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title: "景德傳燈錄 · 婺州善慧大士"
description: "景德传灯录由宋代高僧道原编纂，成书于景德年间（1004-1007年），是中国佛教禅宗重要史传类典籍。全书共三十卷，收录自释迦牟尼至五代末年的禅宗祖师1701人，以法脉传承为脉络，记录历代禅师的机缘语录、公案典故。作为现存最早的传灯体著作，该书系统记载了禅宗五家七宗的传承体系，保存了大量珍贵史料，对研究中国禅宗发展史具有不可替代的价值。景德传灯录与五灯会元并称为禅宗两大灯录，被后世奉为禅门经典，不仅影响了宋明理学的发展，更成为东亚禅佛教传播的重要文献依据。"
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善慧大士者。婺州義烏縣人也。齊建武四年丁丑五月八日降于雙林鄉傅宣慈家本名翕。梁天監十一年。年十六納劉氏女名妙光。生普建普成二子。二十四與里人稽亭浦漉魚。獲已沈籠水中祝曰。去者適止者留。人或謂之愚。會有天竺僧達磨時謂嵩頭陀曰。我與汝毘婆尸佛所發誓。今兜率宮衣鉢見在。何日當還。因命臨水觀其影。見大士圓光寶蓋。大士笑謂之曰。鑪韛之所多鈍鐵。良醫之門足病人。度生為急何思彼樂乎。嵩指松山頂曰。此可棲矣。大士躬耕而居之。乃說一偈曰。

> 善慧大士は、婺州義烏県のご出身です。斉の建武四年（丁丑の年）五月八日、雙林郷の傅宣慈という家に生まれました。俗名は傅翕といいます。梁の天監十一年、十六歳のとき、劉氏の娘・妙光を妻に迎え、普建・普成という二人の息子をもうけました。 二十四歳のとき、里人と稽亭浦で魚を捕り、籠を水中に沈めて祈りました。「去る者は去り、留まる者は留まれ」。人々は彼を愚か者呼ばわりしました。ちょうどその時、天竺の僧・達磨（当時は嵩頭陀と呼ばれていました）が現れ、こう言いました。「私はあなたと毘婆尸仏の前で誓いを立てました。今、兜率天には衣と鉢が残されています。いつお戻りになりますか」 そこで、水辺に臨んでその影を見るよう勧められると、大士の周りには円光と宝蓋が輝いていました。大士は笑って言いました。「ふいごのそばには鈍い鉄が多く、良医の門前には病人が集まるものです。衆生を救うことが急務なのに、どうしてあの楽しみを思う必要がありましょうか」 嵩頭陀は松山の頂を指さして言いました。「ここに住むのがよいでしょう」。大士は自ら耕してそこに住み、次のような偈を説きました。

空手把鋤頭 步行騎水牛人從橋上過 橋流水不流

> 空っぽの手で鋤を持ち 歩きながら水牛にまたがる 人が橋の上を渡っていく 橋は流れ　水は流れない

有人盜菽麥瓜果。大士即與籃籠盛去。日常傭作夜則行道。見釋迦金粟定光三如來放光襲其體。大士乃曰。我得首楞嚴定。當捨田宅設無遮大會。大通二年唱賣妻子獲錢五萬以營法會。時有慧集法師聞法悟解。言我師彌勒應身耳。大士恐惑眾遂呵之。六年正月二十八日遣弟子傅暀致書于梁高祖。書曰。雙林樹下當來解脫善慧大士。白國主救世菩薩。今欲條上中下善。希能受持。其上善略以虛懷為本。不著為宗。亡相為因。涅槃為果。其中善略以治身為本。治國為宗。天上人間果報安樂。其下善略以護養眾生勝殘去殺。普令百姓俱稟六齋。今聞皇帝崇法欲伸論義。未遂襟懷故。遣弟子傅暀告曰。暀投太樂令何昌。昌曰。慧約國師猶復置啟。翕是國民又非長老。殊不謙卑豈敢呈達。暀燒手御路。昌乃馳往同泰寺詢皓法師。皓勸速呈。二月二十一日進書。帝覽之遽遣詔迎。既至帝問。從來師事誰耶。曰從無所從來無所來師事亦爾。昭明問。大士何不論義。曰菩薩所說非長非短非廣非狹非有邊非無邊如如正理復有何言。帝又問。何為真諦。曰息而不滅。帝曰。若息而不滅此則有色。有色故鈍。若如是者居士不免流俗。曰臨財無苟得臨難無苟免。帝曰。居士大識禮。曰一切諸法不有不無。帝曰。謹受居士來旨曰大千世界所有色象莫不歸空。百川叢注不過於海。無量妙法不出真如。如來何故於三界九十六道中獨超其最。視一切眾生有若赤子有若自身。天下非道不安非理不樂。帝默然。大士辭退。異日帝於壽光殿請大士講金剛經。大士登座執拍板唱經成四十九頌。大同五年奏捨宅於松山下因雙檮樹而創寺。名曰雙林。其樹連理祥煙周繞。有雙鶴棲止。太清二年大士誓不食。取佛生日焚身供養。至日白黑六十餘人代不食燒身。三百人刺心瀝血和香。請大士住世。大士愍而從之。承聖三年復捨家資為眾生供養三寶。而說偈曰。

> ある人が豆や麦、瓜や果物を盗むと、大士はすぐに籠を用意して持って行かせた。昼は雇われて働き、夜は修行に励んだ。ある時、釈迦如来、金粟如来、定光如来の三如来が光を放ち、その体を照らすのを見て、大士は言った。「私は首楞厳定を得た。家屋敷を捨てて無遮大会を開こう」と。大通二年、妻子を売り払い、得た五万銭で法会を営んだ。その時、慧集法師という者が法を聞いて悟り、言った。「私の師は弥勒菩薩の応身である」と。大士は人々が惑わされるのを恐れ、彼を叱責した。六年正月二十八日、弟子の傅暀を遣わして梁の高祖に書簡を送った。書簡にはこう記されていた。 「双林樹下にて、来たるべき解脱の善慧大士、国主救世菩薩に申し上げます。今、上・中・下の善について条理を述べたいと思います。どうかお受け取りください。上善は、虚心を根本とし、執着しないことを宗とし、形相を忘れることを因とし、涅槃を果とします。中善は、身を治めることを根本とし、国を治めることを宗とし、天上と人間における安楽の果報を得ます。下善は、衆生を護り養い、残虐を除き殺生を止め、すべての民に六斎戒を守らせることです。今、皇帝が仏法を尊び、教義を論じようとされていると聞きましたが、まだ思いを遂げておりません。そこで弟子の傅暀を使いに出し、お伝えします」 傅暀は太楽令の何昌のもとに赴いた。何昌は言った。「慧約国師でさえ、まだ上奏文を提出していない。傅翕（大士）は一国民に過ぎず、長老でもない。謙虚さに欠け、どうして皇帝に取り次げようか」と。傅暀は御前の道で自分の手を焼いた。何昌は急いで同泰寺に行き、皓法師に相談した。皓法師はすぐに提出するよう勧めた。二月二十一日、書簡が献上されると、皇帝はすぐに詔を下して大士を迎えさせた。大士が到着すると、皇帝は尋ねた。「これまで誰を師としていたのか」と。大士は答えた。「どこからも来ず、どこへも行かない。師事することも同様です」と。昭明太子が尋ねた。「大士はなぜ教義を論じないのか」と。大士は答えた。「菩薩の説くところは、長くも短くもなく、広くも狭くもなく、有辺でも無辺でもない。真如の正理そのものであり、さらに何を言うことがありましょうか」と。皇帝はまた尋ねた。「真諦とは何か」と。大士は答えた。「消え去っても滅びないことです」と。皇帝は言った。「消え去っても滅びないなら、それは色（物質）があるということだ。色があるから鈍い。もしそうなら、居士も世俗を免れないのではないか」と。大士は答えた。「財に臨んでも苟（かりそめ）に得ず、難に臨んでも苟に免れません」と。皇帝は言った。「居士は大いに礼をわきまえている」と。大士は答えた。「一切の諸法は、有でもなく無でもありません」と。皇帝は言った。「居士の来旨を謹んで受け取る」と。大士は言った。「大千世界のすべての色象は、ことごとく空に帰します。百川が集まって注いでも、海を超えることはありません。無量の妙法は、真如から出ずることはありません。如来はなぜ三界九十六道の中で、ただ独り最も優れているのでしょうか。一切の衆生を赤子のごとく、自身のごとくに見ておられるからです。天下は道なくして安からず、理なくして楽しまないのです」と。皇帝は黙り込んだ。大士は辞去した。 後日、皇帝は寿光殿で大士に『金剛経』を講じるよう請うた。大士は座に上がり、拍板を執って経を唱え、四十九の頌を成した。大同五年、松山の下にある屋敷を捨て、二本の樫の木に因んで寺を創建した。名付けて双林寺という。その木は連理となり、祥煙が周りを巡った。二羽の鶴が棲みついた。太清二年、大士は食を断つことを誓い、仏の誕生日に焼身供養を行おうとした。当日、白黒六十余人が代わりに焼身し、三百人が心臓を刺して血を香に混ぜ、大士にこの世に留まるよう請うた。大士は哀れみ、それに従った。承聖三年、再び家財を捨てて衆生のために三宝を供養し、次の偈を説いた。

傾捨為群品 奉供天中天仰祈甘露雨 流澍普無邊

> 衆生のために身を捨てて 天の中の天に奉り供養す 甘露の雨を仰ぎ祈りて 普く辺際なく流れ潤わんことを

陳天嘉二年大士於松山頂遶連理樹行道。感七佛相隨。釋迦引前維摩接後。唯釋尊數顧共語。為我補處也。其山忽起黃雲盤旋若蓋。因號雲黃山。時有慧和法師不疾而終。嵩頭陀於柯山靈巖寺入滅。大士懸知曰。嵩公兜率待我。決不可久留也。時四側華木方當秀實欻然枯悴。太建元年己丑四月二十四日示眾曰。此身甚可厭惡眾苦所集。須慎三業精勤六度。若墜地獄卒難得脫。常須懺悔。又曰。吾去已不得移寢床。七日有法猛上人。持像及鍾來鎮于此。弟子問。滅後形體若為。曰山頂焚之。又問。不遂何如。曰慎勿棺斂。但壘甓作壇移屍於上。屏風周繞絳紗覆之。上建浮圖以彌勒像處其下。又問。諸佛涅槃時皆說功德。師之發迹可得聞乎。曰我從第四天來為度汝等。次補釋迦。及傅普敏文殊。慧集觀音。何昌阿難。同來贊助故。大品經云。有菩薩從兜率來。諸根猛利。疾與般若相應。即吾身是也。言訖趺坐而終。壽七十有三。尋猛師果將到織成彌勒像及九乳鐘留鎮之。須臾不見。大士道具十餘事見在。晉天福九年甲辰六月十七日錢王遣使發塔。取靈骨一十六片紫金色及道具。乃府城南龍山建華寺寘之。仍以靈骨塑其像。

> 陳の天嘉二年、大士は松山の頂にある連理樹を巡りながら行道を行いました。すると、七仏が付き従い、釈迦が先導し、維摩が後ろに続くのを感じました。釈尊だけが何度も振り返り、共に語りかけられました。「そなたは我が補処（後継者）である」と。その山には突然、黄色い雲が立ち昇り、蓋のように渦を巻きました。それゆえに雲黄山と名付けられました。 その時、慧和法師が病気にもならずに亡くなり、嵩頭陀は柯山の霊巖寺で入滅しました。大士はこれを察知し、「嵩公は兜率天で私を待っている。もはや長く留まることはできない」とおっしゃいました。すると、周囲の草木はちょうど花が咲き実を結ぶ時期だったのに、突然枯れしおれてしまいました。 太建元年己丑の四月二十四日、大士は大衆に示して言われました。「この身は実に厭わしく、あらゆる苦しみが集まっている。三業を慎み、六度に精進しなければならない。もし地獄に堕ちたら、すぐには抜け出せない。常に懺悔する必要がある」。また言われました。「私が去った後、寝床を動かしてはならない。七日後、法猛上人が像と鐘を持ってここを鎮めるために来るだろう」。 弟子が尋ねました。「滅後、御身体はどうすればよいでしょうか」。大士は答えられました。「山頂で火葬にせよ」。また尋ねました。「もし叶わなかったらどうすれば？」。大士は言われました。「決して棺に納めてはならない。ただ、煉瓦を積んで壇を作り、その上に屍を移し、屏風で周りを囲み、深紅の紗で覆うのだ。その上に浮図（塔）を建て、弥勒像をその下に置け」。 また尋ねました。「諸仏が涅槃に入られる時は、皆、功徳を説かれます。師の御事績をお聞かせいただけませんか」。大士は答えられました。「私は第四天から、あなた方を救うために来た。次に釈迦を補い、また、普敏は文殊、慧集は観音、何昌は阿難として、共に来て助けたのだ。故に『大品経』に『菩薩が兜率天から来たり。諸根猛利にして、疾く般若と相応す』とある。それがこの我が身である」。そう言い終えると、結跏趺坐して亡くなられました。享年七十三歳。 間もなく、猛師（法猛上人）が果たして織り成した弥勒像と九乳の鐘を持って来て、ここに留めて鎮め、やがて見えなくなりました。大士の道具十数点は今も現存しています。 晋の天福九年甲辰六月十七日、銭王は使者を遣わして塔を開き、紫金色の霊骨十六片と道具を取り出しました。そして府城の南、龍山にある建華寺に安置し、霊骨をもってその像を塑像しました。