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title: "景德傳燈錄 · 第三十祖僧璨大師"
description: "景德传灯录由宋代高僧道原编纂，成书于景德年间（1004-1007年），是中国佛教禅宗重要史传类典籍。全书共三十卷，收录自释迦牟尼至五代末年的禅宗祖师1701人，以法脉传承为脉络，记录历代禅师的机缘语录、公案典故。作为现存最早的传灯体著作，该书系统记载了禅宗五家七宗的传承体系，保存了大量珍贵史料，对研究中国禅宗发展史具有不可替代的价值。景德传灯录与五灯会元并称为禅宗两大灯录，被后世奉为禅门经典，不仅影响了宋明理学的发展，更成为东亚禅佛教传播的重要文献依据。"
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第三十祖僧璨大師者。不知何許人也。初以白衣謁二祖。既受度傳法。隱于舒州之皖公山。屬後周武帝破滅佛法。師往來太湖縣司空山。居無常處積十餘載。時人無能知者。至隋開皇十二年壬子歲。有沙彌道信。年始十四。來禮師曰。願和尚慈悲乞與解脫法門。師曰。誰縛汝。曰無人縛。師曰。何更求解脫乎。信於言下大悟服勞九載。後於吉州受戒侍奉尤謹。師屢試以玄微。知其緣熟乃付衣法。偈曰。

> 第三十祖、僧璨大師。その出身地は詳らかではない。最初は在家の身で二祖に参拝した。やがて出家し、法を受け継いだ後、舒州の皖公山に隠棲した。その後、北周の武帝が仏法を弾圧したため、大師は太湖県の司空山へと移り、定住せずに十数年を過ごした。当時、その存在を知る者はほとんどいなかった。 隋の開皇十二年（壬子の年）、沙弥の道信が十四歳で大師のもとを訪れ、礼拝して言った。 「和尚様、どうか慈悲をもって、解脱の法門をお授けください」 大師は尋ねた。 「誰がお前を縛っているのか」 「誰も縛ってはいません」 「それなら、なぜわざわざ解脱を求めるのか」 道信はこの言葉でたちまち大悟し、その後九年にわたり大師に仕えて働いた。後に吉州で具足戒を受け、一層謹んで師に仕えた。大師は幾度となく深遠な道理で彼を試し、縁が熟したと見て、ついに衣と法を伝えた。その時の偈は次のとおりである。

華種雖因地 從地種華生若無人下種 華地盡無生

> 花の種は大地に依ってこそ、大地から花は生まれる。 もし人が種を蒔かなければ、花も大地も共に生じることはない。

師又曰。昔可大師付吾法。後往鄴都行化三十年方終。今吾得汝何滯此乎。即適羅浮山優游二載。却旋舊址逾月。士民奔趨大設檀供。師為四眾廣宣心要訖。於法會大樹下合掌立終。即隋煬帝大業二年丙寅十月十五日也。唐玄宗諡鑑智禪師覺寂之塔。至皇宋景德元年甲辰歲。凡四百載矣。初唐河南尹李常。素仰祖風深得玄旨天寶乙酉歲。遇荷澤神會問曰。三祖大師葬在何處。或聞入羅浮不迴。或說終於山谷。未知孰是。會曰。璨大師自羅浮歸山谷。得月餘方示滅。今舒州見有三祖墓。常未之信也。會謫為舒州別駕。因詢問山谷寺眾僧曰。聞寺後有三祖墓是否。時上坐慧觀對曰。有之。常欣然與寮佐同往瞻禮。又啟壙取真儀闍維之。得五色舍利三百粒。以百粒出己俸建塔焉。百粒寄荷澤神會。以徵前言。百粒隨身。後於洛中私第設齋以慶之。時有西域三藏犍那等在會中。常問三藏。天竺禪門祖師多少。犍那答曰。自迦葉至般若多羅。有二十七祖。若敘師子尊者傍出達磨達四世。二十二人。總有四十九祖。若從七佛至此璨大師。不括橫枝凡三十七世。常又問。會中耆德曰。嘗見祖圖。或引五十餘祖。至於支派差殊宗族不定。或但有空名者。以何為驗。時有智本禪師者。六祖門人也。答曰。斯乃後魏初佛法淪替。有沙門曇曜。於紛紜中以素絹單錄。得諸祖名字。或忘失次第。藏衣領中隱于巖穴。經三十五載。至文成帝即位。法門中興。曇曜名行俱崇。遂為僧統。乃集諸沙門重議結集目。為付法藏傳。其間小有差互。即曇曜抄錄時怖懼所致。又經一十三年。帝令國子博士黃元真與北天竺三藏佛陀扇多吉弗煙等。重究梵文甄別宗旨次敘師承。得無𧘱謬也。

> 師はまた言われた。 「昔、慧可大師が私に法を授けられた後、鄴都へ行き、三十年間教化を施して亡くなられた。今、私はあなた（道信）を得たのに、どうしてここに滞在していられようか」 そこで直ちに羅浮山へ向かい、二年間ゆったりと過ごされた。その後、元の場所に戻って一月余り経つと、多くの人々が駆けつけ、盛大な供養を設けた。師は四衆のために広く心の要諦を説き終えると、法会の大樹の下で合掌し、立ったまま亡くなられた。これは隋の煬帝の大業二年（丙寅の年）十月十五日のことであった。唐の玄宗は師に「鑑智禅師」の諡号と「覚寂之塔」の塔号を贈られた。宋の景德元年（甲辰の年）まで、凡そ四百年が経過している。 初めに、唐の河南尹（長官）李常は、平素から祖師の風範を仰ぎ、深くその玄旨を得ていた。天宝乙酉の年、荷沢神会に会い、尋ねた。 「三祖大師はどこに葬られたのか。ある話では羅浮山に入って戻らなかったとも、またある話では山谷で亡くなられたとも聞くが、どちらが真実か」 神会は答えた。 「璨大師は羅浮山から山谷に帰られ、一月余り経ってから入滅された。今、舒州に三祖の墓があるのを見ることができる」 李常はそれを信じなかった。神会が舒州別駕に左遷された時、李常は山谷寺の僧たちに尋ねた。 「寺の後に三祖の墓があると聞くが、本当か」 その時、上座の慧観が答えた。 「あります」 李常は喜んで、役人たちと共に礼拝に行った。また、墓を開いて遺体を取り出し、荼毘に付したところ、五色の舎利三百粒を得た。百粒を自分の俸禄で塔を建てて納め、百粒を荷沢神会に送って先の言葉の証とし、残る百粒を身につけて保管した。後に洛中の私邸で斎を設けてこれを慶賀した。 その時、西域の三蔵・犍那らが会に同席していた。李常が三蔵に尋ねた。 「天竺の禅門には、祖師は何人いるのか」 犍那は答えた。 「迦葉から般若多羅まで二十七祖。師子尊者から分かれた達磨達の四世、二十二人を加えると、総計四十九祖となる。七仏からこの璨大師まで、傍流を除けば凡そ三十七世である」 李常はまた、会の中の長老に尋ねた。 「かつて祖師の図を見たことがあるが、五十余祖を記すものもあり、流派によって違い、宗族も一定しない。あるいは単に名前だけのものもある。何を以て確かめればよいのか」 その時、六祖の門人である智本禅師が答えた。 「これは後魏の初め、仏法が衰えた時に、沙門の曇曜が混乱の中で素絹に祖師の名前を書き写したものである。順序を忘れたり、衣の襟の中に隠して岩穴に三十五年間しまっていた。文成帝が即位し、法門が再興すると、曇曜は名声と行い共に高く、僧統となった。そこで諸沙門を集めて再び結集し、『付法蔵伝』を編んだ。その中に少しの食い違いがあるのは、曇曜が書き写した時の恐れによるものである。さらに十三年後、帝は国子博士の黄元真と北天竺の三蔵・佛陀扇多吉弗煙らに命じ、梵文を研究し直し、宗旨を明らかにして師承の次第を正し、誤りのないようにさせたのである」