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title: "阿毘達磨俱舍論 · 1"
description: "阿毘達磨俱舍論是印度佛教论师世亲尊者所造的重要论典，由唐代高僧玄奘翻译为中文。该论成书于公元5世纪左右，属于说一切有部的核心著作，系统阐述佛教教义，尤其是对法相、因果、轮回等核心概念进行精密分析。内容涵盖界品、根品、世间品、业品、随眠品、贤圣品、智品和定品八大部分，体系严谨。在佛教史上具有承前启后的地位，既总结部派佛教思想，又为大乘佛教奠定理论基础，被誉为小乘佛学百科全书，对汉传佛教和藏传佛教均产生深远影响。"
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### 破執我品第九之一

> 第九品 我執を破る（その一）

越此依餘，豈無解脫？理必無有。所以者何？虛妄我執所迷亂故。謂此法外諸所執我，非即於蘊相續假立執有真實離蘊我故。由我執力諸煩惱生，三有輪迴無容解脫。以何為證？知諸我名，唯召蘊相續，非別目我體。於彼所計離蘊我中，無有真實現比量故。謂若我體別有實物，如餘有法。若無障緣，應現量得如六境意，或比量得如五色根。言五色根比量得者，如世現見，雖有眾緣，由闕別緣，果便非有，不闕便有，如種生芽。如是亦見，雖有現境作意等緣，而諸盲聾不盲聾等識不起起，定知別緣有闕不闕。此別緣者即眼等根，如是名為色根比量。於離蘊我二量都無，由此證知無真我體。然犢子部執有補特伽羅，其體與蘊不一不異。此應思擇，為實為假。實有假有相別云何？別有事物是實有相，如色聲等。但有聚集是假有相，如乳酪等。許實許假各有何失？體若是實應與蘊異，有別性故，如別別蘊。又有實體必應有因，或應是無為，便同外道見。又應無用，徒執實有。體若是假，便同我說。非我所立補特伽羅，如仁所徵實有假有？但可依內現在世攝有執受諸蘊立補特伽羅。如是謬言，於義未顯。我猶不了，如何名依？若攬諸蘊是此依義，既攬諸蘊成補特伽羅，則補特伽羅應成假有，如乳酪等攬色等成。若因諸蘊是此依義，既因諸蘊立補特伽羅，則補特伽羅亦同此失，不如是立。所立云何？此如世間依薪立火，如何立火可說依薪？謂非離薪可立有火，而薪與火非異非一。若火異薪，薪應不熱。若火與薪一，所燒即能燒。如是不離蘊立補特伽羅。然補特伽羅與蘊非異一，若與蘊異體應是常，若與蘊一體應成斷。仁今於此且應定說，何者為火？何者為薪？令我了知火依薪義。何所應說？若說應言所燒是薪、能燒是火。此復應說何者所燒、何者能燒、名薪名火？且世共了。諸不炎熾所然之物，名所燒薪。諸有光明極熱炎熾能然之物，名能燒火。此能燒然彼物相續，令其後後異前前故。此彼雖俱八事為體，而緣薪故火方得生，如緣乳酒生於酪酢，故世共說依薪有火。若依此理火則異薪，後火前薪時各別故。若汝所計補特伽羅，如火依薪依諸蘊者，則定應說緣蘊而生，體異諸蘊，成無常住。若謂即於炎熾木等煖觸名火，餘事名薪，是則火薪俱時而起，應成異體，相有異故。應說依義，此既俱生，如何可言依薪立火？謂非此火用薪為因，各從自因俱時生故。亦非此火名因薪立，以立火名因煖觸故。若謂所說火依薪言，為顯俱生或依止義，是則應許補特伽羅與蘊俱生或依止蘊。已分明許體與蘊異，理則應許。若許蘊無，補特伽羅體亦非有，如薪非有火體亦無。而不許然，故釋非理。然彼於此自設難言：若火異薪，薪應不熱。彼應定說熱體謂何？若彼釋言熱謂煖觸，則薪非熱，體相異故。若復釋言熱謂煖合，則應異體亦得熱名，以實火名唯目煖觸，餘與煖合皆得熱名。是則分明許薪名熱。雖薪火異而過不成，如何此中舉以為難？若謂木等遍炎熾時說名為薪亦名為火，是則應說依義謂何？補特伽羅與色等蘊定應是一，無理能遮。故彼所言如依薪立火，如是依蘊立補特伽羅，進退推徵，理不成立。又彼若許補特伽羅與蘊一異俱不可說，則彼所許三世無為及不可說五種爾焰亦應不可說，以補特伽羅不可說第五及非第五故。又彼施設補特伽羅，應更礭陳為何所託？若言託蘊假義已成，以施設補特伽羅不託補特伽羅故。若言此施設託補特伽羅，如何上言依諸蘊立理，則但應說依補特伽羅。既不許然，故唯託蘊。若謂有蘊此則可知，故我上言此依蘊立。是則諸色有眼等緣方可了知，故應言依眼等。又且應說，補特伽羅是六識中何識所識？六識所識。所以者何？若於一時眼識識色，因茲知有補特伽羅，說此名為眼識所識，而不可說與色一異。乃至一時意識識法，因茲知有補特伽羅，說此名為意識所識，而不可說與法一異。若爾，所計補特伽羅應同乳等唯假施設。謂如眼識識諸色時，因此若能知有乳等，便說乳等眼識所識，而不可說與色一異。乃至身識說諸觸時，因此若能知有乳等，便說乳等身識所識，而不可說與觸一異。勿乳等成四或非四所成。由此應成總依諸蘊假施設有補特伽羅，猶如世間總依色等施設乳等，是假非實。又彼所說，若於一時眼識識色，因茲知有補特伽羅。此言何義？為說諸色是了補特伽羅因？為了色時補特伽羅亦可了？若說諸色是了此因，然不可言此異色者，是則諸色以眼及明作意等緣為了因故，應不可說色異眼等。若了色時此亦可了，為色能了即了此耶？為於此中別有能了？若色能了即能了此，則應許此體即是色，或唯於色假立於此。或不應有如是分別，如是類是色、如是類是此。若無如是二種分別，如何立有色、有補特伽羅，有情必由分別立故。若於此中別有能了，了時別故此應異色，如黃異青前異後等。乃至於法徵難亦然。若彼救言：如此與色不可定說是一是異，二種能了相望亦然，能了不應是有為攝。若許爾者，便壞自宗。又若實有補特伽羅，而不可說色非色者，世尊何故作如是言：色乃至識皆無有我。又彼既許補特伽羅眼識所得，如是眼識於色此俱為緣何起？若緣色起，則不應說眼識能了補特伽羅，此非眼識緣，如聲處等故。謂若有識緣此境起，即用此境為所緣緣，補特伽羅非眼識緣者，如何可說為眼識所緣？故此定非眼識所了。若眼識起緣此或俱，便違經說。以契經中定判識起由二緣故。又契經說：苾芻當知，眼因色緣能生眼識。諸所有眼識皆緣眼色故。又若爾者，補特伽羅應是無常，契經說故。謂契經說：諸因諸緣能生識者皆無常性。若彼遂謂補特伽羅非識所緣，應非所識，若非所識應非所知，若非所知如何立有？若不立有便壞自宗。又若許為六識所識，眼識識故應異聲等，猶如色，耳識識故，應異色等，譬如聲。餘識所識，為難准此。又立此為六識所識，便違經說。如契經言：梵志當知，五根行處境界各別，各唯受用自所行處及自境界，非有異根亦能受用異根行處及異境界。五根謂眼耳鼻舌身，意兼受用五根行處及彼境界，彼依意故。或不應執補特伽羅是五根境，如是便非五識所識，有違宗過。若爾，意根境亦應別。如六生喻契經中言：如是六根行處境界各有差別，各別樂求自所行處及自境界。非此中說眼等六根，眼等五根及所生識無有勢力樂見等故。但說眼等增上勢力所引意識名眼等根，獨行意根增上勢力所引意識，不能樂求眼等五根所行境界。故此經義無違前失。又世尊說：苾芻當知，吾今為汝具足演說一切所達所知法門。其體是何？謂諸眼色眼識眼觸，眼觸為緣內所生受，或樂或苦不苦不樂。廣說乃至。意觸為緣內所生受，或樂、或苦、不苦不樂，是名一切所達所知。由此經文，決判一切所達知法唯有爾所，此中無有補特伽羅，故補特伽羅亦應非所識，以慧與識境必同故。諸謂眼見補特伽羅，應知眼根見此所有，於見非我謂見我故，彼便蹎墜惡見深坑。故佛經中自決此義，謂唯於諸蘊說補特伽羅。如人契經作如是說：眼及色為緣生於眼識，三和合觸俱起受想思。於中後四是無色蘊，初眼及色名為色蘊，唯由此量說名為人。即於此中隨義差別假立名想，或謂有情不悅意生儒童、養者、命者、生者、補特伽羅，亦自稱言我眼見色。復隨世俗說，此具壽有如是名、如是種族、如是姓類、如是飲食、如是受樂、如是受苦、如是長壽、如是久住、如是壽際。苾芻當知，此唯名想，此唯自稱，但隨世俗假施設有。如是一切無常有為，從眾緣生、由思所造。世尊恒勅依了義經，此經了義，不應異釋。又薄伽梵告梵志言：我說一切有唯是十二處。若數取趣非是處攝，無體理成。若是處攝，則不應言是不可說。彼部所誦契經亦言：諸所有眼、諸所有色，廣說乃至苾芻當知，如來齊此施設一切建立一切有自體法。此中無有補特伽羅，如何可說此有實體。頻毘婆羅契經亦說：諸有愚昧無聞異生，隨逐假名計為我者，此中無有我我所性，唯有一切眾苦法體將正已生，乃至廣說。有阿羅漢苾芻尼名世羅，為魔王說：

> この教えを超えて他に依って、どうして解脱が無いことがあろうか。理の上から言って、必ず無いのである。なぜか。虚妄な我への執着に迷わされているからである。すなわち、この法の外に執着される諸々の我は、五蘊の相続の上に仮に立てられたものではなく、蘊を離れた実在の我があると執着しているのである。この我への執着力によって諸々の煩悩が生じ、三有の輪廻から解脱することはありえないのである。 何を以て証とするのか。諸々の「我」という名前は、ただ五蘊の相続を指し示すものであって、別に我という実体を指すものではないことを知るからである。彼らが執着する蘊を離れた我には、真実の現量（直接知覚）も比量（推論）も無いのである。すなわち、もし我という実体が別に実在するものであるならば、他の存在する事物のように、もし妨げる因縁が無ければ、現量で得られるはずである。例えば六境を意が知るように。あるいは比量で得られるはずである。例えば五つの色根（眼耳鼻舌身）のように。 五つの色根が比量で得られると言うのは、例えば世間で現に見るように、多くの因縁があっても、別の因縁が欠ければ結果は生じず、欠けなければ生じる。例えば種から芽が生じるようなものである。このように、現境や作意などの因縁があっても、盲人や聾者には識が生じない。これによって、別の因縁の有無が定かに知られる。この別の因縁とは、すなわち眼根などである。これを色根の比量と名付けるのである。 蘊を離れた我については、この二つの量（現量と比量）が全く無い。これによって、真実の我という実体が無いことを證知するのである。 しかし、犢子部は「補特伽羅（人）」の実体は、蘊と一でもなく異でもないと執着する。これはよく考えるべきである。実有か仮有か。実有と仮有の相の違いは何か。別に事物が存在するのが実有の相であり、例えば色や声などのようなものである。ただ集まりがあるだけなのが仮有の相であり、例えば乳や酪などのようなものである。 実有と許し、仮有と許すことに、それぞれどんな過失があるのか。もし実体が実有ならば、蘊と異なるはずである。別の自性があるからである。例えば、個々の蘊が互いに異なるように。また、実体があるならば必ず因があるはずであり、あるいは無為であるべきである。そうすれば外道の見解と同じになる。また、役に立つところが無いはずであり、ただ実有と執着するだけである。 もし仮有であるならば、我々の説と同じになる。我々が立てる補特伽羅は、あなたが問うような実有か仮有かではない。ただ、内の現在世に属し、執受された諸蘊に依って補特伽羅を立てるのである。このような誤った言葉は、その意味が明らかではない。私はまだ理解できない。どうして「依」と名付けるのか。 もし諸蘊を集めてこれが「依」の意味であるならば、すでに諸蘊を集めて補特伽羅を成すのであるから、補特伽羅は仮有となるはずである。例えば乳や酪などが色などを集めて成るように。もし諸蘊を因としてこれが「依」の意味であるならば、すでに諸蘊を因として補特伽羅を立てるのであるから、補特伽羅もまた同じ過失がある。しかし、彼らはこのようには立てない。 彼らが立てるのはどういうことか。これは例えば世間が薪に依って火を立てるようなものである。どうやって薪に依って火を立てると言えるのか。すなわち、薪を離れて火を立てることはできないが、薪と火は異でもなく一でもないのである。もし火が薪と異なるならば、薪は熱くないはずである。もし火と薪が一であるならば、焼かれるものが即ち焼くものとなるはずである。 このように、蘊を離れずに補特伽羅を立てる。しかし、補特伽羅と蘊は異でも一でもない。もし蘊と異なるならば、体は常であるはずである。もし蘊と一であるならば、体は断滅するはずである。あなたは今ここで、まず何が火で何が薪かを定めて言うべきである。私に火が薪に依る意味を理解させよ。 何を言うべきか。もし「焼かれるものが薪であり、焼くものが火である」と言うならば、さらに何が焼かれるもので何が焼くものであり、何を薪と名付け何を火と名付けるかを言うべきである。世間では共に理解している。炎が熾んでいない燃やされる物を「所焼の薪」と名付け、光明があって非常に熱く炎が熾んで燃やす物を「能焼の火」と名付ける。この火がその物の相続を焼き、後後が前前と異なるようにするからである。 この火と薪は、どちらも八事を体とするが、薪を縁として火が生じる。例えば、乳や酒を縁として酪や酢が生じるように。だから世間では共に「薪に依って火がある」と言うのである。もしこの理に従うならば、火は薪と異なることになる。後の火と前の薪は、時がそれぞれ別だからである。 もしあなたが計る補特伽羅が、火が薪に依るように諸蘊に依るならば、必ず「蘊を縁として生じ、体は諸蘊と異なり、常に住しないものとなる」と言うべきである。 もし「炎が熾んな木などにおいて、煖觸（暖かい感触）を火と名付け、その他のものを薪と名付ける」と言うならば、火と薪は同時に生じるのであり、異なる体となるはずである。相に違いがあるからである。「依」の意味を言うべきである。これ（火と薪）は同時に生じるのであるから、どうして「薪に依って火を立てる」と言えるのか。すなわち、この火は薪を因とするのではない。それぞれが自分の因から同時に生じるからである。また、この火は薪の因によって名付けられるのでもない。火の名前は煖觸によって立てられるからである。 もし「火が薪に依る」という言葉は、同時に生じること、あるいは依止することを示すためであると言うならば、それならば補特伽羅は蘊と同時に生じるか、あるいは蘊に依止すると許すべきである。すでに明らかに体は蘊と異なると許しているのであるから、理の上では許すべきである。もし蘊が無ければ、補特伽羅の体もまた非有であると許すならば、例えば薪が無ければ火の体もまた無いように。しかし、そうは許さないので、この解釈は理に適わない。 しかし、彼らはここで自ら難問を設ける。「もし火が薪と異なるならば、薪は熱くないはずである」と。彼らは「熱い」という体は何かを定めて言うべきである。もし彼らが「熱いとは煖觸のことである」と解釈するならば、薪は熱くない。体と相が異なるからである。もし再び「熱いとは煖と合することである」と解釈するならば、異なる体であっても「熱い」という名前を得るべきである。実の火の名前はただ煖觸だけを指し示し、その他は煖と合するものが皆「熱い」という名前を得るからである。これによって、明らかに薪が「熱い」と名付けられることを許しているのである。薪と火が異なっても過失は成立しないのに、どうしてここで挙げて難問とするのか。 もし「木などが遍く炎が熾んな時に、薪と名付けられ、また火とも名付けられる」と言うならば、「依」の意味は何かと言うべきである。補特伽羅と色などの蘊は必ず一であると定めるべきである。これを遮る理は無い。だから彼らが言う「薪に依って火を立てるように、蘊に依って補特伽羅を立てる」というのは、進めても退いても推し量っても、理として成立しないのである。 また、彼らが補特伽羅と蘊が一でも異でもあり、ともに言うことができないと許すならば、彼らが許す三世・無為および「不可説」の五種の爾焔（認識対象）もまた言うことができないはずである。補特伽羅が「第五」でもなく「非第五」でもなく、言うことができないからである。 また、彼らが補特伽羅を施設するについて、さらに明確に何に託すると言うべきである。もし「蘊に託すると言うならば、仮の意味はすでに成立している。補特伽羅を施設するのに補特伽羅に託さないからである」。もし「この施設は補特伽羅に託すると言うならば、どうして上に『諸蘊に依って立てる』と言ったのか。理の上ではただ『補特伽羅に依る』と言うべきである」。そうは許さないので、ただ蘊に託するのみである。 もし「蘊があればこれ（補特伽羅）を知ることができるので、私は上に『これは蘊に依って立てる』と言ったのである」と言うならば、諸々の色は眼などの縁があって初めて了知できるのであるから、「眼などに依る」と言うべきである。 さらに言うべきである。補特伽羅は六識のうちどの識によって認識されるのか。六識によって認識される。なぜか。もしある時、眼識が色を識別し、それによって補特伽羅を知ることがあるならば、これを「眼識によって認識される」と名付ける。しかし、色と一とも異とも言うことはできない。乃至、ある時、意識が法を識別し、それによって補特伽羅を知ることがあるならば、これを「意識によって認識される」と名付ける。しかし、法と一とも異とも言うことはできない。 もしそうであるならば、計られる補特伽羅は乳などのように、ただ仮に施設されたものとなるはずである。例えば、眼識が諸々の色を識別する時、これによって乳などを知ることができるならば、乳などは眼識によって認識されるといい、色と一とも異とも言うことができないように。乃至、身識が諸々の觸を説く時、これによって乳などを知ることができるならば、乳などは身識によって認識されるといい、觸と一とも異とも言うことができない。乳などが「四」によって成り、あるいは「非四」によって成るということはないように。これによって、総じて諸蘊に依って仮に施設された補特伽羅があるべきであり、世間が総じて色などに依って乳などを施設するように、仮であって実ではないのである。 また、彼らが言う「もしある時、眼識が色を識別し、それによって補特伽羅を知ることがある」とは、どういう意味か。諸々の色が補特伽羅を了知する因であると言うのか。あるいは、色を了知する時に補特伽羅もまた了知されると言うのか。 もし「諸々の色がこれを了知する因である。しかし、これが色と異なると言うことはできない」と言うならば、諸々の色は眼および明、作意などの縁を了知の因とするのであるから、「色は眼などと異なる」と言うことはできないはずである。 もし色を了知する時にこれもまた了知されると言うならば、色が了知できるならば即ちこれが了知されるのか。あるいは、この中に別に了知するものがあるのか。もし色が了知できるならば即ちこれが了知されるならば、この体は即ち色であると許すべきであり、あるいはただ色の上にこれを仮に立てるべきである。あるいは、このような分別があるべきではない。「このような種類のは色であり、このような種類のはこれ（補特伽羅）である」と。もしこのような二種の分別が無いならば、どうやって「色があり、補特伽羅がある」と立てることができるのか。有情は必ず分別によって立てられるからである。 もしこの中に別に了知するものがあるならば、了知する時に別であるから、これは色と異なるべきである。例えば、黄が青と異なり、前が後と異なるように。乃至、法についての難問もまた同じである。 もし彼らが救って言う：「これ（補特伽羅）と色は一とも異とも定めて言うことはできないが、二つの了知するものも相望めて同じである」と。了知するものは有為に属するべきではない。もしこれを許すならば、自らの宗派を壊すことになる。 また、もし補特伽羅が実有であり、色と非色とも言うことができないならば、世尊はどうして「色乃至識は皆、我が無い」と言ったのか。 また、彼らが補特伽羅は眼識によって得られると許すならば、このような眼識は、色とこれ（補特伽羅）のどちらを縁として生じるのか。もし色を縁として生じるならば、「眼識は補特伽羅を了知できる」と言うべきではない。これは眼識の縁ではないからである。例えば、声処などがそうであるように。すなわち、もし識があり、この境を縁として生じるならば、すなわちこの境を所縁縁とするのである。補特伽羅が眼識の縁でないならば、どうして「眼識の所縁である」と言えるのか。だから、これは必ず眼識によって了知されるものではないのである。 もし眼識が生じるのに、これ（補特伽羅）あるいは両方を縁とするならば、経の説に違背する。経典の中では、識の生起は必ず二つの縁によると定判しているからである。また経典に說いている。「苾芻よ、知るがよい。眼は因、色は縁となって眼識を生じる。全ての眼識は、眼と色を縁とするものである」と。 また、もしそうであるならば、補特伽羅は無常であるはずである。経典に説いているからである。すなわち経典に「諸々の因、諸々の縁によって識を生じるものは、皆無常の性質である」と説いている。 もし彼らが遂に「補特伽羅は識の所縁ではない」と言うならば、「認識されるものではない」はずである。もし認識されるものではないならば、「知られるものではない」はずである。もし知られるものではないならば、どうやって「有る」と立てることができるのか。もし「有る」と立てないならば、自らの宗派を壊すことになる。 また、もし六識によって認識されると許すならば、眼識によって認識されるから、声などと異なるはずである。例えば色のように。耳識によって認識されるから、色などと異なるはずである。例えば声のように。残りの識によって認識されることも、これに准じて難じるべきである。 また、これを六識によって認識されると立てるならば、経の説に違背する。例えば経典に言う。「梵志よ、知るがよい。五根の行処と境界はそれぞれ別であり、それぞれが自らの行処と自らの境界だけを受用するのである。異なる根が異なる根の行処や異なる根の境界を受用することはない」と。五根とは眼・耳・鼻・舌・身であり、意は五根の行処とその境界とを受用する。それらは意に依るからである。 あるいは、補特伽羅が五根の境であると執着すべきではない。そうならば、五識によって認識されるものではなくなり、宗派に違背する過失がある。もしそうであるならば、意根の境もまた別であるべきである。 例えば「六生」の喩えの経典に言う。「このような六根の行処と境界は、それぞれに差別があり、それぞれが別々に自らの行処と自らの境界を樂求する」と。ここで言う眼などの六根は、眼などの五根およびその生じる識のことではない。それらには樂求する勢力などが無いからである。ただ、眼などの増上勢力によって引き起こされる意識を「眼などの根」と名付けるのである。獨行の意根の増上勢力によって引き起こされる意識は、眼などの五根が行ずる境界を樂求することができない。 だからこの経の意味は、前の過失に違背しないのである。 また、世尊は説いています。「苾芻よ、知るがよい。私は今、あなたのために、一切の達せられ知られる法門を具足して説き示そう」と。その体は何か。すなわち、諸々の眼・色・眼識・眼觸であり、眼觸を縁として内に生じる受、あるいは楽、あるいは苦、あるいは不苦不楽である。広説すれば乃至、意觸を縁として内に生じる受、あるいは楽、あるいは苦、あるいは不苦不楽である。これを「一切の達せられ知られるもの」と名付けるのである。 この経文によって、一切の達せられ知られる法は、ただこの限度だけであると決判される。この中に補特伽羅は無いのである。だから補特伽羅はまた認識されるものではないはずである。慧と識の境は必ず同じだからである。 諸々の「眼が補特伽羅を見る」と言う者は、知るべきである。眼根はこの「全て」を見るのである。見ることにおいて「我」ではないものを「我」と見るから、彼らは悪見の深い坑に墜ちるのである。 だから仏の経の中で、自らこの意味を決しているのである。すなわち、ただ諸蘊についてのみ補特伽羅と説くのである。 「人」の経典において、このように説いている。「眼と色を縁として眼識が生じ、三つの和合した觸が同時に起こり、受・想・思を伴う。この中の後の四つは無色蘊であり、初めの眼と色は色蘊と名付けられる。ただこの量だけによって『人』と名付けるのである。すなわち、この中において、意味の差別に随って仮に名想を立てるのである。あるいは『有情』、『不悦意』、『生れながらの者』、『儒童』、『養者』、『命者』、『生者』、『補特伽羅』と言い、また自ら『私は眼で色を見る』と言う。また、世俗に随って『この具壽は、このような名前、このような種族、このような姓類、このような飲食、このような受樂、このような受苦、このような長壽、このような久住、このような壽際である』と言うのである。 苾芻よ、知るがよい。これはただ名想であり、これはただ自ら称するものであり、ただ世俗に隨って仮に施設されたものがあるに過ぎない。このような一切は無常であり有為であり、衆縁から生じ、思によって造られたものである」と。 世尊は常に了義経に依るよう勅している。この経は了義であり、異なる解釈をすべきではない。 また、薄伽梵は梵志に告げて言った。「私は、一切の『有』はただ十二処のみであると説く」と。もし補特伽羅（数取趣）が処の攝に属さないならば、「体が無い」という理が成立する。もし処の攝に屬するならば、「不可説である」と言うべきではない。 彼らの部派が誦する経典にもまた言う。「諸々の眼、諸々の色があり、広説すれば乃至、苾芻よ、知るがよい。如来は、これをもって一切の施設を立て、一切の自體ある法を建立するのである。この中に補特伽羅は無い。どうしてこれに実体があると言えるのか」と。 頻毘婆羅の経典にもまた説いている。「諸々の愚昧で、未だ聞かざる異生は、仮の名に隨って逐い、これを『我』と計る。この中には、我も我所もない自性は無く、ただ一切の衆苦の法体のみがあり、将に正しく已に生じようとしている。広説すれば乃至」と。 阿羅漢の苾芻尼で、名を世羅という者がいた。魔王のために説いた。

汝墮惡見趣， 於空行聚中，妄執有有情， 智者達非有。如即攬眾分， 假想立為車，世俗立有情， 應知攬諸蘊。

> 汝は悪しき見解に堕ち、空なる行聚の中にあって、 有情が実在すると妄に執着するが、智者は非有であると悟る。 たとえば、多くの部分を集めて、仮に想いを巡らせて「車」と名付けるように、 世俗では諸々の蘊を集めて「有情」と立てるのだと知るべきである。

世尊於《雜阿笈摩》中為婆羅門婆拕梨說：

> 世尊在《雜阿含經》中，對婆羅門婆拕梨這樣開示：

婆拕梨諦聽， 能解諸結法，謂依心故染， 亦依心故淨。我實無我性， 顛倒故執有，無有情無我， 唯有有因法。謂十二有支， 所攝蘊處界，審思此一切， 無補特伽羅，既觀內是空， 觀外空亦爾，能修空觀者， 亦都不可得。

> 婆拕梨よ、よく聞け。 悩みを解く全ての法を説こう。 心に依って染まり、 また心に依って清らかになる。 実に我という本性はなく、 顛倒の故に存在すると執着する。 有情も我もなく、 ただ原因のある法だけがある。 それは十二の縁起の支分であり、 蘊・処・界に摂められる。 これら全てをよく観察すれば、 補特伽羅（個我）は存在しない。 内を観れば空であり、 外もまた空であると観る。 空の観を修める者も、 結局は得るものがない。

經說：執我有五種失，謂起我見及有情見墮惡見趣，同諸外道越路而行，於空性中心不悟入、不能淨信、不能安住、不得解脫，聖法於彼不能清淨。此皆非量。所以者何？於我部中曾不誦故。汝宗許是量，為部為佛言？若部是量，佛非汝師、汝非釋子。若佛言者，此皆佛言，如何非量。彼謂：此說皆非真佛言。所以者何？我部不誦故。此極非理。非理者何？如是經文諸部皆誦，不違法性及餘契經，而敢於中輒興誹撥，我不誦故非真佛言。唯縱兇狂，故極非理。又於彼部豈無此經，謂一切法皆非我性。若彼意謂補特伽羅與所依法不一不異，故說一切法皆非我。既爾，應非意識所識，二緣生識經決判故。又於餘經如何會釋？謂契經說：非我計我此中具有想心見倒。計我成倒，說於非我，不言於我，何煩會釋。非我者何？謂蘊處界。便違前說補特伽羅與色等蘊不一不異。又餘經說：苾芻當知，一切沙門婆羅門等諸有執我等隨觀見，一切唯於五取蘊起。故無依我起於我見，但於非我法妄分別為我。又餘經言：諸有已憶正憶當憶種種宿住，一切唯於五取蘊起，故定無有補特伽羅。若爾，何緣此經復說我於過去世有如是色等？此經為顯能憶宿生一相續中有種種事。若見實有補特伽羅於過去生能有色等，如何非墮起身見失？或應誹撥言無此經，是故此經依總假我，言有色等如聚如流。若爾，世尊應非一切智，無心心所能知一切法剎那剎那異生滅故。若許有我可能遍知，補特伽羅則應常住，許心滅時此不滅故，如是便越汝所許宗。我等不言佛於一切能頓遍知故名一切智者，但約相續有堪能故，謂得佛名諸蘊相續成就如是殊勝堪能，纔作意時於所欲知境無倒智起故名一切智，非於一念能頓遍知。故於此中有如是頌：

> 経典にはこう説かれています。「我がある」と執着することには五つの過失がある。すなわち、我見や有情見を起こして悪見の境地に堕ち、外道と同じく道を踏み外し、空性に対して心が悟りに入らず、清らかな信を起こせず、安住できず、解脱を得られず、聖法がその人にとって清らかになることがない、と。これらはすべて正しい根拠とはなりません。なぜなら、私（仏弟子）の教団ではこの経典を誦えていないからです。あなたの宗派ではこれを正しい根拠と認めていますが、それは教団の伝承によるものですか、それとも仏の言葉によるものですか？もし教団の伝承が正しい根拠なら、仏はあなたの師ではなく、あなたは釈迦の弟子でもありません。もし仏の言葉が正しい根拠なら、これらの教えはすべて仏の言葉であり、どうして正しい根拠ではないことがありましょうか。 彼らは言います。「これらの説はすべて真の仏の言葉ではない。なぜなら、私の教団では誦えていないからだ」と。これは全く理にかなっていません。どうして理にかなわないのか？このような経文は諸部派で皆誦えており、法性や他の経典にも違反していないのに、それなのに敢えて誹謗し、「私が誦えないから真の仏の言葉ではない」と言うのは、ただ暴言を吐くだけであり、全く理にかなっていません。 また、あなたの教団にもこの経典がないでしょうか。すなわち、「一切の法は我の性質ではない」という経典です。もし彼らが、「補特伽羅（人我）は所依の法と同一でも別異でもないので、一切法は我ではないと説くのだ」と考えるなら、それならば補特伽羅は意識によって認識されるべきではないはずです。なぜなら、「二つの縁によって識が生じる」と経典で明確に定められているからです。 さらに、他の経典ではどう解釈するのでしょうか。すなわち、経典にこう説かれています。「非我に対して我と執着する、ここには想・心・見の三つの倒錯がある」と。我と計ることが倒錯になるのは、非我について説かれており、我について説かれているのではありません。どうしてわざわざ解釈が必要でしょうか。非我とは何か？すなわち五蘊・十二処・十八界です。これは先に述べた「補特伽羅は色等の蘊と同一でも別異でもない」という説に違反しています。 また、他の経典にはこう説かれています。「比丘たちよ、知るがよい。すべての沙門や婆羅門などで、我について執着し様々な見解を起こす者は、すべてただ五取蘊において起こるのである」と。したがって、我に依って我見が生じるのではなく、ただ非我の法を誤って我と分別するだけなのです。 また、他の経典にはこう説かれています。「諸々の者が過去の様々な宿命を記憶し、現在記憶し、未来に記憶するであろうが、すべてただ五取蘊において起こるのである」と。したがって、補特伽羅が実在することは決してありません。 それでは、なぜこの経典では「私は過去世においてこのような色（物質的形態）を持っていた」と説くのでしょうか？この経典は、過去生を記憶するという一つの相続（心身の連続）の中に様々な事柄があることを示すためのものです。もし補特伽羅が実在し、過去生において色等を持つことができると見るなら、どうして身見を起こす過失に堕ちないでありましょうか？あるいは「この経典は存在しない」と誹謗すべきでしょうか？したがって、この経典は総体的な仮の我に基づいて、「色等がある」と説き、それがちょうど集まりや流れのようなものだと言っているのです。 もしそうなら、世尊は一切智者ではないはずです。なぜなら、心も心所も、すべての法が刹那刹那に異なって生滅することを知ることはできないからです。もし我が存在し、すべてを知り得るなら、補特伽羅は常住であるべきであり、心が滅する時にもこれは滅しないと認めることになり、そうすればあなたの認める宗義を超えてしまいます。 私は「仏は一切を一度に全て知るから一切智者である」とは言いません。ただ相続（連続した心身）にそのような堪能性があることによるのです。すなわち、仏という名前を得た五蘊の相続が、このような殊勝な堪能性を成就し、思惟するだけで、知りたい対象に対して誤りのない智が生じるから一切智者と言うのであり、一念において全てを一度に知るからではありません。 そこで、ここに次のような偈があります。

由相續有能， 如火食一切，如是一切智， 非由頓遍知。

> 相続によって能（はたらき）がある、 例えば火が一切を焼き尽くすように。 このように一切智もまた、 一度に全てを知るわけではない。

如何得知約相續說知一切法，非我遍知？說佛世尊有三世故。於何處說？如有頌言：

> 「どのようにして、相続（連続する心の流れ）について説いて、すべての法を知るということを知るのでしょうか。それは私が全てを完全に知っているわけではありません。なぜなら、仏・世尊は三つの時代（過去・現在・未来）について説かれたからです。それはどこで説かれたのでしょうか。例えば、次の偈（うた）のようにあります。」

若過去諸佛， 若未來諸佛，若現在諸佛， 皆滅眾生憂。

> 過去のすべての仏さまも、未来のすべての仏さまも、そして現在のすべての仏さまも、皆、人々の苦しみを消し去ってくださいます。

汝宗唯許蘊有三世，非數取趣，故定應爾。

> あなたの宗派では、五蘊が三世にわたって存在するとは認めるが、数取趣（衆生）の存在は認めないとしている。したがって、必然的にそのような結論になるのである。

## 說一切有部俱舍論卷第二十九

> 説一切有部倶舎論 巻第二十九