である。偽りを語る者は、仏の言葉さえ信じ受け入れない。その罪はこのとおりである。

以是故，不應妄語。

> ですから、嘘をついてはいけません。

復次，如佛子羅睺羅，其年幼稚，未知慎口。人來問之：「世尊在不？」詭言：「不在。」若不在時，人問羅睺羅：「世尊在不？」詭言：「佛在。」有人語佛；佛語羅睺羅：「澡槃取水，與吾洗足！」洗足已，語羅睺羅：「覆此澡槃！」如勅即覆。佛言：「以水注之！」注已，問言：「水入中不？」答言：「不入！」佛告羅睺羅：「無慚愧人，妄語覆心，道法不入，亦復如是！」

> また、仏の子である羅睺羅は、年が幼く、言葉を慎むことをまだ知らなかった。人が来て「世尊はおられますか」と尋ねると、「おられません」と偽って答えた。世尊がおられないときに、人が羅睺羅に「世尊はおられますか」と尋ねると、「仏はおられます」と偽って答えた。ある人がこのことを仏に伝えた。仏は羅睺羅に言われた。「足洗いの器に水を取って、私の足を洗いなさい。」足を洗い終えると、羅睺羅に言われた。「この足洗いの器を伏せなさい。」言われたとおりに伏せた。仏は言われた。「そこに水を注ぎなさい。」注いだ後、問われた。「水は中に入りましたか。」「入りません」と答えた。仏は羅睺羅に告げられた。「恥じる心のない者、嘘をついて心を覆い隠す者には、道の法が入らない。これと同じである。」

如佛說：「妄語有十罪，何等為十？一者、口氣臭；二者、善神遠之，非人得便；三者、雖有實語，人不信受；四者、智人語議，常不參豫；五者、常被誹謗，醜惡之聲，周聞天下；六者、人所不敬，雖有教勅，人不承用；七者、常多憂愁；八者、種誹謗業因緣；九者、身壞命終，當墮地獄；十者、若出為人，常被誹謗。」

> 仏がおっしゃるには、「妄語には十の罪がある。その十とは何か。第一に、口のにおいが臭くなる。第二に、善い神々は遠ざかり、悪しき者たちがつけ込む。第三に、たとえ真実の言葉を語っても、人は信じて受け入れない。第四に、賢い人々の語らいに、いつも加われない。第五に、いつも誹謗され、醜い悪評が天下に広まる。第六に、人から敬われず、教え諭しても、人は従わない。第七に、いつも憂いに悩む。第八に、誹謗の業の因縁を積み重ねる。第九に、身が壊れ命が終わると、地獄に堕ちる。第十に、たとえ人として生まれても、いつも誹謗される。」

如是種種不作，是為不妄語，名口善律儀。

> このように、さまざまなことをしないこと、これが不妄語（うそをつかないこと）であり、口の善き律儀（よい行いの規範）と呼ばれます。

不飲酒者，酒有三種：一者、穀酒，二者、果酒，三者、藥草酒。果酒者，蒱桃、阿梨咤樹果，如是等種種，名為果酒。藥草酒者，種種藥草，合和米麴、甘蔗汁中，能變成酒；同蹄畜乳酒，一切乳熱者，可中作酒。略說若乾、若濕，若清、若濁，如是等能令人心動放逸，是名為酒。一切不應飲，是名不飲酒。

> お酒を飲まないことについて。お酒には三つの種類があります。一つ目は穀物酒、二つ目は果実酒、三つ目は薬草酒です。果実酒とは、ぶどうや阿梨咤樹の実など、さまざまな果物から造られたものをいいます。薬草酒とは、いろいろな薬草を米麹や甘蔗の汁と混ぜ合わせて、酒に変えたものです。また、蹄のある家畜の乳から造る酒もあり、すべての乳を温めて発酵させれば酒になります。簡単に言えば、乾いたものも湿ったものも、澄んだものも濁ったものも、こうしたものは人の心を動かして気ままにさせてしまう。これを酒といいます。すべて飲んではいけません。これが酒を飲まないということです。

問曰：

> お尋ねします。

酒能破冷益身，令心歡喜，何以不飲？

> 酒は体を温めて健康を助け、心を楽しくしてくれる。どうして飲まないのか。

答曰：

> お答えしますと、

益身甚少，所損甚多，是故不應飲。譬如美飲，其中雜毒，是何等毒？

> 体に良いことはとても少なく、損なうことはとても多い。だから飲んではいけない。たとえば美味しい飲み物に毒が混ざっているようなものだ。それはどんな毒か。

如佛語難提迦優婆塞：「酒有三十五失。何等三十五？一者、現世財物虛竭，何以故？人飲酒醉，心無節限，用費無度故；二者、眾病之門；三者、鬪諍之本；四者、裸露無恥；五者、醜名惡聲，人所不敬；六者、覆沒智慧；七者、應所得物而不得，已所得物而散失；八者、伏匿之事，盡向人說；九者、種種事業，廢不成辦；十者、醉為愁本，何以故？醉中多失，醒已慚愧、憂愁；十一者、身力轉少；十二者、身色壞；十三者、不知敬父；十四者、不知敬母；十五者、不敬沙門；十六者、不敬婆羅門；十七者、不敬伯、叔及尊長，何以故？醉悶怳惚無所別故；十八者、不尊敬佛；十九者、不敬法；二十者、不敬僧；二十一者、朋黨惡人；二十二者、踈遠賢善；二十三者、作破戒人；二十四者、無慚、無愧；二十五者、不守六情；二十六者、縱色放逸；二十七者、人所憎惡，不喜見之；二十八者、貴重親屬及諸知識所共擯棄；二十九者、行不善法；三十者、棄捨善法；三十一者、明人、智士所不信用，何以故？酒放逸故；三十二者、遠離涅槃；三十三者、種狂癡因緣；三十四者、身壞命終，墮惡道泥梨中；三十五者、若得為人，所生之處，常當狂騃。」如是等種種過失，是故不飲。

> 仏が難提迦（ナンディカ）という在家信者にこう説かれた。「酒には三十五の過ちがある。その三十五とは何か。 一つ目、現世で財物を失う。なぜか。人が酒を飲んで酔えば、心に節度がなくなり、使うことに限度がなくなるからである。 二つ目、さまざまな病の入口となる。 三つ目、争いのもととなる。 四つ目、裸になって恥じない。 五つ目、醜い評判と悪い噂が立ち、人に敬われない。 六つ目、智慧を覆い隠してしまう。 七つ目、得るはずのものを得られず、すでに得たものを失う。 八つ目、隠しておきたいことを、すべて人に話してしまう。 九つ目、さまざまな仕事が、滞って成し遂げられない。 十つ目、酔いは愁いのもととなる。なぜか。酔っているときに多くの過ちを犯し、覚めてから恥じ、憂えるからである。 十一、体力が次第に減る。 十二、身体の色つやが損なわれる。 十三、父を敬うことを知らない。 十四、母を敬うことを知らない。 十五、沙門（修行者）を敬わない。 十六、婆羅門を敬わない。 十七、伯父や叔父、目上の人を敬わない。なぜか。酔ってぼんやりし、何も見分けがつかないからである。 十八、仏を敬わない。 十九、法を敬わない。 二十、僧を敬わない。 二十一、悪人とつるむ。 二十二、賢く善い人から遠ざかる。 二十三、戒を破る者となる。 二十四、慚（はじ）る心も愧（はずかし）める心もなくなる。 二十五、六つの感覚器官（六情）を守らない。 二十六、色欲にふけり、放逸になる。 二十七、人に憎まれ、会うことを喜ばれない。 二十八、大切な親族や友人たちからも捨てられる。 二十九、不善の行いをする。 三十、善い行いを捨てる。 三十一、賢明な人や知恵のある人から信用されない。なぜか。酒によって放逸になるからである。 三十二、涅槃から遠ざかる。 三十三、狂気と愚かさの原因をつくる。 三十四、身体が壊れ命が終わると、悪道である地獄に堕ちる。 三十五、たとえ人として生まれても、生まれるところではいつも狂い愚かである。 このようなさまざまな過ちがあるからこそ、酒を飲んではならない。」

如偈說：

> 次のように偈で説かれています。

「酒失覺知相， 身色濁而惡，智心動而亂， 慚愧已被劫。失念增瞋心， 失歡毀宗族；如是雖名飲， 實為飲死毒。不應瞋而瞋， 不應笑而笑，不應哭而哭， 不應打而打，不應語而語， 與狂人無異；奪諸善功德， 知愧者不飲。」

> お酒を飲むと、正しい判断力を失い、 顔色は濁って醜くなる。 知恵の心は揺れ動いて乱れ、 恥じる心はすっかり奪われてしまう。 気づきを失えば怒りが増し、 喜びも失い、一族の名も傷つける。 これはただの飲み物に見えても、 実は死の毒を飲んでいるようなものだ。 怒るべきでないのに怒り、 笑うべきでないのに笑い、 泣くべきでないのに泣き、 打つべきでないのに打ち、 言うべきでないことを言う—— それは狂人と何も変わらない。 あらゆる善い功德を奪い去るのだから、 恥じる心のある人は飲まない。

如是四罪不作，是身善律儀；妄語不作是口善律儀；名為優婆塞五戒律儀。

> この四つの罪を犯さないことが身体の善き戒律であり、嘘をつかないことが言葉の善き戒律です。これが優婆塞の五戒の戒律です。

問曰：

> お尋ねします。

若八種律儀及淨命，是名為戒；何以故優婆塞於口律儀中無三律儀及淨命？

> 八つの戒律と清らかな生活を守ることが、戒と呼ばれます。なぜなら、在家信者には口に関する戒律の中で三つの戒律と清らかな生活が説かれていないからです。

答曰：

> お答えしますと、

白衣居家，受世間樂，兼修福德，不能盡行戒法，是故佛令持五戒。

> 在家の白い服を着た人々は、世間の楽しみを味わいながらも、功徳を積むことを志しています。しかし、戒律のすべてを守り通すことは難しいため、仏は五戒を守るように教えられました。

復次，四種口業中，妄語最重。

> 次に、四つの口の業の中で、嘘をつくことが最も重いものです。

復次，妄語心生故作；餘者或故作，或不故作。

> また、嘘をつくことは心に思ってわざとするものである。その他のものは、わざとする場合もあれば、わざとしない場合もある。

復次，但說妄語，已攝三事。

> さらに、嘘をつくことを言えば、すでに三つの事柄を含んでいる。

復次，諸善法中，實為最大；若說實語，四種正語皆已攝得。

> 次に、もろもろの善い教えの中で、真実の言葉は最も大切です。真実の言葉を話せば、四つの正しい言葉はすべていただかれているのです。

復次，白衣處世，當官理務，家業作使，是故難持不惡口法。

> 次に、在家の者が世の中で生活し、役職について政務を処理し、家業に従事していると、悪口を言わないという教えを守るのは難しいのです。

妄語故作，事重故不應作。

> 嘘をつくことは、故意に行うものであり、その罪が重いからこそ、してはならないのです。

是五戒有五種受，名五種優婆塞：一者、一分行優婆塞，二者、少分行優婆塞，三者、多分行優婆塞，四者、滿行優婆塞，五者，斷婬優婆塞。

> 五戒には五つの受け方があります。それによって五種の優婆塞（在家の信者）が生まれます。第一に、一分だけ戒を守る優婆塞。第二に、少しだけ戒を守る優婆塞。第三に、多く戒を守る優婆塞。第四に、すべての戒を守る優婆塞。第五に、婬を断った優婆塞です。

一分行者，於五戒中受一戒，不能受持四戒；少分行者，若受二戒、若受三戒；多分行者，受四戒；滿行者，盡持五戒；斷婬者，受五戒已，師前更作自誓言：我於自婦不復行婬。

> 一分の行者とは、五戒のうち一つだけを受けて、残りの四つを受持できない者のことです。少分の行者とは、二つか三つを受ける者のことです。多分の行者とは、四つを受ける者のことです。満分の行者とは、五戒をすべて持つ者のことです。婬を断つ者とは、五戒を受けた後、師の前でさらに自ら誓いを立てる者のことです。「私は自分の妻と今後、婬を行うことはありません」と。

是名五戒。如佛偈說：

> これが五戒と呼ばれるものです。佛の偈に説かれているとおりです。

「不殺亦不盜， 亦不有邪婬，實語不飲酒， 正命以淨心。若能行此者， 二世憂畏除，戒福恒隨身， 常與天人俱。世間六時華， 榮曜色相發，以此一歲華， 天上一日具。天樹自然生， 花鬘及瓔珞，丹葩如燈照， 眾色相間錯。天衣無央數， 其色若干種，鮮白映天日， 輕密無間壟；金色映繡文， 斐亹如雲氣，如是上妙服， 悉從天樹出。明珠天耳璫， 寶𤦲曜手足，隨心所好愛， 亦從天樹出。金華琉璃莖， 金剛為華鬚，柔軟香芬熏， 悉從寶池出。琴瑟箏箜篌， 七寶為挍飾，器妙故音清， 皆亦從樹出。波󰖊質妬樹， 天上樹中王，在彼歡喜園， 一切無有比。持戒為耕田， 天樹從中出，天廚甘露味， 飲食除飢渴。天女無監礙， 亦無妊身難，嬉怡縱逸樂， 食無便利患。持戒常攝心， 得生自恣地，無事亦無難， 常得肆樂志。諸天得自在， 憂苦不復生，所欲應念至， 身光照幽冥。如是種種樂， 皆由施與戒，若欲得此報， 當勤自勉勵！」

> 殺さず盗まず、邪な淫らな行いもせず、 真実を語り酒も飲まず、正しい生活を清らかな心で行う。 これを行えるなら、この世とあの世の憂いと恐れは除かれ、 戒めの功徳は常に身に伴い、常に天人とともにいる。 世間の六時の花は、栄えて輝き色を現すが、 この一年の花を、天上では一日で備える。 天の樹は自然に生じ、花の鬘や瓔珞、 赤い花は灯のように照り、さまざまな色が入り交じる。 天の衣は数えきれず、その色は幾種類もあり、 鮮やかな白は天の日を映し、軽く密で隙間もない。 金色は刺繍の文様を映し、美しく雲気のようであり、 このような最上の衣は、すべて天の樹から出る。 明珠の天の耳飾り、宝石は手足に輝き、 心の好むままに愛するものも、また天の樹から出る。 金華に琉璃の茎、金剛を花の蕊とし、 柔らかく香りが薫るのは、すべて宝の池から出る。 琴、瑟、箏、箜篌は、七宝で飾られ、 器が優れているゆえに音は清らかで、これもすべて樹から出る。 波質妬樹は、天の樹の中の王であり、 かの歓喜園にあって、すべて比べるものがない。 戒を守ることは耕田のごとく、天の樹はそこから生じ、 天の厨の甘露の味は、飲食して飢えと渇きを除く。 天女は妨げもなく、また妊婦の苦しみもなく、 嬉しく楽しみ気ままに遊び、食べても排泄の患いがない。 戒を守り常に心を収めれば、自恣の地に生まれ、 何事もなく難もなく、常に存分に心を楽しむことができる。 諸天は自在を得て、憂いと苦しみは再び生じず、 欲するものは念じるままに至り、その身の光は幽冥を照らす。 このようなさまざまな楽しみは、すべて施しと戒による。 もしこの報いを得たいと望むなら、努めて自ら励むべきである。

問曰：

> お尋ねします。

今說尸羅波羅蜜，當以成佛，何以故乃讚天福？

> ここで戒律の完成（尸羅波羅蜜）を説き、それが成仏につながるはずなのに、なぜ天の福徳を褒めているのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

佛言三事必得報果不虛：布施得大富，持戒生好處，修定得解脫。若單行尸羅，得生好處；若修定、智慧、慈悲和合，得三乘道。今但讚持戒現世功德，名聞、安樂後世得報，如偈所讚。譬如小兒，蜜塗苦藥，然後能服；今先讚戒福，然後人能持戒。能持戒已，立大誓願，得至佛道——是為尸羅生尸羅波羅蜜。

> 仏がおっしゃいました。三つの行いは必ず報いの果てを得て、虚しいことはありません。布施を行えば大きな富を得、戒を守ればよいところに生まれ、定を修めれば解脱を得ます。もし戒だけを行えば、よいところに生まれることができます。もし定と智慧と慈悲を合わせて修めれば、三乗の道を得ることができます。今ここではただ戒を守る現世の功德、すなわち名声と安楽、そして後世に得る報いを讃えているのであり、偈で讃えられているとおりです。たとえば小さな子どものように、苦い薬に蜜を塗ってからでなければ飲めません。今もまず戒の福を讃え、その後に人々は戒を守ることができるのです。戒を守ることができたならば、大きな誓願を立て、仏の道に至ることができます——これがすなわち、戒から戒波羅蜜が生まれるということです。

又以一切人皆著樂，世間之樂天上為最。若聞天上種種快樂，便能受行尸羅；後聞天上無常，厭患心生，能求解脫；更聞佛無量功德，若慈悲心生，依尸羅波羅蜜得至佛道。

> また、すべての人が喜びに執着しているため、世間の喜びの中では天上の楽が最も勝れていると説かれる。もし天上のさまざまな楽しみを聞けば、戒律を守り実践することができ、後に天上も無常であると聞けば、厭い離れたい心が生じて解脱を求め、さらに仏の無量の功徳を聞けば、慈悲の心が生じ、戒律の完成によって仏の道に至ることができるのである。

以是故，雖說尸羅報無咎。

> ですから、戒を守ることで得られる報いは、決して悪いものではありません。

問曰：

> お尋ねします。

白衣居家，唯此五戒，更有餘法耶？

> 在家の白い服を着た人にとって、この五戒だけでしょうか、それともほかにも法がありますか。

答曰：

> お答えしますと、

有一日戒，六齋日持，功德無量；若十二月一日至十五日，受持此戒，其福甚多。

> 一日だけ戒を守り、六斎日にはこれを保つならば、功德は量り知れません。もし十二月一日から十五日まで、この戒を受け持つならば、その福はとても大きいのです。

問曰：

> お尋ねします。

云何受一日戒？

> 一日の戒をどのように受けるのですか。

答曰：

> お答えしますと、

受一日戒法，長跪合掌，應如是言：「我某甲今一日一夜，歸依佛、歸依法、歸依僧！」如是二、如是三歸依。

> 一日だけ戒を守る方法は、ひざまずいて両手を合わせ、こう唱えます。「私（名前）は、今日一日一夜のあいだ、仏に帰依します。法に帰依します。僧に帰依します。」これを二度、三度と繰り返します。

「我某甲歸依佛竟、歸依法竟、歸依僧竟。」如是二、如是三歸依竟。

> 「私は○○として、仏に帰依いたします。法に帰依いたします。僧に帰依いたします。」このように二度、このように三度、帰依を終えます。

「我某甲若身業不善，若口業不善，若意業不善，貪欲、瞋恚、愚癡故。若今世，若過世，有如是罪，今日誠心懺悔。」身清淨，口清淨，心清淨，受行八戒，是則布薩，秦言共住。

> 「私、某甲は、もし体の行いが善くなく、もし口の行いが善くなく、もし心の行いが善くなく、貪りや怒りや愚かさのために、この世で、あるいは過去の世で、そのような罪があるならば、今日、心から懺悔いたします。」体が清らかで、口が清らかで、心が清らかであり、八つの戒めを受けて行じる、これが布薩であり、秦の言葉では共に住むという意味です。

「如諸佛盡壽不殺生，我某甲一日一夜不殺生亦如是；如諸佛盡壽不盜，我某甲一日一夜不盜亦如是；如諸佛盡壽不婬，我某甲一日一夜不婬亦如是；如諸佛盡壽不妄語，我某甲一日一夜不妄語亦如是；如諸佛盡壽不飲酒，我某甲一日一夜不飲酒亦如是；如諸佛盡壽不坐高大床上，我某甲一日一夜不坐高大床上亦如是；如諸佛盡壽不著花瓔珞、不香塗身、不著香熏衣，我某甲一日一夜不著花瓔珞、不香塗身、不著香熏衣亦如是；如諸佛盡壽不自歌舞作樂、亦不往觀聽，我某甲一日一夜不自歌舞作樂、不往觀聽亦如是。已受八戒，如諸佛盡壽不過中食，我某甲一日一夜不過中食亦如是。

> 諸仏が生涯にわたって殺生をしないように、私（名前）も一日一夜、殺生をしません。諸仏が生涯にわたって盗みをしないように、私（名前）も一日一夜、盗みをしません。諸仏が生涯にわたって淫らな行いをしないように、私（名前）も一日一夜、淫らな行いをしません。諸仏が生涯にわたって嘘をつかないように、私（名前）も一日一夜、嘘をつきません。諸仏が生涯にわたって酒を飲まないように、私（名前）も一日一夜、酒を飲みません。諸仏が生涯にわたって高い大きな寝台に座らないように、私（名前）も一日一夜、高い大きな寝台に座りません。諸仏が生涯にわたって花の飾りを身につけず、香を体に塗らず、香の薫った衣を着ないように、私（名前）も一日一夜、花の飾りを身につけず、香を体に塗らず、香の薫った衣を着ません。諸仏が生涯にわたって自分で歌い踊り音楽を奏でず、また見聞きしに行かないように、私（名前）も一日一夜、自分で歌い踊り音楽を奏でず、見聞きしに行きません。八つの戒をすでに受けました。諸仏が生涯にわたって正午を過ぎて食事をしないように、私（名前）も一日一夜、正午を過ぎて食事をしません。

「我某甲受行八戒，隨學諸佛法，名為布薩。願持是布薩福報，願生生不墮三惡八難。我亦不求轉輪聖王、梵、釋天王世界之樂；願諸煩惱盡，逮得薩婆若，成就佛道。」

> 私は某甲、八斎戒を受けて行じ、諸仏の法に随い学びます。これを布薩と名づけます。願わくは、この布薩の福報を持って、生まれ生まれるところに三悪八難に堕ちることのありませんように。また、転輪聖王や梵天・帝釈天王の世界の楽しみを求めるものではありません。願わくは、もろもろの煩悩が尽きて、サルバギャ（一切智）を得、仏道を成就することができますように。

問曰：

> お尋ねします。

云何受五戒？

> どのようにして五戒を受けるのですか。

答曰：

> お答えしますと、

受五戒法，長跪合掌言：「我某甲，歸依佛、歸依法、歸依僧！」如是二、如是三。

> 五戒を受ける法では、長く跪き、合掌してこう言います。「私、某甲は、仏に帰依します。法に帰依します。僧に帰依します。」これを二度、三度と繰り返します。

「我某甲歸依佛竟、歸依法竟、歸依僧竟。」如是二、如是三。

> 「私は\[名前\]として、仏に帰依いたします。法に帰依いたします。僧に帰依いたします。」これを二度、三度と繰り返します。

「我是釋迦牟尼佛優婆塞，證知我、我某甲，從今日盡壽歸依。」

> 私は釈迦牟尼仏の優婆塞として、私を証知してください。私、某甲は、今日より一生の間、帰依いたします。

戒師應言：「汝優婆塞聽！是多陀阿伽度、阿羅呵、三藐三佛陀，知人見人，為優婆塞說五戒如是，是汝盡壽持！

> 戒師はこう言うべきです。「優婆塞よ、聞きなさい。この多陀阿伽度・阿羅呵・三藐三佛陀は、人を知り人を見るお方として、優婆塞のために五戒をこのように説かれました。あなたは寿命の尽きるまでこれを守りなさい。」

「何等五？

> 「五つとは何か。

「盡壽不殺生，是優婆塞戒，是中盡壽不應故殺生；是事若能，當言諾。

> 一生の間、生き物を殺さないこと、これが優婆塞の戒です。この戒を守る間は、決して故意に生き物を殺してはなりません。このことを守れるなら、「はい」とお答えください。

「盡壽不盜，是優婆塞戒，是中盡壽不應盜；是事若能，當言諾。

> 「一生涯、盗みをしないこと、これが優婆塞の戒です。この戒を一生涯守り、盗みをしてはいけません。もしそれができるなら、『はい、守ります』とお答えください。」

「盡壽不邪婬，是優婆塞戒，是中盡壽不應邪婬；是事若能，當言諾。

> 一生を通じて邪淫をしないこと、これが優婆塞の戒です。この戒において、一生を通じて邪淫をしてはなりません。これができるならば、「はい」と答えなさい。

「盡壽不妄語，是優婆塞戒，是中盡壽不應妄語；是事若能，當言諾。

> 一生の間、嘘をつかないこと。これが優婆塞の戒めです。この戒めを守る間、決して嘘をついてはなりません。もしそれができるなら、「はい」と答えなさい。

「盡壽不飲酒，是優婆塞戒，是中盡壽不應飲酒；是事若能，當言諾。

> 「一生の間、酒を飲まないこと、これが優婆塞の戒です。この戒においては、一生の間、酒を飲んではなりません。このことを守れるならば、『はい』と答えなさい。」

「是優婆塞五戒，盡壽受持。當供養三寶：佛寶、法寶、比丘僧寶，勤修福業，以求佛道！」

> 在家の信者は、五つの戒を一生守り続けなさい。そして三宝、すなわち仏宝、法宝、僧宝を敬い、功徳を積むことに励み、仏の道を求めてください。

問曰：

> お尋ねします。

何以故六齋日受八戒、修福德？

> なぜ六斎日には八戒を守り、功徳を積むのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

是日惡鬼逐人，欲奪人命，疾病、凶衰，令人不吉。是故劫初聖人教人持齋，修善、作福，以避凶衰。是時，齋法不受八戒，直以一日不食為齋。

> その日は悪鬼が人を追い、人の命を奪おうとし、病気や災いをもたらして人を不吉にする。そこで劫の初めの聖人は、人々に斎を持ち、善を修め、福を作って、災いを避けるよう教えた。その当時、斎の法では八戒を受けず、ただ一日食べないことを斎とした。

後佛出世，教語之言：「汝當一日一夜，如諸佛持八戒，過中不食，是功德將人至涅槃。」

> 後に仏が世に現れたとき、その人にこう教えられました。「あなたは一日一夜、もろもろの仏のように八つの戒を守り、正午を過ぎたら食事をしてはなりません。この功德は人を涅槃へと導くのです。」

如《四天王經》中佛說：月六齋日，使者太子及四天王，自下觀察眾生，布施、持戒、孝順父母少者，便上忉利，以啟帝釋；帝釋、諸天心皆不悅，言：「阿修羅種多，諸天種少。」若布施、持戒、孝順父母多者，諸天、帝釋心皆歡喜，說言：「增益天眾，減損阿修羅。」是時，釋提婆那民見諸天歡喜。說此偈言：

> 『四天王経』の中で仏が説かれているように、月の六斎日には、使者や太子、そして四天王が自ら下って衆生を観察し、布施や持戒、父母への孝行をする者が少ないと、忉利天に上って帝釈に報告します。すると帝釈と諸天の心は皆、喜びません。「阿修羅の種族が多く、諸天の種族が少ない」と言うのです。もし布施や持戒、父母への孝行をする者が多いならば、諸天と帝釈の心は皆、歓喜し、「天の仲間が増え、阿修羅が減った」と言います。その時、釈提婆那民は諸天が喜ぶのを見て、この偈を説きました。

「六日神足月， 受持清淨戒；是人壽終後， 功德必如我！」

> 六日の神足月には、清らかな戒を守り続けなさい。 そうすれば、この人が命を終えた後、その功德は必ず私と同じになるでしょう。

佛告諸比丘：「釋提桓因不應說如是偈。所以者何？釋提桓因三衰、三毒未除，云何妄言持一日戒，功德福報必得如我？若受持此戒，必應如佛，是則實說。」諸大尊天歡喜因緣故，得福增多。

> 仏は諸々の比丘たちに告げられた。「帝釈天がこのような詩を唱えるのはふさわしくない。なぜなら、帝釈天はまだ三つの衰えと三つの毒を除いていないのに、どうして一日だけ戒を守ったその功德と福報は必ず私のようになると勝手に言えるだろうか。もしこの戒を受け持つなら、必ず仏のようになるはずだ。これこそが真実の言葉である。」偉大な天尊たちは喜びの因縁によって、功德と福報がさらに増えた。

復次，此六齋日，惡鬼害人，惱亂一切，若所在丘聚，郡縣、國邑，有持齋受戒行善人者，以此因緣，惡鬼遠去，住處安隱。

> また、この六斎の日には、悪鬼が人を害し、すべてを悩ませ乱します。しかし、村や町、郡や県、国や都に、斎を守り戒を受け、善行を積む人がいれば、その功徳によって悪鬼は遠くへ去り、住む場所は安らかになります。

以是故，六日持齋受戒，得福增多。

> ですから、六日間に斎戒を守ることは、より多くの福を得ることになります。

問曰：

> お尋ねします。

何以故諸惡鬼神輩，以此六日惱害於人？

> なぜ悪い鬼神たちは、この六日の間に人を苦しめるのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

《天地本起經》說：劫初成時，有異梵天王子諸鬼神父，修梵志苦行，滿天上十二歲，於此六日，割肉、出血以著火中。以是故，諸惡鬼神於此六日輒有勢力。

> 『天地本起経』にはこう説かれています。劫の初め、世界ができたばかりのころ、ある梵天の王子がいて、多くの鬼神たちの父となり、梵志の苦行を修めていました。天上で十二年の歳月を満たす間、この六日には、自分の肉を切り、血を流して、それを火の中に投じました。そのため、悪しき鬼神たちはこの六日の間、いつも力を得るのです。

問曰：

> お尋ねします。

諸鬼神父，何以於此六日割身肉、血以著火中？

> 諸鬼神の父よ、なぜこの六日の間に身の肉と血を割いて火の中に投じるのですか。

答曰：

> お答えしますと、

諸神中摩醯首羅神最大第一，諸神皆有日分。摩醯首羅一月有四日分：八日、二十三日、十四日、二十九日。餘神一月有二日分：月一日、十六日，月二日、十七日。其十五日、三十日，屬一切神。摩醯首羅為諸神主，又得日多故，數其四日為齋；二日是一切諸神日，亦數以為齋。是故諸鬼神於此六日，輒有力勢。

> 神々の中でも、摩醯首羅神（マヘーシュヴァラ神）は最もすぐれた最高の神です。それぞれの神には、決まった日が割り当てられています。摩醯首羅神には、一か月に四つの日が定められています。すなわち、八日、二十三日、十四日、二十九日です。その他の神々には、一か月に二つの日が定められています。すなわち、一日と十六日、二日と十七日です。十五日と三十日は、すべての神に属しています。摩醯首羅神は神々の主であり、また多くの日を得ているので、その四日を斎（ものいみ）の日と数えます。二日はすべての神々の日であり、これもまた斎の日と数えます。それゆえ、もろもろの鬼神はこの六つの日には、ことさら大きな力を持つのです。

復次，諸鬼神父，於此六日割肉、出血以著火中；過十二歲已，天王來下，語其子言：「汝求何願？」答言：「我求有子！」天王言：「仙人供養法，以燒香、甘果諸清淨事；汝云何以肉、血著火中，如罪惡法？汝破善法，樂為惡事，令汝生惡子，噉肉、飲血。」當說是時，火中有八大鬼出，身黑如墨，髮黃、眼赤，有大光明。一切鬼神，皆從此八鬼生。以是故，於此六日，割身肉、血以著火中而得勢力。

> また、鬼神たちの父は、この六日の間に自分の肉を切り、血を流して火の中に投じていました。十二歳を過ぎると、天王が降りてきて、その子にこう言いました。「お前は何を願うのか。」子は答えました。「私は子が欲しいと願います。」天王は言いました。「仙人を供養する法では、焼香や甘い果物など、清らかなものをもってするものである。なぜお前は肉や血を火の中に投じるのか。それは罪悪の法である。お前は善法を破り、悪事を好む。そのために悪い子を生ませ、肉を食い、血を飲ませるであろう。」こう言われたとき、火の中から八人の大きな鬼が現れました。体は墨のように黒く、髪は黄色く、目は赤く、大きな光明を放っていました。すべての鬼神は、この八鬼から生まれました。それゆえに、この六日の間に身の肉を切り、血を火の中に投じることで、勢力を得るのです。

如佛法中，日無好、惡，隨世惡日因緣故，教持齋受八戒。

> 仏法においては、日そのものに善し悪しがあるわけではありません。ただ世の中の人が悪い日と考える習慣に合わせて、斎戒を守り八つの戒を授けるのです。

問曰：

> お尋ねします。

五戒、一日戒，何者為勝？

> 五戒と一日戒では、どちらが優れているのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

有因緣故，二戒俱等；但五戒終身持，八戒一日持。又，五戒常持，時多而戒少；一日戒，時少而戒多。

> 因縁があるため、二つの戒はともに等しいのです。ただし、五戒は一生涯持ち続けるのに対し、八戒は一日だけ持ちます。また、五戒は常に持ち続けるので、時間は長いけれど戒の数は少なく、一日戒は時間は短いけれど戒の数は多いのです。

復次，若無大心，雖復終身持戒，不如有大心人一日持戒也。譬如軟夫為將，雖復將兵終身，智勇不足，卒無功名；若如英雄奮發，禍亂立定，一日之勳，功蓋天下。

> また、大きな志がない人が一生涯持戒を続けるよりも、大きな志を持つ人がたった一日持戒するほうが勝れています。たとえば、弱い者が将軍となって長年兵を率いても、知恵も勇気も足りず、結局は功名を立てられません。しかし英雄が奮い立つならば、災いや乱れもたちまちに平定され、一日の功績が天下を覆うほどになるのです。

是二種戒，名居家優婆塞法。

> この二つの戒は、在家の優婆塞（男性の在家信者）の法です。

居家持戒，凡有四種：有下、中、上，有上上。

> 在家で戒を守るには、四つの段階があります。下、中、上、そして上上の四つです。

下人持戒，為今世樂故；或為怖畏，稱譽、名聞故；或為家法，曲隨他意故；或避苦役，求離危難故——如是種種，是下人持戒。

> 下の人は戒を守るといっても、それは今の世の楽しみのためであり、あるいは恐れから、あるいは誉れや名声のためにであり、あるいは家のしきたりに従って他人の意向に合わせるためであり、あるいは苦しい労役を避け、危難から逃れるためである——このようなさまざまな戒の守り方は、下の人の戒である。

中人持戒，為人中富貴，歡娛適意；或期後世福樂，剋己自勉，為苦日少，所得甚多——如是思惟，堅固持戒。譬如商人，遠出深入，得利必多；持戒之福，令人受後世福樂，亦復如是。

> 中程度の人は戒を守ることで、人としての富や地位を得て、楽しく心地よく過ごそうと考えます。あるいは来世の幸福や楽しみを願って、自分を律し努力し、苦しみは少なく、得るものは非常に多いと考えます。このように思いを定めて、堅く戒を守るのです。たとえば商人が遠くへ出かけて深く分け入れば、必ず多くの利益を得るように、戒を守る福は、人に来世の幸福と楽しみを受けさせます。それもまた同じことです。

上人持戒，為涅槃故，知諸法一切無常故，欲求離苦、常樂無為故。

> 上人は戒を守り、涅槃のため、すべての法は無常であると知っているため、苦を離れ、常楽無為を求めるためです。

復次，持戒之人，其心不悔，心不悔故得喜樂，得喜樂故得一心，得一心故得實智，得實智故得厭心，得厭心故得離欲，得離欲故得解脫，得解脫故得涅槃——如是持戒為諸善法根本。

> また、戒を守る人は心に悔いがなく、心に悔いがないため喜びと楽しみを得、喜びと楽しみを得るため心が一つに定まり、心が一つに定まるため真実の智慧を得、真実の智慧を得るため厭離の心を得、厭離の心を得るため欲望を離れ、欲望を離れるため解脱を得、解脱を得るため涅槃を得ます——このように、戒を守ることはすべての善い法の根本なのです。

復次，持戒為八正道初門，入道初門，必至涅槃。

> 次に、持戒は八正道の最初の門であり、道に入る最初の門として、必ず涅槃に至ります。