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title: "南傳中部經典 · 念處經第十"
description: "南傳中部經典是佛教巴利語三藏中《中部》的漢譯本，由芝峯法師翻譯。該經典屬於上座部佛教根本聖典，記錄了佛陀與弟子們的對話，共包含152部經，涵蓋了佛教核心教義如四聖諦、八正道、緣起法等。這些經典形成於公元前1世紀左右，是研究原始佛教思想的重要文獻。南傳中部經典在佛教中佔有重要地位，被視為佛陀教法的直接傳承，為南傳佛教國家如斯里蘭卡、泰國、緬甸等地僧眾修學的基礎經典，也是了解原始佛教教義的關鍵文本。"
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### 念處經第十

> 念処経 第十

如是我聞。一時世尊．在拘樓國劍磨瑟曇聚落。爾時世尊．呼諸比丘曰．『諸比丘。』彼等比丘應世尊曰．『世尊。』

> このように私は聞きました。ある時、世尊（仏陀）はコーリヤ国の剣磨瑟曇（カンマーサダンマ）という村に滞在されていました。その時、世尊は比丘たちに呼びかけられました。「比丘たちよ。」比丘たちは世尊に答えました。「世尊よ。」

世尊說言．『諸比丘．若有欲為淨化有情．超越愁悲．消滅苦憂．逮達正理．涅槃作證．有此一乘．即四念處。何者為四。謂有比丘於身隨觀身．而以至心．深自警覺．念持不失．拔除世間貪憂。於受隨觀受．而以至心．深自警覺．念持不失．拔除世間貪憂。於心隨觀心．而以至心．深自警覺．念持不失．拔除世間貪憂。於法隨觀法．而以至心．深自警覺．念持不失．拔除世間貪憂。〔如是．謂四念處。〕

> 世尊はこうお説きになりました。「比丘たちよ、もしも衆生を清め、悲しみや嘆きを超え、苦しみや憂いを滅ぼし、正しい理に達し、涅槃を実証しようと望むなら、そのための唯一の道がある。それは四念処である。四つとは何か。すなわち、比丘は身体において身体を観察し、心を込めて深く自らを目覚めさせ、気づきを保ち続け、世の中への貪りや憂いを除き去る。感受において感受を観察し、心を込めて深く自らを目覚めさせ、気づきを保ち続け、世の中への貪りや憂いを除き去る。心において心を観察し、心を込めて深く自らを目覚めさせ、気づきを保ち続け、世の中への貪りや憂いを除き去る。法において法を観察し、心を込めて深く自らを目覚めさせ、気づきを保ち続け、世の中への貪りや憂いを除き去る。これらを四念処という。」

諸比丘．云何比丘．於身隨觀身住。諸比丘．謂有比丘．或行閑林．或行樹下．或行空閑處．結跏趺坐．正直其身．立念面前．念出息．念入息。出息長時．知「我出息長．」入息長時．知「我入息長．」出息短時．知「我出息短．」入息短時．知「我入息短。」或修「我欲覺全身出息．」或修「我欲覺全身入息。」或修「我使身行靜止出息．」或修「我使身行靜止入息。」諸比丘．如繩墨師或繩墨弟子．於其墨繩．若牽長時．知「我牽長．」或牽短時．知「我牽短．」比丘或出息長．知「我出息長．」或出息短．知「我出息短．」乃至修「我使身行靜止入息．」亦復如是。如是內於身隨觀身．外於身隨觀身．內外於身隨觀身而住。於身隨觀集法．於身隨觀滅法．於身隨觀集滅法而住。「身是有」念．於彼現前．如是此資於慧．資於思念。彼以無依止而住．於世間事．而不執着。如是比丘．謂於身隨觀身住。

> 比丘たちよ。どのようにして比丘は、身体について身体を観察しながら留まるのか。 比丘たちよ。例えば、ある比丘が、林の中に行き、あるいは木の下に行き、あるいは静かな場所に行き、足を組んで坐り、身体を真っ直ぐにし、目の前に気づきを確かに立てる。息を吐くことに気づき、息を吸うことに気づく。 息を長く吐くときは、「私は息を長く吐いている」と知る。息を長く吸うときは、「私は息を長く吸っている」と知る。息を短く吐くときは、「私は息を短く吐いている」と知る。息を短く吸うときは、「私は息を短く吸っている」と知る。 「全身を感じながら息を吐こう」と修行し、「全身を感じながら息を吸おう」と修行する。 「身体の働きを静めながら息を吐こう」と修行し、「身体の働きを静めながら息を吸おう」と修行する。 比丘たちよ。ちょうど、大工や大工の弟子が、墨縄を使うとき、長く引く時は「私は長く引いている」と知り、短く引く時は「私は短く引いている」と知るのと同じように。比丘もまた、息を長く吐くときは「私は息を長く吐いている」と知り、息を短く吐くときは「私は息を短く吐いている」と知る。さらには「身体の働きを静めながら息を吸おう」と修行するのも、また同じである。 このようにして、内側の身体について身体を観察しながら留まり、外側の身体について身体を観察しながら留まり、内外の身体について身体を観察しながら留まる。身体において生起する性質を観察し、身体において滅する性質を観察し、身体において生起と滅する性質を観察しながら留まる。 「身体がある」という気づきが、その眼前に確かに現れる。このようにして、その気づきは智慧を助け、思念を助けるのである。彼は何ものにも依らずに留まり、世の中の何事にも執着しない。比丘はこのようにして、身体について身体を観察しながら留まると言われるのである。

諸比丘．復有比丘．行時知「我行．」立時知「我立．」坐時知「我坐．」臥時知「我臥．」如彼身所現．一一知之。如是內於身隨觀身．乃至於世間事．而不執着。如是比丘．謂於身隨觀身而住。諸比丘．復有比丘．若去若來．善能知之．觀前觀後．善能知之．或屈或伸．善能知之．執持大衣、衣缽．善能知之．噉、飲、嚼、味．善能知之．屙屎放尿．善能知之．行、住、坐、眠、醒寤、語、默．善能知之。如是內於身隨觀身．乃至於世間事．而不執着。如是比丘。謂於身隨觀身而住。

> 比丘たちよ、さらに比丘がいる。 歩くときには「歩いている」と知り、 立つときには「立っている」と知り、 座るときには「座っている」と知り、 横になるときには「横になっている」と知る。 このように、からだに現れるままに、その一つ一つをあるがままに知る。 こうして内側のからだを観察し、からだを見つめながら過ごす。 世の中の事柄に執着することなく、 比丘は、からだをからだのままに観じて住むのである。 比丘たちよ、さらに比丘がいる。 行くときも帰るときも、はっきりと知る。 前を見るときも後ろを見るときも、はっきりと知る。 腕を曲げるときも伸ばすときも、はっきりと知る。 大衣や鉢を持つときも、はっきりと知る。 食べるとき、飲むとき、噛むとき、味わうときも、はっきりと知る。 大便や小便をするときも、はっきりと知る。 歩く、立つ、座る、眠る、目覚める、話す、黙る—— これらすべてを、はっきりと知る。 こうして内側のからだを観察し、からだを見つめながら過ごす。 世の中の事柄に執着することなく、 比丘は、からだをからだのままに観じて住むのである。

復次諸比丘．若比丘觀察此身．上自頭頂．下迄足蹠．皮膚所覆．充滿種種不淨之物．即念「此身．髮、髦、爪、齒、皮、肉、筋、骨、髓、腎、心、肝、肋、脾、肺、腸、臟腑、胃、糞、膽汁、痰、膿、血、汗、脂、淚、膏、唾、洟、滑液、小便」者是。諸比丘．猶如兩頭口袋．盛滿五穀．若稻、粟、綠荳、大豆、胡麻、米等．有具眼者．出而觀察．謂「此是稻．此是粟．此是綠荳．此是大豆．此是胡麻．此是米也。」比丘觀察此身．亦復如是．上自頭頂．下迄足蹠．皮膚所覆．充滿種種不淨之物．所謂「此身．髮、髦、爪、齒、乃至滑液、小便」者是。如是內於身隨觀身．乃至於世間事．而不執着。如是比丘．謂於身隨觀身而住。

> さらに、比丘たちよ。比丘がこの身体を観察するとき、頭のてっぺんから足の裏に至るまで、皮膚に覆われ、様々な不浄のもので満ちているのを観察します。すなわち、「この身体には、髪、毛、爪、歯、皮、肉、筋、骨、髄、腎臓、心臓、肝臓、肋膜、脾臓、肺臓、腸、内臓、胃、糞、胆汁、痰、膿、血、汗、脂、涙、膏、唾、鼻水、滑液、小便がある」と。比丘たちよ、ちょうど両口の袋に、米、粟、緑豆、大豆、胡麻などの五穀を満たしたものがあるとします。目のある人がそれを開けて観察し、「これは米、これは粟、これは緑豆、これは大豆、これは胡麻」と見分けるのと同じです。比丘がこの身体を観察するのもまた同様で、頭のてっぺんから足の裏に至るまで、皮膚に覆われ、様々な不浄のもので満ちている、すなわち「この身体には、髪、毛、爪、歯から滑液、小便まである」と。このようにして、内なる身体について身体を観察しつつ、世の中の事柄に執着することなくあります。この比丘は、身体について身体を観察しながら安住する、と言われます。

復次諸比丘．若比丘觀察此身．如所設置．如所顯示．觀察於界．即念「此身．是地界、水界、火界、風界。」猶如善技之屠牛者．或屠牛者弟子．屠牛於衢．分分割截．而行陳列。比丘觀察此身．如所設置．如所顯示．亦復如是．觀察於界．即念「此身．是地界、水界、火界、風界。」如是內於身隨觀身．乃至於世間事．而不執着。如是比丘．謂於身隨觀身而住。

> さらに比丘たちよ。比丘がこの身体を、意図的に設定し、明確に示された通りに観察し、その構成要素を観るとき、「この身体は地の要素、水の要素、火の要素、風の要素から成る」と、そのように観じるのです。ちょうど、巧みな牛飼いか、あるいはその弟子が、街中で牛を屠り、細かく切り分けて並べるように。比丘はこの身体を、意図的に設定し、明確に示された通りに観察し、その構成要素を観るとき、「この身体は地の要素、水の要素、火の要素、風の要素から成る」と、そのように観じるのです。このようにして、内なる身体において身体を観じ、ついには世の中の事柄に執着することなく過ごします。このように比丘は、身体において身体を観じながら、安住するのです。

復次諸比丘．比丘如應見死屍．遺棄墓地．或經一日、或二日、或三日．膖脹青黑．膿穢腐爛．而彼即觀此身．「此身亦為如是之法．以如是所成之物故．終亦莫能免於此者。」以是內於身隨觀身．乃至於世間事．而不執着。復次諸比丘．比丘如應見死屍．遺棄墓地．或被烏鴉、鷹、鷲．或狗、野干．或諸蟲類．之所啄噉．而彼即觀此身．「此身亦為如是之法．以如是所成之物故．終亦莫能免於此者。」以是內於身隨觀身．乃至於世間事．而不執着。復次諸比丘．比丘如應見死屍．遺棄墓地．骸骨連鎖．尚有血肉．筋所纏結．或見骸骨連鎖．肉已隤潰．血所污穢．筋所纏結．或見肉血都無．唯筋纏結．或見骨節解散．亂着諸處．手骨、足骨、脛骨、腿骨、腰骨、脊骨、頭骸骨等．一一異處．而彼即觀此身．「此身亦為如是之法．以如是所成之物故．終亦莫能免於此者。」以是內於身隨觀身．乃至於世間事而不執着。復次諸比丘．比丘如應見死屍．遺棄墓地．其骨白似螺色．又見堆積經年．更見朽敗而成碎末．而彼即觀此身．「此身亦為如是之法．以如是所成之物故．終亦莫能免於此者。」以．是內於身隨觀身外於身隨觀身．內外於身隨觀身住。於身隨觀集法．於身隨觀滅法．於身隨觀集滅法住。「身是有」念．於彼現前．如是此資於慧．資於思念。彼以無依止而住．於世間事．而不執着。如是比丘．謂於身隨觀身而住。

> さらに、比丘たちよ。比丘は、墓地に捨てられた死体をあるがままに見る。それは一日経ったもの、二日経ったもの、あるいは三日経ったものである。それは膨れ上がり、青黒く変色し、膿んで腐敗している。そして彼は、まさにこの自身の体を観じて、「この体もまた、同じ性質のものである。このように成り立っているものだから、結局はこれから免れることはできない」と知る。このようにして、彼は内なる身について身を観じ、やがて世の中の事柄に執着しない。 さらに、比丘たちよ。比丘は、墓地に捨てられた死体をあるがままに見る。それは烏や鷹や鳶、あるいは犬や野干、または様々な虫たちに啄ばまれている。そして彼は、まさにこの自身の体を観じて、「この体もまた、同じ性質のものである。このように成り立っているものだから、結局はこれから免れることはできない」と知る。このようにして、彼は内なる身について身を観じ、やがて世の中の事柄に執着しない。 さらに、比丘たちよ。比丘は、墓地に捨てられた死体をあるがままに見る。それは骨格が繋がったまま、まだ肉や血が残り、筋で結ばれている。あるいは、骨格が繋がっているが、肉は崩れ落ち、血で汚れ、筋で結ばれている。あるいは、肉や血は全くなく、ただ筋だけで結ばれている。あるいは、骨の節々がバラバラになり、あちこちに散らばっている。手の骨、足の骨、脛の骨、太腿の骨、腰の骨、背骨、頭蓋骨などが、それぞれ別の場所にある。そして彼は、まさにこの自身の体を観じて、「この体もまた、同じ性質のものである。このように成り立っているものだから、結局はこれから免れることはできない」と知る。このようにして、彼は内なる身について身を観じ、やがて世の中の事柄に執着しない。 さらに、比丘たちよ。比丘は、墓地に捨てられた死体をあるがままに見る。その骨は螺鈿のように白くなっている。また、何年も積み重なっているのを見る。さらに、朽ち果てて粉々になっているのを見る。そして彼は、まさにこの自身の体を観じて、「この体もまた、同じ性質のものである。このように成り立っているものだから、結局はこれから免れることはできない」と知る。このようにして、彼は内なる身について身を観じ、外なる身について身を観じ、内外の身について身を観じながら安住する。身における集まりの法を観じ、身における滅びの法を観じ、身における集まりと滅びの法を観じながら安住する。「身は存在する」という気づきが、目の前に現れる。このようにして、智慧と思念を育てる。彼は何ものにも依らずに安住し、世の中の事柄に執着しない。このように比丘は、身について身を観じながら安住するのである。

諸比丘．云何比丘．於受隨觀受住。謂有比丘．受樂受時．即知「我受樂受．」受苦受時．即知「我受苦受．」受不苦不樂受時．即知「我受不苦不樂受。」受色樂受時．即知「我受色樂受．」受非色樂受時．即知「我受非色樂受．」受色苦受時．即知「我受色苦受．」受非色苦受時．即知「我受非色苦受．」受色不苦不樂時．即知「我受色不苦不樂受．」受非色不苦不樂受時．即知「我受非色不苦不樂受。」如是內於受隨觀受．外於受隨觀受．內外於受隨觀受住。於受隨觀集法．於受隨觀滅法．於受隨觀集滅法住．「受是有」念．於彼現前．如是此資於慧．資於思念。彼以無依止而住．於世間事．而不執着。如是比丘．謂於受隨觀受而住。

> 比丘たちよ。どのように比丘が、感受について感受を観察しながら確かに住するのか。 ある比丘は、楽しい感受を感じるとき、そのとき「私は楽しい感受を感じている」と知る。苦しい感受を感じるとき、そのとき「私は苦しい感受を感じている」と知る。苦しくも楽しくもない感受を感じるとき、そのとき「私は苦しくも楽しくもない感受を感じている」と知る。 また、物質に関わる楽しい感受を感じるとき、そのとき「私は物質に関わる楽しい感受を感じている」と知る。物質に関わらない楽しい感受を感じるとき、そのとき「私は物質に関わらない楽しい感受を感じている」と知る。物質に関わる苦しい感受を感じるとき、そのとき「私は物質に関わる苦しい感受を感じている」と知る。物質に関わらない苦しい感受を感じるとき、そのとき「私は物質に関わらない苦しい感受を感じている」と知る。物質に関わる苦しくも楽しくもない感受を感じるとき、そのとき「私は物質に関わる苦しくも楽しくもない感受を感じている」と知る。物質に関わらない苦しくも楽しくもない感受を感じるとき、そのとき「私は物質に関わらない苦しくも楽しくもない感受を感じている」と知る。 このようにして、内的に感受について感受を観察し、外的に感受について感受を観察し、内外に感受について感受を観察しながら確かに住する。感受の生起する法を観察し、感受の滅する法を観察し、感受の生起と滅する法を観察しながら確かに住する。「感受がある」という気づきが、その目の前にあるようにしてあり、このようにして智慧のために、思念のために資する。彼は、何ものにも依らずに住し、世の事物に執着しない。 比丘は、このように感受について感受を観察しながら確かに住する、と言われる。

諸比丘．云何比丘．於心隨觀心住．謂有比丘．有貪欲心．知「有貪欲心．」無貪欲心．知「無貪欲心．」有瞋恚心．知「有瞋恚心．」無瞋恚心．知「無瞋恚心．」愚癡心．知「愚癡心．」無愚癡心．知「無愚癡心。」攝心．知「攝心．」散心．知「散心。」高廣心．知「高廣心．」非高廣心．知「非高廣心。」有上心．知「有上心．」無上心．知「無上心。」定心．知「定心．」不定心．知「不定心。」解脫心．知「解脫心．」不解脫心．知「不解脫心。」如是內於心隨觀心．外於心隨觀心．內外於心隨觀心住。於心隨觀集法．於心隨觀滅法．於心隨觀集滅法而住．「心是有」念．於彼現前．如是此資於慧．資於思念。彼以無依止而住．於世間事．而不執着。如是比丘．謂於心隨觀心而住。

> 比丘たちよ。どのように比丘が心について心を観察しながら住むのか。 たとえば、ある比丘がいる。貪欲の心があるときは「貪欲の心がある」と知り、貪欲の心がないときは「貪欲の心がない」と知る。 怒りの心があるときは「怒りの心がある」と知り、怒りの心がないときは「怒りの心がない」と知る。 無知の心があるときは「無知の心がある」と知り、無知の心がないときは「無知の心がない」と知る。 集中した心は「集中した心」と知り、散った心は「散った心」と知る。 広大な心は「広大な心」と知り、広大でない心は「広大でない心」と知る。 優れた心は「優れた心」と知り、優れていない心は「優れていない心」と知る。 定まった心は「定まった心」と知り、定まっていない心は「定まっていない心」と知る。 解脱した心は「解脱した心」と知り、解脱していない心は「解脱していない心」と知る。 このように、内側の心について心を観察し、外側の心について心を観察し、内側と外側の両方の心について心を観察しながら住む。 心の生起する性質を観察し、心の消滅する性質を観察し、心の生起と消滅の両方の性質を観察しながら住む。 「心がある」という気づきが、その場に現れている。 このようにして、智慧を育み、気づきを育むようにしてある。 彼は、何にも依らずに住み、世の中の何ものにも執着しない。 これが、比丘が心について心を観察しながら住むということである。

諸比丘．云何比丘．於法隨觀法住。謂有比丘．於五蓋法隨觀法住。云何比丘．於五蓋法隨觀法住。諸比丘．謂有比丘．內有愛欲．知「我內有愛欲．」內無愛欲．知「我內無愛欲。」若未生愛欲生起．如實知之．若已生愛欲捨離．如實知之．若所捨離愛欲於未來不生．如實知之。復次內有瞋恚．知「我內有瞋恚．」內無瞋恚知「我內無瞋恚。」若未生瞋恚生起．如實知之．已生瞋恚捨離．如實知之．若所捨離瞋恚於未來不生．如實知之。於惛沈、睡眠、掉悔及疑．亦復如是。如是內於法隨觀法．外於法隨觀法．內外於法隨觀法住。於法隨觀集法．於法隨觀滅法．於法隨觀集滅法而住。「法是有」念．於彼現前．如是此資於慧．資於思念。彼以無依止而住．及於世間而不執着。如是比丘．謂於五蓋法隨觀法而住。

> 比丘たちよ、比丘はいかにして法において法を観じながら心を保つのか。 それは、比丘が五つの妨げ（五蓋）について法を観じながら心を保つことである。 比丘たちよ、比丘はいかにして五つの妨げについて法を観じながら心を保つのか。 比丘たちよ、ある比丘が内に欲望があるときは、「私の内に欲望がある」と知る。 内に欲望がないときは、「私の内に欲望はない」と知る。 まだ生じていない欲望が生じるときは、それをありのままに知る。 すでに生じた欲望が消え去るときは、それをありのままに知る。 消え去った欲望が未来に再び生じないときは、それをありのままに知る。 さらに、内に怒りがあるときは、「私の内に怒りがある」と知る。 内に怒りがないときは、「私の内に怒りはない」と知る。 まだ生じていない怒りが生じるときは、それをありのままに知る。 すでに生じた怒りが消え去るときは、それをありのままに知る。 消え去った怒りが未来に再び生じないときは、それをありのままに知る。 心の鈍さ（昏沈）、眠気（睡眠）、落ち着きのなさと後悔（掉悔）、疑いについても、同じように観察する。 こうして、内側で法を観じ、外側で法を観じ、内外の両方で法を観じながら心を保つ。 法が生じる様子を観じ、法が消える様子を観じ、生じることと消えることの両方を観じながら心を保つ。 「法が存在している」という気づきが、目の前に明確にある。このようにして、智慧を深め、心の安定を育てる。 彼は何にも依存せずに心を保ち、世の中のどのようなものにも執着しない。 比丘たちよ、このようにして比丘は五つの妨げについて法を観じながら心を保つのである。

復次諸比丘．比丘於五取蘊法隨觀法住。諸比丘．云何比丘於五取蘊法隨觀法住。謂有比丘．念「如是色．如是色集．如是色滅。如是受．如是受集．如是受滅。如是想．乃至如是想滅。如是行．乃至行滅。如是識．如是識集．如是識滅。」如是內於法隨觀法．乃至於世間事而不執着。如是比丘．謂於五取蘊法．隨觀法而住。

> さらに、比丘たちよ。比丘は五つの執着の対象（五取蘊）について、法の観察をしながら心を保ちます。比丘たちよ、どのように比丘は五つの執着の対象について法の観察をしながら心を保つのでしょうか。それは、ある比丘が次のように観察することです——「これが色（物質的な形）である。これが色の生起である。これが色の消滅である。これが感受（感覚）である。これが感受の生起である。これが感受の消滅である。これが想念（概念・表象）である。これが想念の生起である。これが想念の消滅である。これが意志（形成的な働き）である。これが意志の生起である。これが意志の消滅である。これが識別（認識作用）である。これが識別の生起である。これが識別の消滅である。」このように内なるものにおいて法の観察をしながら心を保ち、そして世の中の事柄に執着することなく、比丘は五つの執着の対象について法の観察をしながら心を保つのです。

復次諸比丘．比丘於六內外處法．隨觀法住。諸比丘．云何比丘於六內外處法隨觀法住。謂有比丘知眼知色．知緣此兩者所生結．若未生結生起．如實知之．若已生結捨離．如實知之．若所捨離結於未來不生．如實知之。知耳知聲．知緣此兩者所生結．亦復如是如是。知鼻知香．知緣此兩者所生結．亦復如是如是。知舌知味．知緣此兩者所生結．亦復如是如是。知身知觸．知緣此兩者所生結．亦復如是如是．乃至知意知法．知緣此兩者所生結．若未生結生起．如實知之．若已生結捨離．如實知之．若所捨離結於未來不生．如實知之。如是內於法隨觀法而住．乃至於世間事而不執着。如是比丘．謂於內外六處法．隨觀法而住。

> さらに、比丘たちよ。比丘は六つの内と外の処（場所）に関する法（教え）について、法を観察しながら安住する。 比丘たちよ。では、どのように比丘が六つの内と外の処に関する法を観察しながら安住するのか。 例えば、比丘が次のように知る。すなわち、「眼」と「色」を知り、この両者から生じる「結び（煩悩の束縛）」があることを知る。まだ生じていない結びが生じるとき、それをあるがままに知る。すでに生じた結びが捨て離れるとき、それをあるがままに知る。捨て離れた結びが、未来に再び生じないとき、それをあるがままに知る。 同様に、「耳」と「声」を知り、この両者から生じる結びについても、このように知る。「鼻」と「香り」を知り、この両者から生じる結びについても、このように知る。「舌」と「味」を知り、この両者から生じる結びについても、このように知る。「身」と「触れられるもの」を知り、この両者から生じる結びについても、このように知る。さらに「意（心）」と「法（心の対象）」を知り、この両者から生じる結びについて、まだ生じていない結びが生じるとき、それをあるがままに知り、すでに生じた結びが捨て離れるとき、それをあるがままに知り、捨て離れた結びが未来に再び生じないとき、それをあるがままに知る。 このように、内側において法を観察しながら安住し、世の中の事柄に執着することなく過ごす。 このように比丘は、内と外の六つの処に関する法を観察しながら安住するのである。

復次諸比丘．比丘於七覺支法．隨觀法住。諸比丘．云何比丘．於七覺支法隨觀法住。諸比丘．謂有比丘．若內有念覺支．即知「我內有念覺支．」若內無念覺支．即知「我內無念覺支．」若未生念覺支生起．如實知之．若已生念覺支修習成滿．如實知之。內有擇法覺支．即知「我內有擇法覺支．」內無擇法覺支．即知「我內無擇法覺支．」若未生擇法覺支生起．如實知之．若已生擇法覺支修習成滿．如實知之。內有精進覺支．亦如是知。喜覺支．亦如是知。輕安覺支．亦如是知。定覺支．亦如是知。捨覺支．亦復如是．如實知之。如是於法．內隨觀法．乃至於世間事而不執着。如是比丘．謂於七覺支法隨觀法而住。

> さらに、比丘たちよ。比丘は七つの覚りの支分（七覚支）について、その法を観察しながら心をとどめます。 比丘たちよ。どのように比丘が七覚支の法を観察しながら心をとどめるのか。 比丘たちよ、たとえば比丘は、 自分の中に「気づきの覚り支（念覚支）」があるときは、「私には気づきの覚り支がある」と知ります。 自分の中に気づきの覚り支がないときは、「私には気づきの覚り支がない」と知ります。 まだ生じていない気づきの覚り支が生じることを、あるがままに知ります。 すでに生じた気づきの覚り支がより完全に修められることを、あるがままに知ります。 自分の中に「真理を選び分ける覚り支（択法覚支）」があるときは、「私には真理を選び分ける覚り支がある」と知ります。 自分の中にそれがなければ、「私にはそれがない」と知ります。 まだ生じていないそれが生じることを、あるがままに知ります。 すでに生じたそれがより完全に修められることを、あるがままに知ります。 自分の中に「努力の覚り支（精進覚支）」があるときも、同じように知ります。 「喜びの覚り支（喜覚支）」も、同じように知ります。 「心の落ち着きの覚り支（軽安覚支）」も、同じように知ります。 「心がひとところに定まる覚り支（定覚支）」も、同じように知ります。 「平静な観察の覚り支（捨覚支）」についても、同じようにあるがままに知ります。 このようにして、心の内側で法を観察し、世の中の事柄に執着することなくあり続けます。 比丘たちよ、このように比丘は七覚支の法を観察しながら心をとどめて住むのです。

復次諸比丘．比丘於四聖諦法隨觀法住。云何比丘於四聖諦法隨觀法住。諸比丘．謂有比丘．如實知「此是苦．」如實知「此是苦集．」如實知「此是苦滅．」如實知「此是通達苦滅之道。」如是內於法隨觀法住．外於法隨觀法住．內外於法隨觀法住。於法隨觀集法．於法隨觀滅法．於法隨觀集滅法而住。「法是有」念．於彼現前．如是此資於慧．資於思念。彼以無所依止而住．及於世間而不執着。如是比丘．謂於四聖諦法隨觀法而住。

> さらに、比丘たちよ。比丘は四つの聖なる真理（四聖諦）について、法を観察しながら心をとどめて暮らします。では、どのように比丘は四つの聖なる真理について、法を観察しながら心をとどめて暮らすのでしょうか。 比丘たちよ。それは、ある比丘が次のようにありのままに知ることをいいます。「これが苦しみである」とありのままに知り、「これが苦しみの原因である」とありのままに知り、「これが苦しみの消滅である」とありのままに知り、「これが苦しみの消滅へと至る道である」とありのままに知ります。 こうして、彼は内側の法について観察しながら心をとどめて暮らし、外側の法について観察しながら心をとどめて暮らし、内外両方の法について観察しながら心をとどめて暮らします。彼は法の生起を観察しながら、法の消滅を観察しながら、そして法の生起と消滅の両方を観察しながら心をとどめて暮らします。 「法というものが存在する」という気づきが、彼の目の前にはっきりと確立されます。こうして、この気づきは智慧を育み、また深い気づきを育むための助けとなります。彼は何ものにも執着することなく心をとどめて暮らし、世の中の何ものにもとらわれることはありません。 比丘たちよ。このように比丘は、四つの聖なる真理について、法を観察しながら心をとどめて暮らすのです。

諸比丘．若如是七年間修習此等四念處．彼可豫期二果之中得成一果．即謂或於現法．得究竟智．或尚有依．得成不還。或非七年．若唯六年、五年、四年、三年、二年、或一年間．如是修習此四念處者．或非一年．若唯七月間．如是修習此四念處者．彼可豫期二果之中得成一果．即謂或於現法得究竟智．或尚有依．得成不還。或非七月．實唯六月、五月、四月、三月、二月、一月．或實唯半月間．乃至未滿半月．僅七日間．如是修習此四念處者．彼可豫期．二果之中得成一果．即謂於現法得究竟智．或尚有依．得成不還位。

緣如是故．說如是言．「諸比丘．若有欲為淨化有情．超越愁悲．消滅苦憂．逮達正理．涅槃作證．有是一乘．即四念處。」』

世尊如是說。彼等比丘．聞世尊所說．歡喜信受。