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title: "紫柏尊者全集 · 心經說"
description: "紫柏尊者全集是明代高僧紫柏真可的著作集，由德清（憨山德清）校阅整理。紫柏真可是晚明四大高僧之一，与莲池、憨山、蕅益齐名，活跃于16世纪末至17世纪初，主张禅净双修，对佛教复兴影响深远。全集收录其语录、书信、诗文等，涵盖禅法心要、净土思想、佛教戒律及社会关怀，体现了他融合各宗、注重实修的弘法特色。该书是研究明代佛教思想的重要文献，展现了紫柏尊者革新佛教的实践智慧，在汉传佛教史上具有崇高地位。"
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### 心經說

> 般若心経

般若波羅蜜多心經者。實眾生大夜之明燈。諸佛之慧命也。梵語般若。此飜智慧。梵語波羅蜜多。此飜到彼岸。葢謂有智慧者。照破煩惱。不溺情波。生死超然。妙契本有。所謂登彼岸焉。心乃喻此經。如人一身。雖有百骸五藏。心為主耳。此經文雖簡略。實六百卷雄文之心也。經者。古今不易常然。徑路。人得趨而進也。觀自在菩薩者。謂此菩薩。以如上智慧。圓照空有。了無罣礙。肇公云。照不失虗。則涉有而無累。虗不失照。則觀空而不醉。即有無而離色空。所以能有能無。可空可色。故曰自在。若夫眾生執有。二乘尚無。各偏所見。不能圓通。便不自在。夫智慧之與聰明。大相懸絕。聰明則由前塵而發。智慧則由本心而生。故聰明有生滅。而智慧無依倚也。所以不生滅耳。行深般若波羅蜜多時者。謂此菩薩所修觀智。不同二乘偏淺。乃深般若也。惟其深般若故。故能照徹色空。本無二致。元一實相。自是凡夫不了。見色而不見空。二乘偏執。見空而不見色。一如恒河之水。魚龍認為窟宅。天人認為琉璃。人閒世認為波流。餓鬼認為猛𦦨。四者所見。不過皆情耳。惟悟心者。了無此見。色既如是。受想行識。未嘗有異。故曰。受想行識亦復如是。照見五蘊皆空。則一切苦厄盡矣。凡夫迷倒。不悟此身四大假合。執以為實。故聞生則喜。聞死則悲。殊不知此身。以四大觀之本不可得。喚誰生死。身既乃爾。此心亦然。妄想攀緣影子。不過四蘊合成。若以四蘊觀之。是心亦不可得。喚誰煩惱。人不悟此。聞譽則懽然為順。聞毀則戚然不悅。此乃恣情縱識。不以觀行。轉識而成智。則將飄淪苦海。逆浪千尋。出沒無常。改頭換面。橫竪羽毛。寧有已哉。痛矣眾生。佛本現成。不肯承當。眾生分外。甘自擔荷。受此荼毒。猶未省悟。舍利子。佛之高弟也。聰明絕倫。才辨超眾。佛呼其名而告之曰。菩薩以智慧照徹五蘊。大患永辭。長揖三界。汝知之乎。即色之空。而不廢涉世也。是諸法空相者。此空相照見五蘊之空也。此空本無生滅。本無垢淨。本無增減。或以道前道中道後釋之。未必然也。何故行人以智慧照五蘊時。色空坐斷。凡聖情盡。此時寶劒當陽。佛亦不能嬰其鋒鋩。況菩薩與凡夫耶。是故空中無色。無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色聲香味觸法。無眼界。乃至無意識界者。謂此菩薩。以此智慧。豈惟照五蘊空耳。至於十二處。十八界。莫不皆空矣。何故謂五蘊即十二處。十二處即十八界。佛以眾生根器不同。隨機設教。有迷心不迷色者。為說五蘊。有迷色不迷心者。為說十二處。有心色俱迷者。為說十八界。要而言之。蘊處界三。不出色心也。無無明。亦無無明盡。乃至無老死。亦無老死盡。無苦集滅道。無智亦無得者。謂菩薩以智慧照之。此真空之中。非惟蘊入界本空。至於十二因緣流轉亦空。非惟流轉空耳。還滅亦空。非惟還滅空耳。苦集滅道皆空也。非惟種種皆空。即此能空蘊入界三。乃至苦集滅道之智。亦不可得。葢所既不有。能不單立故也。十二支。及四諦。雖則聲聞緣覺。巧拙有異。要而言之。真空之中。無是事也。菩提薩埵。依般若波羅蜜多故。心無罣礙。無罣礙故。無有恐怖。遠離顛倒夢想。究竟涅槃。三世諸佛依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提者。謂此經不惟眾生宗之。度生死流而登彼岸。直饒諸佛菩薩。分真究竟。亦必本此也。此葢讚勸流通此經。使諸眾生。依般若而進修。庶不遭魔外眩惑也。永嘉曰。大丈夫兮秉慧劒。般若鋒兮金剛𦦨。非但空摧外道心。蚤曾落却天魔膽。大都有志於出世者。如此力量。如此風雲之思。如此激烈之懷抱。如大火聚。使萬物嬰之。直下灰飛烟滅可也。不然則少見可欲。而兒女情生矣。或云。師之論此經。不分因果。不列科章。似乎儱侗。不合古規。恐不宜也。余則應之曰。我佛所說千經萬論。五時不等。不過陶汰眾生情塵。洗滌其見地。苟情塵盡而見地正。則古規不合之中。實合之也。子胡多語乎。故知般若波羅蜜多。是大神呪。是大明呪。是無上呪。是無等等呪。能除一切苦。真實不虗。此亦讚歎般若。尊重效驗耳。神則妙萬物而莫測。可測則不神矣。明則圓應萬有而無所累。累則不明矣。無上則更無過其上者。有過之者則不上矣。無等等。則無可與等者。圓滿充實。更無及者也。圭峰云。彌滿清淨。中不容他。孰與等之。已上皆顯說般若也。然般若有三。所謂文字。觀照。實相也。葢非文字無以起觀照。非觀照無以鑒實相。非實相。則菩薩無所宗極也。極者何。證之謂也。夫證有淺深。淺則斷見思。及塵沙耳。深則圓拔根本無明。直抵妙覺而後已。雖三觀一心。兼修並進。然斷見思。則空觀之力居多。斷塵沙無明。則假觀之力居多。斷根本無明。則中觀之力居首。夫見地明。而不修觀行者。何殊有田而不耕也。雖修觀行。而見地不明。又如盲人行路。非惟不能還家。我恐其將墮坑落塹也。若人怕生死而厭煩惱。無如以四大觀身。四蘊觀心焉。夫四大觀身。四蘊觀心之旨。此如來剖心剜膽。指箇方便。冀眾生即此臭軀殻上。攀緣影中。使即妙悟此身此心。原一實相耳。然眾生流浪生死。輪轉苦趣。實非聲色貨利。飲食男女牽障也。特其不能以四大觀身。四蘊觀心。則見有身可得。有心可礙。有身可得。則生死宛然。有心可礙。則憎愛熾然。生死厚而憎愛深。則本有智慧光明埋沒矣。佛與眾生豈兩箇耶。佛不過無死生無愛憎人耳。眾生則有生死有憎愛佛也。四大觀身者。凡行人行住坐臥。當以齋潔念頭。回觀此身。皮肉筋骨本屬地大。血脉涕涶津液本屬水大。暖氣屬火。動轉屬風。諦審觀察。於我何有。今橫執之。而不舍離。認以為實。何殊兩鬼爭臭屍焉。如是觀久。積習行深。生處漸熟。熟處漸生。至於練盡。練之一字。不可忽也。苟非真為死生漢子。逆順境臨。便擔荷不起矣。四蘊觀心者。先觀受蘊究從何有。推而窮之。為無因忽生耶。為託境生耶。無因能生。則前境未感。本心寂寥靈徹。烏得有所謂妄想耶。托境而生。則前境遷變。心亦遷變。遷變之心。豈真我心。若真我心。天地以之建立。萬物以之為本。若其遷變。安能為天地根蒂。萬物之本乎。故知遷變者。特攀緣影子耳。夫真心則塵生不生。塵滅不滅。照物而無累者也。故毗舍浮佛偈曰。假借四大以為身。心本無生因境有。前境若無心亦無。罪福如幻起亦滅。此偈世尊大慈。全提緣起無生綱領也。如能悟此。則心經之妙。盡於此矣。夫緣起無生者。謂心不自生。生必由塵。塵不自顯。顯必由心。惟不自生。心無性也。惟不自顯。塵無性也。心塵無性。則無生現前。無性心塵。則緣生不廢。心塵既爾。萬法皆然矣。此旨在於華嚴。則謂之法界。在法華。則謂之實相。或曰。此經以破相為宗。談空為趣。豈與華嚴法華同轍而語哉。夫華嚴法華。皆顯示圓宗。而此經密譚實相。乃古德成言。非不󰦇臆度穿鑿也。噫眾生疑情。不了此旨。於無身中妄見有身。於無心中妄見有心。殊不知無身之身。形充法界。無心之心。靈照羣品。夫此身此心。豈是高遠玄妙也耶。即吾日用之中。應緣之際。未始不昭昭然也。老洞華嚴曰。佛法在日用處。穿衣吃飯處。屙屎放尿處。舉心動念即不是了也。龐居士曰。日用事無別。惟吾自偶諧。神通并妙用。運水及搬柴。然此旨有悟而未修者。有修而未成者。有證而受用者。今有人於此。微有小悟。即不修行。便謂已了。則修與證。掉頭不顧。癡到臈月三十日。一場懡㦬也。不󰦇此論。非敢參入義黨。比因海陽居士。偶叩及此。不覺率意而成。故無啟請三寶證明加被偈也。揭諦揭諦。波羅揭諦。波羅僧揭諦。菩提薩婆訶者。此密說般若也。既謂之密。則不󰦇不敢彊論矣。

> 般若波羅蜜多心経は、まさに衆生の大いなる闇夜の明かりであり、諸仏の智慧の命である。梵語の「般若」は、ここでは「智慧」と訳す。梵語の「波羅蜜多」は、ここでは「彼岸に到る」と訳す。つまり、智慧ある者が煩悩を照らし破り、情の波に溺れず、生死を超然と越え、本来のありようと妙に一致することをいう。いわゆる彼岸に登るということである。「心」はこの経を譬えたもので、人の体には百の骨や五臓があるが、心が主であるように、この経文は簡略ながら、実に六百巻の雄大な経典の心臓なのである。「経」とは、古今を貫いて変わらない常なるものであり、道筋であり、人がそれに従って進むことができるものである。 観自在菩薩とは、この菩薩が先に述べたような智慧をもって、空と有を円満に照らし、何のわだかまりもないことをいう。肇公は言う。「照らすことが虚ならざるを失わなければ、有に関わっても煩わされない。虚が照らすことを失わなければ、空を観ても酔わない」。すなわち、有と無を即しつつ色と空を離れているので、有も無も自在であり、空も色も自在なのである。だから「自在」というのである。もし衆生が有に執着し、二乗がなお無を尊ぶならば、それぞれ偏った見方にとらわれ、円通することができず、自在とはいえない。 智慧と聰明は大きく異なる。聰明は外の対象（前塵）から生じるが、智慧は本心から生じる。だから聰明には生滅があるが、智慧には依るものがない。それゆえ生滅しないのである。 「行深般若波羅蜜多時」とは、この菩薩の修める観智が、二乗の偏った浅いものとは異なり、深い般若であることをいう。深い般若であるがゆえに、色と空を照らし徹し、本来二つではなく、元来一つの実相であることを見極めるのである。もちろん凡夫はこれを理解せず、色を見て空を見ず、二乗は偏って執着し、空を見て色を見ない。ちょうどガンジス川の水を、魚や龍は住処と見なし、天人は瑠璃と見なし、人間界では水流と見なし、餓鬼は猛炎と見なすようなものである。四者の見るものは、すべてただの思いに過ぎない。心を悟った者だけが、このような見方をまったく持たないのである。色がこのようであるならば、受・想・行・識もまた同様に異なることがない。だから「受想行識亦復如是」というのである。五蘊が皆空であると照見すれば、一切の苦厄は尽きるのである。 凡夫は迷い転倒し、この身が四大の仮りの和合であることを悟らず、実体あるものと執着する。だから生を聞けば喜び、死を聞けば悲しむ。知らないのは、この身を四大によって観れば、本来得られるものではないということだ。では、いったい誰が生死するというのか。身がこのようであるならば、この心もまた同様である。妄想や縁に攀じる影は、四蘊の合成に過ぎない。四蘊によってこれを観れば、この心もまた得られるものではない。では、いったい誰が煩悩するというのか。人はこれを悟らないので、誉められれば喜んで従い、貶されれば悲しんで不愉快になる。これは情を恣にし、識を放縦にし、観行によって転識して智とせず、苦海に漂い沈み、逆浪千尋の中、出没無常に、改頭換面し、縦横に羽毛をはためかせて、どうして終わりがあろうか。痛ましいことよ、衆生よ。仏は本来現成しているのに、肯って引き受けようとせず、衆生は分を超えて、自ら進んで荷を担い、このような苦しみを受けながら、まだ悟ろうとしない。 舎利子は、仏の高弟である。聰明絶倫で、才弁衆に超えている。仏はその名を呼んで告げられた。「菩薩は智慧をもって五蘊を照らし徹し、大きな患いを永遠に辞し、三界に長揖する。汝はこれを知っているか」。色を即して空であるがゆえに、世に関わることを廃さないのである。 「是諸法空相」とは、この空の相が五蘊の空を照見することをいう。この空は本来、生滅がなく、垢浄がなく、増減がない。あるいは道前・道中・道後によってこれを解釈するが、必ずしもそうではない。なぜなら、修行者が智慧をもって五蘊を照らす時、色と空は坐断され、凡聖の情は尽きる。この時、宝剣が陽のもとに当たり、仏さえもその鋒鋩に触れることはできない。まして菩薩や凡夫であろうか。それゆえ、空の中には色がなく、受・想・行・識がなく、眼・耳・鼻・舌・身・意がなく、色・声・香・味・触・法がなく、眼界から意識界に至るまでないのである。この菩薩はこの智慧をもって、ただ五蘊が空であることを照らすだけでなく、十二処、十八界に至るまで、すべてが空であることを見るのである。なぜなら、五蘊は即ち十二処であり、十二処は即ち十八界であるからだ。仏は衆生の根器が異なるため、機に随って教えを説かれた。心に迷って色に迷わない者には五蘊を説き、色に迷って心に迷わない者には十二処を説き、心と色の両方に迷う者には十八界を説かれた。要するに、蘊・処・界の三つは、色と心を出ないのである。 「無無明、亦無無明盡、乃至無老死、亦無老死盡。無苦集滅道、無智亦無得」とは、菩薩が智慧をもって照らせば、この真空の中には、ただ蘊・入・界が本来空であるだけでなく、十二因縁の流転もまた空であり、ただ流転が空であるだけでなく、還滅もまた空であり、ただ還滅が空であるだけでなく、苦・集・滅・道もすべて空であることをいう。ただ様々なものが空であるだけでなく、この能く蘊・入・界の三つを空じ、さらには苦・集・滅・道を空じる智慧さえも得られないのである。なぜなら、所（対象）が存在しなければ、能（主体）も単独では立たないからである。十二支および四諦は、声聞・縁覚において巧拙の違いはあれ、要するに、真空の中にはそのような事はないのである。 「菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙。無罣礙故、無有恐怖、遠離顛倒夢想、究竟涅槃。三世諸佛依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提」とは、この経はただ衆生がこれをよりどころとして生死の流れを渡り彼岸に登るだけでなく、まさに諸仏菩薩も、分真（部分的に真実を証する）から究竟（完全な悟り）に至るまで、必ずこれを根本とすることをいう。これはこの経を讃嘆し、勧め、流通させ、諸々の衆生が般若に依って進修し、魔や外道に惑わされないようにするためである。永嘉大師は言う。「大丈夫よ、慧剣を執れ。般若の鋒は金剛の炎。ただ外道の心を空しく摧くのみならず、早くより天魔の胆を落とせ」。およそ出世を志す者は、このような力量、このような風雲の思い、このような激烈な抱負を持たねばならない。それは大火聚のごとく、万物がそれに触れれば、直ちに灰飛烟滅するのである。そうでなければ、少しでも欲しいものを見れば、たちまち児女の情が生じてしまう。 ある人が言う。「師がこの経を論ずるに、因果を分けず、科章を列ねず、どうやら大雑把で、古い規則に合わない。恐らく適切ではないだろう」。私はこれに応えて言う。「我が仏の説かれた千経万論、五時の違いは、ただ衆生の情塵を淘汰し、その見地を洗い清めるに過ぎない。もし情塵が尽きて見地が正しければ、古い規則に合わないところに、実は合っているのである。君はどうして多くを語るのか」。 「故知般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真實不虛」これも般若を讃嘆し、その効験を尊重するものである。「神」とは万物を妙にして測りがたく、測ることができれば神ではない。「明」とは万有に円満に応じて何にも煩わされず、煩わされれば明ではない。「無上」とはそれ以上に優れたものはなく、優れたものがあれば上ではない。「無等等」とは等しいものがないことで、円満充実して、及ぶものがない。圭峰大師は言う。「弥満清淨、中に他を容れず。孰かこれと等しからん」。以上はすべて顕説（明らかに説かれた）般若である。 しかし般若には三つある。いわゆる文字般若、観照般若、実相般若である。文字がなければ観照を起こすことができず、観照がなければ実相を鑑みることができず、実相がなければ菩薩はよりどころとする極みがない。極みとは何か。証することである。証には浅深がある。浅ければ見惑・思惑、および塵沙惑を断ずる。深ければ根本無明を円満に抜き去り、直ちに妙覚に至るまでである。三観一心、兼修並進であるが、見惑・思惑を断ずるには空観の力が多くを占め、塵沙無明を断ずるには仮観の力が多くを占め、根本無明を断ずるには中観の力が最も重要である。見地が明らかでも観行を修めなければ、田はあっても耕さないのと同じである。観行を修めても見地が明らかでなければ、また盲人が道を行くようなもので、家に帰れないだけでなく、坑や塹に落ちることを恐れる。 もし人が生死を恐れ煩悩を厭うなら、四大によって身を観じ、四蘊によって心を観じるに如くはない。四大によって身を観じ、四蘊によって心を観ずる旨は、これ如来が心を剖き胆を剜き、方便を指し示し、衆生がこの臭い躯殻の上で、攀縁の影の中で、まさにこの身この心が元来一つの実相であることを妙悟することを望まれたのである。しかし衆生が生死に流浪し、苦趣に輪転するのは、実は声色貨利や飲食男女が引き止め障るからではない。ただ四大によって身を観じ、四蘊によって心を観ずることができないために、得られる身があると見、碍てられる心があると見るからである。得られる身があると見れば、生死はあたかもありのままにあり、碍てられる心があると見れば、憎愛は熾然と燃える。生死が厚く憎愛が深ければ、本来の智慧光明は埋もれてしまう。仏と衆生はどうして二つであろうか。仏はただ生死がなく愛憎がない人に過ぎない。衆生は生死があり憎愛がある仏なのである。 四大観身とは、凡そ修行者が行住坐臥において、斎潔な念頭をもって、この身を回り観じるべきである。皮肉筋骨は本来地大に属し、血脉涕唾津液は本来水大に属し、暖気は火に属し、動転は風に属する。諦めて審らかに観察すれば、私に何があるというのか。今横にこれを執って捨て離れず、実体と認めるのは、二鬼が臭い屍を争うのと何が違うだろうか。このように観じることが長く続き、積習して行が深まれば、生じる処（慣れないこと）は次第に熟し、熟する処（慣れたこと）は次第に生じ、ついに練り尽くされる。「練」という一字を軽んじてはならない。もし真に生死をかけぬ漢でなければ、逆順の境が臨んでも、担いで起き上がることができないであろう。 四蘊観心とは、まず受蘊が究極どこからあるかを観じる。推し窮めてみる。無因に忽然と生じるのか。境に託って生じるのか。無因に生じるならば、前境がまだ感ずる前、本心は寂寥として霊徹であり、どうして妄想などというものがあろうか。境に託って生じるならば、前境が遷変すれば心も遷変する。遷変する心が、どうして真の私の心であろうか。もし真の私の心であれば、天地はそれによって建立され、万物はそれを根本とする。もしそれが遷変するならば、どうして天地の根蒂、万物の根本でありえようか。故に遷変するものは、ただ攀縁の影に過ぎないと知るのである。真心は塵が生じても生じず、塵が滅しても滅せず、物を照らして煩わされないものである。だから毘舎浮仏の偈に言う。「四大を仮借して以て身と為す。心は本無生、境に因って有り。前境若し無ければ心も亦無し。罪福は幻の如く、起き亦滅す」。この偈は世尊の大慈悲をもって、縁起無生の綱領をすべて示されたものである。これを悟ることができれば、心経の妙はこれに尽きるのである。 縁起無生とは、心は自ら生じず、生ずるには必ず塵による。塵は自ら顕れず、顕れるには必ず心による。自ら生じないから、心には自性がない。自ら顕れないから、塵には自性がない。心と塵に自性がなければ、無生が現前する。自性のない心と塵であれば、縁起は廃されない。心と塵がこのようであるならば、万法もまた皆そうである。この旨は華厳においては法界といい、法華においては実相という。 ある人が言う。「この経は相を破ることを宗とし、空を談ずることを趣としている。どうして華厳や法華と同じ轍で語れようか」。華厳や法華は皆円宗を顕示し、この経は密かに実相を談ずる。これは古徳の成言であって、私の臆測や穿鑿ではない。ああ、衆生の疑情はこの旨を了えず、身のない中に妄りに身があると見、心のない中に妄りに心があると見る。知らないのは、身のない身は形が法界に充ち、心のない心は霊が群品を照らすということだ。この身この心は、どうして高遠玄妙なものであろうか。それは我々の日用の中、縁に応じる際に、未だ始めから昭々としているのである。老洞華厳は言う。「仏法は日用の処にあり、衣を着け飯を食う処にあり、屎を屙し尿を放つ処にあり、心を挙げ念を動かせば即ち是れならず」。龐居士は言う。「日用事別無し、惟だ吾自ら偶諧す。神通并びに妙用、水を運び柴を搬す」。しかしこの旨には、悟ってもまだ修めない者、修めてもまだ成じない者、証して受用する者がいる。今ここに、微かに小悟があっても、すぐに修行せず、すでに了ったと言う者がいる。すると修と証に、頭を掉り返して顧みない。臘月三十日に至って、一場の懡㦬（恥ずかしい失敗）となるであろう。この論は、敢えて義理の徒に参入しようとするものではない。海陽居士が偶々これを叩いたため、率意のままに成ったのである。だから啓請三宝証明加被の偈はないのである。 「揭諦揭諦、波羅揭諦、波羅僧揭諦、菩提薩婆訶」これは密説（秘密に説かれた）般若である。すでに密というならば、敢えて強いて論じることはできない。

心經說

> 般若心経は説く。

夫心經一書。乃世出世閒。聖賢豪傑之神術也。是以得其旨者。御大千而王天下。如黠童牧羊。鞭䇿指揮之閒。靡不得其所者也。究其關鍵。則照見五蘊皆空一句。又此經之心焉。今有人於此。志在聞道。而欲兼善一切。舍是書而他求。所謂夜行而棄燭。非愚即狂矣。大抵道之不明。世之難治。皆根於我相。我相既立。見可欲者。即欣然而悅之。悅之而不滿所懷。即勃然而怒矣。天機由是而塞。好惡由是而偏。以故本有智慧光明埋沒盡矣。以日用而觀之。則愛憎交戰於靈臺。情識浮沉於寵辱。以今古而觀之。七雄五伯之相戮。漢唐宋元之得失。雖復盡善不盡善。不可同年而語及乎。非武則亂不可定。非智則國不可守。要而言之。皆不出我相也。是以真性日昧。妄想日濃。質朴日漓。世道日下。故曰。以智治國國之賊。有我治人物之敵。夫賊之與敵。雖父母施之於子。必不能行。寧惟不能行。將必反目而攻之矣。如來知我相之毒天下。其害甚大。所以即一念而開色心。即色心而開五蘊。即色塵而開十二處。又即五蘊而開十八界。使夫眾生。悟知身執心執。俱本於我相。我相根本。又生於無明。支支相緣。苦集相起。故達無明之所由生者。則真性自朗。達色心無性者。則一念不可得。達五蘊無性。則色心亦不可得。達十二處之所由生者。即如庖丁解牛。了無全牛矣。以十二處觀現前此身。亦無全身可得也。達十八界之所由生者。則知色心二法。外則析為六塵。內則析為六根。中則即將現前分別。歷歷覺知之心。又析為六識嘻。非我佛大慈深悲。則我相之根。毒害之本。眾苦之垢。豈易拔易滌哉。滌垢如寒濤漱石。拔根如金剛破物。漱之不已。石必終易。破之不已。物必終空。石易終穿。物空我廢。所謂若虧其一。必喪其兩耳。夫物我既忘。則本心自露。故曰。靈光獨耀。逈脫根塵也。若夫將此光。照出世則覺路可登。照世閒則古道可復。余故曰。心經一書。世出世之神術也。般若總部其名有八。文則六百餘卷。惟此經。又六百卷雄文之關鍵也。此經之關鍵。又照見五蘊皆空一句是矣。照見五蘊皆空。又本乎色心二法。色心二法。又本乎瞥起一念。瞥起一念。又本乎真心。惟真心初本澄湛。本無根塵物我。而獨立於五蘊之先。絕無所感。則一念瞥起所由。雖大智高明之士。扣其瞥起所由生。竟無有能酬者也。小子于此亦疑之久矣。安得有破疑之大師。我以身肉充供。亦所甘心焉。

> 『般若心経』一巻の書は、この世を超えた世界と、この世の中とを貫く、聖賢や豪傑たちの神わざのような術です。そのため、その真意を得た者は、大千世界を治めて天下に王たり、それはまるで利口な童子が羊を飼うように、鞭をふるって指揮する間に、ことごとくそのあるべきところを得させるようなものです。その肝心かなめを究めれば、「五蘊は皆空なりと照見する」という一句が、またこの経の心臓であります。今ここに、道を聞くことを志し、あらゆるものをともに善くしようと欲する人がいるとします。この書を捨てて他に求めるならば、いわゆる夜道を行くのに灯火を棄てるようなもので、愚かでなければ狂気であります。 およそ道が明らかでなく、世が治めにくいのは、すべて「我相」に根ざしています。我相がすでに立てば、欲しいものを見れば、たちまち喜んでそれを好みます。好んでも思いどおりにならなければ、たちまち激怒してしまうのです。天与の機微はこれによってふさがれ、好き嫌いはこれによって偏ります。それゆえ、本来そなわっている智慧の光明は埋もれ尽くしてしまうのです。日々の暮らしにおいて見れば、愛憎が心の奥深くで戦い交わり、感情や分別が栄誉や恥辱に浮き沈みします。古今を通じて見れば、戦国七雄や春秋五覇の相争い、漢・唐・宋・元の得失は、たとえ善を尽くしたかどうかは別として、同じ年に論じることはできません。武力がなければ乱は定まらず、智恵がなければ国は守れません。要するに、すべて我相から出ないものはないのです。 それゆえ真実の本性は日ごとに曇り、妄想は日ごとに濃くなり、素朴さは日ごとに薄れ、世の道は日ごとに下ります。ですから、「智をもって国を治むるは、国の賊なり」「我ありて人や物を治むるは、人や物の敵なり」と言われるのです。賊と敵とは、たとえ親が子に施すとしても、必ず行うことはできません。できないばかりか、必ずや反目して攻めかかるでしょう。如来は、我相が天下を毒することを知り、その害が甚だ大きいので、一瞬の念から色と心とを開き、色と心から五蘊を開き、色と塵から十二処を開き、また五蘊から十八界を開いて、衆生に悟らせたのです。身への執着も心への執着も、ともに我相に本づくことを。我相の根本は、また無明から生じます。枝々が互いに縁となり、苦と集が相い起こります。だから、無明の生じる由縁を達観すれば、真の本性はおのずから明るくなります。色と心に自性がないことを達観すれば、一瞬の念も得られません。五蘊に自性がないことを達観すれば、色と心も得られません。十二処の生じる由縁を達観すれば、ちょうど料理人が牛を解体するように、もはや全牛はありません。十二処をもって眼前のこの身を観れば、また全身も得られません。十八界の生じる由縁を達観すれば、色と心の二法が、外に向かっては六塵に分析され、内に向かっては六根に分析され、中間では眼前の分別、歴然と覚知する心が、また六識に分析されることを知るのです。ああ、我が仏の大いなる慈悲がなければ、我相の根、毒害の本、衆苦の垢は、どうして容易に抜き、容易に洗い流せましょうか。 垢を洗い流すことは、寒々とした波が石を洗うようであり、根を抜くことは、金剛が物を破るようです。洗い続ければ、石は必ずやついに変化し、破り続ければ、物は必ずやついに空になります。石が変わってついに穿たれ、物が空になって我が廃れば、いわゆるもしその一つを欠けば、必ずその両方を失うというものです。物と我とがすでに忘れられれば、本心はおのずから現れます。だから、「霊光独り耀き、根塵を迥脱す」と言われるのです。もしこの光をもって、世を超えた世界を照らせば覚りの道に登ることができ、この世の中を照らせば古の道を復することができます。それゆえ私は言うのです。『心経』一巻の書は、世を超え世にある神わざのような術である、と。 般若の総部にはその名が八つあり、経文は六百余巻あります。ただこの経のみが、また六百巻の雄大な文章の肝心かなめなのです。この経の肝心かなめは、また「五蘊は皆空なりと照見する」という一句であります。「五蘊は皆空なりと照見する」は、また色と心の二法に本づきます。色と心の二法は、また一瞬の念の起こりに本づきます。一瞬の念の起こりは、また真心に本づきます。ただ真心は初めから澄みきっており、本来、根も塵も物も我もなく、五蘊に先立って独立し、まったく感ずるものがないのです。すると、一瞬の念が起こる由縁は、たとえ大いなる智恵高い明らかな士といえども、その起こる由縁を問うても、ついに答えることができる者はありません。私めもこれについて久しく疑ってきました。どうか疑いを破ってくださる大師が現れますように。私は身と肉とをもって供養に充てても、甘んじて受けましょう。