---
title: "景德傳燈錄 · 金陵寶誌禪師"
description: "景德传灯录由宋代高僧道原编纂，成书于景德年间（1004-1007年），是中国佛教禅宗重要史传类典籍。全书共三十卷，收录自释迦牟尼至五代末年的禅宗祖师1701人，以法脉传承为脉络，记录历代禅师的机缘语录、公案典故。作为现存最早的传灯体著作，该书系统记载了禅宗五家七宗的传承体系，保存了大量珍贵史料，对研究中国禅宗发展史具有不可替代的价值。景德传灯录与五灯会元并称为禅宗两大灯录，被后世奉为禅门经典，不仅影响了宋明理学的发展，更成为东亚禅佛教传播的重要文献依据。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmaarc9nt02btjy04actlwisf"
---

寶誌禪師金城人也。姓朱氏。少出家止道林寺修習禪定。宋泰始初忽居止無定飲食無時。髮長數寸徒跣執錫杖。頭擐剪刀尺銅鑑。或掛一兩尺帛。數日不食無飢容。時或歌吟詞如讖記。士庶皆共事之。齊永明七年。武帝謂師惑眾收付建康獄。既旦人見其入市。及檢獄如故。建康令以事聞。帝延於宮中之後堂。師在華林園忽一日重著三布帽。亦不知於何所得之。俄豫章王文惠太子相繼薨。武帝尋厭世齊亦以於季矣。由是禁師出入。梁高祖即位下詔曰。誌公迹拘塵垢神遊冥寂。水火不能焦濡。蛇虎不能侵懼。語其佛理則聲聞以上。譚其隱淪則遯仙高者。豈以俗士常情空相拘制。何其鄙陋一至於此。自今勿得復禁。帝一日問師曰。弟子煩惑何以治之。師曰。十二。識者以為十二因緣治惑藥也。又問十二之旨。師曰。旨在書字時節刻漏中。識者以為書之在十二時中。又問。弟子何時得靜心修習。師曰。安樂禁。識者以為修習禁者止也。至安樂時乃止耳。又製大乘贊二十四首盛行於世餘諸辭句與夫禪宗旨趣冥會。略錄十首及師製十二時頌編于別卷天監十三年冬將卒。忽告眾僧令移寺金剛神像出置于外。乃密謂人曰。菩薩將去。未及旬日無疾而終。舉體香軟。臨亡然一燭以付後閤舍人吳慶。慶以事聞。帝歎曰。大師不復留矣。燭者將以後事囑我乎。因厚禮葬于鍾山獨龍阜。仍立開善精舍。勅陸倕製銘於冢內。王筠勒碑於寺門。處處傳其遺像焉。初師顯迹之始年可五六十許。及終亦不老。人莫測其年。有徐捷道者。年九十三。自言是誌外舅弟小誌四年。計師亡時蓋年九十七矣。勅諡妙覺大師。

> 宝誌禅師は金城の人で、俗姓は朱氏です。幼くして出家し、道林寺に住して禅定を修めました。宋の泰始年間の初め、突然、住む場所も定まらず、食事の時も定まらなくなりました。髪は数寸伸ばし、素足で錫杖を持ち、頭には鋏と尺と銅鏡をかけ、あるいは一、二尺の布を掛け、数日食べなくても飢えた様子はありませんでした。時に歌を詠みましたが、その詞は予言のようで、人々は皆、彼に仕えました。 斉の永明七年、武帝は師が大衆を惑わすとして建康の獄に収監しました。ところが翌朝、人々は彼が街中にいるのを見かけ、獄を調べると相変わらずそこにいました。建康令がこのことを報告すると、帝は師を宮中の奥の間に招きました。師が華林園にいた時、ある日突然、三つの布の帽子を重ねて被りましたが、どこで手に入れたのか誰も知りませんでした。まもなく豫章王と文恵太子が相次いで亡くなり、武帝もまた世を去り、斉もやがて滅びました。これにより、師の出入りは禁じられました。 梁の高祖が即位すると、詔を下して言いました。「誌公の行いは俗世にありながら、その精神は静寂の境地に遊ぶ。水火も彼を焼き濡らすことができず、蛇虎も侵し恐れることはできない。その仏理を語れば声聞以上の域にあり、その隠遁を論じれば遁仙の高士である。どうして俗人の常識で無理に拘束できようか。なんと卑陋なことか、ここに至るまで。今後、再び禁じてはならない」 帝がある日師に尋ねました。「弟子の煩悩と迷いを、どう治せばよいでしょうか」師は答えました。「十二です」理解ある者は、十二因縁が迷いを治す薬であると考えました。帝がさらに「十二の意味は？」と尋ねると、師は「意味は、文字を書く時と刻漏の中にあります」と答えました。理解ある者は、書くことが十二時の中にあると考えました。また帝が「弟子はいつになったら心静かに修行できるでしょうか」と尋ねると、師は「安楽禁です」と答えました。理解ある者は、修行の禁とは止めることで、安楽の時に至って初めて止められると考えました。 また、師は大乗讃二十四首を作り、世に広く行き渡りました<note>その他の詞句は禅宗の旨趣と深く通じる。十首を簡略に記し、師の作った十二時頌とともに別巻に編む</note>。 天監十三年の冬、師が亡くなろうとする時、突然、僧たちに命じて寺の金剛神像を外に移させ、密かに人に言いました。「菩薩が去ろうとしている」十日も経たないうちに、病気もなく亡くなりました。体全体が香ばしく柔らかでした。臨終の際、一本の蝋燭を灯し、後閤舎人の呉慶に渡しました。慶がこのことを報告すると、帝は嘆いて言いました。「大師はもう留まらない。蝋燭は後事を私に託したのであろう」そこで手厚く葬儀を行い、鍾山の独龍阜に埋葬し、開善精舎を建立しました。勅命により陸倕が墓内に銘を刻み、王筠が寺門に碑を建て、至る所にその遺像が伝えられました。 初め師が姿を現した時、年齢は五、六十歳ほどでしたが、亡くなる時も老けておらず、人はその年齢を測ることができませんでした。徐捷という道士がおり、九十三歳で、自分は誌公の義理の弟で、誌公より四歳年下だと語りました。これにより師の亡くなった時は九十七歳であったと推計されます。勅命により妙覚大師と諡されました。