---
title: "大智度論 · 24 羼提波羅蜜義"
description: "大智度论由古印度龙树菩萨所造，后秦时期著名译经家鸠摩罗什翻译成中文。该论是佛教重要典籍，属于大乘中观学派的核心论著，主要阐释《大品般若经》的深奥义理。全书共一百卷，系统论述了般若空性思想、菩萨修行次第以及六度万行的实践方法，被誉为大乘佛教的百科全书。作为早期大乘佛教的代表性论典，大智度论对汉传佛教思想体系的形成影响深远，尤其为天台宗、华严宗等宗派提供了重要理论依据，在佛教哲学史上占据崇高地位。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cma8zpurq0it4ib04kiew1nfn"
---

## 大智度論釋初品中尸羅波羅蜜義之餘卷第十四

> 大智度論　初品における尸羅波羅蜜の意義の解説　その続き<note>巻第十四</note>

龍樹菩薩造

> 龍樹菩薩による

後秦龜茲國三藏鳩摩羅什奉　詔譯

> 後秦の亀茲国三蔵、鳩摩羅什（クマーラジーヴァ）が詔によりて訳す

問曰：

> お尋ねします。

已知尸羅相，云何為尸羅波羅蜜？

> 尸羅の本質はすでに知られていますが、尸羅波羅蜜とは何でしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

有人言：菩薩持戒，寧自失身，不毀小戒，是為尸羅波羅蜜。

> ある人がこう言いました。「菩薩が戒を守るとは、たとえ自分の身を失うことになっても、小さな戒さえも破らないことである。これが尸羅波羅蜜（戒の完成）である。」

如上《蘇陀蘇摩王經》中說，不惜身命以全禁戒。如菩薩本身，曾作大力毒龍。若眾生在前，身力弱者，眼視便死；身力強者，氣往而死。是龍受一日戒，出家求靜，入林樹間思惟；坐久，疲懈而睡。龍法，睡時形狀如蛇，身有文章，七寶雜色。

> 『蘇陀蘇摩王経』に説かれているように、自分の身命を惜しまずに戒を守り抜いたのである。たとえば菩薩が過去の世で、大力の毒龍となったことがあった。もし生き物がその前に現れれば、体力の弱い者は、龍がひと目見るだけで死に、体力の強い者も、龍の気に触れて死んだ。この龍は一日だけ戒を受け、出家して静けさを求め、林の木々の間に入って思いを巡らせていた。長く座っているうちに、疲れて眠ってしまった。龍の習性として、眠るときは蛇のような形になり、その身には美しい模様があり、七宝が混じり合ったような色をしていた。

獵者見之驚喜，言曰：「以此希有難得之皮，獻上國王以為服飾，不亦宜乎？」便以杖按其頭，以刀剝其皮。

> 猟師はそれを見て驚き喜び、こう言いました。「こんなに珍しく手に入りにくい皮を、国王に献上して衣装にしてもらえば、これほどふさわしいことはないだろう」そして、杖でその頭を押さえ、刀でその皮を剥ぎました。

龍自念言：「我力如意，傾覆此國，其如反掌；此人小物，豈能困我？我今以持戒故，不計此身，當從佛語！」於是自忍，眠目不視，閉氣不息；憐愍此人，為持戒故，一心受剝，不生悔意。既以失皮，赤肉在地，時日大熱，宛轉土中；欲趣大水，見諸小蟲來食其身，為持戒故，不復敢動。

> 龍は心の中でこう思いました。「私の力は思いのまま、この国をひっくり返すことなど、手のひらを返すよりもたやすい。このような小さな生き物が、どうして私を困らせられようか。しかし私は今、戒を守るゆえに、この身を惜しまず、仏の教えに従おう。」 そこで龍はじっと耐え、目を閉じて見ず、息を止めて呼吸もせず、この人をあわれみ、戒を守るために、心を一つにして皮をはがれても、悔いる心を起こしませんでした。やがて皮を失い、赤い肉が地面にさらされると、その日はたいそう暑く、土の上でのたうちまわりました。大水の方へ向かおうとしましたが、小さな虫たちが集まって自分の体を食べるのを見て、戒を守るゆえに、もう動こうとはしませんでした。

自思惟言：「今我此身以施諸蟲，為佛道故，今以肉施，以充其身；後成佛時，當以法施，以益其心。」如是誓已，身乾命絕，即生第二忉利天上。

> 心の中で思いました。「今、私はこの身を虫たちに施そう。仏の道のためだ。今は肉を施して、その体を満たしてあげよう。やがて仏になったときには、法を施して、その心を豊かにしてあげよう。」こう誓いを立てると、体は乾ききって命は尽き、すぐに第二の忉利天に生まれました。

爾時毒龍，釋迦文佛是；是時獵者，提婆達等六師是也；諸小蟲輩，釋迦文佛初轉法輪，八萬諸天得道者是。

> そのときの毒龍は、釈迦文仏のことです。当時の猟師は、提婆達多など六師のことです。多くの小さな虫たちは、釈迦文仏が初めて法を説いたときに、八万の天人たちが悟りを得た、その人たちのことです。

菩薩護戒，不惜身命，決定不悔，其事如是，是名尸羅波羅蜜。

> 菩薩は戒を護り、身命を惜しまず、決して悔いることなく、その行いはこのようである。これを尸羅波羅蜜（戒律の完成）と呼ぶ。

復次，菩薩持戒，為佛道故，作大要誓，必度眾生！不求今世、後世之樂，不為名聞虛譽法故，亦不自為早求涅槃，但為眾生沒在長流，恩愛所欺，愚惑所誤，我當度之令到彼岸。一心持戒，為生善處，生善處故見善人，見善人故生智慧，生智慧故得行六波羅蜜，得行六波羅蜜故得佛道。如是持戒名為尸羅波羅蜜。

> 次に、菩薩が戒を保つのは、仏の道のためであり、大きな誓いを立てて、必ず衆生を救おうとするからです。現世や来世の楽しみを求めず、名声や虚しい評判のためでもなく、自分のために早く涅槃を求めることもしません。ただ、衆生が長い流れに沈み、愛執に欺かれ、愚かさに迷わされているのを、私が救って彼岸へ導こうとするのです。心を一つにして戒を保つのは、善き場所に生まれるためであり、善き場所に生まれるから善き人に出会い、善き人に出会うから智慧が生まれ、智慧が生まれるから六波羅蜜を行い、六波羅蜜を行うから仏の道を得ることができます。このような戒を保つことを尸羅波羅蜜といいます。

復次，菩薩持戒，心樂善清淨，不為畏惡道，亦不為生天，但求善淨；以戒熏心，令心樂善，是為尸羅波羅蜜。

> 次に、菩薩が戒を保つとき、心は善と清らかさを喜び、悪道に堕ちることを恐れるためでもなく、天に生まれることを願うためでもなく、ただ善く清らかであることを求める。戒によって心を薫じ、心に善を喜ばせる。これが尸羅波羅蜜である。

復次，菩薩以大悲心持戒，得至佛道，是名尸羅波羅蜜。

> 次に、菩薩は大悲の心をもって戒を守り、仏の道に至ることができます。これを尸羅波羅蜜（戒の完成）といいます。

復次，菩薩持戒，能生六波羅蜜，是則名為尸羅波羅蜜。

> 次に、菩薩が戒を守ることは、六つの波羅蜜を生み出すことができます。これこそが戒波羅蜜（尸羅波羅蜜）と呼ばれるものです。

云何持戒能生戒？因五戒得沙彌戒，因沙彌戒得律儀戒，因律儀戒得禪定戒，因禪定戒得無漏戒，是為戒生戒。

> 戒を持つことで、なぜさらに戒が生まれるのでしょうか。五戒によって沙弥戒を得て、沙弥戒によって律儀戒を得て、律儀戒によって禅定戒を得て、禅定戒によって無漏戒を得ます。これが戒が戒を生むということです。

云何持戒能生於檀？

> どうして戒めを守ることが、布施を生み出すのでしょうか。

檀有三種：一者、財施，二者、法施，三者、無畏施。持戒自撿，不侵一切眾生財物，是名財施。眾生見者，慕其所行，又為說法，令其開悟。又自思惟：我當堅持淨戒，與一切眾生作供養福田，令諸眾生得無量福。如是種種，名為法施。一切眾生皆畏於死，持戒不害，是則無畏施。

> 布施には三つの種類があります。第一に財施、第二に法施、第三に無畏施です。 戒を守って自らを慎み、すべての生き物の財物を侵さないこと、これが財施です。 生き物たちがそれを見て、その行いを慕い、さらにその人ために法を説いて、開悟させることです。 また自らこう思います。私は清らかな戒を堅く守り、すべての生き物のために供養の福田となり、すべての生き物が無量の福を得られるようにしよう、と。このようなさまざまなことを、法施といいます。 すべての生き物は死を恐れています。戒を守って害を加えなければ、これが無畏施です。

復次，菩薩自念：「我當持戒，以此戒報，為諸眾生作轉輪聖王、或作閻浮提王、若作天王，令諸眾生滿足於財，無所乏短；然後坐佛樹下，降伏魔王，破諸魔軍，成無上道，為諸眾生說清淨法，令無量眾生度老、病、死海。」

> 次に、菩薩はこう心に念じます。「私は戒を守ろう。この戒の報いによって、もろもろの衆生のために転輪聖王となろう、あるいは閻浮提の王となろう、また天王となろう。もろもろの衆生を財によって満たし、乏しいところのないようにしよう。その後、仏の樹の下に座り、魔王を降伏させ、もろもろの魔の軍を破り、無上の道を成し遂げ、もろもろの衆生のために清らかな法を説き、無量の衆生を老・病・死の海から渡らせよう。」

是為持戒因緣生檀波羅蜜。

> これは、戒律を守ることを因縁として、布施の完成（檀波羅蜜）が生まれるということです。

云何持戒生忍辱？

> 持戒によって、どうして忍辱が生まれるのでしょうか。

持戒之人心自念言：「我今持戒為持心故。若持戒無忍，當墮地獄；雖不破戒，以無忍故，不免惡道；何可縱忿不自制心？但以心故入三惡趣。是故應當好自勉強，懃修忍辱。」

> 戒めを守る人は、心の中でこう思います。「私は今、戒めを守っている。それは心を守るためだ。もし戒めを守っていても忍耐がなければ、地獄に堕ちてしまう。戒めを破っていなくても、忍耐がないために、悪い世界を免れない。どうして怒りに任せて、自分の心を制御しないことがあろうか。ただ心の働きによって三つの悪道に入るのだ。だからこそ、よく自分を励まして、勤めて忍辱を修行すべきである。」

復次，行者欲令戒德堅強，當修忍辱。所以者何？忍為大力，能牢固戒，令不動搖。復自思惟：「我今出家，形與俗別，豈可縱心如世人法？宜自勉勵，以忍調心。以身、口忍，心亦得忍；若心不忍，身、口亦爾。」是故行者當令身、口、心忍，絕諸忿恨。

> 次に、修行者が戒の徳を堅固にしようと願うならば、忍辱を修めるべきです。なぜでしょうか。忍辱は大きな力であり、戒をしっかりと保ち、揺るがないようにするからです。また、こう自ら考えます。「私は今、出家して、姿かたちも俗人とは異なっている。どうして心のままに、世間の人々のようになってよいだろうか。自ら励まし、忍辱によって心を整えるべきである。身と口で忍べば、心もまた忍ぶことができる。もし心で忍べなければ、身と口もまた同じである。」したがって、修行者は身と口と心で忍ぶようにし、もろもろの怒りや恨みを断ち切るべきです。

復次，是戒略說則有八萬，廣說則無量，我當云何能具持此無量戒法？唯當忍辱，眾戒自得。譬如有人得罪於王，王以罪人載之刀車，六邊利刃，間不容間，奔逸馳走，行不擇路；若能持身，不為刀傷，是則殺而不死。持戒之人，亦復如是，戒為利刀，忍為持身，若忍心不固，戒亦傷人。又復譬如老人夜行，無杖則蹶；忍為戒杖，扶人至道，福樂因緣，不能動搖。

> 次に、この戒について、簡単に説けば八万あり、詳しく説けば無量である。私はどうしてこの無量の戒法をすべて守ることができるだろうか。ただ忍辱によって、多くの戒は自然に得られるのである。たとえば、ある人が王の怒りに触れたとき、王はその罪人を刀車に載せた。六方に鋭い刃が並び、隙間もないほどで、奔走し、道を選ばずに走る。もし身を保つことができて、刃に傷つけられなければ、これは殺されても死なないということである。戒を守る人もまた同じである。戒は鋭い刀であり、忍は身を保つことである。もし忍の心が固くなければ、戒もまた人を傷つける。また、たとえば老人が夜に歩くとき、杖がなければつまずく。忍は戒の杖であり、人を扶けて道に至らせ、福楽の因縁によっても動揺させられることはない。

如是種種，名為持戒生羼提波羅蜜。

> このようにさまざまな実践を、戒を守ることから生まれる忍耐波羅蜜と呼びます。

云何持戒而生精進？

> どのように持戒することで、精進が生まれるのでしょうか。

持戒之人除去放逸，自力懃修，習無上法，捨世間樂，入於善道，志求涅槃，以度一切，大心不懈，以求佛為本，是為持戒能生精進。

> 戒めを守る人は怠け心を捨て、自ら励んで修行し、この上ない教えを学び、世の楽しみを手放して善い道に入ります。涅槃を志し、すべての人を救おうと大きな心で懈怠なく、仏を求めることを根本とします。これが、戒めを守ることが精進を生むということです。

復次，持戒之人，疲厭世苦老、病、死患，心生精進，必求自脫，亦以度人。譬如野干在林樹間，依隨師子及諸虎豹，求其殘肉以自存活。有時空乏，夜半踰城，深入人舍，求肉不得，屏處睡息，不覺夜竟；惶怖無計，走則慮不自免，住則懼畏死痛；便自定心，詐死在地。眾人來見，有一人言：「我須野干耳。」即便截取。野干自念：「截耳雖痛，但令身在。」次有一人言：「我須野干尾。」便復截去。野干復念：「截尾雖痛猶是小事。」次有一人言：「我須野干牙。」野干心念：「取者轉多，儻取我頭，則無活路。」即從地起奮其智力，絕踊間關，徑得自濟。行者之心，求脫苦難，亦復如是：若老至時，猶故自寬，不能慇懃決斷精進；病亦如是，以有差期，未能決計；死欲至時，自知無冀，便能自勉，果敢慇懃，大修精進，從死地中畢至涅槃。

> また、戒を守る人は、世の苦しみである老・病・死の悩みに疲れ果て、心に精進を起こし、必ず自らの救いを求めるとともに、他者をも救おうとします。たとえば、野干が林や木の間で、獅子や虎・豹に従い、その食べ残しの肉を求めて生き延びているようなものです。あるとき食べ物が尽き、夜半に城を越えて人の家に深く入り込みましたが、肉を得られず、人目につかない場所で眠り込んでしまい、夜が明けたことに気づきませんでした。恐れおののき為すすべもなく、逃げれば逃れられないと案じ、とどまれば死の苦しみを恐れる。そこで心を落ち着け、死んだふりをして地に伏せました。人々がやって来て、一人が言いました。「私は野干の耳が欲しい。」そこでたちまち耳を切り取られました。野干は心に思いました。「耳を切られるのは痛いが、体さえ無事ならよい。」次に一人が言いました。「私は野干の尾が欲しい。」また尾を切り取られました。野干はまた思いました。「尾を切られるのは痛いが、まだ小事だ。」次に一人が言いました。「私は野干の牙が欲しい。」野干は心に思いました。「取る者が次第に増えている。もし頭を取られたら、生きる道はない。」そこで地から跳び起き、知力を奮い、隙を突いて跳ね抜け、ついに自らを救いました。修行者の心も、苦難からの解脱を求める点では、これと同じです。老いが訪れたときでさえ、なお自分を甘やかし、努めて決断し精進することができません。病も同じで、治る時期があるため、決意できません。しかし死が近づいたとき、自ら望みがないと悟り、努めて自らを励まし、果敢に努め、大いに精進し、死の地からついに涅槃に至るのです。

復次，持戒之法，譬如人射，先得平地，地平然後心安，心安然後挽滿，挽滿然後陷深。戒為平地，定意為弓，挽滿為精進，箭為智慧，賊是無明。若能如是展力精進，必至大道，以度眾生。

> 次に、戒を守るということは、たとえば人が弓を射るようなものです。まず平らな地面を得れば、地面が平らなことで心が安らぎ、心が安らかになってこそ弓を十分に引き絞り、十分に引き絞ってこそ深く突き刺さります。戒は平らな地面であり、定まった心は弓であり、十分に引き絞ることは精進であり、矢は智慧であり、賊とは無明です。もしこのように力を尽くして精進するならば、必ず大きな道に至り、それによって衆生を救うことができるのです。

復次，持戒之人，能以精進自制五情，不受五欲；若心已去，能攝令還；是為持戒能護諸根。護諸根則生禪定，生禪定則生智慧，生智慧得至佛道。是為持戒生毘梨耶波羅蜜。

> また、戒を守る人は、努力によって五つの感覚を自分で制し、五つの欲望を受け入れることがありません。もし心が迷い出ても、引き戻すことができます。これが、戒を守ることで諸々の感覚器官を守るということです。感覚器官を守れば禅定が生まれ、禅定が生まれれば智慧が生まれ、智慧が生まれれば仏の道に至ることができます。これが、戒を守ることが精進波羅蜜を生むということです。

云何持戒生禪？

> 戒律を守ることは、どのようにして禅を生み出すのでしょうか。

人有三業作諸善，若身、口業善，意業自然入善；譬如曲草生於麻中，不扶自直。持戒之力，能羸諸結使。云何能羸？若不持戒，瞋恚事來，殺心即生；若欲事至，婬心即成。若持戒者，雖有微瞋，不生殺心；雖有婬念，婬事不成，是為持戒能令諸結使羸。諸結使羸，禪定易得。譬如老病失力，死事易得；結使羸故，禪定易得。

> 人には三つの業があり、さまざまな善を行います。身と口の業が善であれば、意の業も自然と善になります。たとえば、曲がった草も麻の中に生えれば、支えなくても自然にまっすぐに伸びるようなものです。持戒の力は、さまざまな煩悩の束縛を弱めることができます。どのように弱めるのでしょうか。もし戒を守らなければ、怒りの出来事が起これば殺そうとする心がすぐに生まれ、欲望の出来事が起これば淫らな心がすぐに生じます。しかし戒を守る人ならば、少しの怒りがあっても殺そうとする心は生まれず、淫らな思いがあっても淫らな行いは成りません。これが、持戒がさまざまな煩悩の束縛を弱めるということです。煩悩の束縛が弱まれば、禅定は容易に得られます。たとえば、年老いて病んで力がなくなれば、死は容易に訪れるようなものです。煩悩の束縛が弱まっているからこそ、禅定は容易に得られるのです。

復次，人心未息，常求逸樂；行者持戒，棄捨世福，心不放逸，是故易得禪定。

> また、人の心は安らぎを求めてやまず、常に楽を求めています。しかし修行者は戒めを守り、世の幸せを捨てて、心を緩めることなく保ちます。だからこそ、禅定を容易に得ることができるのです。

復次，持戒之人，得生人中，次生六欲天上，次至色界，若破色相生無色界；持戒清淨，斷諸結使，得阿羅漢道；大心持戒，愍念眾生，是為菩薩。

> また、戒律を守る人は、人間として生まれ、次に六欲天に生まれ、さらに色界に至ります。色の相を破れば無色界に生まれます。戒律を清らかに守り、さまざまな煩悩の束縛を断てば、阿羅漢の道を得ます。大きな心で戒律を守り、生きとし生けるものを慈しみ思う者、それが菩薩です。

復次，戒為撿麁，禪為攝細。

> 次に、戒は粗いものを取り締まり、禅は細かいものを収める。

復次，戒攝身、口，禪止亂心；如人上屋，非梯不昇，不得戒梯，禪亦不立。

> 次に、戒は身と口を整え、禅は乱れた心を静めます。たとえば人が屋根に上がるには、はしごがなければ登れません。戒というはしごがなければ、禅も成り立ちません。

復次，破戒之人，結使風強，散亂其心；其心散亂，則禪不可得。持戒之人，煩惱風軟，心不大散，禪定易得。

> また、戒を破る人は、煩悩の風が強く、心が乱れてしまいます。心が乱れていると、禅定を身につけることはできません。戒を守る人は、煩悩の風が穏やかで、心が大きく乱れることがないため、禅定を容易に得ることができます。

如是等種種因緣，是為持戒生禪波羅蜜。

> このようなさまざまな因縁によって、持戒が禅の波羅蜜を生み出すのです。

云何持戒能生智慧？

> どうして戒めを守ることが智慧を生み出すのでしょうか。

持戒之人，觀此戒相從何而有，知從眾罪而生；若無眾罪，則亦無戒。戒相如是，從因緣有，何故生著？譬如蓮華出自污泥，色雖鮮好，出處不淨；以是悟心，不令生著，是為持戒生般若波羅蜜。

> 戒を守る人は、この戒の姿がどこから生じたのかを観察します。そして、それは多くの罪から生じたものであると知ります。もし罪がなければ、戒もまた存在しません。戒の姿とはこのように、因と縁によってあるものです。どうしてそれに執着する必要があるでしょうか。たとえば蓮の花は汚れた泥から生まれます。色は美しくても、生まれた場所は清らかではありません。このように心を悟らせ、執着を起こさせないこと、これが戒を守ることから般若波羅蜜を生じさせるのです。

復次，持戒之人，心自思惟：若我以持戒貴而可取，破戒賤而可捨者，若有此心不應般若。以智慧籌量，心不著戒，無取、無捨，是為持戒生般若波羅蜜。

> また、戒を守る人は、心にこう考えます。もし私が「戒を守ることは尊く、取るべきものだ。戒を破ることは卑しく、捨てるべきものだ」と思うなら、そのような心は智慧にはふさわしくありません。智慧をもってよく見きわめ、心が戒にとらわれず、取ることも捨てることもない、これが戒を守ることから生まれる智慧の完成なのです。

復次，不持戒人，雖有利智，以營世務，種種欲求生業之事，慧根漸鈍；譬如利刀以割泥土，遂成鈍器。若出家持戒，不營世業，常觀諸法實相無相；先雖鈍根，以漸轉利。

> 次に、戒を守らない人は、たとえ鋭い知恵があっても、世間の仕事に励み、さまざまな欲望を求めて生きるための営みに携わるうちに、智慧の力がしだいに鈍くなっていきます。たとえば、鋭い刀で泥を切っていると、やがて鈍い道具になってしまうようなものです。一方、出家して戒を守り、世間の仕事に携わらず、常にすべてのものごとの真実の姿は形にとらわれないと見つめていると、もともと鈍い性質であっても、しだいに鋭くなっていきます。

如是等種種因緣，名為持戒生般若波羅蜜。

> このようなさまざまな理由から、戒律を守ることが般若波羅蜜を生み出すのです。

如是名為尸羅波羅蜜生六波羅蜜。

> このように、戒律を守る修行によって、六つの完成された行いが生まれます。

復次，菩薩持戒不以畏故，亦非愚癡，非疑、非惑，亦不自為涅槃故持戒；但為一切眾生故，為得佛道故，為得一切佛法故。如是相名為尸羅波羅蜜。

> 次に、菩薩が戒を保つのは、恐れのためではなく、愚かだからでもなく、疑いや迷いのためでもなく、自分の涅槃のために戒を保つのではありません。ただすべての衆生のために、仏の道を得るために、すべての仏法を得るために戒を保つのです。このようなあり方を、戒波羅蜜といいます。

復次，若菩薩於罪、不罪不可得故，是時，名為尸羅波羅蜜。

> 次に、菩薩が罪と無罪を捉えることができないから、その時、戒波羅蜜（尸羅波羅蜜）と呼ばれるのです。

問曰：

> お尋ねします。

若捨惡行善，是為持戒，云何言「罪、不罪不可得」？

> 悪い行いを捨てて善い行いを実践することが持戒であるならば、なぜ「罪も罪でないものも得ることはできない」と言うのですか。

答曰：

> お答えしますと、

非謂邪見、麁心言「不可得」也；若深入諸法相，行空三昧，慧眼觀故，罪不可得；罪無故，不罪亦不可得。

> 邪見や粗い心で「不可得」と言っているのではありません。もし諸法の相を深く見極め、空の三昧を行じ、慧の眼で観るならば、罪は不可得です。罪がないゆえに、罪でないものもまた不可得なのです。

復次，眾生不可得故，殺罪亦不可得；罪不可得故，戒亦不可得。何以故？以有殺罪故，則有戒；若無殺罪，則亦無戒。

> また、生きとし生けるものは捕らえどころがないので、殺すという罪もまた捕らえどころがありません。罪が捕らえどころがないので、戒もまた捕らえどころがありません。なぜなら、殺すという罪があるからこそ戒があるのであり、もし殺すという罪がなければ、戒もまたないからです。

問曰：

> お尋ねします。

今眾生現有，云何言「眾生不可得」？

> 今、衆生は現に存在しているのに、なぜ「衆生は得ることができない」と言うのですか。

答曰：

> お答えしますと、

肉眼所見，是為非見；若以慧眼觀，則不得眾生。如上檀中說無施者、無受者、無財物，此亦如是。

> 肉眼で見るものは、本当の見方ではありません。慧の目で見るならば、そこに衆生は存在しません。先ほどの布施の話で、施す人も、受け取る人も、施し物もないと説いたのと同じです。

復次，若有眾生，是五眾耶？離五眾耶？

> さらに、もし衆生というものが存在するなら、それは五つの要素から成るのでしょうか、それとも五つの要素とは別にあるのでしょうか。

若是五眾，五眾有五，眾生為一；如是者，五可為一，一可為五。譬如市易物直五匹，以一匹取之，則不可得。何以故？一不得作五故。以是故，知五眾不得作一眾生。

> 五つの集まりについて言えば、五つの集まりは五つあり、生きとし生けるものは一つです。そうであれば、五つが一つになり、一つが五つになるはずです。たとえば、市場で五匹の布に値する品物を、一匹の布で手に入れようとしても、それはできません。なぜなら、一つは五つにはなれないからです。このことから、五つの集まりが一つの生きとし生けるものになることはできないと分かります。

復次，五眾生滅無常相；眾生法，從先世來、至後世，受罪、福於三界。若五眾是眾生，譬如草木自生自滅，如是則無罪縛，亦無解脫。以是故，知非五眾是眾生。

> 次に、五つの要素は生じては滅する無常の相であり、衆生という法は、前世から来て来世へと至り、三界において罪や福を受けるものです。もし五つの要素が衆生であるならば、草木が自ら生じて自ら滅するようなものであり、そうであれば罪に縛られることもなく、解脱もないことになります。このような理由から、五つの要素が衆生であるのではないと知るのです。

若離五眾有眾生，如先說神常遍中已破。

> もし五蘊を離れて衆生があるというなら、それはすでに「神は常に遍在する」という説を論破した中で否定済みです。

復次，離五眾則我見心不生，若離五眾有眾生，是為墮常；若墮常者，是則無生、無死。何以故？生名先無今有，死名已生便滅。若眾生常者，應遍滿五道中，先已常有，云何今復來生？若不有生，則無有死。

> さらに、五つの要素（五蘊）を離れて「私」という見方が心に生じることはありません。もし五蘊を離れて衆生が存在するならば、それは永遠不変という誤りに陥ることになります。永遠不変に陥るならば、生もなく死もないことになります。なぜでしょうか。生とは、以前はなかったものが今あることをいい、死とは、すでに生じたものが滅することいいます。もし衆生が永遠不変であるならば、五つの世界に遍満しているはずであり、すでに以前から常に存在しているのに、どうして今また生まれてくることがあるでしょうか。もし生がなければ、死もないのです。

問曰：

> お尋ねします。

定有眾生，何以故言無？五眾因緣，有眾生法；譬如五指因緣，拳法生。

> 定（定められたもの）があるのに、なぜ「無い」と言うのでしょうか。五つの要素（五蘊）が縁によって集まることで、生きる存在という法が生まれます。たとえば、五本の指が縁によって集まることで、拳という形が生まれるようなものです。

答曰：

> お答えしますと、

此言非也！若五眾因緣有眾生法者，除五眾，則別有眾生法，然不可得；眼自見色，耳自聞聲，鼻嗅香，舌知味，身知觸，意知法，空無我法；離此六事，更無眾生。諸外道輩倒見故，言眼能見色，是為眾生；乃至意能知法，是為眾生；又能憶念，能受苦樂，是為眾生；但作是見，不知眾生實。譬如一長老大德比丘，人謂是阿羅漢，多致供養。其後病死，諸弟子懼失供養故，夜盜出之；於其臥處安施被枕，令如師在，其狀如臥。人來問疾：「師在何許？」諸弟子言：「汝不見床上被枕耶？」愚者不審察之，謂師病臥，大送供養而去，如是非一。復有智人來而問之，諸弟子亦如是答。智人言：「我不問被枕、床褥，我自求人。」發被求之，竟無人可得。除六事相，更無我人；知者、見者，亦復如是。

> それは間違いです。もし五蘊の因縁によって衆生という法があるのなら、五蘊を除いたところに別に衆生という法があるはずですが、それは得られません。眼は自ら色を見、耳は自ら声を聞き、鼻は香を嗅ぎ、舌は味を知り、身は触れ合いを知り、意は法を知ります。そこには空があり、我という法はありません。この六つの事柄を離れて、さらに衆生があるわけではありません。さまざまな外道たちは誤った見方をするために、眼が色を見ることができる、これが衆生だと言い、さらには意が法を知ることができる、これが衆生だと言い、また思い出すことができ、苦楽を感じることができる、これが衆生だと言います。ただそのような見方をするだけで、衆生の実相を知らないのです。たとえば、ある年老いた徳の高い比丘がいて、人々は彼を阿羅漢だと言って、多くの供養をささげました。その後、彼が病死すると、弟子たちは供養を失うことを恐れて、夜にこっそり遺体を運び出しました。そして彼が寝ていた場所に布団と枕を整えて、師がそこにいるかのように、寝ている姿に見せかけました。人々が病気を見舞いに来て、「師はどこにいますか」と尋ねると、弟子たちは言いました。「あなたは床の上の布団と枕が見えないのですか」。愚かな者はよく確かめず、師が病気で寝ているのだと思い、たくさんの供養をして去っていきました。このようなことが一度ならずありました。またある智慧ある人が来て尋ねると、弟子たちは同じように答えました。智慧ある人は言いました。「私は布団や枕、寝床を尋ねているのではない。私は人を求めているのだ」。布団をはぐって探しても、ついに人は見つかりませんでした。六つの事柄の相を除けば、さらに我も人もありません。知る者、見る者も、また同じです。

復次，若眾生於五眾因緣有者，五眾無常，眾生亦應無常。何以故？因果相似故；若眾生無常，則不至後世。

> 次に、もし衆生が五つの構成要素の因縁によって存在するならば、五つの構成要素は無常であるから、衆生もまた無常であるはずです。なぜなら、原因と結果は似ているからです。もし衆生が無常であれば、後の世に至ることはありません。

復次，若如汝言「眾生從本已來常有」，若爾者，眾生應生五眾，五眾不應生眾生；今五眾因緣生眾生名字，無智之人逐名求實。以是故，眾生實無；若無眾生，亦無殺罪；無殺罪故，亦無持戒。

> 次に、もしあなたの言うように「生きとし生けるものは根本からすでに常に存在する」のなら、生きとし生けるものは五つの要素を生み出すべきであり、五つの要素が生きとし生けるものを生み出すべきではない。ところが今、五つの要素の縁によって「生きとし生けるもの」という名が生じているのであり、智慧のない人はその名にとらわれて実体を求めるのである。したがって、生きとし生けるものは実には存在しない。もし生きとし生けるものが存在しなければ、殺す罪もなく、殺す罪がなければ、持戒もまた存在しない。

復次，是五眾深入觀之，分別知空，如夢所見，如鏡中像；若殺夢中所見及鏡中像，無有殺罪。殺五陰空相眾生，亦復如是。

> 次に、この五つの構成要素を深く観察し、分別して空であると知るのです。それは夢で見たものや鏡に映る像のようなものです。もし夢で見たものを殺したり、鏡に映る像を殺したりしても、殺すという罪はありません。空の相をもつ五陰の衆生を殺すことも、また同じです。

復次，若人不樂罪、貪著無罪，是人見破戒罪人則輕慢，見持戒善人則愛敬；如是持戒，則是起罪因緣。

> また、人が罪を好まず、無罪に執着するなら、その人は破戒の罪人を見れば軽んじ侮り、持戒の善人を見れば愛し敬う。このような持戒は、かえって罪を生む因縁となるのである。

以是故言「於罪、不罪不可得故，應具足尸羅波羅蜜」。

> ですから、「罪も罪でないものも、とらえることができないからこそ、戒律の完成（尸羅波羅蜜）を具えるべきである」と説かれるのです。

### 大智度論釋初品中羼提波羅蜜義第二十四

> 大智度論釈初品中羼提波羅蜜義第二十四

【經】

> お経

「心不動故，應具足羼提波羅蜜。」

> 心が動かないからこそ、堪え忍ぶ修行を完全に身につけることができるのです。

【論】

> 【論】 論とは、心を

問曰：

> お尋ねします。

云何名羼提？

> 何が「羼提」と呼ばれるのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

羼提，秦言「忍辱」。

> 羼提とは、中国語で「忍辱」といいます。

忍辱有二種：生忍、法忍。菩薩行生忍，得無量福德；行法忍，得無量智慧。福德、智慧二事具足故，得如所願；譬如人有目、有足，隨意能到。菩薩若遇惡口罵詈，若刀杖所加，思惟知罪、福業因緣諸法，內、外畢竟空，無我、無我所，以三法印印諸法故，力雖能報，不生惡心，不起惡口業；爾時，心數法生，名為忍。得是忍法故，忍智牢固；譬如畫彩，得膠則堅著。

> 忍辱には二つの種類があります。生忍と法忍です。菩薩が生忍を行じると、無量の福徳を得ます。法忍を行じると、無量の智慧を得ます。福徳と智慧の二つがそろっているので、願いどおりに成就することができます。たとえば、人に目と足があれば、思いのままに行きたい所へ行けるようなものです。菩薩は、悪口で罵られたり、刀や杖で傷つけられたりしても、罪と福の業の因縁、もろもろの法をよく考えます。内も外も究極的には空であり、無我であり、我に属するものもないと知ります。三法印で諸法を照らし見ているので、力があって仕返しできても、悪い心を起こさず、悪い言葉の業を作りません。そのとき、心に働くさまざまな法が生じますが、これを忍と呼びます。この忍の法を得たので、忍の智慧は強くしっかりとします。たとえば、彩色に膠を加えると、しっかりと定着するようなものです。

有人言：「善心有二種：有麁，有細；麁名忍辱，細名禪定。未得禪定心樂，能遮眾惡，是名忍辱；心得禪定樂，不為眾惡，是名禪定。」

> ある人がこう言いました。「善い心には二つの種類がある。粗いものと細かいものである。粗いものを忍辱といい、細かいものを禅定という。まだ禅定の心の楽しみを得ていなくても、さまざまな悪を防ぐことができる、これを忍辱という。心が禅定の楽しみを得て、もはや悪を行わない、これを禅定という。」

是忍，是心數法，與心相應，隨心行。非業，非業報，隨業行。

> これは忍であり、心の働きに属し、心とともにあり、心に従って働きます。業ではなく、業の報いでもなく、業に従って進みます。

有人言：「二界繫。」

> 「二つの世界に縛られている」と言う人がいます。

有人言：「但欲界繫，或不繫。色界無外惡可忍故。」

> 「ただ欲界に縛られ、あるいは縛られない。色界には外に悪がないから、忍ぶべきものがない」と言う人がある。

亦有漏、亦無漏，凡夫、聖人俱得故。

> 煩悩を抱える凡夫も、悟りを得た聖人も、ともにこの教えに触れることができるからです。

障「己心、他心不善法」，故名為善。

> 「自分の心や他人の心にある不善の法を妨げる」、それゆえに善と名づけるのです。

善故，或思惟斷，或不斷。

> 善いことであるため、あるいは思惟によって断たれ、あるいは断たれない。

如是等種種，阿毘曇廣分別。

> このように、さまざまな点について、阿毘曇（論蔵）で詳しく説明されています。

問曰：

> お尋ねします。

云何名生忍？

> 「生忍」とは何でしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

有二種眾生來向菩薩：一者、恭敬供養，二者、瞋罵打害。爾時，菩薩其心能忍，不愛敬養眾生，不瞋加惡眾生。是名生忍。

> 菩薩のもとには、二種類の人々がやってきます。ひとつは敬い供養する人、もうひとつは怒り罵り打ち害する人です。そのとき、菩薩の心はよく堪え忍び、供養する人を愛することもなく、害を加える人を怒ることもありません。これを生忍といいます。

問曰：

> お尋ねします。

云何恭敬、供養名之為忍？

> どのような恭敬と供養を「忍」と呼ぶのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

有二種結使：一者、屬愛結使，二者、屬恚結使。恭敬、供養雖不生恚，令心愛著，是名軟賊。是故於此應當自忍，不著不愛。

> 結使（心の束縛）には二つの種類があります。一つは愛着による束縛、もう一つは怒りによる束縛です。恭敬や供養は、たとえ怒りを生じさせなくても、心を愛着させてしまうので、これを「軟らかな賊」と呼びます。ですから、これに対しては自分自身をよく制し、執着もせず、愛着も起こさないようにすべきです。

云何能忍？

> どうすれば耐え忍ぶことができるでしょうか。

觀其無常，是結使生處。如佛所說：「利養瘡深，譬如斷皮至肉，斷肉至骨，斷骨至髓。人著利養，則破持戒皮，斷禪定肉，破智慧骨，失微妙善心髓。」

> 無常を見つめることは、煩悩が生まれるもとです。仏が説かれたように、「利益や供養という傷は深く、皮を断ち、肉に至り、肉を断ち、骨に至り、骨を断ち、髄に至るようなものだ。人が利益や供養に執着すれば、持戒という皮を破り、禅定という肉を断ち、智慧という骨を破り、微妙な善心という髄を失ってしまう」のです。

如佛初遊迦毘羅婆國，與千二百五十比丘俱，悉是梵志之身。供養火故，形容憔悴；絕食苦行故，膚體瘦黑。淨飯王心念言：「我子侍從，雖復心淨清潔，竝無容貌，我當擇取累重多子孫者，家出一人，為佛弟子。」如是思惟已，勅下國中：簡擇諸釋貴戚子弟，應書之身，皆令出家。是時，斛飯王子提婆達多，出家學道，誦六萬法聚，精進修行，滿十二年。

> 仏が初めて迦毘羅婆国を訪れたとき、千二百五十人の比丘が共にいました。彼らはみなバラモンの出身でした。火を供養していたため、姿かたちはやつれ、断食の苦行のために肌は痩せて黒くなっていました。浄飯王は心の中でこう思いました。「わが子の従者たちは、心は清らかであっても、みな容貌が整っていない。多くの子孫を持つ家から一人ずつ選んで、仏の弟子にしよう。」こう考えて、国中に命令を下しました。「釈迦族の貴い子弟たちを選び、出家させるように。」そこで、斛飯王の子である提婆達多は出家して道を学び、六万の法の集まりを唱え、精進して修行すること、満十二年になりました。

其後為供養利故，來至佛所，求學神通。佛告憍曇：「汝觀五陰無常，可以得道，亦得神通。」而不為說取通之法。出求舍利弗、目揵連，乃至五百阿羅漢，皆不為說；言：「汝當觀五陰無常，可以得道，可以得通。」不得所求，涕泣不樂；到阿難所，求學神通；是時阿難未得他心智，敬其兄故，如佛所言以授。提婆達多受學通法，入山不久，便得五神通。

> その後、供養の利益を得るために仏のもとに来て、神通を学ぼうとしました。仏は憍曇に告げました。「あなたは五陰が無常であると観じなさい。そうすれば道を得ることができ、神通も得られます。」しかし、神通を得るための具体的な方法は説きませんでした。外に出て舎利弗や目揵連、さらには五百人の阿羅漢たちに求めましたが、誰も説いてくれませんでした。彼らは言いました。「あなたは五陰が無常であると観じなさい。そうすれば道を得ることができ、神通も得られます。」と。求めていたものが得られず、涙を流して悲しみました。阿難のもとへ行き、神通を学ぼうとしました。この時、阿難は他心知を得ていなかったため、兄を敬う心から、仏が言ったとおりに教えました。提婆達多は神通の法を学び、山に入ってほどなく、五つの神通を得ました。

得五神通已，自念：「誰當與我作檀越者？」如王子阿闍世，有大王相。欲與為親厚，到天上取天食；還到欝旦羅越，取自然粳米；至閻浮林中，取閻浮果，與王子阿闍世。或時自變其身，作象寶、馬寶，以惑其心；或作嬰孩坐其膝上，王子抱之，嗚唼與唾；時時自說己名，令太子知之，種種變態以動其心。

> 五つの神通を得た後、こう思いました。「誰が私の檀越（だんおつ）になってくれるだろうか」と。王子の阿闍世（あじゃせ）は、大王となる相を持っていました。そこで親しくつきあおうとして、天界へ行って天の食べ物を取ってきたり、また欝旦羅越（うったんらおつ）へ行って自然に実る粳米（うるちまい）を取ってきたり、閻浮林（えんぶりん）に行って閻浮果（えんぶか）を取ってきて、王子の阿闍世に与えました。あるときは自分の体を変えて象の宝や馬の宝となり、彼の心を惑わせました。あるときは赤ん坊に姿を変えてその膝の上に座り、王子がそれを抱いて口づけし唾をぬぐったりしました。そのたびごとに自分の名を名乗り、太子に自分を知らせようと、さまざまに姿を変えて彼の心を動かしたのでした。

王子意惑，於奈園中大立精舍，四種供養，并種種雜供，無物不備，以給提婆達多；日日率諸大臣，自為送五百釜羹飯。

> 王子は心に迷いを抱き、奈園の中に大きな僧坊を建て、四種の供養をはじめ、さまざまな品々を用意して、不足するものは何一つないほどにし、それを提婆達多に差し出しました。そして毎日、大臣たちを率いて、自ら五百の鍋の汁と飯を運んだのです。

提婆達多大得供養，而徒眾尠少，自念：「我有三十相，減佛未幾，直以弟子未集；若大眾圍繞，與佛何異？」如是思惟已，生心破僧，得五百弟子；舍利弗、目犍連說法教化，僧還和合。

> 提婆達多は多くの供養を受けていましたが、従う者はごくわずかでした。そこでこう考えました。「私は三十の相を備えており、仏とほとんど変わらない。ただ弟子が集まっていないだけだ。もし大勢の者が私を囲めば、仏と何の違いがあろうか。」そう考えた末、僧団を分裂させようと心に決め、五百人の弟子を得ました。しかし舎利弗と目犍連が説法して教え導いたため、僧団は再び一つに和合しました。

爾時，提婆達多便生惡心，推山壓佛，金剛力士以金剛杵而遙擲之，碎石迸來，傷佛足指。

> そのとき、提婆達多は悪い心を起こし、山を押し倒して仏を押しつぶそうとしました。金剛力士が金剛杵を遠くから投げつけたので、山は砕けて石が飛び散り、仏の足の指を傷つけました。

華色比丘尼呵之，復以拳打尼，尼即時眼出而死，作三逆罪。

> 華色比丘尼が彼を叱ったところ、さらに拳で尼を打ち、尼はその場で目が飛び出して死んだ。こうして三逆罪を犯した。

與惡邪師富蘭那外道等為親厚，斷諸善根，心無愧悔。

> 悪い邪師である富蘭那外道などと親しく付き合い、もろもろの善根を断ち切ってしまい、心に愧悔の念もありませんでした。

復以惡毒著指爪中，欲因禮佛以中傷佛；欲去未到王舍城中，地自然破裂，火車來迎，生入地獄。

> さらに、悪意のある毒を爪の中に塗り込み、仏を礼拝するときに仏を傷つけようとしました。まだ王舎城に着かないうちに、大地が自然に裂け、火の車が迎えに来て、生きながら地獄に落ちました。

提婆達多身有三十相，而不能忍伏其心，為供養利故，而作大罪，生入地獄。

> 提婆達多は身体に三十の相を備えていましたが、自分の心を抑えることができず、供養や利益のために大きな罪を犯し、生きながら地獄に堕ちました。

以是故言利養瘡深，破皮至髓，應當除却愛供養人心。

> だからこそ、「利養（りよう）の傷は深く、皮を破って骨の髄にまで達する。供養されたいという心への愛着は、取り除くべきである」と言われるのです。

是為菩薩忍，心不愛著供養、恭敬人。

> これが菩薩の忍耐です。心は供養や敬われることに執着しません。

復次，供養有三種：一者、先世因緣福德故；二者、今世功德，修戒、禪定、智慧故，為人敬養；三者、虛妄欺惑，內無實德，外如清白，以誑時人而得供養。於此三種供養中，心自思惟：「若先世因緣懃修福德，今得供養，是為懃身作之而自得耳，何為於此而生貢高？譬如春種秋穫，自以力得，何足自憍？」如是思惟已，忍伏其心，不著、不憍。

> 次に、供養には三つの種類があります。第一は、前世の因縁と福德によるものです。第二は、今世で功德を積み、戒・禅定・智慧を修めたことによるもので、人から敬われ供養されます。第三は、偽り欺いて惑わすもので、内に実質的な徳がなく、外見だけ清らかであって、世の人をだまして供養を受けるものです。この三つの供養の中で、心に自らこう思います──「もし前世の因縁によって勤めて福德を修めたなら、今その供養を受けるのは、自分の身を勤めて積んだ結果を自ら得ただけのことではないか。なぜここで高慢になる必要があろう。たとえば春に種をまき秋に収穫するのは、自分の力で得たものだ。どうして自慢する必要があろう。」このように思いめぐらせて、心を耐えしずめ、執着せず、高慢になりません。

若今世功德故而得供養，當自思惟：「我以智慧，若知諸法實相，若能斷結，以此功德故，是人供養，於我無事。」如是思惟已，自伏其心，不自憍高；此實愛樂功德，不愛我也。譬如罽賓三藏比丘，行阿蘭若法，至一王寺，寺設大會，守門人見其衣服麁弊，遮門不前。如是數數，以衣服弊故，每不得前，便作方便，假借好衣而來，門家見之，聽前不禁；既至會坐，得種種好食，先以與衣。眾人問言：「何以爾也？」答言：「我比數來，每不得入，今以衣故得在此坐，得種種好食，實是衣故得之，故以與衣。」行者以修行功德，持戒智慧故而得供養，自念：「此為功德，非為我也。」如是思惟，能自伏心，是名為忍。

> もし今世の功德によって供養を受けるならば、こう自ら思うべきです。「私は智慧によって諸法の実相を知り、煩悩の結びを断つことができた。その功德によって、この人は私を供養してくれるのであり、私自身に価値があるわけではない」と。このように思惟して、自らの心を制し、高慢になってはなりません。これは功德を愛しんでいるのであって、私自身を愛しているのではないのです。たとえば、罽賓の三蔵比丘が阿蘭若の修行をしていて、ある王の寺へ行きました。寺では大会が開かれており、門番は彼の粗末な衣服を見て、門の前で遮り通しませんでした。何度も何度も、衣服が粗末なために入ることができませんでした。そこで方便を考え、良い衣を借りて来ると、門番はこれを見て通して止めませんでした。会座に着くと、さまざまな良い食べ物を得ましたが、まずそれを衣に与えました。人々が問いました。「なぜそのようなことをするのか」と。答えて言いました。「私は何度も来ましたが、いつも入れませんでした。今日は衣のおかげでここに座ることができ、さまざまな良い食べ物を得ることができました。実にこの衣のおかげで得られたものなので、衣に与えるのです」と。修行者も、修行の功德と持戒と智慧によって供養を受けるならば、こう自ら念じます。「これは功德によるものであって、私自身によるものではない」と。このように思惟して、自らの心を制することができる、これを忍と呼びます。

若虛妄欺偽而得供養，是為自害，不可近也！當自思惟：「若我以此虛妄而得供養，與惡賊劫盜得食無異，是為墮欺妄罪。」

> 偽りやごまかしで供養を受けるなら、それは自分自身を傷つけることであり、決して近づいてはいけません。こう自分に問いかけるべきです。「もし私が偽りによって供養を受けるなら、悪い盗賊が盗んで食べるのと同じであり、それは欺きの罪に堕ちることになる」と。

如是於三種供養人中，心不愛著，亦不自高，是名生忍。

> 三種類の供養を受ける人々の中で、心が執着せず、また自らを高ぶらせることもない、これを生忍といいます。

問曰：

> お尋ねします。

人未得道，衣食為急，云何方便能得忍，心不著、不愛給施之人？

> 人がまだ道を得ていないときは、衣食が急務です。どうすれば、心がとらわれず、施しを与える人を愛着せずに、堪え忍ぶ心を得ることができるのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

以智慧力，觀無常相、苦相、無我相，心常厭患。譬如罪人臨當受戮，雖復美味在前，家室勸喻，以憂死故，雖飲食餚膳，不覺滋味；行者亦爾，常觀無常相、苦相，雖得供養，心亦不著。又如麞鹿為虎搏逐，追之不捨，雖得好草、美水飲食，心無染著；行者亦爾，常為無常虎逐不捨須臾，思惟厭患，雖得美味，亦不染著。是故行者於供養人中，心得自忍。

> 智慧の力によって、無常の相、苦の相、無我の相を観じ、心は常に厭い離れる。たとえば罪人がまさに処刑されようとするとき、目の前に美味があっても、家族が勧めても、死の憂いに心が奪われて、飲食物の味を感じない。修行者も同じである。常に無常の相、苦の相を観じているので、供養を受けても心は執着しない。また、鹿が虎に追われて、虎が執拗に追い続けるとき、良い草や美味しい水があっても、心は染まらない。修行者も同じである。常に無常の虎に片時も追われ続け、厭い離れることを思うので、美味を得ても染まらない。したがって修行者は、供養する人々の中にあっても、心をよく堪え忍ぶのである。

復次，若有女人來欲娛樂，誑惑菩薩，菩薩是時當自伏心，忍不令起。

> また、もし女性が楽しませようとして菩薩を惑わそうと近づいてきても、菩薩はそのとき、自ら心を制して、欲を起こさないように耐え忍ぶのです。

如釋迦文尼佛在菩提樹下，魔王憂愁，遣三玉女：一名樂見，二名悅彼，三名渴愛；來現其身，作種種姿態，欲壞菩薩。菩薩是時心不傾動，目不暫視。三女念言：「人心不同，好愛各異；或有好少，或愛中年，或好長好短，好黑好白，如是眾好，各有所愛。」是時三女，各各化作五百美女，一一化女作無量變態，從林中出。譬如黑雲，電光暫現，或揚眉頓睫，嫈嫇細視，作眾伎樂，種種姿媚，來近菩薩，欲以態身觸逼菩薩。爾時，密迹金剛力士瞋目叱之：「此是何人？而汝妖媚敢來觸嬈！」爾時，密迹說偈呵之：

> 釈迦文尼仏が菩提樹の下におられるとき、魔王は憂いに沈み、三人の玉女を遣わした。一人は楽見といい、二人目は悦彼、三人目は渇愛といった。かれらは姿を現し、さまざまな姿態をとって、菩薩を惑わそうとした。菩薩はそのとき、心が揺らぐことなく、目を一瞬たりとも向けなかった。三人の女は思った。「人の心はそれぞれ異なり、好みもさまざまだ。好みが少ない者もあれば、中年を好む者もあり、長いのが好きな者も短いのが好きな者もあり、黒が好きな者も白が好きな者もいる。このように多くの好みは、それぞれに愛するものがある。」そこで三人の女は、それぞれ五百の美女に姿を変え、その一人ひとりの変化した女が無数の変態を現して、林の中から出てきた。まるで黒い雲に稲妻が一瞬光るかのように、あるいは眉を上げまばたきをし、嫈嫇として細く見つめ、さまざまな伎楽を奏で、種々の媚態を示して、菩薩に近づき、その姿で菩薩に触れ迫ろうとした。そのとき、密迹金剛力士は目を怒らせてしかりつけた。「これは何者だ。この妖媚な者どもがよくも触れ悩まそうとするとは！」そのとき、密迹は偈を説いてこれを呵した。

「汝不知天命， 失好而黃髯；大海水清美， 今日盡苦醎。汝不知日減， 婆藪諸天墮；火本為天口， 而今一切噉。」

> あなたは天命を知らず、よいものを失って黄ばんだ髯となった。 大海の水は清く美しかったのに、今日はすっかり苦く塩辛くなってしまった。 あなたは日が減っていくことを知らず、婆藪天たちは堕ちてしまった。 火はもともと天の口であったのに、今ではすべてを食べ尽くしている。

「汝不知此事，敢輕此聖人！」

> あなたはこのことを知らないのに、よくもこの聖人を軽んじたものだ！

是時，眾女逡巡小退，語菩薩言：「今此眾女端嚴無比，可自娛意，端坐何為？」

> そのとき、女たちは少し後ずさりして、菩薩に言いました。「この女たちはどれも比べようがないほど美しいのです。どうか心ゆくまでお楽しみください。じっと座っておられてはどうなさいますか。」

菩薩言：「汝等不淨，臭穢可惡。去！勿妄談！」菩薩是時，即說偈言：

> 菩薩は言いました。「あなたがたは汚れていて、臭くて忌まわしい。去りなさい！無駄なことを言ってはいけない。」そこで菩薩は、次のように詩を唱えました。

「是身為穢藪， 不淨物腐積，是實為行廁， 何足以樂意！」

> この体は汚れの集まりで、 不浄なものが腐って積もっている。 まるで動く便所だ。 どうして喜べるだろうか。

女聞此偈，自念：「此人不知我等清淨天身而說此偈。」即自變身，還復本形，光曜昱爍，照林樹間，作天伎樂，語菩薩言：「我身如是，有何可呵？」

> 女性はこの詩を聞いて、心の中で思いました。「この人は私たちが清らかな天の身であることを知らずに、この詩を唱えているのだわ。」そこで自ら変身して、もとの姿に戻りました。その光はまばゆく輝き、林や木々の間を照らしました。そして天の音楽を奏でながら、菩薩に言いました。「私のこの姿の、どこが非難に値するというのですか。」

菩薩答言：「時至自知！」

> 菩薩は答えました。「時が来れば自然にわかります。」

問曰：「此言何謂？」

> 問い：「この言葉はどういう意味ですか？」

以偈答言：

> 詩を唱えてお答えします。

「諸天園林中， 七寶蓮華池，天人相娛樂， 失時汝自知！是時見無常， 天人樂皆苦，汝當厭欲樂， 愛樂正真道！」

> 諸天の園林の中、 七宝の蓮華池、 天人たちは互いに楽しみ合うが、 時が過ぎたことは汝自ら知るだろう！ その時、無常を見るならば、 天人たちの楽しみは皆、苦となる。 汝は欲の楽しみを厭い離れ、 正しき真の道を愛し楽しむべきである！

女聞偈已，心念：「此人大智無量，天樂清淨，猶知其惡，不可當也！」即時滅去。菩薩如是觀婬欲樂，能自制心，忍不傾動。

> 女性はその詩を聞くと、心の中で思いました。「この人は計り知れないほどの智慧を持ち、天の清らかな楽しみさえも、その悪しき本性を見抜いている。とても太刀打ちできない。」そうして、その場で姿を消しました。菩薩はこのように、淫欲の楽しみを観察し、自らの心を制することができ、堪え忍んで心を揺るがせません。

復次，菩薩觀欲，種種不淨，於諸衰中，女衰最重。刀火、雷電、霹靂、怨家、毒蛇之屬，猶可暫近；女人慳妬、瞋諂、妖穢、鬪諍、貪嫉，不可親近。何以故？女子小人，心淺智薄，唯欲是視，不觀富貴、智德、名聞，專行欲惡，破人善根。桎梏、枷鎖，閉繫、囹圄，雖曰難解，是猶易開；女鎖繫人，染固根深，無智沒之，難可得脫。眾病之中，女病最重。如佛偈言：

> 次に、菩薩は欲望を観察します。それはさまざまに不浄であり、もろもろの衰えの中でも、女性という衰えが最も重いものです。刀や火、雷電、落雷、怨敵、毒蛇の類でさえ、しばらくは近づくことができます。しかし女性の慳貪・嫉妬・瞋恚・諂曲・妖しさ・穢れ・争い・貪り・嫉みには、親しみ近づくことはできません。なぜでしょうか。女性や小人は、心が浅く智慧が薄く、ただ欲望だけを見て、富貴・智徳・名声を顧みず、もっぱら欲望と悪を行い、人の善根を破るからです。手枷や足枷、鎖、閉じ込め、牢獄は、解くのが難しいとはいえ、なお開くのは容易です。しかし女性という鎖は人を縛り、染着は固く根深く、智慧のない者はそれに沈み、脱け出すことは困難です。もろもろの病の中でも、女性という病が最も重いのです。仏の偈に言うとおりです。

「寧以赤鐵， 宛轉眼中； 不以散心，邪視女色。 含笑作姿， 憍慢羞恥；迴面攝眼， 美言妬瞋。 行步妖穢，以惑於人； 婬羅彌網， 人皆沒身。坐臥行立， 迴眄巧媚； 薄智愚人，為之心醉。 執劍向敵， 是猶可勝；女賊害人， 是不可禁。 蚖蛇含毒，猶可手捉； 女情惑人， 是不可觸。有智之人， 所應不視； 若欲觀之，當如母姊。 諦視觀之， 不淨填積；婬火不除， 為之燒滅！」

> 赤い鉄を目の中で転がし続けるほうがましだ。 心を散らして、女の色を邪まな目で見るようなことはするな。 笑みを浮かべて媚びる姿、驕り高ぶり、恥じらいを装う。 顔を巡らせ、目を流し、美しい言葉の裏に嫉妬と怒りを隠す。 その歩みは妖しく穢らわしく、人を惑わす。 淫欲の網は広く張り巡らされ、人はみな身を沈める。 座り、伏し、歩き、立ち、流し目で巧みに媚びる。 浅はかな知恵の愚か者だけが、その心を酔わせる。 剣を手に敵に向かうなら、なお勝つことはできよう。 しかし女という盗賊は人を害し、これを禁じることはできない。 毒を持つ蛇でさえ、手で捉えることはできよう。 しかし女の情は人を惑わし、これに触れることはできない。 知ある人は、見るべきではない。 もし見ようとするなら、母や姉のように見なさい。 よくよく観察すれば、不浄が積み重なっているだけだ。 淫欲の火を消さなければ、その火に焼かれて滅びる。

復次，女人相者，若得敬待，則令夫心高；若敬待情捨，則令夫心怖。女人如是，恒以煩惱、憂怖與人，云何可近？親好乖離，女人之罪；巧察人要，女人之智。大火燒人，是猶可近；清風無形，是亦可捉；蚖蛇含毒，猶亦可觸；女人之心，不可得實。何以故？女人之相：不觀富貴、端政、名聞，智德、族姓，技藝、辯言，親厚、愛重，都不在心，唯欲是視；譬如蛟龍，不擇好醜，唯欲殺人。又復女人不瞻視，憂苦憔悴；給養敬待，憍奢叵制。

> また、女性の性質について言えば、敬われ大切にされると、夫の心は驕り高くなる。敬い大切にする心を捨てれば、夫の心は恐れおののく。女性とはこのように、常に悩みや不安・恐れを人に与えるものである。どうして近づくことができようか。親しく睦まじい関係が壊れるのは、女性の罪である。巧みに人の心の急所を見抜くのは、女性の知恵である。大火は人を焼くが、それでもまだ近づくことができる。清風は形がなくとも、それでもまだ捕まえることができる。毒を持つ蛇でさえ、まだ触れることができる。しかし女性の心は、真実を得ることができない。なぜか。女性の性質とは、富や地位、美しさ、名声、知恵や徳、家柄、才能や技芸、弁舌、親しみや愛情を、まったく心にかけず、ただ欲望だけを見るからである。ちょうど蛟龍が善し悪しを選ばず、ただ人を殺そうとするだけなのと同じである。また女性は顧みられなければ、憂いに苦しみやつれる。養い敬えば、驕り高ぶって制御できない。

復次，若在善人之中，則自畜心高；無智人中，視之如怨；富貴人中，追之敬愛；貧賤人中，視之如狗。常隨欲心，不隨功德。

> また、善人の中にあっては、自分だけが優れているとうぬぼれ、無知な人々の中では、怨敵のように見なし、富貴な人々の中では、追い求めて敬い愛し、貧しく卑しい人々の中では、犬のように見下す。常に欲望の心に従い、功德には従わない。

如說：

> 次のように説かれています。

國王有女，名曰拘牟頭。有捕魚師，名述婆伽，隨道而行，遙見王女在高樓上。窓中見面，想像染著，心不暫捨，彌歷日月，不能飲食。

> ある国の王に、拘牟頭（クモウズ）という名の娘がいました。また、述婆伽（ジュバカ）という名の漁師がいました。その漁師が道を歩いていると、遠くに高い楼閣の上にいる王女の姿が見えました。窓越しにその顔を見てから、漁師は心を奪われ、想いを募らせ、片時も忘れることができませんでした。月日が流れても、彼は食べることもできないほどになってしまいました。

母問其故，以情答母：「我見王女，心不能忘！」

> 母がその理由を尋ねると、その気持ちをありのままに答えた。「あの王女を見てから、心から忘れられないのです！」

母諭兒言：「汝是小人，王女尊貴，不可得也！」

> 母は子に言いました。「あなたは身分の低い者です。王女はとても尊いお方ですから、手に入れることはできませんよ。」

兒言：「我心願樂，不能暫忘；若不如意，不能活也！」

> 息子は言いました。「私の心は強く願い、少しも忘れることができません。もし思い通りにならなければ、生きていくことはできません！」

母為子故，入王宮中，常送肥魚美肉，以遺王女而不取價。

> 母は息子のために王宮に入り、いつも脂ののった魚や美味しい肉を王女に贈り、代金は受け取りませんでした。

王女怪而問之：「欲求何願？」

> 王女は不思議に思い、彼に尋ねました。「どんな願いを求めているのですか。」

母白王女：「願却左右，當以情告。我唯有一子，敬慕王女，情結成病，命不云遠；願垂愍念，賜其生命！」

> 母は王女に言いました。「どうか左右の人を下がらせて、心の内をお話しください。私にはただ一人の子がおり、王女を慕うあまり、思いが病となって命も長くありません。どうか哀れみをおかけになり、その命をお救いください。」

王女言：「汝去！月十五日，於某甲天祠中，住天像後。」母還語子：「汝願已得！」告之如上。沐浴新衣，在天像後住。

> 王女が言いました。「あなた、行きなさい。月の十五日に、ある天祠の中で、天像の後ろに隠れていなさい。」母は戻って息子に「あなたの願いは叶いました！」と伝え、以上のことを告げました。息子は沐浴して新しい衣をまとい、天像の後ろに隠れました。

王女至時，白其父王：「我有不吉，須至天祠以求吉福。」

> 王女は時に父王に申し上げた。「私にはよくないことがありますので、天の祠へ参りまして吉福を祈りたいと存じます。」

王言：「大善！」

> 王はおっしゃいました。「それは本当にすばらしいことだ。」

即嚴車五百乘，出至天祠；既到，勅諸從者齊門而止，獨入天祠。

> そこで、五百台の立派な車を整え、天祠へと出発しました。到着すると、従者たちに門の外で待つよう命じ、ただ一人で天祠の中に入っていきました。

天神思惟：「此不應爾！王為世主，不可令此小人毀辱王女！」即厭此人，令睡不覺。王女既入，見其睡重，推之不悟，即以瓔珞直十萬兩金，遺之而去。去後，此人得覺，見有瓔珞，又問眾人，知王女來；情願不遂，憂恨懊惱，婬火內發，自燒而死。以是證故，知女人之心不擇貴賤，唯欲是從。

> 天神はこう考えた。「これはよくない。王は国の主であり、こんな下賤の者に王女を辱められるわけにはいかない。」そこでその男を嫌い、眠って気づかないようにさせた。王女が入ってくると、男が深く眠っているのを見て、揺り起こそうとしたが目を覚まさなかった。そこで瓔珞（価値十万両の金に相当する装身具）を置いて立ち去った。去った後、男は目を覚まし、瓔珞があるのを見て、また人々に尋ねて、王女が来たことを知った。願いが遂げられず、憂い恨み懊悩し、淫欲の火が内から燃え上がり、自ら焼け死んだ。この証しによって、女の心は貴賤を選ばず、ただ欲に従うのみであることがわかる。

復次，昔有國王女，逐旃陀羅，共為不淨。又有仙人女，隨逐師子。如是等種種，女人之心無所選擇。

> また、昔、ある国王の娘が旃陀羅（最下層の人）のもとへ走り、ともに不浄の行いをしました。また仙人の娘が獅子を追いかけました。このようにさまざまな例があり、女の心にはえり好みがないのです。

以是種種因緣，於女人中除去情欲，忍不愛著。

> こうしたさまざまな理由から、女性に対する情欲を捨て、たとえ愛着が生じてもじっと耐えて執着しないことです。

云何瞋惱人中而得忍辱？

> 怒りに悩む人の中で、どうして忍辱を得ることができるのでしょうか。

當自思惟：「一切眾生有罪因緣，更相侵害。我今受惱，亦本行因緣，雖非今世所作，是我先世惡報，我今償之，應當甘受，何可逆也！譬如負債，債主索之，應當歡喜償債，不可瞋也。」

> 心の中でこう考えるべきです。「すべての生きとし生けるものには罪の因縁があり、互いに傷つけ合っている。私が今苦しみを受けるのも、もとをたどれば行いの因縁によるもので、たとえ今世で行ったことではなくとも、前世の悪い報いである。今それを償うのだから、甘んじて受け入れるべきで、どうして逆らうことがあろうか。たとえば借金があるとき、貸主が返済を求めてきたら、喜んで返済すべきであって、怒ってはならない。」

復次，行者常行慈心，雖有惱亂逼身，必能忍受。

> また、修行する人はいつも慈しみの心を持ち続けるので、たとえ悩ませ乱すものが身を迫ってきても、必ず耐えることができます。

譬如羼提仙人在大林中修忍行慈。時，迦利王將諸婇女，入林遊戲；飲食既訖，王小睡息。諸婇女輩遊花林間，見此仙人，加敬禮拜，在一面立。仙人爾時為諸婇女讚說慈忍，其言美妙，聽者無厭，久而不去。迦利王覺，不見婇女，拔劍追蹤；見在仙人前立，憍妬隆盛，瞋目奮劍而問仙人：「汝作何物？」

> たとえば、羼提仙人が大きな林の中で忍辱の行を修め、慈しみを実践していたときのことです。そこへ迦利王が多くの侍女たちを連れて林に遊びに来て、飲食を終えると、王は少し眠りました。侍女たちは花の林を散策し、この仙人を見ると、敬意を表して礼拝し、そばに立っていました。仙人はそのとき、侍女たちのために慈しみと忍辱について褒め称えて説きました。その言葉は美しく、聞く者は飽きることなく、いつまでも立ち去りませんでした。迦利王が目を覚ますと、侍女たちの姿が見えず、剣を抜いて後を追いました。そして仙人の前に立っているのを見ると、驕りと嫉妬が激しくなり、怒りの目で剣を振るいながら仙人に問いました。「おまえは何をしているのか」と。

仙人答言：「我今在此修忍、行慈。」

> 仙人はこう答えました。「私はここで忍耐と慈しみを修行しています。」

王言：「我今試汝，當以利劍截汝耳鼻，斬汝手足，若不瞋者，知汝修忍！」

> 王は言いました。「私は今、あなたを試そう。鋭い剣であなたの耳や鼻を切り、手や足を切り落とす。もしそれでも怒らなければ、あなたが忍耐を修めていると分かるだろう。」

仙人言：「任意！」

> 仙人は言いました。「あなたの思いのままに。」

王即拔劍截其耳鼻，斬其手足，而問之言：「汝心動不？」

> 王はすぐに剣を抜いて、その耳と鼻を切り落とし、手足を斬り捨てて、こう問いかけました。「お前の心は動いたか。」

答言：「我修慈忍，心不動也。」

> 「私は慈しみと忍耐を修めているので、心は動じません」と答えました。

王言：「汝一身在此，無有勢力，雖口言不動，誰當信者？」

> 王は言った。「お前はたった一人でここにいて、何の力も持たない。口で動かないと言っても、誰が信じるだろうか。」

是時仙人即作誓言：「若我實修慈忍，血當為乳！」即時血變為乳。

> そのとき、仙人はすぐに誓いを立てました。「もし私が本当に慈しみと忍耐を実践しているなら、この血は乳に変わるはずだ！」すると、血はたちまち乳に変わりました。

王大驚喜，將諸婇女而去。

> 王は大いに喜び、多くの侍女たちを連れて去っていきました。

是時林中龍神，為此仙人雷電、霹靂，王被毒害，沒不還宮。

> その時、林の中の竜神はこの仙人のために雷を落とし、稲妻を光らせた。王は毒に倒れ、宮殿に戻ることはなかった。

以是故言「於惱亂中能行忍辱」。

> ですから、「悩ませ乱すものの中でこそ忍辱を行える」と言うのです。

復次，菩薩修行悲心，一切眾生常有眾苦：處胎迫隘，受諸苦痛；生時迫迮，骨肉如破，冷風觸身，甚於劍戟。是故佛言：「一切苦中，生苦最重。」如是老、病、死苦，種種困厄，云何行人復加其苦？是為瘡中復加刀破！

> 次に、菩薩は悲心を修行します。すべての衆生には常にさまざまな苦しみがあります。胎内にいる時は狭苦しく、さまざまな苦痛を受けます。生まれる時は体が押し潰され、骨も肉も砕けるようで、冷たい風が体に触れるのは剣戟よりも激しいのです。だから仏は言われました。「すべての苦しみの中で、生まれる苦しみが最も重い」と。このように老い、病、死の苦しみ、さまざまな困難があるのに、どうして修行する者がさらに苦しみを加えることができるでしょうか。それは傷口にさらに刀を切りつけるようなものです。

復次，菩薩自念：「我不應如諸餘人常隨生死水流，我當逆流以求盡源，入泥洹道。一切凡人，侵至則瞋，益至則喜，怖處則畏。我為菩薩，不可如彼，雖未斷結，當自抑制，修行忍辱，惱害不瞋，敬養不喜，眾苦艱難不應怖畏；當為眾生興大悲心！」

> さらに、菩薩はこう自ら考えます。「私は他の人々のように、いつも生死の流れに流されていてはならない。流れに逆らって進み、その源を尽くして、涅槃の道に入るべきである。すべての凡人は、害されれば怒り、利益を得れば喜び、恐ろしい場所では怖がる。私は菩薩として、彼らのようであってはならない。まだ煩悩を断ち切っていなくても、自らを抑えて、忍辱を修行し、悩まされ害されても怒らず、敬われ養われても喜ばず、さまざまな苦しみや困難を恐れてはならない。生きとし生けるもののために、大きな慈悲の心を起こすべきである。」

復次，菩薩若見眾生來為惱亂，當自念言：「是為我之親厚，亦是我師，益加親愛，敬心待之。何以故？彼若不加眾惱惱我，則我不成忍辱；以是故言是我親厚，亦是我師。」

> 次に、菩薩がもし衆生がやって来て自分を煩わせ悩ませようとするのを見たなら、こう心に念じるべきです。「この人は私にとって親しい者であり、また私の師でもある。いっそう親愛の情を深め、敬う心で接しよう。なぜなら、もしその人がさまざまな悩みで私を煩わせなかったなら、私は忍辱を成し遂げることができないからだ。それゆえに言うのである。この人は私の親しい者であり、また私の師である」と。

復次，菩薩心知：「如佛所說：『眾生無始，世界無際，往來五道，輪轉無量。』我亦曾為眾生父母、兄弟，眾生亦皆曾為我父母、兄弟；當來亦爾。」以是推之，不應惡心而懷瞋害。

> さらに、菩薩は心にこう知ります。「仏が説かれたとおり、生きとし生けるものの始まりはなく、世界の果てもなく、五つの道を行き来して、限りなく生まれ変わり続けている。私もまたかつては生きとし生けるものの父母や兄弟であり、生きとし生けるものも皆かつては私の父母や兄弟であった。これから先も同じである。」このように思いをめぐらせるので、悪い心を抱いて怒りや害を与えてはならないのです。

復次，思惟：「眾生之中，佛種甚多，若我瞋意向之，則為瞋佛；若我瞋佛，則為已了！如說鴿鳥當得作佛，今雖是鳥，不可輕也。」

> 次に、こう考えてみましょう。「生きとし生けるものの中には、仏となる種(可能性)を持つ者がたくさんいる。もし私が彼らに怒りの心を向けるなら、それは仏に対して怒りを向けることになる。もし仏に対して怒りを向けるなら、それはもうおしまいだ。経典に説かれているように、鳩(はと)でさえ将来は仏になれるのだ。今はただの鳥であっても、軽く見てはならない。」

復次，諸煩惱中，瞋為最重，不善報中，瞋報最大；餘結無此重罪。

> 次に、さまざまな煩悩の中で、怒りは最も重いものです。悪い報いの中でも、怒りの報いは最も大きいのです。他の煩悩には、これほどの重い罪はありません。

如釋提婆那民問佛偈言：

> そこで、釋提婆那民という神が、仏に次のように問いかけた。

「何物殺安隱？ 何物殺不悔？何物毒之根， 吞滅一切善？何物殺而讚？ 何物殺無憂？」

> 何を殺せば安らかになれるのか。何を殺せば悔いが残らないのか。 何が毒の根であり、すべての善を飲み込んで滅ぼすのか。 何を殺すことが称えられ、何を殺せば憂いがなくなるのか。

佛答偈言：

> 佛は次のようにお答えになりました。

「殺瞋心安隱， 殺瞋心不悔；瞋為毒之根， 瞋滅一切善；殺瞋諸佛讚， 殺瞋則無憂！」

> 怒りを手放せば、心は安らかになる。 怒りを手放せば、後悔することもない。 怒りは毒の根であり、 怒りはすべての善を滅ぼす。 怒りを手放すことを、仏たちは讃える。 怒りを手放せば、憂いがなくなる。

菩薩思惟：「我今行悲，欲令眾生得樂。瞋為吞滅諸善，毒害一切，我當云何行此重罪？若有瞋恚，自失樂利，云何能令眾生得樂？」

> 菩薩はこう思いました。「私は今、慈悲の行を実践し、すべての生きとし生けるものが幸せになれるように願っている。しかし、怒りはあらゆる善を飲み込み滅ぼし、すべてを毒で害してしまう。どうして私はこのような重い罪を犯すことがあろうか。もし怒りの心があれば、自分自身が楽しみと利益を失ってしまうのに、どうして生きとし生けるものを幸せにすることができようか。」

復次，諸佛菩薩以大悲為本，從悲而出；瞋為滅悲之毒，特不相宜。若壞悲本，何名菩薩？菩薩從何而出？以是之故，應修忍辱。若眾生加諸瞋惱，當念其功德；今此眾生雖有一罪，更自別有諸妙功德；以其功德故，不應瞋。

> 次に、諸仏菩薩は大悲を根本とし、悲から生じます。瞋りは悲を滅ぼす毒であり、特にふさわしくありません。もし悲の根本を壊してしまえば、どうして菩薩と呼べるでしょうか。菩薩はどこから生じるのでしょうか。ですから、忍辱を修めるべきです。もし衆生が怒りや悩みを加えてきても、その功徳を思い起こすべきです。今この衆生には一つの罪があっても、さらに別に様々な素晴らしい功徳があります。その功徳があるからこそ、怒ってはいけないのです。

復次，此人若罵若打，是為治我；譬如金師煉金，垢隨火去，真金獨在；此亦如是。若我有罪，是從先世因緣，今當償之，不應瞋也，當修忍辱！

> さらに、この人が私を罵ったり打ったりするのは、私を鍛え清めてくれるようなものだ。たとえば金細工師が金を精錬するとき、不純物は火とともに取り除かれ、純粋な金だけが残る。これも同じである。もし私に罪があれば、それは前世の因縁によるもので、今こそ償うべきである。だから怒ってはならず、忍辱を修めるべきである。

復次，菩薩慈念眾生，猶如赤子。閻浮提人多諸憂愁，少有歡日；若來罵詈，或加讒賊，心得歡樂。此樂難得，恣汝罵之！何以故？我本發心，欲令眾生得歡喜故。

> 次に、菩薩は生きとし生けるものに対して慈しみの心を持ち、まるでわが子を思うように接します。この世界の人々は憂いに満ち、喜びの日はほとんどありません。だからもし誰かが罵りに来たり、讒言や害を加えようとしても、かえって心に喜びを感じるのです。この喜びは得がたいものだから、どうぞ思うままに罵ってください。なぜなら、私はもともと、すべての生きとし生けるものが喜びを得られるようにと願って歩み始めたからです。

復次，世間眾生，常為眾病所惱，又為死賊常隨伺之，譬如怨家恒伺人便；云何善人而不慈愍復欲加苦？苦未及彼，先自受害。如是思惟，不應瞋彼，當修忍辱。

> 世の中のすべての生きとし生けるものは、いつもさまざまな病に悩まされ、さらに死という賊にいつもつけ狙われています。まるで怨みを持つ者が常に人の隙をうかがっているかのようです。どうして善い人が、彼らをあわれまず、さらに苦しめようとするでしょうか。苦しみは相手に届く前に、まず自分自身を傷つけてしまいます。このように思いめぐらして、相手を怒ってはならず、忍辱を修めるべきです。

復次，當觀瞋恚，其咎最深。三毒之中，無重此者；九十八使中，此為最堅；諸心病中，第一難治。瞋恚之人，不知善，不知非善；不觀罪福，不知利害；不自憶念，當墮惡道！善言忘失，不惜名稱；不知他惱，亦不自計身心疲惱；瞋覆慧眼，專行惱他。如一五通仙人，以瞋恚故，雖修淨行，殺害一國，如旃陀羅。

> 次に、怒りを観察しなさい。その過ちは最も深い。三毒の中でもこれより重いものはなく、九十八の煩悩の中でもこれが最も頑固で、心の病の中では第一に治しがたいものです。怒りに染まった人は、善も知らず、善でないことも知りません。罪と福を見ることもなく、利害もわきまえません。自分が悪道に堕ちることを思い起こすこともありません。善い言葉を忘れ失い、名誉を惜しむこともなく、他人を悩ませていることに気づかず、自分の身心が疲れ苦しんでいることも省みません。怒りは慧の眼を覆い、ひたすら他人を悩ませることに専念します。あたかも五神通を得た仙人が、怒りのために清浄な行を修めていながら一国を殺害し、旃陀羅のようになってしまったかのようです。

復次，瞋恚之人，譬如虎狼，難可共止；又如惡瘡，易發、易壞。瞋恚之人，譬如毒蛇，人不憙見。積瞋之人，惡心漸大，至不可至，殺父、殺君，惡意向佛。

> 次に、怒りを持つ人は、虎や狼のようなもので、一緒にいることは難しい。また、悪いできもののように、すぐに膿み、すぐに崩れる。怒りを持つ人は、毒蛇のようなもので、誰も見たがらない。怒りを積み重ねた人は、悪い心がだんだん大きくなり、ついには父を殺し、君主を殺し、仏にまで悪意を向けるようになる。

如拘睒彌國比丘，以小因緣，瞋心轉大，分為二部。若欲斷當，終竟三月，猶不可了。佛來在眾，舉相輪手，遮而告言：

> 拘睒弥国の比丘たちが、ちょっとしたことで怒りの心を大きくし、二つのグループに分かれてしまった。これを解決しようとしても、三か月たっても終わらなかった。そこで仏が皆の前に来て、相輪の手を挙げて遮り、こう告げられた。

「汝諸比丘， 勿起鬪諍！ 惡心相續，苦報甚重！汝求涅槃， 棄捨世利， 在善法中，云何瞋諍？ 世人忿諍， 是猶可恕，出家之人， 何可諍鬪？ 出家心中，懷毒自害； 如冷雲中， 火出燒身！」

> 「比丘たちよ、 争いを起こしてはならない！ 悪意が続けば、 苦しみの報いはとても重い。 あなたたちは涅槃を求め、 世の利益を捨て、 善き法の中にいるのに、 なぜ怒り争うのか？ 世の人が怒り争うのは、 まだ許されるだろう。 しかし出家した者が、 どうして争ってよいだろうか？ 出家した者の心に 毒を抱けば、自分を傷つける。 冷たい雲の中から 火が出て身を焼くようなものだ。」

諸比丘白佛言：「佛為法王，願小默然！是輩侵我，不可不答！」佛念是人不可度也，於眾僧中凌虛而去，入林樹間寂然三昧。

> 比丘たちが仏に申し上げた。「仏は法の王でいらっしゃいます。どうか少しお黙りください。この者たちは私たちを侵し続けています。答えずにはいられません。」仏は、この者たちは救いがたいとお思いになり、僧たちの中から虚空に舞い上がり、林の木々の間へ去って、静かに三昧に入られた。

瞋罪如是，乃至不受佛語。以是之故，應當除瞋，修行忍辱。

> 怒りの罪はこのようなもので、ついには仏の教えを受け入れなくさせてしまいます。ですから、怒りを捨て去り、忍辱を修行すべきです。

復次，能修忍辱，慈悲易得；得慈悲者，則至佛道。

> さらに、忍辱を実践できる人は、慈悲を容易に得ることができます。慈悲を得た人は、やがて仏の道に至るのです。

問曰：

> お尋ねします。

忍辱法皆好，而有一事不可：小人輕慢，謂為怖畏；以是之故，不應皆忍。

> 忍辱はよいことですが、一つだけ耐え难いことがあります。それは、つまらない人間に軽んじられ、「恐れているからだ」と思われることです。だから、すべてを耐え忍ぶべきではありません。

答曰：

> お答えしますと、

若以小人輕慢，謂為怖畏而欲不忍，不忍之罪甚於此也！

> もし相手を小さい人間だと見下して、「恐れているから耐えられないのだろう」と思い、許そうとしないなら、その許さない罪のほうがはるかに重いのです。

何以故？不忍之人，賢聖善人之所輕賤；忍辱之人，為小人所慢；二輕之中，寧為無智所慢，不為賢聖所賤。何以故？無智之人，輕所不輕；賢聖之人，賤所可賤。以是之故，當修忍辱。

> なぜでしょうか。忍辱を実践しない人は、賢者や聖者、善人から軽んじられます。一方、忍辱を実践する人は、器の小さい人から侮られます。この二つの軽蔑のうち、どちらを選ぶべきでしょうか。愚かな人から侮られるほうを選び、賢者や聖者から軽んじられるのは避けるべきです。なぜでしょうか。愚かな人は、軽んじるべきでない人を軽んじますが、賢者や聖者は、軽んじるべき人をこそ軽んじるからです。ですから、私たちは忍辱を実践すべきなのです。

復次，忍辱之人，雖不行布施、禪定，而常得微妙功德，生天上、人中，後得佛道。何以故？心柔軟故。

> また、忍辱を実践する人は、たとえ布施や禅定を行わなくても、常に微妙な功徳を得て、天上や人の世界に生まれ、後に仏の道を得ることができます。なぜでしょうか。心が柔らかく穏やかであるからです。

復次，菩薩思惟：「若人今世惱我，毀辱、奪利，輕罵、繫縛，且當含忍。若我不忍，當墮地獄鐵垣熱地，受無量苦，燒炙燔煮，不可具說！」以是故，知小人無智，雖輕而貴；不忍用威，雖快而賤。是故菩薩應當忍辱。

> 次に、菩薩はこのように思います。「もし人が今、私を悩ませ、ののしり辱め、利益を奪い、軽んじて罵り、縛りつけるなら、しばらくは耐え忍ぼう。もし私が耐え忍ばなければ、地獄の鉄の壁と熱い大地に堕ち、無量の苦しみを受け、焼かれ炙られ煮られて、とても語り尽くせないだろう。」このことから、小さな者には知恵がなく、軽んじられてはいても実は尊いのだと知ります。怒りに任せて威を振るうのは、たとえ快くても卑しいことです。ですから菩薩は忍辱を実践すべきなのです。

復次，菩薩思惟：「我初發心，誓為眾生治其心病。今此眾生為瞋恚結使所病，我當治之，云何而復以之自病？應當忍辱！」譬如藥師療治眾病，若鬼狂病，拔刀罵詈，不識好醜，醫知鬼病，但為治之而不瞋恚；菩薩若為眾生瞋惱罵詈，知其為瞋恚者煩惱所病，狂心所使，方便治之，無所嫌責，亦復如是。

> 次に、菩薩はこう思います。「私は最初に発心したとき、誓って衆生の心の病を治すと決めた。今、この衆生は瞋恚の煩悩という病に冒されている。私がそれを治すべきなのに、どうして自分までそれに病まされてよいだろうか。むしろ忍辱すべきである」と。たとえば、薬師がさまざまな病を治すとき、鬼に取りつかれて狂った病の者が、刀を抜いて罵り、善悪の区別もつかないことがある。医者はそれが鬼の病だと知っているので、ただ治すことだけに努めて腹を立てない。菩薩も同じです。衆生が瞋りの心で怒り罵っても、それが瞋恚の煩悩に病まされ、狂った心に操られているのだと知って、巧みに治し、とがめることなく、少しも嫌悪しないのです。

復次，菩薩育養一切，愛之如子；若眾生瞋惱菩薩，菩薩愍之，不瞋、不責。譬如慈父撫育子孫，子孫幼稚未有所識，或時罵詈、打擲，不敬、不畏，其父愍其愚小，愛之愈至，雖有過罪，不瞋、不恚；菩薩忍辱，亦復如是。

> 次に、菩薩はすべての生きとし生けるものを育て養い、我が子のように愛します。もし生きとし生けるものが菩薩に怒りや悩みをぶつけても、菩薩はそれを哀れみ、怒らず、責めません。たとえば、慈しみ深い父親が子や孫を養い育てるとき、その子や孫は幼くて物の道理もわからず、ときに罵ったり、打ちつけたりして、敬うことも恐れることもありません。しかし父親はその愚かさ幼さを哀れみ、いっそう深く愛し、たとえ過ちや罪があっても、怒ることも恨むこともありません。菩薩の忍辱も、また同じです。

復次，菩薩思惟：「若眾生瞋惱加我，我當忍辱。若我不忍，今世心悔，後入地獄，受苦無量；若在畜生，作毒龍、惡蛇、師子、虎、狼；若為餓鬼，火從口出。譬如人被火燒，燒時痛輕，後痛轉重。」

> 次に、菩薩はこう考えます。「もし生きる者が怒りや悩みを私にぶつけても、私は忍辱をする。もし私が耐えられなければ、今世では心が悔やみ、来世では地獄に落ちて無量の苦しみを受け、畜生の道にあっては毒龍や悪蛇、獅子や虎や狼となり、餓鬼の道にあっては口から火を吐くことになる。たとえば人が火に焼かれるとき、焼かれている間は痛みが軽くても、後の痛みはますます重くなるようなものだ。」

復次，菩薩思惟：「我為菩薩，欲為眾生益利；若我不能忍辱，不名菩薩，名為惡人。」

> 次に、菩薩はこう考えます。「私は菩薩として、生きとし生けるものの利益を願っている。もし私が忍辱の心を持てないのなら、菩薩とは言えず、悪人と呼ばれるだろう。」

復次，菩薩思惟：「世有二種：一者、眾生數，二者、非眾生數。我初發心，誓為一切眾生。若有非眾生數：山石、樹木、風寒、冷熱、水雨侵害，但求䘘之，初不瞋恚。今此眾生是我所為，加惡於我，我當受之，云何而瞋？」

> 次に、菩薩はこのように思いました。 「世の中には二つのものがある。一つは生きとし生けるもの（衆生）、もう一つは生きていないもの（非衆生）である。私は初めて菩提心を起こしたとき、すべての生きとし生けるもののために誓いを立てた。もし生きていないもの、たとえば山や石、木や草、風の寒さや冷たさ、暑さ、水や雨が私を害しても、ただ防ぐことを求めるだけで、決して怒ったりはしない。ましてや、この生きとし生けるものは、私が救おうとしている相手である。たとえ彼らが私に悪意を向けても、私はそれを受け止めるべきである。どうして怒ったりすることがあろうか。」

復次，菩薩知從久遠已來，因緣和合，假名為人，無實人法，誰可瞋者？是中但有骨血、皮肉，譬如累墼；又如木人，機關動作，有去有來。知其如此，不應有瞋！若我瞋者，是則愚癡，自受罪苦。以是之故，應修忍辱。

> 次に、菩薩はこう知っています。遠い昔から、さまざまな因縁が集まって、仮に「人」と名づけているだけであって、実体としての「人」というものは存在しないのだと。そのような中で、誰を怒ることができるでしょうか。そこにあるのはただ骨や血、皮や肉だけで、まるで煉瓦を積み重ねたようなものです。また、木で作った人形が仕掛けによって動き、行ったり来たりするようなものです。このように知ったなら、怒りを抱くべきではありません。もし私が怒るなら、それは愚かなことであり、自分自身が罪と苦しみを受けることになります。だからこそ、忍辱を修めるべきなのです。

復次，菩薩思惟：「過去無量恒河沙等諸佛，本行菩薩道時，皆先行生忍，然後修行法忍。我今求學佛道，當如諸佛法；不應起瞋恚，如魔界法。」

> さらに、菩薩はこう考えました。「過去の無数の仏たちも、菩薩の道を歩んでいたときは、まず耐え忍ぶ心を育て、その後で法を深く理解する忍を知った。私も今、仏の道を学ぼうとしているのだから、仏たちの法に従うべきである。怒りの心を起こしてはならない。それは魔の世界の法だからである。」

以是故，應當忍辱。

> ですから、耐え忍ぶべきなのです。

如是等種種無量因緣故能忍，是名生忍。

> このように、さまざまな無数の理由があるからこそ耐えることができるのです。これを生忍といいます。

## 大智度論卷第十四

> 大智度論 第十四巻