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title: "博伽梵歌 · 第二節"
description: "博伽梵歌又称雅蘇瑪蒂書達．踏薩，是古印度史诗摩诃婆罗多的核心篇章，成书于公元前5世纪至公元前2世纪之间，作者传统上归功于圣人毗耶娑。这部经典以克里希纳与阿周那的对话形式展开，阐述了业瑜伽、智慧瑜伽和奉爱瑜伽等修行道路，强调通过无私行动与虔信获得解脱。作为印度教最重要的圣典之一，博伽梵歌对佛教思想也有深远影响，其关于轮回、业力与解脱的论述与佛教教义存在对话空间。该经典至今仍是研究印度哲学与宗教实践的重要文献。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmaxry6zs0ipfjr04gqser6d1"
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### 第二節

> 第二節

　　　　rāja-vidyā rāja-guhyaṁ
　　　　　　pavitram idam uttamam
　　　　pratyakṣāvagamaṁ dharmyaṁ
　　　　　　susukhaṁ kartum avyayam

rāja-vidyā——教育之王；rāja-guhyam——最機密知識之王；pavitram——最純潔的；idam——這；uttamam——超然的；pratyakṣa——直接地經驗到；avagamam——了解；dharmyam——宗教的原則；susukham——很快樂；kartum——去執行；avyayam——永恆的。

> これは王の知識、王の秘密、最も清らかなもの、最も高尚なものです。それは直接体験され、宗教の原則にかなっており、行うことに大きな喜びがあり、尽きることのないものです。

譯文

這知識是教育之王，所有秘密中的最秘密。它是最純潔的知識，因為它通過自覺而給與對自我的直接理解，所以它是宗教的完滿境界。它是永恆的，它的執行也是很愉快的。

> この知識は教育の王であり、すべての秘密の中でも最も奥深い秘密です。それは最も清らかな知識であり、自己の内なる気づきを通じて、真の自己への直接的な理解を与えるものです。それゆえ、それは宗教の完成された境地なのです。この知識は永遠であり、その実践もまた喜びに満ちています。

要旨

> 心の本質を理解するための教え。

博伽梵歌的這一章被稱為教育之王，因為它是前面所解釋過所有學說和哲學的要素。在印度有七個主要的哲學家：喬答摩 Gautama、蹇尼陀 Kaṇāda、嘉比拉 Kapila、耶冉拿瓦格耶 Yājña-valkya、珊抵耶 Śāṇḍilya，外士環拿拉Vaiśvānara，和最後的便是華沙廸瓦 Vyāsadeva——吠檀多（維丹達）樞查經 Vedānta-sūtra 的作者。因此，在哲學或超然性知識這一範圍內知識並不缺乏。現在主說這第九章是所有這類知識之王，所有能夠從吠陀經的研讀和不同類型哲學所得來的知識要素。它是最機密的，因為機密的或超然的知識包括對靈魂和身體分別的了解，而所有機密知識之王的頂點便是奉獻性服務。

> この『バガヴァッド・ギーター』の章は「教育の王」と呼ばれています。なぜなら、この章はこれまでに説明されてきたすべての教えと哲学の本質を含んでいるからです。インドには七人の主要な哲学者たちがいます。ガウタマ、カナーダ、カピラ、ヤージュニャヴァルキヤ、シャーンディリヤ、ヴァイシュヴァーナラ、そして最後にヴェーダーンタ・スートラの著者であるヴィヤーサデーヴァです。したがって、哲学や超然とした知恵の分野において、知識が不足しているわけではありません。今、主はこの第九章がこれらすべての知識の王であり、ヴェーダの研究や様々な種類の哲学から得られるすべての知識の本質を含んでいるとおっしゃっています。これは最も秘密の教えです。なぜなら、秘密の、あるいは超然とした知識には、魂と身体の区別についての理解が含まれており、すべての秘密の知識の頂点こそが、奉仕の心による献身だからです。

一般來說，大眾所受的都不是這機密知識的教育；他們接受的是外在知識的教育。普通教育的部門包括有：政治、社會學、物理學、化學、數學、天文學、工程學等。世界上有這樣多的知識部門和大學，但是，很不幸地，沒有一所大學或教育機構教授這靈魂的科學，而事實上，靈魂是這個身體最重要的部份，沒有靈魂的存在，身體是沒有用的，人們仍然大力地着重於生命中身體的需要而沒有顧及最要緊的靈魂。

> 一般的に、人々が受ける教育は、こうした奥義の知識ではありません。彼らが受けるのは、外的な知識の教育です。一般教育の分野には、政治学、社会学、物理学、化学、数学、天文学、工学などが含まれます。世界にはこれほど多くの知識の分野や大学があるのに、残念ながら、この魂の科学を教える大学や教育機関は一つもありません。実際、魂はこの身体において最も重要な部分であり、魂が存在しなければ、身体は役に立ちません。それでも人々は、最も大切な魂に目を向けることなく、人生における身体の欲求ばかりを重視し続けているのです。

博伽梵歌從第二章開始便着重靈魂的重要。在開始的時候，主說這個身體是可以滅毀的，而靈魂則是不能夠被毀滅的。那便是機密知識的一部份：簡括地知道靈魂有別於這個身體，它的本性是不變的，不能被毀壞的和永恆的。不過，這還沒有供給有關於靈魂的正面資料。有時一些人的概念是靈魂有別於身體，當身體完結後，或一個人從身體中解脫後，靈魂處於一個虛無的境界和成為非人性。然而那並不是事實，在身體內這樣活躍的靈魂，在與身體解脫後怎能夠沒有活動呢？它是經常地有活動的。如果它是永恆的，它便永恆地有活動，它在靈性王國中的國度便是靈性知識的最機密部份。因此在這裏指出這些靈魂的活動構成了所有知識之王——所有知識的最秘密部份。

> バガヴァッド・ギーターは第二章から、魂（アートマン）の重要性に焦点を当てています。その冒頭で、主はこう語られました。「この身体は滅びるものであるが、魂は決して滅びることはない」と。これは機密の知識の一部です。すなわち、魂がこの身体とは異なるものであり、その本質は不変であり、壊れることがなく、永遠であることを簡潔に知るということです。しかし、これだけでは魂に関する積極的な情報はまだ示されていません。時には、人々はこう考えます。「魂は身体とは別のものであり、身体が終わった後、あるいは肉体から解脱した後、魂は虚無の状態にあり、非人格的なものになる」と。しかし、それは事実ではありません。身体の中でこれほど活発に働いている魂が、身体から解脱した後にどうして活動しないことがあり得るでしょうか？ 魂は常に活動しているのです。もし魂が永遠であるならば、それは永遠に活動し続けます。そして、その魂が霊的王国で営む活動こそが、霊的知識の最も機密な部分なのです。そこでここでは、こうした魂の活動が、すべての知識の王――すべての知識の最も秘密の部分を構成していることが示されているのです。

吠陀文學中說，這知識是所有活動的最純潔狀況。琶瑪普蘭拿經 PadmaPurāṇa 分析了人的罪惡活動及證實為犯錯後又犯錯的結果。那些從事於獲利性活動的人被綑縛於罪惡性反應的不同階段和狀況中。例如，當某一種樹的種子被散播後，樹並不立即便生長，這需要一段時間。最初它是一棵很細小，正在發芽中的植物，跟着它便有了樹的形狀，然後便開花，結果。最後，那個播種的人便享受樹的花和果實。同樣地，一個做了罪惡活動的人像種子一樣需要一段時間去成熟。這有不同的階段，或許那個人內在已經停止了罪惡性的活動，但是仍要受那罪惡活動的結果影響。如在第七章第二十節中所述，罪惡有的尚在種子的狀況，而其它的則已經結果和給予我們感覺為困擾或痛苦的果實。

> ヴェーダ文学では、この知識はすべての活動の中で最も純粋な状態であると説かれています。パドマ・プラーナ経では、人間の罪深い活動を分析し、過ちを犯した後にまた過ちを犯す結果について明らかにしています。利得を目的とした活動に従事する人々は、罪深い反応のさまざまな段階や状態に縛られています。例えば、ある種の木の種をまいたとき、木はすぐに成長するわけではなく、時間がかかります。最初はごく小さな芽生えの植物であり、次に木の形になり、そして花が咲き、実がなります。最後に、種をまいた人はその木の花や実を楽しむことができます。同様に、罪深い活動をした人も、種のように熟すまでに時間が必要です。そこにはさまざまな段階があり、ある人はすでに内面的に罪深い活動をやめているかもしれませんが、それでもなお罪深い活動の結果の影響を受けなければなりません。第七章第二十節で述べられているように、罪にはまだ種の状態にあるものもあれば、すでに実を結び、私たちに悩みや苦しみという結果をもたらしているものもあります。

一個完全了結所有罪惡活動反應和免於這個物質世界的雙重性而完全地從事於虔誠活動的人，從事於對具有至尊無上性格的神首——基士拿的奉獻性服務。換句話說，那些實際上從事於對至尊主奉獻性服務的人已經免於所有的反應。對於那些從事於對具有至尊無上性格神首奉獻性服務的人，所有罪惡的反應，不論是已經結了果的，在貯藏中的，或是在種子狀況的都會慢慢地消毀。因此奉獻性服務的淨潔化能量是很強大的，它被稱為 pavitram uttamam，最純潔的。Uttamam 是超然的意思。Tamas 即這個物質世界或黑暗，而 uttamam的意思是那超然於物質活動的。奉獻性服務永不被看作是物質的，雖然有時奉獻者看來就像普通人一樣的從事。一個能夠體會和諳熟奉獻性服務的人便會知道它們並不是物質的活動。他們全是靈性的和奉獻性的，不為物質自然的型態所沾染。

> すべての罪深い活動の反応を完全に終わらせ、この物質界の二元性から解放され、完全に信仰深い活動に従事する人は、至高の人格神、クリシュナへの奉仕に従事しています。言い換えれば、実際に主への奉仕に従事している人は、すでにすべての反応から解放されています。至高の人格神への奉仕に従事する人々にとって、罪深い反応は、すでに結果として現れたもの、蓄えられたもの、あるいは種子の状態にあるものも含めて、徐々に消え去っていきます。したがって、奉仕の浄化の力は非常に強力であり、それはパーヴィトラム・ウッタマム、すなわち最も純粋なものと呼ばれます。ウッタマムとは超越的なものを意味します。タマスとはこの物質界あるいは闇を指し、ウッタマムとは物質的活動を超越したものを意味します。奉仕は決して物質的なものとは見なされません。たとえ奉仕者が普通の人と同じように活動しているように見えることがあってもです。奉仕を理解し、それに精通している人は、それが物質的な活動ではないことを知っています。それらはすべて霊的で奉仕的なものであり、物質的自然の性質に影響されることはありません。

據說奉獻性服務的執行是這樣地完整以至一個人可以直接地察覺到它的後果。我們的實際經驗是任何一個歌頌基士拿聖名（哈利基士拿、哈利基士拿、基士拿基士拿、哈利哈利；哈利喇瑪、哈利喇瑪、喇瑪喇瑪、哈利哈利）的人，在一段時間後便感到一些超然的快樂和很快地便從所有物質的沾染中淨化，這是事實。還有，假如一個人不單祇聆聽而且還努力去發揚奉獻性活動的音訊，或是他從事於幫助基士拿知覺的傳教活動，他慢慢地便會感覺到靈性的進步。這種靈性的進步並不賴於任何先前的教育或資格。這個方法本身是這樣地純潔以至一個人單單地從事於它便變得純潔。

> 奉仕の実践は、その結果を直接感じ取れるほど完全なものであると言われています。実際の経験として、クリシュナの聖なる御名（ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ・クリシュナ、ハレ・ハレ／ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ・ラーマ、ハレ・ハレ）を唱える人は、しばらくすると何か超越的な喜びを感じ、すぐにすべての物質的な汚れから浄化されます。これは事実です。さらに、ただ聴くだけでなく、奉仕活動の教えを広める努力をしたり、クリシュナ意識の伝道活動に携わったりするなら、その人はゆっくりと霊的な進歩を感じるようになります。この霊的な進歩は、それまでの教育や資格に依存するものではありません。この方法自体が非常に純粋であるため、ただそれに従事するだけで、人は清らかになるのです。

在吠檀多樞查經中對這件事也有以下的描述：prakāśaś ca karmaṇy abhyāsāt。「奉獻性服務是這樣地有潛能，一個人祇要從事於奉獻性服務的活動，毫無疑問地他便會得到啟迪。」拿拉達是一個侍婢的兒子，他沒有受過教育，也不是誕生於一個高尚的家庭。當他的母親從事於侍奉偉大的奉獻者的時候，拿拉達也作出事奉，有時當他母親不在的時候，他會親自事奉那些偉大的奉獻者，拿拉達自己說過：「有一次，他們准許我進食他們剩餘的食物，這樣，我的罪惡便得以立即被根除。這使我內心變得純潔，在那時候，超自然主義者的本性便吸引着我。」（博伽瓦譚 1.5.25）拿拉達告訴他的門徒華沙廸瓦說他自己的前生是一個純潔奉獻者的童僕，在這些奉獻者逗留在他居處的四個月中，他與他們深切結交。有時那些聖賢在他們的碟中留下剩餘的食物，他因為要替他們洗碟子，便在問准那些偉大的奉獻者後吃了這些留下的食物。結果拿拉達便能夠免於所有的罪惡反應。當他繼續這樣進食的時候，慢慢地他的內心便變得與那些聖賢同樣地純潔和培養了同樣的愛好，偉大聖賢以對主不停的奉獻性服務、聆聽及唱頌等為樂，同樣地，拿拉達也培養了同樣的興趣和也想聆聽及歌頌讚美主。因為與聖賢的交往連繫，他便培養了對奉獻性服務的極大願望。因此他這樣地從吠檀多．樞查經 Vedānta-sūtra 中引述：prakāśaś cakarmaṇy abhyāsāt 一個人祇要簡單地從事於奉獻性服務，一切東西便自動地在他面前揭示，使他能夠了解，這便是百嘉薩 prakāśaḥ——直接的感染。

> ヴェーダーンタ・スートラにも、このことについて次のような記述があります。「prakāśaś ca karmaṇy abhyāsāt（プラカーシャシュ・チャ・カルマニ・アビヤーサート）」――「奉献的奉仕にはそれほどの力がある。人はただ奉献的奉仕の活動に従事するだけで、疑いなく悟りを得るであろう。」 ナラダは侍女の息子であり、教育を受けておらず、高貴な家に生まれたわけでもありませんでした。彼の母が偉大な奉献者たちに仕えていたとき、ナラダもまた奉仕をしました。時には母がいないときに、彼自身が偉大な奉献者たちに仕えることもありました。ナラダ自身がこう語っています。「ある時、彼らが私に残り物の食物を食べることを許してくださいました。それによって、私の罪はただちに根絶されました。これにより私の心は清らかになり、そのとき、超自然主義者の性質が私を引きつけたのです。」（シュリーマド・バーガヴァタム 1.5.25） ナラダは弟子のヴィヤーサデーヴァに、自分の前世が純粋な奉献者の少年使用人であったことを告げました。彼らのもとに四か月間滞在した間に、彼は聖者たちと深く親交を結びました。時折、聖者たちが皿に残り物を残すことがあり、ナラダは皿を洗うために、偉大な奉献者たちに許可を得てからその残り物を食べました。その結果、ナラダはすべての罪の反応から免れることができました。彼がそのように食べ続けるにつれて、次第に彼の心は聖者たちと同じように清らかになり、同じ嗜好を育んでいきました。偉大な聖者たちは主への絶え間ない奉献的奉仕、聴聞、唱頌を楽しんでいましたが、ナラダも同じようにその興趣を育て、主を賛美する聴聞と唱頌を望むようになりました。聖者たちとの交わりによって、彼は奉献的奉仕への大いなる願望を育んだのです。 そのため彼はヴェーダーンタ・スートラから次のように引用しています。「prakāśaś ca karmaṇy abhyāsāt（プラカーシャシュ・チャ・カルマニ・アビヤーサート）」――人はただ奉献的奉仕に単純に従事するだけで、すべてが自動的に彼の前に明らかにされ、理解できるようになる。これがプラカーシャḥ――直接的な感化です。

拿拉達是一個女僕的兒子，他沒有機會上學校，他祇是幫助他的母親。而很幸運地他的母親對奉獻者作出一些服務，拿拉達也得到了這個機會，祇是由於連絡交往，他便達到了所有宗教的最高目的——奉獻性服務。在史里瑪博伽瓦譚中說信宗教的人仕通常不知道宗教的最高成就便是達到奉獻性服務的階段，一般來說，要了解自覺的途徑是需要吠陀知識的。但是在這裏，拿拉達雖然不是在吠陀原則下受教育，他卻得到了吠陀經研讀的最高結果。這個程序的能量是這樣大以至一個人沒有經常地執行宗教形式，也可以被提升至最高的完整成就。這是怎樣辦到的呢？在吠陀文學中也證明了這一點：ācāryavān puruṣoveda，一個與偉大的阿闍黎耶交往聯繫的人，就算他沒有受過教育或沒有讀過吠陀經，也能夠諳熟所有自覺所需要的知識。

> ナーラダは女中の息子であり、学校に通う機会がなく、ただ母親の手伝いをしていた。しかし幸運なことに、彼の母親が奉献者に何らかの奉仕を行い、ナーラダもその繋がりを通じて機会を得た。その交際や触れ合いによってのみ、彼は宗教の最高の目的である奉献奉仕の境地に到達したのである。 シュリーマッド・バーガヴァタムには、宗教を信じる人々は通常、宗教の最高の成就が奉献奉仕の段階に達することであるとは知らないと記されている。一般的に、自己覚醒の道を理解するにはヴェーダの知識が必要とされる。しかしここで、ナーラダはヴェーダの原則に基づく教育を受けていなかったにもかかわらず、ヴェーダの研究によって得られる最高の結果を得たのである。 このプロセスの力は非常に大きく、人は定期的に宗教的儀式を行わなくても、最高の完全な成就へと高められることができる。それはどのようにして可能なのか。ヴェーダ文学においても裏付けられている：ācāryavān puruṣo veda — 偉大なアーチャーリヤとの交際・繋がりを持つ者は、たとえ教育を受けていなくても、ヴェーダを読んでいなくても、自己覚醒に必要なすべての知識を熟知することができるのである。

奉獻性服務是一個很快樂的程序，這是什麼原因呢？因為奉獻性服務包括śravaṇaṁ kīrtanaṁ viṣṇoḥ，所以一個人祇要聆聽對主讚美的唱頌或可以去上由權威性的阿闍黎耶所講述有關於超然知識的哲學課程，便能夠從中學習；他又可以吃供奉過神後可口的祭餘食物。奉獻性服務在每一階段都是愉快的。一個人就算在很窮困的狀況下也能夠進行奉獻性服務。主說：patraṁ puṣpaṁphalam：祂接受奉獻者給祂的任何供奉而不計較是什麼，任何人，不論祂的社會地位，就算所供奉的是一片樹葉、一朵花、一些生菓和一些水，如果是以愛心供奉的話，是會被接受的。在歷史上有很多例子：如偉大的聖賢山納昆瑪拉 Sanatkumāra 祇是通過嚐試供奉過主蓮花足下的荼拉蒔葉子，便成為偉大的奉獻者。所以，奉獻性服務是很美妙的，也可以在一個快樂的狀況下進行。神祇是接受那連在一起供奉給祂的愛。

> 奉献的奉仕はとても喜びに満ちた過程です。なぜなら、奉献の奉仕にはシュラヴァナム・キールタナム・ヴィシュノー（主の御名を聴聞し、唱えること）が含まれているからです。ですから、主を賛美する唱誦を聴いたり、権威あるアチャーリヤ（導師）が説く超然たる知識の哲学の講義に参加したりすることで、そこから学ぶことができます。また、神に捧げられた後にいただく美味しいプラサーダ（供物の残り）を食べることもできます。奉献の奉仕はどの段階においても楽しいものです。たとえ非常に貧しい状況にあっても、人は奉献の奉仕を行うことができます。主は言われます。「パトラム・プシュパム・パラム」（葉っぱ、花、果実、水）と。主は、献身者が捧げるものが何であれ、それが葉っぱ一枚、花一朵、いくつかの果実、水であっても、愛情をもって捧げられるならば、その人の社会的地位にかかわらず、受け入れられます。歴史上には多くの例があります。例えば、偉大な聖者サナトクマーラは、主の蓮華の御足に荼羅蒔の葉を捧げることだけを試みて、偉大な献身者となりました。ですから、奉献の奉仕はとても素晴らしく、喜びに満ちた状況で行うことができます。神は、愛とともに捧げられるものをお受け取りになるのです。

這裏說這奉獻性服務是永恆地存在的，並不是如摩耶華弟哲學家所說的那樣。那些摩耶華弟哲學家有時也進行所謂奉獻性服務，他們在未得到解脫之前繼續執行他們的奉獻性服務，但一旦當他們得到解脫後，他們便「與神合一」。這樣暫時性的奉獻性服務並不被接受為純潔的奉獻性服務，真正的奉獻性服務就算在解脫後也還繼續着，當奉獻者去到神的王國中靈性的恆星那兒，他也是從事於對至尊主的侍奉，他並不想與至尊的主合一。

> ここで述べられているのは、この奉仕（献身的奉仕）は永遠に存在するものであり、マーヤーヴァーディー哲学者たちが言うようなものではないということです。マーヤーヴァーディー哲学者たちは時にいわゆる献身的奉仕を行いますが、彼らは解脱を得るまではその献身的奉仕を続けます。しかし一度解脱を得ると、彼らは「神と合一」します。このような一時的な献身的奉仕は、純粋な献身的奉仕として認められません。真の献身的奉仕は、解脱した後も続くものです。奉献者が神の王国の霊的な星々に至った時も、彼は至尊主への奉仕に従事しており、至尊主との合一を望むことはありません。

我們將會看到，真正的奉獻性服務在解脫後開始。博伽梵歌說：brahma-bhūta，一個人在得到解脫，或處於婆羅門的地位後，他的奉獻服務才開始。通過奉獻性服務的執行，一個人才能夠了解至尊的主，沒有人能夠獨立地通過行業瑜伽、思考、神秘瑜伽或任何其它瑜伽的執行而了解具有至尊無上性格的神首，一個人未曾達到奉獻性服務的境界，他便不能夠了解什麼是具有性格的神首。史里瑪博伽瓦譚也證實了當一個人通過奉獻性服務的執行，尤其是從自覺了的靈魂那裏聆聽史里瑪博伽瓦譚或博伽梵歌而淨化後，他便能夠了解基士拿、或神的科學。Evaṁ prasanna-manaso bhagavad-bhakti-yogataḥ 當一個人內心所有的廢物被清洗後，他便能夠了解神是什麼。因此奉獻性服務，或基士拿知覺的程序，是所有教育之王和所有機密知識之王。它是宗教的最純潔狀況和愉快，及沒有困難地執行的程序。所以我們應該接受它。

> 私たちはこれから見ていくように、真の献身的奉仕は解脱の後に始まります。バガヴァッド・ギーターはこう述べています：brahma-bhūta、つまり人が解脱を得て、梵の境地に達した後に、その献身的奉仕が始まるのです。献身的奉仕を行うことによってのみ、人は至高の主を理解することができます。誰も、行為のヨーガ、思索、神秘ヨーガ、またはその他のいかなるヨーガの実践によっても、独立して至高の神格を理解することはできません。人が献身的奉仕の境地に達していなければ、人格的な神格が何であるかを理解することはできません。シュリーマド・バーガヴァタムもこれを裏付けています。献身的奉仕の実践を通じて、特に自己実現した魂からシュリーマド・バーガヴァタムやバガヴァッド・ギーターを聴聞することによって心が浄化されたとき、人はクリシュナ、すなわち神についての科学を理解することができるのです。Evaṁ prasanna-manaso bhagavad-bhakti-yogataḥ — 心からすべての汚れが洗い清められたとき、人は神が何であるかを理解することができます。したがって、献身的奉仕、すなわちクリシュナ意識のプロセスは、すべての教育の王であり、すべての秘教的な知識の王なのです。それは宗教の最も純粋な状態であり、喜びに満ち、困難なく実践できるプロセスです。だからこそ、私たちはそれを受け入れるべきなのです。