---
title: "大智度論 · 30 般若相義"
description: "大智度论由古印度龙树菩萨所造，后秦时期著名译经家鸠摩罗什翻译成中文。该论是佛教重要典籍，属于大乘中观学派的核心论著，主要阐释《大品般若经》的深奥义理。全书共一百卷，系统论述了般若空性思想、菩萨修行次第以及六度万行的实践方法，被誉为大乘佛教的百科全书。作为早期大乘佛教的代表性论典，大智度论对汉传佛教思想体系的形成影响深远，尤其为天台宗、华严宗等宗派提供了重要理论依据，在佛教哲学史上占据崇高地位。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cma8zpyah0jf4ib04ozmdwko8"
---

### 大智度論釋般若相義第三十

> 大智度論 般若の相の義を解釈する 第三十

問曰：

> お尋ねします。

何以獨稱般若波羅蜜為「摩訶」，而不稱五波羅蜜？

> なぜ般若波羅蜜だけが「摩訶」と呼ばれ、他の五つの波羅蜜はそう呼ばれないのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

「摩訶」，秦言大；「般若」言慧；「波羅蜜」言到彼岸；以其能到智慧大海彼岸，到諸一切智慧邊，窮盡其極故，名到彼岸。

> 「摩訶」は中国語で「大」、「般若」は「慧」、「波羅蜜」は「彼岸に到る」という意味です。智慧の大海の彼岸に到り、すべての智慧の究極に達し、その極みを窮めることができるので、「彼岸に到る」と名づけられます。

一切世間中十方、三世，諸佛第一大，次有菩薩、辟支佛、聲聞；是四大人皆從般若波羅蜜中生，是故名為大。

> あらゆる世界において、十方（すべての方向）と三世（過去・現在・未来）の諸仏が最も尊く、次に菩薩、辟支仏（独覚）、声聞が続きます。この四つの尊い存在はすべて、般若波羅蜜（智慧の完成）から生まれるため、偉大であると呼ばれるのです。

復次，能與眾生大果報，無量無盡，常不變異，所謂涅槃；餘五波羅蜜不能爾。布施等離般若波羅蜜，但能與世間果報，是故不得名大。

> さらに、衆生に大きな果報を与えることができ、それは無量で尽きることがなく、常に変わることのないものである。いわゆる涅槃である。他の五つの波羅蜜はそのようにはできない。布施などは般若波羅蜜を離れると、ただ世間の果報を与えることしかできない。それゆえ「大」とは名づけられない。

問曰：

> お尋ねします。

何者是智慧？

> 智慧とは何でしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

般若波羅蜜攝一切智慧。所以者何？菩薩求佛道，應當學一切法，得一切智慧，所謂聲聞、辟支佛、佛智慧。

> 般若波羅蜜は一切の智慧を包み込んでいます。なぜでしょうか。菩薩が仏の道を求めるなら、すべての法を学び、すべての智慧を得るべきだからです。それはすなわち、声聞、辟支仏、仏の智慧です。

是智慧有三種：學、無學、非學非無學。

> 智慧には三つの種類があります。学びの智慧、学び終えた智慧、そして学びでも学び終えでもない智慧です。

非學非無學智者，如乾慧地、不淨、安那般那、欲界繫四念處，煖法、頂法、忍法、世間第一法等。

> 智慧であって、もはや学ぶ必要もなく、学ぶことがないわけでもない境地にある者とは、たとえば乾いた智慧の地、不浄観、数息観、欲界に結ばれた四念処、煖法、頂法、忍法、世間第一法などのことです。

學智者，苦法智忍慧，乃至向阿羅漢第九無礙道中金剛三昧慧。

> 智慧を学ぶ人とは、苦についての真理を明らかにする智慧の忍耐の慧から、阿羅漢の第九の妨げのない道における金剛三昧の慧に至るまでの智慧を学ぶ者です。

無學智者，阿羅漢第九解脫智；從是已後，一切無學智，如盡智、無生智等，是為無學智。

> 学びを終えた智者、阿羅漢の第九解脱の智慧。これ以降の一切の学びを終えた智慧、たとえば尽智や無生智などが、学びを終えた智慧である。

求辟支佛道智慧亦如是。

> 辟支仏の道を求める智慧も、また同じようにあります。

問曰：

> お尋ねします。

若辟支佛道亦如是者，云何分別聲聞、辟支佛？

> もし辟支仏の道もまたこのようであるならば、どうやって声聞と辟支仏を区別するのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

道雖一種，而用智有異。若諸佛不出、佛法已滅，是人先世因緣故，獨出智慧，不從他聞，自以智慧得道。

> 道は一つであっても、智慧の働き方には違いがあります。もし仏が世に現れず、仏法がすでに滅びていたとしても、その人は前世の因縁によって、ただ一人で智慧を開き、他の人から教えを聞くことなく、自らの智慧によって道を得るのです。

如一國王，出在園中遊戲。清朝見林樹華菓蔚茂，甚可愛樂。王食已而臥，王諸夫人婇女皆共取華，毀折林樹。王覺已，見林毀壞，而自覺悟：一切世間無常變壞皆亦如是。思惟是已，無漏道心生，斷諸結使，得辟支佛道，具六神通，即飛到閑靜林間。如是等因緣，先世福德、願行、果報，今世見少因緣，成辟支佛道，如是為異。

> ある国王が庭園に出て遊んでいました。ふと見ると、林の木々は花や実が茂り、たいそう美しく心を楽しませてくれました。王は食事をすませて横になりました。すると、王の夫人や侍女たちが皆で花を摘み取り、林の木々を折り損ないました。王が目を覚まして林の壊れたさまを見て、こう悟りました。すべての世の中は無常であり、壊れ変わっていくものだ。これもまた同じことだと。こう考えたすえ、煩悩のない道の心が起こり、さまざまな束縛を断ち切って、独覚の道を得ました。六つの神通を備え、ただちに静かな林へと飛び去りました。このような因縁、すなわち前世の福德と願いの行ないの果報によって、今世ではわずかな因縁を見て独覚の道を成し遂げる、これが異なる点です。

復次，辟支佛有二種：一名獨覺，二名因緣覺。

> 次に、辟支仏には二つの種類があります。一つは独覚といい、もう一つは因縁覚といいます。

因緣覺如上說。

> 因縁についての悟りは、すでに述べたとおりです。

獨覺者，是人今世成道，自覺不從他聞，是名獨覺辟支迦佛。

> 独覚者とは、この世で自ら悟りを開いた人のことです。人から教えを聞くことなく、自ら真理に目覚めた者を、独覚辟支迦仏と呼びます。

獨覺辟支迦佛有二種：一、本是學人，在人中生；是時無佛，佛法滅。是須陀洹已滿七生，不應第八生，自得成道。是人不名佛，不名阿羅漢，名為小辟支迦佛，與阿羅漢無異；或有不如舍利弗等大阿羅漢者。

> 独覚（どっかく）の辟支迦仏（びゃくしかぶつ）には二つの種類があります。一つは、もともと修行者であり、人の世に生まれた者です。その時、仏はおらず、仏法はすでに滅んでいます。この者は須陀洹（しゅだおん）としてすでに七度の生を経ており、八度目の生を受けることなく、自ら悟りを得ます。この者は仏とは呼ばれず、阿羅漢とも呼ばれず、小さな辟支迦仏と呼ばれます。阿羅漢と変わりはありませんが、中には舎利弗（しゃりほつ）のような大阿羅漢に及ばない者もいます。

大辟支佛，亦於一百劫中作功德，增長智慧，得三十二相分：或有三十一相，或三十、二十九相，乃至一相。於九種阿羅漢中，智慧利勝，於諸深法中總相、別相能入；久修習定，常樂獨處。如是相，名為大辟支迦佛，以是為異。

> 大きな辟支仏は、百劫の長い間、功德を積み、智慧を深めて、三十二の特徴の一部を備えるようになります。三十一の特徴を持つ者もあれば、三十、二十九、あるいはたった一つの特徴だけを持つ者もいます。九種類の阿羅漢の中でも、智慧が特に優れており、深い法の全体的な姿も細かな違いも見通すことができます。長く定を修め、いつも一人静かに過ごすことを好みます。このような姿を大辟支迦仏と呼び、そこに他の者との違いがあるのです。

求佛道者，從初發心作願：「願我作佛度脫眾生，得一切佛法，行六波羅蜜，破魔軍眾及諸煩惱，得一切智，成佛道，乃至入無餘涅槃。」隨本願行，從是中間所有智慧，總相、別相一切盡知，是名佛道智慧。

> 仏道を求める人は、初めて心を起こしたときから願を立てます。「私は仏となって衆生を救い、一切の仏法を得て、六波羅蜜を実践し、魔の軍勢と諸々の煩悩を打ち破り、一切智を得て、仏道を成し遂げ、そして無余涅槃に入りたい」と。この本願に従って修行し、その間にあるすべての智慧を、総相も別相もすべて知り尽くすこと、これが仏道の智慧と呼ばれます。

是三種智慧盡能知，盡到其邊，以是故言「到智慧邊」。

> 三つの智慧をすべて完全に知り、その限界にまで達することができる。それゆえ「智慧の辺りに到る」と言うのです。

問曰：

> お尋ねします。

若如所說一切智慧盡應入，若世間、若出世間，何以但言「三乘智慧盡到其邊」，不說餘智？

> もしすべての智慧がことごとくそこに含まれるのであれば、世間の智慧も出世間の智慧もみな含まれるはずなのに、なぜ「三乗の智慧がすべてその辺りにまで到達する」とだけ言って、その他の智慧については説かないのですか。

答曰：

> お答えしますと、

三乘是實智慧，餘者皆是虛妄，菩薩雖知而不專行。如除摩梨山，一切無出栴檀木；若餘處或有好語，皆從佛法中得。自非佛法，初聞似好，久則不妙。譬如牛乳、驢乳，其色雖同；牛乳攢則成酥，驢乳攢則成尿。

> 三乗こそが真実の智慧であり、そのほかのものはすべて偽りであると、菩薩は知っていてもあえて専らには行じない。たとえば摩梨山を除けば、どこにも栴檀の木は出ない。もしほかの場所によい言葉があるとしても、それはみな仏法の中から得られたものである。仏法でなければ、初めはよく聞こえても、時が経てばよくなくなる。たとえば牛の乳と驢馬の乳は、その色は同じであっても、牛の乳はかき混ぜれば酥になり、驢馬の乳はかき混ぜれば尿になるようなものである。

佛法語及外道語，不殺、不盜、慈愍眾生、攝心、離欲、觀空雖同；然外道語初雖似妙，窮盡所歸，則為虛誑。

> 仏法の教えと外道の教えは、不殺生、不盗み、衆生への慈しみ、心の統一、欲望からの離脱、空の観察といった点では同じように見えます。しかし、外道の教えは、初めはすばらしいように思えても、その行き着く先を突き詰めれば、偽りとなってしまいます。

一切外道皆著我見；若實有我，應墮二種：若壞相，若不壞相。若壞相，應如牛皮；若不壞相，應如虛空。此二處無殺罪，無不殺福。若如虛空，雨露不能潤，風熱不能乾，是則墮常相。若常者，苦不能惱，樂不能悅；若不受苦、樂，不應避禍就福。若如牛皮，則為風雨所壞，若壞則墮無常，若無常則無罪、福。外道語若實如是，何有不殺為福、殺生為罪？

> すべての外道は「我」という見方にとらわれています。もし本当に「我」があるのなら、二つの状態のどちらかになるはずです。壊れる状態か、壊れない状態かです。もし壊れるのなら、それは牛皮のようなものでしょう。もし壊れないのなら、虚空のようなものでしょう。この二つの場合には、殺す罪もなければ、殺さない福もありません。もし虚空のようであれば、雨や露に潤されることもなく、風や熱に乾かされることもなく、それは「常」にとどまることになります。もし常であるなら、苦しみに悩まされることもなく、楽しみに喜ぶこともありません。もし苦しみも楽しみも受けなければ、災いを避けて福を求めることもないでしょう。もし牛皮のようであれば、風雨によって壊れてしまいます。壊れるのなら「無常」にとどまります。無常であるなら、罪も福もありません。外道の言葉が本当にそのとおりであるなら、どうして殺さないことが福となり、生き物を殺すことが罪となるのでしょうか。

問曰：

> お尋ねします。

外道戒福，所失如是，其禪定、智慧復云何？

> 外道の戒や福徳でさえ、このように失われてしまうのです。ましてや、その禅定や智慧については、なおさらではありませんか。

答曰：

> お答えしますと、

外道以我心逐禪故，多愛、見、慢故，不捨一切法故，無有實智慧。

> 外道は自らの心で禅を追い求めるため、愛執・邪見・慢心が多く、一切の法を手放さないため、真実の智慧を得ることができません。

問曰：

> お尋ねします。

汝言外道觀空，觀空則捨一切法，云何言「不捨一切法故，無有實智慧」？

> あなたは外道が空を観ずると言い、空を観ずれば一切の法を捨てることになると言う。なぜ「一切の法を捨てないがゆえに、実の智慧はない」と言うのか。

答曰：

> お答えしますと、

外道雖觀空而取空相，雖知諸法空而不自知我空，愛著觀空智慧故。

> 外道は空を観じても、空の相に執着してしまいます。諸法が空であると知っていても、自分自身が空であるとは気づかず、空を観じる智慧に愛着しているのです。

問曰：

> お尋ねします。

外道有無想定，心心數法都滅；都滅故，無有取相愛著智慧咎！

> 外道には無想定というものがあり、心と心の働きがすっかり滅しています。すっかり滅しているので、対象をとらえて執着する智慧の過ちはありません。

答曰：

> お答えしますと、

無想定力，強令心滅，非實智慧力。又於此中生涅槃想，不知是和合作法，以是故墮顛倒中！是中心雖暫滅，得因緣還生。譬如人無夢睡時，心想不行，悟則還有。

> 無想定の力は、無理に心を滅ぼそうとするもので、本当の智慧の力ではありません。また、この中で涅槃だと思うのは、これが因縁によって成り立つ法だと知らないからであり、そのために顛倒に陥ってしまうのです。この中では心は一時的に滅しても、因縁がそろえばまた生じます。たとえば、夢を見ないで眠っているときは心の働きが止まっていますが、目覚めればまた戻ってくるようなものです。

問曰：

> お尋ねします。

無想定其失如是，更有非有想非無想定，是中無一切妄想，亦不如強作無想定滅想，是中以智慧力故無想！

> 無想定の過ちはこのようなものです。さらに非有想非無想定というものがあり、そこには一切の妄想がありません。また、無理に無想定を作って想を滅ぼすのとは違い、そこでは智慧の力によって想がなくなるのです。

答曰：

> お答えしますと、

是中有想，細微故不覺。若無想，佛弟子復何緣更求實智慧？佛法中，是非有想非無想中識，依四眾住；是四眾屬因緣故無常，無常故苦，無常苦故空，空故無我，空無我故可捨。

> この中には想（思い）があるが、あまりに細やかなので気づかない。もし想がなければ、仏弟子はどうしてさらに真実の智慧を求める必要があるだろうか。仏法において、これは非有想非無想の識であり、四衆に依ってとどまる。この四衆は因縁に属するから無常であり、無常であるから苦であり、無常と苦であるから空であり、空であるから無我であり、空と無我であるから捨てることができる。

汝等愛著智慧故，不得涅槃。譬如尺蠖，屈安後足，然後進前足；所緣盡，無復進處而還。外道依止初禪，捨下地欲，乃至依非有想非無想處，捨無所有處；上無所復依，故不能捨非有想非無想處。以更無依處，恐懼失我，畏墮無所得中故。

> あなたがたは智慧に執着しているために、涅槃を得ることができない。たとえば尺取虫が、後ろの足を曲げて引き寄せ、それから前の足を進めるようなものである。行き着く先が尽きれば、もう進むところがなくて引き返すしかない。外道は初禅をよりどころとし、下の境地への欲を捨て、さらには非有想非無想処によりどころを置き、無所有処を捨てる。しかし、その上にはもう頼るべきものがないので、非有想非無想処を捨てることができない。これ以上よりどころがないため、自己を失うことを恐れ、何も得られない状態に堕ちることを怖れるのである。

復次，外道經中有聽殺、盜、婬、妄語、飲酒。言為天祠，呪殺無罪；為行道故，若遭急難，欲自全身而殺小人無罪。

> また、外道の経典には、殺すこと、盗むこと、淫らな行い、嘘をつくこと、酒を飲むことを聞いても許されるという教えがあります。天の祠のために、呪いで殺しても罪はないと言い、修行のため、あるいは危急の難に遭って自分の身を守ろうとして小人を殺しても罪はないと説いています。

又有急難，為行道故，除金，餘者得盜取以自全濟，後當除此殃罪。

> また急難があり、修行のために道を行く途中で、金を除いた他の物を盗み取って自らを助け全うすることができる。後にはこの災いの罪を取り除くべきである。

除師婦、國王夫人、善知識妻、童女，餘者逼迫急難，得邪婬。

> 師の妻、国王の夫人、善き友の妻、童女を除いて、その他の場合は、相手が強く迫られて逃げ場のない緊急のときであれば、邪淫を犯したことにはならない。

為師及父母，為身、為牛、為媒故，聽妄語。

> 師や父母のために、自分自身のために、牛のために、仲介のために、嘘をつくことを聞き入れる。

寒鄉，聽飲石蜜酒；天祠中，或聽嘗一渧、二渧酒。

> 寒い地方では、石蜜酒を飲むことが許されています。また、天祠の中では、一滴か二滴の酒を味わうことが許されています。

佛法中則不然。於一切眾生慈心等視，乃至蟻子亦不奪命，何況殺人！

> 仏法ではそうではありません。すべての生き物を慈しみの心で平等に見て、蟻一匹の命さえ奪いません。ましてや人を殺すなど、決してありません。

一針一縷不取，何況多物！

> 一本の針や一本の糸さえも受け取らない、まして多くの物をどうして受け取るでしょうか。

無主婬女不以指觸，何況人之婦女！

> 未婚の女性であっても、指で触れることなどありません。ましてや、人の妻に対してはなおさらです。

戲笑不得妄語，何況故作妄語！

> ふざけてでも嘘をついてはいけません。ましてやわざと嘘をつくなど、なおさらです。

一切酒，一切時常不得飲，何況寒鄉、天祠！

> いかなる酒も、いついかなる時も飲んではなりません。ましてや寒い地方の神の祠などでは、なおさらです。

汝等外道與佛法懸殊，有若天地！

> あなたがた外道と仏法とは、天地ほども隔たりがあります。

汝等外道法，是生諸煩惱處；佛法則是滅諸煩惱處，是為大異。

> あなたがたの外道の教えは、さまざまな煩悩を生み出すもとです。仏の教えは、そうした煩悩を消し去るもとです。ここに大きな違いがあります。

諸佛法無量，有若大海，隨眾生意故，種種說法：或說有，或說無；或說常，或說無常；或說苦，或說樂；或說我，或說無我；或說懃行三業、攝諸善法，或說一切諸法無作相。如是等種種異說，無智聞之，謂為乖錯；智者入三種法門，觀一切佛語皆是實法，不相違背。

> 諸仏の法は無量で、大海のようなものです。衆生の心に応じて、さまざまな教えを説かれます。あるときは「有る」と説き、あるときは「無い」と説き、あるときは「常」と説き、あるときは「無常」と説き、あるときは「苦」と説き、あるときは「楽」と説き、あるときは「我」と説き、あるときは「無我」と説き、あるときは身・口・意の三つの行いを努めて行い、さまざまな善い法を身につけるよう説き、あるときは一切の法には作られた相がないと説かれます。このようなさまざまに異なる説を、智慧のない者は聞いて、互いに矛盾していると思うのです。しかし智慧ある者は三つの法門に入って、一切の仏の言葉がみな真実の教えであり、互いに背くものではないと見るのです。

何等是三門？一者、蜫勒門，二者、阿毘曇門，三者、空門。

> 三つの門とは何か。一つには蜫勒門、二つには阿毘曇門、三つには空門である。

問曰：

> お尋ねします。

云何名蜫勒？云何名阿毘曇？云何名空門？

> 「蜫勒」とは何という意味でしょうか。「阿毘曇」とは何という意味でしょうか。「空門」とは何という意味でしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

蜫勒有三百二十萬言，佛在世時，大迦栴延之所造；佛滅度後人壽轉減，憶識力少，不能廣誦，諸得道人撰為三十八萬四千言。

> 毘勒論には三百二十万語あり、仏が在世の時に大迦栴延が造ったものである。仏が滅度された後、人の寿命は次第に減り、記憶する力も少なくなり、広く誦することができなくなったので、悟りを得た人々が編纂して三十八万四千語とした。

若人入蜫勒門，論議則無窮；其中有隨相門、對治門等種種諸門。

> もし人が蜫勒門に入れば、議論は尽きることがありません。その中には随相門や対治門など、さまざまな門があります。

隨相門者，如佛說偈：

> 「随相門」とは、次のようなことです。たとえば、仏が次のように偈を説かれました。

「諸惡莫作， 諸善奉行， 自淨其意，是諸佛教。」

> 悪いことをせず、善いことを行い、自分の心を清める。これが仏の教えです。

是中心數法盡應說，今但說「自淨其意」，則知諸心數法已說。何以故？同相、同緣故。

> 心に働くさまざまな要素は、すべて説かれるべきですが、ここではただ「自らの意を浄める」と説かれています。このことから、心に働くすべての要素がすでに説かれていると知られます。なぜなら、同じ姿を持ち、同じ対象を向いているからです。

如佛說四念處，是中不離四正懃、四如意足、五根、五力。何以故？四念處中：四種精進，則是四正懃；四種定，是為四如意足；五種善法，是為五根、五力。佛雖不說餘門，但說四念處，當知已說餘門。

> 仏が四念処を説かれるとき、そこにはすでに四正勤、四如意足、五根、五力が含まれています。なぜでしょうか。四念処の中にある四つの精進はそのまま四正勤であり、四つの定は四如意足であり、五つの善い法は五根と五力だからです。仏が他の修行法を別に説かれなくても、ただ四念処を説かれただけで、すでにそれらすべてを説かれたのだと知るべきです。

如佛於四諦中，或說一諦，或二、或三。如馬星比丘為舍利弗說偈：

> 仏が四諦について、あるときは一つの諦を説き、あるときは二つ、あるときは三つを説かれるように。たとえば、馬星比丘が舎利弗のために偈を説いたように。

「諸法從緣生， 是法緣及盡；我師大聖王， 是義如是說。」

> すべてのものは因と縁によって生じ、その法の縁もまた尽きる。 わが師である大いなる聖なる王は、この意味をそのように説かれた。

此偈但說三諦，當知道諦已在中，不相離故；譬如一人犯事，舉家受罪。

> この偈はただ三諦を説いているが、道諦はすでにその中に含まれていると知るべきです。互いに離れることができないからです。たとえば、一人が罪を犯せば、家族全員が罰を受けるようなものです。

如是等，名為隨相門。

> このように、これらは「相に随う門」と呼ばれます。

對治門者，如佛但說四顛倒：常顛倒、樂顛倒、我顛倒、淨顛倒。是中雖不說四念處，當知已有四念處義。譬如說藥，已知其病，說病則知其藥。若說四念處，則知已說四倒；四倒則是邪相。若說四倒，則已說諸結。所以者何？說其根本，則知枝條皆得。如佛說一切世間有三毒；說三毒，當知已說三分、八正道。若說三毒，當知已說一切諸煩惱毒。十五種愛是貪欲毒，十五種瞋是瞋恚毒，十五種無明是愚癡毒，諸邪見、憍慢、疑屬無明。如是一切結使，皆入三毒。以何滅之？三分、八正道。若說三分、八正道，當知已說一切三十七品。如是等種種相，名為對治門。

> 対治門とは、たとえば仏がただ四つの転倒―常の転倒、楽の転倒、我の転倒、浄の転倒―を説かれたようなものである。この中では四念処が説かれていなくても、すでに四念処の意味が含まれていると知るべきである。たとえば薬を説けば、すでにその病が分かるようなもので、病を説けばその薬が分かる。もし四念処を説けば、すでに四顛倒を説いたと知られる。四顛倒とはすなわち邪な相である。もし四顛倒を説けば、すでにすべての煩悩の結びを説いたことになる。なぜならば、その根本を説けば、枝や葉もすべて得られると分かるからである。たとえば仏が一切の世間に三毒があると説かれたように、三毒を説けば、すでに三分と八正道を説いたと知るべきである。もし三毒を説けば、すでに一切の煩悩の毒を説いたと知るべきである。十五種の愛は貪欲の毒であり、十五種の瞋は瞋恚の毒であり、十五種の無明は愚癡の毒であり、諸々の邪見、憍慢、疑いは無明に属する。このように一切の結使は、すべて三毒に含まれる。何によってそれを滅するのか。三分と八正道である。もし三分と八正道を説けば、すでに一切の三十七品を説いたと知るべきである。このような種々の相を、対治門と名づける。

如是等諸法，名為蜫勒門。

> このようなさまざまな教えを、蜫勒門と呼びます。

云何名阿毘曇門？或佛自說諸法義，或佛自說諸法名，諸弟子種種集述解其義。如佛說：「若有比丘於諸有為法，不能正憶念，欲得世間第一法，無有是處。若不得世間第一法，欲入正位中，無有是處。若不入正位，欲得須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢，無有是處。有比丘於諸有為法正憶念，得世間第一法，斯有是處。若得世間第一法，入正位；入正位，得須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢，必有是處。」如佛直說世間第一法，不說相義、何界繫、何因、何緣、何果報。從世間第一法，種種聲聞所行法，乃至無餘涅槃，一一分別相義，如是等是名阿毘曇門。

> 阿毘曇門とは何か。それは、仏が自ら諸法の義を説かれたもの、あるいは仏が自ら諸法の名を説かれたもの、また弟子たちがさまざまに集め述べてその義を解き明かしたものである。たとえば仏が説かれたように、「もし比丘が諸の有為法について正しく憶念することができないならば、世間第一の法を得ようとしても、そのような道理はない。もし世間第一の法を得ることができなければ、正位に入ろうとしても、そのような道理はない。もし正位に入ることができなければ、須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢を得ようとしても、そのような道理はない。比丘が諸の有為法について正しく憶念するならば、世間第一の法を得る、これには道理がある。もし世間第一の法を得れば、正位に入る。正位に入れば、須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢を得る、必ず道理がある。」仏はただ世間第一の法を直接説かれただけで、その相や義、どの界に属するか、何が因で何が縁か、どのような果報かは説かれなかった。この世間第一の法から、さまざまな声聞の行法、さらには無余涅槃に至るまで、一つ一つその相と義を分別した、このようなものを阿毘曇門と名づける。

空門者，生空、法空。

> 空の教えとは、生きるものの空と、法の空のことです。

如《頻婆娑羅王迎經》中，佛告大王：「色生時但空生，色滅時但空滅。諸行生時但空生，滅時但空滅。是中無吾我、無人、無神，無人從今世至後世，除因緣和合名字等眾生，凡夫愚人逐名求實。」如是等經中，佛說生空。

> 『頻婆娑羅王迎経』の中で、仏は大王にこう告げられました。「色が生じるときはただ空が生じ、色が滅するときはただ空が滅する。諸行が生じるときはただ空が生じ、滅するときはただ空が滅する。そこには我もなく、人もなく、神もなく、この世から後世へと向かう人もいない。ただ因縁が和合した仮の名としての衆生があるだけで、凡夫の愚かな者はその名を追い求めて実体があるとするのだ。」このような経典の中で、仏は「生は空である」と説かれています。

法空者，如佛說《大空經》中，十二因緣，無明乃至老死：若有人言「是老死」，若言「誰老死」，皆是邪見。生、有、取、愛、受、觸、六入、名色、識、行、無明，亦如是。若有人言「身即是神」，若言「身異於神」，是二雖異，同為邪見。佛言：「身即是神，如是邪見，非我弟子；身異於神，亦是邪見，非我弟子。」

> 法空とは、仏が『大空経』で説かれたように、十二因縁の無明から老死に至るまで、もし「これが老死だ」と言う人も、「誰が老死するのか」と言う人も、どちらも邪見です。生・有・取・愛・受・触・六入・名色・識・行・無明についても、同じことが言えます。もし「身体がすなわち魂だ」と言う人も、「身体は魂とは異なる」と言う人も、この二つは異なっていても、同じく邪見です。仏は言われました。「身体がすなわち魂だというのは邪見であり、私の弟子ではない。身体は魂とは異なるというのもまた邪見であり、私の弟子ではない」と。

是經中佛說法空。

> この経の中で、仏は法が空であると説いておられます。

若說「誰老死」，當知是虛妄，是名生空；若說「是老死」，當知是虛妄，是名法空。乃至無明亦如是。

> 「誰が老死するのか」と言うなら、それは虚妄であると知るべきで、これを生空（しょうくう）と呼びます。「これが老死である」と言うなら、それは虚妄であると知るべきで、これを法空（ほうくう）と呼びます。無明についても同様です。

復次，佛說《梵網經》中，六十二見：若有人言「神常，世間亦常」，是為邪見；若言「神無常，世間無常」，是亦邪見；「神及世間常亦無常」、「神及世間非常亦非非常」，皆是邪見。

> 次に、仏が『梵網経』の中で説かれた六十二の見解についてお話しします。「神は永遠であり、世間もまた永遠である」と言うなら、それは誤った見解です。「神は無常であり、世間もまた無常である」と言うなら、これもまた誤った見解です。「神も世間も永遠であり、また無常である」「神も世間も永遠ではなく、また永遠でないわけでもない」と言うのも、すべて誤った見解なのです。

以是故，知諸法皆空，是為實。

> だからこそ、すべてのものは空であると知ることが、真実なのです。

問曰：

> お尋ねします。

若言「神常」，應是邪見。何以故？神性無故。

> もし「神は永遠である」と言うなら、それは誤った見方です。なぜなら、神の本性は存在しないからです。

若言「世間常」，亦應是邪見。何以故？世間實皆無常，顛倒故言「有常」。

> 「世間は常である」と言うのも、また邪見です。なぜなら、世間は実にすべて無常であるのに、颠倒しているために「常である」と言うからです。

若言「神無常」，亦應是邪見。何以故？神性無故，不應言「無常」。

> 「神は無常である」と言うのも、また邪見です。なぜなら、神には固有の本性がないからです。それゆえ「無常である」と言うべきではありません。

若言「世間無常」，不應是邪見。何以故？一切有為法性，實皆無常。

> 「世間は無常である」と言うなら、それは邪見ではない。なぜか。一切の有為法の性質は、実にすべて無常だからである。

答曰：

> お答えしますと、

若一切法實皆無常，佛云何說「世間無常是名邪見」？是故可知非實是無常。

> もしすべての法が本当に無常であるなら、仏はなぜ「世間は無常であるというのは邪見である」と説かれたのでしょうか。したがって、本当に無常であるわけではないと知ることができます。

問曰：

> お尋ねします。

佛處處說觀有為法無常、苦、空、無我，令人得道，云何言「無常墮邪見」？

> 仏はあらゆる場面で、有為の法は無常であり、苦であり、空であり、無我であると説き、人々が悟りを得られるように導いておられます。それなのに、なぜ「無常は邪見に陥る」と言うのですか。

答曰：

> お答えしますと、

佛處處說無常，處處說不滅。如摩訶男釋王來至佛所，白佛言：「是迦毘羅人眾殷多，我或值奔車、逸馬、狂象、鬪人時，便失念佛心；是時自念：『我今若死當生何處？』」佛告摩訶男：「汝勿怖勿畏！汝是時不生惡趣，必至善處。譬如樹常東向曲，若有斫者，必當東倒；善人亦如是，若身壞死時，善心意識長夜以信、戒、聞、施、慧熏心故，必得利益，上生天上。」

> 仏はいつもどこでも無常を説き、どこでも不滅を説かれる。たとえば、摩訶男という釈迦族の王が仏のもとに来て、こう申し上げた。「迦毘羅には人が大勢おります。私が暴走する車や、逃げ出す馬や、狂った象や、争う人々に出くわすことがありますと、つい念仏の心を失ってしまいます。そのとき、こう思うのです。『私が今死んだら、どこに生まれるのだろうか』と。」仏は摩訶男に告げられた。「恐れることはない、怖がることはない。そのとき、あなたは悪い世界には生まれず、必ず良い世界へ行くであろう。たとえば、木がいつも東へ向かって曲がっていれば、それを切る者は、必ず東へ倒すであろう。善人も同じである。体が壊れて死ぬとき、善い心と意識が長い間、信・戒・聞・施・慧によって心を熏じているので、必ず利益を得て、天上に生まれるのである。」

若一切法念念生滅無常，佛云何言「諸功德熏心故必得上生」？以是故，知非無常性。

> すべての法が瞬時ごとに生じては滅し、無常であるならば、仏はなぜ「さまざまな功德が心を薫じるゆえに、必ず上の世界に生まれることができる」とおっしゃったのでしょうか。ですから、無常な性質ではないと知られるのです。

問曰：

> お尋ねします。

若無常不實，佛何以說無常？

> もし無常が真実でないのなら、仏はなぜ無常を説かれるのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

佛隨眾生所應而說法，破常顛倒故，說無常；以人不知不信後世故，說「心去後世，上生天上，罪福業因緣，百千萬劫不失。」是對治悉檀，非第一義悉檀。諸法實相，非常非無常。佛亦處處說諸法空，諸法空中亦無無常。以是故說「世間無常是邪見」。是故名為法空。

> 仏は衆生の応じるところに従って法を説かれます。常という誤った見方を破るために、無常を説かれました。人々が後世を知らず、信じないために、「心は後世へ去り、天上に生まれ、罪や福の業の因縁は百千万劫を経ても失われない」と説かれました。これは対治の悉檀であり、第一義の悉檀ではありません。諸法の実相は、常でもなく無常でもありません。仏はまた、いたるところで諸法は空であると説かれ、諸法が空である中には無常もまたありません。このゆえに「世間は無常であるというのは邪見である」と説かれます。このゆえに法空と名づけられます。

復次，毘耶離梵志，名論力，諸梨昌等大雇其寶物，令與佛論。取其雇已，即以其夜思撰五百難，明旦與諸梨昌至佛所，問佛言：「一究竟道？為眾多究竟道？」

> 次に、毘耶離（びやたり）の梵志（ぼんじ）で論力（ろんりき）という者がいました。梨昌（りしょう）たちは多くの宝物を与えて、仏と論じ合うように頼みました。報酬を受け取ると、その夜のうちに五百の難しい問いを考え出し、翌朝、梨昌たちとともに仏のもとへ行き、仏に尋ねました。「究極の道は一つなのでしょうか。それとも多くの究極の道があるのでしょうか。」

佛言：「一究竟道，無眾多也。」

> 仏陀は言われました。「ただ一つの究極の道があり、多くはないのです。」

梵志言：「佛說一道，諸外道師各各有究竟道，是為眾多非一！」

> 梵志が言いました。「仏は一道を説かれますが、外道の師たちはそれぞれに究竟の道があるとしています。これは多くあって一つではないではありませんか。」

佛言：「是雖各有眾多，皆非實道。何以故？一切皆以邪見著故，不名究竟道。」佛問梵志：「鹿頭梵志得道不？」答言：「一切得道中，是為第一。」是時，長老鹿頭梵志比丘在佛後扇佛。佛問梵志：「汝識是比丘不？」梵志識之，慚愧低頭。是時，佛說《義品》偈：

> ブッダは言われました。「それらはそれぞれ多くのものがあるが、どれも真実の道ではない。なぜか。すべてが誤った見方にとらわれているため、究極の道とは言えないからだ。」ブッダは梵志に問われました。「鹿頭梵志は道を得たか。」「すべての道を得た者の中で、これが第一です。」と答えました。そのとき、長老鹿頭梵志比丘はブッダの後ろで扇いでいました。ブッダは梵志に問われました。「あなたはこの比丘を知っているか。」梵志は彼だと分かり、恥じて頭を垂れました。そのとき、ブッダは『義品』の偈を説かれました。

「各各謂究竟， 而各自愛著，各自是非彼， 是皆非究竟！是人入論眾， 辯明義理時，各各相是非， 勝負懷憂喜。勝者墮憍坑， 負者墮憂獄；是故有智者， 不隨此二法。論力汝當知， 我諸弟子法，無虛亦無實， 汝欲何所求？汝欲壞我論， 終已無此處，一切智難勝， 適足自毀壞！」

> それぞれが「これこそ究極だ」と言い、 それぞれが自分の説に執着している。 それぞれが他人を否定し合うが、 それらはどれも究極ではない。 人々は議論の集まりに入り、 道理を明らかにしようと論じ合うとき、 互いに非難し合い、 勝ち負けに喜びや憂いを抱く。 勝った者は慢心の穴に落ち、 負けた者は憂いの牢獄に落ちる。 だからこそ、知恵ある者は この二つの道には従わない。 論争の力よ、よく聞きなさい。 私の弟子たちの法は、 虚ろでもなく、実でもない。 あなたは何を求めているのか。 あなたが私の論を打ち破ろうとしても、 そのようなことは決してありえない。 一切智者に勝つことは难しく、 ただ自分自身を滅ぼすだけだ。

如是等處處聲聞經中，說諸法空。

> このように、さまざまな場所で声聞のための経典の中で、諸法は空であると説かれています。

摩訶衍空門者，一切諸法性常自空，不以智慧方便觀故空。如佛為須菩提說：「色，色自空；受、想、行、識，識自空。十二入、十八界、十二因緣、三十七品、十力、四無所畏、十八不共法、大慈大悲、薩婆若，乃至阿耨多羅三藐三菩提，皆自空。」

> 摩訶衍の空門とは、すべての諸法の本性はもともと空であって、智慧や方便によって観察するから空なのではありません。たとえば仏が須菩提のために説かれたとおりです。「色は、色それ自体が空である。受・想・行・識は、識それ自体が空である。十二入、十八界、十二因縁、三十七品、十力、四無所畏、十八不共法、大慈大悲、薩婆若、さらには阿耨多羅三藐三菩提に至るまで、すべてそれ自体が空である。」

問曰：

> お尋ねします。

若一切諸法性常自空、真空、無所有者，云何不墮邪見？邪見名無罪無福，無今世後世，與此無異！

> すべてのものごとの本性がもともと空であり、真に空であり、何も存在しないのであれば、なぜ邪な見方に陥らないのでしょうか。邪な見方とは、罪も福もなく、現世も来世もないとするものであり、それと同じことになってしまいます。

答曰：

> お答えしますと、

無罪無福人，不言無今世，但言無後世；如草木之類，自生自滅。或人生、或人殺，止於現在，更無後世生；而不知觀身內外所有自相皆空，以是為異。

> 罪も福もない人は、「今の世はない」とは言わず、「後の世はない」とだけ言う。草木のようなもので、ひとりでに生まれ、ひとりでに滅びる。あるいは人が生まれ、あるいは人が殺され、ただ現在で終わり、後の世に生まれることはない、と。しかし、自分の身の内も外も、すべての姿はみな空であると観ることを知らない。これが違いである。

復次，邪見人多行眾惡，斷諸善事；觀空人善法尚不欲作，何況作惡！

> また、間違った考えを持つ人は多くの悪行を重ね、善い行いを断ち切ってしまいます。一方、空を正しく見る人は、善いことさえあえて行おうとしないほどですから、ましてや悪いことをするはずがありません。

問曰：

> お尋ねします。

邪見有二種：有破因破果，有破果不破因。如汝所說，破果不破因。破果破因者，言無因無緣，無罪無福，則是破因；無今世、後世、罪福報，是則破果。觀空人言皆空，則罪福、因果皆無，與此有何等異？

> 邪見には二つの種類があります。原因も結果も否定するものと、結果だけを否定して原因は否定しないものです。あなたが説いているのは、結果だけを否定して原因は否定しないものです。原因も結果も否定するとは、「原因もなく条件もない、罪もなく福もない」と言うことで、これが原因を否定することです。「現世も来世もなく、罪や福の報いもない」と言うことが、結果を否定することです。空を観ずる人が「すべては空である」と言うなら、罪も福も、因果もすべてないことになり、これと何の違いがあるでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

邪見人於諸法斷滅令空；摩訶衍人知諸法真空，不破不壞。

> 邪見の人は、あらゆるものが断ち切られ消え失せて空になると考えます。しかし大乗の人は、あらゆるものが真に空であると知り、何も壊さず、損ないません。

問曰：

> お尋ねします。

是邪見三種：

> 邪見には三つの種類があります。

一者、破罪福報，不破罪福；破因緣果報，不破因緣；破後世，不破今世。

> 一つには、罪と福の報いを破りながら、罪と福そのものは破らず、因縁と果報を破りながら、因縁そのものは破らず、来世を破りながら、現世は破らない。

二者、破罪福報，亦破罪福；破因緣果報，亦破因緣；破後世，亦破今世，不破一切法。

> 二つには、罪福の報いを破り、また罪福を破る。因縁の果報を破り、また因縁を破る。後世を破り、また現世を破るが、一切の法を破ることはない。

三者、破一切法，皆令無所有。

> 三つには、すべての法を破って、みな無所有とすることです。

觀空人亦言真空無所有，與第三邪見有何等異？

> 空を観じる人も「真の空には何もない」と言いますが、それは第三の邪見とどう違うのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

邪見破諸法令空；觀空人知諸法真空，不破不壞。

> 邪見は诸法を破して空と為す。空を観ずる人は诸法の真実の空を知り、破らず壊さず。

復次，邪見人言諸法皆空無所有，取諸法空相戲論；觀空人知諸法空，不取相、不戲論。

> また、邪見の人は「諸法は皆空であり何もない」と言って、諸法の空という相にとらわれて戯論します。空を観る人は、諸法が空であると知り、相にとらわれず、戯論しません。

復次，邪見人雖口說一切空，然於愛處生愛，瞋處生瞋，慢處生慢，癡處生癡，自誑其身；如佛弟子實知空，心不動，一切結使生處不復生。譬如虛空，烟火不能染，大雨不能濕；如是觀空，種種煩惱不復著其心。

> また、邪見の人は、口では「すべては空である」と言いながらも、愛すべきものには愛を生じ、怒るべきものには怒りを生じ、慢るべきところでは慢り、愚かになるべきところでは愚かになり、みずからを欺いています。しかし、仏の弟子が真に空を悟れば、心は動かされることなく、あらゆる煩悩が生じるもとで、もはや煩悩を生じることはありません。たとえば虚空には、煙や火も汚すことができず、大雨も濡らすことができないのと同じです。このように空を観じるならば、さまざまな煩悩がもはやその心にまとわりつくことはありません。

復次，邪見人言無所有，不從愛因緣出；真空名從愛因緣生，是為異。四無量心諸清淨法，以所緣不實故，猶尚不與真空智慧等，何況此邪見？

> また、邪見の人は「何も存在しない」と言いますが、これは愛という因縁から生じたものではありません。真の空は愛という因縁から生じるのであって、そこが異なります。四無量心などの清浄な法は、対象とするものが実体ではないため、なお真の空の智慧には及びません。ましてやこの邪見など、なおさらです。

復次，是見名為邪見，真空見名為正見。行邪見人，今世為弊惡人，後世當入地獄；行真空智慧人，今世致譽，後世得作佛。譬如水、火之異，亦如甘露、毒藥，天食須陀以比臭糞！

> 次に、この見解は邪見と呼ばれ、真に空を見ることは正見と呼ばれます。邪見を行う人は、今世では悪人となり、後世には地獄に堕ちます。真空の智慧を行う人は、今世で名声を得て、後世に仏となることができます。たとえば水と火の違いのようであり、また甘露と毒薬のようであり、天の食べ物である須陀を臭い糞と比べるようなものです。

復次，真空中有空空三昧；邪見空雖有空，而無空空三昧。

> また、真実の空の中には「空空三昧」があります。誤った空の見方には空があっても、「空空三昧」はありません。

復次，觀真空人，先有無量布施、持戒、禪定，其心柔軟，諸結使薄，然後得真空；邪見中無此事，但欲以憶想分別，邪心取空。譬如田舍人初不識鹽，見貴人以鹽著種種肉菜中而食，問言：「何以故爾？」語言：「此鹽能令諸物味美故。」此人便念此鹽能令諸物美，自味必多，便空抄鹽，滿口食之，醎苦傷口，而問言：「汝何以言鹽能作美？」貴人言：「癡人！此當籌量多少，和之令美，云何純食鹽？」無智人聞空解脫門，不行諸功德，但欲得空，是為邪見，斷諸善根。

> 次に、真の空を観じる人は、まず無量の布施・持戒・禅定を積んでいます。その心は柔らかく、煩悩の結びつきも薄くなって、はじめて真の空を得ることができます。邪見の中にはこのようなことはなく、ただ思い巡らし分別して、邪な心で空をとらえようとするだけです。たとえば、田舎の人が初めは塩を知らず、身分の高い人が塩をいろいろな肉や野菜に入れて食べるのを見て、「なぜそうするのですか」と尋ねました。相手は「この塩はさまざまな物の味をよくするからだ」と答えました。この人は、塩がさまざまな物の味をよくするのなら、塩そのものの味はきっともっとよいはずだと考え、塩だけを大さじですくって口いっぱいに入れ、塩辛さと苦さで口を傷めてしまい、「どうして塩が味をよくすると言ったのですか」と尋ねました。身分の高い人は言いました。「愚か者よ、これは量をはかって加減し、混ぜて味をよくするものだ。どうして塩だけを食べるのか」と。智慧のない人が空・解脱の門を聞いて、もろもろの功德を行わず、ただ空を得たいと思うのは、これが邪見であり、もろもろの善根を断つことになるのです。

如是等義，名為空門。

> このような意味を、空の門と呼びます。

若人入此三門，則知佛法義不相違背。能知是事，即是般若波羅蜜力，於一切法無所罣礙。若不得般若波羅蜜法，入阿毘曇門則墮有中，若入空門則墮無中，若入蜫勒門則墮有無中。

> もし人がこの三つの門に入るならば、仏法の教えは互いに矛盾しないことがわかります。このことを理解できるのは、般若波羅蜜の力によるものであり、すべての法に対して何の妨げもなくなります。もし般若波羅蜜の法を得ずに、阿毘曇の門に入れば「有」に執着し、空の門に入れば「無」に執着し、蜫勒の門に入れば「有無」に執着してしまいます。

復次，菩薩摩訶薩行般若波羅蜜，雖知諸法一相，亦能知一切法種種相；雖知諸法種種相，亦能知一切法一相。菩薩如是智慧，名為般若波羅蜜。

> 次に、菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を実践するとき、すべての法が一つの姿であることを知りながらも、すべての法のさまざまな姿をも知ることができます。また、すべての法のさまざまな姿を知りながらも、すべての法が一つの姿であることも知ることができます。菩薩のこのような智慧を、般若波羅蜜と呼びます。

問曰：

> お尋ねします。

菩薩摩訶薩云何知一切法種種相？云何知一切法一相？

> 菩薩摩訶薩は、どのようにして一切の法のさまざまな姿を知るのでしょうか。どのようにして一切の法が一つの姿であることを知るのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

菩薩觀諸法相，所謂有相。因是有，諸法中有心生，如是等一切有。

> 菩薩は諸法の相を観じます。いわゆる「有相」です。この「有」があるために、諸法の中に心が生じます。このように、これらすべてが「有」なのです。

問曰：

> お尋ねします。

無法中云何有心生？

> 法の中では、どのようにして心が生じるのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

若言無，是事即是有法。

> 「無い」と言うなら、それはすでに「有る」ということです。

復次，菩薩觀一切法一相，所謂無相。如牛中無羊相，羊中無牛相；如是等諸法中，各各無他相。如先言因有故有心生，是法異於有，異故應無。若有法是牛，羊亦應是牛。何以故？有法不異故。若異則無，如是等一切皆無。

> 次に、菩薩は一切の法を一つの相として観じます。それは「無相」と呼ばれるものです。たとえば、牛の中に羊の相はなく、羊の中に牛の相はありません。このように、もろもろの法の中には、それぞれ他者の相がありません。先に「有るがゆえに心が生じる」と言いましたが、この法は「有」とは異なります。異なるがゆえに、無であるべきです。もしある法が牛であるなら、羊もまた牛であるはずです。なぜなら、「有る法」は異ならないからです。もし異なるならば、それは無です。このように、これらすべては皆、無なのです。

復次，菩薩觀一切法一，因是一法，諸法中一心生。諸法各各有一相，合眾一故名為二、名為三；一為實，二、三為虛。

> 次に、菩薩は一切の法が一つであると観察します。この一つの法によって、諸法の中に一つの心が生じます。諸法はそれぞれに一つの相を持ち、多くの一を合わせるがゆえに二となり、三となります。一は実であり、二も三も虚です。

復次，菩薩觀諸法有所因故有，如人身無常。何以故？生滅相故。一切法皆如是，有所因故有。

> 次に、菩薩は、すべての法には原因があるからこそ存在すると観察します。たとえば人の体が無常であるように。なぜかといえば、生じては滅するという性質があるからです。すべての法もみな同じで、原因があるからこそ存在するのです。

復次，一切諸法無所因故有，如人身無常，生滅故；因生滅故知無常。此因復應有因，如是則無窮，若無窮則無因；若是因更無因，是無常因亦非因，如是等一切無因。

> 次に、すべての法は原因がないからこそ存在する。たとえば人の体が無常であるのは、生じては滅するからである。生滅があるから無常だと知る。この原因にもまた原因があるはずで、そうなると無限に続く。無限に続くならば原因はないことになる。もしこの原因にさらに原因がなければ、その無常の原因もまた原因ではない。このように、すべてに原因はないのである。

復次，菩薩觀一切法有相，無有法無相者，如：地，堅、重相；水，冷、濕相；火，熱、照相；風，輕、動相；虛空，容受相；分別覺知，是為識相。有此有彼，是為方相；有久有近，是為時相。濁惡心惱眾生，是為罪相；淨善心愍眾生，是為福相。著諸法，是為縛相；不著諸法，是為解脫相。現前知一切法無礙，是為佛相。如是等一切各有相。

> 次に、菩薩はすべての法には相があると観察します。相のない法は存在しません。たとえば、地には堅くて重いという相があり、水には冷たくて湿っているという相があり、火には熱くて光るという相があり、風には軽くて動くという相があり、虚空には何でも受け入れるという相があり、それぞれに分けて知覚することは識の相です。これがあるからあれがあるというのが方角の相であり、久しい・近いというのが時間の相です。濁った悪い心で衆生を悩ませるのが罪の相であり、清らかな善い心で衆生をあわれむのが福の相です。さまざまな法に執着するのが束縛の相であり、さまざまな法に執着しないのが解脱の相です。目の前にすべての法が妨げなく知られるのが仏の相です。このように、これらすべてにはそれぞれ相があります。

復次，菩薩觀一切法皆無相，是諸相從因緣和合生，無自性故無。如地，色、香、味、觸四法和合故名地，不但色故名地，亦不但香、但味、但觸故名為地。何以故？若但色是地，餘三則不應是地，地則無香、味、觸；香、味、觸亦如是。

> 次に、菩薩は一切の法がみな無相であると観察する。これらの相は因縁が和合して生じたものであり、自性がないから無である。たとえば地について、色・香・味・触の四つの法が和合したから地と名づけるのであって、ただ色だけによって地というのではない。またただ香だけ、ただ味だけ、ただ触だけによって地というのでもない。なぜか。もしただ色だけが地であるならば、残りの三つは地であるはずがなく、地には香・味・触がないことになる。香・味・触についても同様である。

復次，是四法云何為一法？一法云何為四法？以是故，不得以四為地，亦不得離四為地。

> また、この四つの法はどうして一つの法となるのか。一つの法はどうして四つの法となるのか。だからこそ、四つをもって地とすることはできず、また四つを離れて地とすることもできないのです。

問曰：

> お尋ねします。

我不以四為地，但因四法故地法生，此地在四法中住！

> 私は「四」を地とはしません。しかし、四つの法があるからこそ地の法が生じるのです。この地は、その四つの法の中にとどまっているのです。

答曰：

> お答えしますと、

若從四法生地，地與四法異。如父母生子，子則異父母。若爾者，今眼見色、鼻知香、舌知味、身知觸，地若異此四法者，應更有異根、異識知；若更無異根、異識知，則無有地。

> もし地が四つの法から生じるのなら、地と四つの法は別のものである。ちょうど父母が子を生むと、子は父母とは別であるようなものだ。もしそうなら、今、目が色を見、鼻が香りを知り、舌が味を知り、身が触れ合いを知るが、地がこの四つの法と別であるなら、さらに別の感覚器官と別の意識があって知るはずである。もしさらに別の感覚器官も別の意識もないなら、地は存在しないことになる。

問曰：

> お尋ねします。

若上說地相有失，應如阿毘曇說地相。地名四大造色，但地種是堅相，地是可見色！

> もし上に説いた地の相に誤りがあるなら、阿毘曇に説かれる地の相によるべきです。地とは四大によって造られた色を指しますが、地種は堅さという相であり、地は目に見える色なのです。

答曰：

> お答えしますと、

若地但是色，先已說失。

> もし地がただ色であるなら、すでに述べた過ちとなってしまいます。

又地為堅相，但眼見色，如水中月，鏡中像，草木影，則無堅相，堅則身根觸知故。

> また、地は堅いという性質を持つとされますが、目で見る色は、水に映る月や鏡に映る像、草木の影のようなもので、そこに堅いという性質はありません。堅さは、体の感覚によって触れて知るものなのです。

復次，若眼見色是地，堅相是地種；眼見色亦是水、火，濕、熱相是水、火種。若爾者，風、風種亦應分別，而不分別！如說：「何等是風？風種；何等風種？風。」若是一物，不應作二種答；若是不異者，地及地種不應異。

> また、もし眼で見る色が地であり、堅さという性質が地の要素であるなら、眼で見る色は水や火でもあり、湿りや熱さという性質が水や火の要素であるということになります。そうであれば、風と風の要素も区別されるべきですが、区別されていません。たとえば「何が風か。風の要素である。何が風の要素か。風である」と説かれています。もしこれが一つのものであれば、二つの答えをすべきではありません。もし異ならないものであれば、地と地の要素も異なるべきではないのです。

問曰：

> お尋ねします。

是四大各各不相離，地中有四種，水、火、風各有四種。但地中地多故，以地為名；水、火、風亦爾。

> 四大はそれぞれ切り離せないものではありません。地の中には四つの要素があり、水・火・風にもそれぞれ四つの要素があります。ただ、地の中では地の要素が多いので「地」という名で呼ばれるのです。水・火・風についても同じです。

答曰：

> お答えしますと、

不然！何以故？若火中有四大，應都是熱，無不熱火故。若三大在火中，不熱，則不名為火；若熱，則捨自性，皆名為火。

> そうではありません。なぜなら、もし火の中に四大があるなら、すべて熱いはずです。すべてが熱い火だからです。もし三大が火の中にあって熱くないなら、それは火とは言えません。もし熱いなら、それぞれの性質を捨てて、すべて火と名づけられるのです。

若謂細故不可知，則與無無異。若有麁可得，則知有細；若無麁，亦無細。

> 細かいことが知り得ないというのなら、それは何もないのと同じです。もし粗いものが捉えられるなら、細かいものがあると知ることができます。粗いものがなければ、細かいものもありません。

如是種種因緣，地相不可得；若地相不可得，一切法相亦不可得。是故一切法皆一相。

> このように、さまざまな因縁によって、地の相は得られません。もし地の相が得られないなら、一切の法の相もまた得られません。だからこそ、一切の法はみな一つの相なのです。

問曰：

> お尋ねします。

不應言無相。何以故？於諸法無相即是相。若無無相，則不可破一切法相。何以故？無無相故。若有是無相，則不應言「一切法無相」！

> 「無相」と言ってはいけません。なぜなら、すべてのものごとにおいて、無相であること自体がひとつの相（すがた）だからです。もし無相がなければ、すべてのものごとの相を打ち破ることはできません。なぜなら、無相がないからです。もしこの無相があるのなら、「すべてのものごとは無相である」と言うべきではありません。

答曰：

> お答えしますと、

以無相破諸法相。若有無相相，則墮諸法相中；若不入諸法相中，則不應難！無相皆破諸法相，亦自滅相；譬如前火木，然諸薪已，亦復自然。是故聖人行無相無相三昧，破無相故。

> 無相をもって諸法の相を破る。もし「無相」という相があるなら、それは諸法の相に堕ちてしまう。諸法の相に入らないのなら、難じるべきではない。無相はすべての諸法の相を破り、それ自身の相もまた滅する。たとえば、火が薪を燃やし尽くした後、火自身もまた自然に消えるようなものである。だからこそ、聖人は無相無相の三昧を行じ、無相を破るのである。

復次，菩薩觀一切法不合、不散，無色、無形，無對、無示、無說，一相所謂無相。如是等諸法一相。

> 次に、菩薩は一切の法を観じます。それらは合することもなく、散ることもなく、色もなく、形もなく、対するものもなく、示すこともなく、説くこともありません。ただ一つの相、すなわち無相です。このように、それらすべての法は一つの相なのです。

云何觀種種相？

> どのようにして、さまざまな姿かたちを観るのでしょうか。

一切法攝入二法中，所謂名、色，色、無色，可見、不可見，有對、無對，有漏、無漏，有為、無為等二。百二法門，如〈千難品〉中說。

> すべての法は二つの法にまとめられます。すなわち、名と色、色と無色、見えるものと見えないもの、対立のあるものと対立のないもの、煩悩のあるものと煩悩のないもの、作られたものと作られていないものなど、二つの法です。百二の法門については、〈千難品〉で説かれているとおりです。

復次，有二法：忍辱、柔和。

> また、二つの法があります。忍辱と柔和です。

又二法：親敬、供養。

> また二つの法があります。親しみ敬うことと、供養することです。

二施：財施、法施。

> 二つの施し：財施と法施。

二力：慧分別力、修道力。

> 二つの力：慧によって分別する力と、道を修める力です。

二具足：戒具足、正見具足。

> 二つの備わり：戒が備わること、正見が備わることです。

二相：質直相、柔軟相。

> 二つの特相：正直な相、柔らかな相。

二法：定、智。

> 定と智慧という二つの法があります。

二法：明、解脫。

> 二つの法です。明と解脱です。

二法：世間法、第一義法。

> 二つの法があります。世間の法と、第一義の法です。

二法：念、巧慧。

> 二つの法：念と巧慧です。

二諦：世諦、第一義諦。

> 二つの真理：世間の真理と、最も深い真理です。

二解脫：待時解脫、不壞心解脫。

> 二つの解脱があります。時を待つ解脱と、心が壊れない解脱です。

二種涅槃：有餘涅槃、無餘涅槃。

> 二つの涅槃があります。有余涅槃と無余涅槃です。

二究竟：事究竟、願究竟。

> 二つの究極があります。行いの究極と、願いの究極です。

二見：知見、斷見。

> 二つの誤った見方とは、自分は永遠に続くと考える見方と、死んだらすべてが消えると考える見方です。

二具足：義具足、語具足。

> 二つの備えとは、意味の備えと、言葉の備えです。

二法：少欲、知足。

> 二つの法：少欲と知足。

二法：易養、易滿。

> 二つの法があります。育てやすく、満たされやすいことです。

二法：法、隨法行。

> 二つの法があります。法と、法に従って行うことです。

二智：盡智、無生智。

> 二つの智慧：尽智と無生智。

如是等分別無量二法門。

> このように、無量の二つの法門をそれぞれに説き示された。

復次，知三道：見道、修道、無學道。

> 次に、三道を知る。見道、修道、無学道である。

三性：斷性、離性、滅性。

> 三つの性質：断つ性質、離れる性質、滅する性質。

三修：戒修、定修、慧修。

> 三つの修行：戒の修行、定の修行、慧の修行。

三菩提：佛菩提、辟支迦佛菩提、聲聞菩提更不復學，智滿足之名也。

> 三菩提：仏の菩提、辟支迦仏の菩提、声聞の菩提。<note>もはや学び直すことのない、智慧が満ち足りたという名である。</note>

三乘：佛乘、辟支迦佛乘、聲聞乘。

> 三つの乗り物：仏の乗り物、独覚の乗り物、声聞の乗り物です。

三歸依：佛、法、僧。

> 三帰依：仏、法、僧。

三住：梵住、天住、聖住。

> 三つの住まり（とどまり）があります。それは、梵住（ぼんじゅう）、天住（てんじゅう）、聖住（しょうじゅう）です。

三增上：自增上、他增上、法增上。

> 三つの増上：自らをよりどころとする増上、他をよりどころとする増上、法をよりどころとする増上。

諸佛三不護：身業不護、口業不護、意業不護。

> 諸仏の三不護とは、身業を護らず、口業を護らず、意業を護らないことです。

三福處：布施、持戒、善心。

> 三つの福徳のもととは、布施と、戒めを守ることと、善い心です。

三器杖：聞器杖、離欲器杖、慧器杖。

> 三つの器の杖：聞く器の杖、離欲の器の杖、慧の器の杖。

三輪：變化輪、示他心輪、教化輪。

> 三つの輪：変化輪、示他心輪、教化輪。

三解脫門：空解脫門、無相解脫門、無作解脫門。

> 三つの解脱の門：空の解脱門、無相の解脱門、無作の解脱門。

如是等無量三法門。

> このように、数えきれないほど多くの三つの法の教えがあります。

復知四法：四念處、四正懃、四如意足、四聖諦、四聖種、四沙門果、四知、四信、四道、四攝法、四依、四通達善根、四道、四天人輪、四堅法、四無所畏、四無量心——如是等無量四法門。

> また、四つの法があることを知るべきです。それは、四念処、四正勤、四如意足、四聖諦、四聖種、四沙門果、四知、四信、四道、四摂法、四依、四通達善根、四道、四天人輪、四堅法、四無所畏、四無量心——このような無量の四法門です。

復知五無學眾、五出性、五解脫處、五根、五力、五大施、五智、五阿那含、五淨居天處、五治道、五智三昧、五聖分支三昧、五如法語道——如是等無量五法門。

> また、五無学衆、五出性、五解脱処、五根、五力、五大施、五智、五阿那含、五浄居天処、五治道、五智三昧、五聖分支三昧、五如法語道——このような無量の五法門を知るのです。

復知六捨法、六愛敬法、六神通、六種阿羅漢、六地見諦道、六隨順念、六三昧、六定、六波羅蜜——如是等無量六法門。

> また、六つの捨てる法、六つの愛敬の法、六つの神通、六種の阿羅漢、六つの地における真理を見る道、六つの随順の念、六つの三昧、六つの定、六つの波羅蜜——このような無量の六つの法門を知るのです。

復知七覺意、七財、七依止、七想定、七妙法、七知、七善人去處、七淨、七財福、七非財福、七助定法——如是等無量七法門。

> また、七覚意、七つの財、七つの拠り所、七つの想定、七つの妙法、七つの知、七人の善人が向かうところ、七つの浄さ、七つの富と福、七つの富にあらざる福、七つの定を助ける法——このような無数の七つの法門を知るのです。

復知八聖道分、八背捨、八勝處、八大人念、八種精進、八丈夫、八阿羅漢力——如是等無量八法門。

> また、八聖道分、八背捨、八勝処、八大人念、八種の精進、八丈夫、八阿羅漢力——このような無量の八つの法門があることを知るのです。

復知九次第定，九名色等減從名色至生死為九，九無漏智得盡智故除等智也，九無漏地六禪、三無色，九地思惟道——如是等無量九法門。

> また、九次第定、九の名色などの滅<note>名色から生死までを九とする</note>、九の無漏智<note>尽智を得るため等智を除く</note>、九の無漏地<note>六禅と三無色</note>、九地の思惟道——このような無量の九法門を知る。

復知十無學法、十想、十智、十一切入、十善大地、佛十力——如是等無量十法門。

> さらに、十無学法、十想、十智、十一切入、十善大地、仏の十力——このような無量の十法門を知るのです。

復知十一助聖道法，復知十二因緣法，復知十三出法、十四變化心、十五心見諦道、十六安那般那行、十七聖行、十八不共法、十九離地，思惟道中一百六十二道能破煩惱賊，一百七十八沙門果——八十九有為果、八十九無為果。如是等種種無量異相法，生、滅、增、減，得、失、垢、淨，悉能知之。

> また、十一の助けとなる聖なる道の法を知り、十二因縁の法を知り、十三の出離の法、十四の変化する心、十五の心による真理を見る道、十六の安那般那行、十七の聖なる行、十八の不共法、十九の離れる地を知り、思惟の道においては百六十二の道が煩悩の賊を破ることができ、百七十八の沙門の果——八十九の有為の果、八十九の無為の果——を知っています。このように、さまざまな無量の異なる相の法、生・滅・増・減、得・失・垢・浄について、すべてよく知ることができます。

菩薩摩訶薩知是諸法已，能令諸法入自性空，而於諸法無所著，過聲聞、辟支佛地，入菩薩位中；入菩薩位中已，以大悲憐愍故，以方便力分別諸法種種名字，度眾生令得三乘。譬如工巧之人，以藥力故，能令銀變為金，金變為銀。

> 菩薩摩訶薩は、これらの諸法を知ったうえで、諸法を自性空へと導き入れながらも、諸法に執着することがありません。そして、声聞や辟支仏の境地を超えて、菩薩の位に入ります。菩薩の位に入ったのちは、大悲の哀れみの心によって、方便の力をもって諸法のさまざまな名前を分別し、衆生を導いて三乗を得させます。たとえば、巧みな技を持つ人が、薬の力によって銀を金に変え、金を銀に変えるようなものです。

問曰：

> お尋ねします。

若諸法性真空，云何分別諸法種種名字？何以不但說真空性？

> もしすべての法の本性が空であるなら、なぜさまざまな法にいろいろな名前をつけて区別するのですか。なぜただ空の本性だけを説かないのですか。

答曰：

> お答えしますと、

菩薩摩訶薩不說空是可得可著；若可得可著，不應說諸法種種異相。不可得空者，無所罣礙；若有罣礙，是為可得，非不可得空。若菩薩摩訶薩知不可得空，還能分別諸法，憐愍度脫眾生，是為般若波羅蜜力。

> 菩薩摩訶薩は、空はつかむことも執着することもできるものだとは説きません。もしつかんだり執着したりできるのなら、諸法のさまざまに異なる姿を説くべきではないからです。つかむことのできない空には、何の妨げもありません。もし妨げがあるなら、それはつかむことができるということであり、つかむことのできない空ではありません。もし菩薩摩訶薩が、つかむことのできない空を知りながら、それでもなお諸法を分別し、衆生をあわれんで救い解き放つならば、これが般若波羅蜜の力なのです。

取要言之，諸法實相是般若波羅蜜。

> 要するに、すべてのものの真実の姿こそが、般若波羅蜜なのです。

問曰：

> お尋ねします。

一切世俗經書，及九十六種出家經中，皆說有諸法實相；又聲聞法三藏中，亦有諸法實相，何以不名為般若波羅蜜？而此經中諸法實相，獨名般若波羅蜜？

> すべての世俗の経典や、九十六種の出家者の経典の中でも、諸法の実相について説かれています。また、声聞の法である三蔵の中にも諸法の実相があります。それなのに、なぜそれらは般若波羅蜜とは呼ばれないのでしょうか。この経の中で説かれる諸法の実相だけが、なぜ般若波羅蜜と名づけられるのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

世俗經書中，為安國全家、身命壽樂故非實。

> 世の中の経典の中で、国を安んじ、一家を守り、身体と命と寿命と楽しみを得るために説かれたものは、真実ではない。

外道出家墮邪見法中，心愛著故，是亦非實。

> 外道として出家し、邪見の法に堕ちてしまえば、心がそれに愛着しているために、これもまた真実ではない。

聲聞法中雖有四諦，以無常、苦、空、無我觀諸法實相，以智慧不具足不利，不能為一切眾生、不為得佛法故，雖有實智慧，不名般若波羅蜜。如說：「佛入出諸三昧，舍利弗等乃至不聞其名，何況能知！」何以故？諸阿羅漢、辟支佛初發心時，無大願，無大慈大悲，不求一切諸功德，不供養一切三世十方佛，不審諦求知諸法實相；但欲求脫老、病、死苦故。

> 声聞の法の中には四諦があって、無常・苦・空・無我によって諸法の実相を観じますが、智慧が十分でなく鋭くないため、すべての衆生のために尽くすことができず、仏法を得るために求めるのでもありません。ですから、たとえ真実の智慧があっても、それを般若波羅蜜とは呼びません。経典にこう説かれています。「仏がさまざまな三昧に入り、また出られることを、舎利弗たちでさえその名前すら聞くことができないのだから、ましてや知ることなどできるだろうか。」なぜでしょうか。もろもろの阿羅漢や辟支仏は、初めて心を起こしたとき、大きな願もなく、大きな慈しみと悲しみもなく、すべての功德を求めず、過去・現在・未来の三世と十方の仏に供養することもなく、諸法の実相を詳しく悟ろうとも求めませんでした。ただ老い・病・死の苦しみから逃れたいと願っただけなのです。

諸菩薩從初發心，弘大誓願，有大慈悲，求一切諸功德，供養一切三世十方諸佛，有大利智，求諸法實相。除種種諸觀，所謂淨觀、不淨觀，常觀、無常觀，樂觀、苦觀，空觀、實觀，我觀、無我觀。捨如是等妄見心力諸觀，但觀外緣中實相，非淨、非不淨，非常、非非常，非樂、非苦，非空、非實，非我、非無我。如是等諸觀，不著不得；世俗法故，非第一義。周遍清淨，不破不壞，諸聖人行處，是名般若波羅蜜。

> 菩薩たちは最初に心を起こしてから、大きな誓願を広げ、大きな慈悲を持ち、すべての功德を求め、三世十方のすべての仏に供養し、大きな利智を持ち、諸法の実相を求める。さまざまな観を除く。いわゆる浄観・不浄観、常観・無常観、楽観・苦観、空観・実観、我観・無我観である。このような妄見の心の力による諸観を捨て、ただ外縁の中の実相を観る。それは浄でもなく不浄でもなく、常でもなく非常でもなく、楽でもなく苦でもなく、空でもなく実でもなく、我でもなく無我でもない。このような諸観に執着せず、とらわれることもない。世俗法のためであり、第一義ではない。あまねく清浄で、破ることも壊すこともなく、聖人たちの行うところ、これを般若波羅蜜と名づける。

問曰：

> お尋ねします。

已知般若體相是無相無得法，行者云何能得是法？

> 般若の本質は形もなく、得ることもできない法であると知られていますが、修行者はどうすればその法を得ることができるのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

佛以方便說法，行者如所說行則得。譬如絕崖嶮道，假梯能上；又如深水，因船得渡。初發心菩薩，若從佛聞、若從弟子聞、若於經中聞，一切法畢竟空，無有決定性可取可著，第一實法，滅諸戲論。涅槃相是最安隱，我欲度脫一切眾生，云何獨取涅槃？我今福德、智慧、神通力未具足故，不能引導眾生，當具足是諸因緣，行布施等五波羅蜜：財施因緣故得大富，法施因緣故得大智慧；能以此二施，引導貧窮眾生，令入三乘道。以持戒因緣故，生人天尊貴，自脫三惡道，亦令眾生免三惡道。以忍辱因緣故，障瞋恚毒，得身色端政，威德第一，見者歡喜，敬信心伏，況復說法！以精進因緣故，能破今世後世福德、道法懈怠，得金剛身、不動心；以是身、心，破凡夫憍慢，令得涅槃。以禪定因緣故，破散亂心，離五欲罪樂，能為眾生說離欲法。禪是般若波羅蜜依止處，依是禪，般若波羅蜜自然而生。如經中說：「比丘一心專定，能觀諸法實相。」

> 仏は方便をもって法を説かれ、修行者は説かれたとおりに実践すれば、それを得ることができます。たとえば、切り立った崖の険しい道も、梯子があれば登ることができます。また、深い水も、船によって渡ることができます。 初めて心を起こした菩薩は、仏から聞いても、弟子から聞いても、経典の中で聞いても、「一切の法は究極的には空であり、決まった性質として執着したり捉えたりできるものはない。これが第一の真実の法であり、すべての無駄な議論を滅ぼすものである」と理解します。涅槃の相は最も安らかであり、「私は一切の衆生を救い解脱させたい。どうして自分だけが涅槃を取り入れようか」と考えます。しかし、私の福德・智慧・神通力はまだ十分ではないので、衆生を導くことができません。だから、それらの因縁をすべて備え、布施など五つの波羅蜜を実践しようとします。 財施の因縁によって大いなる富を得、法施の因縁によって大いなる智慧を得ます。この二つの施しによって、貧しい衆生を導き、三乗の道に入らせることができます。持戒の因縁によって、人や天の尊い身に生まれ、自分が三悪道から脱するだけでなく、衆生も三悪道から免れさせることができます。忍辱の因縁によって、怒りの毒を防ぎ、身体の色かたちが端正で、威厳と徳が第一になり、見る者は喜び、敬い信じて心が従います。ましてや法を説くとなれば、なおさらです。精進の因縁によって、現世・来世の福德や道の法に対する怠け心を打ち破り、金剛のような身体と動じない心を得ます。この身と心によって、凡夫の慢心を打ち破り、涅槃を得させることができます。禅定の因縁によって、散乱した心を打ち破り、五欲の罪ある楽しみから離れ、衆生のために欲を離れる法を説くことができます。 禅は般若波羅蜜の拠り所です。この禅に依って、般若波羅蜜は自然に生まれます。経典に説かれているとおりです。「比丘よ、心を一つに専念して定めれば、諸法の実相を観ることができる」と。

復次，知欲界中多以慳、貪罪業，閉諸善門；行檀波羅蜜時，破是二事，開諸善門。欲令常開故，行十善道尸羅波羅蜜。未得禪定、智慧，未離欲故，破尸羅波羅蜜，以是故行忍辱。知上三事能開福門。

> 次に、欲界では主に物惜しみと貪りの罪の業によって、さまざまな善き道が閉ざされていることを知る。布施の波羅蜜を行うとき、この二つのことを破り、善き道を開く。これを常に開いておきたいと願うため、十善の道と戒律の波羅蜜を行う。まだ禅定と智慧を得ておらず、欲望から離れていないため、戒律の波羅蜜が破られる。それゆえに忍辱を行う。以上の三つのことが福の門を開くことを知る。

又知是福德果報無常，天人中受樂，還復墮苦；厭是無常福德故，求實相般若波羅蜜。是云何當得？必以一心，乃當可得。如貫龍王寶珠，一心觀察，能不觸龍，則得價直閻浮提。一心禪定，除却五欲、五蓋，欲得心樂，大用精進，是故次忍辱說精進波羅蜜。如經中說：「行者端身直坐，繫念在前，專精求定；正使肌骨枯朽，終不懈退。」是故精進修禪。若有財而施，不足為難；畏墮惡道，恐失好名，持戒、忍辱亦不為難。以是故，上三度中不說精進。今為般若波羅蜜實相，從心求定，是事難故，應須精進。如是行，能得般若波羅蜜。

> また、この福徳の果報は無常であり、天人の中で楽しみを受けても、また苦に堕ちることを知る。この無常の福徳を厭うがゆえに、実相の般若波羅蜜を求める。これをいかにして得るべきか。必ず一心によって、はじめて得ることができる。ちょうど龍王の宝珠を通すように、一心に観察し、龍に触れることなくして、閻浮提の価値に値するものを得るようなものである。一心に禅定し、五欲と五蓋を除き、心の楽しみを得ようと欲して、大いに精進を用いる。それゆえ忍辱の次に精進波羅蜜を説く。経の中に説かれるとおりである。「行者は身を端正にして直に坐り、念を前に繋ぎ、専らに精を尽くして定を求める。たとえ筋肉や骨が枯れ朽ちても、終に懈怠して退くことはない。」それゆえ精進して禅を修める。もし財があって施すならば、難しいことではない。悪道に堕ちることを畏れ、良い名を失うことを恐れて、持戒し忍辱することもまた難しいことではない。それゆえ、以上の三度の中では精進を説かない。今、般若波羅蜜の実相のために、心から定を求めることは、この事が難しいがゆえに、精進を必要とする。このように行じて、よく般若波羅蜜を得ることができる。

問曰：

> お尋ねします。

要行五波羅蜜，然後得般若波羅蜜？亦有行一、二波羅蜜，得般若波羅蜜耶？

> 五つの波羅蜜を実践してからでないと、般若波羅蜜を得ることはできないのでしょうか。それとも、一つや二つの波羅蜜を実践するだけで、般若波羅蜜を得ることもできるのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

諸波羅蜜有二種：一者、一波羅蜜中相應隨行，具諸波羅蜜；二者、隨時別行波羅蜜。

> 六つの波羅蜜には二つの見方があります。一つは、一つの波羅蜜の中に他のすべての波羅蜜がともなって行われるという見方。もう一つは、その時の状況に応じて別々に行われる波羅蜜という見方です。

多者受名。譬如四大共合，雖不相離，以多者為名。

> 多くのものが合わさると、その名前で呼ばれます。たとえば四大（地・水・火・風）が一つに合わさるとき、互いに離れていなくても、より多いものを名として呼ぶのです。

相應隨行者，一波羅蜜中具五波羅蜜，是不離五波羅蜜，得般若波羅蜜。

> 相応に随行する者にとって、一つの波羅蜜の中に五つの波羅蜜が備わっており、この五つの波羅蜜を離れることなく、般若波羅蜜を得るのです。

隨時得名者，或因一、因二得般若波羅蜜。

> 時に応じて名を得るとは、あるいは一つまたは二つの理由によって般若波羅蜜を得ることをいう。

若人發阿耨多羅三藐三菩提心布施，是時求布施相，不一不異，非常非無常，非有非無等，如破布施中說。因布施實相，解一切法亦如是——是名因布施得般若波羅蜜。

> もし人が、この上ない悟り（菩提）を求める心を起こして布施を行うならば、そのとき、布施の本来のすがたを求めてみると、一つでもなく、別々でもなく、常でもなく、無常でもなく、有でもなく、無でもない、と説かれる。あたかも「布施を破する」という教えの中で説かれたとおりである。この布施の真実のすがたによって、すべての法もまた同じであると理解する——これを、布施によって般若波羅蜜を得る、というのである。

或有持戒，不惱眾生，心無有悔；若取相生著，則起諍競。是人雖先不瞋眾生，於法有憎愛心故而瞋眾生。是故若欲不惱眾生，當行諸法平等；若分別是罪是無罪，則非行尸羅波羅蜜。何以故？憎罪、愛不罪，心則自高，還墮惱眾生道中。是故菩薩觀罪者、不罪者，心無憎愛。如是觀者，是為但行尸羅波羅蜜得般若波羅蜜。

> あるいは戒を保ち、衆生を悩ませず、心に悔いのない者がいるとします。しかし、形や相にとらわれて執着を生じるならば、そこには争いが起こります。その人はもともと衆生に対して怒っていなくても、法に対して憎しみや愛着の心を起こすために、かえって衆生を怒らせてしまうのです。ですから、もし衆生を悩ませたくなければ、すべての法が平等であると実践すべきです。もしこれが罪でありあれは罪でないと区別するならば、それは戒波羅蜜を実践していることにはなりません。なぜでしょうか。罪を憎み、罪でないものを愛するならば、心がおのずと高慢になり、かえって衆生を悩ませる道に落ちてしまうからです。ですから菩薩は、罪ある者も罪なき者も、心に憎しみや愛着を持ちません。このように見ることが、まさに戒波羅蜜を実践しながら般若波羅蜜を得ることなのです。

菩薩作是念：「若不得法忍，則不能常忍。一切眾生未有逼迫能忍，苦來切已則不能忍。譬如囚畏杖楚而就死苦。以是因緣故，當生法忍：無有打者、罵者，亦無受者，但從先世顛倒果報因緣故名為受。」是時不分別是忍事、忍法者，深入畢竟空故，是名法忍。得是法忍，常不復瞋惱眾生。法忍相應慧，是般若波羅蜜。

> 菩薩はこう考えた。「法忍を得なければ、いつも耐え忍ぶことはできない。すべての衆生は、まだ苦しめられていないときは耐えることができても、苦しみが自分に迫ってくると耐えられなくなる。たとえば、囚人が鞭打たれるのを恐れて、死の苦しみを受け入れるようなものだ。だからこそ、法忍を生じさせるべきである。打つ者もなければ、罵る者もなく、また受け取る者もいない。ただ、前世の颠倒した果報の因縁によって、受け取ると名づけているだけである。」このとき、忍ぶ事と忍ぶ法とを区別せず、究極の空に深く入っているので、これを法忍と名づける。この法忍を得れば、いつまでも衆生を怒らせ悩ませることはない。法忍に相応する慧、これが般若波羅蜜である。

精進常在一切善法中，能成就一切善法。若智慧籌量分別諸法，通達法性，是時精進助成智慧。又知精進實相，離身心，如實不動，如是精進能生般若波羅蜜。餘精進如幻、如夢，虛誑非實，是故不說。

> 努力し続けることは、すべての善い行いの中に常にあり、すべての善い行いを成し遂げることができます。智慧によって諸々の法をよく見極め、法の本質を見極めたとき、その努力が智慧を助け成就します。また、努力の真実の姿を知り、心身を離れ、あるがままに動じないならば、そのような努力は般若波羅蜜を生み出すことができます。その他の努力は幻のようであり夢のようであり、偽りで真実ではないため、ここでは説きません。

若深心攝念，能如實見諸法實相。諸法實相者，不可以見聞念知能得。何以故？六情、六塵，皆是虛誑因緣果報；是中所知所見，皆亦虛誑。是虛誑知，都不可信；所可信者，唯有諸佛於阿僧祇劫所得實相智慧。以是智慧，依禪定一心觀諸法實相，是名禪定中生般若波羅蜜。

> 深く心を落ち着けて念を集中させれば、諸法の実相をありのままに見ることができます。しかし、諸法の実相は、見ること・聞くこと・考えること・知ることでは得ることはできません。なぜでしょうか。六つの感覚と六つの対象は、すべて虚ろで偽りの因縁と果報であり、そこで知り、見るものもまた、すべて虚ろで偽りだからです。この虚ろで偽りの知は、まったく信じることができません。信じることができるものは、ただ諸仏が無数の劫を通じて得た実相の智慧だけです。この智慧によって、禅定に依り、心を一つにして諸法の実相を観る、これを禅定の中に般若波羅蜜が生まれると言います。

或有離五波羅蜜，但聞、讀誦、思惟、籌量通達諸法實相，是方便智中生般若波羅蜜。

> あるいは五波羅蜜を離れていても、ただ聞き、読誦し、思惟し、吟味して、諸法の実相を明らかに悟ることがあります。これは方便の智慧の中から般若波羅蜜が生まれるのです。

或從二，或三、四波羅蜜生般若波羅蜜。如聞說一諦而成道果，或聞二、三、四諦而得道果。有人於苦諦多惑故，為說苦諦而得道；餘三諦亦如是。或有都惑四諦故，為說四諦而得道。如佛語比丘：「汝若能斷貪欲，我保汝得阿那含道。」若斷貪欲，當知恚、癡亦斷。六波羅蜜中亦如是，為破多慳貪故，說布施法，當知餘惡亦破。為破雜惡故，具為說六。是故或一一行、或合行，普為一切人故說六波羅蜜，非為一人。

> あるいは二つ、あるいは三つ、四つの波羅蜜から般若波羅蜜が生まれる。ちょうど、一つの諦を聞いて道果を得る人もあれば、二つ、三つ、四つの諦を聞いて道果を得る人もあるように。苦諦について多くの迷いを持つ人には、苦諦を説いて道を得させる。残りの三つの諦についても同じである。あるいは四諦すべてに迷っている人には、四諦を説いて道を得させる。たとえば仏が比丘にこう仰せられた。「あなたがもし貪欲を断つことができるなら、私はあなたが阿那含の道を得ることを保証する。」貪欲を断てば、怒りと愚かさもまた断たれると知るべきである。六波羅蜜についても同じである。強い物惜しみや貪りを破るために布施の法を説けば、他の悪もまた破られると知るべきである。さまざまな悪を破るために、六つすべてを説く。したがって、あるいは一つ一つの行として、あるいは合わせて行うものとして、すべての人々のために六波羅蜜を説くのであり、一人のためではない。

復次，若菩薩不行一切法、不得一切法故，得般若波羅蜜。所以者何？諸行皆虛妄不實，或近有過，或遠有過：如不善法近有過罪；善法久後變異時，著者能生憂苦，是遠有過罪。譬如美食、惡食，俱有雜毒。食惡食即時不悅，食美食即時甘悅，久後俱奪命故，二不應食！善、惡諸行亦復如是。

> 次に、菩薩が一切の法を行じず、一切の法を得ないことによって、般若波羅蜜を得るのです。なぜでしょうか。すべての行は虚妄であり実体がなく、あるものは近い将来に過ちを生じ、あるものは遠い将来に過ちを生じるからです。たとえば不善の法は近い将来に罪の過ちを生じます。善の法も、久しく時が経ち変化するとき、執着する者に憂いと苦しみを生じさせるので、遠い将来の過ちとなります。たとえば美味しい食べ物もまずい食べ物も、どちらにも毒が混じっているようなものです。まずい食べ物を食べればすぐに不快になり、美味しい食べ物を食べればすぐには甘く喜ばしいですが、久しく経てばどちらも命を奪うため、どちらも食べるべきではありません。善悪のさまざまな行もまた、同じなのです。

問曰：

> お尋ねします。

若爾者，佛何以說三行：梵行、天行、聖行？

> それならば、仏はなぜ三つの行、すなわち梵行・天行・聖行を説かれたのか。

答曰：

> お答えしますと、

行無行故，名為聖行。何以故？一切聖行中，不離三解脫門故。

> 修行に行そのものが実体としてないからこそ、聖なる行いと呼ばれるのです。なぜでしょうか？すべての聖なる行いには、三つの解脱の門が常に伴っているからです。

梵行、天行中，因取眾生相故生，雖行時無過，後皆有失。又即今求實，皆是虛妄；若賢聖以無著心行此二行，則無咎。若能如是行無行法皆無所得，顛倒虛妄煩惱畢竟不生。如虛空清淨故，得諸法實相。以無所得為得，如無所得般若中說：「色等法非以空故空，從本已來常自空。色等法不以智慧不及故無所得，從本已來常自無所得。」是故不應問「行幾波羅蜜得般若波羅蜜」！諸佛憐愍眾生，隨俗故說行，非第一義。

> 梵行と天行においても、衆生という相を取るがゆえに生じるのであって、行じている時には過ちがなくても、後にはみな失いとなる。また、今その実を求めるならば、みな虚妄である。もし賢聖が無著の心でこの二つの行を実践するならば、咎めはない。もしこのように無行の法を行じることができるならば、みな無所得であり、顛倒・虚妄・煩悩はついに生じない。虚空が清浄であるように、諸法の実相を得る。無所得をもって得とするとは、無所得般若の中で説かれているとおりである。「色などの法は空であるから空なのではなく、本よりこのかた常に自ら空である。色などの法は智慧が及ばないから無所得なのではなく、本よりこのかた常に自ら無所得である。」だから、「いくつの波羅蜜を行じれば般若波羅蜜を得るか」と問うべきではない。諸仏は衆生を憐れみ、世俗に従って行を説くのであって、第一義ではない。

問曰：

> お尋ねします。

若無所得、無所行，行者何以求之？

> 何も得るものがなく、何も行うことがないのなら、修行者は何を求めて修行するのでしょうか。

答曰：

> お答えしますと、

無所得有二種：一者、世間欲有所求，不如意，是無所得。二者、諸法實相中，受決定相不可得故名無所得，非無有福德智慧增益善根。如凡夫人，分別世間法故有所得；諸善功德亦如是，隨世間心故說有所得，諸佛心中則無所得。

> 「無所得」には二つの意味があります。一つは、世間の人が何かを求めても、思い通りにならないことを「無所得」といいます。もう一つは、すべてのものの真実の姿においては、決まった形をとらえることができないので「無所得」というのであって、福德や智慧、善根を積み増すことがないという意味ではありません。凡夫の人は世間の物事にとらわれて区別するために「有所得」となります。もろもろの善い功德も同じで、世間の心にしたがって「有所得」と説かれるのであり、仏の心においては「無所得」なのです。

是略說般若波羅蜜義，後當廣說。

> ここでは般若波羅蜜の意味を簡単に説きました。後に詳しく説くことにします。

## 大智度論卷第十八

> 大智度論 巻第十八