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title: "景德傳燈錄 · 越州大珠慧海和尚語"
description: "景德传灯录由宋代高僧道原编纂，成书于景德年间（1004-1007年），是中国佛教禅宗重要史传类典籍。全书共三十卷，收录自释迦牟尼至五代末年的禅宗祖师1701人，以法脉传承为脉络，记录历代禅师的机缘语录、公案典故。作为现存最早的传灯体著作，该书系统记载了禅宗五家七宗的传承体系，保存了大量珍贵史料，对研究中国禅宗发展史具有不可替代的价值。景德传灯录与五灯会元并称为禅宗两大灯录，被后世奉为禅门经典，不仅影响了宋明理学的发展，更成为东亚禅佛教传播的重要文献依据。"
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越州大珠慧海和尚。上堂曰。諸人幸自好箇無事人。苦死造作要檐枷落獄作麼。每日至夜奔波道我參禪學道解會佛法。如此轉無交涉也。只是逐聲色走有何歇時。貧道聞江西和尚道。汝自家寶藏一切具足。使用自在不假外求。我從此一時休去。自己財寶隨身受用。可謂快活。無一法可取。無一法可捨。不見一法生滅相。不見一法去來相。遍十方界無一微塵許不是自家財寶。但自子細觀察自心。一體三寶常自現前無可疑慮。莫尋思莫求覓。心性本來清淨。故華嚴經云。一切法不生一切法不滅。若能如是解諸佛常現前。又淨名經云。觀聲實相觀佛亦然。若不隨聲色動念。不逐相貌生解。自然無事去。莫久立珍重。此日大眾普集久而不散。師曰。諸人何故在此不去。貧道已對面相呈。還肯休麼。有何事可疑。莫錯用心枉費氣力。若有疑情一任諸人恣意早問。時有僧法淵問曰。云何是佛。云何是法。云何是僧。云何是一體三寶。願師垂示。師曰。心是佛不用將佛求佛。心是法不用將法求法。佛法無二和合為僧。即是一體三寶。經云。心佛與眾生是三無差別。身口意清淨名為佛出世。三業不清淨名為佛滅度。喻如嗔時無喜喜時無嗔。唯是一心實無二體。本智法爾無漏現前。如蛇化為龍不改其鱗。眾生迴心作佛不改其面。性本清淨不待修成。有證有修即同增上慢者。真空無滯應有無窮無始無終。利根頓悟用無等等。即是阿耨菩提。心無形相。即是微妙色身。無相即是實相法身。性相體空即是虛空無邊身。萬行莊嚴即是功德法身。此法身者乃是萬化之本。隨處立名。智用無盡名無盡藏。能生萬法名本法藏。具一切智是智慧藏。萬法歸如名如來藏。經云。如來者即諸法如義。又云。世間一切生滅法。無有一法不歸如也。時有人問云。弟子未知律師法師禪師何者最勝。願和尚慈悲指示。師曰。夫律師者。啟毘尼之法藏。傳壽命之遺風。洞持犯而達開遮。秉威儀而行軌範。牒三番羯麼作四果初因。若非宿德白眉焉敢造次。夫法師者。踞獅子之座瀉懸河之辯。對稠人廣眾啟鑿玄關。開般若妙門等三輪空施。若非龍象蹴蹋安敢當斯。夫禪師者。撮其樞要直了心源。出沒卷舒縱橫應物。咸均事理頓見如來。拔生死深根獲見前三昧。若不安禪靜慮。到遮裏總須茫然。隨機授法三學雖殊。得意忘言一乘何異。故經云。十方佛土中唯有一乘法無二亦無三。除佛方便說但以假名字引導於眾生。曰和尚深達佛旨得無礙辯。又問。儒道釋三教同異如何。師曰。大量者用之即同。小機者執之即異。總從一性上起用。機見差別成三。迷悟由人不在教之同異。講唯識道光座主問曰。禪師用何心修道。師曰。老僧無心可用無道可修。曰既無心可用無道可修。云何每日聚眾勸人學禪修道。師曰。老僧尚無卓錐之地。什麼處聚眾來。老僧無舌何曾勸人來。曰禪師對面妄語。師曰。老僧尚無舌勸人焉解妄語。曰某甲却不會禪師語論也。師曰。老僧自亦不會講華嚴志座主問。禪師何故不許青青翠竹盡是法身欝欝黃華無非般若。師曰。法身無象應翠竹以成形。般若無知對黃華而顯相。非彼黃華翠竹而有般若法身。故經云。佛真法身猶若虛空。應物現形如水中月。黃華若是般若。般若即同無情。翠竹若是法身。翠竹還能應用。座主會麼。曰不了此意。師曰。若見性人道是亦得道不是亦得。隨用而說不滯是非。若不見性人說翠竹著翠竹。說黃華著黃華。說法身滯法身。說般若不識般若。所以皆成爭論。志禮謝而去。人問。將心修行幾時得解脫。師曰。將心修行喻如滑泥洗垢。般若玄妙本自無生。大用現前不論時節。曰凡夫亦得如此否。師曰。見性者即非凡夫。頓悟上乘超凡越聖。迷人論凡論聖。悟人超越生死涅槃。迷人說事說理。悟人大用無方。迷人求得求證。悟人無得無求。迷人期遠劫。悟人頓見。維摩座主問。經云。彼外道六師等是汝之師。因其出家彼師所墮汝亦隨墮。其施汝者不名福田。供養汝者墮三惡道。謗於佛毀於法不入眾數。終不得滅度。汝若如是乃可取食。今請禪師明為解說。師曰。迷徇六根者號之為六師。心外求佛名為外道。有物可施不名福田。生心受供墮三惡道。汝若能謗於佛者是不著佛求。毀於法者是不著法求。不入眾數者是不著僧求。終不得滅度者智用現前。若有如是解者。便得法喜禪悅之食。有行者問。有人問佛答佛問法答法。喚作一字法門不知是否。師曰。如鸚鵡學人語話自語不得。為無智慧故。譬如將水洗水將火燒火都無義趣。人問。言之與語為同為異。師曰。夫一字曰言。成句名語。且如靈辯滔滔譬大川之流水。峻機疊疊如圓器之傾珠。所以郭象號懸河。春鸚稱義海。此是語也。言者一字表心也。內著玄微外現妙相。萬機撓而不亂。清濁渾而常分。齊王到此猶慚大夫之辭。文殊到此尚歎淨名之說。如今常人云何能解。源律師問。禪師常譚即心是佛無有是處。且一地菩薩分身百佛世界。二地增于十倍。禪師試現神通看。師曰。闍梨自己是凡是聖。曰是凡。師曰。既是凡僧能問如是境界。經云。仁者心有高下不依佛慧。此之是也。又問。禪師每云。若悟道現前身便解脫無有是處。師曰。有人一生作善忽然偷物入手。即身是賊否。曰故知是也。師曰。如今了了見性。云何不得解脫。曰如今必不可。須經三大阿僧祇劫始得。師曰。阿僧祇劫還有數否。源抗聲曰。將賊比解脫道理得通否。師曰。闍梨自不解道。不可障一切人解。自眼不開瞋一切人見物。源作色而去。云雖老渾無道。師曰。即行去者是汝道。講止觀慧座主問。禪師辨得魔否。師曰。起心是天魔。不起心是陰魔。或起不起是煩惱魔。我正法中無如是事。曰一心三觀義又如何。師曰。過去心已過去。未來心未至。現在心無住。於其中間更用何心起觀。曰禪師不解止觀。師曰。座主解否。曰解。師曰。如智者大師。說止破止。說觀破觀。住止沒生死。住觀心神亂。且為當將心止心。為復起心觀。觀若有心觀是常見法若無心觀是斷見。法亦有亦無成二見法。請座主子細說看。曰若如是問俱說不得也。師曰。何曾止觀。人問。般若大否。師曰大。曰幾許大。師曰。無邊際。曰般若小否。師曰小。曰幾許小。師曰。看不見。曰何處是。師曰。何處不是。維摩座主問。經云。諸菩薩各入不二法門維摩默然是究竟否。師曰。未是究竟。聖意若盡第三卷更說何事。座主良久曰。請禪師為說未究竟之意。師曰。如經第一卷。是引眾呵十大弟子住心。第二諸菩薩各說入不二法門。以言顯於無言。文殊以無言顯於無言。維摩不以言不以無言故默然。收前言語故。第三卷從默然起說。又顯神通作用。座主會麼。曰奇怪如是。師曰。亦未如是。曰何故未是。師曰。且破人執情作如此說。若據經意只說色心空寂令見本性。教捨偽行入真行。莫向言語紙墨上討意度。但會淨名兩字便得。淨者本體也。名者迹用也。從本體起迹用。從迹用歸本體。體用不二本迹非殊。所以古人道。本迹雖殊不思議一也。一亦非一。若識淨名兩字假號。更說什麼究竟與不究竟。無前無後非本非末非淨非名。只示眾生本性不思議解脫。若不見性人終身不見此理。僧問。萬法盡空識性亦爾。譬如水泡一散更無再合。身死更不再生。即是空無。何處更有識性。師曰。泡因水有。泡散可即無水。身因性起。身死豈言性滅。曰既言有性將出來看。師曰。汝信有明朝否。曰信。師曰。試將明朝來看。曰明朝實是有如今不可得。師曰。明朝不可得不是無明朝。汝自不見性不可是無性。今見著衣喫飯行住坐臥對面不識。可謂愚迷。汝欲見明朝與今日不異。將性覓性萬劫終不見。亦如盲人不見日不是無日。講青龍疏座主問。經云。無法可說是名說法。禪師如何體會。師曰。為般若體畢竟清淨無有一物可得。是名無法。即於般若空寂體中具河沙之用。即無事不知。是名說法。故云。無法可說是名說法。講華嚴座主問。禪師信無情是佛否。師曰。不信。若無情是佛者。活人應不如死人。死驢死狗亦應勝於活人。經云。佛身者即法身也。從戒定慧生。從三明六通生。從一切善法生。若說無情是佛者。大德如今便死應作佛去。有法師問。持般若經最多功德。師還信否。師曰。不信。曰若爾靈驗傳十餘卷皆不堪信也。師曰。生人持孝自有感應。非是白骨能有感應。經是文字紙墨性空何處有靈驗。靈驗者在持經人用心。所以神通感物。試將一卷經安著案上。無人受持自能有靈驗否。僧問。未審一切名相及法相語之與默。如何通會即得無前後。師曰。一念起時本來無相無名。何得說有前後。不了名相本淨。妄計有前後。夫名相關鎖。非智鑰不能開。中道者病在中道。二邊者病在二邊。不知現用是無等等法身。迷悟得失常人之法。自起生滅埋沒正智。或斷煩惱或求菩提。背却般若波羅蜜。人問。律師何故不信禪。師曰。理幽難顯名相易持。不見性者所以不信。若見性者號之為佛。識佛之人方能信入。佛不遠人而人遠佛。佛是心作。迷人向文字中求。悟人向心而覺。迷人修因待果。悟人了心無相。迷人執物守我為己。悟人般若應用見前。愚人執空執有生滯。智人見性了相靈通。乾慧辯者口疲。大智體了心泰。菩薩觸物斯照。聲聞怕境昧心。悟者日用無生。迷人見前隔佛。人問。如何得神通去。師曰。神性靈通遍周沙界。山河石壁去來無礙。剎那萬里往返無蹤。火不能燒水不能溺。愚人自無心智。欲得四大飛空。經云。取相凡夫隨宜為說。心無形相即是微妙色身。無相即是實相。實相體空喚作虛空無邊身。萬行莊嚴故云功德法身。即此法身是萬行之本。隨用立名。實而言之。只是清淨法身也。人問。一心修道過去業障得消滅否。師曰。不見性人未得消滅。若見性人如日照霜雪。又見性人猶如積草等須彌。只用一星之火。業障如草。智慧似火。曰云何得知業障盡。師曰。見前心通前後生事猶如對見。前佛後佛萬法同時。經云。一念知一切法是道場。成就一切智故。有行者問云。何得住正法。師曰。求住正法者是邪。何以故。法無邪正故。曰云何得作佛去。師曰。不用捨眾生心。但莫污染自性。經云。心佛及眾生是三無差別。曰若如是解者得解脫否。師曰。本自無縛不用求解。法過語言文字。不用數句中求。法非過現未來。不可以因果中契。法過一切不可比對。法身無象應物現形。非離世間而求解脫。僧問。何者是般若。師曰。汝疑不是者試說看。又問云。何得見性。師曰。見即是性無性不能見。又問。如何是修行。師曰。但莫污染自性即是修行。莫自欺誑即是修行。大用現前即是無等等法身。又問。性中有惡否。師曰。此中善亦不立。曰善惡俱不立將心何處用。師曰。將心用心是大顛倒。曰作麼生即是。師曰。無作麼生亦無可是。人問。有人乘船船底刺殺螺蜆。為是人受罪。為復船當辜。師曰。人船兩無心罪正在汝。譬如狂風折樹損命。無作者無受者。世界之中無非眾生受苦處。僧問。未審託情勢指境勢語默勢乃至揚眉動目等勢。如何得通會於一念間。師曰。無有性外事。用妙者動寂俱妙。心真者語默總真。會道者行住坐臥是道。為迷自性萬惑茲生。又問。如何是法有宗旨。師曰。隨其所立即有眾義。文殊於無住本立一切法。曰莫同太虛否。師曰。汝怕同太虛否。曰怕。師曰。解怕者不同太虛。又問。言方不及處如何得解。師曰。汝今正說時疑何處不及。有宿德十餘人同問。經云。破滅佛法未審佛法可破滅否。師曰。凡夫外道謂佛法可破滅。二乘人謂不可破滅。我正法中無此二見。若論正法非但凡夫外道。未至佛地者二乘亦是惡人。又問。真法幻法空法非空法各有種性否。師曰。夫法雖無種性應物俱現。心幻也一切俱幻。若有一法不是幻者。幻即有定。心空也一切皆空。若有一法不空空義不立。迷時人逐法。悟時法由人。如森羅萬象至空而極。百川眾流至海而極。一切賢聖至佛而極。十二分經五部毘尼五圍陀論至心而極。心者是總持之妙本萬法之洪源。亦名大智慧藏無住涅槃。百千萬名盡心之異號耳。又問。如何是幻。師曰。幻無定相如旋火輪。如乾闥婆城。如機關木人。如陽焰。如空華。俱無實法。又問。何名大幻師。師曰。心名大幻師。身為大幻城。名相為大幻衣食。河沙世界無有幻外事。凡夫不識幻。處處迷幻業。聲聞怕幻境昧心而入寂。菩薩識幻法達體幻。不拘一切名相。佛是大幻師。轉大幻法輪。成大幻涅槃。轉幻生滅得不生不滅。轉河沙穢土成清淨法界。僧問。何故不許誦經喚作客語。師曰。如鸚鵡只學人言不得人意。經傳佛意。不得佛意而但誦是學語人。所以不許。曰不可離文字言語別有意耶。師曰。汝如是說亦是學語。曰同是語言何偏不許。師曰。汝今諦聽經有明文。我所說者義語非文。眾生說者文語非義。得意者越於浮言。悟理者超於文字。法過語言文字。何向數句中求。是以發菩提者得意而忘言。悟理而遺教。亦猶得魚忘筌得兔忘蹄也。有法師問。念佛是有相大乘禪師意如何。師曰。無相猶非大乘。何況有相。經云。取相凡夫隨宜為說。又問。願生淨土未審實有淨土否。師曰。經云。欲得淨土當淨其心。隨其心淨即佛土淨。若心清淨所在之處皆為淨土。譬如生國王家決定紹王業。發心向佛道是生淨佛國。其心若不淨在所生處皆是穢土。淨穢在心不在國土。又問。每聞說道未審何人能見。師曰。有慧眼者能見。曰甚樂大乘如何學得。師曰。悟即得不悟不得。曰如何得悟去。師曰。但諦觀。曰似何物。師曰。無物似。曰應是畢竟空。師曰。空無畢竟。曰應是有。師曰。有而無相。曰不悟如何。師曰。大德自不悟亦無人相障。人問。佛法在於三際否。師曰。見在無相不在其外。應用無窮不在於內。中間無住處三際不可得。曰此言大混。師曰。汝正說混之一字時在內外否。曰弟子究檢內外無蹤迹。師曰。若無蹤迹明知上來語不混。曰如何得作佛。師曰。是心是佛是心作佛。曰眾生入地獄佛性入否。師曰。如今正作惡時更有善否。曰無。師曰。眾生入地獄佛性亦如是。曰一切眾生皆有佛性如何。師曰。作佛用是佛性。作賊用是賊性。作眾生用是眾生性。性無形相隨用立名。經云。一切賢聖皆以無為法而有差別。僧問。何者是佛。師曰。離心之外即無有佛。曰何者是法身。師曰。心是法身。謂能生萬法故號法界之身。起信論云。所言法者。謂眾生心。即依此心顯示摩訶衍義。又問。何名有大經卷內在一微塵。師曰。智慧是經卷。經云。有大經卷量等三千大千界。內在一微塵中。一塵者是一念心塵也。故云。一念塵中演出河沙偈時人自不識。又問。何名大義城。何名大義王。師曰。身為大義城。心為大義王。經云。多聞者善於義不善於言說。言說生滅義。不生滅義無形相。在言說之外。心為大經卷。心為大義王。若不了了識心者不名善義。只是學語人也。又問。般若經云。度九類眾生皆入無餘涅槃。又云。實無眾生得滅度者。此兩段經文如何通會。前後人說皆云。實度眾生而不取眾生相。常疑未決。請師為說。師曰。九類眾生一身具足隨造隨成。是故無明為卵生。煩惱包裹為胎生。愛水浸潤為濕生。歘起煩惱為化生。悟即是佛。迷號眾生。菩薩只以念念心為眾生。若了念念心體空。名為度眾生也。智者於自本際上度於未形。未形既空即知實無眾生得滅度者。僧問。言語是心否。師曰。言語是緣不是心。曰離緣何者是心。師曰。離言語無心。曰離言語既無心若為是心。師曰。心無形相非離言語非不離言語。心常湛然應用自在。祖師云。若了心非心始解心心法。僧問。如何是定慧等學。師曰。定是體慧是用。從定起慧從慧歸定。如水與波一體更無前後。名定慧等學。夫出家兒莫尋言逐語。行住坐臥並是汝性用。什麼處與道不相應。且自一時休歇去。若不隨外境風。心性水常自湛湛。無事珍重。

> 越州大珠慧海和尚が法座に上って言われた。 「皆さんはもともと何の問題もない立派な人たちなのに、無理に苦労を重ねて、わざわざ枷を負って地獄に落ちようとするのはなぜか。毎日から夜まで走り回って『私は参禅している、道を学んでいる、仏法を理解している』と言っているが、それではますます本来の道から遠ざかるばかりだ。ただ音や色を追いかけて走り回っているだけで、いつ休む時があるのか。私は江西和尚(馬祖道一)がこう言うのを聞いた。『お前自身の宝の蔵にはすべてが備わっていて、自在に使えて、外に求める必要はない』と。私はこれを聞いてから、すっかり休むことができた。自分の財宝を身にまといながら使うのだから、実に快適だ。取るべき法は一つもなく、捨てるべき法も一つもない。一つの法の生まれる相も滅する相も見えない。一つの法の来る相も去る相も見えない。十方の世界のどこを見ても、極微の塵ほども自分の財宝でないものはない。ただ自分の心を細かく観察しなさい。一体の三宝は常に目の前に現れていて、何の疑いもない。思い悩むな、探し求めるな。心の本性はもともと清らかなのだ。だから華厳経に言う。『一切の法は生ぜず、一切の法は滅せず。もしこのように解することができれば、諸仏は常に目の前に現れる』と。また浄名経(維摩経)には、『声の実相を観ることは、仏を観ることと同じである』と言う。もし音や色に動かされて念を起こさず、形や相を追って解釈を生じなければ、自然に何の問題もなくなる。長く立っていないで、どうかお大事に。」 この日、大勢の人が集まったまま長く解散しなかった。師が言われた。「皆さんはなぜここに留まって去らないのか。私はもう直面して示したのだ。もう休むことにしないか。何か疑うことがあるのか。心を間違えて使って、むだに力を費やしてはいけない。もし疑いがあるなら、思うままに早く質問しなさい。」 その時、僧の法淵が質問した。「何が仏ですか。何が法ですか。何が僧ですか。何が一体三宝ですか。どうか師が示してください。」 師が言われた。「心が仏である。仏をもって仏を求める必要はない。心が法である。法をもって法を求める必要はない。仏と法は二つでなく、和合したものが僧である。これが一体三宝だ。経に言う。『心と仏と衆生は、この三つに差別はない』と。身・口・意が清らかであることを『仏が世に現れる』と言い、三業が清らかでないことを『仏が滅度する』と言う。たとえば、怒っている時には喜びはなく、喜んでいる時には怒りがない。ただ一心があるだけで、実に二つの体はない。根本の智慧は自然にあり、煩悩のないものが目の前に現れている。蛇が竜に変わる時も、その鱗を変えない。衆生が心を変えて仏になる時も、その面を変えない。本性はもともと清らかで、修めて成るのを待たない。証得や修行があると言うなら、それは増上慢と同じだ。真の空は滞りなく、応用は無限で、始まりもなく終わりもない。鋭い根機の者は瞬時に悟り、その用は比べるものがない。これが阿耨多羅三藐三菩提である。心に形や相がないこと、これを微妙な色身という。相がないこと、これが実相の法身である。本性も相も体が空であること、これを虚空無辺身という。万行の荘厳、これを功徳法身という。この法身こそが万物の根本であり、ところに応じて名を立てる。智慧の用が尽きないので無尽蔵と言い、万物を生み出すので本法蔵と言い、一切の智慧を具えているので智慧蔵と言い、万物が如に帰するので如来蔵と言う。経に言う。『如来とは、すなわち諸法の如の義である』と。また、『世間の一切の生滅法は、一つの法として如に帰しないものはない』と。」 その時、ある人が質問した。「弟子は、律師・法師・禅師のどれが最も優れているのか分かりません。どうか和尚が慈悲をもって示してください。」 師が言われた。「律師とは、毘尼(律)の法蔵を開き、寿命の遺風を伝え、持犯を明らかにして開遮を達し、威儀を保って軌範を行う。三番羯磨をあげて四果の初因とする。もし宿徳の白眉(すぐれた老人)でなければ、どうして軽々しくできることだろうか。法師とは、獅子の座に踞り、懸河の弁を瀉ぎ、大勢の人の前で玄関を開き、般若の妙門を開いて三輪空施を行う。もし龍象の蹴踏でなければ、どうしてこれに当たることができるか。禅師とは、その枢要をとらえて、直ちに心の本源を了知する。出没巻舒、縦横に物に応じ、すべて事理を均しくして、頓に如来を見る。生死の深い根を抜き、見現前三昧を得る。もし安禅静慮でなければ、ここに来てはみな茫然とするだろう。機に随って法を授けるのに、三学は異なるが、意を得て言葉を忘れれば、一乗に何の違いがあろうか。だから経に言う。『十方の仏土の中には、ただ一乗の法があるのみで、二もなく三もない。ただし仏の方便の説を除いて、ただ仮の名をもって衆生を導く』と。」 「和尚は仏の旨を深く達しておられて、無礙の弁を得ておられる。」とその人は言った。また質問した。「儒・道・釈の三教の同異はどうですか。」 師が言われた。「度量の大きい者は、用いれば同じである。小さな根機の者は、執着すれば異なる。すべて一つの本性から用を起こすのだが、根機や見解の差別によって三つになる。迷い悟りは人によるのであって、教えの同異にはよらない。」 唯識を講じる道光座主が質問した。「禅師はどのような心で道を修めますか。」 師が言われた。「老僧には、用いるべき心もなく、修めるべき道もない。」 「心も用いるものもなく、道も修めるものもないのなら、なぜ毎日人々を集めて禅を学び道を修めるよう勧めるのですか。」 師が言われた。「老僧には、錐を立てるほどの土地もないのに、どこで人を集めるというのか。老僧には舌もないのに、いつ人を勧めたというのか。」 「禅師は目の前で嘘をついておられます。」 師が言われた。「老僧には舌もなく勧めることもないのに、どうして嘘をつくことができようか。」 「私は禅師の言葉が理解できません。」 師が言われた。「老僧自身も理解していない。」 華厳を講じる志座主が質問した。「禅師はなぜ、『青々とした翠竹はすべて法身であり、鬱々とした黄華はすべて般若である』ということを許さないのですか。」 師が言われた。「法身には形相がないので、翠竹に応じて形を現す。般若には知覚がないので、黄華に対して相を顕す。黄華や翠竹の側に般若や法身があるのではない。だから経に言う。『仏の真の法身は、あたかも虚空のようである。物に応じて形を現ずること、水の中の月のようである』と。黄華がもし般若なら、般若は無情と同じになってしまう。翠竹がもし法身なら、翠竹にも応用ができるのか。座主、分かるか。」 「この意味が分かりません。」 師が言われた。「もし見性した人なら、『是』と言ってもよく、『不是』と言ってもよい。用に随って説いて、是非に滞らない。もし見性しない人が翠竹を言えば翠竹に執着し、黄華を言えば黄華に執着し、法身を説けば法身に滞り、般若を説いても般若を認識しない。だからみな争論になってしまうのだ。」 志座主は礼をして去っていった。 ある人が質問した。「心をもって修行すれば、いつ解脱を得られますか。」 師が言われた。「心をもって修行するというのは、泥を滑らせて垢を洗うようなものだ。般若は玄妙で、もともと生まれることがない。大用が目の前に現れれば、時節を論じない。」 「凡夫もこのようになれますか。」 師が言われた。「見性した者は、すなわち凡夫ではない。頓悟して上乗を悟れば、凡を超え聖を越える。迷っている人は凡と聖を論じる。悟った人は生死と涅槃を超越する。迷っている人は事と理を説く。悟った人は大用が方なく、遍く用いる。迷っている人は得と証を求める。悟った人は得ることもなく求めることもない。迷っている人は遠い劫を期待する。悟った人は頓に見る。」 維摩座主が質問した。「経に言う、『かの外道の六師などは、あなたの師である。それに従って出家すれば、その師の堕ちるところに、あなたもまた堕ちるであろう。あなたに施す者は福田と名づけない。あなたを供養する者は三悪道に堕ちる。仏を謗り法を毀る者は、衆数のうちに入らず、とうてい滅度を得ない。あなたがもしこのようでなければ、はじめて食を取ることができる』と。今、禅師に明らかに解説していただきたいのです。」 師が言われた。「迷って六根に従う者を、これを六師と名づける。心の外に仏を求めることを外道と名づける。施すべき物があると思うことは福田と名づけない。心を生じて供養を受けることは三悪道に堕ちる。もしあなたが仏を謗ることができるなら、それは仏に執着せずに求めることだ。法を毀ることができるなら、法に執着せずに求めることだ。衆数のうちに入らないなら、僧に執着せずに求めることだ。とうてい滅度を得ないとは、智慧の用が目の前に現れることだ。もしこのように解する者があれば、法喜禅悦の食を得るであろう。」 ある修行者が質問した。「ある人が仏と問えば仏と答え、法と問えば法と答える。これを一字法門と呼ぶそうですが、正しいでしょうか。」 師が言われた。「それは鸚鵡が人の言葉を学んで、自分では話せないのと同じだ。智慧がないからである。たとえば、水で水を洗い、火で火を焼くようなもので、何の意味もない。」 ある人が質問した。「『言』と『語』は同じですか、異なりますか。」 師が言われた。「一つの字を『言』と言い、句を成すのを『語』と言う。たとえば、霊辯の滔滔たるは、大きな川の流れにたとえられる。峻機の畳畳たるは、丸い器から珠を傾けるようなものだ。だから郭象は懸河と号され、春鸚は義海と称された。これは『語』である。『言』とは、一つの字で心を表すものである。内に玄微を備え、外に妙相を現す。万機が撹拌しても乱れず、清濁が混ざっても常に分かれる。斉の王もここに至っては大夫の辞に恥じ、文殊もここに至っては浄名の説を歎じた。今の凡人にどうして理解できようか。」 源律師が質問した。「禅師は常に『即心是仏』と説かれますが、それは正しくありません。一地の菩薩は百の仏世界に分身します。二地では十倍に増えます。禅師、神通を現してごらんなさい。」 師が言われた。「闍梨は自分が凡夫か聖者か、どちらだと思うか。」 「凡夫です。」 師が言われた。「既に凡夫の僧でありながら、よくこのような境界を問うことができるものだ。経に言う、『仁者よ、心に高下があるから仏慧に依らない』と。これがそれだ。」 また質問した。「禅師はいつも、『もし道を悟れば、現前の身で解脱する』と言われますが、それは正しくありません。」 師が言われた。「ある人が一生善を行ってきたが、突然人様の物を盗んで手に入れたら、その身は即座に賊なのか。」 「そうです。だからそうなのです。」 師が言われた。「今、はっきりと見性しているのに、どうして解脱を得られないことがあろうか。」 「今は決してできません。必ず三大阿僧祇劫を経なければなりません。」 師が言われた。「阿僧祇劫にまだ数があるのか。」 源律師は声を張り上げて言った。「賊をもって解脱の道理にたとえるのは、通じるのでしょうか。」 師が言われた。「闍梨が自分で道を理解できないのは、すべての人の理解を妨げるものではない。自分の目が開かないで、すべての人が物を見るのを怒るようなものだ。」 源律師は顔色を変えて去っていった。言うには、「年老いてはいるが、まるで道がない」と。 師が言われた。「いま去っていく者が、あなたの道である。」 止観を講じる慧座主が質問した。「禅師は魔を見分けられますか。」 師が言われた。「心を起こすのは天魔である。心を起こさないのは陰魔である。あるいは起こしたり起こさなかったりするのは煩悩魔である。私の正法の中には、このようなことはない。」 「一心三観の義はどうですか。」 師が言われた。「過去の心はすでに過ぎ去った。未来の心はまだ来ない。現在の心は留まるところがない。その間に、さらに何の心を用いて観を起こすのか。」 「禅師は止観を理解しておられません。」 師が言われた。「座主は理解しているか。」 「理解しています。」 師が言われた。「智者大師のように、止を説いて止を破し、観を説いて観を破す。止に住すれば生死に没し、観に住すれば心神が乱れる。まさに心をもって心を止めるのか。それとも心を起こして観るのか。観に心があれば、それは常見の法である。観に心がなければ、それは断見である。法が『亦有亦無』ならば、二見の法になる。座主、どうか詳しく説いてみなさい。」 「このように問われると、どちらも説けません。」 師が言われた。「何をもって止観と言ったのか。」 ある人が質問した。「般若は大きいですか。」 師が言われた。「大きい。」 「どのくらい大きいですか。」 師が言われた。「果てしがない。」 「般若は小さいですか。」 師が言われた。「小さい。」 「どのくらい小さいですか。」 師が言われた。「見ることができない。」 「どこに在るのですか。」 師が言われた。「どこに在らないというのか。」 維摩座主が質問した。「経に、『諸菩薩がそれぞれ不二法門に入るのに、維摩は黙然としていた』とありますが、これは究竟ですか。」 師が言われた。「まだ究竟ではない。聖意がもし尽きているなら、第三巻でさらに何を説くのか。」 座主はしばらくして言った。「どうか禅師が、未究竟の意味を説いてください。」 師が言われた。「経の第一卷は、衆を引き連れて十大弟子の心を呵するためである。第二は、諸菩薩がそれぞれ不二法門に入ることを説く。言葉をもって無言を顕す。文殊は無言をもって無言を顕す。維摩は言葉をもってせず、無言をもってもせず、だから黙然とした。前の言語を収めるためである。第三卷は、黙然から起って説き、また神通の働きを顕す。座主、分かるか。」 「不思議なことです。」 師が言われた。「まだそのようなものではない。」 「なぜですか。」 師が言われた。「これはただ人の執着を破るために、このように説いたまでだ。経の意によって言えば、ただ色と心が空寂であることを説いて、本性を見させるだけである。偽りの行いを捨てて真の行いに入らせるのだ。言葉や文字や紙や墨の上に意味を求めてはいけない。ただ『浄名』の二字を会得すればよい。『浄』とは本体である。『名』とは迹用である。本体から迹用が起こり、迹用から本体に帰する。体と用は二つでなく、本と迹も別ではない。だから古人は言った。『本と迹は異なるが、不思議にして一である』と。一もまた一ではない。もし『浄名』の二字が仮の名であることを知れば、さらに何を究竟と不究竟と言うのか。前もなく後もなく、本でもなく末でもなく、浄でもなく名でもない。ただ衆生の本性の不思議な解脱を示すだけである。もし見性しない人は、終身この理を見ることはない。」 僧が質問した。「万物はすべて空であり、識性もまた同様です。たとえば水の泡は、一度散れば再び合わさることがなく、身が死ねば再び生まれることがない。これが空無です。どこにさらに識性があるのでしょうか。」 師が言われた。「泡は水によってある。泡が散っても、水が無くなるわけではない。身は性によって起こる。身が死んでも、性が滅したと言えるか。」 「『性がある』と言うのなら、出して見せてください。」 師が言われた。「あなたは明日があると信じるか。」 「信じます。」 師が言われた。「では明日を出して見せなさい。」 「明日は確かにありますが、今のところ得ることはできません。」 師が言われた。「明日が得られないのは、明日が無いということではない。あなたが自分で性を見ないだけであって、性が無いということではない。今、着衣し食事し、行住坐臥している、まさに目の前にありながら識らない。まさに愚かで迷っていると言うべきだ。あなたが明日を見たいと思うなら、今日と異なることはない。性をもって性を求めれば、万劫経ってもとうてい見ることはない。あたかも盲人が太陽を見ないからといって、太陽が無いわけではないのと同じだ。」 青龍疏を講じる座主が質問した。「経に、『説くべき法がなければ、これを説法という』とあります。禅師はどう理解されますか。」 師が言われた。「般若の体はついに清らかで、一つの物も得るものがない。これを『無法』という。すなわち般若の空寂の体の中に、河沙の用を具えている。すなわち、知らないことがない。これを『説法』という。だから『説くべき法がなければ、これを説法という』と言うのだ。」 華厳を講じる座主が質問した。「禅師は、無情が仏であると信じますか。」 師が言われた。「信じない。もし無情が仏であるなら、生きている人は死んだ人に劣るはずだ。死んだ驢馬や死んだ犬も、生きている人に勝るはずだ。経に言う。『仏身とは、すなわち法身である。戒・定・慧から生じ、三明・六通から生じ、一切の善法から生じる』と。もし無情が仏だと説くなら、大徳は今すぐ死んで仏になるべきだ。」 ある法師が質問した。「般若経を持てば最も多くの功徳があると言いますが、禅師は信じますか。」 師が言われた。「信じない。」 「それなら、霊験伝十余巻はすべて信ずるに足りないのですか。」 師が言われた。「生きている人が孝を持てば、自然に感応がある。白骨に感応があるのではない。経は文字・紙・墨であって、性は空である。どこに霊験があろうか。霊験は持経する人が心を用いるところにある。だから神通が物に感じるのだ。一卷の経を案の上に置いてみなさい。誰も受け持たなければ、自然に霊験があるだろうか。」 僧が質問した。「一切の名相や法相、語と默とを、どう通会すれば前後がないようになるのですか。」 師が言われた。「一念が起こる時、もともと相もなく名もない。どうして前後があると言えるか。名相が本淨であることを了知せずに、あれこれ前後があると妄計する。名相は関鍵である。智慧の鑰でなければ開くことができない。中道という者は中道に病む。二辺という者は二辺に病む。現在の用が、比類のない法身であることを知らない。迷悟・得失は、常人の法である。自ら生滅を起こして、正智を埋没させる。あるいは煩悩を断じようとし、あるいは菩提を求めようとする。般若波羅蜜に背いている。」 ある人が質問した。「律師はなぜ禅を信じないのですか。」 師が言われた。「理は幽かで顕し難く、名相は易しく持ちやすい。見性しない者は、だから信じないのだ。もし見性した者を仏と名づける。仏を知る者が、はじめて信じて入ることができる。仏は人から遠くないのに、人が仏から遠ざかっている。仏は心が作るものだ。迷っている人は文字の中に求める。悟った人は心に向かって覚る。迷っている人は因を修めて果を待つ。悟った人は心に相のないことを了知する。迷っている人は物に執着して我を守り己とする。悟った人は般若の応用を目の前に見る。愚者は空に執着し有に執着して滞りを生じる。智者は性を見て相を了知し、靈通である。乾慧の弁者は口が疲れる。大智の体了は心が安らかである。菩薩は物に触れてすべて照らす。声聞は境を怖れて心を昧くする。悟った者は日用に生がない。迷った者は目の前に仏がいても隔てられる。」 ある人が質問した。「どうすれば神通を得られますか。」 師が言われた。「神性は靈通で、河沙の世界に遍く及ぶ。山河・石壁、去来に障害がない。刹那に万里を行き来して蹤跡がない。火は焼くことができず、水は溺れさせることができない。愚人は自ら心の智慧がなく、四大が空に飛ぶことを望む。経に言う。『相を取る凡夫には、機に随って説く』と。心に形相がない。すなわち微妙な色身である。相がない。すなわち実相である。実相の体は空であり、虚空無辺身と呼ぶ。万行の荘厳によって、功徳法身という。すなわちこの法身は万行の本である。用に随って名を立てる。実に言えば、ただ清浄な法身である。」 ある人が質問した。「一心に道を修めれば、過去の業障は消滅しますか。」 師が言われた。「見性しない人は、まだ消滅しない。もし見性した人なら、太陽が霜や雪を照らすようなものだ。また見性した人は、積んだ草が須弥山のように多くても、ただ一つの星の火で焼き尽くすようなものだ。業障は草のようなものであり、智慧は火のようなものだ。」 「どうすれば業障が尽きたと知ることができますか。」 師が言われた。「目の前の心が通じて、前後の生のことを目の前で見るように知る。前の仏も後の仏も、万法が同時である。経に言う。『一念に一切の法を知るは、これ道場なり。一切の智を成就するによる』と。」 ある修行者が質問した。「どうすれば正法に住することができますか。」 師が言われた。「正法に住しようと求めることは、すなわち邪である。なぜか。法には邪も正もないからだ。」 「どうすれば仏になることができますか。」 師が言われた。「衆生の心を捨てる必要はない。ただ自性を汚さないようにしなさい。経に言う。『心と仏と衆生は、三つに差別がない』と。」 「このように解釈すれば解脱を得ますか。」 師が言われた。「もともと縛られることはないのだから、解脱を求める必要はない。法は言語文字を超えている。数句の中に求めてはならない。法は過去・現在・未来にない。因果の中で契ることはできない。法は一切を超えていて、対比することはできない。法身には形相がなく、物に応じて形を現す。世間を離れて解脱を求めるのではない。」 僧が質問した。「何が般若ですか。」 師が言われた。「あなたが『そうではない』と疑うのなら、それについて説いてみなさい。」 また質問した。「どうすれば見性できますか。」 師が言われた。「見ることがすなわち性である。性がなければ見ることはできない。」 また質問した。「どのように修行するのですか。」 師が言われた。「ただ自性を汚さないこと、これが修行である。自分を欺かないこと、これが修行である。大用が目の前に現れること、これが比類のない法身である。」 また質問した。「性の中に悪はありますか。」 師が言われた。「この中には善も立てない。」 「善も悪も立てないのなら、心をどこで用いるのですか。」 師が言われた。「心をもって心を用いるのは、大いなる顛倒である。」 「ではどうすればよいのですか。」 師が言われた。「『どうすれば』ということもなく、『これがそうだ』ということもない。」 ある人が質問した。「ある人が船に乗っていて、船底で螺や蜆を刺し殺しました。この人は罪を受けるのですか。それとも船が罪を負うのですか。」 師が言われた。「人も船も共に心がない。罪はまさにあなたにある。たとえば、暴風が木を折り命を損なうようなものだ。作者もなく受者もない。世界の中には、衆生が苦を受けるところでないものはない。」 僧が質問した。「情勢・境勢・語勢・默勢、さらには眉をあげ目を動かす勢など、どうすれば一念の間に通会できますか。」 師が言われた。「性の外に事はない。用を妙にする者は、動も寂もともに妙である。心が真実な者は、語も默もみな真実である。道を会得した者は、行住坐臥が道である。自性に迷うから、万の惑いがここに生じるのだ。」 また質問した。「法に宗旨はありますか。」 師が言われた。「その立つところに随って、さまざまな義がある。文殊は無住の本に於いて一切の法を立てる。」 「太虚と同じではありませんか。」 師が言われた。「あなたは太虚と同じになるのを怖れるか。」 「怖れます。」 師が言われた。「怖れることを解する者は、太虚と同じではない。」 また質問した。「言葉の及ばないところは、どうすれば解を得られますか。」 師が言われた。「あなたが今まさに説いている時、どこが及ばないと疑うのか。」 十数人の宿徳が一緒に質問した。「経に『破滅仏法』とありますが、仏法は破滅できるものなのでしょうか。」 師が言われた。「凡夫や外道は、仏法は破滅できると言う。二乗の人は、破滅できないと言う。私の正法の中には、この二つの見解はない。正法について言えば、凡夫や外道は言うまでもなく、仏地に至らない二乗もまた悪人である。」 また質問した。「真法・幻法・空法・非空法には、それぞれ種性がありますか。」 師が言われた。「法には種性がないが、物に応じてすべて現れる。心が幻なら、すべてが幻である。もし一つの法でも幻でないものがあれば、幻には定まったものがあることになる。心が空なら、すべてが空である。もし一つの法でも空でなければ、空の義は成立しない。迷っている時は人は法を追う。悟った時は法は人に由る。たとえば、森羅万象は空に至って極まる。百川の衆流は海に至って極まる。一切の賢聖は仏に至って極まる。十二分経・五部毘尼・五圍陀論は、心に至って極まる。心は総持の妙本であり、万法の洪源である。また大智慧蔵・無住涅槃とも名づける。百千万の名は、すべて心の異号にすぎない。」 また質問した。「幻とは何ですか。」 師が言われた。「幻には定まった相がない。火を回す輪のようなもの、乾闥婆の城のようなもの、からくり人形のようなもの、陽炎のようなもの、空華のようなものだ。すべて実法ではない。」 また質問した。「何を大幻師と名づけますか。」 師が言われた。「心を大幻師と名づける。身を大幻城とする。名相を大幻の衣食とする。河沙の世界に、幻の外の事はない。凡夫は幻を識らず、あらゆるところで幻業に迷う。声聞は幻境を怖れて心を昧くして寂に入る。菩薩は幻法を識って、体が幻であることを達し、一切の名相にとらわれない。仏は大幻師であり、大幻の法輪を転じ、大幻の涅槃を成ずる。幻の生滅を転じて、不生不滅を得る。河沙の穢土を転じて、清浄な法界を成ずる。」 僧が質問した。「なぜ経を誦することを許さず、『客語』と呼ぶのですか。」 師が言われた。「鸚鵡がただ人の言葉を学んで、人の意を得ないようなものだ。経は仏意を伝えるものである。仏意を得ずにただ誦するのは、言葉を学ぶ人である。だから許さないのだ。」 「では文字や言葉を離れて、別に意があるのですか。」 師が言われた。「あなたがそのように言うのも、また言葉を学んでいることになる。」 「同じ言葉なのに、なぜ偏に許さないのですか。」 師が言われた。「あなたは今まさに聴きなさい。経に明文がある。私の説くところは義語であって文ではない。衆生の説くところは文語であって義ではない。意を得た者は浮言を越える。理を悟った者は文字を超える。法は言語文字を超えている。どうして数句の中に求めるのか。だから菩提を発する者は意を得て言葉を忘れ、理を悟って教えを捨てる。魚を得て筌を忘れ、兎を得て蹄を忘れるのと同じである。」 ある法師が質問した。「念佛は有相の大乗です。禅師の意はどうですか。」 師が言われた。「無相でもまだ大乗ではない。まして有相においておや。経に言う。『相を取る凡夫には、機に随って説く』と。」 また質問した。「浄土に生まれたいと願いますが、実際に浄土はあるのですか。」 師が言われた。「経に言う。『浄土を得たいと欲するなら、まさにその心を浄くすべし。その心が浄ければ、すなわち仏土が浄し』と。もし心が清らかなら、いるところのすべてが浄土である。たとえば、王家に生まれれば、必ず王業を継ぐことが決まっているようなものだ。心を発して仏道に向かうことが、浄仏国に生まれることである。その心が浄くないならば、生まれるところはすべて穢土である。浄穢は心にあるのであって、国土にあるのではない。」 また質問した。「『道』と聞きますが、どのような人が見ることができますか。」 師が言われた。「慧眼のある者が見ることができる。」 「大乗がとても好きですが、どうやって学べばよいですか。」 師が言われた。「悟れば得る。悟らなければ得ない。」 「どうすれば悟ることができますか。」 師が言われた。「ただ静かに観なさい。」 「何に似ていますか。」 師が言われた。「何物にも似ない。」 「では、やはり畢竟空であるべきです。」 師が言われた。「空に畢竟はない。」 「では有であるべきです。」 師が言われた。「有であるが、相がない。」 「悟らなければどうなりますか。」 師が言われた。「大徳が自ら悟らないのであって、誰も妨げる者はいない。」 ある人が質問した。「仏法は三際の中にありますか。」 師が言われた。「現在には相がなく、その外にはない。応用は無限であり、内にはない。中間に住するところがなく、三際は得ることができない。」 「この言葉は非常に曖昧です。」 師が言われた。「あなたが今まさに『混』という一字を説いている時、内にも外にもあるか。」 「弟子が内外を探っても蹤跡がありません。」 師が言われた。「蹤跡がなければ、上の言葉が曖昧でないことが明らかだ。」 「どうすれば仏になれますか。」 師が言われた。「この心が仏であり、この心が仏を作る。」 「衆生が地獄に入るとき、仏性も入りますか。」 師が言われた。「今まさに悪を行っている時、さらに善があるか。」 「ありません。」 師が言われた。「衆生が地獄に入るのも、仏性もまた同じである。」 「一切衆生に仏性があるとはどういうことですか。」 師が言われた。「仏として用いるのが仏性である。賊として用いるのが賊性である。衆生として用いるのが衆生性である。性には形相がなく、用に随って名を立てる。経に言う。『一切の賢聖は、みな無為の法によって差別がある』と。」 僧が質問した。「何が仏ですか。」 師が言われた。「心を離れて、すなわち仏はない。」 「何が法身ですか。」 師が言われた。「心が法身である。万物を生ずることができるので、法界の身と号する。起信論に言う。『法というのは、衆生の心をいう。すなわちこの心によって摩訶衍の義を顕す』と。」 また質問した。「一微塵の中に大きな経巻があるとはどういうことですか。」 師が言われた。「智慧が経巻である。経に言う。『大きな経巻があり、その量は三千大千世界に等しい。一微塵の中に在る』と。一塵とは、一念の心の塵である。だから『一念の塵の中に河沙の偈を演説するが、時の人は自ら識らない』と言うのだ。」 また質問した。「何を大義城と言い、何を大義王と言うのですか。」 師が言われた。「身を大義城とし、心を大義王とする。経に言う。『多聞の者は義に善く、言説に善くない』と。言説は生滅する。義は生滅しない。義には形相がなく、言説の外にある。心を大経巻とし、心を大義王とする。もし心を明らかに識らないなら、義に善いとは言えない。ただ言葉を学ぶ人である。」 また質問した。「般若経に、『九類の衆生を度して、みな無余涅槃に入らせる』とあり、また『実に衆生を得滅度する者はない』とあります。この二つの経文をどう通会すればよいですか。前後の人はみな、『実際に衆生を度するが、衆生の相を取らない』と言いますが、常に疑って決しません。どうか師が説いてください。」 師が言われた。「九類の衆生は、一身に具足していて、造るに随って成ずる。だから、無明を卵生とし、煩悩に包まれるのを胎生とし、愛水に浸潤されるのを湿生とし、忽ち煩悩を起こすのを化生とする。悟ればすなわち仏であり、迷えば衆生と号する。菩薩はただ念念の心をもって衆生とする。もし念念の心の体が空であることを了知すれば、これを衆生を度すと名づける。智者は自分の本際の上で、まだ形のないものを度する。未形がすでに空であるなら、実に衆生を得滅度する者はないことを知る。」 僧が質問した。「言語は心ですか。」 師が言われた。「言語は縁であって、心ではない。」 「縁を離れて何が心ですか。」 師が言われた。「言語を離れて心はない。」 「言語を離れてすでに心がないなら、どうして心と言えるのですか。」 師が言われた。「心には形相がない。言語を離れるのでもなく、言語を離れないのでもない。心は常に湛然として、応用は自在である。祖師は言った。『もし心が心でないことを了知すれば、はじめて心心の法を解する』と。」 僧が質問した。「定慧等学とはどういうことですか。」 師が言われた。「定は体であり、慧は用である。定から慧が起こり、慧から定に帰する。水と波が一体であり、前後のないようなものだ。これを定慧等学と名づける。出家の児よ、言葉や文字を追い求めてはならない。行住坐臥、すべてがあなたの性の用である。どこが道と相応しないのか。しばらく休みなさい。もし外境の風に従わなければ、心性の水は常に湛然としている。何も問題はない。どうかお大事に。」