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title: "景德傳燈錄 · 杭州五雲和尚坐禪箴"
description: "景德传灯录由宋代高僧道原编纂，成书于景德年间（1004-1007年），是中国佛教禅宗重要史传类典籍。全书共三十卷，收录自释迦牟尼至五代末年的禅宗祖师1701人，以法脉传承为脉络，记录历代禅师的机缘语录、公案典故。作为现存最早的传灯体著作，该书系统记载了禅宗五家七宗的传承体系，保存了大量珍贵史料，对研究中国禅宗发展史具有不可替代的价值。景德传灯录与五灯会元并称为禅宗两大灯录，被后世奉为禅门经典，不仅影响了宋明理学的发展，更成为东亚禅佛教传播的重要文献依据。"
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### 杭州五雲和尚坐禪箴

> 杭州五雲和尚坐禅箴

坐不拘身禪非涉境。拘必乃疲涉則非靜。不涉不拘真光逈孤。六門齊應萬行同敷。嗟爾初機未達玄微。處沈隨掉能所支離。不有權巧胡為對治。驅策抑按均調惛亂。息慮忘緣乍同死漢。隨宜合開靡專壁觀達磨大師正付法眼外。委示初機修心之要。啟四門四行。匪專一也馳想頗多安那鉢那或掉舉猛利及惛住等。宜易觀修於數息。或出或入不得交互沿流劍閣無滯木鵝。如火得水如病得醫。病瘳醫罷火滅水傾。一念清淨體寂常靈。是靈是寂非靈非寂。是非迭生犯過無極。前滅後興還如步走。患乎不知知則無咎。日由背夜鏡奚照後。此則不然圓明通透。照而不緣寂而誰守。萬象瀛漚太虛閃電。摧壞魔宮衝倒佛殿。跛者得履瞽者發見。法界塵寰齊輪頓現。曠蕩郊𮠔或坐或眠。既明方便乃號金仙。吾雖強說爰符聖言。聖言何也要假重宣。不動不禪是無生禪。又云。若學諸三昧。是動非坐禪。心隨境界流。云何名為定。故知歷代祖。唯傳此一心。祖光既遠大。吾子幸堪任。聊述無言旨。乃曰坐禪箴。

> 坐禅は、身を拘束することではなく、対象に心を向けることでもない。拘束すれば必ず疲れ、対象に心を向ければ静かではない。拘束もなく対象もなければ、真の光ははるかにはなれて孤高である。六つの門がひとしく応じ、万の行がともに敷かれる。 ああ、初心の者よ、玄妙な微細さにまだ達していない。沈んだ状態に留まれば掉挙に従い、能と所とがばらばらになる。巧みな方便がなければ、どうして対治できようか。駆り立て押さえつけ、惛沈と散乱とを均しく調える。思いを息め縁を忘れれば、たちまち死人のようになる。機に応じて開いたり合わせたりし、ただ壁に向かって坐るばかりではない。 <note>達磨大師は正しい法眼を付すほかに、初心の者の心を修める要点を委しく示し、四門と四行を開いた。決して一つだけではない</note> 走る思いがたいへん多いときは、安那と鉢那、すなわち出入りの息を数える。あるいは掉挙が激しく、あるいは惛住などがあるときは、観を変えて数息に修めるのがよい。出息か入息か、どちらか一方にし、交互にしてはならない。流れに沿って剣閣を過ぎるにも、木鵞は滞らない。火が水を得たようであり、病が医を得たようである。病が癒えれば医はやめ、火が消えれば水は傾けられる。 一念が清浄で、体は寂として常に霊である。これが霊であり寂である。霊でもなく寂でもない。是と非とが交互に生じれば、過ちを犯すこと極まりない。前が滅し後が興るのは、歩いて行くようなものである。患いは知らないことにある。知れば咎はない。日は夜を背にしている。鏡はどうして後を照らそうか。この理はそうではない。円かに明らかに透き通っている。照らしても縁せず、寂として誰が守るのか。万象は海の泡、太虚は稲妻である。魔宮を摧き壊し、仏殿を衝き倒す。跛者は履を得、盲者は見ることができる。法界も塵寰も、ひとしく輪を転じてたちまち現れる。 広々とした郊野で、あるいは坐り、あるいは眠る。すでに方便を明らかにして、すなわち金仙と号する。私が無理に説くとはいえ、ここに聖言に符う。聖言とは何か。どうして重ねて宣べ伝える必要があろうか。 動かず坐禅しない、これが無生禅である。また云う、もし諸々の三昧を学ぶならば、これは動であり坐禅ではない。心が境界に随って流れるならば、どうして定と名づけられようか。ゆえに知る、歴代の祖師はただこの一心を伝えるのみである。祖の光はすでに大きく遠い。我が子よ、幸いにもよく任に堪える。しばらく無言の旨を述べて、すなわち坐禅箴と曰う。