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title: "紫柏尊者全集 · 法語(卷五)"
description: "紫柏尊者全集是明代高僧紫柏真可的著作集，由德清（憨山德清）校阅整理。紫柏真可是晚明四大高僧之一，与莲池、憨山、蕅益齐名，活跃于16世纪末至17世纪初，主张禅净双修，对佛教复兴影响深远。全集收录其语录、书信、诗文等，涵盖禅法心要、净土思想、佛教戒律及社会关怀，体现了他融合各宗、注重实修的弘法特色。该书是研究明代佛教思想的重要文献，展现了紫柏尊者革新佛教的实践智慧，在汉传佛教史上具有崇高地位。"
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## 紫栢老人集卷之五

> 紫柏老人集 巻第五

明　憨山德清　閱

> 明 憨山徳清 閲

### 法語

> 仏の教え

原夫無事生事。薄福所致。薄福所從。從於般若不明。故曰愚癡者。招畜生報。畜生則去餓鬼不遠。餓鬼去地獄不遠。此從高而下也。若從下而高。則由地獄升至餓鬼。由餓鬼升至畜生。由畜生升至貧賤人。由貧賤人升至富貴人。由富貴人升至學般若人。以此而觀。從高而下。不過隨順愚癡。從下而高。不過隨順般若。而般若愚癡初非兩物。譬如波之與水耳。比來清平世界。忽搆此大謗大疑大危。雖復邪黨橫駕。由理而推。亦是我曹。日常世出世路頭。交遊不甚清楚。皆坐庸常坑中。憂不深。慮不遠。憂不深。慮不遠。自甘坐於庸常坑中。究竟所以。根不重般若之故。是以無端招此疑危。今既推根究本。知其所由。若不等一痛切。捐頭目腦髓。莊嚴般若。境緣順逆。煆煉般若。捨身受身。於出世常為佛種前茅。於世中常為忠孝前茅。如是痛悔。如是立志。是為正觀。若不如是。即是邪黨。非佛眷屬。非忠孝種子。又莊嚴般若之中。唯刻藏一事最為肯䏿。有識無識。直下易見者。無俟吾言示弟子。

> そもそも、何事もないのに問題を引き起こすのは、福徳が薄いからである。その福徳の薄さはどこから来るのかといえば、般若（智慧）が明らかでないことから来る。だから愚か者は畜生の報いを受けるという。畜生は餓鬼から遠くなく、餓鬼は地獄から遠くない。これは高い所から低い所へと下っていく流れである。逆に、低い所から高い所へと上るならば、地獄から餓鬼に昇り、餓鬼から畜生に昇り、畜生から貧しい身分の人に昇り、貧しい身分から富貴な人に昇り、富貴な人から般若を学ぶ人に昇るのである。このように見てみると、高い所から低い所へ下るのは、ただ愚かさに従っているだけであり、低い所から高い所へ上るのは、ただ般若に従っているだけである。しかし、般若と愚かさは、もともと別々のものではない。ちょうど波と水のようなものである。近来、平和な世の中で、突然このような大きな誹謗や疑いや危険が起こった。たとえ邪な一派が横暴に振る舞っているとしても、道理に照らして考えれば、これも私たち自身の問題である。日頃、世俗と出世の両方の道において、交わりがはっきりしていなかった。皆、平凡な落とし穴に落ちていて、憂いも深くなく、考えも遠くない。憂いも深くなく、考えも遠くないまま、自ら進んで平凡な落とし穴に座り込んでいるのである。結局のところ、その根本は般若を重んじなかったからである。それゆえに、理由もなくこのような疑いや危険を招いたのだ。今、根本を突き詰めて、その原因を知ったならば、ひとしく深く悔い改め、頭や目や脳髄を捧げて般若を荘厳し、順境逆境のあらゆる境遇を通して般若を鍛え、身を捨てても生まれ変わっても、出世間においては常に仏の種子の先駆けとなり、世間においては常に忠孝の先駆けとならねばならない。このように深く悔い、このように志を立てることが、正しい見方である。もしこのようでなければ、それは邪な一派であり、仏の眷属ではないし、忠孝の種子でもない。また、般若を荘厳する中で、経典を刻むことこそが最も重要なことである。識者もそうでない者も、すぐにその価値が分かることであり、私が言うまでもない。<note>弟子に示す</note>

梁元帝在會稽。年始十二。便能好學。時又患疥。手不得拳。膝不得屈。閉齋張葛幃。避蠅獨坐。銀甌貯山陰甜酒。時復進之以自寬。率意自讀史書。一日二十卷。既未師受。或不識一字。或不解一語。要自重之。不知厭倦。義陽朱詹。世居江陵。後出楊都。好學家貧無貲。累日不㸑。乃時吞紙以實腹。寒無氊被。抱犬而臥。犬亦飢虗。起行盜食。詹呼之不至。哀號動隣。猶不廢業。卒成學士。官至鎮南錄事參軍。為孝元所禮。嗚呼一則帝胄之尊。童稚之逸。尚能如此。況於士庶。冀以自達者哉。一則貧困到骨。猶吞紙實腹。竟不廢業。今吾曹藉大覺老人之靈寵。家山徧十方。衣食可終老。不以寸陰自惜。而飽食橫眠。遊談無根。以消白日。較諸梁元帝。朱鎮南。猶斥鷃之匹大鵬也。且彼世間之學。一期報受。不啻漚華空影。能精勤克勵。置形骸於度外。寶學問若珠璣。必冀成名而後已。吾曹變形毀服。割情絕俗。為求無上菩提。一生不克則再生。再生不克。必至於無盡生。克則始已。而志不逮梁朱。譬如求石女生兒。層冰中覓火𦦨。安可得哉。邇來去古逾遠。風俗愈薄。出家兒成羣逐隊。游州獵縣。上則以為山水可以益道心。終年貪觀無厭。中則持半扇破瓢。披一領重衲。以為如是。則謂之修行矣。下則猶有不可勝言者。所謂禪之與講。不知是何等味。又有一種野狐魔子。記得一兩端因果。便謂我通講矣。學得幾句沒把柄話。便謂我解禪矣。逆而推之。法門之弊。一至於此者。大抵為師者。最初一念。斷不真實。為生死出家。為弟子者。最初出家一念。亦必不真。上下既皆不真。豈有不真之師。而能教真弟子哉。豈有不真弟子。而能親近真正之師哉。用是觀之。祖道下衰。固其所也。若幸童真出家。即居名山。又得親近諸大耆宿於清涼山。朝薰夕炙。等閒吒叱鞭朴之閒。轉常情為智光。移染習為淨習。所讀者。皆佛祖靈篇。若不能外形骸以道自勝。積微成著。受滴為海。徹己躬大事。大報佛恩。則生一日。不如蚤死一日也讀顏氏家訓示修聞。

> 梁の元帝が会稽にいらっしゃった時のこと。お歳はまだ十二歳でありましたが、すでに学問を好まれました。その頃、疥癬（かっせん）を患っておられ、手は拳を握れず、膝も曲げることができませんでした。そこで書斎を閉め切り、葛の帷（とばり）を張り、蠅を避けて独り座り、銀の器に山陰の甘酒を入れて、時々それを飲んで心を慰めながら、思いのままに史書を読まれました。一日に二十巻を読まれたといいます。まだ師について学んだわけではなかったので、一字読めないこともあれば、一句理解できないこともありましたが、それでも自らを大切に重んじ、飽きることなく学び続けられました。 義陽の朱詹という人は、代々江陵に住み、後に楊都へ出ました。学問を好みましたが家は貧しく、財産もありませんでした。幾日も火を起こせない日が続き、紙を飲み込んで空腹を満たすこともありました。寒さで氈（フェルト）の布団もない時は、犬を抱いて寝ました。すると犬も飢え疲れて、起き上がって食べ物を盗み食いに出て行きました。詹が呼んでも戻ってきません。彼は悲しみの声を上げて泣き、その声は隣人を動かすほどでありましたが、それでも学業をやめませんでした。ついに学士となり、官は鎮南録事参軍にまで至り、孝元帝から厚く遇されました。 ああ、一人は帝王の子孫という尊い身分でありながら、幼い子供の遊び盛りでありながら、なおこのように学問に励むことができた。ましてや世の士や庶民で、自らを世に出そうと望む者はどうであろうか。もう一人は貧困が骨の髄まで染みるほどでありながら、なお紙を飲み込んで空腹を満たし、学業を廃さなかった。 今、私たちは大覚老人（釈尊）の恵みにより、家も山も十方にあり、衣食は終わりまで安らかに得られる。それなのに一寸の光陰も惜しまずに修行に励むことはせず、腹を満たして横になり、根拠のない話に遊び、白昼を過ごしている。これを梁の元帝や朱鎮南と比べれば、斥鴳（ちいさな鳥）が大鵬（おおとり）に比するようなものである。 しかも彼らの学問は、この世限りのもので、その報いも一期の間に受けるに過ぎず、泡や花の影のようなものである。それでもなお精進し努力し、体を顧みず、学問を珠玉のように大切にし、必ずや名声を成し遂げようと志したのである。 私たちは形を変え、出家の衣をまとい、情愛を断ち俗世を離れて、無上の菩提を求めている。一生で成らなければ再生し、再生しても成らなければ、限りない生を重ねる。成ればそこで初めて終わるのだ。それなのにその志が梁元帝や朱詹にも及ばないとは。例えば石女（うまずめ）に子が生まれんことを願い、氷の中に火焔を求めるようなものである。どうして得られようか。 近頃は、古を去ることますます遠く、風俗はますます薄くなった。出家した者たちは群れを成し隊列を組んで、州を遊び県を狩り歩く。上の者は山水が道心を養うものと思い、年中見て廻って飽きることがない。中の者は半扇の扇と破れた瓢箪を持ち、一領の厚い衲衣をまとい、これをもって修行としたと思う。下の者は言うに言われぬことがある。いわゆる禅とか講とかいうものは、どういう味なのか知らない。また一種の野狐魔子がいて、因果の話を一、二編覚えただけで、自分は講に通じたと言い、掴みどころのない話を幾つか学んだだけで、自分は禅を解したと言う。 逆に推し量れば、法門の弊害がこのようなところにまで至ったのは、おおよそ師たる者の最初の一念が、決して真実でなく、生死を離れるために出家したのではないことによる。弟子たる者もまた、最初に出家する一念が必ずしも真実でない。上下ともすでに真実でないのなら、真実でない師がどうして真実の弟子を教え得ようか。真実でない弟子がどうして真実の師に親しみ近づくことができようか。これを見れば、祖道が衰えたのも、それももっともなことである。 もし幸いに童真（童貞）のまま出家して、すぐに名山に住み、さらに清凉山において諸々の大耆宿に親しみ近づき、朝夕に薫修し、しかる後に等閑の叱咤や鞭打ちのうちに、常の情を転じて智光とし、染まった習慣を移して清らかな習慣とし、読むものは皆、仏祖の霊妙なる篇であるならば、もし外の身体にこだわらず、道をもって自らに勝ち、微かなものを積んで著しいものとし、一滴の水を受けて海となることができず、己れ一身の大事を徹せず、大いに仏恩に報いることができないならば、一日起きて生きるよりは、一日早く死ぬほうがまさっている。

天上五衰未足為苦。人間八難亦未足為苦。至於幸而為人。乃受女身是則為苦。故諸佛菩薩。以女身為鴆毒坑。為惡蛇窟。鴆毒坑邊。不幸失脚。慧命立斷。惡蛇窟中。不幸共宿。毒氣入心。雖有盧扁。亦難救療。是以古德有言曰。寧為貧賤男子。莫作富貴女人。何以故。女身為天下猜疑之本。毀謗之媒。故名山道場。村墟精舍。或安禪講。佛子所聚。法雷震天。慧日光耀。諸佛慈念。鬼神護持。貧賤乞兒。往來求食無有阻礙。凡諸見者。生憐愍心。起周濟念。如有女人暫入道場。一切見者聞者。不推其來意如何。即皆生疑卜度。人既生疑。因疑起謗。因謗集禍。道場以此光輝頓滅。法雷以此消聲。僧眾以此人不敬仰。譬如毒果。一枝三蒂。滋藉而成。由是觀之。則貧賤男子。勝於富貴女人萬倍。無可疑者。故女人學道。先須審察自己。若身若心。有何心行。今受此身。此身何故致人疑謗。於此兩者推究明白。即知前生心多欲念。今受此身。此身既因欲念而有。欲念如花。此身如果。若欲無果。先斷其花。雖然眾生業重習深。知而故犯。以故鴆毒坑中。終難出離。惡蛇窟內。甘自長眠。豈但女人不能翻身奮出。堂堂男子。猶且視之若登春臺。不思厭離。若真心學道。欲出生死者。聞我所言。必痛哭流涕莫能自已。如聞之若不聞。吾知其驢胎馬腹。鳩鴿鳥󳭋。斷一肩荷負有在。然雖如此。我豈忍坐觀成敗。亦不免發一片好心。為汝作一種出苦方便。諸方便中。惟有觀身一著最要緊。先觀我身。皮肉筋骨因何而有。涕唾血脉凡諸濕者。因何而有。凡諸煖氣因何而有。凡諸動轉因何而有。於此觀察。生路漸熟。熟路漸生。一旦了知。我身堅者感地而有。濕者感水而有。煖者感火而有。動者感風而有。一一次第還其所感。則所謂鴆毒坑。惡蛇窟。畢竟安置何處。於此透脫。不妨以五色糞為廣長舌。說法度生有何不可。難道男子个个三頭六臂。而女人必不若耶。某奉讀此言。當痛哭流涕精進做去。若不爾者。學仁代汝求語。亦有干係。我尋常開示女人絕少。因學仁哀求多次。書此遺汝。轉授行持凡欲出離生死。先須知苦。苦若不知。不免認苦為樂。既認苦為樂矣。則終莫返。一迷永迷。出離何期。何以故。葢不知苦。是第一重迷。認苦為樂。是第二重迷。因樂不返。是第三重迷。故從迷積迷。迷終不解。然女人之苦。較乎男子苦更重大。若要次第剖析其苦。雖以大地為舌。虗空為口。亦不能盡。是以女人而不先知苦。痛拔苦根。則枝枝葉葉。長到何時而枯。且道如何是苦根。苦不遠。祇汝現前此身便是。如直下識破此身。則一切不如意事觸將來。便不須大排遣。自然燒心之火。不撲而滅矣二段俱示女人。

> 天上の五衰も、まだ苦しみとは言えません。人間の八難も、また苦しみとは言えません。たとえ幸いに人として生まれても、女身を受けることこそ、これが苦しみなのです。だからこそ、諸仏諸菩薩は、女身を毒の入った瓶の穴や、毒蛇の巣窟と説かれました。毒瓶の穴のほとりで、不運にも足を踏み外せば、智慧の命はたちまち断たれます。毒蛇の巣窟の中で、不運にもともに宿れば、毒気は心に入り込みます。たとえ盧医や扁鵲のような名医がいても、救い難いのです。それゆえに、昔の徳の高い僧侶の方々はこう言われました。「貧しい身分の男である方がよい。金持ちの高い身分の女になるよりは」と。なぜでしょうか。女身は、世間の疑いや中傷のもととなり、誹謗中傷の仲介となるからです。ですから、名高い山の修行道場や、村里の寺院では、禅を修行したり、説法を聞く僧侶たちが集まり、法の雷鳴は天に響き渡り、智慧の光は輝き、諸仏の慈しみの念に護られ、鬼神も守り支えています。たとえ貧しい物乞いであっても、行き来して食べ物を求めても、何の妨げもありません。それを見る人々はみな、哀れみの心を起こし、助けようという思いを起こします。しかし、もし女が一時的にせよ道場に入れば、見聞きするすべての人が、その来た意図がどうであれ、すぐに疑いの心を起こし、あれこれと推し量ります。人が疑いを起こせば、疑いゆえに誹謗中傷が生じ、誹謗中傷ゆえに災いが集まります。道場はこのために、その輝きがたちまち消え、法の雷鳴はこのために音をひそめ、僧侶たちはこのために人々の敬われ尊ばれることを失ってしまいます。たとえば、毒のある果実が、一本の枝に三つの実をつけ、それが育ち茂るようなものです。このように考えてみれば、貧しい身分の男は、金持ちの高い身分の女よりも、一万倍も勝っていることは、疑う余地がありません。ですから、女性が仏道を学ぶには、まず自分のことをよくよく調べなければなりません。身も心も、どのような心の働きがあるので、今この身を受けたのか。この身はなぜ人の疑いや中傷を招くのか。この二つのことをよく考え、明らかにすれば、前世で心に欲望の思いが多かったから、今この身を受けたのだと分かります。この身は欲望の思いによって存在しているのです。欲望の思いは花のようなもので、この身はその果実のようなものです。もし果実を望まないなら、まずその花を断つべきです。しかし、そうは言っても、衆生は業が重く、習慣が深いので、知っていながらわざと犯してしまいます。それゆえ、毒瓶の穴からは、ついに出離することが難しく、毒蛇の巣窟の中で、甘んじて長く眠っているのです。まして女だけでなく、堂々たる男でさえ、それを見て春の高台に登るかのように楽しみ、厭い離れることを考えません。もし真心をもって仏道を学び、生死を出離したいと願うなら、私の語ることを聞いて、必ず声を上げて泣き、涙を流して止められないでしょう。もし聞いても聞かないのと同じなら、私は知っています。その人は、ろばの胎内や馬の腹の中、あるいは鳩や鳩鳩の卵の中に生まれるであろうことを。その受けるべき報いは定まっています。しかし、そうは言っても、私はどうして黙って成り行きを見ていることができましょうか。やはり一片の善意を起こして、あなたのために一つの苦しみから出離する便宜を施さずにはいられません。数ある方便の中で、ただこの身を観ずることだけが最も大切です。まず我が身を観じなさい。皮膚や肉や骨は、何によってあるのか。涙や唾や血や脈など、およそ湿っているものは、何によってあるのか。およそ温かさは、何によってあるのか。およそ動き働きは、何によってあるのか。このように観察すれば、迷いの世界へ通じる道は次第に馴染みが薄くなり、馴染んだ迷いの道は次第に新しいものとなります。やがてはっきりと知るでしょう。我が身の堅いものは地の感応によってあり、湿ったものは水の感応によってあり、温かいものは火の感応によってあり、動くものは風の感応によってあるのだと。一つ一つ、その感応したところに還してしまえば、いわゆる毒瓶の穴も、毒蛇の巣窟も、一体どこに置くことができましょうか。ここを理解し抜け出せたならば、五色の糞をもって広長舌とし、説法して衆生を救うことも、何の難もありません。どうして男はみな三つの頭に六つの腕を持ち、女は必ず及ばないなどと言えましょうか。 あなたはこの言葉を読んで、声を上げて泣き、涙を流して、精進していくべきです。もしそうでなければ、学仁があなたのためにこの言葉を求めたことも、無関係ではいられません。私は常日頃、女性に向かって説法することは極めて少ないのです。学仁が何度も哀願したので、これを書いてあなたに与えます。また、行持に転じ伝えます。およそ生死を出離したいと願うなら、まず苦しみを知らなければなりません。苦しみを知らなければ、苦しみを楽しみと誤認してしまいがちです。苦しみを楽しみと誤認してしまえば、ついには戻ることができません。一度迷えば永遠に迷い、出離の見込みはいつになったらあるのでしょうか。なぜかといえば、苦しみを知らないことが、第一の迷いです。苦しみを楽しみと認めるのが、第二の迷いです。楽しみゆえに戻らないのが、第三の迷いです。だから迷いから迷いを積み重ね、迷いはついに解けることがありません。しかし、女の苦しみは、男の苦しみよりも、さらに大きく重いものです。その苦しみを順序立てて分析しようとすれば、大地を舌とし、虚空を口としても、尽くすことはできません。ですから、女がまず苦しみを先に知らずして、苦しみの根をしっかりと抜かなければ、枝や葉は、いつになったら枯れるというのでしょうか。さて、どのようなものが苦しみの根でしょうか。苦しみは遠くにあるのではありません。ただ汝の目前にある、この身こそがそれなのです。もしこの身を見抜いてしまえば、すべての思いどおりにならない事柄が向かってきても、わざわざ大いに気を晴らす必要もなく、自然と心を焼く火は、打ち消さなくとも消えてしまうでしょう。<note>二段とも、女人に向けた示しである。</note>

大鑑悟後。即曰本來無一物。何處惹塵埃。牛頭悟後。則曰河沙妙德。總在心源。百千三昧。不離當處。二大老皆千古宗師也。一則如此。一則如彼。同耶異耶。同則兩言若反。異則既皆悟心之大老。豈不同也哉。而黃蘗又曰。如兩頭捉汝不著。則可以免苦樂形相也。如黃蘗所言。則兼遮二大老之言而言也。以情而觀。三老之言似難消會以理通之。未始不符契焉。夫如來藏性。或以空言則一塵不立。或以不空言則無法不具。或即空有而言。則曰空不空如來藏也。大都稱謂雖則種種。實而言之。即人各本來面目也。以此面目。可空。可有。可空不空。所以受名別耳。然此面目。凡夫迷之。瞥然而成三惑。聖人悟之。頓然證三如來藏也。夫三惑者。所謂見思。塵沙。根本無明是也。以見思故。則障空如來藏焉。以塵沙惑故。則障不空如來藏焉。以根本無明故。則障空不空如來藏焉。余友念公其高足名曰性藏。或以蘊真字之者。葢不知此性有三藏也。如以蘊真之義。配於三藏。可當不空如來藏耳。而空如來藏。空不空如來藏。皆遺之矣。余以是知字性藏者。不知性者也。或曰大鑑亦言。本來無一物。此豈舉一而遺二耶。予應之曰。大鑑指一隅。而欲人以三隅反也。予改以順南。字之以含藏。識中有覺義。及不覺義。故如人三觀圓修。則見思斷。塵沙破。而根本無明。由是終󳫠也。故斷。破。󳫠。則與藏識覺義。冥順不違。違則不覺矣。不覺所謂違門也。順無明而逆覺義。故曰違門。南則虗明之位也。喻心覺也。藏子果能遵我言。而躬踐之。即三如來藏者。可坐證也示性藏。

> 大鑑（六祖慧能）が悟った後、こう言った。「元来、一物も無い。どこに塵埃を惹きつけることがあろうか」と。牛頭（法融禅師）が悟った後は、こう言った。「河の砂の数の如く無量の妙徳も、全て心の本源に在る。百千の三昧も、当処を離れない」と。この二大老は、いずれも千古の宗師である。一人はこのように言い、一人はかのように言う。同じであろうか、異なるであろうか。同じであるならば、二人の言葉は互いに反しているようである。異なるならば、既に心を悟った大老たちが、どうして同じでないことがあろうか。また黄蘗は言った。「両方の端からお前を捉えようとしても捉えられない、その境地に至れば、苦楽の形相を免れることができる」と。黄蘗の言うところは、二人の大老の言葉を兼ねて覆い、その上で更に言うのである。感情のままに見れば、三人の老の言葉は消化しがたく思える。しかし理をもって通じれば、かつて契合しないことはない。 如来蔵の性というものは、あるいは空の面から言えば、一塵も立たない。あるいは不空の面から言えば、どんな法であっても具わらないものはない。あるいは空と有を即して言えば、空不空如来蔵という。大方、呼び名は様々であるが、実を言えば、それは人それぞれの本来の面目である。この面目によって、空とも言え、有とも言え、空不空とも言える。だから受ける名前が異なるのである。しかしこの面目を、凡夫は迷って、瞬く間に三惑を成す。聖人は悟って、頓に三如来蔵を証するのである。 三惑というのは、見思惑、塵沙惑、根本無明のことである。見思惑によって、空如来蔵を障える。塵沙惑によって、不空如来蔵を障える。根本無明によって、空不空如来蔵を障えるのである。 我が友の念公、その高弟の名は性蔵という。あるいは「蘊真」という字を贈った者もいるが、これはこの性に三蔵があることを知らないのである。例えば蘊真の義を三蔵に配するならば、不空如来蔵に当たるべきである。しかし空如来蔵と空不空如来蔵は、共に遺されてしまう。私はここによって、性蔵と字した者は、性を知らないのだと知るのである。 ある人が言った。「大鑑も『本来無一物』と言った。これも一つを挙げて二つを遺すことではないか」と。私はこれに答えて言った。「大鑑は一つの隅を指し示して、人に三つの隅を類推させることを欲したのだ」と。 私は改めて「順南」と字し、これを以て「含蔵」と名付ける。識には覚義と不覚義がある。故に人の三観が円く修まるならば、見思惑は断じられ、塵沙惑は破られ、根本無明はこれによって終に尽きる。故に断じ、破り、尽くすならば、蔵識の覚義と冥かに順い、違わない。違うならば、それは不覚である。不覚とは、いわゆる違門である。無明に順って覚義に逆らうから、違門と言うのである。南は虚明の位であり、心の覚を喩える。蔵よ、果たして我が言に遵い、自ら実践するならば、すなわち三如来蔵を坐して証することができよう。 <note>性蔵に示す</note>

白刃撼胸。則目不顧流矢。葢勢有緩急也。如榮辱之與生死。事非兩人。而緩急先後。當諦審所宜。直下便判。則諸俗套。不煩洗滌而自除矣示弟子。

> 白刃が胸に迫れば、目は飛んでくる矢を顧みる余裕がない。それは状況に急と緩があるからだ。例えば栄辱と生死を考えてみよ。これらの事は別々のものではなく、緩急の先後を、よくよく吟味して適切な判断を下すべきである。その場で即座に決断すれば、世間の型通りの考え方は、わざわざ洗い清めなくても自然に消え去るであろう〈弟子に示す〉。

執古以御。有心妙以了色者。良以心術無常。憑之有地。故滯有則觸處成乖。憑靈則圓照無礙。照身則四大所輳。照心亦四蘊所成。了其所輳。身執自消。自消之照。將之照心。四蘊無常。無常無主。無主無樹。一任寒暄。本無榮落。既觀達此旨。逢緣觸境。順逆關頭。秉志堅精。𢬵命赤身捱得過。便是功夫。功夫漸熟。會色即心。色既是心。心不防心。孤明獨立。觸有成功。開物成務。即智運悲。不沈枯寂。即悲運智。不染塵紛。如是行持。由微而著。則五十五位真菩提路。非四禪四空可匹也示王仲𡒩。

> 古えより道を照らす智慧をもって、心の本質を見抜くことが大切である。心の動きは常ならず、それによって執着が生まれる。執着に留まれば、あらゆる面で道に背くことになる。心の本質を照らせば、全てを完璧に理解し、何の妨げもない。身体を観察すれば、四大（地水火風）が集まってできているに過ぎない。心もまた、四蘊（感受・想・行・識）によって成り立っている。その集まりの本質を理解すれば、身体への執着は自然に消え去る。この心を照らす智慧によって、感受・思考・行動・認識もすべて無常であり、それらに固定された主体はないと観じる。無常には主がなく、主がなければ、そこに固定した「我」という木は存在しない。ただ季節の移ろいに任せ、栄えや枯れの変化も本来存在しないのである。この道理を達観すれば、いかなる縁に遭遇し、順境であれ逆境であれ、心は揺るがない。自分自身の意志を強固にし、たとえ苦難を身に受けても乗り越えること、これが修行である。修行が次第に熟すれば、色（かたちあるもの）と心（本質）が一体であることを体得する。色が心ならば、心が心を妨げることはない。ただ一筋に明らかな智慧が独立し、あらゆる場面で成功し、あらゆる事柄を成就させる。智慧を用いて慈悲を運び、静けさに沈むことなく慈悲を持って智慧を運び、世俗の雑念に染まらないのである。このように修行を積み、微細なところから顕著な境地に至れば、それは五十五段の真実の悟りの道であり、四禅や四空の禅定とは比較にならないものである。（弟子の王仲𡒩に示す）

顏平原。死不忘君。生平所養。張睢陽。生猶罵賊。死到不改。所以握拳透爪。嚙齒空齦。固其所也。吾曹參禪不透。葢無二公志耳。如有其志。悟道一生可辦示弟子。

> 顔平原は、死ぬまで主君を忘れなかった。これは平生の修養の賜物である。張睢陽は、生きている間もなお賊を罵り続け、死に臨んでもその志を変えなかった。だからこそ、拳を握りしめて爪が掌を貫き、歯を食いしばって歯茎が空になったのも、当然のことであった。我々が禅を参究しても悟りを開けないのは、ひとえにこの二人のような志を持たないからである。もしその志があれば、悟道は一生のうちに成し遂げられるであろう<note>弟子に示す</note>。

心術無常。操之由人。是故以道德操心者。不知有功利。以功利操心者。不知有仁義。推其所始。雖道德功利發軫不同。然皆不外自心。但志之所存有殊耳。道德操心。則劫奪毀辱。無非階地。功利操心。則榮名尊寵總是驚媒。驚媒汩心。神魂常擾。況遭劫奪毀辱之際。而有所得也。故學道之人。於境緣不可意處。最為大幸。於大幸中不生覺照。逐境漂流謂之昧心。昧心之人雖日與聖賢同席款接。何異盲人頭戴杲日計為大夜者哉。大都但莫瞞心。心自靈聖。以靈聖之心。處不可意境時。如殘雪逢春。自然融化。豈待轟雷裂地。然後消釋乎。詩曰他山之石。可以攻玉。若以玉攻玉。成器殊難。良以兩俱溫潤。砥礪無功。故處可意境時。心境相忘。忘則失照。雖有嚴師良友痛加明誨。翻滋狎習。狎習既成。譬猶嬌兒不畏父母。心既無畏。敬從何生。無敬無畏益從何得。故曰。逆境面前鎗。順境腦後箭。面前鎗易躲。腦後箭難防。且世道轉衰。師友之風。頹然不振久矣。所謂嚴師良友者。豈易遘哉。能以不可意境。為師友堦地。則何往而非嚴師良友也。情識浮沈。乃致四大增損。能智光獨露。虗恬迴遡。縱有宿滯。無有鼓者。焉能作害並示中甫病中。

> 心のはたらきは常に変わるものであり、それを治めるのは人自身である。それゆえ、道徳をもって心を治める者は、功名や利益を考えることがない。功名や利益をもって心を治める者は、仁や義を考えることがない。その始まりを追ってみれば、道徳も功名も、出発点は異なるものの、いずれも自分の心から出ないものはない。ただ、志の置かれるところに違いがあるだけである。 道徳をもって心を治めるならば、奪われたり、侮辱されたりすることも、すべて修行の階段となる。功名や利益をもって心を治めるならば、栄誉や名声、寵愛や尊ばれることは、すべて心を騒がせるきっかけとなる。きっかけが心を乱せば、精神は絶えず悩まされる。ましてや奪われたり侮辱されたりする場面に遭って、何かを得ることなどありえようか。 それゆえ、道を学ぶ人にとっては、境遇や因縁が思うままにならない時こそ、最も大きな幸いである。その大きな幸いの中で、目を覚まして観察する心を生じずに、境遇に流されて漂うことを「心を曇らせる」という。心を曇らせる人は、たとえ毎日聖人や賢人と同じ席で親しく接していても、目の見えない人が頭に明るい太陽を戴きながら、それを大いなる夜だと思うのと同じではないか。 およそ、ただ心を欺かなければよい。心はそれ自体で霊妙であり、聖なるものである。その霊妙で聖なる心をもって、思うままにならない境遇に臨む時は、それは残った雪が春に出会うようなもので、自然に溶けていく。どうして雷が大地を裂くのを待って、初めて消え溶けることがあろうか。 詩経にいう、「他山の石、以て玉を攻むべし」（他山の石で、玉を磨くことができる）と。もし玉で玉を磨こうとすれば、器を完成させることは難しい。まことに、両方が温かく滑らかで、砥石の働きがないからである。それゆえ、思い通りになる境遇にいる時は、心と境遇が互いに忘れ去られる。忘れると観照を失う。たとえ厳しい師や良い友が痛切に明かな教えを与えても、かえって馴れ馴れしさを育てるだけである。馴れ馴れしさが身につけば、たとえば甘やかされた子が父母を恐れないようなものだ。心に畏れがなければ、敬いはどこから生じるだろうか。敬いも畏れもなければ、利益はどこから得られるだろうか。 それゆえに言う、「逆境は面前の槍、順境は脳後の箭（や）」。面前の槍は避けやすいが、脳後の箭は防ぎにくい。 しかも世の道は次第に衰え、師友の風は久しく廃れて振るわない。いわゆる厳しい師や良い友という者に、どうして容易に出会えようか。思うままにならない境遇を師友の階段とすることができれば、どこに行っても厳しい師であり良い友である。 情識は浮き沈みし、それによって四大も増減する。智の光がひとり露わになり、虚ろで静かな心が過去を振り返って遡ることができれば、たとえ古い滞留があっても、それをかき立てるものがないならば、どうして害をなすことができようか。

男子家。頸腰有鐵。非道義所鑄。豈易屈伸。既屈其身。心光不剖。如雲覆月。幽蔽精神。於是非曲直之閒。好惡升沉之地。弗能挺然獨立。知而甘昧。一息不來。杳成千古。滯魄悠悠。出期希有。可不哀哉。何不踢翻窩臼。頓斷情根。若利若害。若逆若順。惟心光炳露。等視浮雲。一朝願克。笑傲家山。顧不樂乎示賀知忍。

> 男子よ。首や腰には鉄の枷がはめられている。それは道義によって鋳造されたものではない。どうして容易に曲げ伸ばしできようか。その身を曲げてしまうと、心の光は覆われてしまう。ちょうど雲が月を覆うように、精神は暗く閉ざされてしまう。そうして善悪や理不尽の間、好き嫌いや浮き沈みの場において、堂々と独立して立つことができなくなる。道理を知りながら、あえて迷いのままに甘んじる。ひとたび呼吸が絶えれば、遠い昔となってしまう。迷いに留まる魂は長く漂い、解脱の機会はめったにない。なんと哀れではないか。どうして巣穴を蹴り倒し、情欲の根を断ち切らないのか。利益であれ害であれ、逆境であれ順境であれ、ただ心の光を明らかに照らし、浮雲のように等しく見なすのだ。ひとたび願いが成就すれば、我が家の山を笑いながら逍遥できる。なんと楽しいではないか（賀知忍に示す）。

聖凡無窮。依正無盡。升沈萬變。情與無情。卒不可以智識知。算數了。然皆以名言為體也。夫何故。葢有名必有義。有言必有意。所以聞水火之名。則濕之與煖。不待召而至矣。聞毀譽之言。則喜之與怒。亦不待召而至矣。知兩者之如此。則凡凡聖聖。正正依依。實外名言而不可得也。噫。名言不知果何物哉。而依正聖凡。皆以之為體。故居其室。出一言善。則千里應之。出一言不善。亦千里應之。由是而觀。凡立名立言。苟不端正其原。見理之澈。莫若不立。無遺禍也。故曰。名言也者。迷悟之紹介也。可不慎乎。

> 聖なる者も凡夫も、その数は限りなく、正報と依報も尽きることがありません。迷いの世界での上昇と沈淪は、千変万化であり、感情を持つものも持たないものも、すべてをもって知り尽くすことはできず、計算で理解することもできません。しかし、それらすべては「言葉」をその本体としているのです。なぜでしょうか。言葉があれば必ず意味があり、言葉があれば必ず心が働くからです。だから「水」や「火」という言葉を聞けば、その湿り気や暖かさという性質は、呼び寄せられるまでもなく、すぐに心に浮かびます。「誉め言葉」や「非難の言葉」を聞けば、喜びや怒りの感情も、呼び寄せられるまでもなく、すぐに湧き起こります。この二つの例から分かるように、凡夫も聖者も、正報も依報も、すべて言葉というものを離れては存在しえないのです。ああ、言葉とはいったい何なのでしょうか。それでいて、依報や正報、聖者や凡夫は、すべて言葉を本体としています。だから、自分の部屋にいて、ひとつの善い言葉を発すれば、千里のかなたからも応えが返ってきます。ひとつの不善な言葉を発しても、やはり千里のかなたから応えが返ってきます。このことから考えると、言葉や名言を立てるならば、もしその根本を正しくせず、道理を明らかにつかんでいなければ、むしろ立てないほうがよいのです。後々の災いを残さないためです。だからこう言います。「言葉とは、迷いと悟りを結びつける仲介者である」と。どうして慎重に扱わずにいられましょうか。

或者以趙州無字為話頭。歷年既久。自以為生死順逆。念即話頭。話頭即念。無往而非一片。或者又聞而舍然大笑曰。彼若果能話頭一念。打成一片。面目自然殊乎常人。眉宇閒光霽若清風朗月。使牛馬雞犬觸而悅之。況人乃萬物之靈者乎。此等語。當與愚者道。不可與智者言。大抵參禪之訣。心地果然順逆成片。則悟在旦夕之閒矣。今人看古人機緣。猶泥人摸象。手無知覺。安知象之肥瘦哉。嗚呼。此等人以名聞供養為膏肓之疾。以生死大事。付之馬足閒者也。楞嚴經曰。大妄語成。墮無閒地獄。非此謂乎示弟子。

> あるいは趙州の「無」の字を話頭として用いる者もいる。長年修行を重ねれば、生死や順逆の境遇も、その念そのものが話頭となり、話頭がそのまま念となる。どこを取っても一体の境地であり、一片の区別もないと自ら考える。 しかし、これを聞いた別の人が大笑いして言う。「もし本当に話頭と一念が一つになり、完全に一体となったならば、その顔つきは自然と常人とは異なり、眉のあいだには清风明月のように晴れやかな光が満ちているはずだ。牛や馬、鶏や犬でさえ触れて喜ぶというのに、ましてや万物の霊長たる人間が感じないわけがあろうか。」 このような言葉は、愚かな者に語るべきであって、智者に語るべきではない。おおよそ参禅の要訣は、心の地において順逆の境遇が本当に一体となれば、悟りは朝夕のうちに開けるものである。 現在の人々が古人の機縁を見るのは、いわば盲人が象に触れるようなものだ。手に感覚がなければ、象の肥瘦などどうして分かるだろうか。 ああ、このような人々は名声や供養への執着を病膏肓に入る重病としながら、生死の一大事を馬の足元に投げ捨てているのである。『楞嚴経』に「大妄語を成せば、無間地獄に堕ちる」とある。まさにこのことを言っているのではなかろうか。<note>弟子に示す</note>

凡人子報親之德。生供三牲。死獻萬肉。不過特重其黑業耳。柰世俗冥盲。卒難諭之正理。且順其俗習。快其眼前。聖賢知其習不易化。權與之浮沈。陰以理折其情。密為調攝。功久力充。則習自化。彼受調者。亦忘其所以然矣。故禮五易而同。俗人之慶不賀。喪不弔。此聖人之苦腸也。雖然。苟不以無上慈光。燭其幽爽。則滯者。終付之於無拔矣。又豈人子人臣之本心哉。夫欲燭其幽爽。莫若為人子者淨自三業。為亡者。持毗舍浮佛偈。最為簡益示弟子。

> 凡人の子が親の恩に報いるには、生きている間は牛・羊・豚を供え、死んだ後には多くの肉を捧げるものだ。しかし、それはただ、自らの悪い業（カルマ）を重くしているにすぎない。世の人は暗闇に迷い、にわかに正しい道理を説かれても理解できない。そこで聖人や賢人は、その世俗の習慣に順応し、目の前の安らぎを優先させる。その習慣が簡単には変わらないことを知っているからだ。彼らは一時的に世の中と共に浮き沈みしながら、密かに道理をもって人の情を鎮め、心を調え整える。その努力を長く続けていけば、習慣は自然と変わる。教えを受けた者も、なぜ変わったのかを自覚しないのである。だからといって、礼儀は五度変わろうとも同一の根本を持つように、俗人の慶事を祝わず、葬儀を弔わないというのは、聖人の心を痛める想いからのことだ。 それでもなお、もし無上の慈しみの光をもって、その迷い深い心を照らさなければ、執着に留まる者は、結局は救いのないままに置かれることになる。それは、子や臣下としての本来の心ではない。その迷いの心を照らしたいと思うなら、子として自らの身・口・意の三つの行いを清らかにし、亡き者のために毘舎浮仏の偈を唱えるのが、最も簡潔で功徳がある方法である。<注>弟子に示す</注>

夫禮者。身之󰜏也。󰜏而不端。其餘雖多。惡足道哉。自大覺應世。迦葉而降。雖宗教支分。而禮則一耳。大人俱沒。典刑廢弛。凡後塵之徒。莫識大體。不以端榦資本。惟競浮華。所謂榦者。摧折盡矣。汝等念報佛恩。束力於茲。凡見晚進。未識大體者。切慈勤獎勸之。使其榦端則本華。根固則本壯。毋愛人以姑息。宜愛人以大德。是以遠別近聚。晨昏相見。務要行列弗苟。長幼有倫。先後據禮。勿得恣情。老漢浪跡江湖。足音半寰中矣。在在頗多感觸。故草是語。出家者既然。在家者寧獨略是乎哉。密藏侍吾至勤。但觸名分紀綱。猶多汗漫。況其他耶。仲尼曰必也正名乎。葢名不正。則分不定。分不定。則禮不可立。人而忽禮。尚弗敢。況為佛弟子而不端此。則剃染奚為示黑白諸弟子。

> 礼儀というものは、身を正すためのものである。身が正しく整っていなければ、たとえ他の徳が多くあっても、それを称えるに足るだろうか。大覚（仏陀）が世に現れて以来、迦葉尊者の時代から今日に至るまで、宗派や教えは枝分かれしたが、礼儀そのものは一つである。偉大な先師たちが皆この世を去り、古来の規範は廃れ、後の修行者たちは大要を理解せず、根本を正しく育てることをせず、ただ表面的な華やかさだけを競い合っている。いわゆる「幹」は、すでに折れ尽くしてしまった。あなたがたは仏の恩に報いることを思い、このことに力を尽くしなさい。後輩で、まだ大要を理解していない者を見かけたならば、慈悲深く熱心に励まし導きなさい。その幹が正しくなれば花は栄え、根が固くなれば幹は強くなる。人を甘やかす小さな親切で愛するのではなく、大きな徳で愛しなさい。だからこそ、遠くから集まり近くで共に暮らし、朝夕顔を合わせる時には、行儀をいい加減にせず、長幼の秩序を保ち、先後の行動は礼にかなったものでなければならない。勝手気ままにしてはならない。老僧は江湖を渡り歩き、足音は世界の半分に及んだが、至る所で多くの感慨を覚えた。そこでこの言葉を書き記した。出家者がこのようにするのは当然であるが、在家者がどうしてこれを省いてよいだろうか。密蔵は私に非常に忠実に仕えてくれたが、名分や規律についてはまだなお曖昧なところが多い。ましてや他の者はどうであろうか。孔子も「必ずや名を正さんか」と言った。名が正しくなければ分が定まらず、分が定まらなければ礼は成立しない。人が礼を怠ることは、それでもなお恐れ慎むべきである。ましてや仏の弟子でありながら、この身を正しく整えなければ、剃髪して染衣をまとうことは何の意味があろうか<note>黒白の諸弟子に示す</note>。

元石問曰。陸老先生當今大居士也。精勤大道已非朝夕。今以年老抱疾。而曰念佛持呪。并參祖師機緣。俱不得力。則一生辛勤。幾於虗費。其所以不得者何故。弟子於此。深懷疑悶。乞師開示。以為將來修習佛乘之鑑。

> 元石が尋ねて言った。「陸老先生は、当代きっての大居士でいらっしゃいます。大道に精進されること、もはや一朝一夕のことではありません。今、年老いて病を抱えながらも、『念仏や持呪、また祖師の機縁に参じることも、いずれも力を得ることができない』とおっしゃいます。それでは、一生の勤行もほとんど無駄になってしまうのではないでしょうか。その力が得られない理由は、いったいどこにあるのでしょう。私はこの点に、深い疑問と憂いを感じております。どうか老師にご開示いただき、将来、仏乗を修行する際の教えとしていただきたいのです。」

子發此問。不惟直陳自疑。亦開獎黑白深矣。夫禍福莫烈於死生。真偽難逃於所忽。此老金湯法門。有年數矣。凡觸利害關頭。不以世情生顧忌。惟知護念大法。苟非內有定見。重以多生願力。冥顯相資。孰能臻此哉。且好名之心。賢者不能卒忘。今抱疾頹然而臥。卒然而問。忽然而答。譬如晴空霹𮦷。旱地雷鳴。可與智者道。難與眾人言。子當默而痛思。必自知此老用處。子不聞青山白雲漱石枕流。二三十年。抱寂枯坐。設偷心未空。皆為大障。我如是而問。彼如是而答。有偷心耶。無偷心耶。有則決不能如是而答。無則實念佛持呪參禪。三者俱未得力。願子再深思之。或恐自見答吳元石。

> あなたがこの問いを発したのは、単に自分の疑問を率直に述べただけでなく、善悪・明暗の道理を深く説き明かすものとなっています。そもそも禍福の中で最も烈しいのは生死であり、真偽は何気ない瞬間のひそかな心に潜むものです。この老僧（大師）が仏法を護る金城鉄壁の働きをされてから、すでに長い年月が経ちました。一切の利害の瀬戸際に遭遇しても、世俗の情によって遠慮逡巡することなく、ただ大法を護り守ることのみを心がけておられます。もしも内心に確固たる見解がなく、さらに多生の誓願の力が加わり、目に見えるものと見えぬものが互いに支え合っていなければ、どうしてこの境地に至れるでしょうか。 また、名声を好む心は、賢者であっても最後まで忘れ去ることはできません。今、病の床にあって、静かに横たわりながら、ふとした拍子に問いを発し、心のままに答える。それは例えるならば、晴れた空に霹靂が響き、干からびた大地に雷鳴がとどろくようなものです。知者とは共に語るべくも、衆人には説き難いものです。あなたは默って深く思惟するならば、必ずやこの老僧の働きの妙処を自ずから知るでありましょう。 あなたは聞いたことがありますか——青山白雲、清流を漱ぎ、石を枕に眠るという隠遁の境地で、二三十年もの間、静寂を抱いて枯坐し続けることを。もしも「偷心」（こそこそした分別の心）が完全に空になっていなければ、それはすべて大きな障りとなります。私がこのように問えば、彼はこのように答える。「偷心」があるのでしょうか、ないのでしょうか？もしあれば、絶対にかくの如く答えることはできません。もしなければ、実際に仏を念じ、呪を唱え、禅を参ずる、この三つの修行は、いずれもまだ力が十分に現れていないということになります。願わくば、あなたはさらに深く考え直してください。あるいは自分自身を見ることを恐れるのかもしれません。

身有大身。有小身。心亦爾。以大身為身者。則能挈天地。整萬物。以小身為身者。能則周旋一家。不能則一身。尚不遑理。況功名事業哉。然則大身吾固有之。或者迷而莫覺。小身乃四大之假合。假合則非本有。既非本有。翻堅然執之而不化。是以見有可欲。即大心昧矣。大身失矣。夫大心者。智周萬物而不勞。妙洞象先而非始。葢有始則有生。有生則有滅。惟無始則無生。無生則無滅。光貫十虗。靈達三際。處方寸而包空。彌太虗而入芥。故曰談禪而言空者。乃談者之陋也。雖然較以五尺為軀。方寸為心。認一漚而背全潮。高培塿而忘泰岱者。則勝多矣。余生余生。痛惜時陰。即夜繼晝。勒勤補鈍。緣文字之堦級。究佛祖之心髓。理精慧開。以特厚為炭。扇以慚愧之風。信火熾然。勇而能恒。則鑄小心為大心。化小身為大身。譬如投片雪於紅罏。擲殘冰於春海。復何難哉示余生。

佛法雖大。大於眾生之心。若離眾生之心。則大無本。由是觀之。則大乃眾生自大耳。故發大人心者。為大人。不發大人心者。便落小人中矣。今汝發此大心。惟貴恒之。故曰立心不恒凶。恒則吉不可量示元信。

中國微言。不越乎六經。西來大法。寧出乎三藏。至於莊老之書。亦不可不讀者。此古人博達君子之所務也。是以白首窮經。然燈精法。代不闕人。雖求之於紙墨。十年之功。不若求之於心性。一朝可敵也。王安石謁周茂叔。一謁不見。再謁亦不見。安石怒曰。我自求之六經。亦可得之。何必卑卑求人乎。自是讀書徹旦。少睡。即嚼石蓮以破昏。及其學問大成。至於入參大政。自謂孔孟不足多。致君堯舜不足難。慨然以經世自負。一切賢才。程能獻䇿。皆不合意。唯恣執拗俱逐之。究其初心志非不大。學非不博。心非不遠。卒於壞宋元氣。而自招不美之名。大都學問雖淵博。於心法不曾妙悟一番。譬如學大匠者。規矩方圓曲直非不了了。而疾徐之節。未應手故。不免傷手之患耳。規矩方圓。法也。疾徐之妙。心也。執法而不妙悟自心。能成大器。未之有也。無論若儒若道若釋。先妙悟自心。而博達羣書。謂之推門落臼。自然之妙。用之出世。則謂之最上乘。以之經世。則謂之王道。此真學真才也。再次由博而約。博則學耳。約即心也。此又其次也。至於讀書雖多。臨機無用。如葉公畫龍。望之非不頭角宛然。遇亢旱欲其雷雨。無有是處。故先約而後博。禪門諸祖十中七八。先博而後約。自古及今。一切座主十中一二耳。佛者既然。儒老之徒。大抵亦皆如此。於約言之。此心愛人即仁。施仁得宜即義。於義合節即禮。於禮通變無滯即智。於智誠恪克敏即信。以此觀之。五者妙用。本在吾心。而不在於書也。且道一心不生。僧耶老耶儒耶。於此直下廓然無疑。在儒謂之真儒。在老謂之真道。在佛謂之真僧。不然。則皆聖人出而大盜生。贓物現在。據欵結案。罪難免誅。誰敢拍大嬭誑嚇小兒。故學問量人根器。斤斧隨機。十人十成。反是成希矣。汝自今而後。當先熟永嘉集。勿讀註。次則讀肇論。再次則讀圓覺。已上既熟。當熟四書白文。及老子道德經。則六經三藏。若博若約。工夫成熟。自知好惡矣。或曰。王安石乃宋之大儒。韓生乃刀筆庸吏。以此教之。未必能克始克終。我未敢保。余則應之曰。我聞師子捉香象全力。捉兔亦爾。或曰。先曰量根器以教人。則成者多。不成者少。以前語照之。無乃自背乎。余曰。背不背。量不量。亦自有妙處。非子所知勉韓生。

大凡男子家。出世一番。斷不可與草木同腐。與畜生同養。必須垂芳千古。光照大夜。若因循度日。無所長進。豈惟草木畜生已乎。大不如遠矣。草木可以充薪㸑。畜生可以供庖膳。由是觀之。人為萬物之靈。飽食煖衣。垂死而無所成就。則不如草木畜生明矣。汝初見我於燕山無梁寺。今日又遇於茲。則汝善根靈種。殊不淺也。然汝父母愛之太過。汝又賦性精悍。且多聰明。若克明心法。薰炙聖學。則後之望汝作大法城塹。或未可知。自今而後。變習氣。須從憎愛關頭𢬵命做去。惡其人必須知其美。愛其人必須知其過。此三個須字。能負荷擔得長久。世出世事畢矣。永嘉集天下奇書。文簡旨豐。熟此則大學中庸骨髓。無勞敲打自然得矣。世人以為教迹不同。妄生分別。見小而不大。識近而不遠。執粗不詣精。所以心法微耳。此書既熟。當熟七經白文。一切對句。自今亦不必屑屑。待諸書貫通之後。方始聚精會神。一兩三月。天機所動。自然水到渠成。如此發軫。必出人頭地。反是逗落俗格。挽之卒難。可畏可畏。茲焚香燒燭於大聖人之前。以此囑汝。汝須珍重囑傅爾庚。

香滿金罏花滿瓶。此一句具無邊三昧。故陸亘大夫。取正於南泉曰。肇論甚奇。天地同根。物我一體。南泉對曰。庭前一枝花。人雖見如夢相似。大夫罔措。天花道人偈曰。香滿金罏花滿瓶。余乃順水推舟。亦曰。此一句子具無邊三昧。妙喜有言。若是真將軍。何須武庫中取刀殺人。赤手空拳可以却敵。余今即此一瓶花。一罏香。布一個漫天大陣。以虗空為鼓。以妙高為枹。撾而進之。管取是聖是凡。剎那敗績。故曰權衡在手。生殺自由。噫。道遠乎哉。觸事而真。聖遠乎哉。體之即神。既曰觸事而真。無相者虗空。有相者天地。大塊之閒。殊形異狀。有情無情。若愛若憎。世出世法。道雖不同。總謂之事。所謂真者。在七經百氏之書。未始不具。至於般若靈篇。華嚴上典。相為表裏。古人有言。禮樂前驅。真道後啟。即此言之。會萬物歸己者。書無內外。理無精粗。都來一片心光。曾無別物。此片心光。在大學。即謂之明德。在中庸。即謂之天命。在論語。謂之仁。謂之孝。謂之政。種種名目。標榜不同。而仲尼所答。弟子所問。問者器有方圓。答者水本無常。水若有常。安能順器方圓。聖人有心。安能應事。種種恰好。大道無情。運行日月。雲雨無情。普滋萬物。此心孟子用之。祖述周孔。集義成浩。此氣在春秋則折衷是非。在周易為太極。為八卦。在書為允執其中。在禮經條貫品節。皎如日星。在詩情動於中。天機觸發。歌咏不足則舞蹈之。此心在樂。為韶為濩。昔孔子在齊。見牧牛童子。視端而目正。喟然嘆曰。此必聽韶樂而出者也。丘驅之晚矣。且道韶之妙何如。乃令牧牛童子。聲入耳根。神凝方寸。天花道人當下知此。則四海雲濤。千山松韻。未嘗非韶樂也。此樂在法華謂之實相。在華嚴謂之四法界。在楞嚴謂之大定。在圓覺謂之大光明藏。在般若謂之文字。謂之觀照。亦謂之實相。在悟謂之禪。在制謂之律。在辯謂之論。天魔不能沮。風火不能壞。貫萬古而長存。故曰經。或曰。汝這老漢。舌頭雌黃。不准將佛法世法。攪做一團。使後人標無所宗。派無所辨。不亦過乎。余應之曰。若人識得心。大地無寸土。有土有人。有人有法。有法有內外。有聖有凡。有世出世。一寸土不可得。則一切何存。說甚攪做一團不一團。自是癡人不了自心。情見不破。妄生分別。在儒被儒縛。在老被老殺。在佛被佛累。譬如穿一身紬絹。從荊棘林過相似。拈得這刺。那刺又入。拈得那刺。這刺又入。刺刺牽制。竟不能掉臂而行。你這尿牀鬼子。自家絆倒在荊棘中。𭺗不起來。反來攀條引例。要我同受此苦。我非呆子。肯聽你言。作顛倒去。古人有云。依文解義三世佛冤。離經一字即是魔說。是以佛祖真子乘願而來。可儒可佛。至於種種異道。隨類利生。如水銀墮地。顆顆成圓。興穆興穆。汝若悟此。便曉得香滿金罏花滿瓶。此一句具百千三昧也。若未悟得。不免波外求水。離色求空。空之與色。本無二致。情生智隔。橫計不同。如水與波。豈兩物哉。以風激之名為波。少頃風息名為水。風喻妄情。波喻妄色。水喻妄空。既皆曰妄。何必生疑。且此水天人湛為琉璃。魚龍認為窟宅。餓鬼怖為猛火。人閒世謂之波流。若謂一物。四執不同。若謂四相。一尚不有。安得有四。空即是色。空不可得。色即是空。色不可得。空色不得。誰辨空色。有所有能。所忘能息。若有辨者。所忘能立。所忘能立。虗空可以有骨。兔角可以為杖。龜毛可以繫風。余共天花道人昆季等。慧炬光中饒舌至此。噫。聊城月即燕山月。光照天池色不同。再聽香花童子偈。塵勞即是法王宮示興穆。

離一念之前者。則剎那不可得。離剎那。則十世古今不可得。是以微塵頓剖。大經現前。大經也者。豈惟釋迦如來之根本法輪。亦是過未諸佛根本法輪。此輪吉水曾乾亨。不知何處持來。施與廬岳黃龍寺。心悟禪人。悟復施與潯陽邢楙學。達觀道人聞而異之。遂命悟。即持此輪。現與楙學。且囑之曰。此輪若不有方山長者。轉運發揮。則大經微塵。豈易剖哉。嗚呼。華梵緇素。自漢明。迄蕭梁隋唐之世。特羣󳫠類。登覺苑而稱雄者。代不乏人。惟是根本法輪。以無師智。自然智。根本智。差別智。四智縱橫。首尾鈎鎖。即近示遠。即大示微。果樣高懸。普使初心曉達取法。啟圓因。期圓果。而因果不能籠󰋪。是以大心凡夫。一蹴龍門。頓入智海。手把猪頭。戒珠光淨。違順莫測。魔外聞之而心驚。二乘觸之而習化。舍我長者。其孰能之。今長者棲神之地。造輪之龕。荊棘叢生。狐干喧擾。安得如宋丞相商英張公者。乘順輪為我光復之。則某心死矣。三敬無忘斯囑囑邢楙學。

能所兩義。出苦要門。入苦嶮路。皆此也。以能所角物我。恣情識。則為阿鼻前茅。以能所宛轉觀身。身為所觀。心為能觀。所觀者。若無能觀為之主宰。惟血肉匡殻耳。烏有所謂知覺哉。既無知覺。於我何有。咄。以智治國。國之賊示弟子。

汝生前以耳。見我相貌。即今汝以眼。聽我說法聲音。此汝多生善根所致。遭此清勝因緣。汝若當下會得我一句兩句。豈惟覓女身相不可得。保汝神超淨土不難。若會不得。此段風光。汝當用心諦聽。女身過患之苦。天上人閒五衰之苦。地獄之苦。飢寒凍餓之苦。求不得苦。脫不得苦。苦雖無量。不能盡說。要而言之。諸苦之中。女身最苦。未知人事時。雖苦未深重。纔知人事時。折旋俯仰。進退屈伸。一動一止。忌諱千端。回互萬種。高不得。下不得。輕不得。重不得。舉步少高。坐處少低。言語聲重。莫非都是回互。自家一段本來真實光明。都被這些忌諱蒙蔽了。我如此開示汝。只要你舉一而知十。因有言。得無言之意。汝若果知苦意。即曉得千條毒蛇纏身。不甚為苦。無如被這肉塊子。假模樣。籠󰋪羈係。無片刻露光明處。汝曉得我開示汝。意頭必然悲徹。心魂發大誓願。汝若再受女身。寧受碎尸分骨之刑。斷不再受此女身。何以故。碎身分骨之苦。不過一兩箇時辰。挨過了便罷。此肉塊子。帶累牽纏。積情縛愛。從無始劫來。牽制於今。猶不痛醒。假如現前。子死身喪。這一條情根綿綿愈固。千劫萬劫。只是割不斷。這割不斷處。苦根深厚。稍無福力。不知又落在那一類中。醉無明酒。遊恩愛園。眠臥火坑鐵牀。豈有了日。我此等語。無半箇字是假的。若半箇字假。我舌根當破。諸佛菩薩亦是說謊的了。你仔細思量。諸佛菩薩肯說謊麼。我為甚以舌根自誓。恐汝信不及。汝若信得及。咄。五漏身中荊棘種。彈指蓮開極樂池。雖然如是。去路尚遙。看汝丈夫徐琰分上。贈汝一千般若金銀。定使汝頭出頭沒。無有乏少之苦示亡靈白氏。

夫禍福莫烈於死生。而世不患之。葢以飲食男女之欲醉之耳。如稍省之。雖至愚亦患之。況智者乎。雖然有其病。必有治病之方。方得而能力治之。則患不難也。敢問其方。紫栢道人舍然笑而應之曰。假借四大以為身四句偈。此古佛之遺方也。若能誦千萬徧。則死生之根。不待󳫠而自斷矣示張才茂。

未生已生。是異是同。異則未生已生。定不相即。同則未生已生。初非兩事。如何有常無常。會而難通。果定不相即。則未生。離已生而得名。已生。亦離未生而有號。同而究之。異而推之。常無常義。終無歸宿。謂之有名無實。豈有真勝義諦。有名而無實乎問懷慈常無常義。

簡則近無。易則在平。心無事而神棲於平。雖萬怪叢輳。千險迭至。直以空平應之。超然有餘矣。忽細故掛心。神泊感慨。即鴻毛飛前。橫以為大鵬垂天耳。又烏足應他事哉。故曰。能平險阻。能知險阻。有以乎示元信。

黃帝有二十五子。或有姓而無名。或有名而無姓。或無名姓。以山川封地而姓名之。皆以奇功茂勳。而定氏族。即我釋迦牟尼如來。降生中天竺國。敝屣萬乘。而苦行六年。得無上覺道。自是世有佛焉。及說法度生。世有法焉。迨憍陳如等。剃染之後。世有僧焉。然僧之種族。有剎帝利種。有婆羅門種。有首陀種。有旃陀羅種。惟我世尊。本剎帝利種。姓釋迦。嗣佛而後。無貴賤。凡剃染出家者。皆以釋為姓。如四河入海。同名為海耳。至梁大通年閒。達磨航海東來。為震旦鼻祖。既而宗出五派。派各其源。有號臨濟宗者。曹洞宗者。溈仰宗者。雲門宗者。法眼宗者。若智慧清淨。道德圓明。真如性海。寂照普通。總十六字。天下謂之臨濟宗派。予慮十六字。歷世易窮。從真字左駢。岔十五字曰。真法元在。解契恒靈。大吼雷音。慈門師子。右駢。岔十九字曰。真三聖秀昌。原遠茂勝光。日月昭萬古。嘉福佛運長。自今而後。既橫抽兩枝。凡我弟子。應宗嗣之。不遵者不孝法脈宗脈說示弟子。

根塵識三者全。謂之人。或謂之餘。於是三者。能洞然窺破。則當處不見有全人矣。凡一切榮辱死生。皆刃也。欲使刃之不傷。莫若不見全牛為嚆矢耳。葢刃不傷。牛亦不傷。牛若不傷。而牛本不全。則刃之游。亦寓言也。嗟乎。以神為刃。游於象先。太虗不到之地。亦可以宰制矣。況有形者哉示元復。

牽近縛。滯近塞。縛則纏綿難解。塞則壅遏不通。是皆無生之理不明。緣生境界成熟也。殊不知無生緣生。初無兩條。在眾人則謂之緣生。在聖人則謂之無生。緣生則身心鏗然。無生則性天廓徹。即此而觀。外身心而窮性天。管取終古不旦。故曰牽滯不難破。難在於窮理。理窮。則無往而非高明矣。高明則自然。事到即了。仲尼曰。顏氏之子。有不善未嘗不知。知之未嘗復行。此無他。良以清明在躬。志氣如神。觸處無昧耳。大都牽滯習重。病欠明勇。明則觀照精密。勇則不墮現行。鑄情而復性。子其勉之再示元復。

大凡學道人。一切都不障礙。只是柰何自家身心不下却難。果然真正男子。直下究竟此箇身心。是我的身心。如何却柰何他不下。畢竟要見障礙在何處。這些子實能󳬇得破。十方諸佛底鼻孔。即是民部底鼻孔。儻卒未能薦得。聽貧道醉夢中說。一上葛藤。與民部聽去。此身此心。若要將就柰何他。當觀何由而有此身。何由而有此心。葢此身不過四大假合。此心不過四蘊湊成。地水火風謂之四大。受想行識謂之四蘊。即就民部。皮肉筋骨。種種窒礙的便是地大。痰唾血脈津液便利。便是水大。徧體煖熱之氣。便是火大動轉助民部趨走運用者。便是風大。或謂舉動運轉。皆是心力。與風大何與。殊不知中風的人。要舉手舉不得。要移足移不得。難道他豈無心力。如何手足宛然。竟不依他使喚。葢闕風緣故也。此四件。合則有身。不合則此身何在。民部於此。切須諦觀。我身之四大與外之四大。是同是別。外四大者。脚下踐履的謂之地大。眼前九江流的水。便是水大。日常竈裏燒的。燈上點的。及一切日色暖氣。便是火大。長江送客帆飽如飛。林木動搖。浮萍聚散。便是風大。此與民部別。則民部此身。又從何來。葢我之四大。必感外四大而成。此四大。開而言之謂之五行。合而言之謂之四大。自古至今。並無一人。不感五行而生者。豈民部獨離四大而有此身耶。此與民部同。則內四大。即是外四大。若即是外四大者。豈有有智之人。認踐履之土。九江之水。竈中之火。樹頭之風。為自己身耶。雖至愚之人。愚不到此。況民部高明者乎。於此粗粗會得。身相即輕。身相既輕。便把死生窠窟子。踢翻了也。死生尚不能動。其餘榮辱愛憎。又安能動得。此是學道人。世諦中討便宜的方子。果然依得。何累可干。惟四蘊道理。較之四大。推察審究。抑亦微矣。民部於此遇境逢緣時。憎愛念起。諦觀此念從何所起。若從我起。未逢緣時。如何不起。若從境有。無我亦不能起。兩端合。而能起者。先推於我起不可得。於境起不可得。豈有兩不可得。合而能起耶。這裏民部瞥然省得。雖不謂之了當。生死海中救得一半。四蘊者何。領衲前境謂之受。前境者何。前所謂逢緣遇境時。此境便是前境。此受離前境亦無所得。受既不有。想又何來。想既不有。行亦何來。行既不有。識又何來。葢是因受所以有想。籌量卜度謂之想。想善惡未定。忽遷於善。忽遷於惡。往返不定。未能決了謂之行。行遷流也。忽爾判然。決了是善是惡。毫無所疑。謂之識。雖四者用處不同。究其所由。必因受有想。因想有行。因行有識。此非強配。乃自然之勢。自然之理也。貧道上來胡言亂語。不過教家糟粕。未是衲僧活計。即如古德問僧。即心是佛。乃是頭上安頭。離心是佛。乃是斬頭覓活。民部於此討得个分曉。不要取信於人。自家直下透得。自然無纖毫疑的影子。此是衲僧的活計。猶不是衲僧的巴鼻。且道如何是衲僧的巴鼻。五老峯前雲去來。等閒觸著民部鼻示于民部。

法名之重。重於大寶。大寶不過一期之極貴。法名則由名得義。由義會理。由理行道無阻矣。以無阻之梯。便能直登道岸。得登道岸。始謂之德。故德者得也。嗚呼。道德無古今。而包古今。所以得之者。雖匹夫非窮也。不幸而失之。即王天下非通也。況官乃中人之籧廬乎。又法名法親。與俗名俗親。斷不可同日語者。以俗名俗親。形壽盡。更生別姓。豈可以今世之名姓拘之耶。故得宿命通者。長劫一刻也。而一刻之中。罪福形影。昭然在目。若弗更生耳。三定毋自棄。勉之示三定。

鐵鉢雖堅。彈之則鍠然有聲。清亮幽遠。達耳心空。萬歷癸未。與汝雲閒南禪寺相別。去歲於清涼山坂。忽得汝書。開而讀之。知汝於此箇門頭。得一隙之明矣。我甚喜歡。南禪親近我者。頗亦不少。而寥寥五七年閒。無一人寄音言此觀旨。戊子孟夏。汝又無心。同堅默大變之際。請益聊城傅居士紺圃齋中。逆而思之。今昔光景。如懸寸鏡影像了然。且四月朔日。復汝落草之辰。參陪諸上善人。香燈光中。同音異口勤禮水懺。洗滌前生之垢。浣潔此世之塵。轉罪為福。轉愚為慧。大是好事。亦當自知慚愧。無負己靈。努力精進。必以悟為期。了達自心。作箇末法中李龍眠。以筆頭三昧。發揮自心光明。莊嚴三寶。報佛深恩。大抵根無利鈍。發心真而精進猛。即得道快。當如發心不真。力行不猛。雖天資高邁。聞見博極。亦徒增知見。培植我相根耳。反不若老實頭人多矣。汝奔走四方。孤縱萬里。弔影旅邸。不過以父母在堂。妻屬在下。衣食之費。大不可緩者。將一片精神。不辭飄泊。博些供給。以充甘旨。亦是為人子大關頭處。切勿嬾惰。負青春。辜白日。使父母生憂。妻屬擔慮。此點念頭。便是自心慈悲三昧。如來放光照世也。此光不昧。雖出魔入佛。皆汝道場行履處。亦當衣食供養父母。豐潔為盡心。又當勸父母生大信心。於佛法中立決定信。以娑婆為毒瘴之鄉。極樂為安樂之窩。盻時盻日。惟望一旦生彼國土。親近彌陀。奉侍九品菩薩。汝能如此供養父母。雖曾參之孝。不可異同言也。汝不見堅默。一歲之閒。兩子繼歿。妻室續亡。遑遑道途。持四喪南歸。即聊城傅氏愛女。亦繼堅默乃正而亡。金沙文卿。皆我法門骨肉。俱遭此傷心不如意事。以俗情言之。固可痛恨。以法眼觀之。安知諸亡者。非菩薩示此無常光景。使汝曹生恐怖心。悟世非堅。或未可測。此段因緣。汝還家日。近當白於父母。使其亦生恐怖。於西方生決定信心。何異戰陣而撾鼓。鼓所以壯兵氣。旗所以一眾目。即如無常為旗鼓。一眾生信心。一般上根之人。見幾而作。不俟終日。聞聲便悟。見色即明。亦是拍盲榜樣。豈待搖脣鼓舌。說文字禪。乃開悟哉。峩眉山行期迫矣。想盤桓不甚久也。我初彈鐵鉢作聲時。即壯行色法炮耳。汝輩聲達耳根。竟不省悟。則眉山歸日。長進不長進。未可定。如聞如聞。當自克責。勿逐流俗。珍重示皆聞。

吾以興嚴命汝。其意甚遠。不可忽。而不深思之。嚴之義極廣。聊舉二三示汝。嚴心以悟。嚴身以德。嚴身心以問學。三者苟不廢我言。凡百所當嚴者。得其綱矣。我書此戒汝。推汝父教爾庚而來。汝今雖則年少。未知所以。至於長大。終必知也。噫。種樹方高寸。年多成茂陰示興嚴。

眾生橫計。封蔽本心。是故於全體作用中。疑而不能用也。余以一指屈。而問如聞曰。見麼。曰見。此外見麼。曰不知。余喟然歎嗟。久而示之曰。我此指一屈。一切聖凡。一切依正。無有一法可伸者。豈惟此屈如是。法法皆然。如一念生。則盡虗空界俱生。無有芥子許空隙。可容滅者。滅亦如是。故維摩謂彌勒曰。一切眾生皆如。又文殊對維摩曰。居士我不來相而來。若初有來。今則不能見居士矣。由是言之。則不來非來。來非不來明矣。惟諦了自心者。情見漸破。於此法門。通得一法。而法法皆了矣示如聞。

從古至今。大都學道不成者。往往柰何自家身心不下。是故生死愛憎。交加紛擾。靈臺渾濁。片餉不得清寧。總不如生死何招。愛憎何成。雖復奔波湖海。尋真覓訣。為治身心。或從眼中看得來的。耳中聞得來的。攢頭相授。依憑扭揑。又有靜中得少光景。即為究竟。長年終日。弄鬼眼睛。鼓粥飯氣。自家身心毫釐竟治不得。設臨顛沛流離之際。逆順是非之場。依舊生死浩然。憎愛滿腔。紛飛搖蕩。方寸中如著芒刺相似。此葢不知。自身自心來源。既不知身心來源。即此身心障礙不淺。如是不唧溜做去。豈惟大道。終難悟徹了當。日用中。敢保從生至死。未夢見安閒在。何則不知身源。則見有身。見有身故。則受身累。不知心源。則見有心。見有心故。則受心勞。肇祖云。勞勤莫先於有智。大患莫若於有身。豈欺我哉。且道身心來源處。現前此個軀殻子。不過四大合。現前分別了了。此點妄心。不過四蘊攢就。眾生顛倒。妄以此身為身。此心為心。塵沙劫波。淪墜不已。改頭換面。如火傅薪。蔓延無歇。大丈夫真心學道。何不猛著精彩。拍胸自判。發一片決定心志。直下以四大推身。四蘊推心。逢緣觸境。從朝至暮。綿然無閒。歡喜也如是推。煩惱也如是推。推來推去。工夫純熟。一旦身心廓落。蕩然虗明。到此境界。畢竟喚甚麼作身心。喚甚麼作生死愛憎。德修果然擔荷得。真做得。不惟成佛有分。學仙有路。管取參禪門中。亦推爾不出。德修聞此語。不免疑他成佛成仙。到參禪門中。皆是末事。殊不知禪門向上巴鼻。諸佛猶未夢見在。且道如何是向上巴鼻。十方諸佛在何處。盡在驢胎馬腹中示胡德修。

一切眾生見身可得。是謂愚癡。認知覺為心。是謂愚癡。且道愚癡現前。般若在什麼處。仰勞大眾。助稱摩訶般若波羅蜜多。繞靈三匝。且道般若現前。愚癡又在什麼處。少江若於此聲中。了得過去心不可得。現在未來心不可得。咦。門前流水長無盡。無限魚龍唱鷓鴣弔沈少江居士。

孔子沒。發揮孔子者。孟子一人而已。夫何故。葢孟子得孔子之心也。孔子之心當如何求。求諸孟子而已。欲求孟子之心者。求諸己而已。自心既得。孔孟之心。得矣。自心如何求。當於日用中求也。日用閒人欲雖眾。不出逆順昏昧放逸而已。何謂逆。凡不可意處。皆謂之逆。順則反是。何謂昏昧。觸道義事。聞道義言。不聳然奮為。因循廢棄。皆謂之昏昧。何謂放逸。讀聖賢書。全不體認做去。見善人君子。略不收斂。情馳欲境。神思飛揚。不生自返之心。皆謂之放逸。汝等於此四種關頭。挺然精進做去。即經綸宇宙。整頓蒼生。收功當世。垂芳千古。尚且不難。況目前一第哉。然求此放心。貴在知心起處。起於道義。竭力充之。起於不道義。竭力制之。制之之要。又在先悟自心。自心不悟。雖強制之。終難拔根。根既不拔。工夫稍懈。則人欲之芽。勃然難遏矣。必於穿衣喫飯處。飲食男女處。迎賓待客處。屙屎放尿處。百凡所為。務審此心。為生於我耶。生於物耶。若生於我。生於身中耶。生於身外耶。生於身中。如何不見五藏。生於身外。則與自己了無交涉。如他人喫飯。我必不飽也。若生於物。無我應之。心本自無。若無我應。而物能生心。則擊鍾磬於木偶人傍。胡不見其生心耶。心雖變幻不測。出入無時。然不出物我之閒。若離物我求心。即如潑波覓水也。若即物我是心。又成認賊為子也。離不是心。即不是心。畢竟如何是心。於此參之。真積力久。一旦豁然而悟。則孟子求放心效驗。不待求於孟子矣求放心說示弟子。

## 紫栢老人集卷之五