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title: "阿毘達磨俱舍論 · 2"
description: "阿毘達磨俱舍論是印度佛教论师世亲尊者所造的重要论典，由唐代高僧玄奘翻译为中文。该论成书于公元5世纪左右，属于说一切有部的核心著作，系统阐述佛教教义，尤其是对法相、因果、轮回等核心概念进行精密分析。内容涵盖界品、根品、世间品、业品、随眠品、贤圣品、智品和定品八大部分，体系严谨。在佛教史上具有承前启后的地位，既总结部派佛教思想，又为大乘佛教奠定理论基础，被誉为小乘佛学百科全书，对汉传佛教和藏传佛教均产生深远影响。"
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## 阿毘達磨俱舍論卷第三十

> 阿毘達磨俱舍論 巻第三十

尊者世親造

> 尊者世親造

三藏法師玄奘奉　詔譯

> 三蔵法師玄奘奉詔訳

### 破執我品第九之二

> 第九品 破執我品（之二）

若唯五取蘊名補特伽羅，何故世尊作如是說：吾今為汝說諸重擔、取捨重擔、荷重擔者。何緣於此佛不應說？不應重擔即名能荷。所以者何？曾未見故。不可說事亦不應說。所以者何？亦未見故。又取重擔應非蘊攝，重擔自取，曾未見故。然經說愛名取擔者，既即蘊攝，荷者應然，即於諸蘊立數取趣。然恐謂此補特伽羅是不可說常住實有，故此經後佛自釋言：但隨世俗，說此具壽有如是名，乃至廣說。如上所引人經文句，為令了此補特伽羅，可說無常非實有性。即五取蘊自相逼害得重擔名。前前剎那引後後故名為荷者，故非實有補特伽羅。補特伽羅定應實有，以契經說諸有撥無化生有情邪見攝故。誰言無有化生有情？如佛所言：我說有故。謂蘊相續能往後世，不由胎卵濕名化生有情。撥此為無，故邪見攝。化生諸蘊，理實有故。又許此邪見謗補特伽羅。汝等應言，是何所斷？見修所斷。理並不然，補特伽羅非諦攝故，邪見不應修所斷故。若謂經說有一補特伽羅生在世間，應非蘊者，亦不應理，此於總中假說一故，如世間說一麻一米一聚一言。或補特伽羅應許有為攝，以契經說生世間故。非此言生如蘊新起，依何義說生在世間？依此今時取別蘊義，如世間說能祠者生、記論者生，取明論故。又如世說有苾芻生、有外道生，取儀式故。或如世說有老者生，有病者生，取別位故。佛已遮故，此救不成。如勝義空契經中說：有業有異熟，作者不可得。謂能捨此蘊，及能續餘蘊，唯除法假。故佛已遮。頗勒具那契經亦說：我終不說有能取者。故定無一補特伽羅能於世間取捨諸蘊。又汝所引祠者等生，其體是何而能喻此？若執是我，彼不極成。若心心所，彼念念滅、新新生故，取捨不成。若許是身，亦如心等。又如明等與身有異，蘊亦應異補特伽羅。老病二身各與前別，數論轉變如前已遣，故彼所引為喻不成。又許蘊生非數取趣，則定許此異蘊及常。又此唯一，蘊體有五，寧不說此與蘊有異？大種有四，造色唯一，寧言造色不異大種？是彼宗過。何謂彼宗？諸計造色即大種論。設如彼見，應作是質：如諸造色即四大種，亦應即五蘊立補特伽羅。若補特伽羅即諸蘊者，世尊何不記命者即身？觀能問者阿世耶故。問者執一內用士夫體實非虛名為命者，依此問佛與身一異。此都無故，一異不成，如何與身可記一異？如不可記龜毛䩕軟，古昔諸師已解斯結。昔有大德名曰龍軍，三明六通具八解脫。于時有一畢隣陀王，至大德所作如是說：我今來意欲請所疑。然諸沙門性好多語，尊能直答，我當請問。大德受請。王即問言：命者與身為一為異？大德答言：此不應記。王言：豈不先有要耶？今何異言不答所問？大德質曰：我欲問疑。然諸國王性好多語，王能直答，我當發問。王便受教。大德問言：大王宮中諸菴羅樹所生果味為酢為甘。王言：宮中本無此樹。大德復責：先無要耶？今何異言不答所問。王言：宮內此樹既無，寧可答言果味甘酢？大德誨曰：命者亦無，如何可言與身一異？佛何不說命者都無？亦觀問者阿世耶故。問者或於諸蘊相續謂為命者，依之發問。世尊若答命者都無，彼墮邪見，故佛不說。彼未能了緣起理故，非受正法器，不為說假有。理必應爾，世尊說故。如世尊告阿難陀言：有姓筏蹉出家外道，來至我所作是問言：我於世間為有非有？我不為記。所以者何？若記為有，違法真理，以一切法皆無我故。若記為無，增彼愚惑，彼便謂我先有今無。對執有愚，此愚更甚，謂執有我則墮常邊，若執無我便墮斷邊。此二輕重，如經廣說。依如是義，故有頌曰：

> もし五つの取蘊のみを「人」と名づけるのなら、なぜ世尊はこのようにお説きになったのか。「私はあなたたちのために、重い荷物、荷物を取ること、荷物を捨てること、荷物を担う者について説こう」と。どのような理由で、仏はこのことを説かないのだろうか。重い荷物そのものが、それを担う者であるとは言えない。なぜなら、そのようなことは未だ見たことがないからである。説くことのできない事柄についても、説くべきではない。なぜなら、それもまた未だ見たことがないからである。また、荷物を取ることは、蘊に含まれるべきではない。荷物そのものが自分自身を取るということは、未だ見たことがないからである。しかし、経典では「愛」を荷物を取る者と説いている。すでに蘊に含まれるのであれば、荷物を担う者もまた同様であるべきで、諸々の蘊の中に「人」を立てるのである。しかし、「この人は常住の実有として説くことができない」と恐れて、この経の後に仏自らが解説して言うには、「ただ世俗に従って、この具寿にこのような名前があると説く」と。以上のように経典の文句を引用したのは、この「人」が無常であり、実有の性質ではないことを理解させるためである。すなわち、五つの取蘊が自らの相によって逼害されることにより、「重い荷物」という名前を得る。前の刹那が後の刹那を引き起こすことによって「担う者」と名づけられるのであって、実有の「人」が存在するのではない。しかし、「人」は必ず実有であるはずだ。なぜなら、経典において「化生有情を否定する者たちは邪見に陥る」と説かれているからである。誰が化生有情は存在しないと言うのだろうか。仏が言われるように、「私は存在すると説く」のである。すなわち、蘊の相続が後世に赴くことであり、胎生・卵生・湿生によらずに「化生有情」と名づける。これを否定することは、邪見に含まれる。化生の諸蘊は、理として実在するからである。また、この邪見が「人」を否定するものであると認めるならば、あなたがたは言うべきである。これは何によって断たれるのか。見所断か修所断か。しかし、理としてはどちらでもない。「人」は真理としての諦に含まれないからであり、邪見は修所断によって断たれるべきではないからである。もし「経典に『一人の人が世間に生まれる』と説かれているので、これは蘊ではないはずだ」と言うならば、それも理に適わない。これは全体の中に「一」を仮に説いたものであり、世間で「一つの麻、一つの米、一つの集まり、一つの言葉」と言うのと同じである。あるいは、「人」は有為に含まれると認めるべきである。なぜなら、経典に「世間に生まれる」と説かれているからである。この「生」は蘊が新たに生じるような意味ではない。では、どのような意味で「世間に生まれる」と説くのか。それは、この時に別の蘊を取るという意味に基づく。世間で「祠を司る者が生まれる」「論を記す者が生まれる」と言い、明論を取るのと同じである。あるいは、世間で「比丘が生まれる」「外道が生まれる」と言い、儀式を取るのと同じである。あるいは、世間で「老いた者が生まれる」「病める者が生まれる」と言い、別の位を取るのと同じである。仏はすでに否定されたので、この救済の試みは成立しない。勝義空経において説かれているように、「業はあり、異熟はあるが、作者は得られない」のである。すなわち、この蘊を捨て、他の蘊を継続させることができるのは、法の仮設を除いてはない。ゆえに、仏はすでに否定されたのである。頗勒具那経においても、「私は取る者があるとは説かない」とお説きになられた。ゆえに、世間において諸蘊を取り捨てる「人」は決して存在しないのである。また、あなたがたが引用する「祠を司る者が生まれる」などの例は、その本体は何であり、どうしてこれを喩えることができるのか。もし「我」であると執するならば、それは成立しない。もし心・心所であるならば、それらは刹那ごとに滅し、新たに生じるのであり、取り捨ては成立しない。もし身であると認めるならば、それもまた心などのように刹那滅である。また、明などが身と異なるように、蘊もまた「人」と異なるべきである。老・病の二つの身は、それぞれ前のものと異なる。数論派の転変の説は、前述の通りすでに否定されたので、彼らが引用する喩えは成立しない。また、蘊が生じるのであって「人」が生じるのではないと認めるならば、必然的に「人」は蘊と異なり、かつ常住であると認めることになる。また、この「人」は一つであるのに、蘊の体は五つである。どうして「人」は蘊と異なると説かないのだろうか。四大種は四つであるのに、造色は一つである。どうして「造色は大種と異ならない」と説くのだろうか。それは彼らの宗派の過失である。彼らの宗派とは何か。造色がすなわち大種であると考える論である。たとえ彼らの見解の通りであるとしても、次のように問い詰めるべきである。諸々の造色が四大種であるならば、同じように五つの蘊によって「人」を立てるべきである。もし「人」が諸蘊そのものであるならば、なぜ世尊は「命者すなわち身である」と記別しなかったのか。問い手の意図（阿世耶）を見たからである。問い手は、内にある一つの作用する士夫が実体としてあり、虚妄ではないと執着して、それを「命者」と名づけ、これに基づいて仏に身との一・異を問うたのである。しかし、この「命者」は全く存在しないので、一・異は成立しない。どうして身との一・異を記別できるだろうか。存在しない亀の毛の柔らかさや硬さを記別できないのと同じである。古昔の師たちはすでにこの結び目を解いた。昔、龍軍という大徳がおり、三明・六通・八解脱を具えていた。その時、畢隣陀王という王が大徳のもとに来て、次のように言った。「私が今ここに来たのは、疑問を請うためである。しかし、沙門たちは多弁を好む性質である。尊よ、まっすぐに答えていただけるなら、私は質問しようと思う」。大徳は請けを受けた。王は問うた。「命者と身は一つですか、それとも異なるのですか」。大徳は答えた。「これは記別すべきではない」。王は言った。「先に約束があったではないか。今なぜ約束を変えて、問いに答えないのか」。大徳は問い質した。「私も疑問を問いたい。しかし、国王たちは多弁を好む性質である。王がまっすぐに答えていただけるなら、私は発問しようと思う」。王は教えを受け入れた。大徳は問うた。「大王の宮中にあるアーシュマの木の実の味は、酸っぱいのですか、甘いのですか」。王は言った。「宮中にはもともとこの木はない」。大徳は再び責めた。「先に約束があったではないか。今なぜ約束を変えて、問いに答えないのか」。王は言った。「宮中にこの木がないのなら、どうして実の味が甘いか酸っぱいかと答えられるだろうか」。大徳は教え諭した。「命者もまた存在しない。どうして身との一・異を語ることができるだろうか」。仏が「命者は全く存在しない」と説かれないのは、これもまた問い手の意図を見たからである。問い手は、諸蘊の相続を「命者」と見なして、それに基づいて問うたのである。世尊がもし「命者は全く存在しない」と答えたならば、彼は邪見に陥るであろう。だから仏は説かれなかったのである。彼はまだ縁起の理を理解していないため、正しい法の器ではなく、仮設の有について説かれなかったのである。理として必ずこのようであるべきで、世尊がそう説かれたからである。例えば、世尊が阿難陀に告げられたように、「筏蹉という姓の出家外道が、私のもとに来て、『私は世間に存在するのか、存在しないのか』と問うた。私は記別しなかった。なぜなら、もし『存在する』と記別すれば、法の真理に違反するからである。すべての法は無我であるからだ。もし『存在しない』と記別すれば、彼の愚かさと迷いを増すことになる。彼は『私はかつて存在し、今は存在しない』と考えるであろうからだ。存在すると執する愚かさと比べて、この不存在すると執する愚かさはさらに甚だしい。すなわち、我が存在すると執すれば常辺に堕ち、我が存在しないと執すれば断辺に堕ちるからである。この二つの軽重については、経典で詳しく説かれている」。このような意味に基づいて、次のような頌がある。

觀為見所傷， 及壞諸善業，故佛說正法， 如牝虎銜子。執真我為有， 則為見牙傷，撥俗我為無， 便壞善業子。

復說頌曰：

由實命者無， 佛不言一異，恐撥無假我， 亦不說都無。謂蘊相續中， 有業果命者，若說無命者， 彼撥此為無。不說諸蘊中， 有假名命者，由觀發問者， 無力解真空。如是觀筏蹉， 意樂差別故，彼問有無我， 佛不答有無。

> 実に命というものは存在しない、 仏は一とも異なるとも説かれない。 仮の我を否定することを恐れて、 また全てが無いとも説かれない。 蘊の相続の中に、 業と果と命ある者があると説く。 もし命ある者が無いと言えば、 彼はこれを無いものとして否定する。 諸の蘊の中に、 仮名の命ある者が存在すると説くことはない。 問いを発する者を見て、 真空を解する力が無いからである。 このように筏蹉（ヴァツチャ）を見て、 意楽の違いによって、 彼が我れ有りや無しやと問うとき、 仏は有りとも無しとも答えられなかった。

何緣不記世間常等？亦觀問者阿世耶故。問者若執我為世間，我體都無故，四記皆非理。若執生死皆名世間，佛四種記亦皆非理。謂若常者，無得涅槃。若是非常，便自斷滅，不由功力咸得涅槃。若記為常亦非常者，定應一分無得涅槃，一分有情自證圓寂。若記非常非非常者，則非得涅槃，非不得涅槃。決定相違，便成戲論。然依聖道可般涅槃，故四定記皆不應理。如離繫子問雀死生，佛知彼心不為定記。有邊等四亦不記者，以同常等皆有失故。寧知此四義同常等？以有外道名嗢底迦，先問世間有邊等四，復設方便矯問世尊：為諸世間皆由聖道能得出離、為一分耶？尊者阿難因告彼曰：汝以此事已問世尊，今復何緣改名重問？故知後四，義與前同。復以何緣世尊不記如來死後有等四耶？亦觀問者阿世耶故，問者妄計已解脫我名為如來而發問故。今應詰問計有我者，佛何緣記有現補特伽羅，不記如來死後亦有？彼言恐有墮常失故。若爾，何緣佛記慈氏汝於來世當得作佛，及記弟子身壞命終，某甲今時已生某處。此豈非有墮常過失？若佛先見補特伽羅，彼涅槃已便不復見，以不知故不記有者，則撥大師具一切智。或應許不記，由我體都無。若謂世尊見而不說，則有離蘊及常住過。若見非見俱不可說，則應漸言，不可說佛是一切智非一切智。若謂實有補特伽羅，以契經言諦故住故，定執無我者墮惡見處故。此不成證，彼經亦說定執有我者墮惡見處故。阿毘達磨諸論師言：執我有無俱邊見攝，如次墮在常斷邊故。彼師所說深為應理，以執有我則墮常邊，若執無我便墮斷邊。前《筏蹉經》分明說故。若定無有補特伽羅，為說阿誰流轉生死？不應生死自流轉故。然薄伽梵於契經中，說諸有情無明所覆、貪愛所繫馳流生死，故應定有補特伽羅。此復如何流轉生死？由捨前蘊取後蘊故。如是義宗前已徵遣。如燎原火雖剎那滅，而由相續說有流轉。如是蘊聚假說有情，愛取為緣流轉生死。若唯有蘊，何故世尊作如是說：今我於昔為世導師名為妙眼。此說何咎？蘊各異故。若爾，是何物謂補特伽羅？昔我即今，體應常住，故說今我昔為師言，顯昔與今是一相續，如言此火曾燒彼事。若謂決定有真實我，則應唯佛能明了觀，觀已應生堅固我執，從斯我執我所執生，從此應生我我所愛。故薄伽梵作如是言：若執有我便執我所，執我所故於諸蘊中便復發生我我所愛薩迦耶見，我愛所縛則為謗佛，去解脫遠。若謂於我不起我愛，此言無義。所以者何？於非我中橫計為我，容起我愛。非實我中，如是所言無理為證，故彼於佛真聖教中無有因緣起見瘡皰。如是一類執有不可說補特伽羅。復有一類總撥一切法體皆非有。外道執有別真我性，此等一切見不如理，皆不能免無解脫過。若一切類我體都無，剎那滅心於曾所受久相似境何能憶知？如是憶知，從相續內念境想類心差別生。且初憶念為從何等心差別無間生？從有緣彼作意相似相屬想等，不為依止差別愁憂散亂等緣損壞功德心差別起。雖有如是作意等緣，若無彼類心差別者，則無堪能修此憶念。雖有彼類心差別因，若無如是緣，亦無能修理，要具二種方可能修。諸憶念生但由於此，不見離此有功能故。如何異心見，後異心能憶。非天授心曾所見境，後祠授心有憶念理。此難非理，不相屬故。謂彼二心互不相屬，非如一相續有因果性故。我等不言異心見境異心能憶，相續一故。然從過去緣彼境心，引起今時能憶念識。謂如前說相續轉變差別力故生念何失？由此憶念力，有後記知生。我體既無，孰為能憶？能憶是何義？由念能取境。此取境豈異念？雖不異念，但由作者，作者即是前說念因，謂彼類心差別。然世間所言制怛羅能憶，此於蘊相續立制怛羅名。從先見心後憶念起，依如是理說彼能憶。我體若無，是誰之念？為依何義說第六聲？此第六聲依屬主義，如何物屬何主？此如牛等屬制怛羅。彼如何為牛主？謂依彼彼所乘所搆所役等中彼得自在。欲於何所驅役於念，而勤方便尋求念主？於所念境驅役於念。役念為何？謂令念起。奇哉自在起無理言，寧為此生而驅役此？又我於念如何驅役？為令念起、為令念行？念無行故，但應念起。則因名主，果名能屬。由因增上令果得生，故因名主。果於生時是因所有，故名能屬。即生念因足為念主，何勞立我為念主耶？即諸行聚一類相續，世共施設制怛羅牛，立制怛羅名為牛主。是牛相續於異方生，變異生因故名為主。此中無一實制怛羅亦無實牛，但假施設，故言牛主，亦不離因。憶念既爾，記知亦然。如辯憶知，熟為能了誰之識等，亦應例釋。且識因緣與前別者，謂根境等，如應當知。有作是言：決定有我，事用必待事用者故。謂諸事用待事用者，如天授行必待天授。行是事用天授名者，如是識等所有事用，必待所依能了等者。今應詰彼：天授謂何？若是實我，此如先破。若假士夫，體非一物，於諸行相續假立此名故。如天授能行，識能了亦爾。依何理說天授能行？謂於剎那生滅諸行不異相續立天授名，愚夫於中執為一體，為自相續異處生因。異處生名行，因即名行者。依此理說天授能行。如焰及聲異處相續，世依此說焰聲能行。如是天授身能為識因故，世間亦謂天授能了。然諸聖者為順世間言說理故，亦作是說。經說諸識能了所緣，識於所緣為何所作？都無所作，但以境生。如果酬因，雖無所作而似因起，說名酬因。如是識生，雖無所作而似境，故說名了境。如何似境？謂帶彼相。是故諸識雖亦託根生，不名了根，但名為了境。或識於境相續生時，前識為因引後識起，說識能了亦無有失，世間於因說作者故。如世間說鍾鼓能鳴，或如燈能行，識能了亦爾。為依何理說燈能行？焰相續中假立燈號，燈於異處相續生時說為燈行，無別行者。如是心相續假立識名，於異境生時說名能了。或如色有色生色住，此中無別有生住者。說識能了，理亦應然。若後識生，從識非我。何緣從識？不恒似前，及不定次生，如芽莖葉等，有為皆有住異相故。謂諸有為自性法爾，微細相續後必異前。若異此者，縱意入定，身心相續相似而生，後念與初無差別故，不應最後念自然從定出。諸心相續亦有定次，若此心次彼心應生，於此心後彼必生故。亦有少分行相等心方能相生，種性別故。如女心無間起嚴污身心，或起彼夫彼子心等。後時從此諸心相續轉變差別還生女心。如是女心於後所起嚴污心等有生功能，異此無功能，由種性別故。女心無間容起多心，然多心中若先數起、明了近起，先起非餘。由如是心修力強故，唯除將起位身外緣差別。諸有修力最強盛者，寧不恒時生於自果？由此心有住異相故，此住異相於別修果相續生中最隨順故。諸心品類次第相生因緣方隅我已略說，委悉了達唯在世尊，一切法中智自在故。依如是義故，有頌言：

> なぜ世尊は「世間は常住である」などの問いにお答えにならないのか。それは、問い者の心の傾向を見られるからである。もし問い者が「我」を世間と執着しているなら、我という実体は全く無いので、四つの答えはすべて理に適わない。もし問い者が生死をすべて世間と執着しているなら、仏の四つの答えもすべて理に適わない。すなわち、もし常住であるならば、涅槃を得ることはない。もし無常であるならば、自然に断滅し、努力することなく皆涅槃を得ることになる。もし常でも無常でもあると答えるならば、必ず一部の者は涅槃を得ず、一部の有情は自ら涅槃を証するであろう。もし無常でも非常でもないと答えるならば、涅槃を得ることもなく、得ないこともないことになる。これは決定的に矛盾し、ただの戯論となる。しかし聖道に依ってこそ涅槃に入ることができるので、四つの確定した答えはすべて理に適わないのである。例えば、離繋子が雀の死生を問うたとき、仏は彼の心を知って明確な答えをされなかった。有辺などの四つの問いも答えられなかったのは、常などの場合と同じく、すべて過失があるからである。どうしてこの四つの義が常などの場合と同じだと知るのか。嗢底迦という外道がいて、先に世間の有辺などの四つの問いを問い、さらに方便を設けて世尊に「すべての世間は聖道によって出離できるのか、それとも一部だけか」と偽って問うた。尊者阿難は彼に告げて言った、「あなたはこの事をすでに世尊に問うたのに、今またどうして名を変えて重ねて問うのか」と。故に後の四つも、義は前の四つと同じであると知るべきである。また、なぜ世尊は如来の死後にあるか無いかなどの四つの問いにも答えられなかったのか。それも問い者の心の傾向を見られるからである。問い者は自分が解脱した「我」を如来と誤って考えて問うたからである。さて、我を有ると執着する者に問うべきである。仏はなぜ現に補特伽羅が有ると記し、如来の死後にも有ると記さなかったのか。彼は「常住の過失に堕ちるのを恐れたからである」と言う。もしそうなら、なぜ仏は慈氏に「汝は来世に仏となるであろう」と記し、弟子に対して「某甲は身を壊し命終わって、今どこそこに生まれた」と記したのか。これは常住の過失に堕ちるのではないか。もし仏が先に補特伽羅を見て、涅槃の後はもう見えないので、知らないから有ると記さなかったとするならば、それでは大師の一切智を否定することになる。あるいは、我の実体が全く無いから記さなかったと許すべきであろう。もし世尊が見ていながら説かなかったとするならば、蘊を離れた我と常住という過失がある。もし見るとも見ないとも言えないとするならば、仏は一切智であるとも一切智でないとも言えない、と漸言すべきであろう。もし実に補特伽羅が有るとするならば、経典に「諦であり住である」と説かれ、無我を固く執着する者は悪見処に堕ちると説かれているからである。これは証明にならない。その経典も、我を固く執着する者は悪見処に堕ちると説いているからである。アビダルマの論師たちはこう言う。「我が有ると執着し、無いと執着することは、ともに辺見に含まれ、それぞれ常辺と断辺に堕ちる」と。この説は非常に理にかなっている。我を執着すれば常辺に堕ち、我を無いと執着すれば断辺に堕ちるからである。先の『筏蹉経』に明確に説かれている。もし補特伽羅が全く無いならば、誰のために生死を流転すると説くのか。生死が自ら流転することはないからである。しかし世尊は経典の中で「諸の有情は無明に覆われ、貪愛に繋がれて生死を馳流する」と説かれた。故に補特伽羅は必ず有ると言わざるを得ない。では、これはどのように生死を流転するのか。前の蘊を捨てて後の蘊を取るからである。このような義の宗は先にすでに論破した。たとえ燎原の火が刹那に滅しても、相続によって流転があると説くように。このように蘊の集まりを仮に有情と説き、愛と取を縁として生死を流転するのである。もし蘊だけがあるならば、なぜ世尊は「今の私は昔、世の導師であり、妙眼と名づけられた」と説かれたのか。この説に何の咎があるのか。蘊はそれぞれ異なるからである。もしそうなら、補特伽羅とは何か。「昔の私が今の私である」ならば、体は常住であるべきである。故に「今の私が昔、導師であった」と説くのは、昔と今が一つの相続であることを示すのであり、たとえば「この火がかつてあの事を焼いた」と言うのと同じである。もし決定して真実の我があるとするならば、ただ仏のみが明らかに観ることができ、観たならば固い我執を生じ、その我執から我所執が生じ、そこから我と我所の愛が生じるであろう。故に世尊はこう説かれた。「もし我を執着すれば我所を執着し、我所を執着すれば諸の蘊の中で我と我所の愛とサッカーヤ見を生じ、我愛に縛られれば仏を謗り、解脱から遠ざかる」と。もし我に対して我愛を起こさないとするならば、この言葉は無意味である。なぜなら、我でないものに我と横で計れば、我愛を起こすことはあり得るが、真実の我でないものに対しては、そのような言い分は理の証拠がなく、故に彼らは仏の真の聖教の中に、見解の瘡皰を起こす因縁がないのである。このように、ある一類は不可説の補特伽羅を執着し、また一類はすべての法の体がすべて無いと完全に否定する。外道は別の真実の我性があると執着する。これらのすべての見解は理に適わず、みな解脱のない過失を免れない。もしすべての類に我の体が全く無いならば、刹那に滅する心が、かつて受けた久しい過去の類似した境をどうして憶え、知ることができるのか。このような記憶と知識は、相続の中の念、境、想、類、心の差別から生じる。まず、最初の記憶はどのような心の差別から無間に生じるのか。それは、その境を縁とし、作意し、相似し、相属し、想などがあり、依止の差別、愁憂、散乱などの縁に損壊されていない功德の心の差別から生じる。このような作意などの縁があっても、もしその類の心の差別がなければ、この記憶を修することができない。また、その類の心の差別の因があっても、もしこのような縁がなければ、また修することができない。要するに二つの条件を備えて初めて修することができるのである。諸の記憶が生じるのは、このためだけであり、これ以外に機能があるとは見られない。どうして異なる心で見た境を、後の異なる心が記憶することができるのか。たとえば天授の心が見た境を、祠授の心が記憶することは道理に合わない。この非難は理に適わない。互いに相属しないからである。二つの心は互いに相属せず、一つの相続のような因果性がないからである。我々は、異なる心で境を見て異なる心が記憶すると言っているのではない。相続が一つだからである。しかし過去のその境を縁じた心から、今の能憶の識を引起するのである。先に説いたように、相続の転変差別の力によって憶念が生じることに何の過失があるのか。この憶念の力によって、後の記知が生じる。我の体が全く無いならば、誰が憶える者であるのか。「能憶」とは何の意味か。念によって境を取ることができる。この取境は念と異なるのか。念と異ならないが、作者による。作者とは先に説いた念の因、すなわちその類の心の差別である。しかし世間では「制怛羅が憶える」と言うが、これは蘊の相続に制怛羅という名を立てたものである。先に見た心から後の憶念が生じることに基づいて、彼が憶えると説くのである。我の体が無いならば、誰の念であるのか。何の義に基づいて第六の声を説くのか。この第六の声は属主の義に依る。何がどの主に属するのか。たとえば牛などが制怛羅に属するようなものである。彼はどうして牛の主なのか。彼がその牛に乗り、搾り、使役することにおいて自在を得ているからである。どこで念を駆役しようとして、方便を求め、念の主を尋ねるのか。念の境において念を駆役する。念を駆役して何をするのか。念を起こさせることである。ああ、自在というのは理なき言葉を起こすものである。どうしてこの生のために、これを駆役するのか。また、我は念をどのように駆役するのか。念を起こさせるのか、念を行かせるのか。念には行がないから、ただ念を起こさせることになる。すると因を主と名づけ、果を能属と名づける。因の増上によって果が生じることを得るので、因を主と名づける。果は生じる時、因の所有であるから、能属と名づける。すなわち、念を生じる因がまさに念の主である。どうしてわざわざ我を念の主と立てるのか。諸の行聚の一類の相続を、世間では共同して制怛羅の牛と施設し、制怛羅の名を立てて牛の主とする。その牛の相続が異なる場所に生じる時、変異して生じる因であるから主と名づける。ここには一つの真実の制怛羅もなく、真実の牛もない。ただ仮に施設するだけで、牛の主と言っても、因を離れないのである。記憶がそうであるなら、記知もまた同じである。記憶と知識の弁別のように、「誰が了る者か、誰の識か」なども、同じように例えて解すべきである。ただ、識の因縁が前と異なるのは、根と境などであり、それに応じて知るべきである。こう言う者がある。「決定して我がある。事用は必ず事用する者を待つからである。すなわち、諸の事用は事用する者を待つ。たとえば天授が行くことは必ず天授を待つ。行は事用であり、天授はその名である。このように識などのすべての事用は、必ず依止する所の能了などの者を待つ」と。さて、彼らに詰問すべきである。「天授とは何か」と。もし真実の我であるならば、これは先に破した通りである。もし仮の士夫であるならば、体は一つの物ではなく、諸の行の相続にこの名を仮に立てたものである。たとえば天授が行くことができ、識が了ることができるのも同じである。どのような理に基づいて「天授が行くことができる」と説くのか。刹那に生滅する諸の行において、相続と異ならないことに天授という名を立て、凡夫はその中で一つの体であると執着し、自己の相続が異なる場所に生じる因であるとする。異なる場所に生じることを行と名づけ、因を行者と名づける。この理に基づいて「天授が行くことができる」と説く。たとえば焔や声が異なる場所に相続するとき、世間はこれによって「焔が行き、声が行く」と言う。このように、天授の身が識の因であることができるので、世間もまた「天授が了ることができる」と言う。しかし聖者たちは世間の言説の理に順ずるために、このようにも説くのである。経典には「諸の識は所縁を了ることができる」と説くが、識は所縁に対して何をするのか。何もせず、ただ境によって生じるのである。たとえば果が因に報いるように、何もせずに似た因として起きるので、報因と名づける。このように識が生じる時、何もせずに境に似るので、了境と名づける。どうして境に似るのか。その相を帯びるからである。故に諸の識は根にも託して生じるが、根を了ると名づけず、ただ境を了ると名づける。あるいは、識が境に相続して生じる時、前の識が因となって後の識を引き起こすので、「識が境を了る」と説いても過失はない。世間では因について作者と言うからである。たとえば世間で「鐘や鼓が鳴る」と言い、あるいは「灯が行く」と言うように、識が了ることも同じである。どのような理に基づいて「灯が行く」と説くのか。焔の相続の中に仮に灯の号を立て、灯が異なる場所に相続して生じる時、「灯が行く」と説くのであり、別の行者はない。このように、心の相続に仮に識の名を立て、異なる境に生じる時「能了」と説くのである。あるいは、色に色の生、色の住があるように、ここには別の生住の者はない。識が了ると説くのも、理が同じであるべきである。もし後の識が生じる時、識から生じるのであって、我からではない。なぜ識から生じるのか。常に前のようではなく、また定まった次第で生じるのでもないからである。芽、茎、葉などのように、有為にはすべて住異の相があるからである。すなわち、諸の有為は自性として法爾に、微細な相続が後には必ず前と異なる。もしこれと異なるならば、たとえ意を持って入定しても、身心の相続は相似して生じ、後の念と初の念とに差別がないので、最後の念が自然に定から出るということはないはずである。諸の心の相続にも定まった次第がある。もしこの心の次に彼の心が生じるべきであるならば、この心の後には彼が必ず生じる。また、わずかに行相が等しい心であってこそ相生することができ、種性が異なるからである。たとえば女の心の無間に、厳しい身心を汚す心、あるいは彼の夫や子などの心が起こる。後にこの諸の心の相続の転変差別から、また女の心が生じる。このように、女の心は後に起こる厳しい汚心などに対して生の機能があるが、これ以外には機能がない。種性が異なるからである。女の心の無間には多くの心が起こり得るが、多くの心の中で、もし先に数多く起こり、明らかで近く起こるならば、先に起こるのであって、他のものではない。このような心は修力が強いからである。ただ、将に起ころうとする位の身の外縁の差別を除く。諸の修力が最も強盛なものは、どうして常に自己の果を生じないのか。この心に住異の相があるからである。この住異の相は、他の修果の相続生において最も随順するからである。諸の心の品類が次第に相生する因縁の大要は、私はすでに略説した。委細に了達するのはただ世尊のみである。一切法の中に智が自在だからである。この義に基づいて、偈頌がある。

於一孔雀輪， 一切種因相，非餘智境界， 唯一切智知。

> 一つの孔雀の羽輪に、あらゆる種類の原因と特徴が宿っている。それは他の智慧では理解できない領域であり、ただすべてを知る者の智慧だけが知り得るのである。

色差別因尚為難了，況心心所諸無色法因緣差別可易了知？一類外道作如是執，諸心生時皆從於我。前之二難於彼最切。若諸心生皆從我者，何緣後識不恒似前，及不定次生，如芽莖葉等。若謂由待意合差別有異識生，理定不然，我與餘合非極成故，又二物合有分限故。謂彼自類釋合相言，非至為先、後至名合。我與意合應有分限，意移轉故我應移轉，或應與意俱有壞滅。若謂一分合，理定不然，於一我體中無別分故。設許有合，我體既常，意無別異，合寧有別？若待別覺，為難亦同。謂覺因何得有差別？若待行別，我意合者，則應但心待行差別能生異識，何用我為？我於識生都無有用，而言諸識皆從我生。如藥事成能除痼疾，誑醫矯說普莎訶言。若謂此二由我故有，此但有言，無理為證。若謂此二我為所依，如誰與誰為所依義？非心與行如畫如果，我為能持如壁如器，如是便有更相礙失，及有或時別住失故。非如壁器，我為彼依。若爾如何？此但如地，能為香等四物所依。彼如是言，證成無我，故我於此深生喜慰。如世間地不離香等，我亦應爾，非離心行。誰能了地離於香等？但於香等聚集差別，世俗流布立以地名。我亦應然，但於心等諸蘊差別，假立我名。若離香等無別有地，如何說言地有香等？為顯地體有香等別，故即於地說有香等，令他了達是此非餘，如世間言木像身等。又若有我待行差別，何不俱時生一切智？若時此行功用最強，此能遮餘令不生果。寧從強者果不恒生？答此如前修力道理，許行非常漸變異故。若爾，計我則為唐捐，行力令心差別生故。彼行此修體無異故，必定應信我體實有，以有念等德句義故，德必依止實句義故，念等依餘理不成故。此證非理，不極成故。謂說念等德句義攝體皆非實，義不極成，許有別體皆名實故。經說六實物，名沙門果故。彼依實我，理亦不成。依義如前已遮遣故，由此所立但有虛言。若我實無，為何造業？為我當受苦樂果故。我體是何？謂我執境。何名我執境？謂諸蘊相續。云何知然？貪愛彼故。與白等覺同處起故。謂世有言：我白我黑。我老我少。我瘦我肥。現見世間緣白等覺，與計我執同處而生，非所計我有此差別，故知我執但緣諸蘊。以身於我有防護恩，故亦於身假說為我，如言臣等即是我身。於有恩中實假說我，而諸我執所取不然。若許緣身亦起我執，寧無我執緣他身起，他與我執不相屬故。謂若身若心與我執相屬，此我執起緣彼非餘，無始時來如是習故。相屬謂何？謂因果性。若無我體，誰之我執？此前已釋，寧復重來。謂我於前已作是說，為依何義說第六聲，乃至辨因為果所屬。若爾，我執以何為因？謂無始來我執熏習，緣自相續有垢染心。我體若無誰有苦樂？若依於此有苦樂生，即說名為此有苦樂，如林有果及樹有花。苦樂依何？謂內六處，隨其所起說為彼依。若我實無，誰能作業？誰能受果？作受何義？作謂能作，受謂受者。此但易名，未顯其義。辯法相者釋此相言：能自在為，名為作者。能領業果，得受者名。現見世間，於此事業若得自在，名為能作。如見天授於浴食行得自在故，名浴等者。此中汝等說何天授？若說實我，喻不極成；說蘊便非自在作者。業有三種，謂身、語、意。且起身業必依身心，身心各依自因緣轉，因緣展轉依自因緣，於中無一自在起者，一切有為屬因緣故。汝所執我，不待因緣亦無所作，故非自在。由此彼說能自在為名作者相，求不可得。然於諸法生因緣中，若有勝用假名作者，非所執我，見有少用故定不應名為作者。能生身業勝因者何？謂從憶念引生樂欲，樂欲生尋伺，尋伺生勤勇，勤勇生風，風起身業。汝所執我，此中何用？故於身業，我非作者。語意業起，類此應思。我復云何能領業果？若謂於果我能了別，此定不然，我於了別都無有用，於前分別生識因中已遮遣故。若實無我，如何不依諸非情處罪福生長？彼非愛等所依止故，唯內六處是彼所依。我非彼依，如前已說。若實無我，業已滅壞，云何復能生未來果？設有實我，業已滅壞，復云何能生未來果？從依止我，法非法生。如誰依誰，此前已破，故法非法不應依我。然聖教中不作是說，從已壞業未來果生。若爾，從何？從業相續轉變差別，如種生果。如世間說，果從種生。然果不從已壞種起，亦非從種無間即生。若爾，從何？從種相續轉變差別果方得生，謂種次生芽莖葉等，花為最後方引果生。若爾，何言從種生果？由種展轉引起花中生果功能，故作是說。若此花內生果功能非種為先所引起者，所生果相應與種別。如是雖言從業生果，而非從彼已壞業生，亦非從業無間生果，但從業相續轉變差別生。何名相續轉變差別？謂業為先，後色心起，中無間斷，名為相續。即此相續，後後剎那異前前生，名為轉變。即此轉變，於最後時有勝功能無間生果，勝餘轉變，故名差別。如有取識正命終時，雖帶眾多感後有業所引熏習，而重近起數習所引明了非餘。如有頌言：

> 色や形の違いによる原因が理解しにくいのであれば、心や心のはたらきといった、形なきものの因縁の違いを理解するのが、なおさら難しいのは言うまでもない。ある種の外道は、「心が生じる時は、常に我（あたま）から生じる」と執着する。この二つの難問は、彼らにとって最も重要なものである。 もしも心が全て我から生じるならば、どうして後の心が常に先の心と同じではないのか？そして、芽や茎や葉のように、決まった順序で生じないのはなぜか？ もしも「意（はたらき）と合わさることに違いがあるから、異なる心が生じるのだ」と言うならば、道理として決して正しくない。我と他のものが合わさるということは認められないからである。また、二つのものが合わさるには限界があるからである。 彼らは自分たちの仲間の解釈で「合わさる」という相を説明するが、「至らないことを先とせず、後から至ることを『合う』と名付ける」という。我と意が合わさるならば、限界があるはずだ。意が移り変わるならば、我も移り変わるはずであり、あるいは意と共に壊れ滅するはずである。 もしも「一部分が合わさるのだ」と言うならば、道理として決して正しくない。一つの我の体の中に、別々の部分はないからである。 仮に合わさることを許したとしても、我の体は常であり、意に別々の違いがないならば、合わさることにどうして違いがあろうか？ もしも「別の感覚（覚）によるのだ」と言うならば、その難問も同じである。感覚は何によって違いを得るのか？ もしも「行（はたらき）の違いによるのだ」と、我と意が合わさると言うならば、ただ心が行の違いによって異なる心を生じるならば、我を何のために使うのか？我は心の生起に全く役に立たないのに、「全ての心は我から生じる」と言うのは、例えば薬の効能が成就して重い病気を治すと、医者を騙して偽って「普莎訶（呪文）」と言うようなものである。 もしも「この二つは我によって存在するのだ」と言うならば、これはただ言葉があるだけで、道理の証明がない。 もしも「この二つは我を所依（基盤）とするのだ」と言うならば、誰にとって誰が所依の意味であるのか？心と行が、絵と壁や、器と中の物のようなものではない。我がそれらを持つのが、壁が絵を持ち、器が物を持つようなものだと言うならば、それには互いに妨げ合う過失があり、また時に別々に住する過失があるからである。 我がそれらの依り所であることは、壁や器のようなものではない。では、どういうことか？これはちょうど、地が香りなどの四つの物の依り所となるようなものである。 このように言うならば、我がないことを証明するものであり、私はこのことについて深く喜び慰められる。 世間の地が香りなどを離れないように、我もまたそうであるべきであり、心や行を離れない。誰が地を香りなどから離れて理解できるだろうか？ただ香りなどの集まりの違いによって、世俗の流布として「地」という名前を立てるのである。我もまたそうであるべきで、ただ心などの諸々の蘊（かたまり）の違いによって、仮に「我」という名前を立てるのである。 もしも香りなどを離れて別に地がないならば、どうして「地に香りがある」と言えるのか？地の体に香りなどの違いがあることを示すために、地について香りがあると言うのであり、これによって「これはこれであって他ではない」と了達させるのである。世間で「木の像の身体」などと言うようなものである。 また、もしも我が行の違いを持つならば、どうして同時に一切の智慧が生じないのか？ もしもその時、この行の働きが最も強いならば、これが他のものを遮って果を生じさせない。どうして強い方から果が常に生じるのではないのか？ 答え：これは先に述べた修行の力の道理と同じであり、行は無常であり徐々に変化することを許すからである。 もしもそうならば、我を計ることは無駄である。行の力によって心に違いが生じるからである。 彼の行とこの修行とは、体に違いがないから、必ず我の体が実在することを信じるべきである。念（おぼえ）などの徳の句義（性質）があるからであり、徳は必ず実の句義（実体）に依り止まるからであり、念などが他のものに依ることは道理として成立しないからである。 この証明は理に適わない。極成（認められた前提）ではないからである。「念などは徳の句義に含まれ、体は全て実ではない」と言うが、その義は極成ではない。別の体があると許すものを全て「実」と名付けるからである。経典に六つの実物があり、沙門の果と名付けると説かれているからである。 彼らが実我に依るとするのも、道理として成立しない。依るという意味は、先にすでに否定したからである。よって、立てられたものはただ虚言があるだけである。 もしも我が実在しないならば、なぜ業を造るのか？我が未来に苦楽の果を受けるためである。 我の体とは何か？「我執」の境（対象）である。何を「我執の境」と名付けるのか？諸々の蘊の相続（連続）である。どうしてそうだと知るのか？それ（蘊）を貪り愛するからである。 白いなどの感覚と同一の場所から生じるからである。世の中に「我は白い、我は黒い、我は老いた、我は若い、我は痩せた、我は太った」と言うのを現に見る。世間の白いなどの感覚が、「我」と思う執着と同一の場所から生じることを現に見るが、計られた我にはこれらの違いはない。よって我執はただ諸蘊に縁るだけだと知るのである。 身体は我に対して防護の恩があるので、身体にも仮に「我」と言うのである。「臣たちは即ち我が身である」と言うようなものである。 恩のあるものに対して実際に仮に我と言うのであるが、諸々の我執が取る所はそうではない。もしも身体に縁って我執も生じることを許すならば、どうして他の身体に縁って我執が生じないのか？他は我執と相互に関係しないからである。 もしも身、もしは心が我執と関係するならば、この我執が生じる時、それに縁り、他には縁らない。始まりのない時からこのように習慣づけられてきたからである。 関係するとは何か？因果の性質である。 もしも我の体がないならば、誰の我執なのか？これは先にすでに説明した。どうして再び来るのか？「我は先にすでにこのように説いた。第六の声（属格）を何の意味によって説くのか、乃至、因が果に属することを弁ずることを。」と。 もしもそうならば、我執は何を因とするのか？始まりのない時からの我執の熏習（習慣づけ）に縁る、自己の相続する有垢染の心である。 我の体がないならば、誰が苦楽を持つのか？もしもこれに依って苦楽が生じるならば、これを「これに苦楽がある」と名付ける。林に果があり、樹に花があるようなものである。 苦楽は何に依るのか？内の六処（六つの感覚器官）であり、その生じる所に従って、それの依り所であると説く。 もしも我が実在しないならば、誰が業を作り、誰が果を受けるのか？「作る」「受ける」とは何の意味か？「作る」とは能く作ること、「受ける」とは受ける者である。これはただ名前を変えただけで、その意味を示していない。 法相を弁ずる者はこの相を釈して言う：「自在に為すことを能とし、名づけて作者とす。能く業の果を領（う）けて、受者の名を得る。」 世間で現に見るに、この事業について自在を得るならば、「能く作る」と名付ける。天授（人名）が沐浴、食事、歩行について自在を得るのを見て、「浴などをする者」と名付けるようなものである。 この中で、あなたたちはどの「天授」を言うのか？ もしも実我を言うならば、喩えは極成ではない。蘊を説くならば、それは自在の作者ではない。 業には三種ある：身業、語業、意業である。 身業を起こすことを言うならば、必ず身心に依る。身心はそれぞれ自らの因縁によって転ずる。因縁は展転して自らの因縁に依る。その中に、自在に起こすものが一つもない。一切の有為（つくられたもの）は因縁に属するからである。 あなたたちの執する我は、因縁を待たず、また為すこともない。故に自在ではない。 よって、彼らの説く「能く自在に為すことを作者と名付ける」という相は、求めても得られない。 しかし、諸法の生じる因縁の中に、もしも勝れた働きがあるならば、仮に作者と名付けるのであり、執された我ではない。少しの働きがあるのを見るから、必ず作者と名付けるべきではない。 身業を生じる勝れた因とは何か？念（おぼえ）から楽欲（願い）が生じ、楽欲から尋伺（こころの働き）が生じ、尋伺から勤勇（つとめ）が生じ、勤勇から風が生じ、風が身業を起こす。 あなたたちの執する我は、この中で何の役に立つのか？故に身業について、我は作者ではない。 語業と意業が起こることについては、これに類して考えるべきである。 我はどうして業の果を領することができるのか？もしも「果について我が了別するのだ」と言うならば、これは必ず正しくない。我は了別について全く役に立たないからである。先の心識の生因の分別において、すでに否定したからである。 もしも我が実在しないならば、どうして非情（心のないもの）の処に依って罪や福が生長しないのか？それらは愛などの依り所ではないからである。ただ内の六処だけがそれらの依り所である。我はそれらの依り所ではない。先にすでに説いたとおりである。 もしも我が実在しないならば、業はすでに滅して壊れたのに、どうして再び未来の果を生じることができるのか？ 仮に実我があっても、業がすでに滅して壊れたならば、どうして再び未来の果を生じることができるのか？ 「我に依止して、法と非法（善と悪）が生じる」と。誰が誰に依るのか、これは先にすでに破した。故に法と非法は我に依るべきではない。 しかし聖なる教えの中では、「すでに壊れた業から未来の果が生じる」とは説かない。 では、何から生じるのか？業の相続（連続）の転変（変化）の差別から生じる。種（たね）から果が生じるようなものである。 世間で「果は種から生じる」と言う。しかし果はすでに壊れた種から生じるのではなく、また種から間断なく即座に生じるのでもない。 では、何から生じるのか？種の相続の転変の差別によって、初めて果が得られる。種から芽、茎、葉などが次々と生じ、花が最後となり、そこから果が生じる。 もしもそうならば、「種から果が生じる」とは何と言うのか？種が展転して花の中に果を生じる機能を引き起こすから、このように説くのである。もしもこの花の中の果を生じる機能が、種を先とすることによって引き起こされたものでないならば、生じる果の相は種とは異なるはずである。 このように、「業から果が生じる」と言っても、すでに壊れた業から生じるのではなく、また業から間断なく果が生じるのでもなく、ただ業の相続の転変の差別から生じるのである。 何を「相続の転変の差別」と名付けるのか？業を先とし、後に色心（物質と精神）が起こり、その中に間断がないことを「相続」と名付ける。この相続が、後の後の刹那に、前の前と異なって生じることを「転変」と名付ける。この転変が、最後の時において勝れた機能があり、間断なく果を生じ、他の転変に勝ることから、「差別」と名付ける。 例えば、取（執着）を有する識が正に命終する時、多くの後有（次の生）を感ずる業によって引き起こされた熏習を帯びているが、重いもの、近くに起こったもの、数々の習慣によって引き起こされたもの、明らかなものが他に勝る。偈頌にこうあるとおりである：

業極重近起， 數習先所作，前前前後熟， 輪轉於生死。

> 極めて重い業は、近くで生じるものと、繰り返し慣らした先の行いによって生じる。過去のものは過去のものが熟し、後のものは後のものが熟す。こうして生死の輪廻を巡り続けるのである。

於此義中有差別者，異熟因所引與異熟果功能，與異熟果已即便謝滅。同類因所引與等流果功能，若染污者對治起時即便謝滅，不染污者般涅槃時方永謝滅，以色心相續爾時永滅故。何緣異熟果不能招異熟，如從種果有別果生。且非譬喻，是法皆等。然從種果無別果生。若爾，從何生於後果？從後熟變差別所生。謂於後時即前種果遇水土等諸熟變緣，便能引生熟變差別。正生芽位方得種名，未熟變時從當名說，或似種故世說為種。此亦如是，即前異熟遇聞正邪等諸起善惡緣，便能引生諸善有漏及諸不善有異熟心，從此引生相續轉變，展轉能引轉變差別，從此差別後異熟生，非從餘生。故喻同法。或由別法類此可知，如拘櫞花塗紫礦汁，相續轉變差別為因，後果生時瓤便色赤，從此赤色更不生餘。如是應知，從業異熟更不能引餘異熟生。前來且隨自覺慧境，於諸業果略顯麁相。其間異類差別功能，諸業所熏相續轉變，至彼彼位彼彼果生，唯佛證知非餘境界。依如是義，故有頌言：

> この義について違いがある。異熟因が引く異熟果の機能は、異熟果をもたらした後にすぐに消滅する。同類因が引く等流果の機能は、もし染汚のものであれば対治が生起するときに消滅し、染汚でないものであれば涅槃に入るときに初めて永遠に消滅する。なぜなら、色と心の相続がそのときに永遠に滅するからである。 なぜ異熟果がさらに異熟を招くことができないのか。例えば、種から果が生じ、その果からさらに別の果が生じるように。しかし、この譬えは適切ではない。すべての法は皆等しいからである。種から果が生じても、その果から別の果が生じることはない。もしそうなら、後の果は何から生じるのか。後の熟変の差別から生じるのである。すなわち、後の時において、その前の種という果が水・土などの諸々の熟変の縁に遇うと、熟変の差別を引き生じることができる。正に芽を生じる位において初めて種の名を得るのであり、未だ熟変していない時は、当来の名から説くか、あるいは種に似ているから世間で種と言うのである。 このこともまた同じである。すなわち、前の異熟が正しい聞法や邪な聞法などの善悪の縁を起こす諸々の縁に遇うと、諸々の善なる有漏および諸々の不善なる有異熟心を引き生じることができ、これから相続転変を引き生じ、展転して転変の差別を引き、この差別から後の異熟が生じるのであり、他のものから生じるのではない。故に同法の譬えとするのである。 あるいは別の法によって類推して知ることができる。例えば、枸櫞の花に紫鉱の汁を塗ると、相続転変の差別を因として、後の果が生じるときに果肉が赤色になる。この赤色からさらに他のものを生じることはない。このように知るべきである。業の異熟からは、さらに他の異熟を引き生じることはできないのである。 ここまで、ひとまず自らの覚慧の境涯に随って、諸々の業と果について大まかな相を示した。その間の異類の差別機能、諸業が熏習した相続転変が、それぞれの位に至ってそれぞれの果が生じることは、唯仏のみが証知するところであり、他の者の境涯ではない。 この義に依って、故に頌がある：

此業此熏習， 至此時與果，一切種定理， 離佛無能知。已善說此淨因道， 謂佛至言真法性，應捨闇盲諸外執， 惡見所為求慧眼。此涅槃宮一廣道， 千聖所遊無我性，諸佛日言光所照， 雖開殊眼不能覩。於此方隅已略說， 為開智者慧毒門，庶各隨己力堪能， 遍悟所知成勝業。

> この業とこの薫習は、この時に至って果を生じる。 一切の種子の道理は、仏を離れては知る者がない。 すでに善く説かれたこの清浄な因の道、 それは仏の至言たる真実の法性である。 暗闇に盲目であるような外道の執着を捨て、 悪見が作り出すものを離れて、智慧の眼を求めよ。 この涅槃の宮殿に至る一つの広い道、 それは千の聖者が歩んだ無我の本性である。 諸仏の言葉という日光に照らされても、 特別な眼を開いても、それを見ることはできない。 この一角においてすでに略説したが、 これは智者にとっての智慧の毒門を開くためである。 それぞれが自らの力の及ぶ限りをもって、 あまねく所知を悟り、勝れた業を成し遂げよ。

## 說一切有部俱舍論卷第三十

> 説一切有部倶舎論 第三十巻