---
title: "景德傳燈錄 · 第三十二祖弘忍大師"
description: "景德传灯录由宋代高僧道原编纂，成书于景德年间（1004-1007年），是中国佛教禅宗重要史传类典籍。全书共三十卷，收录自释迦牟尼至五代末年的禅宗祖师1701人，以法脉传承为脉络，记录历代禅师的机缘语录、公案典故。作为现存最早的传灯体著作，该书系统记载了禅宗五家七宗的传承体系，保存了大量珍贵史料，对研究中国禅宗发展史具有不可替代的价值。景德传灯录与五灯会元并称为禅宗两大灯录，被后世奉为禅门经典，不仅影响了宋明理学的发展，更成为东亚禅佛教传播的重要文献依据。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmaarbom6006ejy04rvjtgfr1"
---

第三十二祖弘忍大師者蘄州黃梅人也。姓周氏。生而岐嶷。童遊時逢一智者。歎曰。此子闕七種相不逮如來。後遇信大師得法嗣化。於破頭山咸亨中有一居士。姓盧名慧能。自新舊本誤作鄿字州來參謁師。問曰。汝自何來曰嶺南師曰。欲須何事。曰唯求作佛。師曰。嶺南人無佛性。若為得佛。曰人即有南北佛性豈然。師知是異人。乃訶曰。著槽厰去。能禮足而退。便入碓坊服勞於杵臼之間。晝夜不息經八月。師知付授時至。遂告眾曰。正法難解不可徒記吾言持為己任。汝等各自隨意述一偈。若語意冥符。則衣法皆付。時會下七百餘僧。上座神秀者。學通內外眾所宗仰。咸共推稱云。若非尊秀疇敢當之。神秀竊聆眾譽不復思惟。乃於廊壁書一偈云。

> 第三十二祖弘忍大師は、蘄州黄梅の出身です。姓は周。幼い頃から聡明で、子供の頃に一人の賢者に出会いました。その賢者は感嘆して言いました。「この子は七つの相を欠いており、如来には及ばない」。後に信大師に出会い、法を受け継ぎ、教化に当たりました。 破頭山にいた咸亨年間、一人の居士がいました。姓は盧、名は慧能。新州から訪ねてきて、師に参拝しました。師が尋ねました。「どこから来たのか」。答えて「嶺南からです」。師が言いました。「何を求めて来たのか」。答えて「ただ仏になることを願います」。師が言いました。「嶺南の人には仏性がない。どうして仏になれるというのか」。答えて「人には南北の違いがあっても、仏性に違いがあるはずがありません」。師は彼が非凡な人物だと悟り、叱るように言いました。「作業場に行け」。慧能は礼をして退き、すぐに臼と杵の間で働き始めました。昼夜休まず、八ヶ月が経ちました。 師は法を授ける時が来たと知り、皆に告げました。「正法は理解が難しく、ただ私の言葉を覚えて自分一人で背負うべきではない。各自、思いのままに一つの偈を述べよ。もし言葉と意味が深く合致すれば、衣と法のすべてを授けよう」。 当時、会下には七百人の僧がいました。上座の神秀は、内典と外典に通じ、皆から尊敬されていました。皆が推して言いました。「尊秀さま以外に、誰がこの任に当たれようか」。神秀はひそかに皆の称賛を聞き、深く考えずに廊下の壁に一つの偈を書きました。

身是菩提樹 心如明鏡臺時時勤拂拭 莫遣有塵埃

> 身は菩提樹のごとく 心は明鏡台 常に努めて塵を払い 埃を留めぬように

師因經行忽見此偈。知是神秀所述。乃讚歎曰。後代依此修行亦得勝果。其壁本欲令處士盧珍繪楞伽變相。及見題偈在壁。遂止不畫各令誦念。能在碓坊忽聆誦偈。乃問同學。是何章句。同學曰。汝不知和尚求法嗣。令各述心偈。此則秀上座所述。和尚深加歎賞。必將付法傳衣也能曰。其偈云何。同學為誦。能良久曰。美則美矣。了則未了。同學訶曰。庸流何知勿發狂言。能曰。子不信耶。願以一偈和之。同學不答相視而笑。能至夜密告一童子引至廊下。能自秉燭。令童子於秀偈之側寫一偈云。

> 師は経行（きんひょう）の途中、ふとこの偈を見つけました。それが神秀の作だと知ると、感心して言いました。 「後の世の人も、この偈に従って修行すれば、立派な悟りを得られるだろう」 もともとこの壁には、処士の盧珍（ろちん）に『楞伽経（りょうがきょう）』の変相図（へんそうず）を描かせる予定でしたが、偈が書き記されているのを見て、絵は描かず、皆にこの偈を唱えさせ学ばせることにしました。 碓房（たいぼう）にいた慧能は、ふと人々が偈を唱えるのを耳にしました。そこで同僚に尋ねます。 「あれはどんな言葉ですか」 同僚が答えました。 「知らないのか？和尚様が法を継ぐ者を求め、それぞれに心境を偈にせよとおっしゃった。あれは秀上座の作だ。和尚様は大変感心され、きっと彼に法と衣を伝えられるだろう」 慧能が言いました。 「その偈はどんなものですか」 同僚が唱えて聞かせると、慧能はしばらく黙ってから言いました。 「確かに優れてはいるが、本当の悟りには至っていない」 同僚はたしなめました。 「つまらない者が何を言う。でたらめを言うな」 慧能は言いました。 「君が信じないなら、私も一つの偈を添えてみせよう」 同僚は答えず、顔を見合わせて笑いました。 慧能は夜になると、密かに一人の童子に頼み、廊下へ案内させました。慧能自ら灯りをかざし、童子に秀の偈の横に、もう一つの偈を書かせました。

菩提本非樹 心鏡亦非臺本來無一物 何假拂塵埃

> 菩提はそもそも樹にあらず 心の鏡もまた台にあらず 本来何物も無し いずくんぞ塵埃を払うを仮らん

大師後見此偈云。此是誰作亦未見性。眾聞師語遂不之顧。逮夜乃潛令人自碓坊召能行者入室。告曰。諸佛出世為一大事故。隨機小大而引導之。遂有十地三乘頓漸等旨。以為教門。然以無上微妙祕密圓明真實正法眼藏。付于上首大迦葉尊者。展轉傳授二十八世。至達磨屆于此土。得可大師。承襲以至于吾。今以法寶及所傳袈裟用付於汝。善自保護無令斷絕。聽吾偈曰。

> 大師はその後、この偈を見て言われた。「これは誰が作ったのか。まだ本性を見ていない。」人々は大師の言葉を聞いて、それ以上顧みなかった。夜になって、大師はひそかに人を遣わして、碓坊から能行者を呼び入れ、部屋に招いた。そして告げられた。「諸仏がこの世に現れるのは、一つの大事な目的のためである。衆生の機根の大小に応じて導き、十地・三乗・頓漸などの教えを説き、教えの門戸とした。しかし、無上微妙で秘密の円明なる真実の正法眼蔵は、上首の大迦葉尊者に付嘱され、転々と伝授されて二十八世に至り、達磨がこの国に来られた。そして慧可大師に伝えられ、私に至るまで受け継がれてきた。今、この法の宝と伝えられてきた袈裟を、そなたに付す。よく護り、絶やさぬようにせよ。我が偈を聞け。」

有情來下種 因地果還生無情既無種 無性亦無生

> 生きとし生けるものは種を下し 因の地に果は還りて生ず 情なきものは既に種なく 性なきものはまた生ずることなし

能居士跪受衣法。啟曰。法則既授衣付何人。師曰。昔達磨初至人未知信。故傳衣以明得法。今信心已熟。衣乃爭端止於汝身不復傳也。且當遠隱俟時行化。所謂授衣之人命如懸絲也。能曰。當隱何所。師曰。逢懷即止。遇會且藏。能禮足已捧衣而出。是夜南邁大眾莫知。忍大師自此不復上堂凡三日。大眾疑怪致問。祖曰。吾道行矣。何更詢之。復問衣法誰得耶。師曰。能者得。於是眾議盧行者名能。尋訪既失。懸知彼得即共奔逐。忍大師既付衣法。復經四載。至上元二年乙亥歲乃唐高宗時也。至肅宗時復有上元年號。其二年歲在辛丑也。忽告眾曰。吾今事畢時可行矣。即入室安坐而逝。壽七十有四。建塔於黃梅之東山。代宗皇帝諡大滿禪師法雨之塔。自大師滅度至皇宋景德元年甲辰。凡三百三十年。

> 能居士は衣と法を受け、跪いて尋ねました。「法は授かりましたが、衣は誰に託されるのでしょうか。」 師は答えました。「昔、達磨大師が初めてこの地に来た時、人々はまだ信じていなかった。だから、法を得た証として衣を伝えたのだ。今や人々の信心は熟し、衣は争いの種となる。衣の伝授はあなたで終わり、これ以上伝えることはない。しばらく遠くに身を隠し、時を待って教えを広めなさい。いわゆる、衣を受け継ぐ者の命は、糸一本で吊るされたように危ういものだ。」 能が「どこに身を隠せばよいでしょうか」と尋ねると、師は言いました。「懐（懐集）に出会えばそこで止まり、会（四会）に遇えばそこに隠れなさい。」 能は師の足を礼拝し、衣を捧げて立ち去りました。その夜、南へと向かい、誰にも知られることはありませんでした。 弘忍大師はそれ以来、三日間堂に上がることはありませんでした。大衆は怪しみ、尋ねると、大師は言いました。「私の道は行き渡った。これ以上尋ねることはない。」 さらに「衣と法は誰が得たのですか」と問われると、師は「能なる者が得た」と答えました。 そこで大衆は、盧行者という名の能のことを議論し、探し求めましたが、すでに姿を消していました。彼が法を得たと悟り、一斉に追いかけました。 弘忍大師は衣と法を託した後、さらに四年が経ち、上元二年（乙亥の年、唐の高宗の時代である。粛宗の時代にも上元という年号があり、その二年は辛丑の年である）になりました。突然、大衆に告げました。「私は今、なすべきことを終えた。時が来たのだ。」 すぐに室に入り、安らかに坐ったまま逝去されました。享年七十四歳。黄梅の東山に塔が建てられ、代宗皇帝より大満禅師法雨之塔の諡号を賜りました。 大師が入滅されてから、皇宋の景德元年甲辰まで、凡そ三百三十年が経ちました。

## 景德傳燈錄卷第三

> 景德伝灯録 巻第三