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title: "大智度論 · 29 般若波羅蜜"
description: "大智度论由古印度龙树菩萨所造，后秦时期著名译经家鸠摩罗什翻译成中文。该论是佛教重要典籍，属于大乘中观学派的核心论著，主要阐释《大品般若经》的深奥义理。全书共一百卷，系统论述了般若空性思想、菩萨修行次第以及六度万行的实践方法，被誉为大乘佛教的百科全书。作为早期大乘佛教的代表性论典，大智度论对汉传佛教思想体系的形成影响深远，尤其为天台宗、华严宗等宗派提供了重要理论依据，在佛教哲学史上占据崇高地位。"
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## 大智度論釋初品中般若波羅蜜第二十九卷第十八

> 大智度論釈初品中般若波羅蜜第二十九<note>巻第十八</note>

龍樹菩薩造

> 龍樹菩薩による

後秦龜茲國三藏鳩摩羅什奉　詔譯

> 後秦の亀茲国三蔵、鳩摩羅什（クマーラジーヴァ）が詔によりて訳す

【經】

> お経

「於一切法不著故，應具足般若波羅蜜。」

> すべてのものごとに執着しないがゆえに、般若波羅蜜を完全に身につけるべきです。

【論】

> 【論】 論とは、心を

問曰：

> お尋ねします。

云何名般若波羅蜜？

> 般若波羅蜜とは何でしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

諸菩薩從初發心求一切種智，於其中間，知諸法實相慧，是般若波羅蜜。

> 菩薩が最初に心を起こしてから、あらゆる種類の智慧を求めるまでの間、すべてのものごとの真実の姿を知る智慧、それが般若波羅蜜です。

問曰：

> お尋ねします。

若爾者，不應名為波羅蜜。何以故？未到智慧邊故。

> もしそうなら、それは波羅蜜とは言えません。なぜなら、まだ智慧の境地に達していないからです。

答曰：

> お答えしますと、

佛所得智慧是實波羅蜜，因是波羅蜜故，菩薩所行亦名波羅蜜，因中說果故。是般若波羅蜜，在佛心中變名為一切種智。菩薩行智慧，求度彼岸，故名波羅蜜；佛已度彼岸，故名一切種智。

> 仏が得た智慧は、真実の波羅蜜です。この波羅蜜があるからこそ、菩薩の行う修行もまた波羅蜜と呼ばれます。原因の中に結果の名を説くからです。この般若波羅蜜は、仏の心の中では、名を変えて一切種智となります。菩薩は智慧を修行し、彼岸に渡ろうと求めるので、波羅蜜と呼ばれます。仏はすでに彼岸に渡り終えているので、一切種智と呼ばれます。

問曰：

> お尋ねします。

佛一切諸煩惱及習已斷，智慧眼淨，應如實得諸法實相；諸法實相即是般若波羅蜜。菩薩未盡諸漏，慧眼未淨，云何能得諸法實相？

> 仏は一切の煩悩とその習いをすでに断ち、智慧の眼は清らかで、あるがままに諸法の実相を得ておられます。諸法の実相とは、すなわち般若波羅蜜です。しかし菩薩はまだ諸の漏を尽くしておらず、慧の眼も清らかではありません。どうして諸法の実相を得ることができるのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

此義後品中當廣說，今但略說。如人入海，有始入者，有盡其源底者，深淺雖異，俱名為入。佛、菩薩亦如是，佛則窮盡其底；菩薩未斷諸煩惱習，勢力少故，不能深入。如後品中說譬喻：如人於闇室然燈，照諸器物，皆悉分了；更有大燈，益復明審。則知後燈所破之闇，與前燈合住；前燈雖與闇共住，而亦能照物。若前燈無闇，則後燈無所增益。諸佛菩薩智慧亦如是；菩薩智慧雖與煩惱習合，而能得諸法實相，亦如前燈亦能照物；佛智慧盡諸煩惱習，亦得諸法實相，如後燈倍復明了。

> この意味は後の章で詳しく説かれるので、ここでは簡単に説明しましょう。たとえば、人が海に入るとして、入り始めた人もいれば、その源の底まで行き着く人もいます。深さは違っても、どちらも「入る」と言えます。仏と菩薩も同じです。仏はすっかり底まで行き着きますが、菩薩はまださまざまな煩悩の習慣を断ち切っておらず、力が弱いため、深く入ることができません。後の章で次のようなたとえが説かれています。人が暗い部屋で灯をともすと、そこにある道具がはっきりと見分けられます。さらに大きな灯があれば、いっそう明るく詳しく見えます。すると、後の灯が破る闇は、前の灯とともに留まっていることがわかります。前の灯は闇とともにあっても、物を照らすことができます。もし前の灯に闇がなければ、後の灯はさらに加えるものがありません。仏と菩薩の智慧も同じです。菩薩の智慧は煩悩の習慣とともにあっても、諸法の実相を得ることができ、前の灯が物を照らすのと同じです。仏の智慧はすべての煩悩の習慣を尽くし、諸法の実相を得て、後の灯のようにいっそう明らかになります。

問曰：

> お尋ねします。

云何是諸法實相？

> 諸法の真実の姿とは、いったい何でしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

眾人各各說諸法實相，自以為實。此中實相者，不可破壞，常住不異，無能作者。如後品中佛語須菩提：「若菩薩觀一切法，非常非無常，非苦非樂，非我非無我，非有非無等，亦不作是觀，是名菩薩行般若波羅蜜。」是義，捨一切觀，滅一切言語，離諸心行，從本已來不生不滅，如涅槃相；一切諸法相亦如是，是名諸法實相。如〈讚般若波羅蜜偈〉說：

> 人々はそれぞれ諸法の実相を説き、自ら実であると思っている。ここでいう実相とは、壊すことのできないもの、常に住して異ならないもの、作る者のないものである。後の品で仏が須菩提に語られたように、「もし菩薩が一切の法を、常でもなく無常でもなく、苦でもなく楽でもなく、我でもなく無我でもなく、有でもなく無でもないなどと観じ、またそのように観じることもしないなら、それを菩薩の般若波羅蜜を行うという。」この意味は、一切の観を捨て、一切の言語を滅し、もろもろの心の働きを離れ、もとより生じもせず滅しもしない、涅槃の相のごときものである。一切の諸法の相もまたこのようであり、これを諸法の実相という。〈般若波羅蜜を讃える偈〉に説かれているように、

「般若波羅蜜， 實法不顛倒，念想觀已除， 言語法亦滅。無量眾罪除， 清淨心常一，如是尊妙人， 則能見般若。如虛空無染， 無戲無文字；若能如是觀， 是即為見佛。若如法觀佛， 般若及涅槃，是三則一相， 其實無有異。諸佛及菩薩， 能利益一切；般若為之母， 能出生養育。佛為眾生父， 般若能生佛，是則為一切， 眾生之祖母。般若是一法， 佛說種種名，隨諸眾生力， 為之立異字。若人得般若， 議論心皆滅；譬如日出時， 朝露一時失。般若之威德， 能動二種人：無智者恐怖， 有智者歡喜。若人得般若， 則為般若主；般若中不著， 何況於餘法！般若無所來， 亦復無所去，智者一切處， 求之不能得。若不見般若， 是則為被縛；若人見般若， 是亦名被縛。若人見般若， 是則得解脫；若不見般若， 是亦得解脫。是事為希有， 甚深有大名；譬如幻化物， 見而不可見。諸佛及菩薩， 聲聞辟支佛，解脫涅槃道， 皆從般若得。言說為世俗， 憐愍一切故，假名說諸法， 雖說而不說。般若波羅蜜， 譬如大火焰，四邊不可取， 無取亦不取。一切取已捨， 是名不可取；不可取而取， 是即名為取。般若無壞相， 過一切言語，適無所依止， 誰能讚其德？般若雖叵讚， 我今能得讚，雖未脫死地， 則為已得出！」

> 般若波羅蜜は、真実の法であり、決して逆さまではありません。 思いや観念はすでに取り除かれ、言葉による法もまた消えています。 無量の罪が除かれ、清らかな心は常に一つです。 このような尊くすぐれた人こそ、般若を見ることができるのです。 虚空が汚れなく、ふざけもなく文字もないように、 もしこのように観ることができるなら、それこそが仏を見ることです。 もし法のままに仏を観るなら、般若も涅槃も、 この三つは一つの姿であり、実に何の違いもありません。 もろもろの仏と菩薩は、すべてを利益することができます。 般若はその母であり、生み出し育てるものです。 仏は衆生の父であり、般若は仏を生み出します。 それゆえ般若はすべてのものの、衆生の祖母なのです。 般若は一つの法ですが、仏はさまざまな名で説かれました。 それぞれの衆生の力に応じて、別の言葉を立てられたのです。 もし人が般若を得れば、論じ合う心はすべて消えます。 ちょうど日の出のとき、朝露が一度に消えるように。 般若の威徳は、二つの種類の人を動かします。 知らない人は恐れ、知ある人は喜びます。 もし人が般若を得れば、般若の主となります。 般若の中にさえ執着しないのですから、まして他の法においてはなおさらです。 般若はどこからも来ず、またどこへも去りません。 知ある人があらゆる場所で、それを求めても得られません。 もし般若を見なければ、それは縛られていることです。 もし人が般若を見ても、これもまた縛られていると呼ばれます。 もし人が般若を見れば、それは解脱を得ることです。 もし般若を見なくても、これもまた解脱を得ることです。 このことは希有であり、甚深で大きな名があります。 ちょうど幻の作り物のように、見えても見ることができないのです。 もろもろの仏と菩薩、声聞と辟支仏、 解脱と涅槃の道は、すべて般若から得られます。 言葉で説くのは世俗のためであり、すべてを哀れむがゆえに、 仮の名で諸法を説きますが、説いても説いていないのです。 般若波羅蜜は、大きな炎のようなもので、 四辺から取ることはできず、取ることもなくまた取ることもありません。 すべての取ることをすでに捨てた、これを取れない名とします。 取れないものを取る、これこそ取る名です。 般若には壊れる姿がなく、すべての言語を超え、 ちょうど依り所がないのですから、誰がその徳を讃えられるでしょう。 般若は讃めがたいけれども、私も今讃えることができます。 まだ死の地を脱していなくても、すでに脱したのです。