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title: "大智度論 · 25 羼提波羅蜜法忍義"
description: "大智度论由古印度龙树菩萨所造，后秦时期著名译经家鸠摩罗什翻译成中文。该论是佛教重要典籍，属于大乘中观学派的核心论著，主要阐释《大品般若经》的深奥义理。全书共一百卷，系统论述了般若空性思想、菩萨修行次第以及六度万行的实践方法，被誉为大乘佛教的百科全书。作为早期大乘佛教的代表性论典，大智度论对汉传佛教思想体系的形成影响深远，尤其为天台宗、华严宗等宗派提供了重要理论依据，在佛教哲学史上占据崇高地位。"
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## 大智度論釋初品中羼提波羅蜜法忍義第二十五卷第十五

> 大智度論 釈初品 羼提波羅蜜 法忍の義 第二十五<note>巻第十五</note>

龍樹菩薩造

> 龍樹菩薩による

後秦龜茲國三藏鳩摩羅什奉　詔譯

> 後秦の亀茲国三蔵、鳩摩羅什（クマーラジーヴァ）が詔によりて訳す

云何名法忍？

> 法忍とは何でしょうか。

忍諸恭敬、供養眾生及諸瞋惱、婬欲之人，是名生忍。忍其供養、恭敬法及瞋惱、婬欲法，是為法忍。

> あらゆる衆生からの恭敬や供養、また怒りや悩み、欲望に苦しむ人々を忍ぶことを「生忍」といいます。また、それらの供養や恭敬という行為そのもの、そして怒りや悩み、欲望という法（現象）を忍ぶことを「法忍」といいます。

復次，法忍者，於內六情不著，於外六塵不受，能於此二不作分別。何以故？內相如外，外相如內，二相俱不可得故；一相故，因緣合故，其實空故，一切法相常清淨故，如、真際、法性相故，不二入故，雖無二亦不一。如是觀諸法，心信不轉，是名法忍。如《毘摩羅鞊經》中，法住菩薩說：「生、滅為二，不生、不滅是不二入法門。」乃至文殊尸利說：「無聞、無見，一切心滅，無說、無語，是不二入法門。」毘摩羅鞊默然無言，諸菩薩讚言：「善哉！善哉！是真不二入法門。」

> また、法忍とは、内の六つの感覚器官に執着せず、外の六つの感覚対象を受け入れず、この二つに対して分別を起こさないことである。なぜかというと、内の相も外の相も、外の相も内の相も、両方の相はともに得ることができないからである。一つの相であるからであり、因縁が合わさったものであるからであり、その実体は空であるからであり、すべての法の相は常に清らかであるからであり、如、真際、法性の相であるからであり、不二の入り方であるからである。二つではないが、一つでもない。このように諸法を観じ、心に信じて動かないことを、法忍という。 『維摩経』の中で、法住菩薩が説いた：「生と滅は二つであるが、不生不滅は不二の入り方である。」さらに文殊師利が説いた：「聞くこともなく、見ることもなく、すべての心が滅し、説くこともなく、語ることもない、これが不二の入り方である。」維摩詰は黙って言葉を発しなかった。諸菩薩は讃嘆して言った：「善きかな、善きかな。これこそ真の不二の入り方である。」

復次，一切法有二種：一者、眾生，二者、諸法。菩薩於眾生中忍，如先說；今說法中忍。法有二種：心法，非心法。非心法中有內、有外：外有寒熱、風雨等，內有飢渴、老病死等。如是等種種，名為非心法。心法中有二種：一者、瞋恚、憂愁、疑等，二者、婬欲、憍慢等。是二名為心法。菩薩於此二法，能忍不動，是名法忍。

> また、すべての法には二種類あります。一つは「衆生」、もう一つは「諸法」です。菩薩は衆生に対する忍びについて、先に述べたとおりです。ここでは、法に対する忍びについて説きます。 法には二種類あります。「心の法」と「心にあらざる法」です。心にあらざる法には、内と外があります。外には寒さや暑さ、風雨などがあり、内には飢えや渇き、老いや病、死などがあります。このようなさまざまなものを、心にあらざる法と呼びます。 心の法には二種類あります。一つは、怒りや憂い、疑いなどであり、もう一つは、愛欲や高慢などです。この二つを心の法と呼びます。 菩薩はこの二つの法に対して、忍び、動じないことができます。これを「法忍」と呼びます。

問曰：

> お尋ねします。

於眾生中若瞋惱害命得罪，憐愍得福；寒熱、風雨，無有增損，云何而忍？

> 衆生に対して怒りや害意を抱き、命を奪えば罪を生じ、哀れみの心を持てば福を得る。しかし、寒さや暑さ、風雨といったものには、増減や損得が存在しない。それなのに、どうして忍耐するというのか。

答曰：

> お答えしますと、

雖無增損而自生惱亂憂苦，害菩薩道，以是故，應當忍。

> たとえ利益にも損にもならなくても、自ら心を悩ませ、乱し、憂い苦しむことは、菩薩の道を損なうものです。だからこそ、忍耐することが大切なのです。

復次，非但殺惱眾生故得罪，為惡心作因緣故有罪。所以者何？雖殺眾生而無記心，是便無罪；慈念眾生，雖無所與而大得福。以是故，寒熱、風雨，雖無增損，然以能生惡意故得罪。以是故，應當忍。

> さらに、ただ生き物を殺したり苦しめたりしたからといって罪が生じるのではありません。悪い心を起こしたことが原因で罪となるのです。なぜなら、生き物を殺しても、とくに善悪を意識しない心であれば、それは罪にはなりません。逆に、生き物を慈しむ心があれば、たとえ何も与えなくても大きな福を得るからです。ですから、寒さや暑さ、風や雨は、それ自体では私たちに損得をもたらしませんが、悪い心を起こさせる原因となることがあるため、罪を生じることがあるのです。このような理由から、私たちは忍耐を修行すべきなのです。

復次，菩薩自知宿罪因緣：「生此苦處，此我自作，我應自受。」如是思惟，是故能忍。

> また、菩薩は自らの過去の罪の因縁を自ら知る、「この苦しみの境遇に生まれたのは、これは私が自ら作ったことであり、私が自ら受け止めるべきである」と。このように思惟するからこそ、忍ぶことができるのである。

復次，菩薩思惟：「國土有二種：有淨，有不淨。菩薩若生不淨國中，受此辛苦、飢寒眾惱，自發淨願：『我成佛時，國中無此眾苦。』此雖不淨，乃是我利。」

> また、菩薩はこのように思惟する。「国土には清净なものと不清净なものとの二種類がある。菩薩がもし不清净な国に生まれれば、この辛苦や飢えや寒さなどの多くの苦しみを受けることになるが、自ら清らかな誓いを立てる——『私が成仏する時には、私の国にはこのような苦しみが一切ないように』と。この国は不清净であっても、実はそれは私にとっての利益なのである。」

復次，菩薩思惟：「世間八法，賢聖所不能免，何況於我！」以是故，應當忍。

> さらに、菩薩はこのように考える。「世の中の八つの苦楽（八風）は、賢者や聖人でさえ避けられないものである。ましてや、私ごときがどうして避けられようか。」それゆえに、忍耐を修行すべきである。

復次，菩薩思惟：「知此人身無牢無強，為老、病、死所逐；雖復天身清淨，無老、無病，耽著天樂，譬如醉人，不得修行道福、出家離欲。」以是故，於此人身自忍修福，利益眾生。

> さらに、菩薩はこのように思惟する。「この人の身は堅固でも強固でもなく、老い、病、死に追われているものである。たとえ天の身は清らかで、老いも病もないとしても、天の楽しみに耽着すれば、あたかも酔った人のように、道を修行し、福を積み、出家して欲望を離れることができない。」それゆえに、この人の身において自ら堪え忍んで福を修め、衆生を利益するのである。

復次，菩薩思惟：「我受此四大、五眾身，應有種種苦分，無有受身而不苦者；富貴、貧賤，出家、在家，愚智、明闇，無得免者。何以故？富貴之人，常有畏怖，守護財物，譬如肥羊，早就屠机，如烏銜肉，眾烏逐之；貧賤之人，有飢、寒之苦。出家之人，今世雖苦，後世受福得道；在家之人，今世雖樂，後世受苦。愚人先求今世樂，無常對至，後則受苦；智人思惟無常苦，後則受樂得道。如是等受身之人，無不有苦。」是故菩薩應當行忍。

> さらに、菩薩はこう考えます。「私がこの四大と五つの要素からなる身体を受けている以上、さまざまな苦しみがあるはずだ。身体を受けて苦しみのない者はいない。富める者も貧しい者も、出家した者も在家の者も、愚かな者も賢い者も、明るい者も暗い者も、苦しみを免れることはできない。なぜか。富める者はいつも恐れを抱き、財物を守らなければならない。まるで肥えた羊が早くも屠殺台に送られるかのようであり、肉をくわえた烏を多くの烏が追いかけるかのようだ。貧しい者は飢えと寒さの苦しみがある。出家した者は、今世は苦しくても、後世には福を受け、道を得る。在家の者は、今世は楽しくても、後世には苦しみを受ける。愚かな者はまず今世の楽しみを求め、無常が訪れると、後に苦しみを受ける。賢い者は無常と苦しみを思惟し、後に楽しみを受け、道を得る。このように、身体を受けた者に苦しみのない者は一人もいない。」だからこそ、菩薩は忍を行うべきなのです。

復次，菩薩思惟：「一切世間皆苦，我當云何於中而欲求樂？」

> また、菩薩はこう考えました。「すべての世の中は苦しみに満ちているのに、どうしてその中で楽しみを求めようとするのだろう。」

復次，菩薩思惟：「我於無量劫中常受眾苦，無所利益，未曾為法；今日為眾生求佛道，雖受此苦，當得大利。是故外、內諸苦，悉當忍受。」

> また、菩薩はこう考えます。「私は無量の劫の中で、いつも多くの苦しみを受けてきたが、何の利益もなく、まだ法のために生きたことがなかった。今日、众生のために仏の道を求めるのだから、たとえこの苦しみを受けても、大きな利益を得ることができる。だからこそ、外の苦しみも内の苦しみも、すべて耐え忍ぶべきである。」

復次，菩薩大心誓願：「若阿鼻泥犁苦，我當忍之，何況小苦而不能忍？若小不忍，何能忍大？」

> また、菩薩は大きな心で誓願を立てます。「もし阿鼻地獄の苦しみであっても、私は耐え忍ぼう。ましてや小さな苦しみを耐えられないことがあろうか。もし小さなことさえ忍べないなら、どうして大きな苦しみに耐えられようか。」

如是種種外法中忍，名曰法忍。

> このように、さまざまな外のものごとに耐えることを、法忍（ほうにん）といいます。

問曰：

> お尋ねします。

云何內心法中能忍？

> 心の中の感情において、どうすれば耐え忍ぶことができるのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

菩薩思惟：「我雖未得道，諸結未斷，若當不忍，與凡人不異，非為菩薩。」復自思惟：「若我得道，斷諸結使，則無法可忍。」

> 菩薩はこう思い巡らした。「私はまだ悟りを得ておらず、煩悩も断ち切れていない。もしここで耐え忍べなければ、一般の人と変わらない。それでは菩薩とは言えない。」 さらにこうも思った。「もし私が悟りを得て、煩悩をすべて断ち切ったなら、もはや耐え忍ぶべきものは何もない。」

復次，「飢渴、寒熱，是外魔軍；結使、煩惱，是內魔賊。我當破此二軍以成佛道；若不爾者，佛道不成。」

> 次に、飢えや渇き、寒さや暑さは外から来る魔の軍勢であり、心を縛る煩悩は内に潜む魔の賊です。私はこの二つの軍勢を打ち破ってこそ仏の道を成し遂げられます。そうでなければ、仏の道は完成しません。

如說佛苦行六年，魔王來言：「剎利貴人，汝千分生中正有一分活耳！速起還國，布施修福，可得今世後世、人中天上之樂；道不可得，汝唐勤苦。汝若不受軟言，守迷不起，我當將大軍眾來擊破汝！」

> 仏が六年の苦行をなさったときのこと。魔王がやって来て言った。「釈迦族の貴き方よ、おまえの千のうち、生きているのはただ一分ばかりだ。すぐに立ち上がり、国へ帰り、布施をして福を積めば、この世でも後の世でも、人間や天上の楽しみを得られるだろう。悟りの道など得られはしない。おまえはただむなしく苦しんでいるのだ。もし私のやさしい言葉を受け入れず、迷いにとどまって立ち上がらぬなら、私は大軍を率いておまえを打ち破りに来るぞ。」

菩薩言：「我今當破汝大力內軍，何況外軍？」

> 菩薩さまがおっしゃいました。「私は今こそ、あなたの強力な内なる軍を打ち破りましょう。ましてや外の軍など、なおさらです。」

魔言：「何等是我內軍？」

> 魔王が言いました。「私の内なる軍とは、一体何のことか」

答曰：

> お答えしますと、

「欲是汝初軍， 憂愁為第二，飢渴第三軍， 渴愛為第四，睡眠第五軍， 怖畏為第六，疑悔第七軍， 瞋恚為第八，利養虛稱九， 自高蔑人十。如是等軍眾， 厭沒出家人；我以禪智力， 破汝此諸軍，得成佛道已， 度脫一切人。」

> 欲望はあなたの第一の軍勢、 憂いや悲しみは第二の軍勢、 飢えと渇きは第三の軍勢、 渇いた愛は第四の軍勢、 眠りは第五の軍勢、 恐れは第六の軍勢、 疑いと悔いは第七の軍勢、 怒りは第八の軍勢、 利益や虚しい称賛は第九、 自らを高くし人を見下すのは第十の軍勢。 このような軍勢の集まりは、 出家した人を飲み込んでしまう。 私は禅定と智慧の力によって、 あなたのこれらの軍勢を打ち破り、 仏の道を成し遂げて、 すべての人を救い解き放つ。

菩薩於此諸軍雖未能破，著忍辱鎧，捉智慧劍，執禪定楯，遮諸煩惱箭，是名內忍。

> 菩薩はこの諸々の軍勢をまだ打ち破ることはできないが、忍辱の鎧を身にまとい、智慧の剣を手に取り、禅定の盾を執り、諸々の煩悩の矢を防ぐ。これを内忍と名づける。

復次，菩薩於諸煩惱中，應當修忍，不應斷結。何以故？若斷結者，所失甚多，墮阿羅漢道中，與根敗無異。是故遮而不斷，以修忍辱，不隨結使。

> 次に、菩薩はさまざまな煩悩の中でこそ忍辱を修めるべきであり、煩悩の束縛を断ち切るべきではありません。なぜでしょうか。もし束縛を断ち切ってしまえば、失うものが非常に大きく、阿羅漢の道に堕ちてしまい、根が朽ちた者と変わらなくなるからです。それゆえに、菩薩は煩悩を断たずに制し、忍辱を修め、煩悩に従わないのです。

問曰：

> お尋ねします。

云何結使未斷而能不隨？

> 煩悩の束縛がまだ断ち切られていないのに、どうしてそれに従わずにいられるのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

正思惟故，雖有煩惱而能不隨。

> 正しく思うことで、煩悩があってもそれに従わずにいられます。

復次，思惟觀空、無常相故，雖有妙好五欲，不生諸結。譬如國王有一大臣，自覆藏罪，人所不知。王言：「取無脂肥羊來，汝若不得者，當與汝罪。」大臣有智，繫一大羊，以草穀好養；日三以狼而畏怖之，羊雖得養，肥而無脂。牽羊與王，王遣人殺之，肥而無脂。王問：「云何得爾？」答以上事。菩薩亦如是，見無常、苦、空狼，令諸結使脂消，諸功德肉肥。

> 次に、空と無常の相を観じ思惟するがゆえに、たとえ素晴らしい五欲があっても、さまざまな煩悩を生じることがない。たとえば、国王に一人の大臣がいた。その大臣は自分の罪を隠していて、誰も知らなかった。王は言った。「脂のない肥えた羊を連れてこい。もし手に入れられなければ、おまえに罪を負わせる。」大臣は賢かったので、大きな羊を繋ぎ、草と穀物でよく養った。そして日に三度、狼をおそれさせ怖がらせた。羊はよく養われて肥えたが、脂はなかった。大臣が羊を王のもとへ連れて行くと、王は人に命じて殺させた。肥えているのに脂がない。王は問うた。「どうやってそうしたのか。」大臣は以上のことを答えた。菩薩もまた同じである。無常・苦・空という狼を見ることで、もろもろの煩悩の脂を消し、もろもろの功徳の肉を肥えさせるのである。

復次，菩薩功德福報無量故，其心柔軟，諸結使薄，易修忍辱。譬如師子王，在林中吼，有人見之，叩頭求哀，則放令去；虎豹小物，不能爾也。何以故？師子王貴獸，有智分別故；虎豹賤蟲，不知分別故。又如壞軍，得值大將則活，值遇小兵則死。

> また、菩薩は功德と福報が無量であるため、その心は柔らかく、さまざまな煩悩は薄く、忍辱を修めやすい。たとえば獅子王が林の中で吼えると、それを見た人が頭を下げて哀れみを求めたなら、獅子王は放して去らせる。しかし虎や豹のような小さな獣には、そのようにはできない。なぜか。獅子王は尊い獣であり、智慧によって見分ける力があるからである。虎や豹は卑しい虫けらであり、見分けることを知らないからである。また、敗れた軍が大将に出会えば生き延び、小さな兵に出会えば死ぬようなものである。

復次，菩薩智慧力，觀瞋恚有種種諸惡，觀忍辱有種種功德，是故能忍結使。

> 次に、菩薩は智慧の力によって、怒りにはさまざまな悪があると見て、忍耐にはさまざまな功徳があると見る。それゆえに、煩悩を耐え忍ぶことができるのである。

復次，菩薩心有智力，能斷結使，為眾生故久住世間；知結使是賊，是故忍而不隨。菩薩繫此結賊，不令縱逸而行功德；譬如有賊，以因緣故不殺，堅閉一處而自修事業。

> さらに、菩薩の心には智慧の力があり、煩悩の束縛を断ち切ることができる。しかし衆生のために、長くこの世にとどまる。煩悩の束縛は賊のようなものだと知っているので、耐え忍んでそれに従わない。菩薩はこの煩悩の賊を縛りつけ、自由に暴れさせずに功德を積む。たとえば賊がいて、ある事情から殺さずに、一つの場所にしっかり閉じ込めて、自分の仕事に励むようなものである。

復次，菩薩實知諸法相故，不以諸結使為惡，不以功德為妙；是故於結不瞋，功德不愛。以此智力故，能修忍辱。如偈說：

> また、菩薩は諸法の相をありのままに知っているため、煩悩を悪いものとせず、功徳をすばらしいものともしません。ですから、煩悩に対して怒ることもなく、功徳を愛することもありません。この智慧の力によって、忍辱を修めることができるのです。次の偈に説かれているとおりです。

「菩薩斷除諸不善， 乃至極微滅無餘；大功德福無有量， 所造事業無不辦。菩薩大智慧力故， 於諸結使不能惱；是故能知諸法相， 生死涅槃一無二。」

> 菩薩はあらゆる不善を断ち除き、極めて微小なものに至るまで残すことなく滅ぼし尽くす。 大きな功徳と福は量り知れず、なす事業に成し遂げられないものはない。 菩薩は大いなる智慧の力があるゆえに、あらゆる煩悩に悩まされることがない。 それゆえに諸法の真の姿を知る。生死と涅槃は一つであって二つではない。

如是種種因緣，雖未得道，於諸煩惱法中能忍，是名法忍。

> このようなさまざまな因縁によって、まだ悟りを得ていなくても、もろもろの煩悩の中で耐え忍ぶことができる、これを法忍と呼びます。

復次，菩薩於一切法，知一相無二。一切法可識相，故言一。眼識識色，乃至意識識法，是可識相法，故言一。

> 次に、菩薩はすべての法について、一つの相であり二つではないと知ります。すべての法は識ることができる相を持つため、一と言います。眼識が色を識り、さらに意識が法を識るまで、これは識ることができる相の法であるため、一と言います。

復次，一切法可知相，故言一。苦法智、苦比智，知苦諦；集法智、集比智，知集諦；滅法智、滅比智，知滅諦；道法智、道比智，知道諦。及善世智，亦知苦、集、滅、道、虛空、非智緣滅，是可知相法，故言一。

> また、すべての法は知ることができる性質をもつため、一と言います。苦法智と苦比智は苦諦を知り、集法智と集比智は集諦を知り、滅法智と滅比智は滅諦を知り、道法智と道比智は道諦を知ります。また、すぐれた世間の智慧も、苦・集・滅・道・虚空・非智縁滅を知ることができます。これらはみな知ることができる性質をもつ法であるため、一と言うのです。

復次，一切法可緣相，故言一。眼識及眼識相應法緣色；耳識、鼻識、舌識、身識亦如是；意識及意識相應法，亦緣眼、亦緣色、亦緣眼識，乃至緣意、緣法、緣意識。一切法可緣相，故言一。

> 次に、すべての法は認識される性質を持つため、一つと言います。眼識と眼識に伴う法は色を対象とします。耳識、鼻識、舌識、身識も同様です。意識と意識に伴う法は、眼をも対象とし、色をも対象とし、眼識をも対象とし、さらには意をも対象とし、法をも対象とし、意識をも対象とします。すべての法は認識される性質を持つため、一つと言います。

復次，有人言：一切法各皆一，一復有一名為二，三一名為三，如是乃至千萬，皆是一而假名為千萬。

> 次に、ある人々はこう言います。すべての法はそれぞれ一つであり、その一つにさらに一つの名前が加われば二となり、三つの一が集まれば三となる。このようにして千万に至るまで、すべては一でありながら、仮に千万という名前が付けられているのです。

復次，一切法中有相，故言一；一相故，名為一。一切物名為法，法相故名為一。如是等無量一門，破異相，不著一，是名法忍。

> また、すべてのものごとには共通の姿かたちがあるので「一つ」と言い、その一つの姿かたちであるので「一つ」と名づけるのです。すべてのものを法と呼び、その法の姿かたちがあるので「一つ」と名づけるのです。このように、数えきれないほどの「一つ」という教えの入口によって、ばらばらだという見方を打ち破り、しかも「一つ」に执着しないこと、これを法忍と呼ぶのです。

復次，菩薩觀一切為二。何等二？二名內、外相。內、外相故，內非外相，外非內相。

> 次に、菩薩は一切を二つとして観察します。その二つとは何か。二つとは内と外の相です。内と外の相であるがゆえに、内は外の相ではなく、外は内の相ではありません。

復次，一切法有、無相故為二。空、不空，常、非常，我、非我，色、非色，可見、不可見，有對、非有對，有漏、無漏，有為、無為，心法、非心法，心數法、非心數法，心相應法、非心相應法。

> 次に、一切の法は有る・無いという相があるために二つとなります。空・不空、常・非常、我・非我、色・非色、見える・見えない、対がある・対がない、漏がある・漏がない、為がある・為がない、心の法・心でない法、心に伴う法・心に伴わない法、心と相応する法・心と相応しない法です。

如是無量二門，破一不著二，是名為法忍。

> このように、無量の二つの門を説き、一に執着せず二にも執着しない、これを法忍と呼びます。

復次，菩薩或觀一切法為三。何等為三？下、中、上，善、不善、無記，有、無、非有非無，見諦斷、思惟斷、無斷，學、無學、非學非無學，報、有報、非報非有報。如是無量三門，破一不著異，是名為法忍。

> 次に、菩薩はあるいは一切の法を三つとして観じます。三つとは何でしょうか。下・中・上、善・不善・無記、有・無・非有非無、見諦断・思惟断・無断、学・無学・非学非無学、報・有報・非報非有報です。このように無量の三門によって、一に執着せず異にも執着しないこと、これを法忍と名づけます。

復次，菩薩雖未得無漏道，結使未斷，能信無漏聖法及三種法印：一者、一切有為生法無常等印，二者、一切法無我印，三者、涅槃實法印。得道賢聖人，自得自知；菩薩雖未得道，能信能受，是名法忍。

> 次に、菩薩はまだ無漏の道を得ていなくても、煩悩の結使を断ち切っていなくても、無漏の聖なる法および三つの法印を信じることができます。三つの法印とは、第一に、すべての有為の生じる法は無常であるという印、第二に、すべての法は無我であるという印、第三に、涅槃は真実の法であるという印です。道を得た聖なる人々は、自ら悟り自ら知っています。菩薩はまだ道を得ていなくても、信じ受け入れることができます。これを法忍といいます。

復次，於十四難不答法中有常、無常等，觀察無礙，不失中道，是法能忍，是為法忍。

> 次に、十四の難問に対して答えを出さない法の中に、常・無常などについて観察しても妨げられず、中道を失わない、この法をよく受け入れることができる、これを法忍といいます。

如一比丘於此十四難思惟觀察，不能通達，心不能忍；持衣鉢至佛所，白佛言：「佛能為我解此十四難，使我意了者，當作弟子；若不能解，我當更求餘道！」

> ある修行僧が、この十四の難問について考え、観察しましたが、理解できず、心に耐えられなくなりました。そこで衣と鉢を持って仏のもとへ行き、仏に申し上げました。「仏が私のためにこの十四の難問を解き、私の心がはっきりするようにしてくださるなら、弟子になりましょう。もし解いていただけないなら、私は他の道を求めるつもりです。」

佛告：「癡人！汝本共我要誓『若答十四難，汝作我弟子』耶？」

> 仏がおっしゃいました。「愚か者よ。あなたはもともと私と『十四の難問に答えられたなら、あなたは私の弟子になる』と約束したのではないか。」

比丘言：「不也！」

> 比丘は言いました。「いいえ、そうではありません。」

佛言：「汝癡人今何以言『若不答我，不作弟子』？我為老、病、死人說法濟度；此十四難是鬪諍法，於法無益，但是戲論，何用問為？若為汝答，汝心不了，至死不解，不能得脫生、老、病、死。譬如有人身被毒箭，親屬呼醫，欲為出箭塗藥，便言：『未可出箭，我先當知汝姓字、親里，父、母年歲；次欲知箭出在何山，何木、何羽，作箭鏃者為是何人，是何等鐵；復欲知弓何山木，何蟲角；復欲知藥是何處生，是何種名。如是等事，盡了了知之，然後聽汝出箭塗藥。』」

> 仏陀は言われました。「愚かな者よ、なぜ『私に答えなければ弟子にしない』などと言うのか。私は老い、病、死に苦しむ人々のために法を説き、救済しているのだ。この十四の難問は争いのための法であり、法の修行には何の役にも立たない。ただの無意味な議論だ。なぜそんなことを問うのか。たとえあなたのために答えても、あなたの心は理解できず、死ぬまで解けず、生・老・病・死から逃れることはできない。たとえば、ある人が毒矢に射られたとしよう。親族が医者を呼び、矢を抜いて薬を塗ろうとする。ところがその人は言う。『まだ矢を抜いてはいけない。まずお前の姓と名、家族、両親の年齢を知りたい。次に、矢がどの山から出たか、どんな木か、どんな羽か、矢じりを作ったのは誰か、どんな鉄か。また弓はどの山の木か、どんな虫の角か。さらに薬はどこで採れたか、何という名前か。これらのことをすべてはっきり知ってからでなければ、矢を抜いて薬を塗ることを許さない。』と。」

佛問比丘：「此人可得知此眾事，然後出箭不？」

> 仏は比丘たちに問われた。「この人は、まずこの集まりの事情を知ってからでなければ、矢を抜くことができないのか。」

比丘言：「不可得知！若待盡知，此則已死。」

> 比丘が言いました。「知り尽くすことはできません。もし完全に知るのを待っていたら、それはもう死んでしまいます。」

佛言：「汝亦如是！為邪見箭愛毒塗，已入汝心，欲拔此箭，作我弟子；而不欲出箭，方欲求盡世間常、無常，邊、無邊等，求之未得，則失慧命，與畜生同死，自投黑闇！」

> 仏はおっしゃいました。「あなたも同じです。邪見の矢に愛の毒が塗られ、すでにあなたの心に刺さっています。この矢を抜きたいと思い、私の弟子になろうとしながら、まだ矢を抜こうとせず、かえって世間は常か無常か、辺があるか無辺かなどを究めようとばかりしている。それを求めても得られぬうちに、慧の命を失い、畜生と同じように死んで、みずから暗闇に身を投じてしまうのです。」

比丘慚愧，深識佛語，即得阿羅漢道。

> 比丘は恥じ入り、仏の言葉を深く理解して、すぐに阿羅漢の道を得ました。

復次，菩薩欲作一切智人，應推求一切法，知其實相；於十四難中不滯、不礙，知其是心重病，能出、能忍，是名法忍。

> 次に、菩薩が一切智人となろうと望むならば、すべての法を推し求めて、その実相を知るべきです。十四の難問の中で滞ることなく、妨げられることなく、それが心の重い病であると知り、出ることができ、堪え忍ぶことができます。これを法忍といいます。

復次，佛法甚深，清淨微妙，演暢種種無量法門，能一心信受，不疑、不悔，是名法忍。

> また、仏の教えは非常に深く、清らかで微妙であり、さまざまな無量の教えを説き示しています。それを一心に信じて受け入れ、疑わず、悔いることがないのを、法忍といいます。

如佛所言：「諸法雖空，亦不斷，亦不滅；諸法因緣相續生，亦非常；諸法雖無神，亦不失罪福。」一心念頃，身諸法、諸根、諸慧，轉滅不停，不至後念；新新生滅，亦不失無量世中因緣業。諸眾、界、入中皆空無神，而眾生輪轉五道中受生死。

> 仏がおっしゃったとおりです。「諸法は空ではあるが、断たれることも滅することもない。諸法は因縁によって相続して生じるが、常住ではない。諸法には神（不変の主体）はないが、罪や福も失われることはない。」一心の瞬間に、身体の諸法、諸根、諸慧は移り変わり滅して止まらず、次の念には至りません。新しく生まれ滅びながらも、無量の世における因縁の業は失われません。諸衆、諸界、諸入の中はすべて空で神はありませんが、衆生は五道を輪転して生死を受けます。

如是等種種甚深微妙法，雖未得佛道，能信能受不疑、不悔，是為法忍。

> このようなさまざまな非常に深く微妙な教えを、まだ仏の道を得ていなくても、信じて受け入れ、疑わず、悔いることのないのが、法忍です。

復次，阿羅漢、辟支佛畏惡生死，早求入涅槃；菩薩未得成佛，而欲求一切智，欲憐愍眾生，欲了了分別知諸法實相，是中能忍，是名法忍。

> また、阿羅漢や辟支仏は、苦しみに満ちた生死を恐れて、早く涅槃に入ろうと求めます。しかし菩薩は、まだ仏になっていない段階で、すべてを知る智慧を求め、生きとし生けるものを怜れみ、諸法の真実の姿をはっきりと見分けようとします。そのような中で耐え忍ぶことを、法忍といいます。

問曰：

> お尋ねします。

云何觀諸法實相？

> 諸法の実相をどのように観るのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

觀知諸法無有瑕隟，不可破、不可壞，是為實相。

> あらゆるものごとには欠点や隙がなく、壊すことも破ることもできないと見極めること、これが真実の姿です。

問曰：

> お尋ねします。

一切語，皆可答、可破、可壞，云何言「不可破壞，是為實相」？

> すべての言葉は、答えたり、否定したり、壊したりすることができます。それなのに、なぜ「壊すことができない、それが実相である」と言うのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

以諸法不可破故，佛法中一切言語道過，心行處滅，常不生不滅，如涅槃相。何以故？若諸法相實有，不應無；若諸法先有今無，則是斷滅。

> すべてのものは本質的に壊れることがないからこそ、仏法においては、一切の言葉の道を超え、心のはたらきが及ぶところも滅している。常に生じることも滅することもなく、涅槃のすがたのようである。なぜか。もしすべてのもののすがたが実体としてあるのなら、無になるはずがない。もしすべてのものが先にあって今は無いというのなら、それは断滅ということになる。

復次，諸法不應是常。何以故？若常則無罪、無福，無所傷殺，亦無施命，亦無修行利益，亦無縛、無解，世間則是涅槃。如是等因緣故，諸法不應常。

> 次に、諸法は常であるべきではない。なぜなら、もし常であるならば、罪もなく、福もなく、傷つけることも殺すこともなく、命を施すこともなく、修行の利益もなく、縛られることも解かれることもなく、世間はそのまま涅槃となってしまうからである。このような理由により、諸法は常であるべきではない。

若諸法無常，則是斷滅，亦無罪、無福，亦無增損功德業，因緣果報亦失。如是等因緣故，諸法不應無常。

> もしすべてのものが無常であるなら、それは断滅であり、罪も福もなく、功德や業の増減もなく、因縁果報も失われてしまいます。このような理由から、すべてのものは無常であるべきではないのです。

問曰：

> お尋ねします。

汝言「佛法中常亦不實，無常亦不實」，是事不然！何以故？佛法中常亦實，無常亦實。常者，數緣盡、非數緣盡、虛空，不生、不住、不滅故，是常相；無常者，五眾生、住、滅故，無常相。汝何以言：「常、無常皆不實」？

> あなたは「仏法においても、常は実ではなく、無常もまた実ではない」と言うが、それは間違いです。なぜでしょうか。仏法においては、常もまた実であり、無常もまた実です。常とは、数縁尽・非数縁尽・虚空であり、生じず、とどまらず、滅しないから、これが常の相です。無常とは、五衆が生じ、とどまり、滅するから、これが無常の相です。あなたはなぜ「常も無常もみな実ではない」と言うのですか。

答曰：

> お答えしますと、

聖人有二種語：一者、方便語，二者、直語。方便語者，為人、為因緣故。為人者，為眾生說是常、是無常，如對治悉檀中說。若說無常，欲拔眾生三界著樂；佛思惟：「以何令眾生得離欲？」是故說無常法。如偈說：

> 聖人には二種類の語り方があります。一つは方便の語り、もう一つは直接の語りです。方便の語りとは、相手や状況に応じて語るものです。相手に応じるとは、衆生のために「これは常住である」「これは無常である」と説くことで、対治悉檀の中で説かれているとおりです。もし無常を説くならば、衆生が三界の楽しみに執着する心を抜き取ろうとしてのことです。仏はこのようにお考えになりました。「どうすれば衆生をして欲を離れさせることができるだろうか」と。それゆえに無常の法を説かれたのです。偈に説かれているとおりです。

「若觀無生法， 於生法得離；若觀無為法， 於有為得離。」

> 生まれることのない法を観じれば、生まれる法から離れることができます。 無為の法を観じれば、有為から離れることができます。

云何生？生名因緣和合，無常，不自在，屬因緣，有老病死相、欺誑相、破壞相，是名生；生則是有為法。如對治悉檀說。常無常，非實相，二俱過故。若諸法非有常非無常，是為愚癡論。所以者何？若非有則破無，若非無則破有；若破此二事，更有何法可說？

> 生とは何か。生とは、因縁が和合することによって生じるものであり、無常であり、自分の思い通りにならず、因縁に属し、老・病・死という相を持ち、人を欺く相を持ち、壊れていく相を持つ。これを生と呼ぶ。生はすなわち有為法である。対治悉檀において説かれるとおりである。 常であるとか無常であるとかいうことは、実の相ではない。どちらの見方にも過ちがあるからである。もし諸法が常でもなく無常でもないとするなら、それは愚かな議論である。なぜか。もし「有ではない」と言えば「無」を破ることになり、もし「無ではない」と言えば「有」を破ることになる。この二つの事をどちらも破ってしまったなら、いったい何の法を説くことができるだろうか。

問曰：

> お尋ねします。

佛法常空相中，非有、非無；空以除有，空空遮無，是為非有、非無，何以言愚癡論？

> 仏法は常に空の相にあって、有でもなく無でもありません。空は有を除くためのものであり、空もまた空であることで無を遮ります。これが有でも無でもないということです。なぜ愚かで無知な論などと言えるでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

佛法實相，不受、不著。汝非有、非無受著故，是為癡論。若言非有、非無，是則可說、可破，是心生處，是鬪諍處。佛法則不然，雖因緣故說非有、非無，不生著；不生著則不可壞、不可破。

> 仏法の真実の姿は、受け取ることも執着することもありません。あなたが「有る」でも「無い」でもないのに受け取ったり執着したりするのは、愚かな議論です。もし「有るでも無いでもない」と言うなら、それは説明でき、論破できるものであり、心が生じる場所であり、争いの場所です。しかし仏法はそうではありません。因縁によって「有るでも無いでもない」と説いても、執着は生じません。執着が生じなければ、壊すことも破ることもできません。

諸法若有邊，若無邊，若有無邊，若非有無邊；若死後有去，若死後無去，若死後有去無去，若死後非有去非無去；是身是神，身異神異，亦如是，皆不實。於六十二見中觀諸法，亦皆不實。

> すべてのものごとに、果てがあるという見方、果てがないという見方、果てがあり、かつ果てがないという見方、果てがあるのでもなく果てがないのでもないという見方。死んだ後にも存在し続けるという見方、死んだ後には存在しなくなるという見方、死んだ後にも存在し、かつ存在しなくなるという見方、死んだ後にも存在するのでもなく存在しなくなるのでもないという見方。この身体がすなわち魂であるという見方、身体と魂は別であるという見方も、同じように、すべて真実ではありません。六十二の見方のうちで、あらゆるものごとを観察しても、それらはすべて真実ではありません。

如是一切除却，信佛法清淨不壞相，心不悔、不轉，是名法忍。

> このように、すべてを手放し、仏法の清らかで壊れることのない姿を信じ、心が悔やむことなく、変わらないこと、これを法忍といいます。

復次，有、無二邊，觀諸法生時、住時，則為有見相；觀諸法老時、壞時，則為無見相；三界眾生，多著此二見相。是二種法，虛誑不實。若實有相則不應無。何以故？今無先有，則墮斷中；若斷，是則不然。

> 次に、「有」と「無」という二つの極端についてです。すべてのものごとが生まれ、とどまっている状態を見ると、「有る」という見方にとらわれます。すべてのものごとが老い、壊れていく状態を見ると、「無い」という見方にとらわれます。三界の生きとし生けるものは、ほとんどがこの二つの見方にとらわれています。しかし、この二つの見方は、どちらも偽りであり、真実ではありません。もし本当に「有る」のなら、「無くなる」はずがありません。なぜでしょうか。今は無いものが以前は有ったというなら、それは「断滅」に陥ることになります。もし断滅であるなら、それは正しいことではありません。

復次，一切諸法，名字和合故，謂之為有；以是故，名字和合所生法不可得。

> 次に、すべてのものごとは、名前と条件が組み合わさっているから「ある」と言われるのです。ですから、名前と条件が組み合わさって生まれたものごとは、本当にはつかまえられないのです。

問曰：

> お尋ねします。

名字所生法，雖不可得，則有名字和合！

> 名前から生まれるものは、たとえつかむことができなくても、名前が集まり組み合わさることで成り立っています。

答曰：

> お答えしますと、

若無法，名字為誰而和合？是則無名字。

> もし法がなければ、その名前は誰のためにお互いが集まって成り立つのでしょうか。したがって、名前もまた存在しません。

復次，若諸法實有，不應以心識故知有；若以心識故知有，是則非有。如地堅相，以身根、身識知故有，若無身根、身識知，則無堅相。

> 次に、もし諸法が本当に実在するならば、心識によってはじめて有ると知るべきではない。もし心識によって有ると知るのなら、それは実在ではない。たとえば地の堅いという相は、身根と身識によって知るから有るのであって、もし身根と身識が知ることがなければ、堅い相はないのである。

問曰：

> お尋ねします。

身根，身識，若知、若不知，而地常是堅相！

> 体という感覚器官、体の感覚作用、それが知っていようと知っていまいと、地は常に堅いという性質を持っています。

答曰：

> お答えしますと、

若先自知有堅相，若從他聞則知有堅相；若先不知、不聞，則無堅相。

> あらかじめ自分で「かたい」という性質があると知っていれば、他人から聞いても「かたい」という性質があると知ることになります。しかし、あらかじめ自分で知ることもなく、他人から聞くこともなければ、「かたい」という性質はないのです。

復次，地若常是堅相，不應捨其相，如凝酥、蠟蜜、樹膠，融則捨其堅相，墮濕相中；金、銀、銅、鐵等亦爾。如水為濕相，寒則轉為堅相。如是等種種，悉皆捨相。

> また、地が常に堅い性質であるなら、その性質を捨てることはないはずです。たとえば固まった酥や蝋、蜜、樹膠は、溶ければ堅い性質を捨てて湿った性質に変わります。金、銀、銅、鉄なども同様です。水は湿った性質ですが、寒くなれば堅い性質に変わります。このように、さまざまなものがみな、その性質を捨てるのです。

復次，諸論議師輩有能令無、無能令有；諸賢聖人、坐禪人能令地作水、水作地。如是等諸法皆可轉，如十一切入中說。

> また、議論を専門とする者たちの中には、存在するものを無にし、無を存在するものに変えることができる者もいます。また、聖なる者や座禅を実践する者たちは、地を水に、水を地に変えることができます。このように、これらのさまざまな法はすべて変えることができます。これは十一切入の説明で述べられているとおりです。

復次，是有見，為貪欲、瞋恚、愚癡、結縛、鬪諍故生；若有生此欲、恚等處，是非佛法。何以故？佛法相善淨故，以是故非實。

> 次に、「有」という見解は、貪欲、怒り、愚かさ、束縛、争いのために生じます。もしこの欲や怒りなどが生じるような境地があるなら、それは仏の教えではありません。なぜなら、仏の教えの本質は善く清らかであるからです。それゆえ、それは真実ではありません。

復次，一切法有二種：色法、無色法。色法分析乃至微塵，散滅無餘，如〈檀波羅蜜品〉破施物中說。無色法五情所不知故，意情生、住、滅時觀故，知心有分，有分故無常，無常故空，空故非有。彈指頃有六十時，一一時中，心有生、滅；相續生故，知是貪心、是瞋心、是癡心，是信心、清淨智慧禪定心。行者觀心生、滅，如流水、燈焰，此名入空智門。何以故？若一時生，餘時中滅者，此心應常。何以故？此極少時中無滅故；若一時中無滅者，應終始無滅。

> 次に、すべての法には二つの種類があります。色法と無色法です。色法を分析していくと、微塵に至るまで分解され、散り散りになって消え去り、何も残りません。これは〈檀波羅蜜品〉で施しの物を破斥する中で説かれた通りです。無色法は五つの感覚器官では知ることができないので、意という感覚器官が生じ、とどまり、滅する時を観察することによって、心には分限があると知ります。分限があるから無常であり、無常であるから空であり、空であるから実有ではないのです。指を一度はじく間に六十の時があり、その一つの時の中でも、心には生と滅があります。連続して生じるから、これは貪の心、これは瞋の心、これは癡の心、これは信の心、清浄な智慧と禅定の心であると知ります。修行者は心の生と滅を、流れる水や灯の炎のように観察します。これを空の智慧に入る門と呼びます。なぜでしょうか。もし一つの時に生じて、他の時に滅するならば、この心は常であるはずです。なぜなら、ごくわずかな時間の中では滅することがないからです。もし一つの時の中に滅がなければ、始めから終わりまで滅がないはずです。

復次，佛說有為法，皆有三相。若極少時中生而無滅者，是為非有為法。若極少時中心生、住、滅者，何以但先生而後滅，不先滅而後生？

> 次に、仏が説かれた有為法には、すべて三相があります。もしほんのわずかな時間のうちに生じて、滅することがないならば、それは有為法ではありません。もしほんのわずかな時間のうちに心が生じ、とどまり、滅するならば、なぜただ先に生じて後で滅するのであって、先に滅して後で生じるのではないのでしょうか。

復次，若先有心後有生，則心不待生。何以故？先已有心故。若先有生，則生無所生。又生、滅性相違，生則不應有滅，滅時不應有生。以是故，一時不可得，異亦不可得，是即無生；若無生，則無住、滅；若無生、住、滅，則無心數法；無心數法，則無心不相應諸行。

> 次に、もし心が先にあって生が後にあるならば、心は生を待たない。なぜなら、すでに心があるからである。もし生が先にあるならば、生には生じるものがない。また、生と滅の性質は相反するので、生じているときには滅があるはずがなく、滅するときには生があるはずがない。したがって、同一の時ということも成り立たず、異なる時ということも成り立たない。これがすなわち無生である。もし無生であれば、住も滅もない。もし生・住・滅がなければ、心所法もない。心所法がなければ、心不相応の諸行もない。

色、無色法無故，無為法亦無。何以故？因有為故有無為，若無有為則亦無無為。

> 色や無色の法がないから、無為の法もまたない。なぜかというと、有為があるからこそ無為があり、もし有為がなければ無為もまたないのである。

復次，見作法無常故，知不作法常。若然者，今見作法是有法，不作法應是無法。以是故，常法不可得。

> 次に、作られたものは無常であるがゆえに、作られていないものは常であると知る。もしそうならば、今见られる作られたものは存在する法であり、作られていないものは存在しない法であるはずだ。それゆえに、常なる法は得ることができない。

復次，外道及佛弟子，說常法有同、有異：同者，虛空、涅槃；外道有神、時、方、微塵、冥初，如是等名為異。又佛弟子說：「非數緣滅是常。」又復言：「滅因緣法常，因緣生法無常。」摩訶衍中常法：法性、如、真際，如是等種種，名為常法。虛空、涅槃，如先〈讚菩薩品〉中說。神及時、方、微塵，亦如上說。以是故，不應言諸法有。

> 次に、外道と仏弟子が説く「常なる法」には、同じものもあれば異なるものもあります。同じものとは、虚空と涅槃です。外道はさらに、神・時・方・微塵・冥初などを説きますが、これらは異なるものです。また仏弟子は「非数縁滅は常である」と説きます。さらに「滅は因縁法であり常である。因縁によって生じた法は無常である」とも言います。摩訶衍（大乗）における常なる法とは、法性・如・真際などであり、このような種々のものが常なる法と呼ばれます。虚空と涅槃については、先の〈讃菩薩品〉で説いたとおりです。神・時・方・微塵についても、上述のとおりです。したがって、「諸法は有である」と言うべきではありません。

若諸法無者，有二種：一者、常無，二者、斷滅故無。

> もし諸法が無いというなら、それには二つの意味があります。一つは、常に無いということ。二つは、断滅して無くなるということです。

若先有今無，若今有後無，是則斷滅。若然者，則無因緣；無因緣者，應一物中出一切物，亦應一切物中都無所出。

> もし先にあって今は無いということになれば、あるいは今あって後に無くなるということになれば、それは断滅である。もしそうならば、因縁が無いことになる。因縁が無ければ、一つの物の中から一切の物が生じるはずであり、また一切の物の中から何も生じないはずである。

後世中亦如是，若斷罪福因緣，則不應有貧富、貴賤之異，及墮惡道、畜生中。

> 後の世でも同じです。罪と福の因縁を断ち切るならば、貧富や貴賤の違いはなくなり、悪道や畜生に堕ちることもないはずです。

若言常無，則無苦、集、滅、道；若無四諦，則無法寶；若無法寶，則無八賢聖道；若無法寶、僧寶，則無佛寶；若如是者，則破三寶。

> もし「常に無である」と言うならば、苦・集・滅・道は存在しないことになります。四諦がなければ、法宝もありません。法宝がなければ、八賢聖道もありません。法宝と僧宝がなければ、仏宝もありません。そうなれば、三宝を破ることになります。

復次，若一切法實空者，則無罪福，亦無父母，亦無世間禮法，亦無善無惡。然則善惡同門，是非一貫，一切物盡無，如夢中所見。若言實無，有如是失，此言誰當信者！

> 次に、もしすべての法が本当に空であるならば、罪も福もなく、父母もなく、世間の礼法もなく、善も悪もないことになります。そうなれば善と悪は同じ扉を通り、正しいも間違いも一貫し、すべてのものは夢の中で見るように何もなくなるのです。もし本当に何もないと言うならば、このような過ちが生じます。この言葉を誰が信じるでしょうか。

若言顛倒故見有者，當見一人時，何以不見二、三？以其實無而顛倒見故。

> もし「心が逆さまになっているために存在すると見える」と言うのなら、一人を見るとき、なぜ二人や三人に見えないのか。実際には存在しないのに、心が逆さまになっているために見えるからです。

若不墮此有、無見，得中道實相。云何知實？如過去恒河沙等諸佛菩薩所知所說，未來恒河沙等諸佛菩薩所知所說，現在恒河沙等諸佛菩薩所知所說。信心大故，不疑、不悔；信力大故，能持、能受；是名法忍。

> もし「有」と「無」という二つの極端な見方に陥らなければ、中道の真実の姿を得ることができます。どのようにしてそれを真実と知るのでしょうか。過去のガンジス川の砂の数ほどの仏や菩薩が知り説いたところ、未来のガンジス川の砂の数ほどの仏や菩薩が知り説くところ、現在のガンジス川の砂の数ほどの仏や菩薩が知り説くところ、それと同じだからです。信じる心が大きいので、疑わず、悔やみません。信じる力が大きいので、保つことができ、受け入れることができます。これを法忍といいます。

復次，禪定力故，心柔軟清淨，聞諸法實相，應心與會，信著深入，無疑、無悔。所以者何？疑、悔是欲界繫法，麁惡故不入柔軟心中，是名法忍。

> 次に、禅定の力によって心が柔らかく清らかになり、諸法の実相を聞いて、心がそれと一つに響き合い、信が深く染み込んで、疑いも悔いもなくなります。なぜでしょうか。疑いと悔いは欲界に縛られた法であり、粗く汚れているため、柔らかな心には入らないからです。これを法忍といいます。

復次，智慧力故，於一切諸法中種種觀，無有一法可得者；是法能忍、能受，不疑、不悔，是名法忍。

> また、智慧の力によって、あらゆるものごとをさまざまに見渡しても、つかめるものは何ひとつありません。この真理をよく受け入れ、疑わず、悔いることなく耐え忍ぶこと、これを法忍といいます。

復次，菩薩思惟：「凡夫人以無明毒故，於一切諸法中作轉相：非常作常想，苦作樂想，無我有我想，空謂有實，非有為有，有為非有。如是等種種法中作轉相，得聖實智慧，破無明毒，知諸法實相。」得無常、苦、空、無我智慧，棄捨不著，是法能忍，是名法忍。

> 次に、菩薩はこう思います。「凡夫は無明という毒のゆえに、あらゆる法に対して誤った見方をします。無常を常と思い、苦を楽と思い、無我を我と思い、空を実体があるとし、存在しないものを存在するとし、存在するものを存在しないとします。このようにさまざまな法に対して誤った見方をするのですが、聖なる真実の智慧を得れば、無明の毒を破り、諸法の実相を知ることができます。」無常・苦・空・無我の智慧を得て、執着を捨ててとらわれず、この法をよく堪え忍ぶこと、これを法忍といいます。

復次，觀一切諸法，從本已來常空，今世亦空，是法能信、能受，是為法忍。

> 次に、一切の諸法を観じるに、もとより常に空であり、今の世もまた空である。この法を信じ、受け入れることができる、これが法忍である。

問曰：

> お尋ねします。

若從本已來常空，今世亦空，是為惡邪，云何言法忍？

> 本来から常に空であるなら、今の世もまた空である。これを悪しき邪説というのに、どうして法忍と言えるのか。

答曰：

> お答えしますと、

若觀諸法常畢竟空，取相心著，是為惡邪見；若觀空不著，不生邪見，是為法忍。如偈說：

> すべての法は常に究竟して空であると観じながら、その相をとらえて心が執着するならば、それは悪しき邪見である。もし空を観じて執着せず、邪見を生じないならば、それが法忍である。偈に説く通りである。

「諸法性常空， 心亦不著空；如是法能忍， 是佛道初相。」

> すべてのものは本質的に常に空であり、 心もまた空にとらわれない。 このように法をありのままに受け入れることが、 仏の道の最初の姿です。

如是等種種入智慧門，觀諸法實相，心不退、不悔，不隨諸觀，亦無所憂，能得自利、利他，是名法忍。

> このようにさまざまな智慧の門に入り、すべての法の真実の姿を観じて、心が退くことなく、悔いることなく、さまざまな観念に引きずられることもなく、また憂いもなく、自らを利し他をも利することができる、これを法忍と呼びます。

是法忍有三種行清淨：不見忍辱法，不見己身，不見罵辱人；不戲諸法，是時名清淨法忍。以是事故，說菩薩住般若波羅蜜中，能具足羼提波羅蜜，不動、不退故。

> 法の忍辱には三つの清らかな実践があります。忍辱という法を見ず、自分の身を見ず、罵る人を見ないことです。あらゆる法にふざけず、とらわれないこと、これが清浄な法忍と呼ばれるものです。こうした理由から、菩薩は般若波羅蜜にとどまることで、忍辱波羅蜜を完全に成就できると言われます。揺るがず、退かないからです。

云何名「不動不退」？瞋恚不生，不出惡言，身不加惡，心無所疑。菩薩知般若波羅蜜實相，不見諸法，心無所著故；若人來罵，若加楚毒、殺害，一切能忍。

> 「不動不退」とはどういう意味でしょうか。怒りの心が起こらず、悪い言葉を口にせず、体で悪を行わず、心に疑いを持たないことです。菩薩は般若波羅蜜の真実の姿を知り、あらゆる法にとらわれないため、心が何にも執着しません。だから、たとえ誰かが罵っても、苦しめても、殺そうとしても、すべてを受け入れることができます。

以是故說「住般若波羅蜜中，能具足羼提波羅蜜」。

> だから、「般若波羅蜜の中にとどまることで、羼提波羅蜜を完全に備えることができる」と説かれるのです。