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title: "景德傳燈錄 · 第三十三祖慧能大師"
description: "景德传灯录由宋代高僧道原编纂，成书于景德年间（1004-1007年），是中国佛教禅宗重要史传类典籍。全书共三十卷，收录自释迦牟尼至五代末年的禅宗祖师1701人，以法脉传承为脉络，记录历代禅师的机缘语录、公案典故。作为现存最早的传灯体著作，该书系统记载了禅宗五家七宗的传承体系，保存了大量珍贵史料，对研究中国禅宗发展史具有不可替代的价值。景德传灯录与五灯会元并称为禅宗两大灯录，被后世奉为禅门经典，不仅影响了宋明理学的发展，更成为东亚禅佛教传播的重要文献依据。"
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## 景德傳燈錄卷第五

> 景德伝灯録 巻第五

-   第三十三祖慧能大師
-   第三十三祖慧能大師法嗣四十三人
    -   西印度堀多三藏
    -   韶州法海禪師
    -   吉州志誠禪師
    -   匾檐山曉了禪師
    -   河北智隍禪師
    -   洪州法達禪師
    -   壽州智通禪師
    -   江西志徹禪師
    -   信州智常禪師
    -   廣州志道禪師
    -   廣州法性寺印宗和尚
    -   吉州青原山行思禪師
    -   南嶽懷讓禪師
    -   溫州永嘉玄覺禪師
    -   司空山本淨禪師
    -   婺州玄策禪師
    -   曹谿令韜禪師
    -   西京光宅寺慧忠禪師
    -   西京荷澤寺神會禪師
    -   韶州祇陀禪師
    -   撫州淨安禪師
    -   嵩山尋禪師
    -   羅浮山定真禪師
    -   南嶽堅固禪師
    -   制空山道進禪師
    -   善快禪師
    -   韶山緣素禪師
    -   宗一禪師
    -   會稽秦望山善現禪師
    -   南嶽梵行禪師
    -   并州自在禪師
    -   西京咸空禪師
    -   峽山泰祥禪師
    -   光州法淨禪師
    -   清涼山辯才禪師
    -   廣州吳頭陀
    -   道英禪師
    -   智本禪師
    -   廣州清苑法真禪師
    -   玄楷禪師
    -   曇璀禪師
    -   韶州刺史韋據
    -   義興孫菩薩

第三十三祖慧能大師者。俗姓盧氏。其先范陽人。父行瑫武德中左宦于南海。之新州遂占籍焉。三歲喪父。其母守志鞠養。及長家尤貧窶。師樵采以給。一日負薪至市中。聞客讀金剛經。悚然問其客曰。此何法也。得於何人。客曰。此名金剛經。得於黃梅忍大師。師遽告其母以為法尋師之意。直抵韶州遇高行士劉志略結為交友。尼無盡藏者。即志略之姑也。常讀涅槃經。師暫聽之即為解說其義。尼遂執卷問字。師曰。字即不識。義即請問。尼曰。字尚不識曷能會義。師曰。諸佛妙理非關文字。尼驚異之。告鄉里耆艾云。能是有道之人宜請供養。於是居人競來瞻禮。近有寶林古寺舊地。眾議營緝俾師居之。四眾霧集俄成寶坊。師一日忽自念曰。我求大法豈可中道而止。明日遂行至昌樂縣西山石室間。遇智遠禪師。師遂請益。遠曰。觀子神姿爽拔殆非常人。吾聞西域菩提達磨。傳心印于黃梅。汝當往彼參決。師辭去直造黃梅之東禪。即唐咸亨二年也。忍大師一見默而識之。後傳衣法令隱于懷集四會之間。至儀鳳元年丙子正月八日。屆南海遇印宗法師於法性寺講涅槃經。師寓止廊廡間。暮夜風颺剎幡。聞二僧對論。一云幡動。一云風動。往復酬答未曾契理。師曰。可容俗流輒預高論否。直以風幡非動動自心耳。印宗竊聆此語竦然異之。翌日邀師入室。徵風幡之義。師具以理告。印宗不覺起立云。行者定非常人師為是誰。師更無所隱直敘得法因由。於是印宗執弟子之禮請受禪要。乃告四眾曰。印宗具足凡夫。今遇肉身菩薩即指坐下盧居士云。即此是也。因請出所傳信衣悉令瞻禮。至正月十五日。會諸名德為之剃髮。二月八日就法性寺智光律師受滿分戒。其戒壇即宋朝求那跋陀三藏之所置也。三藏記云。後當有肉身菩薩在此壇受戒。又梁末真諦三藏。於壇之側手植二菩提樹。謂眾曰。却後一百二十年有大開士。於此樹下演無上乘度無量眾。師具戒已。於此樹下開東山法門宛如宿契。明年二月八日忽謂眾曰。吾不願此居要歸舊隱。時印宗與緇白千餘人。送師歸寶林寺。韶州刺史韋據請於大梵寺轉妙法輪。并受無相心地戒。門人紀錄目為壇經盛行於世。然返曹谿雨大法雨。學者不下千數。中宗神龍元年降詔云。朕請安秀二師宮中供養。萬機之暇每究一乘。二師並推讓云。南方有能禪師。密受忍大師衣法。可就彼問。今遣內侍薛簡馳詔迎請。願師慈念速赴上京。師上表辭疾。願終林麓。薛簡曰。京城禪德皆云。欲得會道必須坐禪習定。若不因禪定而得解脫者未之有也。未審師所說法如何。師曰。道由心悟。豈在坐也。經云。若見如來若坐若臥是行邪道。何故無所從來亦無所去。若無生滅是如來清淨禪。諸法空寂是如來清淨坐。究竟無證豈況坐耶。簡曰。弟子之迴主上必問願和尚慈悲指示心要。師曰。道無明暗。明暗是代謝之義。明明無盡亦是有盡。簡曰。明喻智慧。暗況煩惱。修道之人儻不以智慧照破煩惱。無始生死憑何出離。師曰。若以智慧照煩惱者。此是二乘小兒羊鹿等機。上智大根悉不如是。簡曰。如何是大乘見解。師曰。明與無明其性無二。無二之性即是實性。實性者處凡愚而不減。在賢聖而不增。住煩惱而不亂。居禪定而不寂。不斷不常不來不去。不在中間及其內外。不生不滅性相如如。常住不遷名之曰道。簡曰。師說不生不滅何異外道。師曰。外道所說不生不滅者。將滅止生以生顯滅。滅猶不滅生說無生。我說不生不滅者。本自無生今亦無滅。所以不同外道。汝若欲知心要。但一切善惡都莫思量。自然得入清淨心體。湛然常寂妙用恒沙。簡蒙指教豁然大悟。禮辭歸闕表奏師語。有詔謝師。并賜磨衲袈裟絹五百匹寶鉢一口。十二月十九日。勅改古寶林為中興寺。三年十一月十八日。又勅韶州刺史。重加崇飾賜額為法泉寺。師新州舊居為國恩寺。一日師謂眾曰。諸善知識。汝等各各淨心聽吾說法。汝等諸人自心是佛。更莫狐疑。外無一物而能建立。皆是本心生萬種法。故經云。心生種種法生。心滅種種法滅。若欲成就種智。須達一相三昧一行三昧。若於一切處而不住相。彼相中不生憎愛亦無取捨。不念利益成壞等事。安閑恬靜虛融澹泊。此名一相三昧。若於一切處行住坐臥。純一直心不動道場真成淨土。名一行三昧。若人具二三昧。如地有種能含藏長養成就其實。一相一行亦復如是。我今說法。猶如時雨溥潤大地。汝等佛性譬諸種子。遇茲霑洽悉得發生。承吾旨者決獲菩提。依吾行者定證妙果。先天元年告諸徒眾曰。吾忝受忍大師衣法。今為汝等說法不付其衣。蓋汝等信根淳熟決定不疑堪任大事。聽吾偈曰。

> 第三十三祖慧能大師は、俗姓は盧氏。先祖は范陽の人であった。父の行瑫は、武徳年間に左遷されて南海に赴き、新州に移り住んで戸籍を定めた。慧能は三歳で父を亡くし、母は貞節を守って彼を育てた。成長すると家は特に貧しく、師は薪を売って生計を立てた。 ある日、薪を背負って市場に行くと、客が『金剛経』を読んでいるのを耳にした。驚いてその客に尋ねた。「これはどのような教えですか。どなたから得られたのですか」客は答えた。「これは『金剛経』というもので、黄梅の忍大師から得ました」師はすぐに母に告げ、法を求めて師を探す決意を伝えた。 直ちに韶州に赴き、高徳の士である劉志略と出会い、友人となった。尼僧の無尽蔵は、志略の叔母であった。彼女は常に『涅槃経』を読んでいた。師が少し耳を傾けると、すぐにその意味を解説した。尼僧は経巻を手に取り、文字について尋ねた。師は言った。「文字は読みませんが、意味についてはお尋ねください」尼僧は言った。「文字さえ読めないのに、どうして意味がわかるのですか」師は答えた。「諸仏の妙なる道理は、文字とは関係ありません」尼僧は驚き、郷里の長老たちに告げた。「慧能は道を極めた人です。供養を請うべきです」そこで、住民たちが競って礼拝に訪れた。近くに宝林古寺の旧跡があったので、人々は相談して寺を修復し、師を住まわせた。四衆が霧のように集まり、たちまち立派な寺院ができあがった。 ある日、師は突然こう思った。「私は大法を求めている。どうして途中で止まっていられようか」翌日、昌楽県の西山の石室の間に赴いた。そこで智遠禅師に出会い、教えを請うた。智遠は言った。「あなたの風貌を見ると、並々ならぬ人物のようだ。私は西域の菩提達磨が、心の印を黄梅に伝えたと聞いている。あなたはそこへ行き、参究すべきだ」師は辞去し、直ちに黄梅の東禅寺へ向かった。これは唐の咸亨二年のことである。 忍大師は一目見て、黙って彼を見抜いた。後に衣法を伝え、懐集と四会の間に隠れるよう命じた。 儀鳳元年丙子の正月八日、南海に至り、法性寺で印宗法師が『涅槃経』を講じているのに出会った。師は廊下の部屋に宿泊した。夜、風が幡を揺らしていた。二人の僧が議論しているのを耳にした。一人は「幡が動いている」と言い、もう一人は「風が動いている」と言う。互いに問答を繰り返したが、道理にかなっていなかった。師は言った。「俗人が高論に加わることをお許しいただけますか。ただ、風も幡も動いているのではなく、動いているのはあなた方の心です」印宗はこっそりこの言葉を聞き、驚いて師を異様な目で見た。 翌日、印宗は師を室内に招き、風幡の意味を尋ねた。師は道理を詳しく告げた。印宗は思わず立ち上がり言った。「行者よ、あなたはきっと普通の人ではない。どなたですか」師はこれ以上隠すことなく、法を得た経緯を直接語った。そこで印宗は弟子の礼をとり、禅の要請を請うた。そして四衆に告げた。「印宗は凡夫に過ぎない。今、肉身の菩薩に出会った。すなわち、座っている盧居士（慧能）こそそれである」そして、伝えられた信衣（法衣）を取り出して皆に見せるよう請うた。 正月十五日、多くの高僧を集めて剃髪を行った。二月八日、法性寺の智光律師のもとで満分戒を受けた。その戒壇は、宋の時代に求那跋陀三蔵が建立したものである。三蔵は記している。「後に肉身の菩薩がこの壇で戒を受けるだろう」また、梁の末の真諦三蔵は、壇のそばに二本の菩提樹を手植えし、人々に言った。「百二十年後、大いなる開士（菩薩）がこの樹の下で無上乗を説き、無量の衆生を救うだろう」師は具足戒を受けた後、この樹の下で東山法門を開いたが、それはあたかも前世からの約束のようであった。 翌年の二月八日、突然大衆に言った。「私はここに留まりたくない。かつて隠れていた場所に帰りたい」その時、印宗と僧俗千余人が師を宝林寺に送り届けた。韶州刺史の韋據は、大梵寺で妙法輪を転じ、無相心地戒を授けるよう請うた。門人が記録したものは『壇経』と名付けられ、世に広く行われた。そして曹渓に戻り、大いなる法雨を降らせた。学ぶ者は千数を下らなかった。 中宗の神龍元年、詔が下された。「朕は安・秀の二師を宮中に招き供養する。万機の暇に、常に一乗を究めている。二師は共に譲って言う。『南方に能禅師がおられる。密かに忍大師から衣法を受けられた。彼のもとへ行って尋ねるがよい』と。今、内侍の薛簡に詔を持たせて迎えに参らせる。願わくは師、慈しみの心で速やかに上京されたい」師は上表して病気を理由に辞退し、山林で一生を終えたいと願った。 薛簡は言った。「都の禅徳たちは皆、こう言います。『道を会得するには、坐禅して定に入らなければならない。禅定によらずに解脱を得る者はいない』と。師の説かれる法はどのようなものでしょうか」師は言った。「道は心によって悟るものであって、坐ることにあるのではない。経に言う。『もし如来を見るに、坐するか臥するかとすれば、それは邪道を行く者である』と。なぜなら、来る所なく、去る所もないからである。もし生滅がなければ、それが如来の清浄禅である。諸法が空寂であれば、それが如来の清浄坐である。究竟には証するものもない。ましてや坐ることなど問題ではない」 薛簡は言った。「弟子が帰れば、主上は必ずお尋ねになるでしょう。和尚、慈悲をもって心の要をお示しください」師は言った。「道に明暗はない。明暗は交替の意味である。明が尽きることがないとしても、それもまた尽きるものだ」薛簡は言った。「明は智慧に譬え、暗は煩悩に譬えます。道を修める者がもし智慧をもって煩悩を照らし破らないなら、無始の生死をどうやって脱することができるでしょうか」師は言った。「もし智慧をもって煩悩を照らすというなら、それは二乗の小児や羊鹿などの機根である。上智の大根器はすべてそうではない」薛簡は言った。「では、大乗の見解とはどのようなものでしょうか」師は言った。「明と無明、その本性は二つではない。二つでないその性こそが実性である。実性とは、凡夫愚者にあっても減らず、賢聖にあっても増えず、煩悩の中にあっても乱れず、禅定の中にあっても寂せず、断じず常ならず、来らず去らず、中間にも内外にもなく、生ぜず滅せず、性相が如如として、常住して遷らず、これを道というのである」 薛簡は言った。「師は不生不滅を説かれますが、それは外道とどう違うのですか」師は言った。「外道の説く不生不滅とは、滅をもって生を止め、生をもって滅を顕わすものである。滅はなお滅せず、生は無生と言う。私の説く不生不滅とは、もとより生じず、今もまた滅しない。だから外道とは異なるのだ。もし心の要を知りたいなら、ただ一切の善悪を思量せずにいなさい。自然に清浄な心体に入ることができる。澄みきって常に寂であり、妙用は恒河の砂のごとくである」薛簡は教えを蒙り、豁然として大悟した。礼をして辞去し、宮中に帰って師の言葉を上奏した。 詔があり、師に感謝し、磨衲の袈裟と絹五百匹、宝鉢一口を賜った。十二月十九日、勅命により古い宝林寺を中興寺と改めた。三年十一月十八日、また韶州刺史に勅命を下し、寺を重ねて荘厳に飾り、額を法泉寺と賜った。師の新州の旧居は国恩寺とされた。 ある日、師は大衆に言った。「善知識よ、あなたがたはそれぞれ心を清めて、私の説法を聞きなさい。あなたがた一人一人の自心が仏である。これ以上疑ってはならない。外に一物として建立できるものはない。すべてはこの本心から万の法が生じるのである。だから経に言う。『心が生ずれば種々の法が生じ、心が滅すれば種々の法が滅する』と。もし種智を成就したいなら、一相三昧と一行三昧に達しなければならない。もし一切のところで相に住することなく、その相の中に憎愛を生じず、また取捨もなく、利益や成敗などのことを念わず、安閑として恬静であり、虚融で澹泊である。これを一相三昧という。もし一切のところで、行住坐臥において、純一で直なる心であり、道場を動かさず、真に浄土を成ずる。これを一行三昧という。もし人がこの二つの三昧を具えるならば、大地が種子を含み蔵し、養い育ててその実を成就するように、一相と一行もまたそうである。私が今説法するのは、ちょうど時雨が大地を広く潤すようなものである。あなたがたの仏性は、さまざまな種子に譬えられる。この雨に潤されて、すべてが発生するのである。私の旨きを受け継ぐ者は、必ず菩提を得るであろう。私の行いに従う者は、必ず妙果を証するであろう」 先天元年、諸々の徒衆に告げて言った。「私は忍大師から衣法を辱くも受け、今あなたがたのために法を説くが、その衣は付さない。それはあなたがたの信根が淳熟し、決して疑うことなく、大事を任せられるからである。私の偈を聞きなさい。」

心地含諸種 普雨悉皆生頓悟華情已 菩提果自成

> 心の地にはすべての種を含み 慈雨はすべてを生かす 華の情を頓悟すれば 菩提の果はおのずから成る

師說偈已復曰。其法無二其心亦然。其道清淨亦無諸相。汝等慎勿觀淨及空其心。此心本淨無可取捨。各自努力隨緣好去。師說法利生經四十載。其年七月六日命弟子。往新州國恩寺。建報恩塔仍令倍工。又有蜀僧名方辯。來謁師云。善揑塑。師正色曰。試塑看。方辯不領旨。乃塑師真。可高七寸。曲盡其妙。師觀之曰。汝善塑性不善佛性。酬以衣物。僧禮謝而去。先天二年七月一日謂門人曰。吾欲歸新州。汝速理舟檝。時大眾哀慕乞師且住。師曰。諸佛出現猶示涅槃。有來必去理亦常然。吾此形骸歸必有所。眾曰。師從此去早晚却迴。師曰。葉落歸根來時無口。又問。師之法眼何人傳受。師曰。有道者得無心者通。又問。後莫有難否。曰吾滅後五六年。當有一人來取吾首。聽吾記曰。頭上養親。口裏須餐。遇滿之難。楊柳為官。又云。吾去七十年有二菩薩。從東方來。一在家一出家。同時興化建立吾宗。締緝伽藍昌隆法嗣。言訖往新州國恩寺。沐浴訖跏趺而化。異香襲人白虹屬地。即其年八月三日也。時韶新兩郡各修靈塔。道俗莫決所之。兩郡刺史共焚香祝云。香煙引處即師之欲歸焉。時鑪香騰涌直貫曹谿。以十一月十三日入塔。壽七十六。時韶州刺史韋據撰碑。門人憶念取首之記。遂先以鐵葉漆布固護師頸。塔中有達磨所傳信衣西域屈眴布也。緝木綿華心織成。後人以碧絹為裏中宗賜磨衲寶鉢方辯塑真道具等。主塔侍者尸之。開元十年壬戌八月三日。夜半忽聞塔中如拽鐵索聲。僧眾驚起。見一孝子從塔中走出。尋見師頸有傷。具以賊事聞於州縣。縣令楊侃刺史柳無忝得牒切加擒捉。五日於石角村捕得賊人。送韶州鞫問。云姓張名淨滿。汝州梁縣人。於洪州開元寺。受新羅僧金大悲錢二十千。令取六祖大師首。歸海東供養。柳守聞狀未即加刑。乃躬至曹谿。問師上足令韜曰。如何處斷。韜曰。若以國法論理須誅夷。但以佛教慈悲冤親平等。況彼求欲供養罪可恕矣。柳守嘉歎曰。始知佛門廣大。遂赦之爾後甚有名賢贊述及檀施珍異。文繁不錄上元元年肅宗遣使。就請師衣鉢歸內供養。至永泰元年五月五日。代宗夢六祖大師請衣鉢。七日勅刺史楊瑊云。朕夢感能禪師請傳法袈裟却歸曹溪。今遣鎮國大將軍劉崇景。頂戴而送。朕謂之國寶。卿可於本寺如法安置。專令僧眾親承宗旨者。嚴加守護勿令遺墜。後或為人偷竊。皆不遠而獲。如是者數四。憲宗諡大鑒禪師。塔曰元和靈照。皇宋開寶初。王師平南海。劉氏殘兵作梗。師之塔廟鞠為煨燼。而真身為守塔僧保護一無所損。尋有制興修功未竟。會太宗即位留心禪門。頗增壯麗焉。大師自唐先天二年癸丑入滅。至今景德元年甲辰歲。凡二百九十二年矣。得法者除印宗等三十三人各化一方標為正嗣。其外藏名匿迹者不可勝紀。今於諸家傳記中略錄十人。謂之旁出。

> 師は偈を説き終え、さらに言われた。 「その法は二つなく、その心もまた同じである。その道は清浄であり、また諸相もない。あなたがたは、慎んで心の清浄や空を観じてはならない。この心は本来清浄であり、取ることも捨てることもない。各自努力して、縁に随って善く行きなさい」 師は法を説き、衆生を利益すること四十年に及んだ。その年の七月六日、弟子たちに命じて新州の国恩寺に行かせ、報恩塔を建立させ、なお工期を倍加させた。また蜀の僧で名を方弁という者が来て師に謁し、「塑像をよく作ります」と言った。師は厳しい表情で言われた。「試しに塑ってみよ」。方弁はその意を理解せず、師の肖像を塑った。高さ約七寸、その妙を極めてよく表していた。師はそれを見て言われた。「あなたは塑性はよくするが、仏性はよくしない」。衣服を与えて報いられた。僧は礼をして感謝し、去っていった。 先天二年七月一日、門人たちに言われた。「私は新州に帰りたい。あなたたちは速やかに船の用意をしなさい」。その時、大衆は悲しみ慕って、師にしばらく留まるよう乞うた。師は言われた。「諸仏が出現しても、なお涅槃を示される。来るものがあれば必ず去る、道理として常にそうである。私のこの形骸も、帰るべきところがある」。大衆は言った。「師はここから去られて、いつかはまたお戻りになりますか」。師は言われた。「葉は落ちて根に帰る。来た時には口はない」。また尋ねた。「師の法眼は、誰が伝授されるのですか」。師は言われた。「道ある者が得、心なき者が通ずる」。また尋ねた。「後世に難はありますか」。師は言われた。「私が滅してから五、六年後に、一人の者が来て私の首を取るだろう。私の記を聞け。『頭上に親を養い、口裏に須らく餐を須う。満に遇うの難、楊柳官と為る』」。また言われた。「私が去ってから七十年後に、二人の菩薩が東方から来る。一人は在家、一人は出家。同時に教化を興し、私の宗を建立し、伽藍を整え、法嗣を昌隆させるだろう」。言い終えて新州の国恩寺に行かれた。沐浴を終え、結跏趺坐して遷化された。異香が人を襲い、白虹が地に属した。その年の八月三日のことであった。 その時、韶州と新州の両郡がそれぞれ霊塔を修したが、道俗ともにどちらにすべきか決めかねた。両郡の刺史が共に香を焚いて祈願した。「香煙の導くところ、即ち師の帰りたいところであろう」。その時、香炉の煙が湧き上がり、まっすぐ曹渓に貫いた。十一月十三日に塔に納められた。七十六歳であった。 その時、韶州刺史の韋據が碑文を撰した。門人たちは首を取られるという記を思い出し、先んじて鉄の葉と漆布で師の頸を固く護った。塔の中には、達磨大師から伝わった信衣（西域の屈眴布である。木綿の華心を緝んで織り成した。後人が碧絹を裏とした）や、中宗から賜わった磨衲と宝鉢、方弁の塑った真、道具などがあった。塔を主る侍者がこれを管理した。 開元十年壬戌八月三日、夜半に突然塔の中から鉄鎖を引くような音が聞こえた。僧衆が驚いて起きると、一人の孝子が塔の中から走り出るのを見た。すぐに師の頸に傷があるのを発見した。賊のことを詳しく州県に報告した。県令の楊侃と刺史の柳無忝は牒を受け、厳しく捕捉を加えた。五日目に石角村で賊人を捕らえ、韶州に送って尋問した。姓は張、名は浄満、汝州梁県の人である。洪州の開元寺で、新羅の僧・金大悲から銭二十千を受け取り、六祖大師の首を取って海東に帰り供養せよと命じられたという。柳刺史はその状況を聞いて、すぐに刑罰を加えず、自ら曹渓に行き、師の高弟の令韜に尋ねた。「どう処断すべきか」。令韜は言った。「国法によって論ずれば、理として誅戮すべきです。しかし、仏教の慈悲、冤親平等を以てすれば、ましてや彼は供養を求めたのですから、罪は許すことができます」。柳刺史は感嘆して言った。「初めて仏門の広大さを知った」。そこで赦した。 上元元年、粛宗は使者を遣わして、師の衣鉢を請い、内に帰って供養させた。永泰元年五月五日、代宗は六祖大師が衣鉢を請う夢を見た。七日、刺史の楊瑊に勅して言われた。「朕は夢に感じ、能禅師が伝法の袈裟を曹渓に帰すよう請うた。今、鎮国大将軍の劉崇景に頂戴させて送らせる。朕はこれを国宝と謂う。卿は本寺において法の如く安置せよ。特に僧衆で宗旨を親しく承けた者に、厳しく守護させ、遺失墜落せしめるな」。後に人がこれを盗もうとしたが、皆遠くない所で捕らえられた。このようなことが数回あった。 憲宗は大鑑禅師と諡し、塔を元和霊照と名付けた。皇宋の開宝初年、王師が南海を平定した時、劉氏の残兵が障害を起こし、師の塔廟は灰燼に帰した。しかし真身は塔を守る僧が保護し、少しも損なうことはなかった。すぐに修復の詔勅があったが、工事が完成しないうちに、太宗が即位し、禅門に心を留め、かなり壮麗に増築された。 大師は唐の先天二年癸丑に入滅してから、現在の景德元年甲辰に至るまで、凡そ二百九十二年である。法を得た者は、印宗など三十三人を除き、各々一方を化し、正嗣として標されている。その他、名を隠し跡を匿う者は数え切れない。今、諸家の伝記の中から略して十人を録する。これを旁出と謂う。