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title: "阿毘達磨俱舍論 · 1"
description: "阿毘達磨俱舍論是印度佛教论师世亲尊者所造的重要论典，由唐代高僧玄奘翻译为中文。该论成书于公元5世纪左右，属于说一切有部的核心著作，系统阐述佛教教义，尤其是对法相、因果、轮回等核心概念进行精密分析。内容涵盖界品、根品、世间品、业品、随眠品、贤圣品、智品和定品八大部分，体系严谨。在佛教史上具有承前启后的地位，既总结部派佛教思想，又为大乘佛教奠定理论基础，被誉为小乘佛学百科全书，对汉传佛教和藏传佛教均产生深远影响。"
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### 分別業品第四之一

> 第四分別業品 その一

如前所說有情世間及器世間各多差別，如是差別由誰而生？頌曰：

> 先に述べたように、有情の世界と器の世界には、それぞれ多くの違いがあります。では、このような違いは、何によって生じるのでしょうか。

世別由業生， 思及思所作，思即是意業， 所作謂身語。

> 世の中の違いは、業（カルマ）から生じます。 その業には、思（意志）と思所作（意志によって行われる行為）とがあります。 思とは、心の働きである意業のことです。 思所作とは、身体と言葉による行為を指します。

論曰：非由一主先覺而生，但由有情業差別起。若爾，何故俱從業生？欝金栴檀等甚可愛樂，而內身形等與彼相違。以諸有情業類如是，若造雜業感內身形，於九瘡門常流不淨。為對治彼，感外具生色香味觸甚可愛樂。諸天眾等造純淨業，故彼所招二事俱妙。此所由業其體是何？謂心所思及思所作。故契經說：有二種業，一者思業、二思已業，思已業者謂思所作。如是二業分別為三，謂即有情身、語、意業。如何建立此三業耶？為約所依、為據自性、為就等起？縱爾何違？若約所依應唯一業，以一切業並依身故。若據自性應唯語是業，以三種中唯語即業故。若就等起亦應唯一業，以一切業皆意等起故。毘婆沙師說立三業，如其次第由上三因。然心所思即是意業，思所作業分為身、語二業，是思所等起故。身語二業自性云何？頌曰：

> 論じて曰く、一つの主宰者が先に悟って生じさせたのではなく、ただ有情の業の差別によって生じるのである。もしそうであれば、なぜ同じく業から生じるのに、鬱金や栴檀などは非常に愛好すべきものであり、一方、内なる身形などはそれとは相反するのか。それは、有情の業の種類がそのようなものであるからである。もし雑多な業を造れば、内なる身形を感得し、九つの瘡門から常に不浄を流す。それに対治するために、外なる道具を感得させ、色・香・味・触が非常に愛好すべきものとして生じる。天の衆などは純粋な清らかな業を造るがゆえに、彼らが招く二つのものは共に優れている。この業のよりどころとなるものの体とは何か。それは心に思うこと、および思ってなしたことである。ゆえに経典には「二種の業がある。一には思業、二には思已業である。思已業とは思ってなしたことをいう」と説かれている。このような二業をさらに分けて三つとする。すなわち有情の身業・語業・意業である。どのようにしてこの三業を建立するのか。よりどころに沿ってなすのか、自性に基づくのか、等起によってなすのか。たとえそうであっても、何の矛盾があろうか。もしよりどころに沿えば、一つの業のみとなるべきである。なぜなら、すべての業は身に依って起こるからである。もし自性に基づけば、語のみが業であるべきである。なぜなら、三つのうち語のみがそのまま業であるからである。もし等起によってなせば、これもまた一つの業のみとなるべきである。なぜなら、すべての業は意によって等起されるからである。毘婆沙師は三業を立てると説く。その順序の通り、上述の三つの因による。しかし、心に思うことはすなわち意業であり、思ってなした業は身業と語業の二つに分けられる。それは思によって等起されるからである。身業と語業の自性はどのようなものか。偈頌に曰く、

此身語二業， 俱表無表性。

> この身体と言葉の二つの行為は、いずれも顕れた行為と、それに伴う目に見えない潜在的な性質を併せ持つ。

論曰：應知如是所說諸業中，身語二業俱表無表性。且身語表其相云何？頌曰：

> 論じて曰く、このように説かれた諸々の業の中において、身と語の二つの業には、ともに表業と無表業の性質があると知るべきである。では、身表と語表のその相（すがた）とはどのようなものか。偈頌に曰く、

身表許別形， 非行動為體，以諸有為法， 有剎那盡故。應無無因故， 生因應能滅，形亦非實有， 應二根取故，無別極微故， 語表許言聲。

> 身体による表現は、ただ形状が異なるだけであり、動作そのものを本体とするものではありません。 なぜなら、すべての現象（有為法）は一瞬ごとに生滅し、すぐに消え去るからです。 もし動作が存在しないなら、その原因もないことになり、原因があって初めて作用を生じ、そして滅することができるのです。 また、形状も実在するものではありません。なぜなら、それは二つの感覚器官（例えば、目と手）で捉えられるからです。 さらに、極微の実体が別に存在するわけでもありません。 言葉による表現は、単に声（音声）であると認められます。

論曰：由思力故，別起如是如是身形，名身表業。有餘部說：動名身表，以身動時由業動故。為破此故，說非行動，以一切有為皆有剎那故。剎那何謂？得體無間滅，有此剎那法，名有剎那，如有杖人名為有杖。諸有為法纔得自體，從此無間必滅歸無。若此處生即此處滅，無容從此轉至餘方，故不可言動名身表。若有為法皆有剎那，不至餘方義可成立。諸有為法皆有剎那，其理極成後必盡故，謂有為法滅不待因。所以者何？待因謂果，滅無非果，故不待因。滅既不待因，纔生已即滅。若初不滅，後亦應然，以後與初有性等故。既後有盡，知前有滅。若後有異方可滅者，不應即此而名有異。即此相異，理必不然。豈不世間現見薪等，由與火合故致滅無？定無餘量過現量者，故非法滅皆不待因。如何知薪等，由火合故滅？以薪等火合，後便不見故。應共審思，如是薪等，為由火合滅故不見？為前薪等生已自滅，後不更生無故不見，如風手合燈焰鈴聲？故此義成應由比量。何謂比量？謂如前說，滅無非果故不待因。又若待因薪等方滅，應一切滅無不待因，如生待因，無無因者。然世現見覺焰音聲，不待餘因剎那自滅，故薪等滅亦不待因。有執覺聲前因後滅。彼亦非理，二不俱故。疑智苦樂及貪瞋等，自相相違理無俱義。若復有位明了覺聲無間便生不明了者，如何同類不明了法能滅明了同類法耶？最後覺聲復由誰滅？有執燈焰滅，以住無為因。有執焰滅時，由法非法力。彼俱非理，無非因故。非法非法為生滅因，以剎那剎那順違相反故。或於一切有為法中，皆可計度有此因義。既爾，本諍便應止息，許不待餘因皆有剎那故。又若薪等滅，火合為因，於熟變生中有下中上，應生因體即成滅因。所以者何？謂由火合能令薪等有熟變生，中上熟生、下中熟滅。或即或似生上中因，即能為因滅下中熟，則生因體應即滅因。或滅生因應相無別，不應由即此，或似此彼有，彼復由即此，或似此非有。設於火焰差別生中，容計能生能滅因異；於灰雪酢日水地合能令薪等熟變生中，如何計度生滅因異？若爾，現見煎水減盡，火合於中為何所作？由事火合火界力增，由火界增能令水聚於後後位生漸漸微，乃至最微後便不續，是名火合於中所作。故無有因令諸法滅，法自然滅，是壞性故。自然滅故，纔生即滅。由纔生即滅，剎那滅義成。有剎那故定無行動，然於無間異方生中，如燒草焰行，起行增上慢。既由斯理行動定無，身表是形理得成立。然經部說：形非實有，謂顯色聚一面多生即於其中假立長色，待此長色於餘色聚一面少中假立短色，於四方面並多生中假立方色，於一切處遍滿生中假立圓色，所餘形色隨應當知。如見火㷮於一方面無間速運便謂為長，見彼周旋謂為圓色，故形無實別類色體。若謂實有別類形色，則應一色二根所取，謂於色聚長等差別，眼見身觸俱能了知，由此應成二根取過。理無色處二根所取。然如依觸取長等相，如是依顯能取於形，豈不觸形俱行一聚？故因取觸能憶念形，非於觸中親取形色。如見火色便憶火煖，及嗅花香能念花色，此中二法定不相離，故因取一可得念餘。無觸與形定不相離，如何取觸能定憶形？若觸與形非定同聚，然由取觸能憶念形，顯色亦應因觸定憶，或應形色如顯無定，則取觸位應不了形。而實不然，故不應說因取於觸能憶念形。或錦等中見多形故，便應一處有多實形。理不應然，如眾顯色，是故形色非實有體。又諸所有有對實色，必應有實別類極微。然無極微名為長等，故即多物如是安布差別相中假立長等。若謂即以形色極微如是安布名為長等，此唯朋黨，非極成故。謂若形色有別極微自相極成，可得聚集如是安布以為長等。非諸形色有別極微自相極成猶如顯色，云何得有聚集安布？豈不現見諸土器等，有顯相同而形相異？為不已辯即於多物安布差別假立長等，如眾蟻等有相不殊，然有行輪安布形別。形依顯等理亦應然。豈不闇中或於遠處觀杌等物了形非顯，寧即顯等安布為形，以闇遠中觀顯不了，是故但起長等分別。如於遠闇觀眾樹人，但了行軍不知別相，理必應爾，以或有時不了顯形唯知總聚。既已遮遣行動及形，汝等經部宗立何為身表？立形為身表，但假而非實。既執但用假為身表，復立何法為身業耶？若業依身立為身業，謂能種種運動身思，依身門行故名身業。語業意業隨其所應，立差別名當知亦爾。若爾，何故契經中說有二種業：一者思業、二思已業。此二何異？謂前加行起思惟思，我當應為如是如是所應作事名為思業。既思惟已起作事思，隨前所思作所作事，動身發語名思已業。若爾，表業則為定無。表業既無，欲無表業亦應非有，便成大過。如是大過有理能遮，謂從如前所說二表，殊勝思故起思差別，名為無表。此有何過？此應名為隨心轉業，如定無表心俱轉故。無如是過，審決勝思、動發勝思所引生故。設許有表，亦待如前所說思力，以性鈍故。毘婆沙師說：形是實故，身表業形色為體，語表業體謂即言聲，無表業相如前已說。經部亦說：此非實有，由先誓限唯不作故。彼亦依過去大種施設，然過去大種體非有故，又諸無表無色相故。毘婆沙說：此亦實有。云何知然？頌曰：

> 論じていわく、思の力によって、このような、かような身形を別に生じさせること、これを「身表業」と名づける。ある部派の説では、動きを身表と名づけ、身が動くときは業によって動くからである、と。このことを破するために、「行動にあらず」と説く。すべての有為は刹那を有するからである。刹那とは何をいうか？体を得て間なく滅する、この刹那ある法を、有刹那と名づける。杖ある人を有杖と名づけるがごとし。すべての有為法は、ただちに自己の体を得て、このことから間なく必ず滅し去って無に帰する。もしこのところに生ずれば、すなわちこのところに滅し、ここから他方に転じて至るということはありえない。ゆえに、「動きを身表と名づく」とは言うべからざることである。もし有為法がすべて刹那を有するならば、余方に至らざるという義は成立しうる。すべての有為法は刹那を有すること、その理は極めて成立しており、後に必ず尽きるからである。すなわち有為法の滅は因を待たずということをいう。なぜか？因を待つというのは果であるが、滅は無であって果ではないから、因を待たないのである。滅はすでに因を待たないゆえ、まさに生じてすぐに滅する。もし初めに滅せずんば、後もまたしかるべし。後と初めとは性を同じくするからである。すでに後に尽きることあり、ゆえに前に滅することあるを知る。もし後に異なることありて、しかる後に滅しうるならば、この同じものが異なるということは、理として必ずしもそうではないではないか。どうして世間において現に見る薪などが、火と合することによって滅無に至ることを見ないのか？必ず現量に過ぐる他の量はない。ゆえにすべての法の滅が皆、因を待たないわけではない。いかにして薪などは、火と合することによって滅することを知るのか？薪などが火と合した後に、見えなくなるからである。ともに考えよ。かかる薪などは、火と合するがゆえに滅して見えなくなるのか？それとも、前の薪などが生じて自ら滅し、後にさらに生ぜず、無であるがゆえに見えなくなるのか？風と手とが合する灯焔や鈴の声のごとくに。ゆえにこの義は、比量によって成立すべきである。何を比量というのか？先に説くように、滅は無であって果ではないから因を待たない、というのがこれである。またもし因を待って薪などがはじめて滅するならば、すべての滅は因を待たざるものなく、生が因を待つがごとく、因なきものはないべきである。しかし世間において現に見る、覚・焔・音声などは、他の因を待たず刹那に自ら滅する。ゆえに薪などの滅もまた因を待たないのである。ある者は執して、覚・声は前因によって後に滅す、という。それもまた理にあらず。二つは倶にせざるからである。疑・智・苦・楽および貪・瞋などは、自相が相違して、倶になるという義がない。もしさらに位あって、明らかなる覚・声より無間に、不明瞭なるものが生ずるとするならば、いかにして同類の不明瞭なる法が、明瞭なる同類の法を滅しうるのか？最後の覚・声は、また誰によって滅せられるのか？ある者は執して、灯焔の滅は、住・無為を因とす、という。ある者は執して、焔の滅する時は、法・非法の力による、という。それらはいずれも理にあらず。無は因なきがゆえに非なるものである。法・非法が生・滅の因となることはなく、刹那刹那において順・違が相違するからである。あるいはすべての有為法の中において、みなこの因の義を計度することができる。そうであるならば、もともとの論争はやむべきである。他の因を待たず、すべて刹那を有することを許すからである。またもし薪などの滅は、火と合することを因とするならば、熟変の生ずる中において、下・中・上あり、生因の体はすなわち滅因となるべきである。なぜか？火と合することによって、薪などに熟変を生ぜしめ、中・上の熟生、下・中の熟滅を生ずる。あるいはすなわち、あるいは似て、生の上・中の因は、すなわち因となりて滅の下・中の熟をなす。すなわち生因の体はまさに滅因となるべきである。あるいは滅・生の因は、その相に別なく、よってこの同じもの、あるいはこの似たるものによって、かの有が有り、またこの同じもの、あるいはこの似たるものによって、かの有が非有となるべきではない。もし火焔の差別の生の中において、かりに能生・能滅の因の異なることを計度することを許すならば、灰・雪・酢・日・水・地の合によって、薪などに熟変の生ずる中において、いかにして生・滅の因の異なることを計度するのか？もしそうであるならば、現に見る煎水の減じ尽くるは、火との合がその中において何を作すのか？事火との合によって火界の力が増し、火界の増することによって、水聚をして後後位において次第に生ずること漸く微ならしめ、乃至最微にして後に相続せず。これを火との合の、中の所作と名づく。ゆえに諸法を滅する原因はなく、法は自然に滅す。これ壊性であるがゆえに。自然に滅するがゆえに、まさに生じてすぐに滅す。まさに生じてすぐに滅するがゆえに、刹那滅の義は成る。刹那ありとすれば、行動は必ず無い。しかるに間なく異方に生ずる中において、草を焼く焔の行くがごとく、行くという増上慢を起こす。すでにこの理によって行動は必ず無しとせば、身表は形なりという理が成立する。しかしながら経部は説く、形は実有にあらず、すなわち顕色聚の一面に多く生ずることを、すなわちその中に仮に長色を立て、この長色を待ちて、他の色聚の一面に少なく生ずる中に仮に短色を立て、四方面に並び多く生ずる中に仮に方色を立て、一切の処に遍く満ちて生ずる中に仮に円色を立てる。余の形色もまた随いて当に知るべし。火のまわりのまわるのを見て、一方において間なく速やかに運ばるることを見て、すなわちこれを長と謂い、それの周旋するを見て円色と謂うがごとし。ゆえに形は実に別類の色体にあらず。もし実に別類の形色ありと謂うならば、すなわち一つの色を二根が取るべきである。すなわち色聚における長等の差別を、眼に見、身に触れ、倶に了知することを得。これによって二根の取の過失を成すべきである。理として、色処にあって二根が取るところなることなし。しかしながら触に依って長等の相を取るがごとく、このように顕に依って形を取ることができる。どうして触と形とが倶に一つの聚をば行ぜざるのか。ゆえに触を取ることに因って、形を憶念する。触の中において親しく形色を取るにあらず。火の色を見て火の煖を憶い、花の香を嗅ぎて花の色を念ずるがごとし。この中に二法は必ず相離れず、ゆえに一を取ることに因って、一を念ずることを得る。触と形とが必ず相離れずということはなし。いかにして触を取って、形を定めて憶念することを得るのか？もし触と形とが定めて同じ聚にあらずとも、しかも触を取ることに因って形を憶念することを得るならば、顕色また因って触を以て定んで憶念すべきである。あるいは形色は顕のごとく定无ならば、触を取る位において形を了せざるべきである。しかして実にはそうではない。ゆえに「触を取ることに因って形を憶念す」というべからず。あるいは錦などの中に多形を見るがゆえに、すなわち一処に多実形あるべきである。理としてしかるべからず、衆顕色のごとし。ゆえに形色は実有の体にあらず。またすべて有対の実色は、必ず実に別類の極微あるべきである。しかるに極微にして長等と名づくるものなし。ゆえにすなわち多くの物の、このように安布する差別の相の中に、仮りに長等を立てるのである。もしすなわち、形色の極微をもってこのように安布して長等と名づくというならば、これはただ朋党のみであって、極めて成るにあらざるからである。すなわち、もし形色に別の極微の自相が極めて成り、よって聚集してこのように安布して長等となすことを得るというならば、諸の形色には別の極微の自相が顕色のごとく極めて成ることなし。いかでか聚集安布することを得るのか？どうして現に見る、諸の土器などに、顕相同にして、しかも形相異なることを見ないのか？すでに弁じたにあらずや。すなわち多物における安布の差別に、仮りに長等を立てること、衆の蟻などが相は殊ならずと雖も、しかも行輪の安布する形別あるがごとし。形は顕等に依る。理もまたしかるべきである。どうして暗の中、あるいは遠き処において、杌などの物を観て形を了して、顕を了せざることなかろうか。すなわち顕等の安布を形と為すにあらずや。暗遠の中においては、顕を観るに明らかならず、是の故にただ長等の分別を起こす。遠暗の中において樹人を観る衆のごとく、ただ軍の行くことを了して、別相を知らず。理として必ずしかるべきである。ある時には、顕・形を了せず、ただ総聚のみを知ることがあるからである。すでに行動及び形を遮遣したる以上、汝ら経部の宗は何を立って身表と為すのか？形を立て身表と為すも、ただ仮であって実ではない。すでに執してただ仮を用いて身表と為す。さらに何の法を立てて身業と為すのか？もし業が身に依って立てられて身業と為されるならば、すなわち、能く種種に身を運動する所の思を、身の門に依って行ずるが故に、身業と名づくというべし。語業・意業も、其の所応に随い、差別の名を立てて当に知るべし、また爾なり。もし爾ならば、何故に契経の中に二種の業ありと説くのか？一には思業、二には思已業と。この二つは何を以て異なるのか？謂く、前の加行において思惟の思を起こして、我れ当に如是如是の所応作の事を作すべしと、これを思業と名づくる。既に思惟したる後、作事の思を起こし、前に思う所に随って作所作の事を作し、身を動かし語を発するを、思已業と名づくる。もし爾ならば、表業は則ち定めて無し。表業既に無くんば、無表業もまた応に非有なるべし。便ち大過を成す。かくの如き大過は、理ありて能く遮す。謂く、前に説く所の二表より、殊勝の思の故に思の差別を起こし、無表と名づく。これに何の過あらんや？これは応に心に随って転ずる業と名づくべし、定の無表が心と倶に転ずるが如くなる故に。かくの如き過無し。審決の勝思、動発の勝思に引かれて生ずるが故に。仮に表有りと許すも、また前に説く所の思の力を待つ。性の鈍なるが故に。毘婆沙師は説く、形は実なるが故に、身表業は形色を体と為す。語表業の体は即ち言声なり。無表業の相は前に已に説くがごとし。経部もまた説く、これは実有にあらず。先の誓限によって、唯だ作らざることのみに因る故に。彼もまた過去の大種に依って施設す。しかるに過去の大種は体として非有なるが故に、また諸の無表は無色の相なるが故に。毘婆沙は説く、これもまた実有なり。云何して知るや？頌に曰く、

說三無漏色， 增非作等故。

> 三つの無漏の色を説くのは、 不作などの働きを加えるからである。

論曰：以契經說色有三種，此三為處攝一切色：一者有色有見有對、二者有色無見有對、三者有色無見無對。又契經中說有無漏色，如契經說：無漏法云何？謂於過去未來現在諸所有色不起愛恚，乃至識亦然。是名無漏法。除無表色，何法名為無見無對及無漏色？又契經說有福增長，如契經言：諸有淨信，若善男子或善女人，成就有依七福業事，若行若住若寐若覺，恒時相續，福業漸增福業續起，無依亦爾。除無表業，若起餘心或無心時，依何法說福業增長？又非自作，但遣他為，若無無表業，不應成業道。以遣他表非彼業道攝，此業未能正作所作故、使作所作已、此性無異故。又契經說：苾芻當知，法謂外處。是十一處所不攝法無見無對，不言無色。若不觀於法處所攝無表色者，此言闕減便成無用。又若無無表，應無八道支，以在定時語等無故。若爾，何故契經中言：彼如是知、彼如是見，修習正見、正思惟、正精進、正念、正定皆至圓滿。正語、業、命先時已得清淨鮮白，此依先時已得世間離染道說，無相違過。又若撥無無表色者，則亦應無有別解脫律儀，非受戒後有戒相續，雖起異緣心而名苾芻等。又契經說：離殺等戒名為隄塘戒，能長時相續堰遏犯戒過故。非無有體可名隄塘。由此等證知，實有無表色。經部師說：此證雖多種種希奇，然不應理。所以然者？所引證中且初經言有三色者，瑜伽師說：修靜慮時定力所生定境界色，非眼根境故名無見、不障處所故名無對。若謂既爾，如何名色釋如是難與無表同？又經所言無漏色者，瑜伽師說：即由定力所生色中，依無漏定者即說為無漏。有餘師言：無學身色及諸外色皆是無漏，非漏依故得無漏名。何故經言有漏法者諸所有眼乃至廣說？此非漏對治故得有漏名，是則此應言有漏亦無漏。若爾，何過？有相雜失。若依此理說為有漏，曾不依此說為無漏。無漏亦然，有何相雜？若色處等一向有漏，此經何緣差別而說？如說有漏有取諸色心栽覆事，聲等亦爾。又經所說福增長言，先軌範師作如是釋：由法爾力福業增長，如如施主所施財物。如是如是受者受用，由諸受者受用施物，功德攝益有差別故。於後施主心雖異緣，而前緣施思所熏習，微細相續漸漸轉變差別而生，由此當來能感多果。故密意說，恒時相續福業漸增福業續起。若謂如何由餘相續德益差別令餘相續心雖異緣而有轉變？釋此疑難與無表同。彼復如何由餘相續德益差別令餘相續別有真實無表法生？若於無依諸福業事如何相續福業增長，亦由數習緣彼思故，乃至夢中亦恒隨轉。無表論者於無依福既無表業，寧有無表？有說：有依諸福業事，亦由數習緣彼境思，故說恒時相續增長。若爾，經說：諸有苾芻具淨尸羅成調善法，受他所施諸飲食已，入無量心定身證具足住。由此因緣應知施主無量福善滋潤相續，無量安樂流注其身。施主爾時福恒增長，豈定常有緣彼勝思？是故所言思所熏習微細相續漸漸轉變差別而生，定為應理。又非自作但遣他為業道如何得成滿者，應如是說：由本加行，使者依教所作成時，法爾能令教者微細相續轉變差別而生，由此當來能感多果。諸有自作事究竟時，當知亦由如是道理。應知即此微細相續轉變差別名為業道，此即於果假立因名，是身語業所引果故。如執別有無表，論宗無表亦名身語業道。然大德說：於取蘊中由三時起思，為殺罪所觸，謂我當殺正殺殺已。非但由此業道究竟，勿自母等實未被害，由謂已害成無間業。然於自造不誤殺事，起如是思，殺罪便觸。若依此說非不應理，何於無表偏懷憎嫉定撥為無，而許所熏微細相續轉變差別？然此與彼俱難了知，今於此中無所憎嫉，然許業道是心種類，由身加行事究竟時，離於心身於能教者身中別有無表法生，如是所宗不令生喜。若由此引彼加行生事究竟時，即此由彼相續轉變差別而生，如是所宗可令生喜。但由心等相續轉變差別，能生未來果故。又先已說。先說者何？謂表業既無，寧有無表等。又說法處不言無色，由有如前所說定境無見無對法處攝色。又言道支應無八者，且彼應說正在道時，如何得有正語業命？為於此位有發正言、起正作業求衣等不？不爾，云何由彼獲得如是種類無漏無表，故出觀後由前勢力能起三正不起三邪，以於因中立果名故，於無表立語業命名。若爾，云何不受此義？雖無無表而在道時，獲得如斯意樂依止，故出觀後由前勢力，能起三正不起三邪。以於因中立果名故，可具安立八聖道支。有餘師言：唯說不作邪語等事以為道支，謂在定時由聖道力，便能獲得決定不作。此定不作，依無漏道而得安立，故名無漏，非一切處要依真實別有法體方立名數。如八世法，謂得、不得及與毀、譽、稱、譏、苦、樂。非此不得衣食等事別有實體，此亦應然。別解脫律儀亦應准此，謂由思願力先立要期，能定遮防身語惡業，由斯故建立別解脫律儀。若起異緣心應無律儀者，此難非理，由熏習力欲起過時憶便止故。戒為隄塘義亦應准此，謂先立誓限定不作惡，後數憶念慚愧現前，能自制持令不犯戒。故隄塘義由心受持，若由無表能遮犯戒，應無失念而破戒者。且止此等眾多諍論。毘婆沙師說有實物名無表色，是我所宗。前說無表大種所造性，為表大種造、為有異耶？頌曰：

> \*\*論曰：\*\* 経典に「色には三種がある。この三種が、あらゆる色を包含する場所である」と説かれています。すなわち、第一に「見ることができ、障礙のある色」、第二に「見ることができず、障礙のある色」、第三に「見ることができず、障礙のない色」です。 また、経典には「無漏の色」があるとも説かれています。例えば、「無漏の法とは何か。過去・未来・現在のあらゆる色に対して、愛着も怒りも生じないこと、さらには認識（識）についても同様である。これを無漏の法と名づける」とあります。 そこで、もし「無表色」というものを除くならば、何が「見ることができず、障礙がなく、無漏である色」と呼ばれるのでしょうか。 また、経典には「福徳が増大する」と説かれています。例えば、「清らかな信仰を持つ善男子・善女人が、依り所のある七つの福徳の業を成就すれば、歩いているときも、止まっているときも、眠っているときも、目覚めているときも、常に途切れることなく、福徳の業は徐々に増大し、続いて生じる。依り所のない場合も同様である」とあります。 もし「無表業」というものがなく、他の心が生じたり、心が無くなったりしたときに、何に基づいて「福徳の業が増大する」と言えるのでしょうか。 さらに、もし自ら実行せず、他人に命じて行わせた場合、もし「無表業」がなければ、業道としては成立しません。なぜなら、他人に命じるという表業は、その業道には含まれないからです。それは、その業が本来なすべきことを正しく行っていないからであり、また、命じられた人がそのことを実行した後も、その本質は変わらないからです。 また、経典には「比丘たちよ、知るがよい。法とは、外なる対象（外処）である。これは十一の処に含まれず、見ることができず、障礙もない。ただし、『無色』とは言わない」とあります。もし、法処に含まれる「無表色」を認めなければ、この言葉は欠けており、無意味なものとなってしまいます。 もし「無表色」がなければ、「八つの聖なる道の支分（八正道）」も存在しないはずです。なぜなら、禅定の状態にあるときは、言葉などの正しい行為（正語・正業・正命）は実際には行われないからです。 もしそうなら、なぜ経典には「彼はこのように知り、このように見て、正見、正思惟、正精進、正念、正定を修行し、それらを円満に達する。正語、正業、正命は、それ以前にすでに清らかで純白なものとして得られている」と説かれているのでしょうか。これは、以前にすでに得られた世間的な煩悩を離れる道（世間離染道）に基づいて述べられたものであり、矛盾はありません。 もし「無表色」を否定するならば、「別解脱律儀（戒律）」も存在しないことになります。なぜなら、戒律を受けた後に、その戒めの連続性が保たれ、たとえ異なる対象に向かう心が生じても、なお比丘などと呼ばれるという事実が説明できないからです。 また、経典には「殺生などを離れる戒めは、堤防のような戒めであり、長い間、途切れることなく、戒を破る過ちをせき止める」と説かれています。もし実体がなければ、「堤防」と呼ぶことはできません。 これらの証拠によって、「無表色」が実在することが確かめられます。 しかし、経量部の師は言います。「これらの証拠は多く、様々で珍妙ですが、道理にかなっていません。なぜなら、引用された証拠の中で、最初の経典に『三種の色がある』とあるのは、ヨーガの実践者（瑜伽師）が説くには、静慮（瞑想）を修行するとき、定の力によって生じる定の境界の色のことだからです。これは眼の対象ではないので『見ることができない』と言い、場所を妨げないので『障礙がない』と言うのです。もしそうであるならば、どうしてこれを『色』と呼ぶのかという難問は、無表色の場合と同じように説明されるべきです。」 また、「経典に言う『無漏の色』とは、ヨーガの実践者が説くには、定の力によって生じる色の中で、無漏の定に基づくものを『無漏』と言うのです。他の師は言います。『無学の者の身体の色や、その他の外なる色は、すべて無漏である。なぜなら、煩悩のよりどころ（漏）ではないから、無漏という名を得るのだ』と。」 「もしそうなら、なぜ経典では『有漏の法とは、あらゆる眼などである』と広く説かれているのでしょうか。これらは煩悩を対治するものではないので、有漏という名を得るのです。そうすると、これらは『有漏』とも『無漏』とも言えるべきでしょう。」 もしそうなら、何の問題があるのでしょうか。「混同するという過失があります。」 「もしこの道理に基づいて『有漏』と言うなら、決してこれに基づいて『無漏』とは言いません。『無漏』の場合も同様です。どこに混同があるのでしょうか。」 「もし色処などが常に有漏であるなら、この経典はなぜ区別して説かれているのですか。例えば、『有漏・有取の諸々の色は、心のわずらわしさを覆うものである』と説かれ、声などについても同様です。」 また、経典に説かれる「福徳の増大」について、先輩の軌範師は次のように説明します。「法爾（自然の働き）の力によって、福徳の業は増大する。例えば、施主が施す財物によって、受者がそれを受け取り使用する。受者が施物を受け取り使用することによって、功徳の利益に差別が生じるからである。その後、施主の心は別の対象に向かっても、以前に施しを思い巡らせた心の熏習（潜在的な影響）が、微細な連続性として、徐々に変化し差別を生じながら、継続する。このことによって、未来に多くの果報を感得する。だからこそ、経典は密意（深い意図）をもって、『常に途切れることなく、福徳の業は徐々に増大し、続いて生じる』と説くのだ。」 「もし、他の者の相続（心身の連続）における功徳の利益の差別が、どうして他の者の相続に、たとえ心が別の対象に向かっても変化を生じさせるのか」という疑問に対しては、無表色と同じように説明すべきです。 それでは、無表色の場合、他の者の相続における功徳の利益の差別が、どうして他の者の相続に、別個の実在する無表の法を生じさせるのでしょうか。 依り所のない福徳の業事については、どのようにして福徳の業が連続して増大するのでしょうか。これもまた、その対象を思い巡らせる心（思）を繰り返し熏習するからであり、夢の中においても常に付随して生じます。 無表色を主張する論者にとっては、依り所のない福徳には表業がないのだから、どうして無表があり得るのでしょうか。 ある人は言います。「依り所のある福徳の業事も、その対象を思い巡らせる心（思）を繰り返し熏習するからこそ、『常に途切れることなく、福徳は増大し続ける』と説かれるのだ」と。 もしそうなら、経典には「比丘が清らかな戒律（尸羅）を持ち、善く調御された法を成就し、他人から施された飲食を受けて、無量心定に入り、その定を身で証得して具足して住する。この因縁によって、施主には無量の福と善が滋潤し相続し、無量の安楽がその身に流れ込む。施主はその時、福が常に増大する」と説かれています。どうして定には、常にその対象を思い巡らせる優れた心（勝思）があると言えるでしょうか。それゆえ、「思い巡らす心（思）に熏習された微細な連続性が、徐々に変化し差別を生じながら生じる」という説は、道理にかなっていると言わねばなりません。 また、「自ら実行せず、他人に命じて行わせた場合の業道は、どうして完成し得るのか」という問いに対しては、次のように言うべきです。「根本の加行（準備的な行為）によって、使い（使者）が教えに従って行い、事が成就した時、法爾（自然の働き）によって、教えた者の微細な相続（心身の連続）に変化と差別が生じる。このことによって、未来に多くの果報を感得するのである。自ら行って事が完了した場合も、同じ道理によることを知るべきである。この微細な相続の変化と差別こそを、『業道』と名づけるのである。これは、果報に対して、その原因の名前を仮に立てたものであり、身語の業によって引き起こされた果報だからである。例えば、別に『無表色』というものを認める宗派では、無表色もまた『身語の業道』と呼ばれる。」 しかし、大徳（マハー・ダルマ・トラータ？）はこう言います。「取蘊（執着の対象となる五蘊）の中において、三つの時（殺そうと思う時、殺している時、殺した後）に思い（思）が生じることによって、殺害の罪に触れる。しかし、これだけで業道が完成するわけではない。そうでなければ、自分の母親などが実際に殺害されていなくても、『殺した』と思っただけで無間業（最も重い罪）が成立してしまうからである。しかし、自分自身で誤りなく殺害を行った場合に、このような思い（思）が生じれば、殺害の罪に触れるのである。」 もしこの説に従えば、道理に反しているわけではありません。なぜ、無表色に対してだけ偏って憎み嫉みし、決してそれが無いと否定しながら、心の熏習による微細な相続の変化と差別は認めるのでしょうか。 しかし、この説と無表色説は、どちらも理解しがたいものです。今ここで、私はどちらかを憎んだり嫉んだりするわけではありません。しかし、業道は心の種類（心の働きの一種）であると認めるならば、身体的な加行（準備的行為）によって事が完了した時に、心や身体を離れて、教えた者の身体の中に、別個の「無表の法」が生じるとするような考え方は、喜ばしいものではありません。もし、この（教える者の）心の働きが、あの（教えられる者の）加行を引き起こし、事が完了した時に、この（教える者の）心の相続が、それ（教えられる者の行為）によって変化し差別を生じて生じる、というのであれば、このような考え方は喜ばしいものです。なぜなら、単に心などの相続の変化と差別が、未来の果報を生じさせるからです。 また、以前にも述べました。何を述べたのか。「表業が無ければ、どうして無表があり得るのか」などと。 また、「法処は無色ではない」と述べたのは、先に述べたような定の境地における、見ることができず、障礙のない、法処に含まれる色が存在するからです。 また、「八つの道支（八正道）が存在しないことになる」という議論について、まず、彼ら（有部）は、道の実践中に、どうして正語・正業・正命があり得るのか、説明すべきです。この時点で、正しい言葉を発したり、正しい行動を起こしたり、衣服などを求めたりすることがあるのでしょうか。いいえ、そうではありません。では、どうして彼らはそのような種類の無漏の無表を持つのでしょうか。それは、禅定から出た後、その前の勢力によって、三つの正しい行為（正語・正業・正命）を起こし、三つの誤った行為（邪語・邪業・邪命）を起こさないからです。これは、原因の中に結果の名前を立てる（因中立果）という方法で、無表に対して語や業の名前を立てているのです。」 もしそうなら、なぜこの考えを受け入れないのでしょうか。「無表色がなくても、道を実践している時に、このような意楽と依り所（意志とその基盤）を得ることができるのです。ですから、禅定から出た後、その前の勢力によって、三つの正しい行為を起こし、三つの誤った行為を起こさないのです。原因の中に結果の名前を立てる（因中立果）ことによって、八つの聖なる道の支分を完全に備えることができるのです。」 別の師は言います。「ただ、誤った言葉などを『行わない』ということを、道支であると説くのです。つまり、禅定の状態にあるとき、聖なる道の力によって、『決して行わない』という決定を得ることができるのです。この『決して行わない』ということは、無漏の道に基づいて成立するので、『無漏』と呼ばれるのです。決して、すべての場合において、実在する別個の法の実体に基づいて、名前や数が立てられるわけではありません。例えば、八つの世間的な法（八世法）として、得・不得・毀・誉・称・譏・苦・楽がありますが、これらの『得られない』ということが、衣食などの事柄とは別に実体を持つわけではありません。この場合も同様です。」 別解脱律儀についても、これに準じて解釈すべきです。すなわち、思いと誓願の力によって、まず誓いを立て、それを期すことによって、身体と言葉の悪業を確実に防ぎ遮ることができるのです。このことによって、別解脱律儀が成立します。「もし別の対象に向かう心が生じれば、律儀は存在しないことになる」という非難は、道理に合いません。なぜなら、心の熏習の力によって、過ちを犯そうとするときに、それを思い出して止めるからです。 戒めが堤防であるという比喩も、これに準じて解釈すべきです。すなわち、まず誓いを立て、悪を行わないと限定し、その後、繰り返しそれを思い出し、慚愧の心が現前することによって、自分を制御し、戒を犯さないようにするのです。ですから、堤防の意味は、心によって受持されることによって成り立つのです。もし無表色が戒を犯すのを防ぐのであれば、心が正念を失って戒を破る人はいないはずです。 これらの多くの論争は、ひとまず置いておきましょう。 \*\*毘婆沙師\*\*（説一切有部）は、「無表色と呼ばれる実在する物質（実物）がある」と説きます。これが私（有部）の宗旨です。 先に、「無表色は、四大種（地・水・火・風）によって造られた性質を持つ」と述べましたが、それは、\*\*表色を造る四大種によって造られるのか、それとも別の四大種によって造られるのか\*\*。 偈頌（次の詩句）に曰く、

此能造大種， 異於表所依。

> この物質を構成する大きな要素（四大種）は、目に見える行為とは異なる基盤を持つものなのです。

論曰：無表與表異大種生。所以者何？從一和合有細麁果，不應理故。如表與大必同時生，無表亦然，為有差別。一切所造色多與大種俱時而生，然現在未來亦有少分依過去者。少分者何？頌曰：

> 論：無表色と表色は異なる大種から生じる。なぜなら、一つの和合から細かい果と粗い果が同時に生じるという道理は成り立たないからである。表色が大種と必ず同時に生じるように、無表色もまた同様であるが、そこには違いがある。すべての所造色は多くが大種と同時に生じるが、しかし現在や未来においても、一部は過去の大種に依るものがある。その一部とは何か。偈頌に曰く：

欲後念無表， 依過大種生。

> 欲の後の無表は、過去の大種によって生じる。

論曰：唯欲界繫初剎那後，所有無表從過大生，此為所依無表得起。現身大種但能為依，為轉隨轉因隨其次第，如輪行於地，手地為依。何地身語業？何地大所造？頌曰：

> 論によれば、欲界に属する最初の瞬間の後にある無表は、過去の大種から生じる。この無表が依り所となり、新たな無表が生じる。現在の身体の大種はただ依り所となるのみで、転因と随転因としてそれぞれの役割を果たす。それはちょうど車輪が地面の上を進むように、手と地面がその依り所となるのである。 どの地（領域）の身・語の業が、どの地の大種によって作られるのか。 偈頌：

有漏自地依， 無漏隨生處。

> 有漏の法は、自らの地（存在する世界）にのみ作用します。無漏の法は、生まれる場所に従って作用します。

論曰：欲界所繫身語二業，唯欲界繫大種所造。如是乃至第四靜慮身語二業，唯是彼地大種所造。若身語業是無漏者，隨生此地應起現前，即是此地大種所造，以無漏法不墮界故、必無大種是無漏故、由所依力無漏生故。此表無表其類是何？復是何類大種所造？頌曰：

> 論述：欲界に属する身体とことばの業は、欲界に属する四大元素によって作られる。同様に、第四静慮に至るまでの各段階の身体とことばの業も、それぞれその境地の四大元素によって作られる。もし身体とことばの業が無漏（煩悩を離れたもの）である場合、その者が住む境地に応じて現前する。これもその境地の四大元素によって作られる。なぜなら、無漏の法は特定の境地に堕ちるものではなく、四大元素が無漏であることは決してなく、無漏はその基盤となる力によって生じるからである。この表れる戒と表れない戒は、どのような種類か。また、どのような種類の四大元素によって作られるのか。偈頌に曰く：

無表無執受， 亦等流情數，散依等流性， 有受異大生，定生依長養， 無受無異大，表唯等流性， 屬身有執受。

> 無表色は、認識されることもなく、保持されることもありません。 また、それは等流性であり、有情の数に属します。 散心における無表色は等流性に基づき、感受を伴い、他の四大種とは異なる性質を持ちます。 定心によって生じた無表色は長養に基づき、感受を伴わず、他の四大種と異なることもありません。 表色は専ら等流性であり、身に属し、保持されます。

論曰：今此頌中先辯無表是無執受，無變礙故。亦等流性，亦言顯此有是剎那，謂初無漏。餘皆等流性，謂同類因生。此唯有情，依內起故。於中欲界所有無表，等流有受別異大生。異大生言顯身語七一一是別大種所造，定生無表差別有二。謂諸靜慮無漏律儀。此二俱依定所長養。無受無異大種所生。無異大言顯此無表七支同一具四大種所生。所以者何？所依大種，如心唯一，無差別故。應知有表唯是等流，此若屬身是有執受，餘義皆與散無表同。表業生時為要破壞本身形量、為不爾耶？若爾，何失？若破壞者，異熟色斷應可更續，是則違越毘婆沙宗。若不破壞，如何得有一身處所二形量成？有別新生等流大種，造有表業不破本身。若爾，隨依何身分處起有表業應大於本，新生大種遍增益故。若不遍增益，如何遍生表？身有孔隙，故得相容。已辯業門二三五別。此性界地差別云何？頌曰：

> 論曰：まずこの偈頌では、無表業は無執受であり、変化に障害がないことが示されている。また、これを「等流性」ともいう。「亦」という言葉は、これが刹那であることを示しており、それは最初の無漏を指す。その他はすべて等流性であり、同じ種類の因から生じる。これは有情だけに存在し、内側に基づいて起こるからである。 その中で、欲界にあるすべての無表は、等流として受を伴い、別々の大種から生じる。「異大生」という言葉は、身業と語業の七つの表業がそれぞれ別々の大種によって造られることを示す。定によって生じる無表には二つの違いがある。それは、諸々の静慮と無漏の律儀である。この二つはともに定によって長養されるものであり、受を伴わず、異なる大種から生じるわけではない。「無異大」という言葉は、この無表の七つの支分が同一の四大種から生じることを示す。なぜなら、よりどころとなる大種は、心と同様に唯一であり、差別がないからである。 知るべきである。有表は等流性のみである。これが身に属する場合、有執受である。その他の意味は、すべて散心の無表と同じである。 問う：表業が生じるとき、必ずその身の形量を破壊するのか、それともそうではないのか？ もしそうなら、何の過失がある？もし破壊するなら、異熟色が断たれた後、再び継続されるべきであるが、これは毘婆沙宗に違反することになる。もし破壊しないなら、どうして一つの身体の場所に二つの形量が成立するのか？ 答える：別に新しく生じる等流の大種があり、有表業を造るが、その身を破壊しない。もしそうなら、どの身体の部分に従って有表業が起ころうとも、その大きさは元の身体より大きくなるはずである。なぜなら、新しく生じる大種が遍く増益するからである。もし遍く増益しないなら、どうして遍く表業を生じるのか？身には孔隙があるので、大きさを許容できるのである。 すでに業の門（二、三、五の別）を説き終えた。この性質、界、地の違いはどのようであるか？偈頌に曰く：

無表記餘三， 不善唯在欲，無表遍欲色， 表唯有伺二，欲無有覆表， 以無等起故。

> 無表は、残りの三つの善悪無記がある。 不善（悪）は、欲界にのみ存在する。 無表は、欲界と色界に遍く存在する。 表（業）は、尋（初禅）のある二つの禅定のみにある。 欲界には、有覆無記（修行の妨げとなる無記）の表業はない。 そのような等起（心の生起）がないからである。

論曰：無表唯通善不善性，無有無記。所以者何？以無記心勢力微劣，不能引發強業令生，可因滅時果仍續起。所言餘者，謂表及思。三謂皆通善、惡、無記。於中不善在欲非餘，已斷不善根無慚無愧故。善及無記諸地皆有，以於頌中不別遮故。欲色二界皆有無表，以無色中無大種故。隨於何處有身語轉，唯是處有身語律儀。若爾，身生欲色二界入無色定應有律儀，如起無漏心有無漏無表。不爾，以彼不墮界故。於無色界若有無表，應有無表非大種生。不可說言有漏無表以別界地大種為依。又背諸色入無色定，故彼定中不能生色，由彼定有伏色想故。毘婆沙師作如是說：為治惡戒故起尸羅。唯欲界中有諸惡戒，無色於欲具四種遠：一所依遠、二行相遠、三所緣遠、四對治遠，故無色中無無表色。表色唯在二有伺地，謂通欲界初靜慮中，非上地中可言有表。有覆無記表，欲界定無，唯於梵世中可得說有。曾聞大梵有誑諂言，謂自眾中為避馬勝所徵問故矯自歎等。上地既無言，何得有聲處？有外大種為因發聲。有餘師言：上三靜慮亦有無覆無記表業，無善無染。所以者何？非上地生能起下地善及染心發身語表，劣故斷故。前說為善。復以何因二定以上都無表業？於欲界中無有有覆無記表業，以無發業等起心故。有尋伺心能發表業，二定以上都無此心。又發表心唯修所斷，見所斷惑內門轉故。以欲界中決定無有有覆無記修所斷惑，是故表業上三地都無。欲界中無有覆無記表，為但由等起令諸法成善不善性等？不爾。云何？由四種因成善性等：一由勝義、二由自性、三由相應、四由等起。何法何性由何因成？頌曰：

> 論じて曰く、無表は善と不善とのみに通じ、無記はない。なぜか。無記の心の勢力は微弱で、強い業を引き起こして生じさせることができず、原因が滅した時にも結果が続いて生じることがないからである。言うところの「余」とは、表と思を指す。「三」とは、善・悪・無記のすべてに通じることをいう。その中で不善は欲界にのみあり、他の界にはない。なぜなら、不善の根と無慚・無愧はすでに断たれているからである。善と無記はすべての地に存在する。頌の中で特に遮っていないからである。欲界と色界の二界には無表がある。無色界には大種がないからである。身体と言葉の表業が起こる所には、必ずその所に身語の律儀がある。もしそうなら、欲界と色界に生まれて無色定に入る者には律儀があるべきである。例えば、無漏心を起こす者に無漏の無表があるように。そうではない。なぜなら、彼らは界に堕していないからである。無色界に無表があるならば、大種から生じない無表があることになる。有漏の無表は別の界や地の大種を依り所とすると言うことはできない。また、色を離れて無色定に入るので、その定の中では色を生じることができない。その定には色の想を伏する力があるからである。毘婆沙師は次のように説く。「悪戒を対治するために尸羅が生じる。欲界にのみ悪戒があり、無色界は欲界に対して四種の遠さがある。一つは所依が遠いこと、二つは行相が遠いこと、三つは所縁が遠いこと、四つは対治が遠いことである。よって無色界には無表色はない」。表色は二つの有尋有伺の地にのみ存在する。すなわち欲界と初静慮に通じ、それより上の地に表があるとは言えない。有覆無記の表は欲界には決してなく、梵世においてのみ有り得ると言える。かつて大梵が誑諂の言葉を発したと聞く。すなわち、自らの衆の中で馬勝の問い詰めを避けるために、偽って自らを讃えるなどした。上の地には言葉がないなら、どうして声処があると言えようか。外の大種が因となって声を発するのである。他の論師は言う。「上の三静慮にも無覆無記の表業があり、善や染汚はない。なぜか。上の地に生まれた者は、下の地の善心や染心を起こして身語の表を発することができない。下の地の心は劣っているからであり、すでに断たれているからである」。先の説が正しい。また、何の理由で二定以上には表業が全くないのか。欲界の中には有覆無記の表業がない。発業の等起心がないからである。尋伺の心があって初めて表業を発することができるが、二定以上にはこの心が全くない。また、表を発する心は修所断のみであり、見所断の惑は内門に転ずるからである。欲界には修所断の有覆無記の惑が決してない。ゆえに表業は上三地には全くない。欲界に有覆無記の表がないのは、等起のみによって諸法が善や不善などの性となるのか。そうではない。ではどうか。四種の因によって善などの性となる。一に勝義、二に自性、三に相応、四に等起である。どの法がどの性となり、どの因によって成るのか。頌に曰く、

勝義善解脫， 自性慚愧根，相應彼相應， 等起色業等，翻此名不善， 勝無記二常。

> 勝義の善とは解脱であり、 自性の善とは慚（恥じること）と愧（はじること）の心所であり、 相応の善とは、それら（慚・愧）と相応する心所（善心所）のことである。 等起の善とは、善心から生まれる色法（身体の行為）や語業（言葉の行為）などをいう。 これらを逆にしたものが不善（悪）である。 最上の無記（善悪どちらでもないもの）は、二つの常なるもの（虚空と非択滅）である。

論曰：勝義善者，謂真解脫，以涅槃中最極安隱、眾苦永寂猶如無病。自性善者，謂慚愧根，以有為中唯慚與愧及無貪等三種善根，不待相應及餘等起，體性是善猶如良藥。相應善者，謂彼相應，以心心所要與慚愧善根相應方成善性，若不與彼慚等相應，善性不成，如雜藥水。等起善者，謂身語業不相應行，以是自性及相應善所等起故，如良藥汁所引生乳。若異類心所起得等，云何成善？此義應思，如說善性四種差別，不善四種與此相違。云何相違？勝義不善，謂生死法。由生死中諸法皆以苦為自性，極不安隱猶如痼疾。自性不善，謂無慚愧三不善根，由有漏中唯無慚愧及貪瞋等三不善根，不待相應及餘等起，體是不善猶如毒藥。相應不善，謂彼相應，由心心所法要與無慚愧不善根相應方成不善性，異則不然，如雜毒水。等起不善，謂身語業不相應行，以是自性相應不善所等起故，如毒藥汁所引生乳。若爾，便無一有漏法是無記或善，皆生死攝故。若據勝義誠如所言，然於此中約異熟說。諸有漏法若不能記異熟果者立無記名，於中若能記愛異熟說名為善，故無有過。勝義無記，謂二無為，以太虛空及非擇滅唯無記性更無異門。於此應思。若等起力令身語業成善不善，則諸大種例亦應然。以作者心本欲起業，非四大種，故不成例。若爾，定心隨轉無表，非正在定作意引生，亦非散心加行引發，不同類故。如何成善？或天眼耳應成善性，於如是義應設劬勞。如上所言，見所斷惑內門轉故不能發表。若爾，何緣契經中說：由邪見故起邪思惟、邪語、邪業及邪命等。此不相違。何以故？頌曰：

> 論じて曰く、勝義の善とは、真の解脱をいう。涅槃は最も安穏であり、すべての苦が永遠に寂滅し、病のないようなものであるからである。自性の善とは、慚と愧の根をいう。有為の中で、ただ慚・愧と、無貪・無瞋・無痴の三つの善根のみが、対応や他の発起を待たず、その体性自体が善であり、良薬のようなものであるからである。相応の善とは、それらと相応することをいう。心・心所は、慚・愧や善根と相応して初めて善の性質となるのであり、もしそれら慚などと相応しなければ、善の性質は成立しない。それは薬を混ぜた水のようなものである。等起の善とは、身体・言葉の業や不相応行をいう。これらは自性の善と相応の善によって等しく起されたものであり、良薬の汁によって生じた乳のようなものである。もし異なる種類の心によって生じた「得」などが、どうして善となり得ようか。この意味をよく考えるべきである。このように善の性質には四種の違いがあると説かれるが、不善の四種はこれと反対である。どのように反対か。勝義の不善とは、生死の法をいう。生死の中では、諸々の法はすべて苦を自性とし、極めて安穏ではなく、重い病気のようなものであるからである。自性の不善とは、無慚・無愧と三つの不善根をいう。有漏の中で、ただ無慚・無愧と貪・瞋・痴の三つの不善根のみが、対応や他の発起を待たず、その体性自体が不善であり、毒薬のようなものであるからである。相応の不善とは、それらと相応することをいう。心・心所の法は、無慚・無愧や不善根と相応して初めて不善の性質となるのであり、そうでなければならない。それは毒を混ぜた水のようなものである。等起の不善とは、身体・言葉の業や不相応行をいう。これらは自性の不善と相応の不善によって等しく起されたものであり、毒薬の汁によって生じた乳のようなものである。もしそうであれば、一つの有漏の法も無記や善ではなくなり、すべて生死に含まれることになる。もし勝義の観点から言えば、確かにその通りである。しかし、ここでは異熟果について説いている。諸々の有漏の法は、もし異熟の果を記別できないならば無記と名づけ、もしその中で愛の異熟を記別できるならば善と名づける。ゆえに過失はない。勝義の無記とは、二つの無為をいう。太虚空と非択滅はただ無記の性質であり、他に区別はない。ここでよく考えるべきである。もし等起の力によって身体・言葉の業が善や不善となるならば、諸々の四大種もまた同じようにそうなるべきである。しかし、作者の心は本来、業を起こそうとするものであり、四大種ではないので、同じ例とはならない。もしそうであれば、定心に随転する無表は、正に定にあるときの作意によって生じるのでもなく、また散心の加行によって引き起こされるのでもなく、同じ種類ではない。どうして善となり得ようか。あるいは天眼・天耳は善の性質となるべきであるが、このような義理については、努力して考察すべきである。先に述べたように、見道で断ずべき煩悩は内に転ずるので、身語の業を発することができない。もしそうであれば、なぜ経典に「邪見によって邪思惟・邪語・邪業・邪命などが生じる」と説かれているのか。これは矛盾しない。なぜか。偈頌に曰く、

等起有二種， 因及彼剎那，如次第應知， 名轉名隨轉。見斷識唯轉， 唯隨轉五識，修斷意通二， 無漏異熟非。於轉善等性， 隨轉各容三，牟尼善必同， 無記隨惑善。

> ここでいう「等起」には二種類ある。 すなわち「因（直接の原因）」と、それに続く「その瞬間の心」である。 この順序に従って、 前者を「転（主動的な心）」、 後者を「随転（従属する心）」と呼ぶべきだと知るべきである。 見道によって断たれるべき煩悩に対応する意識は、ただ「転」のみである。 五識はただ「随転」のみである。 修道によって断たれるべき煩悩に対応する意識（第六意識）は、「転」と「随転」の両方の性質を持つ。 無漏の心や異熟の心は、転・随転のいずれにも該当しない。 「転」が善・悪・無記のいずれかの性質を持つとき、 「随転」は原則としてそれと異なる三つの性質（善・悪・無記）のいずれをも取り得る。 ただし、牟尼（仏陀）の心においては、「転」が善であれば「随転」も必ず善である。 一方、無記の心に従う煩悩は善となることもある。

論曰：表無表業等起有二，謂因等起、剎那等起，在先為因故、彼剎那有故。如次初名轉，第二名隨轉。謂因等起將作業時，能引發故說名為轉。剎那等起正作業時，不相離故名為隨轉。隨轉於業有何功能？雖有先因為能引發，若無隨轉者如死業應無。若爾，無心如何發戒？諸有心者業起分明，故隨轉心於業有用。見所斷識於發表中唯能為轉，於能起表尋伺生中為資糧故不為隨轉，於外門心正起業時此無有故。又見所斷若發表色，此色則應是見所斷。若許見斷，斯有何失？是則違越阿毘達磨，又明無明不相違故。有漏業色非見所斷，如是道理應更成立。若爾大種亦應見斷，俱見斷心力所起故。無如是過失，如非善不善。或復許爾，理亦無違。不應許然，以諸大種定非見斷及非所斷，以一切種不染污法與明無明不相違故。彼經但據前因等起而作是說，故不相違。若五識身唯作隨轉，無分別故、外門起故。修斷意識通為二種，有分別故、外門起故。一切無漏異熟生心非轉隨轉，唯在定故、不由加行任運轉故。如是即成四句差別。有轉非隨轉，謂見所斷心。有隨轉非轉，謂眼等五識。有轉亦隨轉，謂修所斷三性意識。有非轉隨轉，謂諸無漏異熟生心。轉隨轉心定同性不？此不決定。其事云何？謂前轉心若是善性，後隨轉識通善等三，不善無記隨轉亦爾。唯牟尼尊轉隨轉識，多分同性少有不同。謂轉若善心隨轉亦善，轉心若無記隨轉亦然。而或有時善隨無記轉，曾無無記為善隨轉時。以佛世尊於說法等，心或增長無萎歇故。有餘部說：諸佛世尊常在定故，心唯是善，無無記心。故契經說：

> 論じて曰く、表業と無表業の等起には二種ある。すなわち因等起と刹那等起である。因等起は先に因として存在するからであり、刹那等起はその刹那に存在するからである。順に、初めのものを「転」と名づけ、次のものを「随転」と名づける。 すなわち因等起は、まさに業を起こそうとする時に、これを引き起こす力があるので「転」と説く。刹那等起は、実際に業を行っている時に、その業と離れないので「随転」と説く。この随転は業に対してどのような働きがあるのか。たとえ先に因があって引き起こす力があっても、もし随転がなければ、死んだ人の業のように、業は起こらないはずである。もしそうなら、無心の時にどうやって戒を発するのか。心のある者は業の起こり方が明らかであるから、随転の心は業に対して役割がある。 見所断の識は、表業を発するにあたって、ただ転となるのみである。それは、表業を起こす尋伺が生じるための資糧となるが、随転とはならない。外に向かう心がまさに業を起こしている時には、この見所断の識は存在しないからである。また、もし見所断の識が表の色を発するとすれば、この色は見所断であるべきである。もし見所断であると認めるなら、どのような過失があるのか。それでは阿毘達磨に違反することになる。また、明と無明は互いに相違しないからである。有漏の業の色は見所断ではない。このような道理はさらに成立させるべきである。もしそうなら、四大種もまた見所断であるべきではないか。共に見所断の心の力によって生じるからである。そういう過失はない。善でも不善でもないのと同じである。あるいは、それを許しても道理に違反しない。しかし、そう認めるべきではない。なぜなら、すべての大種は必ず見所断でも非所断でもなく、あらゆる種類の不染汚法は明と無明に相違しないからである。あの経典はただ前の因等根拠に基づいてこのように説いているのであって、矛盾しない。 もし五識の身はただ随転のみとなるなら、無分別であり、外に向かう心だからである。修所断の意識は二種を兼ねる。有分別であり、外に向かう心だからである。すべての無漏の異熟生の心は転でも随転でもない。常に定中にあるからであり、加行によらず任運に転ずるからである。このようにして四句の差別が成立する。 転であって随転でないものがある。すなわち見所断の心である。随転であって転でないものがある。すなわち眼などの五識である。転でもあり随転でもあるものがある。すなわち修所断の三性の意識である。転でも随転でもないものがある。すなわち諸々の無漏の異熟生の心である。 転と随転の心は必ず同じ性質か。これは決まっていない。その状況はどうか。例えば、前の転の心が善性であるなら、後の随転の識は善・不善・無記の三つに通じる。不善や無記の随転もまた同様である。ただ牟尼尊である世尊だけは、転と随転の識が多くの場合は同じ性質であり、時に異なることもある。すなわち、転の心が善なら随転の心も善であり、転の心が無記なら随転もまた無記である。しかし、時に善が無記の随転となることはあるが、無記が善の随転となることは決してない。なぜなら、仏世尊は説法等の際に、心が時に増長し萎えることがないからである。他の部派の中には、「諸仏世尊は常に定中にいるから、心はただ善のみであり、無記の心はない」と説くものもある。故に経典には次のように説かれている。

那伽行在定， 那伽住在定，那伽坐在定， 那伽臥在定。

> 那伽（龍）は行くときも定かに、 那伽は立つときも定かに、 那伽は座るときも定かに、 那伽は臥すときも定かにあります。

毘婆沙師作如是釋：此顯佛意若不樂散心，則於四威儀能常在定，然於餘位非無威儀及異熟生通果心起。諸有表業成善等性，為如轉心、為如隨轉？設爾，何失？若如轉者，則欲界中應有有覆無記表業，身見邊見能為轉故。或應簡別，非一切種見所斷心皆能為轉，若如隨轉惡無記心俱得別解脫表應非善性。於此徵難應設劬勞，應言如轉心表成善等性，然非如彼見斷轉心，修斷轉心為間隔故。若表不由隨轉心力成善等者，則不應言：彼經但據前因等起非據剎那，故欲界中定無有覆無記表業。但應說言：彼經唯據餘心所間因等起說，故見斷心雖能為轉，而於欲界定無有覆無記表業。

> 毘婆沙師は次のように解釈する。「これは仏の意図を示しており、もし散乱した心を好まないならば、四威儀において常に定（禅定）に在ることができる。しかし、それ以外の時には、威儀や異熟生・通果の心が生じないわけではない。」 諸々の表業が善などの性質を帯びるのは、【転心（動機となる心）に従うのか？】それとも【随転（それに伴って生じる心）に従うのか？】どちらであろうか。 仮にそうだとして、何か過失があるのか？ もし【転心に従う】のであれば、欲界においても有覆無記の表業が存在するはずである。なぜなら、身見と辺見がその転心となり得るからである。 あるいは、次のように区別すべきであろう。「あらゆる種類の見断の心が、すべて転心となり得るわけではない」と。 もし【随転に従う】のであれば、悪・無記の心と共に得られた別解脱の表業は、善性ではないことになってしまう。 このような問答には、努力を払って考察すべきである。 「表業は、【転心】に従って善などの性質を帯びる。しかし、それは見断の転心のようなものではなく、修断の転心によって隔てられているからである」と答えるべきである。 もし表業が随転の心の力によって善などとなるのではないならば、次のように言うべきではない。「あの経典は、ただ前因等起のみを述べており、刹那（の因等起）を述べているのではない。故に、欲界には必ず有覆無記の表業は存在しない」と。 ただ、次のように言うべきである。「あの経典は、他の心によって隔てられた因等起のみについて述べている。したがって、見断の心は転心となり得るが、欲界には必ず有覆無記の表業は存在しない」と。

## 阿毘達磨俱舍論卷第十三

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